2004-10-13

 

 

‡ 十 秘密の箱の中と外 ‡

 

 

 


 「こんな朝早くから何事よ?」
 何処から見ても、民宿としか言いようの無い宿の仕切りは襖一枚だけ。そんなところへ朝一番にナルは電話でもって安原をたたき起こし、美夜子の事故記録の他に病院の診断書を入手出来ないかと言ってきた。安原は急な依頼を不信に思いながらも、ナルにはナルの考えがあっての事だろうと了承し、受話器を置いたところに綾子が声だけを寄越してきたのだ。
「渋谷さんから追加注文です。松崎さんの名前でカルテを入手することは可能でしょうか?」
 松崎綾子は都内では有名な個人病院の娘であるから、病院の名前を借りれれば、カルテを取り寄せることも無理ではないはずだ。
「どうかしらねぇ。うちの親、割りと堅いのよ。そうゆうとこ。でも今後の勉学のためとかナントか言って、閲覧ぐらいならなんとかなるかも」
「僕、医大生とでも言っときましょうか」
 お互い、襖越しに着替えながらの会話なので、時々声が聞き取り辛かったりするのだが、それでも重要なポイントは押さえていく。
「んじゃ、病院から電話であたし達が行くことを伝えて貰えるよう、頼んどくわ。どうせ開館時間と共に駆け込んで、資料探すんでしょ? 予約時間は昼過ぎってとこかしら」
「お願いします。美夜子さんが運ばれた病院の連絡先は救急病院を当たりますか?」
「新聞沙汰になっているんなら、運ばれた病院の名前くらいわかるでしょう」
 襖を挟んで細かいところを詰めていく。だが実はこの時、安原と綾子の知っている事実には大きな相違が有ったのだが、お互いに確認しようとも思っていなかった為、後に酷く後悔することになる。

 安原のタイムスケジュールでは、図書館の資料室が開くと同時に、検索モードに入る予定になっているので、2時間前には宿を出る必要がある。その為に綾子は早めに目覚ましをかけておいたのだが、結局時計よりも早く起こされてしまった。
 いつもより随分早い朝食をとって、広田をたたき起こし(順番は間違えていない。念の為)準備万端の安原を乗せて、綾子は御堂邸とは逆方向の町へと車を走らせた。慣れていない山道にてこずりつつも、なんとか町と呼べるものに着いたところで今度はのんびりムードの地元の車を押し分け押しのけ、目的地へ急ぐ。その途中、広田は自分だけが朝食を食べ損ねたことに気が付いたらしく、たまたま見つけたパン屋の前で一時停車したことを除けば、道行きは極めて順調だったと言えよう。『マップル』片手にナビゲーションと化した、安原のお陰でもあるのだろうが。
 どうせ田舎の図書館だとたかをくくっていた綾子と広田は、その規模の大きさに絶句した。大都市と違って土地の値段が桁外れに安い分、建物や設備に投資される金額が違うのだ。だが安原は気後れした様子も無く素早く資料棚から特定の新聞の縮小版を探し出し広田と綾子に手渡すと、自分は別のパソコンを設置した部屋へ入って行く。自分たちに漬け物石のような冊子を渡しておいて何をするのかと、隠れて様子をうかがっていた二人は、安原に気付かれる前に早々に退散した。
 パソコンの前では、モニターに映し出された縮小版から必要な記事だけを抜き出して行く安原の姿があったのだが、そのスクロールの速さ、動体視力からすると、自分たちの能力ではとても太刀打ちできない。どちらも安原のように作業は出来ないとあきらめて、地道に手作業でページをめくり始める二人だった。

 作業を始めてから暫くして、漸く目的の記事を見つけた綾子の表情が険しいものに変わった。綾子は席を立つと、ものすごい勢いで別の新聞の縮小版を取ってきて広げ始める。見つけた記事と同じ日付のページを探して、その中から同記事を報道内容とを見比べる。
「どうゆう事? 何か間違ってるんじやないの?」
 微かに震えながら記事をにらみつけている綾子にただならぬものを感じて、広田は綾子を一旦座らせた後、安原を呼びに行ってしまった。
 一人になった綾子は、自分の見たものが信じられずに繰り返し繰り返し、記事を読み返す。何度読み直しても書かれている内容が変わる訳もなく、全身の血が引いていく。誰かの足音を聞いたように思ったが、それより前に視界が黒く閉ざされた。



