女性陣に割り当てられた部屋で休むよりも疲れが取れる様だからと、麻衣と真砂子は寝間着に着替えてから毛布を抱えてベースに姿を現した。
幾ら仕事上の知り合いとは言え、成人した男性の前で眠る───寝顔を見られるという事に些かの抵抗を感じずには居られない真砂子では有ったが、どうやら今夜はナルがモニターの番をするらしいと聞いて密かに喜びを噛み締める。
どうやら麻衣の能力はナルが(それともジーンが?)近くに居る時発揮されるようだからとゆう事らしいが、今までの経験からすると、一つの部屋に二人揃って居なければいけない理由は無い。
それはきっと言い訳に過ぎないと思いつつも、ナルが近くに居るというだけで、真砂子には嬉しいのだ。自分より先に夢の世界の住人となった少女に呆れながらも、後を追いかけるように眠りについた。
「ナル、無理はなさらないように」
少女二人が眠りについたことを見て、リンが席を立ち、入れ替わりにその席ヘナルが滑り込む。
「不要な心配だな」
「では先程、わたしが様子を見に行った時、ベッドにたどり着く前にドアのところで蹲っていたのはどなたです?」
痛い所を突かれて、ナルがロごもる。
昼間、美夜子の部屋へ様子を見に行った後、結局彼女に逃げられてナルは仮眠を取ると言って部屋に篭もってしまったのだが、夕食の時間になっても起きてこないのでさすがに心配になってリンが代表して様子を見に行った所、ナルはまるでドアの重しのように凭れながら寝て居たのだ。
長身痩躯のリンだが、きっちり鍛えられたその体でナルごと、無理やりドアを開けて入り、ナルをたたき起こしている。他のメンバーがナルに対してそんな行動を起こそうものなら、どんな報復が待っているのか恐ろしくて想像もつかないが、デイヴィス夫妻より、お目付役としてナルについているリンだからこそ許される行為であろう。研究のことになると、寝食を忘れる不摂生な息子を心配している両親に彼の様子を報告する義務がリンには有るのだ。
仕事の上では上司に当たるナルも、生活面においてはリンに意見する権利を持っていない。リンがイギリスに報告を入れると言ったら、その内容がどんなにナルにとって不利なものであっても止めることは出来ない。リンに報告を止めさせるには、彼の言った事に素直に従うより他は無いのである。
珍しく、齢相応の顔で不貞てみせるナルに、何やら笑い出したいのを堪え、あえていつも通りに振る舞う。
「では、わたしは休ませて貰います。すぐにブラウンさんが来られると思いますが、ちゃんとモニターの方も見ておいて下さい」
一瞬、意味が分からないといったナルの視線が背中に投げかけられるが、足元でゴソゴソと動く物体に視線を落とした後、その顔がかっと紅潮した。
ナルが何か言い返すよりも速く、部屋から抜け出してリンはドアを閉める。興味有る対象に関しては非常に有能ではあるが、感情面においては同世代の者より未発達な上司の、数少ない弱点に触れられた時に見られる少年の素顔を一番見たがっている人物がここに居ないことを残念に思いつつ、その特権を行使するリンだった。
◆◇◆
「なぁ、どう思う?」
聞いている方は滝川で、応えるのは同室のジョンである。
「確かに、この屋敷で起こってるんはボルターガイストに間違いあらへんと思いますけど、それを起こしてるんが美夜子さんやゆうのんは何か違うような気がします」
真砂子の時には確認出来なかった記録も、麻衣の一件に関しては吹き抜けのおかげで、一階に仕掛けたカメラが辛うじてその瞬間を捕らえていた。
ナルが画面に飛び込んでくる少し前に、サーモグラフィーに連動したカメラが甲冑を捕らえている。
「それよりも僕は、原さんや麻衣さん、松崎さんに何があったんかとゆう方が気になります」
何か、とは揃いも揃って体の不調を訴え、霊能力までも奮わないという事態のことを指す。
「それなんだけどな、ナル坊も自覚が無いだけで実は影響を受けてるなんて事は考えなかったか?」
いつもなら勘が冴えるどころではなく、鋭い観察力を見せるナルが今回に関してはさっぱりその様子がない。
それどころか、実は一番不調なのはナルではないかと心ひそかに滝川は思っていた。
「克美さんの所為と違って、ですか?」
「この際、にーちゃんの事は置いといてだな。いやアレも原因の一つには違いないんだろうけど、いつもならこんなことは無かったかとか、しなかったかとか、割りと具体的に指摘したりするだろ。ところが今回、それが無い。今までこんなことに気が付かなかった俺も変なのかもしれないが、辰巳氏の個人情報をサイコメトリーするなら、氏の愛用していた筆やキャンバスなんかの揃っているアトリエを調べた方が早いんじゃないか、ってね」
