夢を見る。
毎晩のように…。
夢の中でハボックはどこにいるのか何もわからない場所にいる。
そしてそんな中、ふわりと何かが頭に触れる。
手だ。人の手。背の高い自分のあたまにそれは柔らかく触れて子供のように撫で、髪をすかれる。
心臓が跳ね上がる。
体が熱くなる。うれしくて幸せでその手を捕まえてその人を抱きしめて腕の中で
もみくちゃにしたくてたまらなくなる。
でもその手を捕らえて腕の中に閉じこめようとした自分の腕は闇を泳ぎ空をきる。
それでも腕の中にはなぜかぬくもりの名残とかすかな匂い。
確かにここにいたような。
いたのに。
ハボックは悲しくなる。
探さなきゃ。探さなきゃ。探さなきゃ。
でもどこに?なにを?
だってここは何もわからない場所。
「------!!」
ハボックは叫んだ。
何かを確かに叫んだ。
しかし叫んだ言葉はなぜか自分の耳に届かなかった…。
『帰ることだけ知っている』2
「へー記憶喪失」
語尾のイントネーションが派手に跳ね上がる独特の物言い。
たぶん知り合いの中でTOPクラスの頭脳を持つ友人のものだ。
「うるさいブレダ」
「独り言だよ、ひ・と・り・ご・と」
ことさらわざっとらしく発音するのがしゃくに障って言い返せばかえってくる台詞はもっと神経を逆なでする。
「よくもまぁそんなぽろぽろ記憶なんて落とせるもんだ。昔からお前は物忘れひどかったもんなー。
ま、いいけど前貸した金のことさえ忘れていてくれなければって忘れたのかぁ?どうしようもないな。わざと忘れたんじゃね?ああ、おまえならありそーだよな。意外と…」
ハボックに対するブレダ少尉のとりあえずのお言葉。
全く言いたい放題とはこのことか。
気遣いという言葉の意味も教えてやって欲しい。
もっともブレダは事情は逐一連絡されていたので、言うべき言葉はいろいろ考えてきたにちがいないのだが。それでも優しくはきっと無い。
「うっさいな。気が散る。的はずすだろうが!」
まぁ、彼はいきなりハボックの仕事を引き受けて2週間もイーストシティで苦労してきたのだから
なに言ってもいいだろう。
そこはわかっているので、ハボックも訓練用の銃を的に向かって構えながら隣でつぶやく友人とやらになけなしの口答えをするにとどまった。
「まったくあほうだ。おまえらしい」
それが結論か?
帰るなり地下射撃訓練場までおしかけて独り言と称してぶつぶつつぶやいたあげく、とどめにこの言葉。
しかも残業と言うにも遅い時間の今にだ。
別に好きで落とした記憶ではないし。
ハボックは友達がい、という言葉の意味を聞いてみたい気持ちになって、ため息をはいて銃をおろした。
「おまえなぁ…」
「で、どうだ?」
「へ?」
「記憶だよ、記憶、少しは戻ったか?」
「まぁぼちぼち」
もどったようなもどらんような…。
「…俺はどうだ?」
「見たことがある!!知っている!!というのはわかるんだが…」
「なんだそりゃ」
「いや、なんだかしらねーけど万事この調子で…」
「万事?」
「いや、いろんなことがこう喉まで出かかってて、ああ、俺これ知ってる、覚えている!とは思うんだが…」
事故から2週間。ハボックは徐々に記憶を取り戻してはいた。
もともと事故のショックと出血多量によるものだろうと言われていたものだったためか
怪我の回復とともに頭の霧が晴れたように…なってはいたのだが。
なぜかそれがすべてが中途半端だった。
すべてが知っているけれでども、覚えているけれども。光景は頭に浮かぶけれども
自分にとって何なのか分からない。
そんなことばかり。
なぜかデジャヴにそって道を歩けば仕事場にも行けるし、家にも帰れる。
店にも行ける。建物にも見覚えがある。ただそれが自分の家だとか、自分の仕事場だとか
よく行った店だとか、それへの道だとか、そういうことが思い出せないのである。
不思議におかしな状況にハボックは陥ってしまったのだ。
