水燿通信とは |
目次 |
231号戦争に関わる俳句終戦の日に |
|
片蔭や万里小路(までのこうぢ)に蝉鳴くも 赤尾兜子(とうし) |
|
万里小路とは「南北朝時代、後醍醐天皇側近の中納言、藤原藤房が住んだところで、藤房はまでのこうじ氏と称した。元弘の変に天皇を奉じて笠置山に行在所をつくり、それが陥ると北条氏の手で常陸へ流され、建武の中興には参画できなかった。そののち京都に帰り、まもなく出家して、その死去はいまもわからぬままとされている」(註1)というものである。 |
|
蒸し暑い京都の夏の午下がり、作者は家の軒に少しばかりできた日陰に入って、万里小路を眺めやっている。人通りも途絶えたような日盛りのなかで、蝉だけがかまびすしく鳴いている。作者はあるいは藤原藤房という志を得ずに出家した人物の心情に思いをいたしていたのかもしれない。万里小路という歴史を感じさせる美しい用語が効果的に用いられており、味わいのある作品となっている。 |
|
赤尾はこの作品について「自作ノート」(註2)で次のように書いている。 |
|
昭和十七年の夏だったか。むし暑い京都の柳馬場通を歩いていた。十七歳であった。……ちょうど太平洋戦争が頂点に達していたころだ。……幼い句だが、戦争の勝利を信じさせられ、天皇に身をささげる決意をしていた紅顔を思い出す。「片陰や」の片に、志をえずに出家した藤房の心情に同情している形跡があるが、作ったときには、それに気づいていなかった。 | |
|
こういった背景は絶対に必要というものではないが、この句の場合、戦時下であるということが、作者の藤房に対する思いの陰影を深くし味わいを豊かにしているように思う。 |
|
* |
|
人征きしあとの畳に坐りつる すずのみぐさ女 |
|
『わたしの名句ノート』(宇多喜代子著 富士見書房)で知った句。昭和13年2月の「京大俳句」に載っていた作品とのこと。「京大俳句」は昭和8年、京都帝国大学の学内誌として創刊されたが、のち学外に開放、無季俳句を強力に推進した。この句にも季語はない。 |
|
〈畳に坐っている〉のは、出征した人の妻か恋人であろう。私は、一対一の別れの場面より、身近な人たちが集まって出征する人の壮行会でも行なった、その後の情景ではないかと考えるのだが、如何であろうか。他の人たちと一緒に外に出ず、ひとり畳の部屋に残っった女性が居るのである。あるいは作者自身、当の女性だったのかもしれない。椅子などではなく畳に坐っているということが肝要だ。そうしてはじめて残された女性の空虚な心情、やりきれない寂しさが効果的に表現される。この句の〈畳に坐りつる〉の部分は動かない。(註3) |
|
こうして夫や恋人を戦場に送ったあと、どれほど多くの妻が戦争未亡人となり、また幾人もの若い女性がそのあと結婚することもなく独りで生きていく人生を選んだことだろう。 |
|
冒頭のような作品に接すると、私はかつて母から聞いた父の出征にまつわる話を思い出す。父は南方の戦場に送られる直前に戦争が終わり、無事生きて我が家に戻ることができたのだが、母はこの思い出話の最後にはいつもこう言う。「あの時お父さんが南方に行っていたら確実に戦死していただろう。そしたら私は間違いなくこの家を追い出されていたし、お前たち姉妹の運命だってどうなっていたかわからない」(「水燿通信」48号「戦争の終わりのころの話」)と。 |
|
このような話をすると、「女はいつも戦争の犠牲者だ」「女たちは夫を息子を戦争で死なすまいとして、いつも戦争に反対してきた、女は常に平和主義者であった」という声が聞こえてきそうな気がする。そのような考えに疑問を投げかけたのが若桑みどり著『戦争がつくる女性像』(筑摩書房)という本である。多くの人に、特に女性に読んでもらいたいと思う。(「水燿通信」123号で書評を試みている) |
|
* |
|
ねて見るは逃亡ありし天の川 |
鈴木六林男(むりお)(『荒天』 昭和24年刊) |
|
鈴木六林男は中国大陸と南方での戦闘に参加しており、彼の第1句集『荒天』には、それらの戦場で作られた戦場俳句が数多く収録されている。これもそのひとつ。 |
|
作者はこの句について「自作ノート」(註4)で次のように述べている。 |
|