「待って下さい。でもあそこには美夜子さんが閉じ篭ってはるでしょう。だから、調査対象外にされたんちゃいましたか?」
滝川の指摘にジョンは思わずたじろぐが、言われてみて初めてその事に気が付いた自分も、どこか感覚が狂っていたのかもしれないと思い始める。
「まだある。俺たちが手の内を明かしていない事もあるが、この件を解決して欲しい筈の克美の方も、聞き込みが核心に近づくと話がずれていくんだ」
ナルが聞き込みがしにくいと言っていたが、事件以外の話ではわりとすんなり進展する。
「全員が、事件から逃げているような気がするのは俺だけか?」
「したら、リンさんは結界があるんやないかって、言ってましたけど、僕らの方が無意識下で自分の能力にセーブかけてると言わはるんですか?」
口では否定しているものの、滝川の言い分の方が正しいのかもしれないと、足元に引かれた奇妙な図形を見つめる。
何でも、幽霊の類から身を隠すために用いられる密教の結界なのだそうだ。何処で手に入れてきたものか、青いピクニックシートにでかでかと油性マジックで書き込まれている。
今夜のモニター番になっているジョンは、夕食の後軽く睡眠を取っていたのだが、目覚ましの音で起き上がった彼の目に、この奇妙な図形の中で考え込んでいる滝川が居た。起きぬけで驚いたものの、手招きをされて、おずおずと自分も図形の内側へ入り込んで話を始めたのはほんの数分前。
滝川の話を聞き始めたころはそんな馬鹿なと思っていたことが、時間とともに変化する。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのかと。
「僕らが全員、影響を受けているとしたら、特に女性の方が感化されていると言う事でっしやろか?」
「そこまでは言い切れない。するとリンの式の説明が難しいだろ。あと、ナルは少年にここいら周辺の車の事故記録を調べるよう手配していたが、3カ月前からと指定してた。それをメシの前にきた綾子の電話で慌ててここ一年に切り替えている。もしかしたら、この家から離れることによって綾子の方も思考力が戻っているのかもな。今はこの結界の中だからこんな事を考えもするが、ここを出た後、頭が鈍るかもしれん。気を付けろ。一応新しい護符を用意しておく。此の手の護符って奴は、時間が経つと効力が弱まっていくんだ。向こうで寝て居る奴の分も書くから、一緒に持ってってやってくれ」
危険が伴う場合の調査の時は、滝川や綾子が書いた護符を身につけることを義務化されていたが、調査終了後は大概回収されて、火で燃やしているのをジョンは知っている。調査の度に新しく書き起こすので不思議に思っていたが、護符が時間と共に効力を失うとは知らなかったので、納得する。
日本の神社で一年経ったお守りを返して、火で清めるのもそう云うことなのかと改めて日本の呪術文化に感嘆した。
以前、ナルが日本における心霊現象には興味深いところがあると言っていたのを思い出す。大抵の日本人は自覚が無いが、日本は世界的に見ても珍しい呪術国家である。日本には八百万の神々が存在する。ありとあらゆる物に魂が宿り、道端の石ころにさえ、神が宿ると云う信仰がある。学校で教える歴史からは削除されているが、天皇中心で政治が行われていた時代、その政治の中心には必ず占いがあった。陰陽寮という部署が存在し、陰陽師は高級官僚だった。
現代でも日を拝み、拍手を打ち、不吉なことの後には塩をまく。そんな些細な呪術が、日常生活に紛れ込んでいる国。信仰や、思いはパワーになるという。そんな国だからこそ、霊たちが密に根付くのだろうか。
そうやって滝川と話し込んでいるうちに交替の時間が来てしまい、ジョンは慌ててベースへ行く支度をする。
出掛けに、今まで使っていた結界付きピクニックシートを押し付けられ、畳まれてもいないそれを抱えて行く羽目になったジョンだった。
話し込んでいた所為もあるが、急いで行った割りにベースには既にリンの姿は無い。そして、もしかしたら遅れたことを怒っているかと心配していたのだが、もう少しゆっくりしてきても良かったかもしれないとジョンは思った。
ジョンが部屋に入った途端目にした物は、落ち着いた雰囲気のナルと、彼の足元で眠っている麻衣と真砂子だった。静かで穏やかな空気。三人を中心に不思議な空間が存在していた。胸ポケット中で、滝川が書いてよこした護符が熱を帯びているのが分かる。
滝川の指摘どおり、ここには感覚を狂わせる何かが存在しているのだろう。だが、その存在は此の空間を嫌っているのか、その力を発揮出来ずにいるようだ。
その中心にいるのは、ナルと麻衣だろうか?
