自分は多分さがしている。
あの犬を。私の大事な犬を。
あのときからずっと探してる。
『帰ることだけ知っている』3
あのときのことは忘れようもない。
事故の一報を受けたときは息が止まるかと思った。
戦闘での傷はまだ覚悟している。
というか自分も彼もそれで互いを失うと思っていて、それ以外のケースは逆に除外してしまっている部分は確かにある。
こんな奪われ方なんてない。
そう思うこと自体傲慢であると分かっていても。
取るものとりあえず駆けつけた。
応援という名の強引なテコ入れ。
管轄範囲を半分無視して現場に駆けつけたロイは不眠不休で現場の指揮をとりハボックの行方を探した。
原形をとどめない列車と貨物のなれの果て。残骸の山。
その下に埋もれた人を掘りおこす度に悪い予感で寒くなる背中をロイは必死で叱咤して指揮に当たった。
運が良かったのは爆発は貨物部分で起こったため、衝撃のほとんどがいっぱいだった乗客の荷物で吸収されたこと。
列車のスピードが予期せぬ線路内前方事故でちょうど落ちていたときだったこと。
列車の車体自体が古く、あっさりバラバラになったのが逆に乗客に大きな打撃を与えずに済んだということだろうか。
列車の損害からみて思ったよりも死体は少なかった…が。
「大佐、あとは私たちがやりますから少しお休みください」
その言葉を何度やんわりと断っただろう。
予断を許さないと思っていたのだ。
だって連絡がない。
意識があればハボックはすぐ状況確認に走るだろうし、
現場指揮をしているのがロイと分かれば、動けなくとも誰かに頼んで一報は来るはずだ。ハボックならばかならずそうする。
でも連絡はない…
ロイは悪い予感をただ意地で否定しつづけた。
もしかしたらロイがこちらに来ていることを知らないのかも知れない。
それならばあの男は絶対にセントラルの自分の司令室に連絡を入れるはずだ。
そうすれば、セントラルに残って情報収集と留守番にがんばってくれているブレダの方からこちらに連絡が来るはず。
それがないということは…
まだがれきの下に埋まっているか、重傷で意識が戻らないか…
ロイはその両方を視野に入れ、救急病院と現場を往復した。
帰ってこられないなら自分が探しにいかなければ。
あの犬を。
きっと帰って来たがっているはずだから…。
しかしその結果は…
ロイは不眠不休の努力を一晩続けた後、病院からの連絡を受けてジャン・ハボックを発見する。
しかもその連絡内容とは、ジャン・ハボック少尉はとっくの昔に救出され、しかも爆発に巻き込まれたというわりには、それほど大きな怪我もなく、…多少出血が多かったようだが処置もあっさり済み病室で寝ているというものだった。
このときのロイの脱力と怒りはなかなか見物だったらしい。
なんせ医者の制止も聞かずに病院になぐり込み、怪我と出血多量で寝ている病人をベッドから蹴り落とそうとしたのだから。
あのときから自分はずっと探している。
あの自分の首輪を付けて笑っている私だけの犬を…。
「大佐、話をしていいですか?」
その言葉にロイは身構えた。
ブレダを交えた今日の夕食はお世辞にもいい雰囲気とはいえなかった。
ブレダは気を遣ってがんばってくれたがなんせムードメーカーであるハボックが終始妙な態度をとりっ放しだったからだ。
味わっているのかわからない。ひたすら上の空で。
かと思うとどこかいらいらしたような。
あげくに最後の言葉。
『後で聞きます』
要するに自分にたいして個人的に聞きたいことがあるのだろうが…。
「なんだ」
ロイは努めて平静を装った。
「なんで俺、見つかったんですか?」
事故のことだろうか?
