Web-Suopei  生きているうちに 謝罪と賠償を!

「支える会」発足10周年の声明 (2005年3月1日)

戦後60年、支える会10周年 これまでの歩みとこれから

運営委員長 井上久士

 今年は日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏してから60年ということですが、私たち中国人戦争被害者の要求を支える会が活動を始めてから10年目という節目の年にあたります。この間中国人戦後補償裁判を闘ってこられた弁護団の方々にあらためて敬意を表するとともに、これまで支える会を支えてくださった会員、事務局、役員、そして多くの友人の方々に厚く御礼申し上げます。
 支える会は市民のボランティア組織です。言わば素人の集まりです。このような個人の良心のみに基づく自発的組織が、今日の日本で活動しつづけてきたことは、貴重であると同時に誇るべきことであると思います。裁判においては劉連仁訴訟や強制連行などで一定の勝利を勝ち取ることができるようになりましたし、敗訴した裁判でも裁判所に事実を認めさせるなど、大きな前進がありました。「相撲で勝って勝負に負ける」という諺がありますが、多くの判決は、相撲では勝っているのです。
 一方、この10年間で日本における中国の存在感は格段に大きくなりました。昨年日本の貿易相手国では中国が第1位となり、経済の相互依存関係は一層強まっています。同時に中国の中では戦争責任を曖昧にし続ける日本へのいらだちと反発が表面化するようになってきました。これに対し日本ではそうした中国に脅威を感じ、反発する人々の声が以前より高くなってきたことも事実です。先日石原都知事が、中国のことを「あの成り上がりが」と口走っているのを、テレビで見ました。こうした排外主義感情が、老経済大国と化しつつある日本の世論の無視できない部分を捉えていることに注意する必要があります。
 支える会はひとつひとつの裁判に勝利し、さらに戦後補償問題の全面的解決―それがどのようなものになるとしても政治的決断が不可欠な―をはかることを目指しています。しかしこの課題は法廷での勝利や政治指導者に決断を促すことだけで達成されるものではありません。国民の、特に若い人が歴史の真実を知ること、国民の中の反中国感情や排外主義を克服すること、要するに大きな世論を作ることがどうしtめお必要だと思います。そのためには歴史教育、マスコミ、そして市民運動など多方面からの努力が求められています。「相撲で勝って勝負にも勝つ」ため、支える会がその一翼を担うことができればと願っています。

 

弁護団・団長代行 小野寺利孝

 中国人戦後補償の弁護団を作るきっかけは、1994年5月に日本民主法律協会が法政司法調査団を結成して、中国に行ったことでした。90年代に入ってからの中国では、戦争被害者の人たちが、歴史に意識を無視した、あるいは非常に右翼化していく日本に非常にに怒りや危機感を持っていて、きちっとした歴史の意識を日本が確立するには、未解決のまま放置されてきた戦争犯罪あるいは人道に反する蛮行に対して加害者として心身謝罪をし、賠償する事を認めるべきだという動きが一部中国国内でありました。その動きをあるジャーナリストから日本の人権派の弁護士に対して、この被害者の要求を受けとめてもらえないか、という問題提起がありました。それでまず戦争被害者の人たちの声をあるいは要求を受けとめようということで、その年の7月に北京に会いに行きました。それが戦争被害者たちとの最初の出会いです。そこには強制連行や三光作戦、平頂山事件といった、様々な戦争被害の人たちがおられました。今でこそよく知られている事実ですけれども、それまで私達は、活字では目にしたことはあったけれども、実際に三光作戦の幸存者が証言して、家族はみんな殺されて自分だけが助かったとか、そういう話を目の前で語られ、非常にショックでした。そこで、この人たちの要求を真正面から受け止めて、日本の法律家として期待に応える活動をしないと、この人たちは決定的に日本の法律家に対する不信感を持ってしまうだろうと。そのことは同時に日本の国民一般に対する不信感にも繋がると思ったんです。
 そこで法律調査団を作り、約1年かけて、裁判闘争として構築できてなおかつ勝訴の可能性があるという、裁判戦略方針が描けるかを検討し、戦争被害者の実態を正確に調べました。それ自身が原告団作りと弁護団作りに繋がっていったんです。そして1995年8月、戦後50周年という節目に、731・南京訴訟と「慰安婦」訴訟を提訴したのです。
 裁判を起こす際に、裁判戦略方針と同時に重要視したのは、市民社会での支援組織でした。法廷で弁護士だけが裁判をやっていても、それを支える市民がいないと、法廷闘争としても成り立たないし、いわんや勝訴判決を勝ち取るという世論は作れません。そこで弁護団と支える会が同時に発足されたのです。だから弁護団の支える会は車の両輪のようなものなのです。それまでは日中友好万歳ばかりで、過去のことなど誰も何も言わなかった。しかし90年代になって、日中関係が、ギクシャクしてきました。特に謝罪の問題をめぐって非常に厳しい批判が出て、それに対して日本がいつまで謝罪謝罪と言っているんだと反発し、その中で噴出してきたのが戦後補償問題でした。この問題についてまともに受け止めて謝罪しようともしないし、克服もしようとしない。こういう日本国と日本の国民に対する不信感があった。だからこの問題を解決しないと、本当の日中友好はありえないということを共有したのが我々弁護団であり、市民運動の最初の共通の認識でした。
 日本の歴史観は、過去のことは加害も被害も水に流して、これからは仲良くしようという、非常に曖昧な歴史への向き合い方というのがあります。ところが中国は歴史を鑑として、未来を築いていく、つまり歴史を直視して教訓を引き出すことから始まるんです。これでは日本と中国はまるでかみ合いませんよね。そこから引き起こされる中国人の不信感は、またやるんじゃないか。中国は弱かったから侵略されたんだ、だから二度と国を侵略されないためには、国を強くしならなければならないんだという、明確に歴史の教訓からその路線を出すわけですから。しかし同時に侵略はぜったいに成功しないという教訓もあるから、自分たちは侵略しない、これが国の大方針になるわけだけど、日本はそういうのをわからないから、日本では、中国が今度は軍事大国になって日本を侵略するんじゃないかとなる。しかしお互いに歴史の教訓をきちんと共有すれば、不安のない未来志向というものが生まれてくると思うのだけど。土台を共有しないと。それが歴史の共有だと。この裁判の本当の目的とは、歴史認識のきちんとした形成だと。それをとりわけ日中両国民がしっかりと学んだものを風化させない、より強固に発展させる、これができるかできないかは、被害者達の体験した事実、それと加害をさせられた日本軍の兵士の加害の体験、それもまた被害ということを含めて、加害と被害ということをしっかり直視する。それには体験事実をしっかり学ぶ。そこから新しい歴史の教訓というものを形成する。それをやることが、戦争被害者達が一番望んでいる、謝罪と賠償だけではなくて、二度と侵略戦争をやらないでほしい、二度と自分たちが味わった屈辱を味わわせないで、孫子の代まで確立する。不再戦。これが中国人被害者の最大の望みだと、原告の被害者達は言います。だから日本の市民も、弁護士たちも手弁当でそれを支えようとしてきたんです。そういう普遍的な、崇高な精神で、命がけで闘っている、勇気ある被害者を支えるのが誇りだと言って、なんだかんだで10年膨大なエネルギーを注ぎ込んで闘ってこれたんじゃないかなと思います。
 戦後60年を迎えましたが、今後勝訴判決が積み上がっていき、全面解決が展望できれば、裁判は起こってこないかもしれない。しかし現在行なっている裁判は代表訴訟と位置づけられています。この訴訟が解決しなければ、じゃあこんどは私たちがやろうとなる。しかもこの人たちは自分たちで解決しなければ、親から子へ、子から孫へと繋ぐ決意でやっている。解決しなければ、これから5年経っても10年経っても、逆に闘いは広がっていくと思います。だからこの典型代表訴訟で政府が、あるいは国会が、被害者達の要求を真摯に受け止めて全面解決するための大きな節目がこの60年だと思うんです。それをきちんとやること、それからたとえばそれをやらないで、そのままたとえば2008年の北京オリンピックを迎えたとする。このまま裁判が広がって、対日批判が広がった状態で北京オリンピックをやったらどいういうことになるのか。本当に成功させようとするなら、この問題をきちんと解決して、基本的な信頼関係を作り出すということをやらないと、不測の事態が起こると思います。だから遅くとも2008年前に解決すべきだと。時間が経てば経つほど、解決は困難になります。それだけに今年の裁判勝利に向けての取り組み、あるいは国民的コンセンサスをつくるというのが、重要なのだと思います。

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