◆◇◆

 

 

 ───あなたの望みが叶う事はないでしょう。それでも良いの?
 綾子は暗闇に向かって話しかけた。切ない、今にも泣き出しそうな苦しい思い。
 ───そばに、いたかった。それ以外、何も望んではいなかったのに……
 綾子にもそんな気持ちはよく分かる。一見、調和のとれた風景の中にも、様々な感情が見えかくれしながら日常を保っている。
 ワタシハ、イマ、ヒミツノコイヲシテイル。
 一言でも口にしたら隠し切れる自信は無い。だから、言の葉にして告白することは無いだろう。今の関係を壊すのが怖い。その人の『特別』になれないぐらいなら、いっそこのまま友人の一人で良い。
 彼ノ友達デイラレルノナラ、彼ノ彼女トダッテ友達ニナレル。
 感情が同調する。
 ───せめて、あなたのそばに……
 その切ない願い故に、つい許してしまった。実際にはそれすら不可能な事を彼女は知っていたのに。
 父親である辰巳は、彼女の気持ちを知っていたのだろうか? 知っていたから今回のような事悪を引き起こしたのでは無いだろうか?
 真実を目の当たりにした綾子に、美夜子の呪縛は意味を失い、急速にその力を失っていく。それと同時に別の不安が頭を擡げる。美夜子は力の使い方を知らない。彼女自身は心に直に語りかけるのが精一杯だと言っていたので、安心し過ぎた。今の美夜子なら、別の行動を取ることも可能なのだ。
 ───もしも、彼女が麻衣やナルの使い方に気づいてしまったら?



 目を覚ました綾子の前には、割と整った男の顔が二つ並んでいた。言わずとも知れた広田正義と安原修である。
「ほらみろ、この女がそんなやわな人種に見えるのか?」
「仮にも女性が倒れたんですよ?
 後々に残る傷なんか付いちゃったらどうするんですか。松崎さん、急に倒れたりするから、僕焦っちゃいましたよ」
 気付けばきちんとベッドに寝かされていた。白で統一された室内からは病院特有の消毒臭は無いので、おそらく図書館の救護室だろう。室内にほかの人影は見当たらない。唯でさえ利用者の少ない平日の午前中ともなれば当然か。
「あたま、痛……」
「当たり前です。松崎さん、後頭部からリノリウムの床に突っ込むように倒れたんですから」
 安原に真顔で言われて困ったものの、言われた通り、後頭部に触ってみると激しい痛みが襲い、手には変形した頭の感触が残っている。
「どの位、気を失っていたのかしら?」
「1時間ちょっと、ですね。もうすぐお昼になります。念のため、もう少し休んでて下さい。資料の方は大方調べちゃいましたからご安心を」
 綾子の負担を減らそうと、いつもの安原スマイルが全開になる。
「ナルに連絡は?」
「まだです。病院の方の確認も出来てませんし」
 そうか、忘れてたと顔を顰める。
 だがナルが想像しているような情報が得られないことを綾子は知っている。しかし証拠のない報告に克美も納得はしないだろう。結局病院で裏付けは取らなくてはいけない。その結果、決して望ましい結末を迎える事が出来ないとしても。このまま何も知らずにいるのとは、どちらがより不幸だろう。
「こんな所でぐずぐずしてるとばれたら、後で何と言われるか分かったもんじやないわ。病院の連絡先は調べたんでしょ? 貸して。電話だけでも先に片付けちゃいましょ」
 安原が止めるのも聞かず、携帯を取り上げて実家に電話する。人の命がかかっているからと、無茶苦茶な説明で面会予約をもぎ取り、その後は疲れたようにベッドに沈み込んだ。
 綾子の「もう大丈夫だから」の声に、安原は残っている調べ物へと広田を連れて戻っていく。その後ろ姿を見送りつつ、誰も無茶な事だけはしないでと、今は祈るしかない綾子だった。



◆◇◆

 

 