「さっき話したろう…。ドッグタグが…」
さっきどころか何度も話した。
何度でも事故のことから何かを思い出せないだろうかと。
「それは嘘です」
「なぜいいきる」
「だってドッグタグって2個も3個も支給されるもんじゃないし、もってたとしても持ち歩くもんでもないでしょう。
でも俺のドッグタグが見つかったのは俺の身体からじゃない。俺の荷物からだ」
「……」
「だからあの爆発の後のぐちゃぐちゃの中でも俺の荷物は俺の所に戻ってきた。
それと同じでしょう?あの混乱の中アンタはなんで俺を見つけられたのか」
見つけてなんかいない。
未だにあの犬は行方不明だ。
ロイはそう思ったが、それは口には出さずにポケットの中からそっと銀のプレートをとりだしてハボックの手の上に乗せた。
少し大きめの銀のプレートに近くで見ると細かい飾りが彫り込んであると分かる凝った作りのチェーンがついたもの。
チェーンの中央には輪が着いており、プレートの逆側にそこに引っかけてチェーンを二重にすればブレスレットに一重にすればチョーカーになるというしゃれた品物だ。
「これ…?」
「おまえのものだ。事故の時これを付けていたからこちらに連絡が入った」
ロイはそれだけいうとうつむいて口を閉じた。
ハボックはそれを受け取りくるりとプレートを裏返す。
そこに彫られていたのは裏一面にびっしりとパーソナルデータ。ドッグタグのような。
ただドックタグと違うのは階級などの職務的情報がないこと。
身体的情報が多いこと。
それと…
「これは…」
ロイはうつむいたままハボックに背を向ける。
「この連絡先ってここですよね。ここの住所ですよね。これって」
だから渡したくなかった。
渡してしまえばいくら鈍いこの男でもそれを贈ったのは誰か分かってしまうだろう。
自分たちが浅からぬ関係であることも…。
自分がそのような実感が無くても…。
でもそれでは意味がないのだ。それでは。
あれは自分の犬に。恋人だから送ったものだから。
「ここの住所と…最後にFROM R …Rって…ロイ?」
最後の文字を見て驚いた目をこちらに向けてくるのを、ロイは意識的に無視をした。
わかんない奴に答えてやる気はないのだ。
仕事や日常の情報なら教えてやろう。
しかしこれは個人がそのときに持っていた感情故にできた行為だ。
その感情を持ち合わせていないのにそんな情報だけ持っていても意味もない。それどころか重荷ではないのか?
ロイがむっつりと黙っているのでハボックはロイからの情報をあきらめたのか
それとも何か思うところがあるのかまた、そのプレートに視線を落として何度も彫られた文字を確かめる。
「FROM R…ね。なんだかエンゲージリングみてぇ…」
後ろでつぶやく声に肩がぴくりと跳ね上がるのをロイは必死で堪えなければいけなかった。
同じことを言う。
あのときもあの男は…。
「エンゲージリングみたいですね」
そんな風に上機嫌で照れくさそうに笑ったので…。
「なんだ、あんなにいやがっていたのに…」
「そりゃアンタが首輪なんて言うからでしょ」
いくらなんでもそんなん付けて歩けませんって。
「ネックレスならそうといってくださいよ」
一見シンプルにみえるそれはデザイン的にもハボックの気に入ったようで、何度もチェーンを撫でたり日に空かしたりしている。
「ちょっとチェーンが短いですかね」
「ネックレスではない。チョーカーだ。首輪」
「チョーカーを首輪なんて、どういう言い方をするんですか。しかしチョーカーですか。チョーカーって俺首が太いんで締まっちゃうんですよね」
「抜かりはない。お前の首周りに合わせた特注だ」
「そうなんすか?」
ありがとうございます。
「それにチョーカーを付けられないような時はここをこう引っかけて2重にすれば腕に巻ける」
飾りものをあまり好かないお前のために一応考えたんだぞ?
そういえばハボックは思いっきり感激したように抱きしめてきたっけ。
「ありがとうございます。俺大事にしますね」
「常に巻いておけ。迷子になったとき返ってこられるように」
「だから何度言えば気が済むんですか、それ。俺は迷子になんかなりませんよ。ちゃんとアンタの所に帰って来ますって」
「どうだかな」
「それよりお返しはどうしましょう」
「お返しって、私は首輪なんか要らないぞ?」
「給料の3ヶ月分って奴ですか。おれの給料じゃ大したもんは買えませんけど…」
「おい」
なんか勘違いをしてやしないか?婚約指輪ではないぞ。そういおうとしてロイは勘違いは自分にもあるなと言うのを止めた。
よく考えれば結婚だって一種の札付け儀式だ。自分のものだと周囲に知らしめるための。
それならばこれも似たようなものなのではないだろうか?