「かーーー!!なんだよその状態は」
思ったより進展があるのかないのか判断に困る状況にブレダは天井を仰いで後ろに手を放り出した。
「しらねーよ、しんどいんだぞ。思い出せそうででてこない状況って」
「それはなんとなくわかるけどよ」
その状況は普通の人間でもよくある。
『えーと、なんだけアレアレ』
という奴に近いのだろう。これはもどかしいし、精神的にもしんどい。
考えればでてきそうででてこない。でてきそうだから喉元に引っかかって気になって仕方がない。
でてくるまでどうにも七転八倒したい気もちにもなる。
万事これだなんてどんな状況だかそこまでは見当もつかないが。
「で、なんでお前は射撃訓練場なんかにいるんだ?」
「これは思い出したんだ」
「はぁ」
ハボックが最初に思い出したのは銃の使い方だった。
思い出したというか、中尉が腰に下げていた軍支給の銃にどうしても見覚えがあって貸してもらって
手に取ったらつい何かできる気になって、気がついたらバラして、また組み立てていた。
体が覚えているとおりに動いたらどうやら自分は毎日これを磨いて組み直していたらしいことを思い出したというのだ。
そのほかにも思い出したのが
刀剣の手入れ、仕事に復帰してからは部下との訓練につきあってもらって格闘技、そのほかを思い出していたのだから
とりあえずそれを聞いたブレダが
「パブロフの犬ー」
と揶揄いたくなるのも無理はないだろう。
「身体が覚えているんだよなー」
やっぱおれそれで生きてたんだし。
「はやく脳味噌のことも思い出せ」
使って無いと証明すんなよそこで。
「わかってるよ」
でも焦るとなんかいてもたってもいられなくて。
「で、煮詰まると地下に来て銃をぶっ放していたりする」
こんな遅い時間にお前が訓練だなんてどういうことかと思ったが。
「あーそれもあるんだがな」
「ハボック、待たせたな」
訓練場のドアが開いてロイが顔をのぞかせた。
「はい」
ハボックはその声にぱっとたちあがり帰り支度を始めた。といっても銃を片づけて側に置いてある上着と鞄をとるだけだったが。
ブレダはその動作に一瞬目を瞠る。
が、ロイがそのきれいな黒目の視線をふせ気味に首を振って見せたので、ブレダは一瞬で事情を察して黙って頷いた。
この二人は元々恋人同士だ。それは司令部仲間内では公然の秘密になっている。それにハボックは本来大佐の護衛だ。
だから待ち合わせして帰るくらい当たり前のことなのだが、いまはハボックの方にその自覚がない。
「なんだ、ブレダもいたのか?」
「はい、まぁ珍妙な病気にかかった友人をここでからかわない手はないですから」
「はは、で恨み節はいえたのか?」
「おもいっきり芸術的に心を込めてながながといってやったんですけどね〜」
「ダメか」
なんといっても仲のいい同僚の二人である。ブレダの存在が多少なりともきっかけになっては紅だろうかと期待した部分があったのでロイは少しだけ肩を落とす。
「まぁ元からこいつの脳はスカスカ脳ですから」
「この!言わせておけば!」
「言い返せるのかよ」
「う…」
「ああ、いいから支度は終わったのか」
「あ、はい」
「ブレダは?」
「あ、俺は帰り際に寄っただけですから」
「じゃぁ、一緒に帰ろうか。晩飯がまだならおごるぞ」
「あ、ありがとうございます」
「じゃ今日は」
「外で食べて帰ろう。時間も遅いし」
「そうですね、あ寒いからいったん家帰って暖めてからでるというのは」
「それほど寒くもないだろう…」
はい?
今なんて?
ブレダは会話の違和感に首を傾げて、頭の中で会話を反芻。
それからぱっくりと口を開けた。
「………あー?」
「どうしたブレダ」
「あのさハボック。お前今どこに住んでいるんだ?」
「大佐のうち」
「…………はぁ?」
なんでそんなことに?確かにこの二人は恋人だ。恋人だったというべきなのだろう。
しかし今は違う。
それなのにどうして?