 昼過ぎになって漸くナルとジョンが起きてきた。
 寝る前は嫌がっていたくせに、こんな時間まで寝ていたと言うことは矢張り疲れていたのだろう。ナルに早速麻衣が見たと云うもう一人の人影について報告すると、案の定冷たい一瞥が投げかけられた。
「役立たずの上に、記憶力も欠損しているとはな」
 文句の一つも言いたい麻衣だが、ここは一つ我慢する。何と言っても、ナルに口で対抗するには分が悪い。
「申し訳ありませんでした、所長サマ」
 むくれながら返事する麻衣を無視して、ナルはその他大勢に向き直った。
「それでこの人物の目星は付いているのか?」
「克美にーちゃんに聞いてみたんだけどね、意外な人物の名前まで聞くことになっちまって」
「ぼーさん、要点だけで良い」
 起き抜けで機嫌でも良くないのか、にべもない。
「はいはい、俺たちが調査に来る少し前に、頭の固い公務員が行方不明者の捜査に来たらしいんだが、麻衣が見たのはもしかすると、その人物かもしれないそうだ」
 行方不明者と聞いて、ナルが不審そうにする。
「その人物に何か問題でもあったのか?」
「いや、問題があったのは聞き込みに来た方。なんと広田さんちの正義君が来たそうだ。これでまたあいつに不審人物扱いされるのかと思うと気が重い」
「ぼーさん……」
 広田と聞いて奇妙な顔をしたものの、肩をすくめてすぐにいつもの顔にもどったナルが話の先を要求すれば、滝川もナルの機嫌を損ねるよりはと、話を進めることにする。
「人間嫌いの御堂辰巳には、無二の親友が居たんだとさ。家が遠いんで、滅多に行き来は無かったが、遠出する時には良く同行した人物がいる。そいつの名は三矢紫苑、玄関に展示されている人形の制作者だ。その三矢紫苑が行方不明になったのが、御堂辰巳の訃報が届いた日だったそうだ」
「それでわざわざ人形をここまで運んだ訳じやないだろうな?」
 ナルが呆れながら聞いてくるのに、何の事だと不振な空気が一瞬だけ流れたが、次の瞬間にはそこに居た全員が硬直した。ナルが示した先には人形が一体、床の上に座り込んだポーズでこちらを見ている。咄嗟にジョンと滝川が部屋を飛び出して玄関の陳列棚を確認する。
「なんてこったい」
「いつの間にこんな……」
 玄関にあるはずの人形はそこに無かった。
 この屋敷から持ち出されたものが戻って来るときには、一定の法則があった。それは屋敷の中の指定席に戻って来るのだ。一度戻ってきた物が勝手に移動することなど、これまでは無かった。まったく初めてのパターンに、驚きの色を隠せない。
 すぐさま、ホールに設置された全てのカメラのテープを交換し、そのまま急いでテープのチェックをしたところ、どのテープも砂の嵐だけしか映っておらず、何も確かめられなかった。
「おかしいな、機材はちゃんと動いてたのに」
 麻衣は自分が失敗したのかと首を捻るが、それはすぐにナルによって否定される。
「録画に失敗したのなら、こうゆう画面でなく、青いブルーバック画面になる。これには何かが映ってはいるんだ。前にも言ったと思うが、機械と霊は相性が悪いらしい」
「駄目です。どのテープもこの状悪で、目視は不可能でしょう」
 すべてのテープを確認して、リンが報告する。一本目を見たときから期待していなかったナルは、軽く頷いただけで失望はしていなかった。抵抗してくるのなら、それだけ自分たちが答えに近いところにいる証拠なのだから。
「これで麻衣が見た謎の男の正体が、三矢紫苑である可能性が増えたわけだ。それと同時に、御堂辰巳の霊が憑いている可能性も生じる。合意の上での憑依だとしたら、落とすのは難しいかもしれないな」
