2004-09-19
‡ 七 秘密は螺旋を描く―――3.‡
綺麗にマニキュアを塗った爪先がテーブルをノックし続けている。彼女の目の前には、とうの昔に冷めてしまったコーヒー。
「別にね、こんなモノ拾ってくる予定じやなかったのよね。だのに、あっちからものすごい勢いで追ってくるんだもの。こんな所じや逃げるに逃げられないじゃない」
「分かります。そうでしょうとも。こんな人の少ない所じやすぐに噂になりますし、逃げ場だって有りませんよね」
女が溜め息混じりに愚痴れば、相手の青年は女の機嫌を損ねぬように同じように頷きつつ、こちらも大きく溜め息を吐く。
「そうなのよ。おまけにね、この木っ端役人ときたらさぁ、大声で人のフルネーム、呼ばわってくれんのよ」
「いくら田舎だって言ったって、天下の往来でそれはないですよねぇ」
ねぇ?
態と、二人して大仰に項垂れてみせると、瞬間湯沸かし器もかくやという勢いで顔を真っ赤にさせた『木っ端役人』が怒りを爆発させた。
「言いたい事があるんなら、はっきり言えよ?!」
「こんな密集した狭い地域社会では、“検事さんが聞き込みに来た”って、だけで大事件なんです。広田さんに悪気がないのは分かっています。ですけどね、あれじゃ、まるで僕らが犯罪者みたいじやないですか」
松崎さんに詰め寄っている広田さんを見つけたときには、思わず逃げそうになりましたもん、僕。
そう言って、青年───安原はまるで、今気付いたかのように広田にお茶をすすめた。お茶はコーヒー同様にすっかり冷めている。
ああ、これは僕としたことが、とかなんとか言いつつ替えるつもりは無いようだ。その様子からして安原青年が本当はかなり本気で怒っているらしい事にやっと気が付いた広田だが、ここに居合わせているのはもはや天敵に近い女、松崎綾子のみ。
「仕方がないだろう。俺だって思ったように情報が集まらなくて困っているところに、お前らを見つけたんだから。しかも、聞き込みの相手は同一人物のようだったし……」
渋々と、そんな言葉を口に乗せるのもやっとのこと。
目の前にいる人物、安原と松崎の二人は、下手なことを言えば揚足を取られるだけでなく、数倍に膨れ上がった突っ込みが返ってくる。言葉は慎重に選ばなくてはいけないのだが、生来の性格が災いしてか、策略とか、計略とか、相手の行動を予測して動くという事が得手、不得手の範疇を越えたところに存在している。とことん、小細工の苦手な広田であった。
ところが、そんな広田の仕事はと言うと、東京地検特捜部に属する、公務員のエリートとも言うべき『検事』である。だが、しかし、これには但書きが付く。
俗に花形と言われる「知能犯係」「財務経済係」などではなく、「直告係」の中の、表向きには存在していないことになっている心霊事件班。
───通称ゼロ班。現場の担当捜査官の手に負えない現象が生じたとき、それなりの視点から事件を洗い直すのが主な仕事である。
本来、心霊現象など真っ向から否定している広田ではあるが、配属されてしまった以上はいかな仕事でも真剣に務めている。
姓は広田、名は正義。
その名のとおり、正義感だけは人一倍強い。良く言えば熱血ヒーロータイプ、悪く言えば融通の利かない石頭。その曲がった事が許せない性格ゆえに、一部の上司に煙たがられて、ゼロ班などという閑職(と広田は思っている)に回されたとも知らない広田であった。
今回、彼が扱っている事件は、一見したところ普通の失踪事件と変わらないように見えるが、その人物が失踪したと思われる状況が特殊だった為、調査対象になった。
行方不明者の名は三矢紫苑と云う。
『間接(メルベール)人形』と呼ばれる特殊な人形を作っている人形職人だ。その彼がある日、忽然と自宅から姿を消してしまったと言うのだ。家族の居ない彼は、通いの家政婦を雇っていた。
以下はその家政婦から聞いた話である。
その日の午後、親友が亡くなったという知らせを聞いた彼は、憮然としたまま作業場に閉じこもってしまったらしい。それからしばらくは作業場の方から木を削る音が聞こえていたのだが、その音が不意に、不自然に途切れた。友人を亡くしたことで気を落としているのではないかと心配だった家政婦は、不安になって作業場を覗きに行った。普段なら決してしない行為である。人形を作っている時は、声をかけてはいけないことになっているからだ。
だが、今回は状況が違うと判断した家政婦は、思い切って部屋の扉を開けて主を探した。しかし、部屋の中には誰も居なかった。愛用の作業道具毎、彼の姿は消えていたのだという。普通ならここで、家政婦に気付かれないうちに部屋を抜け出たのだろうと言うことになるが、今回の場合、それが不可能だった事が分かっている。作業場は、家政婦の居た部屋を抜けないと何処へも行けない構造になっているのだ。
