2004-09-05

 

 

‡四 迷宮の謎(ミステリー)





 まず、滝川とジョン、ナルとリン、麻衣と真砂子と綾子の三人が同室という風に部屋が割り当てられた。御堂邸はヨーロッパの家を意識して作られているため、やたらと部屋数が多い。一階正面は吹き抜けの有るホール兼ギャラリー。その奥に食堂を兼ねた広間が有り、ホールの両脇東側には本来遊戯室として使われるべき所を書庫として利用している部屋が、西側には使用人が使うところを物置として使用している部屋が有る。二階は東側に麻衣達の泊まっている客室が並び、南側に書斎とナーサリールーム。西側に克美と美夜子、克美たちの父、辰巳の私室が配置されている。滝川から事前に必要なものを言い渡されていた克美は、屋敷の設計図や電気系統など準備に怠りが無い。今回ベースには現在使用されていないナーサリールームが提供された。
 屋敷には一般配線による電源と自家発電による電源との二種類が有り、機材には一般配線をまわして、生活部分は自家発電に切り替えた。美夜子が車椅子で生活していることもあり、美夜子専用の小型エレベーターが設置されていたので普通の家庭で使うよりかなり大きな電圧が使用可能となる。一番扱いに迷ったのは、家の裏手にあるアトリエとして使用していた小さな離れである。美夜子は怪我をして以来、自室かこのアトリエのどちらかに閉じ篭もっている事が多いらしいが、大抵鍵がかかっている。
 ここにカメラを設置するのかどうか悩んでいたのだが、美夜子から承諾が得られない以上、調査の対象からは外された。
「でも驚きました。僕が名乗った名前から父のことを推測されるとは思ってもいませんでしたから」
 誰が言い出した訳でも無く、何故だか自主的に荷物運びを手伝っている克美の姿が有る。たまたま克美に会う前に展示会へ行っていただけなので麻衣としては笑って誤魔化すより他はない。乾いた笑いを浮かべている麻衣をどう思ったのか、克美は麻衣の腕の中から軽々とモニターを取り上げて、ベースへと持って行く。
「滝川さんから優秀な方々だとはお聞きしてましたけど、想像以上のようで、嬉しい限りですね」
「綾子はともかく、優秀という面では確かにそうかも」
 渋谷サイキック・リサーチの面々は、それぞれ得意分野が違っている。扱った事件の内容によっては多少の役立たずが発生するが、そこはそれ、フットワークとチームワークでカバーできる。そして過去の事例から、彼らがそれなりの実力者であることを経験から麻衣は知っている。
「滝川さんについては護符のお世話になっていましたから、立証済みだったんですけど、父の趣味に合うような容姿を持つ霊能者となると、ただでさえ困難な枠をさらに狭めている訳ですからねぇ。渋谷さんが綺麗な人で本当に助かりました」
「ナルに関しては、自分でもそう思ってるんだから始末が悪いですよぉ。ええ、あいつのことはナルシストのナルちゃんと呼んでやって下さい」
「へぇ、ナルって変わったニックネームだと思ってましたけど、それが所以ですか? でもよく、あの人もそんな名前で呼ぶことを許してますねぇ。普通なら嫌がりそうなものなのに。それともそう呼んでいるのはごく一部の人だけ?」
 麻衣は少し考え込む。ナルは一見すると日本人のように見えるが、実は違っている。イギリス国籍の持ち主で、純粋な日本人ではない上に、本名が専門家の間では有名すぎるので、ここ日本では『渋谷一也』とゆう偽名で通している。新進気鋭の心霊学者オリヴァー・デイヴィス、それがナルの本当の名前だ。そして正確には、ナルという響きはオリヴァーの愛称からきている。だが諸事情から、麻衣のナルシスト説の方が都合がよいことも有って、仲間内ではナルシストのナルで通すことにしている。だからこの時も、麻衣はこう返した。
「大丈夫。ナルが直接嫌だと言わない限り、克美さんもそう呼んでやって下さい」
「そうですねぇ。でも、僕がそう呼んだら睨まれそうだなぁ。やっぱり遠慮しておくかな?」
 くすくすと笑いながら、麻衣の耳元に囁く。実はこうして麻衣と話しながら歩いている間、必ずどこからか視線をずっと感じている。随分大事にされているんだなぁと感心しつつも、その理由が分からなくも無い。初めて会った時、一見どこにでもいる少女のようで、その実、非常に魅力的な存在だと克美は思った。何処がどうと言いにくいのだが、ふと視線を奪われる。見ていると不思議に落ち着く。ただ見た目が綺麗なだけなら心奪われることは無い。
 だが、麻衣は違った。近くに居れば居る程、その存在に心惹かれていく。つい、ちょっかいも出したくなるというものだ。ナルの反応が面白くて、麻衣の側に居るなどとばれたなら、きっとそれなりの報復が待っているだろうと分かっていても悪戯心の抜け切らない克美だった。何より、可愛い女の子が側に居て悪い気のしない男はいない。
「準備完了」
 すべての機材を持ち込んで、働き者の依頼人のおかげでいつもより速めに設営の済んだベースでは、既に次の段階に入っていた。それぞれドライアイスの入ったボックスを抱えてカメラの調子を見に行く者、デジタル温度計を携えて室温を調べに行く者様々である。各々がインカムを標準装備しているので会話も滞り無い。
「どんな感じ?」
 メカニック担当のリンは大抵パソコンの前が指定席で、モニターの見える位置もキープしている。麻衣と克美がモニターの接続をしているうちに、滝川とジョンがカメラをセットする。接続が間違っていると何も映らない。いつもの確認。麻衣がリンの肩越しに画面を覗き込むと、それに習うように克美が麻衣の背後から肩に手を置いて同じょうに覗き込む。リンが返事をするより早く、キーボードに添えられた指が帯電する。
 パシッと、小さな火花が散ってパソコンの画面がブラックアウトした。
「何? 何処か配線間違えたかなぁ」
「いえ、大丈夫です。今のは配線ミスではありません」
 麻衣が不安そうにするのに軽く手で制して、リンは一度完全に電源を落とし、もう一度起動スイッチを入れ直す。すると見慣れたロゴマークが入って正常に動いていることが分かる。
「これぐらいならトラブルのうちには入りません」
 リンには原因が分かっているので密に笑いを噛み殺す。彼らのすぐ後ろで安原に連絡中のナルの気配を背中で感じる。電話の向こうでも、ナルの不機嫌を感じ取って、極めて事務的な会話だけが進行しているようだ。
「話には聞いてましたけど、豪勢な機材ですねぇ。あれがサーモグラフィで、こっちが暗視力メラ。ここまで高価な設備を持っている団体なんてそうは居ませんよ?」
 妙な所に感心して克美がナルの方へ声をかける。ナルはベースに持ち込んだ電話で安原との打ち合わせが無事済んで、受話器をおろした所だった。
「機材と容姿を誉めて頂きまして有り難うございます。しかし、機材はあくまで調査に必要な最低限を準備させて貰いました」
 モニターの向こうではジョンと滝川が手を振っている。
「これで必要最低限ですか。SPRやCSICOP(サイコップ)並の装備ですよ、これ」
 ナルの眉が片方だけ、ピクリと吊り上がる。麻衣もナルの機嫌の悪さに気が付いて、気分転換用に慌ててお茶を用意し始める。
「随分、詳しくていらっしゃるようですね」
「この父有りてこの子有り、ですよ。小さい頃からこんな環境で育ってますから、知識だけなら少々自信が有ります」
「それは楽しみです」
 何が楽しみなんだと、呆れつつも克美の知識に麻衣も感心する。日本において、怪奇現象や起常現象に興味の有るものならイギリスにおけるSPRの存在は当然のように知っているが、アメリカに有るCSICOPの存在を知る者は少ない。
 CSICOPとは起常現象を科学的に究明することを目的として作られた組織だ。ちなみにSPRのメンバーは自身を『ゴースト・ハンター』と称し、CSICOPのメンバーは『ゴースト・バスター』と称するようである。麻衣にすればどちらも笑いたくなるネーミングだが、ナルが『霊能者』と例えられるのを嫌うことからして多分、ネーミングにも誇りなり、自信なりが存在しているらしい。しかし、ゴースト・ハンターならまだしも、ゴースト・バスターではマシュマロマン相手に怪しげな機械でもって、幽霊の瓶詰でも作っていそうである。
 麻衣がお茶の準備を終えるころにはすっかり専門的な会話になっており、到底口の出せるレベルでは無かった。克美の知識の深さにはリンも興味を見せている。
「その論法からすると、エンゲルスが間違っていると?」
「現在、貴方の目の前で起きている現象を説明するには不十分だと言っているのです。そしてその現象を科学的に説明できるよう研究するのが当事務所の目的なのですが」
 一旦言葉を区切ったナルが麻衣の姿を認め、そしてその手が伸ばされてティーカップを要求する。
「やっばり本職の方は違うなぁ。いやぁ、勉強になりました」
「どう致しまして」
 どうも会話の流れからして、ナルのなかで克美はその他大勢からワンランク、アップしたようだ。話す価値もないと判断されると、まともに口も利いてもらえない。
 ナルはそういう人間だ。
 二人の様子から麻衣はやっと安堵する。どうも今日はナルの機嫌が思わしくなくて、話難いと思っていたのでプラスの要因は大歓迎だ。思わず笑みも零れようとゆうもの。
「濃ゆい会話してるねぇ。でもさ、じき皆も戻ってくるだろうし、先に休憩しよう?」
 ベースには山のような機材が持ち込まれている関係上、パソコンを乗せる台以外に机は無い。椅子も持ち込まれているのはリン専用となるので、他のメンバーは当然、直に床に座り込むかたちになる。これはナルといえども例外ではない。それでも人数分のクッションが用意されているのは、せめてもの気遣いか。
 その僅かな善意の塊を数個、独り占めして優雅にお茶などしているナルの隣にペたんと座り込んで、隠し持っていたお菓子の袋をひとつ開封する。そして、幸せそうにスナック菓子をほおばる麻衣をナルは嫌なものでも見てしまったかのように眉を顰めた。
 ナルは幼少時アメリカに住んでいたのだが、アメリカのお菓子の甘さは尋常ではない。ナルの双子の兄、ジーンの方は甘いお菓子も平気だったようだが、ナルはあの甘さに慣れる事は無かった。だからお菓子と言うと、瞬時にえも云われぬ甘ったるい感覚が口の中に蘇って気分が悪くなる。肉類に関する偏食には心理的理由(トラウマ)があるのだが、それ以外にも実は好き嫌いの多いナルだった。
 理由はともかく、ナルが甘い物も苦手としていることを知っている麻衣は、ナルのために甘くないお菓子も用意している。ナルが文句を言い出す前に、すべてのセッティングを済ませてしまうことなら慣れたものだ。並べる前ならともかく、並べ終わってしまったものを片付けるのは大変だ。ナルが怒りそうになったら、にっこり笑って押し通す。
 今はここに居ないが、ナルの直属の上司である森まどかに教えてもらった秘策である。もっとも、この秘策もナルの中の人物認識度の設定によっては、全く無意味なものとなる。ナルにとって、その存在が有益か、そうでないかに大別されている事を知る者は少ない。有益と判断されると、とりあえず人間として認識される。そこから先は純然と、気に入るか入らないかに別れる。気に入っている人物なら、多少の無理は我慢して聞いてくれるが、そうでない場合、人間からその他の存在へ転落することもある。既に亡くなって久しい彼の双子の兄ならば、『カボチャ』か『カボチャでない』かと表現するところだが、そんなことは麻衣も知らない。麻衣の場合は、経験と本能でそれを嗅ぎ分けている。