逃亡者はうまく逃げたであろうか。失敗して捕ったのではないか。さきほどの銃声は何であったのか。逃亡者が逃亡を決意し、それを実行するまでの長い時間のたたかい。彼の背後にある国家とそこにいる肉親たち。 |
|
残った戦友たちは逃亡兵の身の上を按じながら、重い苦しい時間のなかで、頭上の天の川を見ていた。銀河は澄みきった夜気の中で美しかった。この頃、日本兵の逃亡はつづいた。昭和十五年、湖北省での作。 | |
|
『荒天』に収録された戦場俳句には前掲句のほかにも、次のようなものがある(引用した2句目には「自作ノート」を掲げた)。 |
|
追撃兵向日葵の影を越えたおれ |
|
負傷者のしづかなる眼に夏の河 |
| その戦闘は、まだ完全に終っていなかった。戦傷者の眼には、わが事おわれりの按らぎと、負傷したことについての戦友に対する羞らいがあった。太陽は照りつづけ、大陸も奥地の名もない河は輝いて流れていた。負傷兵の生命は、このあとそう長くはなかった。昭和十五年の作。 |
|
かなしければ壕は深く深く掘る |
|
夕焼へ墓標たてもう汗も出ない |
|
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 | |
|
「人間の在り様を最も鮮烈にする極限情況(状況)である」(註5)戦場のさまを描いたものとして、これらの句は貴重なものであろう。だが文章がない場合、句の作られた背景がよく理解できず、作者がこれらの句に籠めたかったものも十分に伝わらない例が、少なくないように思われる。戦場俳句の限界だろうか。 |
|
そんななかで〈遺品あり岩波文庫「阿部一族」〉は、作品それ自体だけで味わうことのできる作品なのではないかと思う(この句の自作ノートはない)。「阿部一族」は森?外の作品。主君の死に際して殉死をしようとして容れられず、武士道を貫いて一族滅亡の道を突き進んでゆく阿部一族の悲劇を描いたもの。戦死した兵は、おそらく国家のやり方に全面的に共感していたわけではなく、それどころか懐疑的な思いをすら抱いていたのだろう。だからこそ、戦場でも文庫本の「阿部一族」を身から離さず持っていたのだ。そんな心情のままで、国に殉じて死んでいったのである。阿部一族と死んだ友を重ね合わせつつ、戦死した友を痛恨の思いでしのんでいる。 |
|
ところでこれらの戦場作品は厳しい検閲をどのようにくぐって書き残されたか。六林男は書いている。 |
|
対米宣戦、つまり昭和十六年十二月以降は検問はより激しくなった。特に転出するときのそれは、記録やメモはことごとく没収された。……これに対抗する唯一の方法は、自分の頭の中にかくすことであった。検閲の始まる直前まで、私は自分の作品を繰りかえして読み、暗記につとめた。俳句の短さがありがたかった。乗船すると、すぐノートに書いた。私の戦場俳句は、これを繰りかえして茲に残っている。 | |
|
死と隣り合わせの厳しい状況下にある戦場で、必死の思いでこのような行為を繰り返し、作品を残そうとした人がいたことは、記憶されていいことだと思う。 |
|
(註1) | 「自作ノート」。『現代俳句案内』(飯田龍太、大岡信、高柳重信、吉岡実編 昭和60年 立風書房刊)所収。なお、初出は同4人の編集による『現代俳句全集』全6巻(昭和52年9月〜53年3月 立風書房刊)で、同全集のために書き下ろされたもの。 |
(註2) | 同上。 |
(註3) | 畳に縁のない生活が増えてきている現在、このような味わいはよくわからないという人も出てきているのではないだろうか。時代や生活環境の変化によって、たとえば〈鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男〉なども、〈人征きし〉の句と同様の運命をたどっていくような気がする。 |
(註4) | 註1に同じ。 |
(註5) | 註1に同じ。 | |
|
* | この号は、本年7月16日、ストライプハウスギャラリー(東京都港区六本木5−10−33−3F)で行なわれた「水燿通信の夕べ」の話の一部をまとめたものです。 | |
(2005年8月15日発行) |
|
|
※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |