水燿通信とは
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370号

暑湿の労に神(しん)をなやまし

(詩集『『北緯37度25分の風とカナリア』』から)

 「暑湿の労に神をなやまし」は2010年に刊行された若松丈太郎の詩集『北緯37度25分の風とカナリア』に収められている作品である。この詩集については297号「福島から 福島第一原発事故の前と後と」で述べているので詳述しないが、ここでは詩集のタイトルの中の〈北緯37度25分〉が、古くから日本のエネルギー供給地帯としての役割を担って来た地域のことを意味していることだけを述べておこう。
 この詩を一読すれば、松尾芭蕉の『おくのほそ道』を題材にしていることがわかる。芭蕉のこの紀行文は、ひとつの作品としてのまとまり、完成度を上げるために、必ずしも事実に即しては描かれてはいない。ただ、この旅の大半の行程を弟子河合曾良が同行しており、彼は詳細な『曾良旅日記』(注)を書いているので、実際の旅はどうだったかを知ることが出来る。
 柏崎辺りを通過した頃について芭蕉は、『おくのほそ道』に〈暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず〉と記しているだけである。だが『曾良旅日記』には、単にそれだけでは説明のつかない芭蕉の不可解な行動が記されている(若松丈太郎の詩の末尾に注のかたちで引用されている)。おそらく若松はこの部分に注目し、芭蕉がなぜこのような行動をとるに至ったかを考え、この詩にまとめたものと思われる。詩の内容をいくらか省略した形で示してみよう。
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 海沿いの北国街道を南下した芭蕉は、宮川を経て荒川あたりにかかった頃、奇妙な幻像に襲われる。砂丘のうえに突き出た巨大な筒のようなものが頭上に覆いかぶさるような感じで、それから逃れようと、早めに今夜の宿天屋に入る。だがここでは耳鳴りが芭蕉を襲う。大勢の人声がうおんうおん。堪らずそこを出て険しい峠を通り、夕刻ようやく鉢崎に至り、俵屋の宿で脚を伸ばす。曾良は芭蕉に、幻と耳鳴りの正体はなんだったのかと問う。ややあって、芭蕉は答える、 「三百年のちの人に尋ねなさい」
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 芭蕉が見た幻像とはいったい何だったのだろうか。砂丘の上に巨大な四角から筒が角のように突き出たものがゆらゆら揺らいで、芭蕉を呑み込まんばかりに頭上から覆いかぶさる……。正体不明のそれは、いずれにしても蓑笠姿の芭蕉の旅姿とはあまりにも不似合いで、時代のまったく違うものを並べたような違和感を覚える。
 ふと私は、柏崎が古くから日本のエネルギー供給地帯としての役割を担って来たところに在ることに気がついた。しかも詩の最後の行には〈三百年のちの人に尋ねなさい〉とある。芭蕉が東北地方を旅したのが元禄2年(1689)年、その時から300年後といえば西暦で大体2000年、つまり21世紀になる。大まかに言って、我々が生きている今、現代そのものを指していると言っていいだろう。
 もしかしたら、柏崎を通った時、芭蕉はこの地が担わされている宿命や、その結果、未来のある時点で見舞われるであろう大変な災難を、地域がもつ独特の“気”として感じ、それから逃れようとして、曾良が日記に記したような不可解な行動をとった、といえるのではないか。巨大な幻像はいずれこの地域がいつの日か宿命的に受け入れるだろう建造物――300年後、この海岸には原子力発電所が存在している――であり、〈うおんうおん〉という大勢の人の声は、事故の後に住民が受ける被害の象徴なのではないか。
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 わが国は世界屈指の火山帯・地震帯・深発地震帯が重なっており、古くから大地震が多いところである。記録に残っているものでも、古くは『日本書紀』にある大和で起きたものは推定震度M7。その後も度々、大きな地震が各地で起きている。京都で起きた地震を経験した鴨長明は『方丈記』に〈恐れのなかに恐るべかりけるは地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか〉と記している。