 パリポリとお菓子を啄んでいると、屋敷を一回りしてきた綾子と真砂子が最初に戻ってきた。
「ろうらっら?」
 少々行儀が悪いが、口に物をほおばったまま質問する麻衣に綾子が手を振ってみせた。
「全然それらしき気配なし。ついでに生きている樹も近くには無いみたいだから、今回は期待しないでよね」
「今回も、かぁ」
 態と大きく溜め息をつけば、素早くヘッドロックがかまされる。それを呆れたように、だが、幾分か楽しそうに見やって真砂子がさりげなく、麻衣とは逆のナルの隣に滑り込む。
「何処も霞がかったようで、よく分かりませんでしたわ。強いて言うなら、正面のホールに強い念を感じます。お役に立てなくて申し訳ありません」
 本当ならここで、ナルに軽くしな垂れかかりたい所だが、以前、嫌がらせを込めて腕組みなぞしたことが有るゆえに、随分煙たがられてしまっている。
 さすがにこれ以上嫌われたくは無いので、敢えてここは我慢する。それでもナルが警戒して数センチ移動したことを見て取り、真砂子は少し悲しくなった。身から出た錆とは云え、今では反省もしているというのに、一度硬くなった態度はなかなか直らない。そのくせ、下手をすると無礼極まりない態度をとりかねない麻衣に対しては、ナルの方から触れていったりする。ナルに何処まで自覚が有るのか、麻衣が何処まで分かっているのかと考えると嬉しいような、悲しいような、複雑な気分になる。
 麻衣は真砂子にとって、生まれて初めて対等な立場を取ってくれた、本物の友人だ。これまで、友達の体裁をしている知人は何人か居たが、心を割って話を出来る存在は居なかった。麻衣は万人の警戒を解く性質を持っているのだろう。それでいて、打ち明けた秘密は守ってくれると、信用も出来る。
 ナルが麻衣を傍に置いておきたくなるのも理解出来るが、同時に嫉妬も覚える。麻衣のように誰にでも気軽に話しかけたり、同じ年頃の友人とクレープなど食べながらウインドーショッピングを楽しんだり、あんなふうに振る舞えたらと考えると、自分がひどくつまらない人間に思えてくる。
 麻衣のようになりたかった。いや、麻衣になりたかった。
 麻衣にきつく当たるのは、つまらぬ嫉妬からだと自覚が有るので、時々軽い自己嫌悪に陥る。視線の端に、必ずと言って良い程麻衣の姿を捕らえているナルを恨めしく思いながらも、今は考えないようにした。真砂子にもプロとしてのプライドが有る。異性として認識してもらえなくても、仕事のプロとしてならナルに認めさせる自信をもっている。この頃では恋愛感情よりもこちらの感情の方か勝っているような気がする。だからナルの視線の先に談笑する麻衣と綾子と克美の姿を認めて、一抹の不安を覚えた。麻衣は、誰にでも平等に笑いかけるから、分からなくなる。自分の魅力について、正確な認識の無い麻衣の態度がしばしば誤解を招いているなどとは夢にも思わないであろう事が窺えるだけに、その不安は一層高まる。
 これだけ人を心配させるくらいなら、いっその事どちらからかでも良いから告白でも何でもして引っ付いてくれた方がましだと思う。滝川あたりは泣くかもしれないが、他の面々も少なからずそう思っていることを知っているので、尚のことそう考える。
「なんだか疲れてしまいましたわ。少し、横になってまいります」
 本当に体が疲れているようだった。気だるい感じが抜けきらない。ここで倒れて迷惑をかけるのは本意ではない。いつに無く重たく感じる体を引きずるようにして真砂子は部屋を出た。