そのどうして?の部分がもろに声にでてしまったのだろう、ハボックが少し顔を赤くする。
「だって、あっちの家の方がなんかなじむんだもんさ」
「は?」
なぜ何どーして?
「しらねーよ。でもなんかあっちの台所とかの方が覚えているような気がすんだよ!!」
まぁそれはハボックが自分のためには料理をあまりしない男で、ロイのためには放っておけずに料理をする男だったというだけで。
それを思い出せないハボックにはなぜだか分からないがとしかいいようおないだろうが…。
「そうなのか…」
「そうなんだ」
「まぁよかったな…」
「そうなのか?」
「そうだとおもう…」
「??」
まぁハボックにはブレダの脱力も心配も複雑でわかるまい。
しかし分からないなりにこいつけっこううまいことやってないか?
「まぁ、怪我は治ったとはいえこういう状態だからな誰かが側にいなければならん」
それならばとその役をロイが買って出たのだという。
人に押しつける気はないだけだろうが。
それにしても辛いだろう。
複雑な気持ちのおおもと。
ブレダはロイの心情を思いやってそっと後ろで涙した。
元恋人と、同居。
上司と部下として。
さっきのハボックの態度から見れば、ロイが二人の関係をなんら押しつけていないことがブレダにはよく分かる。それが切なさを誘う。
きっといつ戻るとも知れない相手をきっとずっと息を潜めそんな素振りを見せないよう相手に負担をかけないよう
それでもハボックが、恋人がかえってくるのを待っているんだろう。
それなのに後ろから見る彼は毅然として視線一つ揺らすことなく前を歩いている。
大した精神力である。
ブレダはその背中を感嘆すら覚えて眺める。これならいっそハボックの方が落ち着きが…
「あれ?」
ブレダは比べるようにハボックの姿に目をやって、彼がいやにそわそわしていることに気づいた。
そわそわというか、少し後ろからロイの顔をちらちらと眺めては視線を逸らし煙草を吹かす。
微妙に汗などかいているようで、嫌に落ち着かない、気になってしょうがないという雰囲気だ。
「あー…」
そうか…
ブレダはもう一つの問題に気付いてぽんと手を打った。
『しらねーよ、しんどいんだぞ。思い出せそうででてこない状況って』
ハボックはそういっていた。
もし記憶が出かかっている状況で、しかもそれがでてきそうででてこないなら。
一番に引っかかるのが、最初に思い出さなければならないのがハボックが世界で一番大事で大切にしていたこのロイの存在に他ならない。
他の記憶が喉のそこに引っかかった小さなあめ玉のようなものなら
ロイの記憶はハボックにとってばかでかい胸をつぶすようなものであっても不思議はない。
実際端から見ていてハボックの態度はあわれなくらい落ち着きがない。
ブレダは後ろでそこまで観察すると二人にばれないようコートに首をすくめるように埋めてくくくく笑い出した。
「ばぁか」
そして意地悪く一言だけ。
苦しめ。
勝手に記憶を飛ばして俺らの心配なんか知らぬ気で。
いまのこの男にはロイの側にいるのが一番堪えて、そして一番気になっていても立ってもいられない存在なってしまっているのだ。
「気付け、このばか」
まったくだ。
その焦燥がどこから来るものなのかぐらいは…。
目先の問題に足を取られている男の目を他に向けてやるのはいつも自分の役割であったけれども…。
「どうしようかねぇ」
ブレダは少しだけ思案する振りをして、すぐに傍観を決め込んだ。
いつも何が起きてもどこか飄々としているここの男が、本気でそわそわじたばたしている図を他人事のように眺めるというのもたまにはいい。
なんせ自分は今は仕事帰りでつかれているし。
バカでっかい仕事を換えてやった駄賃代わりにはいい見物である。
心配しまくったあげくに飛んで帰ってきたのに
のほほんと出迎えられてしまって怒りと心配の行き所を無くした身としてはこれは楽しい見物のような気がしたのだ。
「しんどきゃ早く思い出せ」
ハボックは夢を見る。
あの夢だ。
また…。
繰り返される夢。
思い出したい。思い出さなきゃ大変なことになると
そんなことばかり分かる夢。
見えない糸の先。
誰だ?
