水燿通信とは
目次

257号

「馬場あき子の鬼」再見

 短歌関係の本を読んでいたら、馬場あき子の歌が目に入った。歌集『飛花抄』に収録された作品であることに気づき、懐かしさが募った。ひさしぶりに「馬場あき子の鬼」に接してみたくなり、『鬼の研究』と『飛花抄』を繙いてみた。
*
 馬場あき子著『鬼の研究』が出たのは1971年、公害問題の意識の高まりの中で環境庁(当時)が発足、成田空港強制執行で反対運動が激化、沖縄返還協定調印などがあった年である。もっとも、著者本人にとってはそれ以前の年月、特に1960年の安保闘争の挫折を引き摺った60年代がこの本を書く動機を形成した期間としてより重要であっただろう。
 『鬼の研究』の中で馬場は、膨大な数にのぼる日本の古典、研究書などにあたって〈鬼〉というものがどのような形で登場しているかを丹念に調べ、様々な鬼を紹介している。そして考察をすすめる中で馬場は、平安朝的鬼の出現は摂関政治と軌を一にして始まり、その興隆繁栄とともに形象化を遂げていったことを指摘、「鬼とは王朝繁栄の暗黒部に生きた人びとであり、反体制的破滅者ともいうべき人びとであった」という独自の視点をうちだした。さらに著者は、古典に対する深い教養と、長年にわたる仕舞、謡の修練から得られた豊富な経験を駆使して、能の鬼、特に女の鬼について考察し、「中世の鬼とは、あまりにも人間的であるが故にかえって人間としての生からはみ出さざるをえなかったものである」という視点を導き出した。それまでは被害者の立場から加害者としての鬼を見るのが一般的であり、このような鬼の側に立ってその心情を探るという姿勢で鬼を論じたものは皆無だったため、馬場のこの視点は大変新鮮なものに感じられ、当時大きな注目を浴びた。
 そのころ私は、大学院に進んで能楽の研究をしたいという願望をほぼ断念せざるを得ない状況にあったが、さりとてきっぱりと諦めきることも出来ずまた新たな道を見つけることもならず、うつうつとした日々を送っていた。馬場あき子のこの本は、そんな当時の私の心に、まるで乾いた海綿が水を吸い込むように深く浸みこんだ。自分の中にも鬼心が在ることを感じ、何度も繰り返し読むうちに、自らの鬼心の赴くままにもっと自由に自在に生きていこうと思うようになった。
 さて馬場あき子は翌年、『鬼の研究』の著者としての面目躍如たる、多くの鬼の歌を収めた歌集『飛花抄』を上梓する。いくつか引用してみよう。
目に見えぬ鬼とはいかに苦しみて尾根より行きし人のこころぞ
鬼面(おにおもて)脱ぎたる額(ぬか)にるりいろの夜明けきていつ風の音する
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり
見上げたる森の高さに月ありて悔しきこころ鬼も泣きしや
身をもめどとどかぬ願いあるなればしみじみと桜咲き揃いゆけ
執ふかきことを不徳といわれいつ季(とき)うつり空も土も花咲く
白れんげもえたつ昼をひとり鬼日向の芝にうしろむきおり
ほのかにも鬼は居るなりさくら花咲きゆく日日の花の麗(もゆら)に
踏まれいる鬼あり青葉深かりき吐熱のごとき疼きなりけり
 これらの歌に、生きがたい世の中を生き耐えている鬼が他にも居ることを感じ、どんなに慰められたことか。ここに詠まれている鬼たちの、哀切に満ちてなんと美しく感じられたことか。
 そしてその時から三十数年の月日が流れた。
夕照りにつたなきものら飛ばんとす翅も穂絮(ほわた)もわが修羅に似て
衰えし魂ひとつさすらわん夕日浄土のふるさとの山
 今、私はこんな歌にも惹かれている。去年、母が亡くなり、故郷で私を待っていてくれる人は誰も居なくなった。社会的に高齢者と言われる年齢になり、病いに苦しむ日々でもある。そんな私には〈夕日浄土のふるさとの山〉は切なく美しく響く。
 馬場あき子の鬼は、時代とともにまた馬場の年齢とともに、変貌してきている。それは当然のことかもしれない。だがそれでは、70年代の『鬼の研究』の〈鬼〉は今、時代遅れになってしまったのだろうか。
 『鬼の研究』序章の末尾で馬場あき子は、鬼の本来的エネルギーは圧殺寸前の状態であり、反逆の魂の危機を感じると語ったあと、「〈日常〉という、この実りすぎた飽和様式のなかで、眠りこけようとするものを醒すべく、ふしぎに〈鬼〉は訴えやまない」と結んでいる。
 この言葉が書かれてから、世紀を超えて40年近く経った。今、鬼の視点からはこの世相はどのように見えているのだろうか。
 日本は今、政治の貧困、企業の倫理の衰退など様々な問題を抱えている。テレビなどで報じられるニュースを見ていると、その陰湿さ、人間性の欠落などに気持ちが暗くなる。だが報道の仕方はさらに問題だ。表層的で肝腎なことには何も触れず、また世論を巧みに誘導しているマスメディアの在り方があからさまに見えてきて、怒りを覚える。しかし悲憤慷慨しているだけでは駄目だ。こんな時代だからこそ、物事の本質をしっかり見据える目を持たなければいけないと感じる。だから私は、インターネットのブログや書籍などの活字を通して、マスメディアの報道と異なる情報を得、そして何よりも自分で考え、報道の裏に隠された事実は何なのかを知ろうと心掛けている。「庶民をあまりなめるなよ、今に鬼にやられるぞ」などとひそかにつぶやきながら……。
跼(くぐま)りている鬼・黒衣(くろこ)・かまいたち見えぬ憤りのふいにして起(た)つ
(引用歌はすべて『飛花抄』に収録されています)
『鬼の研究』については「水燿通信」71号で触れています。また92号では、引用第4首目の〈見上げたる森の高さに〉の歌を取り上げています。
(2009年3月31日発行)

※無断転載・複製・引用お断りします。
発行人 根本啓子