「遅れまして、申し訳ありません」
安らかな寝息を立てている少女達を起こさぬように、声を潜めてナルのすぐ近くへ座り込んだ。対するナルも声は立てずに、頷くことで返事にかえる。
「何ぞ、変化はありましたやろか?」
変化など無かったであろう事を予想して聞くのだから、これ程厭味な質問は無いだろう。
───何故、厭味と思う?
返事はジョンの予想どおり。「何も無い」
───当然だ。何も無いのだから。
ドキンと、大きく心臓が脈を打つ。胸の辺りがチリチリと熱い。
「夜は長いですよって、熱いコーヒーなんか、いかがですやろ?」
「もらいます」
ナルが足元の存在を気にしつつ、それでも起こしてしまわぬように細心の注意を払っているところが微笑ましい。ジョンは笑いながら、足元の機材や配線を避け、なんとかコーヒーセットにたどり着く。
ジョンは早速豆を挽こうとして、手にもっている青いビニールシートのような物を見つめた。コーヒーの準備をするには邪魔なので、何処かに置いておかなくてはいけないだろう。
───何処に置こうか?
そう思うと同時に、何か忘れているとも思った。
胸の辺りが熱い。熱をもっているのはいつも身につけている十字架だろうか? それともポケットの中の別の何かか?
───コレカラ手ヲハナシテハイケナイ。
何か大切なことを忘れている。そう思った瞬間、ドキドキと鼓動は早鐘を打ち、額には汗が吹き出してきた。
突如、真っ青になって震え出したジョンの異常に気付いたナルが、椅子から立ち上がり、素早く回りの小荷物を壁に寄せて小さな空きスペースを作る。
それからまわりにクッションを敷き詰め、寝かせようとした時、きつく抱き締められた青いシートに気が付いた。
「ジョン、これは?」
経験からすれば、ジョンが意味もなくベースに私物を持ち込むことはまず無い。これは必要だと思ったから抱えてきたものの筈だ。
だが、ナルに問われてジョンは虚ろな目でそれを見つめた。
───コレハ、ナニ?
「密教の護符のようだが?」
ジョンの腕の中から引っ張り出して、広げてみれば奇妙な図形と梵字が描かれている。今、屋敷にいるメンバーの中でこんなものを作れるのは滝川だけだと分かっているので、とりあえずシートを床の上に広げ直した。
「ぼーさんが寄越したんだな。一体これは?」
ナルが首をひねるのに、答えが浮かぶ。
「ゴーストの視界を遮る、言うてました」
ジョンはやっとの事でそれをロにした。
───ソウ、コレハヒツヨウナモノ。ナゼ……
何故、こんな簡単な事が思い出せない?
