2004-10-02

 

 

‡ 九 砂の城 ‡

 

 

 

 最初に気が付いたのはジョンだった。
 それまで規則的な寝息を立てていた麻衣の呼吸が乱れ、苦しそうに眉間に皺を寄せているのだ。足元の気配の変化にナルも気が付いて、ジョンと顔を見合わせるが、無理矢理にでも起こした方が良いものかどうか決めかねて、結局男二人で様子を見るにとどまっている。暫くして漸くナルが意を決し、取り敢えず額に手をあてがってみるが、熱は無い。
「急にどないしはったんですやろ?」
 心配そうにジョンが顔を覗き込むが、当の麻衣は一向に目覚める気配は無い。だが、始めの方こそ何処か苦しいのではと麻衣の様子を見守っていた二人だが、麻衣の変化は身体の苦痛からくるものではなく、夢の内容に因るものではないかとその表情からようやっと思い至った。
 こういったケースでは、麻衣の見る夢は非常に重要な意味合いを持つことから、二人は注意深く様子を見守る事にした。もし麻衣を起こすタイミングを一歩でも間違えば、情報収集どころではなく、麻衣を危険に晒す事になる。
 そして変化は劇的だった。
 それまでの麻衣は眉間に皺を寄せながらも、おとなしく毛布に包まっていたのだが、突然激しく寝返りを打ったかと思うと、何かから逃れる為に両手で顔を庇い、口を大きく開け―――声の無い悲鳴をあげたのだ。
「麻衣」
 パン、と乾いた昔が部屋中に響く。
 見開かれた瞳が現状を把握するまでの間、ナルもジョンも辛抱強く待った。異常を察してか、真砂子が眠たい瞼を擦りながら起き上がってくる。何も捕らえていなかった麻衣の瞳がゆっくりとナルを映し出し、彼女の中で思考と視界の焦点が合ってきたことを察したナルが声をかけた。
「麻衣、僕が分かるか?」
「ナル、夢、見たよ」
 麻衣はジョンとナルを交互に見ながらコクンと頷いた。呂律の回らぬ怪しい口調で、なんとかそれだけ答え、突然、眠りから引き剥がされて驚いている身体を無理矢理起こして、夢の内容を伝えようとすると、ナルとジョンの二人から押し止どめられた。
「楽にして下さい。いま何かお持ちしますよって」
 麻衣を安心させようとジョンがにっこり笑いかける。まだ眠そうだった真砂子も、麻衣の傍らに座り込む二人の姿に表情を引き締めた。そしてそのまま麻衣の側から離れようとするジョンを制し、代わりに飲み物を用意する。温めのお湯にたっぷりの蜂蜜とレモンを少々たらし、それを麻衣にそっと手渡した。
 麻衣はコップを受け取った後、暫くその温もりを確かめていたが、暖かい液体を一口含んで喉の奥に押し込んだ。
「夢───になるのかなぁ? 正確には違うんだろうけど……」
 すっかり落ち着きを取り戻したらしい麻衣は一旦ここで言葉を区切り、意味ありげにナルをちらりと見るが、ナルの表情が変わらないので仕方なく話を続ける。
「気が付いたら知らない部屋にいてね、そこで美夜子さんと話をしたの」
 麻衣の口から美夜子の名前が出た途端、皆の間に微妙な緊張が走った。相変わらずナルは無言のままだが、視線だけで話の続きを要求している。そのナルのすぐ後ろで真砂子が白い顔を更に白くさせているのを見て、麻衣は一つの確信を抱く。
「お父さん―――辰巳さん、何かを無くしちゃうのが怖いんだと思う。だから屋敷の中の物が揃っている状態にしたいんだよ。美夜子さんはそれを知っているんだけど、教えてくれなかった。
 本当はここへ来た時、美夜子さんに教えて貰った筈なんだけど、まだ心の中じや美夜子さんの方に傾いているみたいで思い出せない。真砂子もね、教えて貰ってるんだよ?
 怖いでしょ? 美夜子さんの邪魔をしちゃいけないって、何処かで思っているでしょ?」
 いきなり話を振られて驚く真砂子だが、それよりも麻衣の言葉の内容の方に衝撃を覚えた。ずっと不調だった霊視の原因は、能力の減退期に入った所為だと思っていたのだ。いや、そう思おうとしていたのか。
 ───彼女を傷つけてしまう。
 不意に訪れる奇妙な思考。麻衣の言う通り、自分は美夜子の気持ちを知っている。
 では何時から?
「あの時、ですわね? 全員で車を降りた時」
 麻衣が頷く。
「あの時、確かに、美夜子さんの声を聞いた筈なんだ。聞いちゃったから、あたしたちは見て見ない振りをする事になってしまった……」
「程度の差こそあれ、全員がその声を聞いたのは間違いないだろう。こちらも丁度、ジョンとその話をしていたところだった。
 だが、麻衣はあくまでも原因は美夜子本人ではないと言いたそうだな?」
 ナルの探るような言葉に、力強く頷き返す。
「この家に物を集めているのは辰巳さんに間違いないよ。美夜子さんはお父さんのしている事を、成り行きを見守っている感じがしたな。辰巳さんが何かを集め続ける事で、美夜子さんの望みが叶うみたいなこと言ってた」
「美夜子にとっては丁度良い状況だった訳か」
「うん。だから美夜子さんに頼んで辰巳さんの説得は無理だと思うよ。寧ろこのままの方が良いみたいなんだもん」
「で、肝心の『何か』についてはまだ分からない、と……」
 ナルが態とらしく深い溜め息を吐く。
「相変わらず役立たずだな」
「そんな事言うんなら、ナルだって今回は勘が鈍ってんじゃないの?!」
「お前ほど、寝とぼけてはいないつもりだが?」
「ああ言えばこう言う!!」
「お前の語彙が少なすぎるんだろ」
 知らない人が見ればなんと仲の悪い二人だと思うところであろうが、二人をよく知っている者には、麻衣が本気で怒っている割りに、ナルの方が反応を楽しんでいるとしか見えない。放っておくと何時迄もじゃれていそうなので、仕方なく───ナルの不機嫌を覚悟して、まぁまぁとジョンが間に割って入った。
「しかし、驚きです。話を伺った所、麻衣さんは幽体離脱をしていやはった様に思うんですけど、その麻衣さんとお話をした、ゆう事は、美夜子さんも霊視の力をお持ちやったんですねぇ」
 ジョンの言葉に麻衣は危うく頷きかけて、慌てて首を横に振る。
「それなんだけどね───」
 麻衣は美夜子が一人で立ち上がって歩いた事、包帯を解いたその下には火傷の痕など皆無の顔があった事を告げた。
「おまけに知らないおじさんは居るし、だから本当に霊体として美夜子さんに会っていたのか、自信無い……」
 云った本人に自覚は無かったが、この爆弾発言に全員が麻衣の方へ身を乗り出す。
「「「知らないおじさん?!」」」
 狙ったように三人の声がはもる。あまりの迫力に反射的に身を引きつつ、麻衣は取り敢えず頷いた。
「だって、本当に見たこと無い人だったんだよ?
 部屋だって見たことない所だったし……」
「この屋敷内で一カ所だけ、チェックの入っていない場所がある。美夜子が誰かを匿うとすれば、ここ以外には考えられない」
 ナルは素早くキーボードの上に白い指先を滑らせると、何かの数値を示していた画面の代わりに御堂邸の見取り図が映し出された。そのまま続けて画面をスクロールさせ、その先には屋敷とは別棟になっているアトリエを呼び出すと其所には未調査の表示がなされている。
「ここなら兄の克美にも気付かせずに人を隠すには丁度良いが、幾つか疑問点が残る」
 そこで一旦言葉を区切り、ナルが皆の方を振り返る。
「まず部屋の様子だが、麻衣の話の通りだとして、構成上は問題は無い。間取りを見て貰えば分かると思うが、人一人ぐらいなら生活するのに何ら支障はない。火元、水回りは完備している。後、その男が何者なのかだが、正体が分かれば美夜子が一結に居る理由も分かるんだろうが、今回の件と関係づけるのは早計かもしれない。
 何故ならその男が本当にこの場所に居るのかどうかが判断出来ないからだ。最大の理由、疑問点は、生活に必要な最低限の物をどうやって調達しているか分からない事だ」
「そんな事、美夜子さんが匿って居るのだとしたら答えは簡単なのではありませんこと?」
「僕も何が分からないのか、分からないです」
 俯いて考え込もうとするナルに、真砂子とジョンが不思議そうに尋ねる。ところがナルは複雑な表情で一つのファイルを広げた。
「もしかしたら外部からの侵入者による愉快犯ではと思って、調べておいたものだ。
 消費電力、水道料、ともに異常は無い。それどころかこの家の規模からすると少なすぎるぐらいだ」
「美夜子さんも、克美兄ちゃんも倹約家なのかも」
 麻衣の茶々にナルの冷たい視線が突き刺さる。
「お前の言う通り倹約家だとして、食料まで倹約する理由はないだろう?」
 真砂子と麻衣の視線が交差する。
「食費が変なの?」
「克美が居るときは彼が下の店まで買い出しに行く事になっているが、それ以外は店の者が車で配達を行っている。月一回、明細とともに請求書が届くからすぐ照合出来る。
 結論から言うが、ここに余分な食料は一切おいて無い」
「美夜子さんが内緒で調達する―――のは無理なんだね」
「そうだな、彼女が健常者で有ったなら考えないでも無いが……いや、可能性は有るのか? 麻衣の見た美夜子は歩いていたんだな」
 ナルが本格的に考え込んだのを見て、皆息を潜めて彼の台詞を待った。
「夜が明けたらアトリエに入る手筈を整えよう。それから安原さんと連絡をとる」
 後は何も言うことは無いと、パソコンの画面に何か打ち込み始めるナルに、全員が解散を余儀なくされる。時間は既に深夜というよりは明け方に近いものであったが、麻衣と真砂子は明日に備えて睡眠を取り直す為に、ジョンは交替の時間までナルの手伝いをと、それぞれに僅かな時間を費やした。



◆◇◆




 ベースに入ってきた御堂克美は、ナルの足元に転がっている二人の少女に絶句してしまった。二人とも疲れているのか、全く起きようとしない。しかも寝間着のままだというところから、二人ともが部屋で寝ていないと推測される。昨夜の当番がナルと、ジョンだと聞いていたから余計に当惑せざるを得ない。年齢的に見て、それ程差の無い男女が同じ部屋の中で平気で眠れるものだろうかと、詮無いことを考えてみたりしても誰も責めはしないだろう。そこに居るのがジョンとナルでさえ無ければ。
 そして、妙齢の御婦人が二人も無防備に寝ていらしやるという状況で、この男たちは何事か調べ物をしていたらしい。ナルの態度から、実は麻衣に気が有るんじやないかと思っていた克美はしばし考える。少女達に関してはナルとジョンに対する信頼のようなものを感じるとしても(カソリックの神父だというジョンは兎も角)ナルの方はどうだろう?
 もしかしたら、足元の存在から意識を逸らすために敢えて調べ物をしていたのだろうか?
「おはようございます」
 己の存在を知らせるために声をかける。それにジョンの方は柔らかな笑みを浮かべて応えるが、ナルの方は一瞥を寄越しただけだった。これまでの僅かな時間とはいえ、それでもなんとなくナルの性格を掴みかけている克美は、さして気にした風も見せずに部屋の中へ入って行った。
「交替の時間はまだ、なんですね。でも忙しそうだから、何か分かった事でも?」
「アトリエに入室許可を頂けますか?」
 克美を見ようともせずにナルが言い放つ。
「確かめたいことが有ります。多分、何らかの形で解決の糸口があそこに有ると思われます。確か、貴方も帰ってきてから、あそこには立ち入って無いのですよね?」
 確信しているようなナルの様子に驚きつつも、克美は頷いた。確かに戻ってきてからあそこは美夜子が占頷していて、中に入れて貰ったことはない。
「解決できると言うのなら調べて項きたいのは山々ですが、美夜子がうんと言うかどうか……」
「此の際、彼女の意見は聞き入れられません。昨日貴方もお認めになった通り、彼女は何かを知っていて協力を拒んでいる。これは美夜子さんが現状に不満を感じておらず、寧ろ調査の失敗を望んでいるからだと推測されるのですが?」
「美夜子の所為だと言われるんですか?」
「何か決定的な証拠を隠して居る可能性が有る」
「どうしても調べると言われるのなら、美夜子と衝突することになるかもしれない」
「必要が有れば仕様がありませんね」
 表情の抜け落ちた克美とナルが睨み合う。いつも笑っているだけに、常と違う克美の様子にジョンがはらはらしている。
 どのくらい睨み合っていたものか、刹那にも永遠にも感じられた時を壊したのは克美の方だった。酷く疲れたように息を吐き出し、がっくりと俯いてしまう。あきらかに自分の手に余る事態に憮然とし、どうしても譲れない一点との葛藤が克美の中で戦っているのが見て居る方へ伝わってくる。
「どうしてもとおしゃるなら、仕方ありません。でも、僕にだって譲れないものが有ります。もしも貴方がたが美夜子を傷つけるような行為に走られると判断した場合には、依頼を取り下げますよ?」
「僕らに美夜子さんを傷つける意志は有りません。
 彼女が協力してくれるのなら、強硬手段なぞ使わずに済む。大切なのは克美さん、貴方が本当に解決を望んでいるのかどうかです」
 どう返答したものか言葉を探している克美に対して、ナルはいつもの無表情でさらりと付け加える。
「もっとも、貴方が嫌だと言っても、ここに残ると言い兼ねない奴が約一名居りますが」

ケルベロス

 ナルの視線の先には、幸せそうに眠っている麻衣の姿。確かに彼女なら、自分が納得するまでは帰るなんて言わないだろうと想像ができ、ならば麻衣が帰ると言うまではナルも決して帰る事はない筈と考えると、思わず笑いが込み上げてくる。
 そうして見ると、些か構図が逆のようではあるがナルが地獄の番犬ケルベロスか何かのように思えてきて更に笑いを誘う。考えようによっては、この青年はケルベロスよりも手ごわい相手かもしれないが、麻衣にとっては、『ここ』こそが一番安全な場所なのだろう。
「渋谷さんって本当に面白い人だなぁ。敵作っちゃう事なんかどうでもいいと思ってる割りに、懐に入れちゃった人には甘いんだ」
 何を言い出すんだと、ナルの瞳が大きく見開かれる一方、さっきまでナルと睨み合ってた事など忘れたかのように、克美に笑顔が戻ってくる。
「───僕は一度、皆さんを信用すると決めたんでしたね。僕がもっと肝を据えなくちゃいけなかったんだ。でないと麻衣ちゃんに申し訳ないですよね」
 眠っている麻衣の横に腰を下ろし、額にかかる前髪を指に絡ませる。ほんの少し癖の有るその髪は、柔らかさ故に克美の指を擦り抜けてこぼれ落ちていく。何処か懐かしい感触に、涙が出そうになるが、眠っている存在は別人なのだと、自分に言い聞かせて指を放す。
 ───本当に大切なものを間違ってはいけない。
 克美は自分の内側に問いかける。
 ───何が一番大切か?
 答えは既に出ているのに……
「自分の感情ほどコントロールしにくいものは無いですよねぇ。もし僕の判断が間違っていると思ったら遠慮なく言って下さい。自分のミスで取り返しのつかないことにでもなったら、後悔するどころじや無いでしょうから」
 克美の瞳が揺れているのに気付いて、ナルは克美が決して心を決めた訳でない事を悟ったが、折角の申し出を断ることはしなかった。それよりも、髪をいじられても眠り続けている麻衣に苛々する。この分だと、巻き付いている布団を引きはがすまで、寝ているかもしれない。麻衣には滝川に布団を剥がれるまで起きなかった前科が有る。
 自分の目の前で眠りこけるのは───まぁ良いとして、誰の前でもこうだとしたら……
 せめて警戒心か、羞恥心かのどちらかくらいは有るのか確認してみたくなるが、麻衣に聞くだけ無駄な事が分かるところが腹ただしい。
 そうこうしているうちに、滝川が目を覚まして様子を見にやってきた。ジョンと二言三言、言葉を交わし、交替する。滝川は早速、麻衣に目を付けるが、克美に阻まれて隣に座るのは諦めたらしく、適当に自分で場を設けて座り込んだ。
「おはようさん。今度は収穫、あったかい?」
 ジョンに託した伝言は伝わったものとして、滝川は悪戯っ子のような目をナルに向けた。ナルなら指摘されたことに屈辱を感じることは有っても、そこから冷静に判断するだけの分別を持ち合わせていると信じている。
「リンが起きてきたら話す」
 応えを返す一瞬、ナルが克美を見たのに気づいて滝川は眉を顰めた。だが、それが克美に聞かれたくない内容なのかもと思い至って、すぐにいつもの顔に戻す。
「相変わらず手間を省こうとするやっちゃな。ま、良いけどね」
 元気一杯の滝川の声に、流石に真砂子が目を覚まして、部屋にいるはずのジョンが居らず、いつの間にか克美と滝川に変わっている事に驚き、羞恥に赤くなった。真砂子は浴衣の袖で口元を隠しながら、もごもごと挨拶する。それから滝川とナルが麻衣を起こす気がないのを見て取って、自分が起こすのは僭越かと、着替えるためにベースを出た。
 真砂子を見送った後、思い出したように克美が立ち上がる。
「美夜子があちらに閉じこもったままなので、食事を届けてきます」
 ナルは克美に目もくれず、パソコンに何事か入力し続けながら、大して興味は無いが、確認のためといった風に聞いた。
「あちら、とはアトリエの事ですね。向こうに予備の食料とか備蓄は無いのですか?」
「基本的に向こうで調理することは無いですから置いてませんよ。父が冷めた食事を温めるのに、色々揃えてはいますけどね。取り敢えずあそこに居る間、放っておいたら飢え死にさせてしまうので、差し入れしてきます」
 美夜子にはとことん甘い兄貴といった具合に、思い出したら居ても立っても居られなくなったらしい克美は、あたふたと出口へ向かう。その途中、ふと立ち止まってナルに声をかけたのは気まぐれだろうか。単に、ナルに意地悪をしてみたくなっただけかもしれない。
「そうそう、僕ずっと思ってたんですけど、渋谷さんて麻衣ちゃんのナイトの様ですよね。転びかけた麻衣ちゃん支えた時と言い、昨日の一件と言い」
 予想外の言葉に、滝川共々声を失う。
「今、なんとおっしゃいました?」
 ナルは努めて平静を装いつつ、聞き返す。それに克美は「だから……」とにこにこで繰返した。
「麻衣ちゃんのナイト、騎士の様だと申したのですよ」
 空気が凍ったと滝川は思った。ナルの目が克美を捕らえる。珍しく見開かれたナルの黒い、瞳。
 ちょっとばかり頭の冴えてきた滝川には、克美がナルから反応を引き出す為に、麻衣をネタにしていることが分かってきたので好奇心から敢えて止めなかった。自分もナルがなんと返事するのか、興味が有ったのだ。だけれども、ナルの反応は滝川の期待した物からはずれていた。
 ナルは言われた事の内容を理解した後、明らかに気分を害したと分かる様、眉間に皺を寄せ、その後暫く睨みつけるように克美を見ていたが、プイとそっぽを向く。
「でしたら否定して差し上げます。僕は麻衣の騎士役などお断りです!!」
 思いもかけない拒否の言葉に驚いたのは滝川だけでは無かった。克美にも予想外の言葉だったのだろう。微妙な二人の関係に、変化を与えるつもりだけだった克美は目を白黒させて、滝川とナルを交互に見比べる。
 どうやら自分が何か失言をしたことは分かるのだが、その理由が分からなくて当惑する。しかも、ナルが本気で言っていることが分かるので余計にだ。どうフォローしたものかと悩んでいたら、時間どおりに現れたリンとぶつかってしまった。リンは部屋に着くなり奇妙な空気が流れていることに気が付きはしたが、克美が入り口を塞いでいるため入れないと告げると、彼は困ったような顔をしながらも道を譲った後、後ろを気にしつつも退出して行く。
 中では滝川が軽く額を押さえており、ナルは不機嫌も露に明後日の方を見ており、注意深く見れば頬が僅かに赤くなっているのが見て取れた。そしてナルの足元には、所在無げな麻衣が座り込んでいる。
「お、お早う……」
「お早うございます。原さんのお姿が見えませんがどうなさいました?」
 リンの台詞で真砂子において行かれた事に気付いた麻衣は、慌てて包まっていた毛布をたたむ。
「着替えてくる!」
 そのまま叫ぶように言って、何処か頼りない足取りでバタバタと、逃げるように部屋を後にした。
 リンは麻衣の様子にまた喧嘩でもしたのかと、ナルと滝川に視線で問うが、ナルが言いたくないと背中で自己主張しているので、この場で聞くことは諦め、その代わり───おそらく、ナルが居ない間に説明するつもりなのだろう───滝川の送ってきたサインに無言で了承した。
「昨夜はどうやら何事か有ったようですが」
 それからリンは態と場の空気に気付かぬ振りで、何か調べ物をしていたと思われるナルに確認を取る。
「そうだな。リンも起きて来た事だし、昨夜、何が有ったのか説明してくれるよな?」
 これにはナルも私情を挟むつもりは無いと、同意した。逸早く気分を切り替えて、昨夜ジョンと話し合った事、麻衣が見た夢の事等をてきばきと説明する。その上でアトリエの調査決定を告げた。
 当面の目標がはっきりした事で、ベース内は一気に忙しくなった。そして調査の事となると、不摂生になる所長様の機嫌も持ち直したのだった。

 

 

◆◇◆

 


 麻衣が部屋へ戻ったときには、真砂子はもう着替え終えた後だった。その事に少々むかついた麻衣は八つ当たりを敢行することに決定する。パタパタと自分のベッドに駆け寄った後、枕を掴んで真砂子の背後から投げ付ける。枕はぱふんと、真砂子の帯に当たって床の上に落下した。
「真砂子ひどーいっ!! 一人で行くなよぉ。なんで起こしてくんなかったの?!」
「あの状況で眠っていられる何方かとは違うものですから」
 麻衣がどうゆう意味かと睨むが、ナルの視線に比べれば可愛いものなので、余裕でにっこり笑う。
「あたくし、目覚めは良い方ですけど、それ以前にきちんと一人で起きられない貴方の方に問題が有るのじゃありませんこと?」
 麻衣の頼がぷくっと、膨らんでベッドに転がる。
「いつもは一人でも起きられるもんっ。調査中が特別なの!!」
 拗ねてゴロゴロ転がる麻衣に、子供のようだと笑うが、ふと違和感を感じ近くまで行って顔を覗き込んだ。
「なにか、有りましたの? 少し疲れているみたいですわ」
 健康そのものの麻衣の肌は、ツルツルしてて羨ましい限りなのだが、今日の麻衣の肌はほんの少し、輝きに欠けるような気がする。
 麻衣は起きる直前に、偶然聞いてしまった話を思い浮かべる。どうせ真砂子に話したところで笑われるだけだろうと、態と茶化して話す事にした。
「やっぱり、夢見た所為で疲れてんのかな? まだ寝足りないのかもね。それよりもさ、聞いてよぉ。ナルの奴、失礼しちゃうんだよ。克美兄ちやんがねぇ……」
 かいつまんで要点だけを面白おかしく演出して話すと、案の定真砂子が呆れ顔で麻衣を見る。
「助けてくれたナルには感謝してるけど、何もああゆう言い方は無いよねぇ。別にいつも迷惑かけてる訳じゃ無いし、専門に助けてもらおうと思ってる訳でもないんだしさ」
「驚きましたわ。迷惑をかけている自覚も有りませんでしたのね。ナルも貴方専門のお守り役は当然、嫌でしょうね」
 あたくしだって、後免ですわと付け加えるのを忘れない。
「まぁさぁこぉ〜」
「そんな情けない声を出したところで、同情は致しませんことよ。それよりもいつまで、そんな格好をして居るつもりですの? さっさとお着替えあそばせ」
 言われて改めて自分の格好を見た。チューリップ模様のパジャマである。別段寝乱れた様子は無い。
 忙しい時には、ジャージにトレーナー姿で寝ることも少なくない麻衣には、こちらの方が可愛くて気に入っている。
「可愛いくないかな?」
 首を傾げつつも、流石にパジャマのままで仕事をする訳にもいかないので、言われた通りに着替え始めた。調査中は動きやすさを意識して、パンツ系が多い。それでも少しはお洒落をしたい時などには、キュロットなんぞはいてみる。
 いつ見ても、着物を着ている真砂子には敬服するやら、呆れるやら。何故なら―――一人で着物の着付けが出来る事には感心するが、返せば、重たい荷物を持ち運ぶ手伝いに関しては、一切の拒否をしているも同然なのだから。
 急いで顔を洗ったあとほ、ちゃちゃっと髪にブラシを通し、仕上げに鏡に向かってにかっと笑う。
「おまたっ」
 麻衣の身支度が整うのを待って、二人は階下の食堂へ降りて行った。

 食堂を抜けて、調理場へ顔を出せば先客が居る。
 克美が美夜子の食事をトレイに載せているところに出くわした二人は、素朴な疑問を聞いてみることにした。
「美夜子さん、いつも食事はどうしてたんでしょうか?」
 ここに来てから、誰も姿を見ていないということは食事も一人でとっていることになる。
「大抵はアトリエで。あそこには出入り口とは別に小窓が付いているから、そこから差し入れてるんですよ。簡易シャワーも付いてるから、一日中あちらに篭もってることも珍しくは無いです。そのうち、閉じこもりに飽きたら出てくるでしょう」
 克美はなんでもない事のように話しているが、本当は美夜子の事が心配で堪らないだろうと思うと、二人共に心が重くなる。克美が優しければ優しくするだけ、美夜子には辛いのだ。彼女の望みを叶えるには、克美の希望とは違う方へ物事が進んでくれなければならないから。
 そして、美夜子が望む事は、本来いけない事。それ故に、彼女がその望みを口に出して言う事は決して無いだろう。克美を助けたいと思うより強く、美夜子の気持ちが痛い。その理由は今でも闇の中だ。
 それでも全てを丸く収める術を探し出さなければと、思うことが精一杯だった。

 

 

◆◇◆

 

 

 その頃のベースでは既にアトリエに入る手筈を相談中だった。麻衣の見た風景が本当にアトリエなのか、別の場所なのか特定出来れば一歩前進した事になるだろう。美夜子の動向も、謎の現象も、ここを中心にしていると確信に近いものが既に有る。
 安原に電話を入れた後、ナルはベースに居残り、作戦を立て直そうとしたのだが、さすがに徹夜明けの状態のナルを付き合わせるのは拙いと、リンと滝川の二人掛かりで追い出した。だが、ナルが寝ている間、何もしていなかったと言われるのは不本意なので、大まかな所だけでも決めてしまおうと(決定権はナルだけのものだ)額を寄せ合って密談する二人だったが、朝食を取り終えてからベースに来た麻衣と真砂子の度肝を抜くには十分だった。
 二人とも長身で『いい男』の部類に入る容姿をしている。目をひく風景では有るが、思わず身も引いてしまう。よく、麻衣は人と仲良くなるのが上手いとか、早いとか言われるが、この滝川と言う男も中々のものだと真砂子は感心している。日本人が嫌いだと公言して憚らないこの男───リンといつの間にか飲み友達となっていたあたり、侮れない。しかも、ナルの正体が麻衣にばれる前からだと言うから驚きである。
 実はこの二人に関して、女性には不自由してなさそうな容姿なのに、付き合っている女性の話を聞いたことが無い。ナルの正体が露見する前はナルを含めて、実は女性に興味の無い類の人種ではと、馬鹿な話で盛り上がった事も有るくらいだ。勿論、そんなことは無いだろうし、滝川に言えば逆襲にあうだろうからオフレコの話だ。
 それでも声をかけるには勇気の要る情景だ。
「あの〜もしもし、何をしてるんでしょう?」
 麻衣が思い切って声をかけると、滝川とリンが揃ってこちらを見る。手元にはプリントアウトされたアトリエの見取り図。
「おー来た来た。麻衣が見たっていうものの説明を頼んでも構わないか?」
 自称父、滝川はそこに座るようにと、自分の直ぐ隣の床を叩いて場を指定する。リンは僅かに移動して座り直し、真砂子の為に席を作った。二人は用意された指定席に座り込み、それから、聞き上手の滝川に聞かれるままに、麻衣は昨夜見たものの説明を始めた。部屋の状況はナルが指摘したとおり、麻衣の夢と一致している。分からないのは謎の男の正体と、歩く美夜子だ。これが幽体離脱なら、美夜子は一人で歩けるのに歩けない振りをしていることになる。幽体離脱で無いとしたら、麻衣が見たのは美夜子の夢だろうか?
 この話になると、滝川とリンも慎重にならざるを得ない。
 お互いに夢で会うなんて事は可能だろうか?
 答えは───不可能では無いかもしれない。
 以前、美山邸で拉致された真砂子と麻衣は夢と思われる形で会話をしている。空間を越えたキーホルダーが唯一の証拠だ。
 自身は何もしていないと主張する美夜子だが、全ての原因を知っていて話す気もないらしいこの状況では、美夜子の話を信じても良いものかどうかさえ、判断できない。
「どこで見たのかは伏せて、辰巳氏か克美の交友関係で谷山さんが見たという人物に相当する者が存在するのかどうか、確認した方が良いでしょう」
「そうだな。おじさんて言うくらいだから、辰巳氏のご友人っぽいがな」
 先に麻衣の話を聞いていた真砂子はおとなしくリンと滝川の話を聞いている。麻衣も聞かれたことだけを話す努力をしていたが、ふと、何かを思い出したらしく、目を細めて遠のく記憶を手繰り寄せる。
「もう一人、誰かの影を見たような気がする」
「麻衣?」
 そんな話は聞いていないと、真砂子が思わず声を上げる。
「ここに戻ってくる直前に、おじさんにもう一人の影が重なってるように見えた。その影が薄すぎて、誰だか分かんなかったんだけど、もしかしたらお父さんだったのかも?!」
「御堂辰巳の霊を視たのか?!」
 滝川の声も大きくなって、麻衣は怒られているようで肩身が狭い。
「いや、ちょっと自信、無い……」
「落ち着いて下さい。谷山さん、その謎の男の他にもう一人、実体を持たない人影を見たのは確かなんですね?」
 興奮気味の滝川と真砂子を制し、リンがいつもと変わらぬ口調で尋ねてくる。
「うん。なんか二重露出の写真みたいな……」
 瞬間、麻衣の頑の中でバックファイアーが煌めいた。
 ───どうして、あの人だけ二重写しの写真のように見えるのか───
 そう言ったのは美夜子だ。美夜子のこの言葉は誰のことを指している? あの時、麻衣はジーンの話をしていたのだ。ナルとジーンが双子だという話。
 あれがナルと、ジーンの事だとしたら?
「やっぱりお父さん……辰巳さんかもしれない。もしかしたら、ああしてどちらがどっちか分からなくなるぐらい、一つになって憑いていたのかも。あんなに違和感なく溶け込んでいるんだもん」
 ナルとジーンも一緒なのだろうか?
 だったらもう少しくらい、中身が似通ってても良いじゃないかと、八つ当たりにも似た気持ちがわいてくる。見た目だけならあんなにもそっくりなのに、性格のギャップが許せない。
「ナルとジョンが来たら、報告しなきゃね」
 口では何でもないことのように話していても、心の何処かで警鐘が鳴る。ナルに話してしまえば事実の確認が出来次第、ジョンに除霊をさせるに違いない。誰の望みも叶えられないまま、悲しいままで除霊だけはしたくない。
 ───近くに居るのなら、声を聞かせて……
 一人じゃ、何もできないよ?
 麻衣はいつもなら、とうの昔に出て来て方向を示してくれる人に心の中で語りかける。すぐに明確な応えが得られないのが、今は辛かった。


実はこの話には裏の目的があった。
それが「僕は麻衣の騎士役などお断りです!!」のナルの台詞です。どうしてもこの台詞を言わせたかった。一番最初の予定では、ここで分冊して2冊にする予定だったのだから大凡の予想通りの展開であると言えるのだが、如何せん自分が思っていたよりもページを喰っている訳で……
なお、ナルのこの台詞は照れ隠しでもない本音なのです。
この台詞、ちょっと覚えておいてね。ちゃんと最後の最後に謎解きおいてありますので☆


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