そう、家政婦の目に留まらずに家を出て行くことなど不可能な状況で、彼は失踪したのだ。念のため、部屋に抜け道の類が無いかどうか調べてみたが、見つかったのは換気用の窓くらいで、幅はそこそこ有るものの、高さは3〜4センチ程しか無く、これではとても人間が通れるようなサイズとは言い難い。
「とても仲の良いお友達でしたから、きっとお亡くなりになったお友達に連れて行かれたんです」
家政婦は広田にそう告げたそうだ。
広田に言わせれば「そんな現実味の無い話を誰が信じるか」と言うところだが、彼女がそう言ったのには根拠が有る。
訃報は故人の娘から電話で知らされた。
電話を最初に取ったのは家政婦だが、彼がすぐ側に居たことも有り、すぐに代わったのだそうだ。受話器を下ろした後、暫くは無言で俯いていたらしいが、絞り出すように「まだ約束を果たしていないのに」といった内容の台詞を呟いた後、仕事場へ篭もってしまった。
どうやら亡くなった相手に人形を二体、製作する約束をしていたらしい。何体か作ってはみたらしいが、相手、自身共に納得のいく出来では無かったようで、『約束』として、持ち越されていたのだそうだ。
だから、彼が仕事場へ行ったのは『約束』を果たす為で、その彼が消えたのは友人が人形を貰い受ける為に違いないと家政婦は言っているのだ。
広由が調べたところ、三矢紫苑の交友関係は極端に少なかった。
知り合いと呼べる範囲では、その殆どが人形コレタクーか、人形商ばかりで、古い友人と呼べるのは本当に一人だけだったようだ。その一人だけは学生時代からの付き合いで、彼が人形師になるきっかけを作ったのもその友人らしい。
友人の名を御堂辰巳という。
◆◇◆
「とにかく、三矢紫苑から出てきた糸は御堂辰巳という人物につながって行くんだ。聞けば御堂は心霊主義者だったそうじゃないか。既に亡くなっていることは承知している。必要なのは彼が生前、三矢に対して何か働きかけていたのかどうかだ」
「それで、御堂氏の資料を漁っている人物を不審に思って深してたんですね」
広田の一本調子の説明に、それでも相槌を打ちつつ安原は納得したようだ。この付近で御堂氏の事を調べていたのは無論安原であるが、綾子は綾子なりに多少の聞き込みをしていた所へ、不審人物を探していた広田に出くわしたと言うのが真相らしい。
「奴の息子とかいうのには一度会って話をしたんだが、確かに顔は笑っているが、何を考えているのか良く分からない奴で、結局何も分からずじまいだったし……」
「そぉお? 少なくとも『越後屋』よりは癖は少ないと思ったけど」
「僕、灰汁が強いと言って欲しいです」
「ちょっと待て、お前らあいつに会ったのか?!」
いきなり身を乗り出して意気込む広田に、安原と綾子が顔を見合わせた。だが次の瞬間、驚いたような安原の目は、すぐに悪戯を思いついた子供のように細められる。
「なんと今回の依頼人は、御堂克美さんだったりするんですねー。つまり、僕らは御堂邸内にて調査中なんですけど、情報交換といきませんか?」
にこにこと、人の良さそうな笑顔で安原が振り返る。
そしてこの場合、広田に拒否権が無いことは誰の目にも明らかだった。何が有っても、目の前に居るこの二人に、口先だけで勝てる可能性など、無いに等しい。
「お前たちに必要な情報を俺が持ってるとは限らんぞ」
それで良いならと、付け加え天を仰ぐ。
「何、結構です。後々になって聞きたいことが出きたらお世話になりますから」
この、後々というのがどれ程の期間のことを指しているのか確認しておかなかったことを後になって後悔することになるのだが、広田はこの時迂闊にも頷いてしまい、これ以降、安原の情報源に東京地検特捜部の極秘ファイルが組み込まれた事を知る者(現場に居合わせた綾子でさえ、気付くのに時間がかかった)は少ない。
無論、安原を通してナルにこき使われる日々が続く事も、この時の彼は認識していなかった。
「御堂氏が無くなったのがわりと最近だった事も有り、彼のプロフィールを記した本は大量に出回っていましたが、脚色された部分もかなり多いので気をつけて下さい」
新たな情報ベースを確保して上機嫌の安原は、そこで初めて部屋の大半を占領している紙の束を指さした。
この3人、実は8畳分は有るはずの部屋の片隅で話し合っていたのだ。この部屋は安原がナルの指示で泊まるために取った部屋だが、その部屋一面に散らばっているコピーの山の中から、必要な情報だけを寄せ集めるのが綾子の仕事だった。
