水燿通信とは
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92号

見上げたる森の高さに月ありて
悔しきこころ鬼も泣きしや

馬場あき子(『飛花抄』1972年刊)

 今から30年前の1964(昭和39)年は、戦後日本のいわばターニング・ポイントとなった年である。この年の10月1日に東海道新幹線が開通、その直後の10月10日には東京オリンピックが開幕したが、このころから日本は高度成長期に入り急激に変貌し豊かになっていった。68年にはGNP世界第2位を達成、70年に大阪で開催された世界万国博は大盛況のうちに閉幕し、経済大国日本の地位は揺るぎないものとなった感があった。
 その一方で、高度成長によるインフレや人材不足のもとで行われた教育改革は、大学においては管理強化という形であらわれ、その結果、60年代後半には全国的な広がりを持って大学闘争がまき起こった。68年に起こった東大闘争はその象徴的な出来事で、このあたりから、運動は単なる要求闘争から、大学民主化、大学解体闘争へと飛躍していった。69年には泥沼化したベトナム戦争の反戦運動も加わり、さらに70年の安保闘争へと続いていった。しかし、このあたりから学生運動は大学での運動拠点を失い、徐々に沈滞化していったことも見逃せない。このような社会状況の中で日米安保闘争は、激しい反対運動が巻き起こった60年とは対照的に、70年には国民の間にさしたる関心を呼ぶこともないまま、6月に自動延長となった。同年11月、作家三島由紀夫が自衛隊の奮起を訴えた後自決したが、その後も日本は様々なひずみを抱えつつも相変わらず豊かで平和なまま、年が明けて1971年になった。
 そのころ、私は銀座にある出版社に勤めていた。仕事の内容それ自体は興味深く不満はなかったが、大学院に進んで能楽の勉強をしたいという思いを、卒業して数年経ったその頃にもまだ恋々として持ち続けていた私の心はどこか満たされず、仕事のあと、能楽堂に出かけたり、若い研究者の集りに参加したりして、自らの心を慰めていた。
 馬場あき子著『鬼の研究』に出会ったのは、そんな時期だった。この本の中で馬場は鬼の実体を、王朝繁栄の暗黒部に生きた反体制的破滅者や、あまりに人間的な故にかえって人間としての規矩をはみださざるを得なかった人の中に見た。
 この視点は、当時の私にとってなんと新鮮で共感に満ちたものであったことか。文のひとつひとつが、まるで乾いた海綿が水を吸うように私の心の中に浸み込んだ。同著で語られている鬼の中に、私は自分自身を見るような思いを何度となく味わい、自分の心の核にあるものが他ならぬ〈鬼心〉なのではないかと感じるようになった。そして繰り返し読むうちに、私の中で徐々に、徐々に、〈これからは自らの鬼心が欲することをやって気ままにいきていこう〉という思いが育っていった。能楽に執着する気持ちが少しずつ薄らいでいったのは、その頃からだったろうか。私の生き方は、ずいぶん自在なものになった。
 だが時折、能楽の勉強が楽しくてならなかった若い頃を思い、能楽研究者になるという見果てぬ夢を想うことがある。捨ててきたもの、失ったものを思い、心の中で哭くことがある。そんな時、冒頭の歌はしみじみと心に響いてくる。生き難い世の中を生き耐えながら悔しさに泣いている鬼がどこかにも居ると思うことは、どんなに大きな慰めであったことか。月の光は、狂気をはらんだ鬼のかなしみ、くやしさを青白く照らして、まことに効果的だ。
 馬場あき子は、『鬼の研究』上梓の翌年、歌集『飛花抄』を出した。その中には『鬼の研究』の著者としての面目躍如たるすぐれた鬼の歌が多数収録されている。冒頭の歌もそのひとつであるが、同歌集の中から鬼を詠んだ作品を中心にいくつか紹介しておこう。
目に見えぬ鬼とはいかに苦しみて尾根より行きし人のこころぞ
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり
夕照りにつたなきものら飛ばんとす翅も穂絮(ほわた)もわが修羅に似て
衰えし魂ひとつさすらわん夕日浄土のふるさとの山
身をもめどとどかぬ願いあるなればしみじみと桜咲き揃いゆけ
ここすぎてゆくべくもなき思いなど書きはててふいに青葉深けれ
(1994年11月20日発行)

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発行人 根本啓子