云うことを聞かない体を引きずって、ジョンはシートの図形の内側へ入り込む。暫くすると鼓動は収まり、呼吸も楽になる。
「滝川さんは、僕ら全員が感覚を狂わされてると、言うてはりました。僕もそう思います。渋谷さんも影響を受けてはるように見えます」
シートの上で仰向けに寝転がったまま、ジョンはナルを見上げた。予想外の指摘であったろう事を窺わせるのは、器用にも片方だけ僅かに吊り上がった眉だ。見えるはずの無いナルの怒りのオーラが、陽炎の形をとって見えているような気になる。
「どうゆうことか、説明できますか?」
「渋谷さんもどうぞ、この内側へ来て下さい。この中なら確かに影響力が弱まるようです」
そう言われると、ナルは困ったようにシートの図柄を眺め、次いで諦めたように息を吐き出し、おとなしくジョンの隣に座り込んだ。
「滝川さんは、もともと瞑想するためにこれを用意したらしいです」
人間、煮詰まった時には何も考えない事。さすれば道の方でやってくる。
アバウトだが、滝川はいつもそんな風に考えるようにしていた。生家が寺だったのと、家業を次がせようとした家の都合で、自分を『無』の境地におくには瞑想という手段が一番慣れている。また、以前は『視る』事も出来る体質だったので、幽霊に邪魔されぬように結界を張ることも覚えていた。
今回のケース、幽霊が居るのか居ないのかははっきりしていないものの、つい昔の癖でそんなことをしたらしい。そして何も無い状態になった時、見えているはずなのに見えていないものがあると気が付いたのだと言う。
妙に冴え渡った頭の中で、幾つかの新しい疑問が次々にわいてきた、とも。
「───始めは僕も認めたくありませんでしたけど、ここの中で考えていると、どうしてこんなことも思いつかなかったのかと、そんな事が後から後からわいてくるんです。渋谷さんはどないでしょう?」
「確かに……」
言われて見れば、思い当たる節は幾つもある。誰もが核心に近い所から、僅かにずれたところを探っているようだ。
「だが、僕らの感覚を狂わせている『何か』は、時折その力が弱くなるのも確かなようだな。
少なくとも、ジョンがこの部屋に入って来たときの僕らの印象は変わらなかったんだろう」
「はいです。渋谷さんにお話しせなあかんと、まだ考えていられるうちでしたから、間違いない思います。あの時僕は、その『何か』の力より、ここに存在してる空気の方が強いと思いました。それで安心し過ぎて影響されたんでしょうね」
部屋に入るまではナルに滝川の伝言を伝えなくてはと、気を張っていたジョンだが、安心しきって寝ている麻衣や、穏やかな空気を身にまとっているナルの姿を見て気が抜けたのも事実だ。その一瞬にやられたらしい。
「リンは結界だと言っていたが、結界なら一定の強さで僕らに影響が出てもいいだろう。それにしては差がありすぎるから、それよりも、この力の中心がこの屋敷内に存在し、距離乃至、状況によって変化すると見た方がいいな」
ナルの言葉に、ジョンはちょっとした思いつきを口にしてみる。
「麻衣さんは渋谷さんの近くに居る時が、一番調子がええようですね」
反射的にナルは顔を上げ、まじまじとジョンの顔を眺める。
「原さんは渋谷さんゆうより、麻衣さんと一緒の方がいいようです。それから、松崎さんも麻衣さんと一緒の時の方がいいですやろか? ああ、でも原さんも松崎さんも渋谷さんの側に居る麻衣さんいう、条件付やし……」
続けられたジョンの言葉に、ナルの瞳の色が深くなる。
「奴は一体何をしているんだ?」
呟かれた言葉に、今度はジョンがナルをまじまじと見つめ返す。今の台詞を口に出して言ったことの自覚が無さそうなところから、『奴』が彼の双子の兄、ジーンの事じやないかと想像は付くが。
どうやらジーンからの連格が無いのを、一応は気にしていたのだろう。残念ながらナルには霊を視る力も無ければ、霊から身を守る力もない。そういう事はジーンの領域だった。そしてそのジーンは、現在霊体となってナルに憑いており、調査中になると活発に活動しているはずなのだ。