声を出して?姿を見せて?
そうすれば思い出せるかも知れないのに。
『私の所に来ればいい』
そんな時、そういったのはあの人。
優しく厳しいあの人。
黒髪黒い目が信じられないくらい綺麗だと思ったあの人。
心の読めないあの人。
心が跳ね上がる。
切れた糸の先はアンタだと思っていいのでしょうか?
「はぁ、つまりお前が展開したときにはすでに撤退済みだったと?」
程良くうるさい食事所の隅の席。それでもあの人の声は凛としてきれいに耳に届く。
夢と同じ。
ハボックはテーブルの端に座り黙々と食べる振りをして二人の会話に耳を傾ける。
傾けるだけだが。
「そうとしか考えられませんね」
答えるのは自分の友人だという男。心が違和感を訴えないのだからきっとそうなのだと納得できる。
あえてうれしいらしい自分の記憶。
半端に感覚だけ残す記憶。
納得できる感覚があればそえはきっと正しい。
違和感があれば何かが違う。
「もともと少なかったという話は?」
友人の方は問題がない。
違和感を訴えるのはあの人で…。
「考えられませんね、あの作戦規模からすると…」
「すると何か考えあっての撤退か…陽動か…」
「今の情報だけでは判断できかねますが、とりあえず目端の利くのを一人事後処理の名目で残しておきました」
「ふむ…まぁ今はそれくらいしかできんか」
自分の上司で、とてもえらく強い人。間違いのないデータなのに心が違和感を訴える。
記憶が何か違うといってくる。
でも何が?
食事の席、まるで日常会話のような雰囲気で交わされるロイとブレダの仕事の会話をBGMにハボックはぼんやりと現在の同居人の顔を眺める。
この仕事は本来ハボックのものでハボックも聞いておかねばならない話なので形だけはまじめに頷いたりもしているのだが…。
しかし右から左に流れるだけでどうにも頭の中に残りそうにない。
その代わりに頭を占めるものは…。
(こういうまじめな顔をしていると、確かにえらそうなんだけどな。あ、まつげ長い)
とかそんなとりとめもない思考であったり…。
もっと持って行きようもない言葉にできない感情の複合体だったり。
「おい、ハボック聞いているのか?」
「あ、は、はい大丈夫です」
視線がばちりと合ってハボックはあわてて答える。
何が大丈夫なんだかさっぱりわかりはしないけれども。
ハボックは心の中で大きくため息を吐いた。
ほんと…何が大丈夫なんだか。
むしろ何も大丈夫なんかじゃない。
やるもんじゃないなんてやってから思うものだけど。
これは最悪だ。
目の前の人の涼しげな顔を眺めながらハボックはまた何かの糸をたぐるように相手のパーソナルデータを思い返す。
それはただの文字列で…自分の記憶と繋がっていないことを忌々しく思いながら…。
ロイ・マスタング。
仕事、さぼり魔。ただし能力高し。
日常業務、無能。それ以前にする気が感じられない。
意外にいい加減。
日課。読書と鍛錬(意外にまじめ?)。
郡内評判。女ったらし。遊び回っている。
確かに女性からの電話が多い。デートも多いように見えるがどうやら多くは子飼いの情報屋の名前らしい。
もてるのは確かだが遊んでいるのはそれをごまかすポーズ。
階級、大佐。現在同居人。
同居の始まりは必要に迫られて、と、どうということない一言から始まった。
事故の規模の割には、ハボックの傷は大したことはなく一週間で外出許可もおり、2週間で病院を追い出された。
記憶の方は、銃の一件を聞いた医者が
「今までの日常に触れていった方がいい」
という判断をくだし、暫定的に業務復帰となった。
むこうも所かまわず煙草を欲っして夜な夜な病院を抜け出す患者など置いておきたくないと言うところだったろうが…。
これは予想された以上にうまくいき、ハボックはなんとなく軍人としての自分を思いだした。
何となくといえば頼りないが、なんとなくなりに訓練をこなし、書類をこなし管轄内をあるきまわってあまり問題を起こさなかったあたり習い性というべきなのかもしれない。
問題視されたのは日常生活のほうで…。
