水燿通信とは
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355号

『ひとたばの手紙から 戦火を見つめた俳人たち』

宇多喜代子著

 8月、日本が太平洋戦争に敗れた時期が来ると、手にとってみたくなる本がある。宇多喜代子著『ひとたばの手紙から 戦火を見つめた俳人たち』がそれである。
 この本のタイトルは、太平洋戦争終了後、米軍の慰問に硫黄島を訪れたアメリカ人の元ジャズシンガーが、日本兵が玉砕した同島の洞窟に残されていたひと束の手紙が声を発したような気がして無視しえず持ち帰り、その後50年もの間捨てずに取っておいたのだが、それがあるきっかけから宇多の手に託されたことによる。
 宇多は、その手紙の持ち主である尾前邦吉さんの遺族にその手紙を渡すべく色々手を尽くしたのだが、差出人の住所が「宮崎県椎葉村」と書かれているのみであり、その椎葉村の住民のほとんどが尾前を名乗っているということで、調査は行き詰っていた。
 そんな折も折り、邑書林の島田尋郎さんから「戦後五十年を機に宇多さんの戦争を書いておいてはどうか」という話が1995(平成7)年3月にもちこまれた。宇多はその直前、阪神・淡路大震災による被害で持ち物の大半を処分せざるを得なくなっていた時であり、還暦を眼前にしていたこともあって、一区切りをつけようとこの話を受け、拙速の歪みを覚悟でほぼ半年でまとめたのが、邑書林版の『ひとたばの手紙』で、戦後50回目の8月15日直前である「1995年7月30日」に発行された。(この本は2006年11月に角川学芸出版から文庫本の形で発行された。私が本著を読んだのはこの文庫本版。したがって、邑書林版が出てからは既に十年余りが経過している)
 戦争について語ることについて、著者宇多喜代子には長い間大きなためらいがあったという。昭和10年生れの宇多は、敗戦時満9歳であり「私の年齢は体験者としてはいかにも中途半端だと思ってきた」。だが成長するにつれて「体験の多寡を比較で考えることにたいした意味はないと思い至ったのである。十人に十の、百人に百のそれがあるように、私には私の戦争体験がある。その位置に身をおくことで充分なのだと思」ったという(注)。この立場から、当時の彼女が見た銃後の生活、軍人の家系だった宇多家の祖父や父の振舞いや家の雰囲気、学校で教えられたことに対して感じたこと、などなどが語られる。
 家に出入りしていた魚の行商のおじさんが、ある日井戸端で幼い宇多の目の前で「エイッとこうやって、きよこちゃんのお父さんがチャンコロの首を刎るんだ」と出刃で一気に鯖の頭を落とした、という体験は、宇多が戦争を複眼で見た初めてのことであり、彼女の内部に深く沈みこんだ戦争体験になったという。復員後の父親と一緒に生活するようになってからも、彼女は「あなたは人を殺したか」と問うてはならぬ、非戦闘の場にあったものが刀や銃という人を殺傷するための道具を持って出ていった人に対して発してはならぬ問いというものがある、と思うようになったと述べている。その一方で、幼い宇多の腕白ぶりや、お国のためにがんばり過ぎてやった失敗談なども気取らない子どもの視点で述べられており、読み物としても興味深い。
 本著は、副題に「戦火を見つめた俳人たち」とあるように、戦時下の俳人たちに関する内容が中心を占めており、この部分は資料としての価値も高い。だが、記述は俳句を取り巻く環境、時代の雰囲気、個々の俳人の時代との距離のとり方・生き方にまで敷衍しており、困難な時代にあって、人は、とくに表現にたずさわる者はどのような生き方を取るのがいいのかということを考える時、教えられること、学ぶことが多い。
 「出征兵士と俳句」「戦争と機会詩」「文学報国会」「新興俳句」「戦火想望俳句」など多岐に亘って論じられているが、私がとくに度々読むのは「戦中の虚子」である。
 虚子の発言として知られているのは「戦争というものは、俳句に詠むには適さないのではあるまいか、俳句は花鳥諷詠の文学であって、それらの思想を詠うに適したものではない」「俳句は時代の影響を受けることの最も少ない文学」といったもので、このため虚子は時代に疎い守旧派の頭目と固定されている感がある。だが宇多は、虚子の作品を見るとどうもこれは違う、と思わざるを得ないと語り「一人の作家としての虚子と、集団の指揮官としての高浜虚子の違い」という結論に思い至ったという。
 確かに、虚子の作品には史上に最たる主観句と言いたくなるものが少なくないし、虚子の下で育った俳人、飯田蛇笏・村上鬼城・原石鼎・山口誓子・水原秋桜子・中村草田男・川端茅舎なども「客観写生、花鳥諷詠」といったテーゼに忠実な俳人はいない。このことに関して「ホトトギス」系譜にあって近親ゆえの厳しさを持って高野素十を鋭く批評した杉本零(惜しくも55歳の若さで急逝した)の「高野素十 ―― 反文学の文人」という評論を引用しつつ論じているこの「戦中の虚子」は、大変興味深い。
