「同情することはいけないことなのかな?」
見渡す限り、何も存在しない闇の中、会いたくて会いたくて仕方のなかった人は困ったような微笑みを浮かべていた。本来同情とは、相手の立場や境遇に自分もなったつもりで共に悲しむことだ。
───共に悲しむ。
それは相手をいたわる優しい気持ちから来るものだと思っていた。だがそれがかえってその人を傷つける事があるなんて考えもしなかった。
「あたしのした事は結局、美夜子さんを追い詰めただけ。前にも言われたっけ。同情しちゃいけないって」
麻衣は隣に座る青年の顔を覗き込む。麻衣の良く知る上司とそっくりな綺麗な顔。彼と今傍らに居る彼との大きな相違はその顔に浮かぶ微笑みだろう。
ナルは笑わない。
笑う素振りは見せるけど、大抵は目が、笑っていない。何も知らない女の子たちはそんな微笑みにさえキャーキャー悲鳴を上げるけど、麻衣は嫌だ。そんな見せかけの微笑みならいっそ憎まれた方がました。ナルは怒ったときが一番分かりやすい。感情があるのだとはっきりわかるから。
戚多に機嫌の良いところが見られないナルだが、嫌なことがあるとすぐに反応する。ぼーさんなどはナルの反応が楽しみでオフィスに遊びに来ることも間々あるくらいだ。みんな、なんとかナルからリアクションがかえって来ないものかと色々と、本当に色々と悪戯をけしかける。その後、こってりナルにしてやられると分かっていても懲りずに再度チャレンジする。
知り合った頃なら考えられない光景。
結局、皆ナルが好きで、ナルも皆のことを、皆がそこに居ることを許していることが分かってしまったから、尚更引き出したいのだ。ほんの少しでも、自分という存在を気に入ってくれているのなら好意を見せて欲しいと。
好意の証しである彼の微笑みが見たい。
何の打算も無い、心からの笑顔。
願うことは罪だろうか?
「麻衣の優しさはきっと被女にも伝わっていると思うよ。だけど、悲しんで居るだけでは何も解決しない」
優しく微笑む彼の手が肩に回される。そのまま引き寄せられて麻衣の頭は自然、ジーンの肩にもたれるような形になる。暖かいと感じるこの気持ちは恋だろうか。ジーンが笑うと嬉しい。優しい気持ちになれるから。だけど何処かでチクリと針で刺したような痛みが走った。
「駄目だよねぇ。ジーンが此処に居るって事はまだ迷っているって事なのに、嬉しいの。また会えて嬉しいの。
ねぇ笑って? あたしジーンが笑うとこ見るの大好き」
「ありがとう。でもね、そんなこと誰彼構わず口にしちゃ駄目だよ?」
ジーンはやっぱり困ったように笑う。
「本当だよ。あたし───ジーンが好き」
麻衣が顔を上げてジーンを真正面から見据えると、間近にあったジーンの顔からは何故だか笑みが消えていた。
「麻衣、良く考えて。君は今、誰のことを考えていたの?
麻衣が本当に額笑んで欲しかったのは誰?」
感情を押し殺したその表情はナルにそっくりで、麻衣は混乱する。此処に居るのはジーンなのに、ナルに睨まれているような、責められているような、そんな不思議な気持ちになる。
「ジーン?」
「麻衣は自分にウソをついてる。自分が一番傷つかない方向に持って行こうとしている。だから真実が見えない」
「どうしてそんな意地悪云うの? あたし、本当にジーンに会いたかったの。笑ってる顔が好きなの。
ジーンが好きなの」
だがやはりジーンは首を横に振る。麻衣はやっとの思いで告白したのに、真っ向から否定されて涙が出てきた。
泣き出した麻衣を抱き寄せてジーンは麻衣の気持ちが落ち着くのを待つ。麻衣が腕の中で身じろぎした。本当はその腕を放したくは無かったのだけど、ジーンは己の気持ちを斬ち切って麻衣を引きはがし、今度はジーンが麻衣を真正面から見据える。
「本当に僕が好き?」
麻衣は赤い目をして小さくコクンと頷く。それを見てジーンは麻衣の頤に手を添えた。ゆっくり麻衣の顔に自分の顔を近づけて行く。
驚いた麻衣の頬に朱が差すが、ジーンは構わずにそのまま麻衣の唇に己の唇を重ねようとした。
麻衣の瞳が見開かれて、そのまま彼の口づけを受けると思えた瞬間、麻衣の手は麻衣の予想を裏切ってジーンを突き放していた。
暫く麻衣は自分が何をしたのか理解出来ずに、突き飛ばされて後ろに倒れ込んたジーンを見ていた。彼を突き飛ばしたのが自分だと理解したときにはもう、ジーンは一人で起き上がっている。
「ジーンっ! ごめんっ、あたし……こんなつもりじゃ!」
「いいんだ。こうなることは分かっててやったんだから自業自得って奴」
いったんおさまったかに見えた麻衣の目に、再び涙が溢れてくる。
「ごめんっ。ごめんなさいっ」
麻衣は泣きながら、美夜子の言葉を思い出していた。
───何から逃げてるの?