 どこか楽しげなナルに、皆一様に思ったことは、『この、マッド・サイエンティスト!』だったのは言うまでもない。だが少しでも早い解決を望む者には、僅かだが一歩前進したことになる。
「その男に親父さんの霊が憑いているとしたら、嬢ちゃんが匿おうとするのも頷けるしな」
 滝川の意見に異議を唱える者は居ない。
「それでは克美さんに同行して頂いて、アトリエに踏み込む。場合によっては扉を壊す必要があるから今回はリンも行ってくれ」
 ナルの言葉にリンが不服そうに振り返る。
「あなたはここに残るおつもりですか? その場合のガードはどなたが?」
「ぼーさんの護符があるし、原さんも麻衣も体調の方が万全とは言い難い。一緒に連れて行く訳にはいかないだろう」
「ブラウンさん、滝川さん、お二人で扉を破れますね?」
 なおも食い下がるリンにナルが溜め息を滴らす。
「ジョンには浄霊をしてもらう。無理はさせられない。
 お前なら式を使うまでもなく、扉を蹴破るくらい訳無いはずだな? そんなに心配ならお前の式を置いて行け。そちらのガードはぼーさんにしてもらう」
 頭の中で、自分を含めて大人4人のガードはきついなぁと滝川は思ったが、心理的にきついリンよりはましかと前向きに考える。暫く悩んでいたリンもそれならと、渋々了承した。
 だが、真砂子はその会話を複雑な思いで聞いていた。ただ聞いていれば、ナルが真砂子と麻衣に気を使っているように聞こえるが、真砂子には自分がダシにされたようにしか思えない。
 一時的には完全に復活したように見えた麻衣の様子が今朝からまた怪しくなっている。真砂子でさえ気が付くのだから、ナルなら部屋に入った瞬間にでも分かったはずなのだ。それなのにいつもより麻衣に対して余所余所しく接していると見えるのは、今朝交わされたという会話の所為だろうか。麻衣に不味い事を言った、とは思っているのだろう。態と無視したかと思うと、麻衣がミスをしていない所はちゃんとフォローしている。
 実際には麻衣のことをとても心配しているのに、麻衣の騎士(ナイト)役は嫌だとは、矛盾していないかと考えたが、麻衣が『守られる立場』であることは否定していないことに気が付いた。ナルなら「麻衣の場合『騎士』云々言う以前に、こいつ自ら危険に飛び込んで行くんです。そんな奴を『守る?』そんなことやるだけ無駄です」くらい、言いそうだ。
 そして麻衣も好きなのはジーンの方だと言っておきながら、ナルに冷たくされて落ち込んでいる姿は説得力に欠けている。まさかナルと留守番だとは思っていなかったのであろう。麻衣はナルよりも真砂子の方に擦り寄ってくる。
 また、傍に寄ってこようとしない麻衣に、あからさまな不満を見せながらも平静を装うナルと。
 ───どうしてこの二人は、こうも不器用なんでしょう。
 溜め息を二人に見られないように横を向いたら、自分と同じ気持ちらしい滝川と目が合った。
「ご一緒できなくて、申し訳ありません」
「ちょっくら行ってくるわ」
 苦笑する真砂子にウィンクを寄越し、すっかりくつろいだ様子だった滝川が立ち上がると、それに習うようにジョンとリンも立ち上がる。
「お気を付けあそばせ」
「おおきにさんどす」
「ナル、何かあればすぐに知らせて下さい」
 まだナルにこだわるあたり、誰もが《心配する方向が違うぞ、リン!》とか思ったが、口にされることはなかった。そして、麻衣がハンディタイプのカメラをリンに、インカムをぼーさんに渡して準備完了となった。
「本当に気を付けてね」
 麻衣の瞳が不安に揺れる。それに安心させようと、滝川がガッツポーズを見せてジョンが手を振る。リンの頭が微かに下がってすぐ姿が見えなくなった。