軍内ならば、人も多く、信頼できる部下も多いハボックなれば、常に誰かがフォローに回れる。
しかし日常生活というと一人っきり。おまけにセントラルに引っ越してまだたいして日もたっていないハボックの部屋は、開けていない段ボールも多く、落ち着いた生活にはほど遠い状態だった。
そのときにさりげなくかけられた一言。
「我が家なら部屋も多いし私もいる。しばらくはそこで休むといいだろう」
「いいんですか?」
「悪ければ申し出たりはせん」
まぁ、勝手が分からず問題起こされてもこまるしな。
そう彼は笑ったことをハボックはよく覚えている。
そして暮らし始めてみると、そこはイヤに自分になじんだ環境だった。
前からそこにいたような気がするほどで。
そのことを口にしたら、ただあの人は薄く笑うだけだったけれども、生活自体は
面白いほど順風満帆だったといえる。
大佐は何も言わず、何も束縛せず、ただ側で自分の生活を淡々と続けているようで
それはハボックになんの期待も圧迫もかけないという心遣いの現れのようでそれも
ありがたかった。
ありがたかったはずだった。
…それなのに…。
むしろそれが苦しくなったのは本当にすぐのことだった。
「どうした?食事は口に合わなかったか?」
いつの間にかハシが止まっていたらしい。
心配そうにかけられた声にハッと我に返ってハボックはあわててフォークにささったグラッセを口に放り込んだ。
「だ、大丈夫です!!」
「そうか?顔色も悪くないか?何か問題があるようならいうように」
「はい」
声をかけてくれたのは大佐。
キツイ物言いで優しい人。
放任のようでちゃんと見ていてくれる…。
でも…ダメだよ。あの人だけは。
ダレだよあの人は。
何でダメ?
記憶を失い混乱しきった最初の夜、最初合ったときは、
いきなり怒鳴りつけられもうどうにもおっかない人だと思った。
しかし何もない頭で一晩考えると、それはとても大切なことのように思えた。
まだ混乱さめやらぬ事故現場で自分を捜して駆けつけてくれた人。
『バカモノ!!意識が戻ったのなら、無事だったのならなぜ最初に私のところに連絡してこない。
何のうのうと寝ているんだ!!』
思い出せば泣きそうな声だった。
自分には何もなかったからその夜は何度もそのことばかりをも追い出した。
考えても考えても空っぽで、記憶も何もない自分の中にそれは悲しいとかむなしい以外のもので泣きそうだったその夜をいっぱいにしてくれた。
次の日面会に来てくれたその人の顔色はやっぱりあまりよくなく目の下に隈もできていた。
もしかしてこれも自分のせいかもしれない。
そう確信に近い思いがあって自分はあの時、大佐の顔を見たとたんに不安も何も無くなって笑えたんだっけか。
だから
『うちに来ればいい』
そういわれたときうれしかった。
だから飛びついた。
もうそのときは半端にいろんなことを思い出していて、きっとこの人は自分にとって大事な人なんだろうと
思えた時でもあったし。
一緒にいれば何かが思い出せるに違いないと思った。
でも違った。
確かにこの人といると記憶の琴線に引っかかることも多い。
しかしやはり引っかかるだけなのだ。
笑うあの人、怒るあの人拗ねるあの人。
胸が痛くなるほど懐かしい…。
それなのになぜか思い出せない。
ただ溜まっていく苦しさだけが胸を押しつぶす。
焦燥ばかりが大きくなっていく。
断るべきだった。
ホント何が大丈夫なんだろう。
ハボックはじくじくしたどうしようもない気持ちを抱えて夕食を胃の中に押し込んだ。
いまいち味も感じない。
「大丈夫か?ハボック?」
そんな感情が表にでてしまったのだろうか。自分はあまり隠すのがうまくない。
ロイに心配げに言われてハボックはやはりあわてて首を振った。
「なら…いいんだが」
心配げな表情。きれいな黒い目。
ああ本当に断るべきだった。
一緒に暮らしてはいけない。
そんな些細なことにこんなに心臓が跳ね上がるようになるならば。
暮らしてはいけない。
気になる人となんて。