◆◇◆



 起きぬけの頭はぼーっとしていて何も考えられない。麻衣はどうしたのだろうと自分でも首を捻るしか無かった。確かに夢を見たように思うのだが、どんな夢だったのか思い出せないでいた。
 普段から、ナルには「寝ている時しか役に立たないからお前は寝ていろ」と言われるぐらいなのに、寝ていても役に立たないのでは立つ瀬がない。
 まぁ、基本的に麻衣の見る夢は、ナルのサイコメトリーによって齎されているので、ナルに聞いても良い訳だが、微妙に角度が違う映像が得られる事も有るので、見た夢の内容は必ず報告していた。
 だか、せっかくの夢も覚えていないのではどうしようもない。おまけにジーンからのチャツトも無しではモノホンの役立たずだ。鉛のように重たい気分と体を無理やり動かして、ベースへ顔を出す準備を始める……
 一方ベースでは、何の動きも見せない現象に欠伸さえ出ていた。夜中に一度、ナルとリンが連れ立って部屋を出て行ったことも有って、何か新しい情報でも分かるかと、期待していた滝川だったが、ナルのヴィジョンでは何のことやらさっぱり分からぬ始末。麻衣の夢に期待をかけるが、いつもより遅れて顔を見せた麻衣は、夢の内容をまったく覚えておらず、進退窮まっていた。ナルの手元には、昨日見た家族写真が有る。どうも、その写真に対してサイコメトリーを行ったらしい。
「映像からして対象は死者だ。それと多分、子供」
「て、事はやっぱり辰巳氏の子供の頃って所か?」
「分からない。そんな感じでは無かったように思えるんだが」
 もう少し、違う情報があれば良いのだがと、麻衣を見やるが今日はどこか茫とした目をしている。本当なら、ナルと滝川はジョンや麻衣と入れ替わりで仮眠を取るところなのだが、この様子では目を離す事の方が怖い。それに加えて、昨夜は綾子も一緒に起きていたのだが、いつもの喧しさに欠けていた。
 今朝は真砂子も起床が遅れている。いつもと違う様子に戸惑いは隠せない。そして、リン。彼には式と呼ばれる使役霊のようなものが付いているのだが、それがどうも巧く使いこなせなくなっているらしい。リンが何時、誰がベースを出入りしても、きちんと把握しているのは、式の送ってくる情報があるからだそうなのだが、ここに来てからというもの、混線した電話のように、不明瞭な情報しか伝わってこないのだと言う。
 そこで彼は某かの結界の有無を示唆している。少なくとも、霊能者に対して、何らかの作用を引き起こす力の存在は間違いないようだった。
「とりあえず、俺とジョンは時間をずらして仮眠を取る必要があるな。ナル坊も昨日は殆ど寝てないだろう。
 ジョンが来るまで起きてるから、先に行ってこいや。ここの客間にはそれぞれシャワールームが付いてっから、さっぱりさせてこい」
 手のひらをひらひらと振って、ナルを追い払う。ナルも当然といった風情で部屋を出て行く。いつもなら、何か声をかけるところだが、注意力が保てなくなっている麻衣はナルが部屋を出て行ったことさえ気づいていないようだった。そしてナルと入れ違いにジョンがベースに現れる。部屋に入ってすぐ、ジョンもいつもと違う雰囲気をくみ取って、滝川とリンに問いただす。
「一体、何事ですか? 麻衣さんも、原さんも、松崎さんまで様子が変やないですか」
「どうも、妙な力が屋敷全体に加わっているらしいな。3人が3人共、体がだるいらしい」
「でも、僕らなんともありませんけど?」
「私の式も不具合が出ています」
 リンの言葉にジョンも事の重大さを考える。どうやら物を見る目を奪われた状態に有るようだった。
「それが辰巳氏の仕業として、原因と目的はなんなんですやろ」
 今度は3人でう〜んと唸る。その間も麻衣の視線は何もない空間をばんやり眺めていた。
 その時だった。すぐドアの外から真砂子の悲鳴が聞こえてきたのは。
 慌てて3人が扉から飛び出す。吹き抜けの手摺りに捕まって下を見やれば、シャンデリアの残骸と気を失っている真砂子、そのすぐとなりに顔色も真っ青な克美がいた。滝川が慌てて階段を下りようとすると、真砂子を抱き上げた克美が上ってきた。
「とりあえず、御怪我はありませんが、どこか横になれるところへ運んだ方がよろしいかと」
 滝川も同意見だったので一つ頷いて、真砂子達の部屋へ連れて行く。その途中、異変に自分を取り戻したらしい麻衣がベースから心配そうに加覗いているのに滝川が「大丈夫」と合図を送る。ナルはシャワーを浴びている途中だったのか、濡れたままの髪で飛び出してきた。女性陣の部屋に入ると、まだ眠っていた綾子を起こして真砂子をベッドへと横たえた。
「一体、何が有ったんです?」
 ナルが苛立ちも露に前髪を掬い上げる。乾いていない黒髪からは絶えず水滴がしたたり落ちていた。
「驚いたのは僕も、ですよ。原さんの顔色が冴えないようなのでお休みになられたらと、話してましたら急にあれが落ちてきて」
 と、克美の指さす方向には、見るも無残なシャンデリアの残骸が散らばっている。
 正確に言えは、真砂子が倒れていた位置からは1メートルほど離れた所に落ちたようだったが、あんなものが急に落ちてきたとしたら、ショックを受けない人間はいないだろう。ナルはガラスの破片を避けながらシャンデリアの鎖部分を調べるが、残念ながら不審な点は見つからなかった。金属の鎖と言えども腐敗からは免れない。
 人為的に手を加えた後は無かったのだ。
 とりあえず、真砂子の側には綾子を付けている。麻衣とリンはベースに残してきた。残るジョンと滝川、ナル、克美の面々は言葉も無く、そのガラス片を見下ろしていた。その後ろ、2階部分で車の転がる音が響く。すぐにそちらを見やるが、見えたのは走り去る車椅子の影と、僅かに見えた包帯でぐるぐる巻になった頭部だけだった。
 気に入らないと思った。
 何か重要なピースが欠けている。ただ、それが一体何なのかまではナルにも分からなかった。