 第2次世界大戦後、日本は主に海岸に沿った地域に50基以上の原子力発電所を造った。まるで、わが国が地震の多い地域であることを忘れたかのように。この地域で巨大地震が起こった場合、原発はどのような影響を受けるのか、万一事故が起こった場合、被害はどのようなものになるか、住民の避難はどうするのか……、そういった大切な問題は全く考慮されていなかった。
 さらに原発それ自体の安全性はどうなのか、殖え続ける核廃棄物は一体どのように処分するのかについても、国民は何も考えることなしに(というよりも殆ど知らされることなしに、というのが事実だろう)、空気を汚さないクリーンなエネルギー幻想に惑わされて能天気に生活してきたというわけだ。
 2007年、新潟県中越地震が発生した。M6・8。東京電力柏崎刈羽原発では大きな被害が出たが、危機管理をないがしろにしてきた東京電力は、被害状況の遅れと小出し、虚偽報告、隠蔽などを繰返し、国民に真相は伝わらなかった。
 一方、海外メディアは、「炉心融解という重大事故となって、周辺住民数百万人の死亡が想定される大惨事寸前だった」と伝えた。
 福島原子力発電所の北部に位置する南相馬市に住む若松丈太郎は、早くから海岸近くに造られた原発の危険性に注目していた。福島原発の周辺(チェリノブイリ事故の直後、住民が緊急避難したエリアの内側に当る)の動植物の異変、原発放水路口や海岸土砂、小学校校庭空気からコバルト60が検出されたことなどを訴えたが、一度だけ「原発との有意性は認められず」とされたきりで、あとは無視された。
 2011年3月11日、東日本大震災(3・11)が発生した。巨大地震と津波によって福島原発は爆発、メルトダウンするという最大の被害になった。
 実際のところ、福島原発ではこれ以前にも燃料棒脱落事故などがしばしば発生していた。しかし東電は常に隠蔽を繰り返し、事故が起きた時の対策を何もせずにこれまでやってきていた。この大惨事の時も東電は、事故は“想定外だった”を繰り返し、反省の色はなかった。事故のあと、場当たり的な対策が次々と講じられたが、いずれも役には立たず、すでに発生から7年経った今でも解決のめどはまったく立っていない。
 長期的には、この事故は日本という国の命運だけでなく、地球規模で衰退に向かっていく起因になるだろうことが、予想される。
(〈わが国は世界屈指の火山帯〉以後の文は『北緯37度25分の風とカナリア』に収録されている「恐れのなかに恐るべかりけるは」「みなみ風吹く日」から多くの内容と用語を借用して構成した)
(注)『奥の細道随行日記』と同じ。本稿では岩波文庫版『芭蕉 おくのほそ道 付「曾良旅日記」「奥細道菅菰抄」』を参考にしたので、その表記に準じた。
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〈紹介〉「元・原発技師のモノローグ 『線量計が鳴る』」
 昨年12月2日、俳優の中村敦夫が書き下ろし・出演した朗読劇「元・原発技師のモノローグ『線量計が鳴る』」が南相馬市で演じられた。
 中村敦夫は1940年東京生まれ。小・中学校をいわきで過ごす。1972年に放映された「木枯し紋次郎」が大ブームになった。中村は放射能に汚染された故郷に言葉を失い、この原因は何なのか、誰が責任をとるのか、深く自問し、この脚本を書いたという。
 原発立地町である双葉町出身の老人を語り部にし、原発事故のあと、何が起こったのかを見つめ、その本質と背景を明らかにするというひとり芝居を、ふるさと訛りで中村が演じた。そのせりふの一部を次に紹介しよう。
「原発立地自治体に住んでっから、再稼働しねぇど飯が食えねぇと言い張る人がいる。んだら聞くが、あんたさえ飯が食えれば、周囲の人間や子孫がどんな目に遭ってもいいのげ? 他人に迷惑をかけず、まともな仕事で、自分の飯ぐらいちゃんと食っていげよ。ほんでねぇと、あんた、人間の屑になっちまうど」
(2018年3月11日発行)

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発行人 根本啓子