だが今のところ、麻衣もナルもジーンの存在を確認出来ていない。
「今までは麻衣さんの調子が悪かったから、連絡がつかなかったんかもしれません。もしかしたら、今夜はお兄さんの助力が得られるかもしれませんね」
心を見透かされたようなジョンの言葉に、ナルは怒ったように顔の向きを変えてしまう。だけどナルが本気で怒っているわけではないのを見て取って、ジョンはゆっくり起き上がった。
「滝川さんから新しい護符を預かってましたん、忘れてました。お渡ししときます」
後ろ向きのナルの肩越しに、そっと護符を差し出すと、無言のままそれを受け取る。
「この家は、見かけ以上に危険なようです。気をつけなあかんのは、自分の思考が常に正常であるか、客観的に自分を捕らえる事が出来るかどうかやと思います」
「難しい注文だが、一理ある。……ここまで凝った細工を弄してくれたんだ。どうやらここの主は、僕たちに秘密を探られるのが余程お気に召さないらしい。一体何を隠しているのか分からないが、それが今回の件の中心を成しているのは確かだな。
これからは抵抗が酷くなるだろうが、抵抗が強くなればなる程、答えに近づいている証拠だ」
「こっからが正念場やと思います」
そう応えると、漆黒の瞳が真正面からジョンをとらえる。
「今の僕は、『普通』だと思うか?」
「はい、ダイジョブやと思います」
真っ青な瞳がそれに応える。
「少し整理してみよう。まずは……」
本格的に話し込もうと向き直ったナルのすぐ後ろで、くしゅんと己の存在を自己主張した者がある。
声のした方を見れば、寝返りでも打った拍子にずり落ちたものか、折角持ってきた毛布から肩が見えている麻衣の姿があった。ナルはそれを呆れたように見やるものの、ゆっくり立ち上がって毛布をかけ直してやる。それから暫く悩む素振りを見せるが、そのままモニターの前の椅子に座り直した。
ジョンもそれに合わせて立ち上がり、ナルのすぐ倒に座ろうとしたが、思い出したようにコーヒーを入れ始める。
「大変お待たせしまして、申し訳おへん。コーヒーを忘れるところでした」
にっこりと、いつもの微笑みでジョンがカップを差し出した。それがあまりにも自然だったので、ナルもつられて口元が綻ぶ。
足元には微かな寝息が二つ。
───大丈夫。意識は混濁していない。
ナルとジョンはお互いの顔を見やり、幸せそうに眠る少女を起こさぬ程度に言葉を交わす。
───次は誰も狙わせない。
密に決心したナルの瞳の光が鋭さを増す。
───誰一人として、失うわけにはいかないのだから。
何処かで誰かが溜め息をついた。
思いの強さでは負けていないはずなのに。
何故、邪魔をしようとするのだろう。
ただ一つの事をしか、願ってはいないのに。
自分とて、失いたくはない。
だから譲れない。
だからひたすら願うのだ。
───どうか誰も邪魔をしないでと……
◆◇◆
それは唐突に訪れた。
見知らぬ部屋だった。
足元には首が転がっている。
首。
まさに首としか言いようのない物。
ただ麻衣が悲鳴を上げずに済んだのは、それが何処から見ても作り物以外のなんでもなかったからだ。一体幾つ有るのか数えてみるのも嫌になる程の人形の首が軽がっている光景は、現実味の無い事夥しい。しかもその首の顔はテレビでお馴染みのアイドルや俳優等、見覚えの有るものが多い。中には真砂子の顔らしき物も混ざっている。
麻衣はその中の一つを拾い上げようとしたが、その手がスルリと擦り抜けてしまう。
───これは夢だろうか?
現実味の薄い風景。だが現実の何処かに存在しているはずの部屋。―――これは直感。
麻衣は一瞬、ナルがサイコメトリーをしたのかと思ったが、自分の手足が勝手に動こうとしないところから別の可能性を思いつく。
幽体離脱。
試しに自分の手を翳してみると、何処か頼りなげで、向こう側が透けて見えるような気がする。自分自身の存在を確認する為に、両腕で自分を抱き締める。そこまでして初めて確信した。これは間違いなく幽体離脱だと。
だとしたら、自分の身体はナルの傍で寝ているままなのだろうか?