 克美を引っ張り出すのに成功した三人は、早速アトリエへと急いだ。もっと抵抗するかと緊張していたジョンと滝川は、拍子抜けしながらも克美の協力を素直に喜ぶ。事件解決のためとは言え、やはり家主の了承無しに破壊活動は避けたい所だ。
 アトリエの前までくると、一旦後ろを仰ぎ見る。
 丁度ベースの真下に当たる位置にあるので、窓にへばり付いている麻衣と真砂子をすぐに見つけだす。ジョンと滝川が手を振ると、向こうからも二つの手が振り返してきた。そのすぐ後ろでは克美による美夜子の説得が始っていた。だが、交渉が上手くいっていないことは克美の表情から読み取れる。これまで、美夜子が嫌だと言えば無理強いをしたことがない所為か、今回も了承無しに踏み込んでくるとは思っていないのだろう。アトリエからは、確かに人の気配が伝わってくるのに、まるで反応がない。
 諦めるのを待っているようだ。しかし今回は諦める訳にはいかない。何度声をかけても反応すら見せないので、ついに克美がリンにその場を譲った。
 すっと腰を落としてから体を捻り、勢いそのままに振り下ろされる蹴りが見事にドアノブの錠前部分だけを打ち砕く。木製の扉からノブがことりと音を立てて抜け落ちた。
 ほんの一瞬の出来事。
 支えるものが無くなって、ドアはひとりでに開いて訪問者を招いた。滝川を先頭に、ジョン、克美、殿をリンがつとめる。
 入ったところは狭いながらもダイニングキッチンのようで、一人用のテーブルと、コンロがあり、その隣には水回りを一所に寄せた小部屋がある。念のために、どちらの部屋にも誰も居ない事を確認して歩く。残っているのは、絵を描くのに使っている一番大きな部屋だけだ。
 だが既に4人は異常を感じていた。はっきりと言葉にはしにくいのだが、自分達と同じ『男』の気配とでもいうようなもの。そんなものが此所にはある。部屋の住人が男か女かで随分と空気は変わる。
 いくら辰巳が生前使っていたと言っても、そのあとここを使用している美夜子の残り香とでも言うべきものが全く感じられないのだ。
 最後の扉の前に、薄汚れた布切れが落ちていた。
 拾い上げて見れば使い古した毛布のようだ。色は麻衣が夢で見たものと一致している。克美を除く3人が顔を見合わせ強く頷く。リンが克美を背後に庇うように一番遠くの位置に着き、扉の両側に滝川とジョンが着く。扉が帯電していることを考えて、上着を巻き付けてからノブに手をかけた。
 昼間からカーテンで閉ざされた部屋には床一面に転がる首の群れ。どれも失敗品らしく、顔の中央に大きな傷が付けられている。リンと克美を隣の部屋に残し、滝川とジョンだけで部屋の中に踏み込ん行く。部屋の内装も、様子も、麻衣が見た夢と完全に合致していた。部屋の中央に立て掛けられたキャンバスまで。
 ただ一つ違っていたのは、そのキャンバスの足元に一人の人影が蹲っていたことだけ。その人影は侵入者に気が付いて、むくりと身を起こした。途端に寒気が全員を襲う。吐く息に白いものが混ざる。
「どうして、邪魔をする……?」
 酷くやつれた顔。これも麻衣の見た『おじさん』に間違いないだろう。
「もう少しで完成するのに」
 男の手から転がり落ちたものが滝川の足に当たって止まる。それを何気なく拾い上げて、滝川は驚愕の呻き声を漏らした。その首は未完成ながらも整った顔立ち、絶妙のバランスで配置された目と、口。
 紛れもなく、それはナルの顔だった。
「『どうして』」
 ドンと、強い衝撃が二人を襲う。咄嗟に顔を庇ったものの、その次に襲ってきた台風のような突風に太刀打ちできず、その場から吹き飛ばされる。そしてそのままジョンと滝川は壁に叩きつけられた。
 部屋の外にいた克美も、異常な事態に部屋の様子を窺った。締め切った室内に吹き荒れる風、壁際で倒れて居るジョンと滝川。何よりも、その部産の中央でたたずむ人影に固唾を飲み込む。
「三矢の……おじさん?」
 克美の囁くような声が聞こえたのだろうか。嵐は始まった時と同じように唐突に収まる。
「やっぱり。三矢さんでしょう? どうしてここに? 一体いつから?」
 リンが入り口を塞いでいるので、中に入ることができず、上半身を乗り出すようにして男に話しかける。男の虚ろな瞳に克美の姿が映し出されると、あちこちで何かが割れるような昔が鳴り出した。