◆◇◆



 あの後、真砂子がすぐに気付いたこともあり、ナルは一旦仮眠を取っている。そして頭のすっきりした所でベースに戻り、ビデオチェックを始めるあたり、学者馬鹿だと言われても仕方がないと誰もが思うところだが、彼の意に反して、カメラは何も捕らえてはいなかった。
「残念ながら、確認出来ませんでした」
 リンの事務的な声が告げる。
 先程の一件が霊障なのかどうか、ビデオに記録されていないかとホールに仕掛けられたテープを全部チェックしたのだが、肝心の場所だけが全く映っていない。確認出来たのは克美と真砂子が二人で何か話しているその背後で、轟音を立てて砕け散るガラス片のみ。
 天井部分まではカバーしきれていない。
 それよりも、克美が真砂子に声をかけていなかったとしたら、真砂子は間違いなくシャンデリアの下敷きになっていたであろう事の方が恐ろしい。
「カメラの設置場所を考える必要があるな。死角が出来ないように計算し直せ」
 先程から口もきかずに、一人真剣に、考えに沈み込んでいると思えたナルは、決定的瞬間を取り損ねたのがお気に召さなかったらしい。ナルの言葉にリンは、屋敷の見取り図を睨んで、カメラの可動範囲と相談を始める。
 これが霊障ならば、危険極まりないことになる。
 いかに豪胆な神経の持ち主でも、命を狙われているともなれば精神的疲労は想像に難くない。だからはっきりさせておきたかったのだが、これでは事故である可能性も否めない。ナルが小さく息を吐く。
 だが、誰だって我が身は可愛いのである。
 ナルの嘆息の意味がどこいらへんにあるのか、聞くのも恐ろしい面々は、わざわざ自分から突っ込んで聞くような愚は冒さないが、今回に限っては、誰もが避けている事態を引き起こしてくれる存在が居た。
 御堂克美である。
克美は態とではないかと疑うくらい、不吉な行動をとる。彼の態度から、ナルと麻衣の両方を気に入っているのは間違いないと思われるのだが、如何せん、麻衣に関わりすぎるのだ。それがナルの機嫌を左右している事を分かっているのか、態々機嫌の悪いナルに話しかけるあたり、豪胆な神経の持ち主だとしか言い様がない。彼は安原もかくやという程の回転の良さでもって、存在感をアピールしており、ナルも無視するには難しいようだった。
 今、この瞬間も何時ナルが爆発するかと、気が気でない面々の目の前で、麻衣の世話を買って出て、尚且つ、ナルに質問を投げかける克美に頭を抱えたくなっても誰も責めはしない。そして麻衣が克美に懐いていることも頭の痛い要因のひとつだ。
「父の私室と、書庫の鍵です。調べられるのは構いませんが、とても整理しているという状態ではないので、かなり大変な作業になると思いますよ?」
 相変わらず焦点の危うい目をしている麻衣を背中にへばり付かせつつ、のほほんとナルに話しかけるあたり、思わず尊敬したくなるほどだ。
 ナルは受け取った鍵をそのまま滝川に差し出すと、こちらもよよと泣きつつ鍵を預かる。基本的にナルが自ら動くことは無い。実際に働くのはいつだってその他大勢の方だ。そこへ真砂子を連れて綾子が部屋へ入って来た。多少まだ顔色が青いような気もするが、真砂子の足取りはしっかりしている。
「あれからなんか進展はあった?」
「驚かせてしまい、申し訳ありません。もう、大丈夫ですから」
「気分が悪くなったらすぐに言うのよって、ちょっと、なんで麻衣までへたばってるのよ?」
 克美の背にぐったりと凭れている麻衣を綾子は素早く目にとめて、背中から引き剥がす。
「あやこぉ? なんかねぇ、ちゃんと寝てるはずなんだけど、すっごく眠たいの」
 酒で酔ったかのように全く力が入っていない麻衣の身体は、予想以上に重く感じる。勢い克美から引きはがしてみたものの、ナルのところへ持って行くには中途半端な距離で、仕方なく綾子はその場に座り、麻衣の頭を抱えるように膝に乗せた。少なくとも、克美に引っ付いているときよりはナルの頭も理性的に働くだろうと慮って。
 綾子が側にいることで安心しきったのか、程なくして麻衣から寝息が聞こえてくる。それに気が付いた真砂子が部屋の隅からブランケットを取って麻衣にかけた。その様子を見ていたリンと滝川は心の中で綾子に頭を下げる。本当は綾子とて、本調子ではないはずなのだ。それをおして、真砂子や麻衣の前ではいつものように振る舞って見せている。
 一見、軽薄そうな外見をしているくせに、実は世話好きで、姐御肌なので年下にはできるだけ余裕のある態度を見せようと努力しているのだ。そんな綾子に麻衣も真砂子も精神面では非常に助けられている。
 だから、綾子は滅多な事では弱音は吐かない。
 そんな綾子に甘えていることを自覚している男達は申し訳なく思いつつも少女達を任せていた。最終的に、それがナルの精神安定にも繋がる。
「んじゃま、おいらは探険にでも行って参りましょうか」
 麻衣が完全に眠っており、当分ナルの機嫌も悪くならないだろうと踏んで滝川が立ち上がると、それにリンが同行を申し出る。
「こちらは原書もかなりの数になるそうなので、そちらは全般に私が引き受けます。滝川さんは翻訳物の方を重点的によろしくお願いします」
 長身の男が二人並んでいる光景は、なかなか壮観な眺めではあるが、ナルは何の感慨も覚えた風もなく二人を見送る。それどころかリンが席を離れた場合、パソコンはナルが預かることになるので、さっさとそちらへ移動してしまう。
「渋谷さんは、父のコレクションそのものよりも、蔵書の方が気になるようですが、理由をお聞きして構いませんか?」
 克美は移動したナルに併せて、自分も向きを直すが、その僅かな間に、ちらりと麻衣の様子を盗み見る。美夜子と同い年の少女を、とんでもないことに巻き込んでしまったのではと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になる。それがまた、麻衣のような明るい少女なら尚更だ。今でこそ人前に出ることを嫌がってはいるが、事故に遭う前は麻衣と同じようによく笑い、じっとしていることが苦手なタイプだったから、余計に美夜子の面影と重なって、より一層、心が重い。その克美の視線の意味をどう受け取ったものか、ナルの返答は素っ気ないものだった。
「今は少しでも、多くの情報か必要ですから」
「理由も聞かずに行ってしまうあたり、滝川さん、貴方のことを信頼してるんですね」
 ちなみにジョンは滝川と入れ替わりに休憩中である。リンが何時、休んでいるのか不明だが、倒れたことが無いところを見ると、確り何処かで休んでいるのだろう。