今までの不調が嘘のように、意識まではっきりしている。やっぱりナルが傍に居る所為かな───等と思ってはみるものの、現実に自分とナルが一緒に居るところが見れないので、これは後で確認するよりほかはないようである。
改めて辺りを見回してみれば、ゆったりとした広い部屋なのにカーテンを締め切っている所為で室内は息苦しく感じられる。そこかしこに首や木材が転がり、かつては眩いまでに磨き立てられていたであろうフローリングの床には数え切れない傷が付いていた。その中で、異彩を放つものが有る。
廃虚の様なこの部屋に、唯一生気を感じさせるそれは、中央に立て掛けられたキャンバスだった。
使い込まれたイーゼルに、おそらくは未完成と思われる少女の絵が掛かっている。紅玉のような赤い瞳、紅を刷いたわけでも無いのだろうに艶やかな桜色の唇、極上の真珠を思わせる肌と、赤みを帯びた柔らかなウェーブを描く髪が、纏められる事なくまろやかな肩から零れている、その姿も愛らしい。
濃い緑をバックに、一糸纏わぬ少女の姿は何処か現実離れしていて、妖精の姿を描いた物のように見えるが、現実に生きて生活をしている存在で有ることを麻衣は知っている。
『なんて、きれい……』
同性の目から見ても、美しいと思えた。絵でさえこの存在感なら、実際目の当たりにした者なら一目で恋に落ちるかもしれない。こんな存在がすぐ近くに居て、それが自分の妹だとしたら、そう考えると克美が溺愛するのも頷かれる。
それと同時に、御堂辰巳がどれ程娘を愛していたのかまで、この絵を見ていれば伝わってくる。
それ程までに、優しい、美しい絵だった。
実際には触れてみる事が出来ないと分かっていても、その腕を伸ばし、指で輪郭をなぞってみる。
『きれい』
───綺麗だけど、何処か寂しいような、悲しいようなそんな気がするのは何故だろう?
「それは昔のあたし。ほんの数カ月前のあたし」
不意に背後から話しかけられて飛び上がるようにして振り返ると、何時からそこに居たのか、車椅子に座ったままの美夜子が居た。本来なら服に隠れない素肌の部分には、顔にも手にも白い包帯が隙間なく巻かれている。
「どうやって此処に……と言うのも、その身体では愚問ね。不思議な人だとは思ってたけど、これは予想外だったな」
『美夜子さん?』
予想外だったのは麻衣の方である。以前幽体離脱をした時には、誰も麻衣の霊体に気付きもしなかったのに、美夜子には麻衣の事が見えているらしい。
それともこれは幽体離脱の様にみえて、実は夢なのでは無いかと思いはじめる。これは誰かの夢で、自分はその誰かの夢をなぞっているのでは無いだろうか? そんな麻衣の迷いを読み取ったかのように美夜子が言葉を紡ぐ。
「貴女は気付いて無かったろうけど、あたしは貴方が此処に来る事になる前から貴女を知ってたよ」
ゆっくりと、そう、美夜子はゆっくりと二本の足で立ち上がってみせた。そのまま音も無く美夜子が一歩前へ出ると、我知らず麻衣は一歩後ろへ下がってしまう。
「どうして此処へ来てしまったの?」
小鳥が首を傾げるように、ほんの僅かだけ首を傾ける。包帯に隠れた顔では、その下で、どの様な表情をしているのか見当もつかない。
「あたしが前に話しかけた時、抵抗なんてしなかったのは、解ってくれたからだと思ってたのに」
『間違ってるよ。大切な事を忘れているのを放っておくなんて―――そんな事、出来ないよ』
麻衣は自分で言いながら、己の言動に驚きを覚える。
───知っている。自分は彼女が何を望んでいるのか知っている。
「貴女は平気なの?」
あたしが望むのは、たった一つだけ。
『克美さんは美夜子さんの事、本当に心配してるんだよ?』
麻衣が訴えるように言うと、包帯の隙間から僅かに見えている目が伏せられる。
「ねえ、少しお話し、しようよ。
お兄ちゃん、優しいでしょ。お兄ちゃんの事、どう思う?」
密にニコニコ大鹿王と名付けた克美の顔を思い浮かべてみる。
『いい人だよね、優しいし。あたし、一人っ子だから、あんなお兄さんの居る美夜子さんが羨ましい』
「それだけ?」
『それだけと言われても───面白い人だとは思うけど?』
キョトンとした麻衣の様子に何やら考え込むが、さして気にした風もなく話を促す。
「恋はした事有る?