「克美さんっ?! いけませんです。下がっててくださいっ」
 壁に打ち付けられた時、口の中を切ったようで、ジョンが口の端を拭いながら聖水を振り撒いた。
「どうして?」
『どうして?』
「願いを叶えてあげたかっただけなのに」
『願いは一つだった』
「『それさえも望んではいけなかったのか?』」
 男───三矢の姿に、陽炎のような人影が重なってそれぞれに語り出す。その姿に、克美が感動にも似た声を漏らした。
「───お父さん!!」
 ゆっくりと、だが徐々に三矢の姿よりも、御堂辰巳の姿の方がはっきりと見えてくる。
『みんな、いってしまう』
 克美がそこにいる事を理解していないのか、その瞳には何も写ってはいない。
『やがて此処には誰も居なくなってしまう。わたしは、また一人になってしまうのだろうか?』
「何を言っているんです? 僕なら此処に居ます。
 美夜子だって居るのに、一人だなんて事言わないで……!」
 克美の言葉に、辰巳が反応を示した。
『み…や…こ…?』
 何があってもすぐに対応できるよう、ジョンは聖書を開き、滝川が剣印を抜いて身構える。
『駄目だ、駄目だ、駄目だ!! 駄目なんだ!!
 もう遅すぎる。お前はやがて外の世界へ飛び出して行く。だけど私も美夜子も、もうどこへも行けない。お前を困らせるつもりじゃ無かった。
 だが私達は他に方法を思いつかなかった』
 両手で顔を覆い身を震わせて、激しく鳴咽する。
 その姿に、ジョンは優しく声をかけた。
「誰が貴方を一人やなんて言わはったんでしょう?
 貴方にはこんなに優しい息子さんも、お嬢さんも居てはりますのに。今貴方にお体を貸してくれているんは何方です?
 貴方のお友達ではないんですか?
 また神の国に行くことは、一人になることではありません。神の懐に孤独は無いのです」
『私が行けば、紫苑はどうなる?
 美夜子は?
 克美は……あの子は……私を恨みはしないだろうか?』
「何を言ってるんですか?? 僕はお父さんを尊敬してるし、感謝もしてる。恨むなんて───」
『お前が海外の学校へ行きたいと言い出した時からずっと、不安だった。もう帰ってこないかもしれない。もう帰りたくないと、いつ言い出すのかと不安で仕様が無かった』
「僕の帰る所はお父さんと美夜子の所だけです。この『家』じゃなく、お父さんと美夜子の居るところが 僕の家なんです。
 僕が向こうの大学へ行きたいと言ったのは、信頼できる研究者が極端に少ない上に、向こうの方が遥かに研究が進んでたからで、二人から離れたかったわけじゃ……!!」
 滝川とジョンがリンに合図を送って、克美を部屋に入れる。自由に身になった克美は、そのまま辰巳の元へ走り寄る。
「お父さん」
 両肩に腕を回してしっかりと抱き合う。
『克美、美夜子を頼む。紫苑は私に巻き込まれただけなんだ。私が居なくなれば、きっと正気に戻るだろう。彼は私達の為に、身替わりの人形を作ろうとしていただけだからだ。
 それよりも美夜子を助けてやってくれ。あれの存在を歪めてしまったのは私なんだ。だが私では美夜子を救えない。美夜子は別の可能性に気付いたらしい。もう私達とは別のところに居る。あの子が間違いを起こす前に、あの子を頼む……』
「いつまでも此処に居ることは、自らを一人に追い込んでいる事に、もうお気付きですね」
 ジョンが声をかけると、辰巳が不思議そうに見つめ返してきた。その手にある聖書からジョンが神父だと分かったのだろう。おとなしく頭を垂れた。『お願いします』
 ジョンに浄霊を頼み、その後寂しそうに克美を見るが、かすかに微笑んでこっそりと耳元に呟く。
『どうやら最後の最後に、お前の役に立つことが出来たらしい』
 その言葉は克美にだけしか聞こえなかったが、思い残すことが無くなって、晴れ晴れとした顔の辰巳の姿が急速に薄れていく。
 その背後で2人の会話を妨げないようにジョンは聖書を広げ、そこに書かれている言葉を朗々と読み上げているのだ。
 ただ読み上げているようで、実はまったく違う。
 ジョンが言葉に託した思いの一つ一つが力となって空気を浄化し、彷徨える霊すらもその空気と一体化して行く。やがて祈りは光へと導く。迷いを断ち切った霊は光と共に浄化される。