 戦時下に詠まれながら、作句時の限定が消えた現在、普遍的な主題を有する作品として高評価を得ている作品が存在すること、『砲車』という戦争俳句を詠んだ有名な句集がありながら、戦後出た『定本素逝句集』には『砲車』作品の大半を入集しなかった長谷川素逝、戦後50年が経ち戦場を体験した多くの俳人が戦争を語らなくなり、若い人たちには「シンドイ」と評されながらも、戦争を語り続ける鈴木六林男、4巻にものぼる『大東亜戦争全史』に女性に関する記事が1ページもない事実など、考えさせられる記述も多い。
 片山桃史は昭和12年から15年まで、富澤赤黄男とほぼ同じ戦歴を持つ『旗艦』の同人で、赤黄男とともに嘱望されていた新興俳句系の俳人である。一旦帰国し、1年余り後再び応召、昭和19年、東部ニューギニアのガリで戦死している。
 宇多は桃史の作品に感銘を受けて以来、何とか彼の作品をまとめたいと思い、長い期間と多大な労苦の末、昭和59(1984)年に『片山桃史集』を完成させた。桃史と宇多の父は同年代で、ともに昭和12年中国大陸に征き戦争に関わっており、また桃史の句集『北方兵團』が刊行された10月15日は宇多の誕生日であるという偶然も重なって、片山桃史に対する宇多の思いには特別なものがあり、筆にも力が入っている。
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 ところでひと束の手紙を持っていた兵士の遺族であるが、思いがけないかたちで見つかる。邑書林版『ひとたばの手紙』が出版されてほんの数日後、俳人の津沢マサ子さんから「兵士の名前を教えてほしい。私は椎葉村の出身で、今熊本にいる母がその村のことをよく知っているから訊いてみる」との連絡があり、間もなくその兵士の家の屋号が判明、遺族のことがわかったのだ。
 そして1995年、宇多喜代子は宮崎空港に降り立ち、山道を車でくねくねと走り椎葉村に到着、今は無人となっている邦吉さんのお宅に、邦吉さんの遺児Hさんはじめ親戚、村の人たちが大勢集まっている中で、この手紙はHさんに手渡されたという。
 Hさんとご主人は寡黙な人たちだったが、ふたりが「これは」と言って気重な顔をしたのは、手紙に押された検閲の印を目にしたときだ。この夫婦の息子さんは自衛隊員として、折からPKO(国連平和活動)の派遣でカンボジアに出向いているが、その息子さんからの手紙に、これと同じ印が押されていたのだという。Hさん夫婦は「倅のと同じだ」と呟き、暫く黙り込んだという。(敬称は適宜略した)
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 本著に出てきた句の中から、戦時中に作られたもののいくつかを若干の説明を付して引用しておく。
作句時の限定が消えた現在も普遍的な主題を有する作品として残っている句
勇気こそ地の塩なれや梅真白中村草田男
海に出て木枯帰るところなし山口誓子
戦時下だからできたのではとも読める矚目諷詠
大寒の埃の如く人死ぬる高浜虚子
銀杏散るまつたゞ中に法科あり山口青邨
素逝句集『砲車』所収作品
馬ゆかず雪はおもてをたたくなり
われ暑ければかたきも暑し暑にはまけじ
汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず
弟を還せ天皇を月に呪ふ(『砲車』にはない未公開の句)
新興俳句系の作品
兵隊が征くまつ黒い汽車に乗り西東三鬼
未亡人泣かぬと記者はまた書くか佐々木巽
熱い味噌汁をすゝりあなたゐない波止影夫
銃後と言ふ不思議な街を岡で見た渡辺白泉
戦争が廊下の奥に立つてゐた
降る雪に胸飾られて捕らへらる秋元不死男(東京三)
ひと日うれし獄に尊き蝶おり来
吾はなほ生きてあり山河目にうるむ富澤赤黄男
めつむれば祖国は蒼き海の上
蛇よぎる戦にあれしわがまなこ
岩塩を嘗め眼を瞑り飢え憩ふ片山桃史
秋風よ追撃兵は疲れたり
なにもない枯野にいくつかの眼玉
風の中困憊の赤き河流れ鈴木六林男
追撃兵向日葵の影を越えたおれ
負傷者のしづかなる眼に夏の河
かなしければ壕は深く深く掘る
倦怠や戦場に鳴く無慮の蠅
おかしいから笑うよ風の歩兵達
射ち来たる弾道見えずとも低し三橋敏雄
いつせいに柱の燃ゆる都かな
女性の作品
戦死せり三二枚の歯をそろへ藤木清子
人征きしあとの畳に座りつるすずの みぐさ
(関口みぐさ)
ばんざいのばんざいの底にゐて思ふ
炎天や一片の紙人間(ひと)の上に文挟夫佐恵
(注)『俳句』2015年8月号に載った「平和への願いと俳句」と題する金子兜太と宇多喜代子の対談のなかで、宇多の語った戦争体験に対して、金子は自らが体験したトラック島での体験に比して「あんたの話は全体が牧歌だよ。牧場の中で遊んでいる。…戦場体験と戦争体験とは違う。」と語っている。しかし体験の内容だけで比較する金子のこの見方に、私は違和感を覚える。
231号329号で、戦争に関わる句を取り上げている。
(2016年8月15日発行)

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発行人 根本啓子