あたしは好きな人が居るよ。だけど告白は出来ないの。
今、―――貴女、好きな人は居る?」
瞬間、すべての時間が凍りついた。
いるよ。
そう答えるつもりだった。だのに舌が麻痺でもしたかのように動こうとせず、身体は金縛りにあったかのようにピクリともしなかった。
暫く無言のまま見つめ合う。
『……多分、好きだと思う人がいるよ』
漆黒の髪と瞳の、優しく笑う人。夢の中でしか会うことの叶わぬ人。彼のことを好きだと思う気持ちに偽りは無いはずなのに、どうして戸惑う必要が有る?
そしてその答えは、美夜子の納得のいくものでは無かったらしい。
「多分、なの? 自分の好きな人の事なのに分からないの?」
言葉を失い、俯いて視線を逸らせると、彼女の足音が窓際へ移動して行く。
「じゃあ、どうして好きだと思うの?」
美夜子は麻衣の視界からその身を隠すように、カーテンの襞の中に潜り込む。
『優しい人、だからかな。
笑った顔がね、すごく綺麗で、とても好きだったの。笑った顔を見るのが大好きだったの』
「だった?―――どうして過去形なの?」
『死んじゃってるから。ううん、初めて逢った時にはもう死んでたんだ。初めての時から夢の中でしか逢えないんだけど、今も、夢の中でなら逢うことが出来るから、それでも良いんだ』
「現実に手を繋いで歩く事も出来ないのに?」
『恋なら、一人でも……出来るから』
カーテンの陰から、声だけが聞こえてくる。
「何から逃げてるの? 本当の恋に理由なんて要らないのに。貴女まるで恋に恋してるみたい。
“どうしてだか分らない”
それが本当の恋じゃないのかな」
はっとして面を上げた麻衣に、美夜子の視線だけが突き刺さるように痛い。
「いいわ、そうゆう事にしておいてあげる。あたしね、もしかしたら貴女が好きなのは、あの黒い服を着た人かと思ってた」
『ナルとは双子の兄弟だったけど……』
美夜子の怒りを感じて戸惑いながらも麻衣が補足すると、今度は激しくカーテンが揺れた。
「そうか、そうゆうことだったんだ?!
やっと分かった。どうしてあの人だけ二重写しの写真みたいに見えるのか、どうしてあの人だけ上手く話しかけられないのか……そうゆう事だったんだ」

カーテンが大きく開かれて、月光の化身の様な少女が姿を現す。冷たい月明かりの下には、傷一つ無い美夜子の完璧な姿がそこにあった。
足元にはいつの間に解かれたのか、白い包帯が無造作に投げ捨てられている。青白い光りに照らされた眩いばかりの美夜子は作り物めいていて、麻衣を見つめる瞳が光を反射しているにも関わらず、まるでガラス玉のように見えた。
「あたしね、貴女を見たときから、あの人も、お父さんも気に入るだろうなって思ってた。貴女の瞳の中のあの人もそう。あのままガラス越しに見ているだけなら良かったのにね。だけど何の悪戯か、貴方達は此所へ来てしまった。
始めはね、貴方達を傷つけない様に、これでも気をつけていたんだよ?
だけど、貴女を見ていると不安になるの。あたしは今のままでも十分満足してたのに、貴方達の存在は今のバランスを大きく崩してしまう」
『美夜子さん、聞いて。今この家で起きている現象の原因を貴方は知っているよね? それには貴方達のお父さんが関わってる。何故、お父さんはコレクションに拘るの? 何故、お父さんを眠らせてあげないの?!』
「だって必要ないもの。お父さんが望み、あの人が望んだその先にある物は、あたしの希望でもあるから」
くすくすとおかしそうに笑う声が聞こえる。
だのにその口元は笑っているようにはとても見えない。
『あの人って、誰?』
「あたしは誰も傷つける気なんか無かった。
だけどここに来たのは貴方だった」
『あの人って、誰の事なの? 克美さんじやないよねぇ?』
美夜子は一旦言葉を区切り、じっと麻衣を見つめる。
「言ったでしょ。あたしは誰も傷つけるつもりなんか無かった。
ねえ、もう一度だけ聞いて良い? 貴方の好きな人は誰?」
『あたしが好きなのは……』
黒い髪。黒い瞳。陶磁器めいた白い肌。良くできた人形のような容貌。だけど笑った顔がとても暖かくて、優しくて大好きだった。