ジョン


 ジョンの斉唱が終わるとともに、その姿は完全に見えなくなった。
  後に残されたのは、抱きついたまま泣いている克美と、気を失ってぐったりとしている三矢紫苑のみ。
 滝川は大きく息を吐いて、泣き崩れる克美の肩を叩いて三矢から引きはがし、自分にもたせ掛けるようにして立ち上がらせる。憔悴の激しい三矢の方はジョンとリンの二人掛かりで運び出すことにした。
 最後に、全員で部屋を振り返ったが、美夜子の姿は何処にも見えなかった。



◆◇◆

 

 

 窓の下ではぼーさんが手を振っている。その隣を歩いていたジョンも二人に気が付いて手を振る。お返しにと、麻衣と真砂子も揃って手を振り返す。
「緊張感ないねぇ」
 くすくすと、こちらも緊張感の抜けた忍び笑いが零れていた。
「美夜子さんは説得に応じますかしら?」
 それでもふと、真顔になって真砂子が心配する。
「難しいんじやないかな」
 応える麻衣からも笑顔が消える。モニターには、リンに渡したカメラからの映像が送られている。そこでは扉越しに必死になって語りかける克美の姿が映し出されていた。
 心の何処かで、美夜子が説得に応じる訳が無いと思っている麻衣には見ているだけで辛い光景だ。だから出来るだけ直接目に入らないように、違うことを考え、違うものを見るようにしていた。
 そうしないと泣きそうだったから。
 ナルは何処か不機嫌そうにモニターを睨みつけていた。知らぬ人が見たのなら、まるで親の敵でも見ているようだと表するだろう。それぐらい、きつい視線で画面を凝視し続けている。あまりにも対照的な行動に、真砂子は笑いたいのを堪えて無表情を装う。麻衣が克美に気を使う度に不機嫌になるものだから、今回もきっと誤解しているのだろうと思うと、ナルが可愛く見えてくるから不思議だ。
 画面の中では説得を諦めたものらしく、リンが扉を蹴破る所だった。麻衣には悪いと思ったが、滅多に無い機会なので、ナルの瞬に座り込んでモニターを見ようとした時、電話が鳴った。
 ナルは真砂子か麻衣が取るものと、端から無視の姿勢だったのだが、いつまで経っても電話のベルは鳴り止まない。不審に思って二人を見ると、まるで電話そのものが怖いかのように、表情が引きつっている。二人の様子が明かに異常だと判断したナルは、仕方なく自分で取りに行こうと立ち上がると、真砂子が腕にしがみついてきた。
 その顔が青ざめている。
「原さん」
 静かに声をかけると、真砂子は自分でも己の異常さに気付いてナルから腕を放した。尚も受話器に手を伸ばそうとするナルに、今度は麻衣が悲鳴を上げた。
「お願いっ。その電話を取らないで!!
 とても嫌な感じがするの。
 ねぇ、取らないでっ?!」
 真砂子が必死の思いで麻衣に抱き着き、その動きを阻止する。その間にナルは受話器に手を掛けた。
『ナル?』
 第一声は松崎綾子のものだった。
『良かった、中々出ないから何か有ったのかと……なんか電波の状態が悪いわね』
 確かに、綾子の言うとおり電波の状態は余り良くない。それどころか、どんどん悪くなっていく。
「その様子では収穫が有ったようですね」
 どこか焦っているような綾子の声で、早く報告したいのだろうと余計なことは言わないでおく。だが対する綾子はしばらく迷う素振りを見せ、声を落として話し始めた。
『一応、裏付けを取ってからと思ったから、こんなに遅くなっちゃたんだけど。お願い、良く聞いて。
 御堂美夜子は事故に遭った当日、美夜子の希望で父辰巳によって病院から自宅へ戻っているの。
 ただし、そのときにはもう、美夜子は───』
「いや───────っ!!」
 綾子の声に重なって、麻衣の絶叫が響いた。
 真砂子の腕の中で、有らん限りの声で悲鳴を上げ続ける。どのくらい声を出し続けたのか、急に力を失った麻衣の身体が崩れ落ち、咄嗟に真砂子が自分の身体をクッション替わりにして、麻衣を受け止めた。受話器の向こうでは、麻衣の悲鳴を聞いた綾子が麻衣の安否を確認していたのだが、いつの間にやらうんともすんとも言わなくなっている。
 電話そのものが沈黙していた。
 だが必要な言葉はナルの耳に残っている。
 綾子はナルにこう告げたのだ。

 ―――そのときにはもう、美夜子は……







 死んでいたの―――と。
 


さて、ここに出て来ているオリキャラ達の何人かにはモデルがあります。御堂辰巳のモデルは故 渋澤龍彦氏。
三矢紫苑は人形師の四ッ谷シモン氏。
・・・・・スーパードルフィーに手は出すまいぞ・・・・・。
何だかんだと趣味で遊びまくりながらの創作は楽しい。
そしてここで後編(実質中編)は終わって、ラストの完結編へ進む訳ですが、ここから先は収録イラストの点数が足りないので幾つか、可能な限り描き下ろしを入れたいと思っているんですが・・・・。


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