「やっぱチョーカーがいいですか?」
「私に首輪を付けると?」
「ええ、FROM Jって入れますから付けてくださいよ」
「いい度胸だ」
ロイはこらえきれずに綺麗に笑った。
不敵に言ってのけるこの男にあきれながらも、うれしかったのだ。
べつにそれはいい。
自分がこいつのものだといわれるならばそれは…。
「任務から帰ったら買いに行きましょうね」
「付けてやるなんていってないぞ」
それでもこいつが自分のことを俺のものだと自己主張するならばそれもいいのだと思ったのだ。
あのときは…。
「…大佐。あのやっぱり俺達って…」
おそるおそる聞いてくる声にロイはきりっと奥歯をかみしめた。
「答えてくださいよ、俺達ってもしかしなくても…」
「だから何だ」
もしかしてももしかしなくてもない、ロイはイライラして突っぱねた。
「そんな言い方ってないでしょう」
「他に言いようがあるか?」
「だって、俺達ってその…恋人とか…」
「だとしても今は関係ないな」
「大佐!」
悲鳴のように聞こえるハボックの声をことさらきつい言い方で遮断する。
当たり前だ。同情や成り行きでこんなこと考えてもらっては困るのだ。ましてや昔そうだからなんていう理由なんか、ロイの方が耐えられるわけもない。
ロイは顔を上げきっとハボックをにらみつけた。
「いいか。職業や役職、住所、家族というのは社会的にお前が背負った部分がある以上記憶を失ったとはいえお前について回る事柄だ。しかし私たちの関係は何だ?たとえば恋人だったとしよう。
しかしそれはあくまでお互いの感情の上に成り立っているだけのものだ。
お互いの気持ちが相手に無ければ…片方だけの気持ちでは成り立たないものだ。ちがうか!」
言いたくない。
あまりにも言いたくない言葉だったが、ロイは爪が食い込むほど拳を握りしめてきっぱりと言い放った。
だから黙っていたのに。
ともに暮らしていても何も言わずに見守っていたのに。
彼が思い出さなければ意味のないことの数々。
そんなこと一つも口にしないで…。
「で…でもそれでいいんですか、アンタは!」
冷たい…。
これは売り言葉に買い言葉のようなものだっただろう。ようやくつかんだ相手との糸の端を切られそうになって言った必死の言葉に近かったかも知れない。
しかしその言葉の無神経な部分はロイの逆鱗に触れることになった。
「誰が…大丈夫だって…?」
地の底のから響くような声にハボックはすぐにそのことに気づいた。
「あ、あの」
「大丈夫な分けないだろう!!!この愚か者っ!!」
マスタング大佐は本気で怒ると拳と怒号が同時に飛んでくる。とは記憶の彼方かも知れないがハボックは不意打ちを食らう形でそれを思いっきり思い知らされる羽目となった。
「って…ちょ…」
床に叩き伏せられたハボックは、起きあがって引き止める間も与えられず、ロイがどかどかと床を踏みならして自室に駆け込む足音だけを追う羽目となった。
しかも銀のプレートまで取り上げられて…。
「大佐っ!!」
ハボックが今起きたことを理解し、自分の発言に思いっきり反省し、落ち込むのはそれから10秒後のことだった。
自室の鍵を閉めて、ロイはドアの後ろにへたりこんだ。
「誰が大丈夫だって?」
かろうじて絞り出した声が泣きそうだ。それがひどく間抜けでロイはそれに小さく嗤った。
恋人を亡くしたのはこっちの方だ。
記憶をなくして大変なお前によけいなプレッシャーをかけまいと、自分がどれだけ平静を保つ努力をしていたか。
このことは何も言わずにいようと自分を戒めていたのに。
張りつめた糸は切れてしまってロイは立ち上がれずにその場にうずくまった。
愚かだ。自分は限りなく愚かだ。
そういうしかなかった。
距離を置くべきだったのだそもそも。
記憶をなくしたのは辛いだろうと。自分より辛いのだと言い聞かせて、それでも側に置きたくて家に招いた。
そしてそれでも仕草の端々に探してしまっていた。
あの自分にだけ笑いかけたあの犬を。
「自分にもくれると言っていたのに…」
首輪を。
「愚かだ…」
つながれているのは自分の方だ。
それほどまでに捕らわれて、とうとう今最後に当たってしまった。
向こうには迷惑な話だろう。押しつけられる感情など。
自分が泣いているような気がして頬に手をやったが実際には頬は濡れていなかった。
しかしそのかわりに小さな冷たい感触。
ちゃら…
手の中には銀のプレート。
あのとき思いっきり取り上げてきてしまったもの。
迷子札だと自分は言った。
しかし本当にこんなものに何の意味があるだろう。
『そんなん…俺がちゃんと自覚してればいいことでしょう?』
これは相手にその自覚があって初めて意味のあるものだとあの時のハボックの言葉とともに痛いほど思い知らされる。
こんなもの何一つ意味はないのだ。
いや、これのおかげで彼は戻ってこられた。
それはそれでいいのかも知れない。
でも違う。
このプレートの持ち主は
自分を主人だと認める、そして柔らかく笑う自分だけの恋人のもの。
それは帰ってきていない。
そして自分はいないと分かっていてずっとそれを探してしまっているのだ…。
今はどこにもいないと知っていてずっとずっと…。
帰ってくるのを待っているのだ。
糸をたぐるその先にたとえばあなたがいたとして。
その糸のもう一報の先には誰がいるのでしょうか。
とんとん
ドアをノックする音がして、その後を小さな声が続いた。
「大佐?」
その声にロイはのろのろと顔を上げる。
そして頭を一つ振ってゆっくりと立ち上がる。
「なんだ…」
まだ沈み込みたい気持ちの方が強かったがそれは押さえこんでいつもの落ち着いた声を出すことに集中する。
「あの…すいませんでした…そのさっきは…」
いいずらそうなたどたどしい言葉はドア越しでは聞き辛く、ロイはそっとドアに頭を凭れさせてその声に耳を寄せる。
やはりこの男はまず謝りに来る。
それが今は胸に痛い…。
謝ることなど本当はないというのに。
「別にかまわん」
ロイは小さく深呼吸を繰り返し息を整えた。
落ち着かなければいけない。
自分が取り乱してはいけないのだ。
ロイとしては八つ当たってしまったことはもうしてしまったこととして、これ以上醜態をさらすわけにはいかなかった。
記憶をなくして困っているのはハボックの方。自分の個人的感情で自分の方が辛いなどと言うつもりはなかったし、今のハボックのサポートをする方を優先させたいというのは偽らざる気持ちだったから、もともとまるでさっきまでのことがなかったかのように振る舞うつもりだった。
「でも俺考えなしに…」
「かまわんよ、言わなかった事実があったことは確かだ」
どんなことでも知りたいだろう今の状況でこちらの判断で情報を出し惜しみというのはよくなかったとロイは素直に謝った。
「今後知りたいことがあったら聞くといい。答えられる限りは答えよう」
これでいい。
この言葉を事務的に言うのは骨が折れたが…。
恋人などというプライベート事項に正直言えることなどきっとそう多くもない。
変に赤裸々にものを言おうものなら自分も向こうも逃げ出したくなるのが関の山だろう。
「聞きたいことはもうそんなに…。あの、でも、ドア開けてもらえません?」
「なぜだ?話ならドア越しでもできるだろう?」
「アンタの顔を見たいんです」
できることならロイは今はハボックの顔を見たくはなかった。
どんな顔をしていいのか分からなかった。
しかしそういわれればこの状況ではロイとしてもドアを開けないわけにはいかない。
ため息を一つつく。
そしてそっとドアを開けると不思議と泣き笑いのようなハボックがそこに立っていた。
「よかった…」
ハボックからとても安堵したような声がもれた。
「なにが」
「いえ、顔を見たらちょっとほっとして」
そういってハボックはロイをぎゅっと抱きしめた。
「おい」
「すいません、ひどいことを言って」
恋人がいなくなっちゃったのに平気な分けないですよね。
そういってハボックは宥めるように甘えるように抱きしめる。
「いいから、離せ」
どうしていきなりこんな体勢に。
ロイはあわてて引き離そうとするがハボックはぎゅっと子供のように抱きついて離れない。
「すいません、もう少し」
「…どうして」
ロイはとまどって…そしてそっとその金の頭に手を置いた。
気持ち悪くないのか?知らない人間が恋人だなんて言って。
そんな人間に抱きついて。
「気持ち悪くはないですけど複雑です」
「複雑?」
「あの…聞いてもらえます?」
「………」
「…俺ね、ずっとずっと夢に見るんすよ。
誰かの手が、ぬくもりが腕からこぼれ落ちる夢。確かにここにいたのに。そのことだけは覚えているのに。
すっげぇ悲しくなるんですよ。それでやたら焦る。
探さなきゃ。探さなきゃ。探さなきゃ。って。切れた糸の先捕まえて結び直さないとって。
そのぬくもりが誰かなんてわからない。それが落としてしまったことだから」
それが忘れてしまったことだから…。
無駄だとわかっていても何度それを必死でたぐっただろう。
「でもね、気がついたら俺、それアンタしかかんがえらんないんですよ」
「ハボック」
ハボックの言葉にロイは目を瞠る。
「バカみたいでしょ。ちっとも思い出せないのに、もう俺アンタしかいないんスよ。
で、さっき話していて。やっぱりアンタだったんだって。俺が落としたのはアンタだったんだってわかってもうめちゃくちゃうれしい。しんじらんないくらいうれしいんですよ。
でもね。だから思い出せないのが悔しい。そしてアンタは俺が思い出せないから違うって言う。
俺の糸の端は確かにアンタに繋がっていたのにもう片方の糸をつかんでいるのは俺であって俺でない」
だから複雑。
そっと身体を離していたずらっぽく、しかし切なくハボックが微笑むのをロイは信じられない思いで見上げた。
嘘だと言いたかった。
そんなはずはない。自分だってこいつだってそんな素振りは見せはしなかった。
一体いつから目の前の男はそんな。自分のことなど何一つ思い出してくれない冷たい男だと思っていたのに。
「いつから?」
声が震えるのを隠せない。
「わかんないっス。ただ怪我して一番最初に起きたときっていうかたたき起こされたとき、アンタ泣きそうな顔をしてた」
思い返せばその夜からすでに夢に見るのはこの人のことだった。
泣きたくなるほど幸せになれる、その人がいることが信じられないくらいうれしい。
「…それってインプリンティングとかいわないか?」
生まれて一番最初に見る動くものを親と思うという。
「…う」
ぼそりとつっこむと言葉に詰まるハボック。
それを見てロイは無性に笑い出したい気持ちになった。
何を落としても不思議と態度も反応も変わらない。
そしてロイはそっと腕を伸ばして今度は自分からハボックに抱きついた。
最初からこうすればよかったのかもしれない。この犬が最初から自分を見ていたと分かっていたならばきっとそうしたろう。
自分のことなど主人とも何とも思わなくなったと思っていたからこそ近づけなかったけれども…今なおそんな目で自分を見上げるというのなら…そっと抱きしめてもいいだろう、この迷子の犬を。
「た…大佐?」
いきなりロイから抱きつかれてうろたえたハボックだったがすぐにその長い腕をロイの背中に回して抱きしめ返した。
「やっぱり…」
「どうした?」
「覚えているような気がするんですよ。この感覚」
ぎゅうぎゅうと言う感じに強く抱きしめてハボックはその首筋に顔を埋めた。
覚えている。
この感触も匂いも。
なにもかも。
「でも思い出せないんだろう?」
「…その通りですけど。ひどいなぁ」
くすくす笑ってロイはその手のひらでハボックの頬にふれた。
「なぁハボック…」
「はい?」
「おまえは糸の端が私に繋がっていると言ったな」
「思いこみかも知れませんけど…それしか考えられないんです」
「うん、それはそれでいいんだ。ただもう一方の端は?」
「…俺のはずなんですよね…」
なんかちっともわかんないんですけど。
その言葉を聞いてロイはくすくすと笑う。
「大佐?」
「今考えたんだがね。お前ね。まず最初にそれを思い出さなきゃ」
「俺を?」
「何もかも思い出せそうで思い出せないんだろう?おまえ自分がはっきりしないんじゃ周囲のことははっきりしなくて当然だよ」
すべからく人の世界というのは本人を中心にその関係で成り立っているものなのだから。
「じゃ俺が半端に思い出せそうで思い出せないのって…」
ブレダが友人と聞かされてとても納得した。
友人という糸の先にブレダはいるのだと思えたからだ。
ロイが恋人と聞いたときもやはりと思った。
でもその糸の元は…。
「ばかだね、おまえ。推測に過ぎないけれども自分のことだけ落としてしまったんだろう。それなのに一生懸命周りばっかり見るから。周りのことばかり考えるから戻るものも戻らないんだなきっと」
「うう…」
そんなこと言われたって口の中でごもごもいいながらハボックはがっくりとロイを腕に抱いたままうなだれた。
「探しにいこう。それから戻っておいで」
ロイはそのうなだれたハボックにそっと口づけた。
「大佐!」
ハボックがはじかれたように顔を上げてロイの顔をのぞき込む。
「なんだ」
「なんだって…いいんですか?」
「いいって何が?」
「だって俺…」
あんたの好きな俺じゃないし…
「間違うな。私が何も言わなかったのはお前が私の好きなお前ではないからではいぞ。お前が私を好きな、私を主人とするお前ではなかったからだ」
私はいつでもお前を…。
そういって毅然とした目で見つめ返すロイはそれでも耳まで赤くなって。
「それは勘違いですよ…俺はいつでもあんたを好きな俺でしたけど…」
「そうだったな…」
最初から好きだった。
好きだったことを忘れなったのか、それども。
もうそれはどうでもよかったけれども…。
二人は額をくっつけて初めて屈託無く笑い合った。
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