無作為に集められた御堂氏に関する記事や資料はとても膨大で、この中に今回の依頼に関するヒントが隠されているかどうかはまだ分からないが、重複している部分は真っ先に破棄され、さらに嘘の記述と思われるものも撥ねていく。
使えるものなら親でも使え、といった具合に、さりげなく広田を使って資料整理をする安原に、広田も何で自分が手伝わなければいけないのかと途中で、気付きはしたものの、要るものと要らないものを分けるという作業上、全ての資料に目を通すことになり、その為、作業が完了する頃には、マニアもかくやという『御堂通』になってしまった。
大方の不要部分を処分し終え、資料が1/4程度まで纏まると、一度確認のために見聞する事にした3人は、作業を止めて休憩に入った。お茶は何故か、あまり疲れていない様子の綾子が淹れて机の上に湯飲みをならべていき、疲れて動けずにいる広由に聞かせるように安原が資料を読み上げていく。
「資産家の家に生まれるも、両親不仲の為、離婚。原因は氏の容姿による。どちらの親も養育費は出しても、一緒に暮らすことは一切無かったと。また独立願望の強かった氏は、医大に進学。当時師事していた教授の元で復顔を学ぶ。
ここまではどこの本も似たり寄ったりですね。興味深いのはここから先でしょうか。二科展等のコンクールに度々出品しており、どれも優秀な成績を収めています。
ただし、この頃の傾向としてシャガールやムンクのような作品が目立ちますが、突如としてルノワールのような作品に切り替わります。それでも一部の批評家からは想像の域を出ない幻想作家と呼ばれていたようですが、とある授章式の時に、絵のモデルである二人の子供を連れてきたことで批判は沈黙します。ここの絵の資料はカラーコピーを参原下さい」

ここで安原は手元の資料をめくりながら、カラーコピーだけを別にファイルしたものを広田の方へ差し出す。広田が差し出されたそれを覗いてみると、いきなり裸の男女の絵が飛び込んできた。御堂辰巳がどのような絵を描いていたのか予想していなかったが為に、思わずファイルを取り落としかける。それを後ろから覗き込んでいた綾子が咄嗟に手を伸ばして支え直す。どれも濃密なラブシーンに見える広田には、綾子が平然と絵を眺めているのが信じられず、絵ではなく、つい綾子の方を凝視してしまう。
その綾子は、広田が何を焦っているのか分からないといった視線をちらりと流した。
「話には聞いていたけど、確かにもの凄い構図の絵だわね。だけど、この程度で赤面するようじや麻衣も真砂子もウブねぇ。可愛いったらありやしない」
「あんたの面の皮が厚いだけじやないのか? こんな如何わしい絵がどうして二百万だの三百万だのと言う値段で取引されるのやら……」
年端もゆかぬ少年少女が無邪気に軽げ回っているようなものから、大人になりきる前の微妙な年齢のものまで、ほんの数点だが広田には何処が芸術なのかよく分からない。
対して綾子の反応は素っ気ない。
「『裸体のハマ』とか、『ダビデ像』もあんたにかかっちゃただの通俗なヌード作品になりそうね」
「馬鹿を言え、それくらい俺だって知っているぞ」
「じやあ、あちらが『芸術』でこちらを如何わしいと言い切る根拠は何?」
どうやら芸術方面は疎いと見破って綾子が鋭く言い返す。
「言っておくけどね、有名だから『高価』じゃ無いのよ。より多くの人が知っているから『芸術』な訳でも無いわ。そんなものは近頃流行のアンティークブームによってつくられた幻影よ。本当に良い物は不変の価値が有るものなの」
「それじやあ、あんたには芸術に見えるんだな、これが!」
「この絵、ちゃんとストーリーがあるもの。この子供の姿のは聖書の楽園追放を描いたものね。こっちの成長してるものは、一見きわどいポーズに見えるけど、優しい絵だわ。これも連作っぽいんだけど、これ一枚じゃなんとも言えないわね」
「鋭いですねぇ松崎さん、合ってますよ。本当にお嬢様だったんですね。最初の頃は、聖書や神話を題材にしたものが多かったのですが、成長するにしたがって、なんだか子供の成長記録のアルバムと化していってる感じです」
さりげなく失礼な事をさらりと口にした事に気が付いた綾子だったが、安原は場の勢いで反撃させないように手元の資料とコピーを手際良く照らし合わせながらチェックを入れていく。
「子供の成長記録って……絵のモデルは克美と美夜子な訳よね。うん、良く見ると、どの絵も確かに二人に似てるわ」