「恐れ入りますが、貴方のお父上について、出来ればもう少し、詳しいプロフィールをお聞かせ願いたいのですが」
「なんでも聞いてください。分かることならお答えします」
「御堂辰巳氏はオカルトに造詣の深い方だったとおうかがいしてますが?」
「そうですね、父はオカルティズムに魅せられた一人でした。オカルトにはまる前は医療関係で、復顔を得意としてました。それが突如としてオカルトに傾倒して行ったのは、アレイスタ・クロウリーの著書に出会ったからだと聞いています」
「『法の書』?」
 克美が深く領く。
「しかし、アレイスタ・クロウリーとはね。
 確かに、彼は数多くの《芸術家》と称する人々に多大な影響を与えてはいるが、ブラック・マジックに魅せられた狂人といっても差し支えない」
「しかし、彼が凡才でなかったことは、ケンブリッジのトリニティーカレッジに在籍していたことでも証明できると思いますが。自主退学でしたっけ?」
「そもそも、反キリストの精神だけで、なら黒魔術だと思考し、取り組んで行くあたり、単純な性格の持ち主だったようですか?」
「クロウリーお嫌いですか。まぁ、科学的に研究しょうとする方にとっては、厄介な相手ですよね。渋谷さん、実はコナン・ドイルも嫌いでしょう?」
 ふふんと鼻先で笑ったようだ。
 推理小説の大家、コナン・ドイルは心霊主義者としても有名で、英国SPRの名誉会員なのだ。その彼が、世間に広めたのがイギリスの片田舎、コンティグリーの妖精事件である。妖精の姿を写真に収めたという少女の話を信じて、世界中に妖精の存在を発表したのだが、今では合成写真であることが分かっている。当時、コナン・ドイルの名声と確たる合成技術を見破る手段が無かった事で、この事件は世界中にセンセーションを巻き起こしている。だが、それが少女の嘘で、偽物だったと分かった途端、SPRの権威は失墜の憂き目に遭っている。
 ナルにとって彼は最も忌避すべき存在であった。
「過去の遺物に興味はありません。僕は今現在、自分に出来るだけのことをしています。『世の中には科学じや説明できないこともあるのだ』などと、逃げるような発言を平気でする人など、放っておけばいいんです」
「なかなか辛辣ですね。なんだかジョー・ニッケルか、オリヴァー・デイヴィスの論文を読んでいるようです。まさに『ゴースト・ハンター』だ!!
 麻衣ちゃんが言ってましたよ。渋谷さんは『霊能者』と言われるよりも、そちらを好むと」
 くすくすと、克美から笑いが漏れる。黙って二人の会話を聞いていた綾子と真砂子は、思わずこの場から逃げ出せないものかと、考えてしまった。いつの間にこの男は『麻衣ちゃん』と呼ぶようになったのだ? また、麻衣もそこまで許すことは無いじゃないかと、思わずにはいられない。
 だが二人の予想に反して、ナルに変わったところは見受けられない。もしかして、そろそろ耐性でも出てきたのだろうか? しかし、ケンブリッジの名前が出、ナルの本名が出てと、綱渡りのような会話は、聞いている方が胃が痛い。早く誰か来てくれと心の中で祈り出す。すると神様のお導きか、電話のコール音が会話を断ち切った。縋るように真砂子が受話器を取る。電話の相手は、真砂子のよく知る人物で、人の気分を和らげてくれる独特の口調がとても嬉しい。
「───ええ、お疲れさまです。はい、ナルに代わればよろしいのね?」
 地獄に仏とはこの事かもしれない。安原なら、ナルの必要としている情報を調べるくらいわけない事だろうし、考える材料がそろえば暫くの問、ナルは自分の世界に入って出てこないから、被害は最小限で済む。真砂子はにっこり笑い、たおやかな手つきでナルに受話器を差し出す。
「代わりました。お願いしていた件は? ええ───そうです。待ってください、今、何処に―――いえ、動かないで、何処か適当なところで宿を取ってください。
 ───はい、いいえ、───分かりました。それでは、こちらから人を出します。───詳しい話は資料を受け取ってから。こちらの状況はそうですね、松崎さんにでも聞いてください」
 ナルは喋りながらいくつかの事項をメモに取り、そう言って電話を切ると綾子を見た。
「行ってもらえますね?」
「睡眠不足のぼーずに事故起こされちゃかなわないし、ちょっと外も見てみたかったし、良いわよ。それで何処まで行けば良いのかしら? 電話の様子じや近くまで来てると見たけど」
 ナルがうっすらと笑う。
「ここに一番近い駅は、この山の裏手だそうです。泊まれるようなところも駅前に一件あるだけだそうですから、さほど迷わずに済むでしょう」
「何か他に必要な物は?」
「場合によっては、安原さんの助手を務めてきて貰うことになるやもしれません。覚悟はしておいた方が良いでしょうね」
「なんですって? それは、調べ物が終わってなくて、人手が足りないって事? 勘弁してよぉ」
「どうせここに居ても、やる事が無いでしょう? 良い暇つぶしが見つかって、良かったじやないですか」
 言って、ナルは綺麗な微笑みを浮かべているが、綾子は既にこれが愛想笑いであることを知っているので、見とれるよりも薄ら寒さを覚える。
「はい、はい、はい。どうせあたしは役立たずですよ。真砂子───」
 ちょっと、と手招きして、横に座ったところへ麻衣の頭をひょいと、移動させる。すっかり寝入っている麻衣は起さる気配さえ無い。
「仕方ありませんわね。こちらの方はあたくしに任せて、行ってらっしゃいませ」
 肩をすくめて見せつつも、綾子同様に麻衣を心配している真砂子は素直に入れ替わった。膝にかかる頭の重みは暖かくて、麻衣の寝顔を見ていると、不思議な愛しさが湧いてくる。綾子は、麻衣と真砂子を見比べて安心し、さっさと部屋を出て行こうとしたとき、空気が動いた。
「地図は必要ですか? 出掛けられるまでお時間かかるのなら、僕が車の方出しておきます」
「随分働きたがる依頼人ねぇ。依頼人なら、依頼人らしくふん反返っていればいいのよ」
「性分なんです」
 ナルと違って、こちらは惚れ惚れするような笑顔を浮かべている。ナルの容貌が際立っているのであまり意識していなかったが、克美とて、なかなかの容姿の持ち主だ。またナルと違って、後々までどうこう言われる心配も無いので綾子は素直に車の鍵を手渡した。
「30分で支度するわ。それから、地図なら車のダッシュボードに放り込んだままなの」
 幾人もの『ボーイフレンド』を持つ綾子らしく、克美には余裕のある態度で接する。克美の方も雰囲気で察したのかもしれない。部屋の方へ立ち去る綾子の後ろ姿に、くすりと微苦笑をもらした。