怖かったのだ。ナルに拒否されるのが。
ジーンは優しいから、拒否なんてしないと勝手に思っていた。自分が好きだと思った人に、自分が思う程思われていないと思い知らされるのが怖かった。初めて夢の中で微笑むジーンに会ったとき、夢の中で願望でも見たのかと思っていた。でもそれがナルと別人だと分かったときジーンの笑顔に恋をしたのたと結論つけていたのだが、現実は少し、違っていたらしい。
ジーンの笑顔を見たことで、ナルの笑顔を見てみたいと願った気持ちは本当だったのだ。そう思った瞬間、魔法にかかったのかもしれない。
彼を知りたいと思った。
彼が笑う所を見たいと思った。
彼と一緒に居たいと願った。
今まで気づいてなかったなんて、今更気付くなんて思いもしなかった。
「───が、好き。ナルが好きなの。だのに、勝手にジーンにナルの影を見て好きになったと思い込んて、ごめんね。酷いよね、こんな……あたし、なんて酷い子なんだろう」
醜いと思った。
自分の未熟な感情でジーンにもナルにも告白する資格など無かったのだと思うと、悔しくて涙が溢れてくる。こんないい加戚な気持ちのままではどちらに対しても失礼なだけだ。
「麻衣、泣かないで。
ゆっくり、自分を見つめ直してごらん。答えは君の内にある。僕が言うのもなんだけど、ナルはあれで結構麻衣のこと、気にしてるんだよ?
あのナルが損得無しで人を雇うなんて誰も思いつきもしなかった。そう云う意味では麻衣は特別なんだ。自信持って良いよ」
「駄目だよ、ナルはあたしの事、そんなふうになんか思って無い。ちょっと手間のかかる大きな猫を拾った位にしか思ってないの」
「ナルが感情を表に出すの苦手なの、麻衣は分かっているよね。ナルは本当に気に入ったものにしか興味は示さない。
相手が人間の場合もそう。
義務とか義理以外でナルに話しかけて返事が来るのは、充分気に入られている証拠だよ。ちょっと分かりにくいかも知れないけど」
麻衣がジーンを見上げる。
涙に濡れても曇らない希有な瞳。その瞳に写る自分の姿。だけどそれはジーンであってジーンでない別人の姿。ナルの姿だ。
───麻衣、元来幽霊は嘘つきなんだ。それに何時君は気付くだろう?
君の目の前で生きているように振る舞う僕の存在そのものが嘘で塗り固められたものであるように、この僕の今の姿も偽りなのだ。死者は成長しない。だのに一見ナルの成長に合わせて変わるこの姿が偽りだと君は何時気付くだろう。
同情してしまったのは麻衣だけでは無かった。
ジーン自身も、美夜子に同情していたのだろう。それでなければもっと早くに麻衣とコンタクトできた筈だから。
───このままの関係がいつまでも続けば良い。
いつも願っていた。
「ごめんね、ジーン。でもジーンを好きだった気持ちは本当だよ。今でもやっぱり好きだと思ってる。
でもナルも好きなの。
どうしてだろう。二人とも大好きよ?
なのに何かが違うの。言葉にすればおんなじ『好き』って言葉なのに、何かが決定的に違うの。
だのにそれを言葉に出来ない」
「焦らなくても良いよ。なんせナルはあの通りの性格だから、考える時間はたっぷりあるさ」
ジーンが態と戯けてそう云うと、麻衣はやっとクスリと笑った。
「ありがとう。でもね、本当にナルってば、あたしのこと手間のかかる奴だ位にしか思ってないみたいだよ。今朝だって―――
……ジーン?」
麻衣が今朝の出来事をジーンに言い付けてやろうとした矢先、彼は肩を震わせて笑い出したのだ。
「ご、ごめん。思い出したら笑いが……うん、知ってる。見てたから。ラインが繋がらなかったんで助言出来なかったんだけど、あれねぇ〜〜〜
あはははは……」
まるで発作でも起こしたように大爆笑である。一体何がジーンに起きたのか訳の分からぬ麻衣はただ当惑するばかり。
「ナルがナイトは嫌だって言った話だよね?
うん。実にナルらしい答えだと思ったけど、それにしてもナルのあんな可愛い面が見られるなんて思いもしなかったから……」
腹が捩れる程笑うとはこの事だろう。ジーンの目には涙さえ浮かんでいる。しかし事情の飲み込めない麻衣には不機嫌なことこの上ない。あの発言のどこが可愛いのか?
確かにナルらしいとは思うが、笑うという事はジーンも少なからずそう思っていると云う事か?
「なにもそこまで笑うことないでしょ?
いくら心の広い麻衣ちゃんでも、怒る時には怒るんだからね」
ぷっくりと頬を膨らませて拗ねてみせれば、ジーンは慌てて宥めにかかる。
「そ〜か〜、麻衣には伝わって無いみたいだね。あれはあれで、結構勇気のいる発言だったと思うんだけどな。
ナルにしてははっきりした物の言いようだったし。でも肝心の人物に伝わって無いんじゃ失敗だねぇ〜」
言動から察するに、どうもジーンにはナルの言外の意味も全て伝わっているらしい。あの言葉の裏に別の意味も含まれていたのだろうか。麻衣にはとんと想像がつかない。
「あれはね、麻衣の立場以前に、自分の例えが気に入らなかったんだよ。相変わらずで、安心すると云うか情けないと云うか。
う〜ん。やっぱりナルはナルだったか」
うんうんと一人納得顔のジーン。
それでいて、麻衣には説明する気が無いらしい。
もしかするとこの二人、間違いなく似ているかもしれないと麻衣は思った。事情の予想がついておきながら誰にも説明はしない。だのにあーした方が良いとかこーしろとか言うのだ。
ナルの場合、事態の確認が取れるまで、もしくは必要ないと判断した時等にその手を使う。対してジーンの場合、楽しんでいるようにしか見えないのは何故だろう?
「ひどい。一人で納得しないでよ」
「ん……でもこう云う事は僕の口から言っても意味ないし」
ポンと麻衣の頭に手の平を乗せて笑う。
麻衣の大好きな笑顔がそこにある。やっぱりきれいな笑顔だと思い、同時に悲しさを覚える。
───だけど彼じゃ無い。
ジーンの笑顔を見るのが好きだった。
───が笑ってるみたいで。
そう考えたらやっぱり少し切なくて、不覚にも涙が浮かんできた。それにジーンもすくに気が付いて優しく、指で涙の後を辿り拭ってくれる。そんな時でさえ、この手が彼だったら良いのにと思ってしまう自分が嫌だ。
罪悪感から俯いた麻衣をどう思ったのか、ジーンは包み込むように優しく抱き締め、耳元に囁くように言葉を紡く。
「麻衣、ナルの事、よろしくね。扱いにくいだろうけど、慣れればなんて事ないから」
ジーンの腕の中で麻衣がくすりと笑いをこぼす。
小さく、本当に小さく麻衣が頷いたのを見て、抱き締めていた腕を緩める。お互いに顔を見合わせて笑い合う。精一杯笑って見せようとする麻衣に安心したジーンが帰る道を示そっとした矢先、麻衣は何処か遠くを探るように目を細めた。
「呼んでる」
そう呟いた後は止める暇も無かった。
「行かなくちゃ」
何処へと聞くことも出来なかった。麻衣はジーンの視界からゆっくりと薄れていったのだ。闇の中、一人残されたジーンは己の迂闊さに臍を噛んだ。彼らはまだ、完全に力を失った訳ではない。そんな中、麻衣はまだ自分の感情を自制出来ずにいた訳で、未だ、同調は切れていなかったらしい。
麻衣を呼んたのはどっちだろう?
ジーンは麻衣の気配を探る。
三人が共鳴を起こしている時ほどの力の強大さは失われているものの、それが逆に今の彼らを捕らえにくくしている。
場を形成している一人を失ったことで彼らがどう出るかまではジーンにも分からない。
───もし、彼らが麻衣をその失われた一角の替わりにしようとしたら?
いや、それよりも可能性として高いのは……
麻衣は自分を知らなさ過ぎる。
だから美夜子に同調した。彼女に力を与えて居たのは他ならない麻衣自身だ。麻衣の迷う気持ちが彼女の迷う気持ちと同調して彼女を手伝う事になってしまった。もちろん麻衣に自覚はない。
だがしかし、美夜子はどうだろう?
気付いていたはずだ。彼女とナルの間に立っていた自分の存在に気付いていたくらいだから。
この状況で彼女は何を願うだろうか?
───危険。
麻衣はまだ自分の力をコントロール出来ない。そんな状況で呼ばれたのだとしたら、どんな無茶をしてくれることか。
───邪魔をしないで。
誰かが語りかけてくる。ジーンは既にそれが誰の声なのか知っている。その言葉はジーンの心に染み込んで誘いをかける。
あの子が欲しいのならば、このまま……
「出来ない相談だな。僕を見くびらないでくれ。ナルも麻衣も渡さない。ナルに悪霊呼ばわりされて除霊されたんじゃ洒落にもならないからね。遠慮しとくよ」
麻衣を手に入れる、イコール麻衣を悪霊にすることだ。そんなこと出来る訳がない。
だから呼ぶのだ。出来るだけの力でもって。
「ナル」
何時か来る別れの日を迎える為に。
「ナル───」
誰の為でもない、自分の為に。
「ナルっ。応えてナル!! 麻衣が……捕まった?!
◆◇◆
泣きながら眠る麻衣の口が何事か呟いている。どんな夢を見てるのかと真砂子はそっと口元に耳を寄せてみた。
「ジーン」
聞き取れたのはその単語だけ。
誰も見ていないのを良いことに、真砂子はペシリと麻衣の額を叩いてやる。起きる気配はない。ナルに心配される立場を確保しながらジーンの夢とは良い身分だ。
───これは多分八つ当たり。
そう思いながら真砂子はそれでも麻衣の肩からずれた布団をかけ直す。美夜子の死亡が明かにされた瞬間、見えたのは絶望に身を震わせる彼女の姿だった。思い出すだけで心が痛い。胸が潰れそうなほど、苦しくなる。
真砂子でさえこれ程の痛みを覚えているのなら、麻衣にはどれ程の痛みだったのだろうか。霊媒に同情は禁物だ。除霊する事にためらえば怪我をするのは自分だ。だが、美夜子の願いはあまりに普通の少女が持つようなもので、ささやかすぎて無害なもののように思われた。
それが隠れみのになった。
結果、御堂辰巳の霊魂を隠し、三矢紫苑の存在を隠した。ここにいるメンバーで唯一、(麻衣は不安定要素が多いので除外する)霊の存在を視ることが出来るのは真砂子だけなのに。目を閉じて、心の奥に密に留めて、少しの間だけと自分に言い聞かせて、事態の隠匿を図ったのだ。そしてそれは麻衣も同じだが、麻衣は良くも悪くも相手を信用し過ぎる。一度懐に入れてしまうと、とことんまで付き合ってしまう。麻衣を騙そうとしたところで、余程の気構えが無ければ最後に折れるのは騙そうとした方の人間だろう。麻衣の真っすぐな瞳に晒されて耐えられるのはウソの無い人間だけだ。あのナルでさえ正体を隠していた時、真実に近づいた麻衣の目を逸らす為には苦労していたようだったし。滝川達が自分の噂話しをしている時など、聞いているのが恥ずかしいのか、よく場を外していたりした。
運命のあの日、ナルの真実が白日の下に晒されたあの日、ナルとリンは何処かほっとしたように見えた。彼らにとっても隠し続けることは苦痛だったのだろう。どんな形であれ、騙し続けることに変わりは無かったのだから。たまたま真砂子はナルの立場を知る機会があっただけだ。ナルはそれを嫌っていたが、わずかな間だけ真砂子は共犯者だった。
能力的にも容姿的にも引けは取らないと思っていた麻衣に、ただ一つだけ優位にあったもの。密かな優越感はあのときに消えてしまった。
やっと同じラインに並んだと思ったら、今度は夢でジーンに会っていたから、自分が好きなのはジーンだったなどと言い出す始末。鈍感もここまで来れば国宝級だ。真砂子もジーンには助けられたことがあるが、そのときに思ったことは『なんて残酷な夢』だった。ナルの姿をした別のものだと思った。
ナルであるはずが無いと。
真砂子でさえ分かるものを麻衣が気付かないだろうか?
だのに、この鈍感娘ときたら、認めようとしないどころか自分から迷路に突っ込んで行ってるようなものだ。ほんのちょっと落ち着いて考えてみれば分かりそうなものを、後先考えずに突っ走るものだから余計に分からなくなっていることに気付きもしない。考えてみたら、よく人間運に恵まれたものだ。
天涯孤独なんて身の上なのに、捻くれもせず真っすぐ育ったのは彼女を取り巻く人々の賜物だろう。
現に今時珍しいお節介の集団がここにいる。
世の中はなんて不公平に出来ているのかしらと溜め息も零れようというもの。あれだけ多くの人々に心配させておきながら、贅沢な。
それとも他人に気を使う種の人間というのは一様に自分のことには疎くなるのだろうか。泣きながら眠り続ける麻衣は今、どんな夢を見て何を思うのだろう。
ごめんね、ジーン……
のぞき込んだ麻衣の口から微かにそう聞こえた気がして真砂子は麻衣の寝言に再び耳をすませた。
───が、好き。
ナルが―――好き。
麻衣の口は確かにそう呟いた。寝言でも何でも良かった。麻衣が自分から認めた事実が嬉しくて、涙があふれてくる。本来ならライバルになるはずの告白だが、真砂子は初めて麻衣と対等の位置に立てたような気がした。
なぜだか麻衣とは同じ視線を持ちたいとずっと思っていた。
───とうとう白状なさいましたわね。
知らず、ふわりと笑みが浮かんだ。誰も見ている人が居ないのが残念なぐらい、綺麗な笑顔だった。
麻衣の事だから、目が覚めれば忘れてしまうかもしれない。だけど一度自覚したのなら、その気持ちはいつか目を覚まし、麻衣の口から真砂子に報告されるのはそう遠い未来ではないだろう。
それを待つのは苦痛ではない。
麻衣が負けを認めてライバル宣言をしたら、きっと笑って受けて立つ。既に自分の負けは確定済みだが、ナルの事だからあの二人が自他共に認めるカップルになるのはいつの日やら。
それまで精々楽しませてもらう。
ナルが好き。それは真砂子も同じだが、それよりなにより、麻衣とナルが幸せになって欲しいと願う気持らの方が強いのだ。自分より他人の幸せを願うなんて、随分『毒された』ものだと思う。でも悪い気はしない。
真砂子ははっきり言って自分が嫌いだった。だけど今の自分は嫌いじゃ無い。
「早く起きて下さいな。話したいことが沢山有りますのよ?」
他愛のないお喋り。今なら飾らないありのままの自分の言葉で話せそうな気がする。あなたと、本音の言い合いをしてみたい。
言葉は時に不便で伝えたいことのほんの一部でさえ伝わらないことがあるけれど、だからこそ、敢えて言葉にして伝えておきたいこともある。
───言葉にしなければ、伝わらない事も有りますのよ、ナル?
頭脳は明晰でも、人付き合いに関しては無頓着な人に心の中で語りかけた。心理学が専門のはずなのにどうして心の機微が分からないのか、彼は麻衣を怒らせるようなことばかりしている。
たった一言で良いのだ。
麻衣は多分、それで安心する。
「この状況で麻衣を他の男性に取られでもしたら、今度こそ本当に見捨てますわよ」
───美夜子さん。私はもう、あなたの声に惑わされは致しません。わたくしにも、譲れないものが有ることに気が付きましたから。
あなたの気持ちは痛いほど分かりますけれど、そこに留まって居た所で、過去も未来も何も変わらないのだわ。あなたがそれに気づいて下さればよろしいのだけれど……
今は祈ることしか出来ない。真砂子は眠り続ける麻衣を振り返って当分起きそうにないなと判断し、涙で濡れた顔を洗うためにその場を離れた。
とは言っても、カーテンで仕切られただけという造りの洗面所だから、ほんの数メートルでたどり着く。来客用の豪奢な作りの鏡の向こうには少女が一人、赤い目をしてそれでも笑っていた。
───嫌だわ。こんなところ、ひとに見られたくない。
何故泣いていたのかと問い詰められたら、恥ずかしさのあまり顔から火が出ることだろう。蛇口を捻れば水が勢いよく流れだし、それをすくって目を洗う。冷たい水が腫れた瞼を冷やしてくれて、なんとか目の赤みが目立たない程度まで抑えられる。そしてその冷たさが真砂子に再び緊張感を呼び起こさせた。
まだ、すべてが終わったわけでは無い。
麻衣は今度こそ、ジーンに会えたのだろうか?
鏡を睨むようにしていた真砂子の視界の隅に、麻衣の姿が飛び込んできた。慌てて振り返れば、丁度起きたばかりの麻衣と視線が出会う。
「ようやっと、起きられましたのね」
「真砂子?」
ほんの少し、茫とした様子の麻衣が目を擦りながら笑う。だがそれは満面の笑みではなくて、何処か寂しげな微笑みだった。夢の中で、麻衣がジーンに謝っていた事を考えれば、気付かない振りをしていた方が良いだろうと、真砂子は今まで自分が使っていたタオルを麻衣の顔面めがけて投げ付ける。
「顔でも洗って、目を覚まして下さいまし。それでなくてもあなたは日頃から寝てばっかりいるんですもの。弛んだお顔を引き締めておきなさいな。あちらでナルがお待ちかねですわよ。
麻衣も滝川さん達のお話、聞いておきたいでしょう?」
麻衣はうーと意味不明な呻き声を発し、顔にタオルを張り付かせたまま真砂子と入れ替わりに洗面所へ入る。真砂子が寝乱れたベッドを直し始めると、後ろの方から水音が聞こえてきた。
「ねぇ、真砂子。ナルはさぁ、やっぱり言っちゃうんだろうね」
顔を洗いながらなので、後ろ向きのまま、水音に負けないよう、大きな声を張り上げる。
「克美さんには真実をお話しするのが一番良いと思いますわ。それが美夜子さんにとっても、克美さんにとっても辛いことだとしても、隠し通すことや何も知らされないままで居ることの方が何倍も哀しいのではないかしら」
「そうだよね。かえって美夜子さんや克美にーちゃんに悪いこと、しちゃったね?
美夜子さん、分かってくれるよね?
それでも出来るだけ悲しいままでなんか逝かせたくないよね?」
顔をタオルで拭いつつ、麻衣が戻ってくる。
顔はやはり笑っているが、どこか強がっているようにも見える。
「ナルが信じられませんの?
いつだって、一番最善だと思う方法で解決してきましたでしょ。大丈夫。きっと今回も良い方法がみつかりますわ。
なんと申しましても、世界一優秀な博士様と有能な霊能者がついているんですもの」
にっこりと真砂子が微笑む。
「有能な霊能者……って、自分のことだろ?」
「当然ですわ。他に誰が居ますの?」
処置無しと言いた気に麻衣か肩をすくめてみせれば、真砂子はこれだから素人は困ると言わんばかりに流し目で見下してやる。そのまま暫く睨み合っていた二人だが、長い沈黙にお互い耐え切れず思わず吹き出した。
「いやですわ、あなたと話してますとお笑い芸人になったみたい」
「どっちもツッコミってとこが辛いよね」
「あら、自分はツッコミだと思ってましたの?」
「あたしはボケかい?」
「本当に自分を知らない方でしたのね」
ぶるぶると握った拳を震わせて、怒りを堪える。
ようやっと普段のような会話が成立し始めて、真砂子は少し安心した。
「ところでジーンとは会えましたの?」
心の傷を扶る事になるだろうか? それでも聞かずにはいられない。何故なら彼は多くの場合、大変貴重なキーワードを麻衣に託すから。
「うん、会った」
麻衣は自然にそう口にした。あんまり自然だったので真砂子の方が拍子抜けしてしまう。
「それで、何か仰ってました?」
「怒られちゃった。色々とね。
えっとねぇ辰巳さん。お父さんね、家庭ってものに凄く憧れてたんだって。自分が子供の頃、両親に甘えた記憶も遊んでもらった記憶も無かったらしんだ。でね、克美さんと美夜子さんに出会った時に、『この子は自分の子だ』って本当に感じてそのまま引き取ったらしいね。
もう一人の関係者、紫苑さんは始め養子の件反対だったらしいんだけど、辰巳さんが三人で暮らす様になってから性格が穏やかになったらしくて、結局認めざるをえなかったみたい。だけどそれがこんな事になっちゃった原因なんだけど。
人間って今の生活が幸せであればあるほど、不安になっちゃうんだ? 辰巳さんもそう。もしかしたら子供たちは保護者が必要だからおとなしい振りをしてるだけで、本当は自分がそうだったように親なんて思っても居ないかもしれないなんて考えちゃうんだ。そんなこと、見ていれば分かるのにね。
不安に目が曇っちゃったんだね。
紫苑さんは紫苑さんで、二人の子供と暮らすようになってからの辰巳さんの変貌を知って居るから、子供たちが家を出て行く年になったらどうするんだろうって、こっちはこっちで心配してた訳だ。
そんな時、克美さんは留学しちゃうし、美夜子さんは事故で死んでしまった」
その後は真砂子にも想像が付く。
「辰巳氏は嘸やお嘆きだったのでしょうね。紫苑氏はそれを見ていられなかった。そして辰巳氏に黒魔術の知識のみならず、才能があった」
麻衣が頷く。
「思いがけない形で魂だけがここにつなぎ止められて戸惑ったものの、おとうさんの希望が美夜子さんの願望とそう遠いものでないと気付いてしまったら止められなかった。本来止めなきゃいけない紫苑さんも巻き込んで秘密を抱えてしまったんだ」
「その後の事は私も分かりますわ。
克美さんをつなぎ止めておくために、美夜子さんの事を知られる分けにはいかなかった。何故なら彼は彼女を目に入れても痛くないほど可愛がっていたから」
二人は複雑な気分で互いを見やる。
「どうして巧くいかないかな。ただ『好き』って思うことがこんなに難しいなんて知らなかったよ」
「麻衣、言葉にするとたった二つの音でもその言葉に含まれる意味は無限に有りますわ。それはいくらあなたでもお分かりでしょう?」
「なんか引っ掛かる言い方だけど───まぁいいや、所で美夜子さんいつから克美さんの事、好きだったのかなぁ?」
ほら、二人って兄妹でしょ? いつも一緒に居て何処から変わっていったんだろう?
麻衣が首を傾げて独り言のように呟いた。真砂子の返事を期待しての事ではないらしい。
確かに言われて考える。普通、兄に恋慕の情など抱けるものだろうか? だが真砂子の感じた美夜子の感情はブラザーコンプレックスの域を出ていたように思う。真砂子がナルを思うのにとても良く似ていて……
何処からが美夜子で何処からが自分の気持ちだったのか分からなくなるほど、二人の感情は似ていたと思う。麻衣は胸の奥の痛みが今でも思い起こされてくる。どこがどうとは言えないが、確かに美夜子の気持ちと自分の中の感情の一部が重なって溶け合える程に近い存在だった。始めのうちは分からないながらに、死者である美夜子とジーンを、生者である克美と麻衣自身を重ねているのかと思った。
だけど今は違うと言い切れる。
困った事に、麻衣は自分で自分の気持ちが良く分からないのだけれど、もう一度美夜子に同じ質問をされたらもう少し違う答えを導き出せるだろう。
───あなた、好きな人は居る?
───どうして好きだと思うの?
好き。
これ程甘美で残酷な言葉は他に無いだろう。
たとえ自分が傷つく事が分かっていても好きになることは止められないのだから。
───今度こそちやんと説得、しなきゃ……
いま一番、美夜子に近い位置に居るのは多分、麻衣だ。そう思うからその気持ちは一層強くなる。
「真砂子。ナルはベース?」
「ええ、そうですわ。今から行きますの? ちょっと待って下さいな。私もご一結に…… 麻衣?」
真砂子が身の回りの物───ハンカチとか小物入れとかを持ち出そうと慌てている間に麻衣はさっさとドアノブに手をかけていた。
「ちょっと、行ってくる」
「待って……。今用意しますから、麻衣、麻衣っ」
パタンとドアが閉まって、麻衣の姿が視界から消える。真砂子は急いで必要なものを小物入れに突っ込んで、麻衣の後を追った。急いで部屋を出たのに麻衣の姿は無かった。
───前は置いて行かれたと拗ねていたのは麻衣の方ですのに、私を置いて行くのは仕返しかしら?
どうせベースとこの部屋とは目と鼻の先だ。忘れ物が無いか確認してからのんびりとベースのドアを開いた。
「すみません、おくれて……あら?」
真砂子が中へ入るといつものメンバーが驚いたように一斉にこちらを振り向く。その中に麻衣の姿がない。
「よう真砂子ちゃん。麻衣の様子はどうだった?」
一番最初に声をかけてくるのは滝川で、
「もうよろしいんでっしやろか?」
いつも気遣ってくれるのはジョンだ。
「あの愚か者はどうしました?」
突き放しつつ、核心をついてくるのはナル。
リンは相変わらず無口で、指定席に着いていた。
真砂子は思わず振り返って廊下を見回す。そこには誰も居はしない。そう、いま自分が居た部屋からここまで数メートル。一階と二階は吹き抜け構造だから視界を遮るものなどありはしない。
「麻衣は……先に麻衣が入って来ませんでした?」
ドキドキと鼓動が大きくなって行く。
「いや、来てねぇよ。なに? 麻衣の奴一人でうろついてんのか。しようがねぇな」
滝川が腰を上げて真砂子に並ぶ。多分探しに行く気なのだと悟った真砂子はその腕を掴んで引き止める。
「今まで、ずっと一緒でしたわ。部屋を出るまで」
「って、どうした?」
真砂子の様子が変なのに気付いて怪訝そうに滝川は次の言葉を待った。
「麻衣が部屋を出たのは、あたくしの少し前、すぐに後を追って出たんですもの。何処かへ行く時間なんてあるはずが無いんです」
「しかし、麻衣はここへは来ていません」
ナルの声が静かに告げる。

「何か心当たりかありそうですね?」
コクンと真砂子は頷く。
「ナルにお話しすれば止められると思ったのでしょう。
麻衣はもう一度、美夜子さんに会うつもりなんですわ」
ドンとすぐ近くで鈍い音がして、驚いた真砂子が見た物は壁に拳を叩きつけている滝川の姿だった。
「どうしてうちの娘は後先考えず突っ走っちまうかな。
たまには俺たちの事も、もっと頼ってくれたっていいじゃねぇか」
口では麻衣を責めているようでも、その顔に浮かぶ苦渋の表情は心配するが故にだ。だから誰も何も言わない。
「ならばここにこうして居てもどうしようもない。
取り敢えず手分けして麻衣を探そう」
ナルが判断して二手に別れて屋敷内を探すことにした。ナルが滝川と、真砂子はジョンと組んで。
ベースにリンを残して、いざ探しに行こうとしたところへ克美が駆け込んできた。
「大変です! 三矢のおじさんの姿が見えないんです。こちらには来ていませんよね?!」
全員の表情が凍る。
「僕、あの部屋に居るはずの美夜子の姿が無かったことに気が付いて、おじさんなら知っているかもと思って部屋に行ったんです。そしたらベッドは物抜けの空で、アトリエにも行ってみましたけどやっぱり居なくって……どなたかご存じありませんか?」
「それはいつの話です?」
全員を制してナルが尋ねた。
「たった今です。あ、でも皆さんの部屋以外を見て歩いたからちょっと前、ですよね」
「僕らの部屋以外、ですか?」
「ええ、一応皆さんの私物も置いてある事ですし、勝手に見るのも悪いかと。それで皆さんにも協力していただこうと───どうしたんです?」
奇妙な沈黙にやっと克美は異常を感じ取った。重苦しい沈黙の中、ナルが克美に中へ入るよう指示する。何事かと、促されるまま中へ入っていった克美はそこで初めて麻衣の姿が見えないのに気付いた。
「渋谷さん?」
「大変言いにくいことを伝えねばなりません。ですが、それを前提にしなければ話ができないものですから」
麻衣を深しに行く筈だったメンバーは、当惑しつつもその場に留まっている。克美が言葉どおり屋敷の中を探して歩いたのなら、麻衣が単に姿を隠して居るだけなら、何処かですれ違うなり、見かけてもおかしくは無い。
その疑問を口にしたのは矢張りと言うか、当然と言うべきか、この場の支配者たるナルだった。
「ところで、麻衣を見かけられませんでしたか?」
「麻衣ちゃん? いいえ」
「でしょうね」
聞いておいて「でしょうね」は無いと思いながら今度は克美が質問する。
「麻衣ちゃんも姿が見えないんですか?」
「見えないからお伺いしたんですが。でも、これで決まりだな。麻衣は美夜子さんと一緒に居る」
ますますもって分からないと、克美の眉間に皺が寄せられる。
「先程、松崎さんから連絡がありまして、美夜子さんの事故の記録を確認致しました。残念ですが、美夜子さんは既に亡くなられています。これがどうゆう事だかお解りですね?」
唐突なナルの宣言に、克美の顔が呆気に取られて沈黙が舞い降りる。次の瞬間には出来の悪いジョークを聞いたみたいに克美の頬が引き攣れた。
「渋谷さん、なんの冗談です? 大体貴方がたはここへ来てから美夜子の姿をご覧になっているじゃありませんか。そりゃ、正面切って会った事は無いけど、車椅子で屋敷内を移動する美夜子を何度も確認しているでしょう?」
「それが何だと言うんです? 松崎さんは死亡診断書を確認しています。そして貴方自身が今、言ったでしょう。誰も美夜子さんと正面切っては会っていないんです。貴方は美夜子さんが本当に生きていると断言出来るだけの材料がありますか?
その根拠は? 証拠は?
以上のことを前提としたその上で、貴方に質問があります」
もはや克美には何と言って良いのか分からなかった。ナルが美夜子の死を告げる前から不安は有ったのだ。気配だけを残して姿を見せてくれない美夜子に、そこに居るはずだったのに気配すら残っていなかったアトリエに、疑問は幾つもあった。ただ認めたくなかった。
だが見て見ぬふりはもう出来ないのだろう。
虚脱感に襲われて何も考えられなくなる。内に有るのは絶望にも似た無力感と倦怠感。克美はただ黙ってナルの言葉を待った。
「何でしょう?」
「調査を打ち切り、いや最初のお話では辰巳氏の浄霊だけだったから、依頼された件については終了したと言って良いでしょう。このまま、調査を終了となさいますか?
それとも続行致しますか?
決めるのは貴方です。調査打ち切りの場合、うちの調査員についてはこちらで勝手に回収させていただきますからご心配なく」
そこに居た全員か呆然とする。一体何を言い出すのか?
「待って下さい、ナル。それでは美夜子さんの浄霊はなさらないで行くつもりですの? 麻衣は───回収すると言っても絶対に聞きませんわよ?」
「下手すりゃ、麻衣を呼び戻すのに美夜子ちゃんの魂を吹き飛ばしちまうかもしんねぇ。そんな危険なこと出来るか?!」
「麻衣さんやったら、きっと上手いこと浄霊しやはるんとちゃいますか?」
それぞれが必死で抗議の声を上げるが、その中心に居るはずの人物だけが虚ろな瞳をして黙っていた。
「もう一度、お尋ねします。調査を打ち切りますか? それとも……」
「───約束したのに…… 初めて会った時、初めて美夜子を見つけた時に、僕が守るからって。
絶対守るから───って!」
おそらく克美の耳にナルの言葉は届いていないだろう。彼はナルの台詞を遮った自覚も持ち合わせてはいまい。今、克美を支配しているのは美夜子と共に過ごしてきた時間の記憶だけだった。