「絵のモデルが一緒だって? ガリガリのこの貧相な子供と、こっちの少年少女が同一人物とはとても思えない。言われてみれば克美と似てなくはないように思えるが、美夜子の方は資料の写真しか見ていないから何とも言えないな」
綾子と広田がそれぞれの感想を述べる。
「子供たちが痩せているのは、引き取られたばかりだからじやないでしょうか。二人とも、ほぼ同時に養子になったようです。この前と後で、作風が著しく変化してますね。ちなみに、子供を引き取ってからの方が評価は断然高くて、この後、医師になることを放棄した様子です」
二人の会話が切れたところで、再び手元の資料を確認しながら安原が淡々と語る。
「御堂氏の作品の後に、幾つかの写真もスクラップしてあると思いますが、その写真に家族以外の人が時々写ってますでしょ。どうもその方が三矢紫苑さんのようですね。この二人、本当に仲が良かったみたいですねぇ、こうやって見ていると」
言われて広田がコピーを捲っていくと、雑誌の切り抜き写真を並べたらしいものが出てきた。確かに子供二人に大人の男性が二人並んで写っているものが何点か有り、、そのうち一人には見覚えが有る。
何度も資料で見た顔だ。三矢紫苑に間違いない。
「お互いにお互いが、自分の作品の一番の理解者だと明言しあってます。関係者の間では、この二人が友人であることは衆知の事実と言った所ですか」
広田の鼻に皺が寄せられる。
「人形マニアに心霊主義者とは、また胡散臭い友人関係だな」
「自覚は有ったようですよ。雑誌のインタビューでこう答えてます。『私たちは異端であった。だからこそ、一目でお互いの事を理解した。私たちの間に飾り立てた言葉など必要なかった』」
「あーそれ、聞き覚えが有るような」
綾子が入れた茶々に、律義にも安原は応える。
「それはですね、谷山さんと原さんが行ってきた展示会のパンフレットの表紙にでかでかと印刷されていたからでしょう。御堂氏の言葉としては、かなり有名な台詞のようですね」
言って、一度立ち上がり、自分の旅行用のカバンから何やら薄い冊子を取り出して机の上に置いた。
『MIDOコレクション』と大きく入ったタイトルの下に、先程言ったのと同じ言葉が白抜きで添えられている。展示会の入場者全員に配布されたものらしく、薄っペらい作りではあるものの、それでも簡単な氏のプロフィールとコレクションの一部が紹介されていた。プロフィールの最後の行には、彼が亡くなった日付も入っている。
「残念ながら、広田さんが必要とされている情報はあと、これくらいですね」
安原はパンフレットに挟み込んであったレポート用紙を抜き出して提示する。レポート用紙にはびっしりと、彼の著書のタイトル及び、絵画のタイトルが列記されていた。
「流石にこの書籍関連、全てにチェックを入れるには時間と労力に不足が有りまして、リストを作るのが精々でしたが、分野別の図書ナンバー振っておきましたから、参考にしてください」
「───そのファイル、まだ続きが有るようだが?」
これ以上は話す気が無いのかと、問い詰めるような口ぶりで広田が聞くと、安原は一瞬不思議そうな顔をした後、苦笑いを浮かべた。
「こちらは新聞のスクラップ記事ですが、御堂さんが関わっていると思われる記事だけを抜き出したものです」
その言葉を聞いて綾子が思い出したように安原に尋ねる。
「半年ほど前に、この山中で車の事故の記事、載ってなかった?」
「車の事故?」
唐突な綾子の言葉に広田と安原の声がハモる。
「御堂美夜子が車の事故に遭ったのがその頃だって聞いたから、何か分からないかと思って」
「車の事故、ですか? 御堂辰巳に関してはチェック入れてましたけど、美夜子さんと克美さんについてはノーチェックだったなぁ。でも、偶然って怖いですね。御堂辰巳氏の死亡原因も車の事故でした。
ただ、状況から自殺説も出てますね。一応、夜の山道を走っているときに転落したもの、となっていますが、ブレーキの跡が見つかっていません。街灯も無い細い道だから、道から逸れたのだろうと言われてますが、タイヤ痕から氏が急にハンドルを外側へ切ったことが判明してまして、ここからは仮説ですが、野生の動物が道を横切ったのを避けようとして運転を誤ったのではないか、と言うのが大方の見解のようです」
「それはこちらでも調べてある。半年ほど前から情緒不安定だったとして、自殺説が有ったのも確認している」
「あたしが知りたいのは、美夜子の方なんだけど」
一瞬の沈黙の後、安原が困ったように息を吐き出す。
「この辺りで蔵書が一番充実した図書館は隣の市ですから、今から行っても閉館時間に間に合いそうも無いですね。なんなら松崎さんも一泊しませんか?