◆◇◆



 約束どおり、30分で出掛ける準備を済ませた綾子が玄関を出ると、車の点検をしている克美が居た。
「悪いわね」
「いえいえ、お役に立てて光栄です」
「なんなら今度、お礼を兼ねてドライブにでも行きましょうか?」
 綾子は婉然と微笑んでやる。大抵の男はこれで綾子の術中にはまり込むのだが、克美には効かなかったようだ。こちらも負けじと微笑み返して、綾子の予定と違う返答をする。
「まさか! 僕じや松崎さんのお相手としては不十分でしょう? とても《おねーさま》を満足させるだけの自信がありませんので、遠慮しときます」
 ピシッと、綾子の笑顔が凍りつく。
「ああら、何事も経験よぉ。《おねーさま》の言うことには素直に従った方が良い時もあるんじゃなくて?」
「ほら、こんなことでも上手く対処できないでしょう?
 今度、滝川さんあたりに、大人の女性とのお付き合いの仕方でも指南願いましょうか」
「破戒僧はやめておきなさい。あれは生臭だし」
 滝川の名前を聞いて、綾子が嫌な顔をする。滝川は嫌いではないが、克美の顔で、滝川と同じ行動をとる男なぞ見たくない。
 そういえば、あの男は屋敷のどこらへんを捜索中だったかと顔を上げてみると、二階の窓に人影が見えた。綾子が二階を見上げたまま動かなくなったので、克美も視線を追って二階を見上げると、一つの窓のカーテンが揺れた。美夜子の部屋だ。
「あたし達の事、気にしているのね。でもどうして姿を見られるのが嫌なのかしら?」
 車椅子だと同情されるとでも思っているのかしらと呟けば、克美は少し悲しそうにかぶりを振った。
「火傷の後を見られるのが嫌なんです。だから事故から半年経っても、全身包帯で隠している」
「全身って、そんなに酷かったの?」
 綾子の実家は、かなり大きな個人病院だ。だから小さい頃から色んな患者を見てきた。火傷は小さなものだと直ぐに治るし、後も残らないが、全身火傷を負った場合、その殆どが助からない。火傷を負った場合は先ず、冷やさなければいけない。だがその後、表皮を失うことで体温が下がり始め、必要最低限の体温が維持できなくなる。また、ケロイド状になった皮膚では皮膚呼吸もままならない。
 直ぐに適切な処置を取らなければ、まず、助からない。そして運よく助かったとしても、その度合いによっては一生ものの傷痕が残る。もっとも近頃では整形手術の技術も飛躍的に向上しているので、何度も時間をかけて手術を受ければ、傷痕など分からなくすることも可能だ。だが、年頃の少女にとってこれ程辛いことは無いだろう。せっかく命が助かっても、鏡を見ては絶望の涙を流す。
 そんな時、支えになれるのは家族だけだ。気の遠くなるような忍耐と、無償の愛だけが頼りなのだ。
「事故の事は、聞かされてませんでした。父は美夜子に口止めされてたんです。みぃやがそんな状悪だと分かっていれば、もっと早くに帰ってましたものを」
「大好きなお兄ちゃんに心配かけたくない、ってとこかしらね」
「僕の存在がみぃやに負担を強いているのでしょうか?」
 どうやら、克美は美夜子のことになると、笑顔のヴェールが剥がれ落ちるらしい。苦しそうな表情に涙が浮かんでいる。
「馬鹿ね。誰も側に居てくれない事の方が、どれだけ辛いか。あんたに出来るのは、根性据えて、彼女の支えになってあげる事でしょ」
「でも、この頃じや嫌われているんじや無いかと思うくらいです。話をするのだって、ドア越しとか、室内電話で、ですよ?」
「本当に嫌われてるとしたら、話だってしてくれないわよ。直接顔を合わせなくても、口は利いてくれるんでしょ。だったら自信を持ちなさい。医者の娘が言ってるんだから、信用しなさいよね」
 どっしりと構え直した綾子の態度に、克美が微かに笑う。
「……ありがとうございます。それでは気をつけていってらっしやい」
 車に乗り込んだ綾子に深く頭を下げて礼の姿勢を取る。車はそのまま発車して山道を戻って行く。二階の窓から、陰に隠れるようにして覗いていた視線は、車が視界から消えると共に、急に興味を失ったかのようにカーテンを引いた。