『私のうちに来ればいい』
そんなのきっと他意のない言葉。
困っている側近に手をさしのべただけのことだろうと。
だって自分はただの部下だし。男だし、何か特別な感情を持つにはあまりにも問題がありすぎる。
それでもただの上司と部下ならばあんな風に必死で探して飛び込んできてくれるだろうか。
それがハボックの心を揺さぶる。
期待させる。
いつの間にか自分は。
夢を見る。
毎晩。
同じ夢。
繋がっていたはずの糸の端。
きっと宝物のような記憶の断片。
だれだろう、だれだろう。あの夢の手の人は。
思い出したい。
それが思い出せればきっとすべてが繋がるような気のする、それは幻想だと分かっていても。
心が騒ぐ、その相手、それだけでも思い出したい。
だから夢ですら落ち着かない。
それを思い返してハボックはばかばかしい気持ちになる。
愚かな。思い出してどうなるのか。
だってもう自分はあの人しか思い描いていないじゃないか。
切れた糸。あの手の先に結びつく人の姿なんてあの人しか考えていないじゃないか。
いつの間にか本当に自分は…。
でも違ったらどうしよう…。
違った人が記憶からでてきたら…この今の思いはどうしたらいいのだろう…。
「で、スンマセン。こっちも事故の時のことを聞きたいんですけど」
ブレダの言葉に、どきんとハボックの心臓が音を立てる。
「ああ、何なりと聞け。まぁ報告書は出したから大体のことはそこで分かると思うが」
「それは読みました。テロの可能性が高いんですか?」
「断言はできないが、可能性どころかほぼ間違いはないだろうよ。どこも犯行声明を出していないのが引っかかるがな…」
(テロ?あれはテロだったのか…?)
その言葉にざわりとした感覚が這い上ってきてハボックはぎゅっとシャツの胸元をつかんだ。
「いえ、まぁそれはいいんですけど、そのときやたら早くハボック少尉が発見されているじゃないですか。
まだ、一日程度で、けが人の整理も始まっていないときに」
「そうだったかな?」
「なんでそんな早く発見できたんですか?」
ハボックの耳が初めてぴくりと動く。それはハボックも聞きたい話だった。
「ああそれは迷子札が…」
「迷子札?」
「あ…、と、…いや。その…ドッグタグ…があって」
「こいつ、軍と民間でもめているから、私服で行くっていったのに、ドッグタグ付けてたんですか?」
「ああ、…たまたまな」
それで連絡が来たんだ。
「運が良かったなぁ…」
ブレダにしみじみと言われて、ハボックは首をひねった。
なんか変だ。
ハボックは天井を眺めてそのときのことを思い返してみる。
ドッグタグとは基本的には軍支給の認識票に対する俗語で、サイレンサー付き金属プレートにその人の名前や階級や血液型などを刻印したもの。
2枚同じ物を下げ、戦争などの時に重傷を負ったり、戦死した場合に認識に使われ、タグの1つを持ち帰り家族に届けられたりもする。
確かに自分はドッグタグを持っている。
しかしあのとき…病院で目覚めたときそんなものは付けてはいなかった。
治療のためにはずされたのだと考えればいいのだろうが、それならばその後自分の手に返されているはずだ。
しかしそんな話はなかった。
ドッグプレートが見つかったのは…。
「ハボック」
ロイの声ではっと気がつくと、もう食事はほとんど終わりになっていた。
自分の食事もそうで、気がつかないうちにおなかに放り込んでいたらしい。
「そろそろ行くが大丈夫か?」
「はい!問題ないっス」
「しかしさっきから上の空だったな」
「そ、そんなことないっスよ」
「そうか?気になることでもあったか?」
「…あー気になることと言えば…」
「なんだ?」
「あ、今はいいッス」
「そうか?」
「後で言います」
聞かなきゃ。
だって自分のドッグタグは…ここにはなかった。
だったらなんでこの人は自分を見つけられたのか。
…何でこの人は自分をひろってくれたのか…。
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