どうせ必要経費で落とされるでしょうし」
「そうねぇ、どうせこの資料も小役人用にコピー取りなおさなきゃいけないんだし、あの山道で事故に遭ったと言うのなら、暗くなってから帰るのは危険よね。あんたもそれで良いわね?」
いいわね、と聞かれているにもかかわらず、既に決定した事項のように広田の耳には響いた。
「それじやあ、向こうで帰りが遅いと心配なさるでしょうから、電話を入れておいた方が良いですね。御堂さん家にファックスが有ったら、こんな苦労せずにすんだのになぁ」
大きく両腕を前に突き出して背筋を伸ばす。綾子も習うように伸びをした後、徐に立ち上がり、部屋の片隅に押しやられていた電話機を引っ張り出した。
「ところで、広田さんに聞いておきたい事が有るんですけど」
足を伸ばしてくつろいだ様子の安原が、思い出したように聞いてきた。
「なんだ?」
相手が安原である事も有って、つい、返事を返すのにも緊張してしまう。
「広田さん、克美さんに会いに行ったとき、何を聞いてきたのかなぁと、好奇心です」
好奇心と聞いて、何だ、そんなことかと一気に緊張が弛む。
「とりあえず、三矢紫苑がどうやって家を抜け出たのかは置いといて、家出人が最初に頼るのは親しい友人達だ。だからもしかしたら、御堂邸に潜んでいないかと探りを入れに行ったんだよ」
「そしたら?」
「妹と二人だけで、他には誰も居ないとよ! もし誰かが潜んで居るとしても、食事はどうするのかと逆に突っ込まれた。余分な食事を用意したことは無いってさ」
「確かにねー、食料に余分は置いて無いようだったわよ。貯蔵庫と冷蔵庫、両方あたし見たもの」
電話で誰かと話しているようだった綾子が受話器を押さえつつ声だけをよこす。相手に泊まることを伝えつつ、こちらの話にも聞き耳を立てていたらしい。その様子に微苦笑を漏らしつつ、安原は広田に向き直る。
「三矢紫苑ですか、その人。その方が失踪した理由は何だと広田さんは推理しているのでしょう」
「例えば秘密の借金が有って、返すに返せなくなったから身を隠しているとか、誘拐されたか」
「マニアが欲しがるような人形を作る人が借金ですか?」
「だから、人に言えないようなだな……」
「マニアに誘拐説の方が有力じゃないですか?」
「裏の取れていない事を迂闊に口にするもんじゃないわよ、公務員」
「俺は検事だ!」
先程から、木っ端役人だの小役人だのと正式に呼んで貰えなかったことに、密かに怒りを覚えていたらしい広田が怒鳴った。また、売られた口喧嘩は受けて立つ綾子である。こうなると話にならないだろうと見て取って、安原は資料をまとめ直しながら、重要かと思われる辺りに印をつけ始めた。その頭のの片隅では翌日の行動予定を素早く組み立てて行く。ふと気が付いて、外を見やれば日は既に大きく傾き、西の空が赤く燃えているようだ。こんな仕事をしていると夕日の色に血の色を重ねて連想してしまう。
不吉だなと思った後、そんな事を考えているから悪い方へ事態が転がって行くのだと自分に言い聞かせながら、やはり、どこか血の色に似ていると思わずにはいられなかった。
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