笑ってくれない彼とは、まるで正反対の、優しい人。
「もしも貴方が手伝ってくれるなら、いつも一緒に居られるようにしてあげる。あたしには大した力は無いの。だけど方向を示すことなら出来る。
貴方は―――好きな人といつも一緒に居たいとは思わない?」
ジーンと腕を組んで街を歩いてみたかった。一緒に映画なんか見て、笑っていたかった。だけどそれが叶わない夢だということを麻衣は知っている。胸が苦しい。
ここへ来たときもそうだった。
美夜子の、彼女の夢が叶わないことを自分は知っている。それは望んではいけないことだ。
だけど、その切ない気持ちが分かるから、その純粋な気持ちが痛いから……
───同情してしまったのかも知れない。
『美夜子さんはお兄さんのこと、好きだよね?』
悲しくて、苦しくて、それでも麻衣は確かめずには居られなかった。
美夜子に克美の事を大切に思う気持ちがあれば、すべての鎖を断ち切ってくれるかもしれないと期待して。
だが、麻衣の言葉に美夜子は意外な反応を示す。
光を反射する透明な瞳は、闇の深遠よりも更に深い闇の色に変じ、表情の無い顔はますます人形じみていく。
『貴方のお父さんが何を失うことを恐れているのかは分からないけど、今、一番説得出来る立場に近いのは美夜子さんだよね。
克美さん、お父さんの事も大好きだけど、美夜子さんの事も大好きなの。
二人がこの家に縛られているのは良くないと考えてる。お父さんを解放してあげて?
克美さんと新しい生活を始めよう?』
長い沈黙の後、途切れ途切れのか細い声が麻衣の耳に届く。
「駄目なの。そんなこと、もう出来ない」
『諦めちゃ駄目だよ。
克美さんね、いつも笑っているのに美夜子さんの事になると顔付きが変わるの。あんなに大切に思ってくれている人に心配かけちゃいけない』
「そんなこと言われなくたって分かってる!
だったら、……だったらあたしに協力してよ?!
他の人じや駄目なの。
貴方なら、出来るの。貴方にしか出来ないの!!」
奈落と化した瞳が麻衣を捕らえる。泣いていると思った瞳に涙は見られなかった。それでも美夜子の心が慟哭しているのが麻衣には分かってしまう。
『駄目だよ……
どんなに自分に嘘を付いても、失ったものは帰ってこないんだから』
「一つだけ方法があるわ。
シュレーディンガーの猫は箱を開けるまでは生きているのよ」
美夜子の腕が差し伸べられる。どこかぎくしゃくとした不自然な動き。
「箱の魔法が解ける前に、ねえ……」
ひどく緩慢な動きだった。美夜子の言わんとしていることが分からずにいた麻衣の後ろから、別の声が割り込んで来た。
「鳴呼、なんて綺麗なんだろう。
やっぱり二つ並べるのなら、この子と、あの青年とだな。美夜子には別のを用意しようね。
もっと顔を良く見せてくれないか? 近くで見る方がずっと綺麗だね」
振り返った麻衣の前に、見知らぬ男が一人立って居た。
この部屋にたった一つだけあった扉の向こうに居たのだろう。開け放した扉の隙間から明かりが漏れて、クシャクシャになった毛布が見えている。
男は酷く窶れていた。ぼさぼさの髪には白髪が混じり、頼はこけ、眼窩は落ち窪み、痩せ細った体に関節だけが存在を主張している。その枯木の様な腕を精一杯伸ばして、触れるはずの無い麻衣の輪郭を指でなぞる。
麻衣はこの時、初めて怖いと思った。
美夜子と対時している時には感じられなかった恐怖が麻衣を捕らえた。
───ここに居てはいけない。
「お願い!! あたし達に力を貸して?!」
「今度は顔に傷をつけないようにしなくてはね」
───逃げなくちゃ。
恐怖が麻衣の存在をその場から遠ざけた。それでも勇気を振り絞って振り返って最後に見た物は、人間であることをやめてしまったかの様な美夜子の姿と、もう一人の知らない男、その男と重なって見えるもう一人の人影だった。
───ナル……
世界が、視界の陰と陽とが反転する。
───ナル!!
ただ1人の人の名を呼びながら、麻衣は自分の意識が急速に遠のいていくのを自覚した。
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