『気分は悪くないのか?大丈夫か?』
庸介が倫子の顔色を見るようにして聞いた。
『いえ。ほんとに大丈夫です。ただ・・・少し風にあたりながら歩きたくなっただけですから・・』
倫子は微笑みながら素直に答えた。庸介も口元に笑みを浮かべてうなずいた。
『酔い覚めにはちょうどいい・・な』
庸介と倫子は肩を並べて川の岸辺に続く道をゆっくりと歩いて行った。
10時を少し過ぎたくらいか、街はまだ人々で賑わっているのだろうが、喧騒から遠く離れた川岸は静けさに満ちている。
ときおり遠く車のクラクションが風にのって聞こえてくるが、それが途切れると再びあたりにはしんとした静けさがおとずれる。その静けさに馴染むにつれて、川のゆるやかな水音が倫子の耳に穏やかに響いてくる。
冬の夜の冷たい風がわずかに水の香りを含ませて、倫子の頬を優しく凪いでいった。
それ程飲んではいない倫子だったが、少し火照った顔にわずかな湿り気を感じさせる川面の風は心地良かった。並んで歩く庸介も冬の夜風に目を細めながら、倫子の歩調に合わせて静かに歩いている。
『夜の川って・・私、好きなんです。とっても。』
庸介と肩を並べて歩きながら、倫子は小さく微笑みながらつぶやいた。
『前に先生に話しましたよね。悲しいことがあった時は川へ行くって。時々、何となく落ち込んだ時とかも、良くひとりで川を眺めに来るんです。夜の川はあたりがしんと静かで、川の流れる音だけが耳に聞こえてきて・・・』
『落ち込んだ時か・・・』
『ええ。辛いことがあった時なんか特に。それで何でも流してしまうんです。
心の中のわだかまりとか、悲しい気持も全部。
川と向かいあっていると、何でも気持を聞いてくれるような気がするんです。』
『いつか・・・川は友達・・って言ってたな。君は・・』
『あ、はい・・そうなんです。もう辛いこともみんな川に向かって流してしまえば、その後は不思議に素直な気持になれて落ち着くんです。とっても・・。
先生は? 先生はそんなことありませんか?』
『・・・そうだな。あるかもしれないな・・・』
『先生も?』倫子は目を見はって庸介を見た。
『ん。学生時代、ボート部だったって話したろう。その頃から川とは慣れ親しんでいたからな』
『先生も・・そうなんですね。嬉しいです、何だかとっても』
倫子ははにかみながら微笑んだ。
『どんな辛いことがあっても・・・そうやって優しい気持に戻りたいんです・・・私』
倫子はそっとつぶやいた。顔をあげた時、じっと見つめる庸介と視線が重なった。
『あ・・あのう・・先生の部屋って素敵ですね。いつも川が見えていて・・・。
初めて先生の部屋へ行った時・・・私思わず見とれてしまって・・・』
倫子は思わずはぐらかすように言葉を続けた。
『目が覚めた時・・・そしたら・・窓から夜の川が一面に見えていて』
『君が過労で倒れた時だったな』
『はい・・。街の夜景の中で・・まるで光の中に浮かんでいるように見えたんです。
川が。とても綺麗だった』
『あの時はすまなかった。君ひとりに・・宇佐美繭子を押しつけてしまった。無理をさせたな』
『あ・・いいんです、そんな。私こそ何の役にもたたなくて。おまけに倒れて、先生に迷惑をかけてしまって。すみませんでした。あの時は宇佐美さんも急に倒れたりしたから・・・大変だったのは先生の方なのに・・』
『あれは俺のミスだ。出来るだけ内密にしたかったが・・・結局はあんなことに。
彼女を預かった主治医としては失格だな。もう済んでしまったことだが・・言い訳は出来ないな』
『そんなことありません。先生は精一杯やって。宇佐美さんのために嘘の記者会見までして・・』
『引き受けた以上、守秘は医者の義務だ。当然のことだろ。』
『先生・・』
倫子は庸介を見つめた。