綾子

◆◇◆



「麻衣さん、一体どないしはったんですやろか」
 真砂子の膝枕で寝入っている麻衣に、困ったような笑みを浮かべているのはジョンだ。いや、実際ジョンは因っていた。リンと滝川は何やら家宅捜査中で不在、綾子も安原の所に資料請求に出掛けて不在、克美はそのお見送りで今ここに居らず、そして麻衣は熟睡中で、真砂子は麻衣の枕と化して動けない。この結果、ナルにお茶を用意出来るのは自分だけだ。はっきり言って得意ではない。
 いつも身を寄せて居る教会でも、本来ならジョンが食事の用意などしなければいけない事になっているところを、ちょっとした訳があって、大抵はお師匠様と仰ぐ人が身の回りの世話を引き受けてくれるものだから、滅多に食事の用意等したことが無い。贅沢を言わなければそこそこの準備は出来るものの、相手はナルである。お茶を出せば多分、ちゃんと飲んでくれる。でも、顔に『不味い』と明瞭に刻印されるだろう。場合によっては口できっちり釘を刺される。出来ればそんな事態は避けたい。
「こ……コーヒーでよろしいですやろか?」
「結構です」
 何時まで経っても返事がこないので質問を変えてみれば、これにはナルもちゃんと返答を返す。つまり、麻衣に関しては自分に質問するなという意思表示なのだろう。ジョンはそう解して、いそいそとコーヒーを入れはじめた。ナルはアメリカ生まれだが、まだそんなに長くは無い一生のその半分を英国で過ごしている。そのせいか、本来はコーヒーよりも紅茶の方を好む。しかし、仲間内で麻衣よりおいしい紅茶を入れられる者は存在しない。いや、仲間内と限定しなくても、そこいらの喫茶店とは比べものにならない。金を払ってまで不味い紅茶を飲む気にはなれなくなる。
 だから、わざわざナルの機嫌を損ねるようなお茶を入れるくらいなら、元から美味しいと思っていないらしいコーヒーを勧めた方が自分の身は安泰なのである。そうしてジョンはお茶の道具がまとめてある一画へ行くが、どうやら御堂家では、コーヒーは豆を挽くところから始めるらしい。お豆の原型そのままのコーヒーをミルに放り込んで、ガリゴリとハンドルをゆっくり回す。回しているハンドルに抵抗感が無くなった所で引き出しを開けると、えもいわれぬ芳香が漂う。コーヒーサーバーにフィルターをセットし、挽き立ての豆をスプーンで計りながら入れ、本当ならば専用のポットでゆっくりお湯を注ぐところだが、急いでいることでもあるし、直接ポットからお場を注ぎ込んだ。
「良い香りですわね」
 真砂子はカップを受け取ると、直ぐには飲まず、香りを楽しむように顔を近づける。ナルの分は、パソコンに水分は危険とあって、近くの床に置いた。
「ここに置いときます」
「どうも……」
「滝川さんとリンさんは、書庫を調べに行かはったんですか?」
「───日記か何か出てこないかと思ったんですが」
 ああ、とジョンと真砂子は初めてナルの意図に気が付いた。辰巳氏の日記があれば、何に対して未練が有るのか、かなりはっきりするはずだ。あまり勧められる行為ではないが、日記にたいして行ったサイコメトリーなら、今度こそ確実に辰巳氏の情報が得られる。だが、なにか得心が行かないのか、ナルは浮かない顔をしていた。
「まだなにか、心配事でも?」
「本当に、辰巳氏なんでしょうか? これだけはっきりした現象が起きていながら、霊を視ることが出来ないという事が引っ掛かる。リンは結界ではないかと言っていたが、屋敷そのものにそれらしい痕跡は今の所、見つかっていない。克美さんが『最悪の事態かもしれない』と言っていたが、正に、僕らは最悪の状態に陥っている可能性が有る」
 ジョンの質問に答えるナルは飽く迄も冷静だ。だが、克美がいつ『最悪の事態かも……』と言ったのか知らない二人は、お互い顔を見合わせた。
「それはどないな事でっしやろ? 渋谷さんは予想がついてはるようですけど」
「簡単な事だ。状況からして、僕らの能力よりも、相手の力が上回っている場合の事を考える必要が有るということです」
 つまり、相手の圧力の方が強くて、霊視を妨害されているのではとナルは考えているのだ。そうした場合、万が一、交戦状態になれば、負傷者の一人や二人、覚悟しておかねばならないだろう。
「どうもあの御堂克美という人物は、話しているうちに何の話をしていたのか分からなくなる。これでは聞き込みもままならない」
 珍しく、ナルの口から、愚痴めいた言葉が吐かれた。あんまり珍しかったので、驚いた真砂子が思わず腰を浮かせてしまったほどだ。
「あの喋り方には覚えが有るんだが……」
「ジーンに似てるんだよ」
 後頭部を押さえつつ、麻衣が答えた。真砂子が急に動いたので、頭をしこたま床に激突させたらしい。
「あなた、いつから気が付いてましたの?」
 場合によっては許しませんわよと、真砂子が凄むと、麻衣はペロリと舌を出してみせる。
「ちょっと前。でも、半分寝てたから話はちゃんと聞いて無いんだけど、今、克美兄ちゃんの事、話して無かった?」
「ええ、してましたけど、いつの間にそれ程親しくなりましたのかしら?」
「えー? 真砂子話してないの? ほら、美夜子さんとあたしら同い年だってゆってたじゃん。したらね、妹がもう一人増えたみたいで嬉しいって話になったんだよね。で、あたし一人っ子でしょ。前から兄弟がいたらよかったのになぁって、思ってたこと話したら、じゃあ、にーちゃんと呼んでくれって言われたんだいっ」
「随分、元気が出てきたじゃないか」
「うん、なんかあっちで寝てるより、こっちで寝てた方が良いみたい。何でかな?」
 ナルに指摘されて麻衣自身も驚く。朝の起きぬけと違って、明かに異常さが消えている。
「それは、ここには滝川さんの護符と、リンさんの結界の両方が施して有るからやろ思います」
「向こうの寝室にも護符は有りますのに?」
「護符と結界は違うもんでなかったかと記憶してますけど?」
「空間自体に力が作用しているのか、どうかは分からないが、体調の悪い者は、寝起きもこちらでした方が良いかもしれないな」
 動きが派手な分、どうしても麻衣の方に意識を取られ勝ちだが、真砂子の方も目に見えて元気を取り戻している。その様子にジョンもほっと息をつく。
 そこへ滝川とリンが帰ってきた。
「賑やかだねぇ。どれ、俺もまぜてくんない」
「おじさんは嫌だ」
 元気になった麻衣をみて、一瞬驚きの表情を見せるが、すぐ滝川はいつものように麻衣の首に腕をからませてやる。
「なぁま言ってんじゃねーよ。この不良娘が。野郎が見てる前で平気で眠る年頃の娘が何処に居る?!」
「何言ってんのー、相手はナルとジョンだよ? おまけに真砂子だって居たのにい」
 これを信用されていると取るべきか、それとも端から異性と見なされていないと取るべきか、どちらを取ってもナルには気の毒なので、滝川はこれ以上の追求を諦めた。
「ま、元気になって良かったな。で、ナルちゃんのご所望の品はみつかん無かったけども、怪しい本ならごまんと有ったぜ」
「古今東西の、有りと有らゆる黒魔術に関する本がそろって居るのでは、と思われる蔵書数でした」
 滝川の後ろに控えていたリンが、ナルに何やら革の表紙の本を差し出す。
「冗談にしては、かなり悪趣味ですが、かなり本格的に作ってますね」
「H・P・ラヴクラフトの創作だと思ったが?」
「ナル坊もそう思うだろ。それ、中身もきっちり本格派でねぇ、どこの物好きが作ったか知らねぇが、大した作りだよな」
 リンから本を受け取ろうともせず、ナルは一瞥してリンの腕ごと押し返す。
「時間をかけて探し物をしていると思っていたら、そんな物を見つけて喜んでいた訳だ」
 口の端だけで笑ってみせる。
「年季入ってるから、作られたのは多分、1930年代と見たね」
「わたしが見たところ、表紙も本物です」
 リンがそう付け加えると、ナルは鼻に皺を寄せて嫌悪感もあらわに睨みつける。それに合わせるかのようにジョンの口から、うめき声が漏れた。
「なに? どうしたの?」
 真砂子と二人、訳の分からぬ麻衣は、男三人の顔をせわしなく見回していく。
「ハワード・フィリップス・ラヴクラフトというのはアメリカの怪奇作家さんでおます。彼と、彼の仲間たちの手によって《クトゥルー神話》が創作されまして、その中に登場する書物の名を『ネクロノミコン』と言いますです。設定では悪魔の秘術書ということになってたと思います」
 ナルが話してくれるとは誰も思っておらず、些か興奮気味の滝川に代わって、ジョンが説明をしてくれる。
「この本の特徴ゆうのんが……」
 ジョンはそこで口ごもり、助けを求めるようにナルやリンを見るが、結局助けは期待出来ないと見て言葉を続けた。
「人の皮で装飾されてる―――んです」
 麻衣も、真砂子も聞かなければ良かったと瞬間、後悔した。しかし、聞いてしまったものは仕方がない。気味の悪いものでも見るように、リンの手元の本を恐る恐る見た。
「うええ、趣味わるーい」
「だから、最初からそう言っている」
「でも、そんな気味の悪いものまで集めているとなると、辰巳氏のオカルト熱は、かなり、本格的だったのではありませんかしら?」
「人の皮って、死体からでも剥ぐのぉ? 誰だよ。そんな気持ちの悪いことするのって」
 ───あーやだ、やだ。
 麻衣は顔を顰め、尚も口の中で文句を垂れる。
「ところが年代的には材料に不足しない時期なんだよなぁ、コレが。小説が発表されたのが、1928年で、ナチスドイツの崩壊が1945年だろ?」
 きゃああ、と麻衣のロから小さな悲鳴が漏れる。
「ついでにジョンの説明に追加するとだな、ネクロノミコンってのは、今知られている神様なんかよりもっと古い存在が居て、そんな『古き者』とか超古代の旧支配者について記した書物、と言う設定で、日本語に訳すと、『死霊秘法』ってとこだ。もっと分かりやすく説明してやると、お前、『死霊のはらわた』つー映画知ってるか? あれの第2作の冒頭で死霊を呼び出すのに使ってた本、あれもネクロノミコン、つー事になってる。それだけ有名な架空の書物だ」
 実生活に必要の無い知識については、色々と詳しい滝川だった。だが、そんな気味の悪い物に興味の持て無い麻衣には不評で、思いっきりブーイングが返ってくる。
「そして物珍しさにひかれて、持ってきたのか。返してこい。側に有るというだけで、鬱陶しい。リンもリンだ。一緒になって何をしていたんだ?」
「莱が挟んでありました」
 ナルにあしらわれた滝川が、不承不承、本を戻しに部屋を出て行く。その後ろ姿を見送りつつ、リンがナルにそう言うと、ナルはそれが何だと視線で問い返す。
「死者復活の項目でした。そこだけ開き癖が付くくらい、読み込んでいたようです」
「───復活を願った死者でも居たと言うのか?」
 もしかすると、自分の死期を予感して、復活する方法を探していたのだろうか?
 まだ、決定的な情報が足りない。この中途半端な状態を、すべて説明できる何かが有るはずなのに、それだけが分からない。
 ナルの苛立ちは募るばかりだった。



4章に入りました。
挿絵は真砂子と綾子の2枚あったんですが、色々と人物相関図を考えた上で綾子採用。真砂子はぼーさんとツーショでした。
綾子のツーショは文章からお察し下さい。
今考えたらこの本の表紙って不親切だなぁ。ナルでも麻衣でも無いんだよねー。
しかし、改めてみると4章は自分の趣味丸出しでオカルト語ってますよ。コナン・ドイルを初めとして、アレイスタ・クロウリー、ジョー・ニッケル、ラヴクラフトも実在の人物です。サイコップも実在。
クロウリーとドイルはナルの先輩となる訳ですが、どちらもナルには嫌われてそう(笑)。まぁ、残した実績がアレではな。
カルトな趣味を深めたい方はどうぞ、著書を探してお求め下さい。
あなたの知らなくていい世界が展開するでしょう☆ 。



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