2004-03-08
第4章 ◆ 砂漠の月
「お茶を貰えるかしら」
ジーンの葬儀が済み、イギリスでのごたごたが解消した頃、森まどかは所長代理として、SPR日本支部の事務所に現れた。まどかによれば、ナルは長い間国を離れたいた所為で、本部の重鎮達が中々手放そうとしないのだと言う。
本当の所はナルが中々紹介しようとしない現在修行中と言う事になっている未完成の霊能者『M』について、彼らは彼らなりにある推測をしていたのだ。ナルが日本でアルバイトに雇ったと云う少女のイニシャルがやはり、Mで、リンの報告にも度々登場するこの少女に、重鎮達も興味を持っていた。
なにより、ナルの反応が楽しかった所為もある。
威そうと透かそうと、反応の薄いナルがこの少女の事になるとガードが硬くなる。その訳が知りたくて、お茶目な老人達は孫の様に可愛がっている少年に纏わり付いているのだ。
その辺だけを言えば、人間の練れていないナルに勝ち目が無いのは明白で、未だ引き分けている事を鑑みれば善戦していると言って構わないだろう。だが、謎の人物『M』と、アルバイトの少女が同一人物だと吐露させられる日はそう遠く無いだろうとまどかは見ている。
今も向こうで苦労しているのだろうな等と思うと、ついつい意地の悪い笑いが浮かんでしまう。
「どうしたの? まどかさん。御機嫌ですね」
件の少女、谷山麻衣が香りの良い液体を白磁のカップに満たして現われる。
確かに彼女のいれてくれるお茶は絶品で、一度その味を知ったら病み付きになるだろうと身を持って知る事となったまどかだが、それと同時に、このお茶が飲みたくても飲めない状況にあるナルを不憫に思っていた。
思い出し笑いが止まらない。
「う〜ん、ちょっとね、面白かった事を思い出しちゃって」
麻衣が不思議そうに首を傾げているが、ナルの名誉の為にこの少女にだけはばらすまいと気を付けている。
「ほんと、麻衣ちゃんのいれてくれるお茶は最高よね〜。これじゃ、あっちに戻った後が一苦労だわ。麻衣ちゃんのお茶を飲みにイギリスから通うのも大変そうだし」
「え…… まどかさん、イギリスに帰っちゃうんですか〜?!」
それは初耳だと麻衣が悲鳴のような声をあげる。
「そう、お役御免なの。と言っても、すぐに発つ訳じゃ無くてナルがこちらに来るまでの暫定的処置だから、向こうでのナル次第とも言えるわね」
そっかー、と、小さく麻衣が呟くのが聞き取れる。どこか複雑そうな響きだ。
まどかは、麻衣がジーンと交信していた事を思い出していたが、出来れば、ナルを選んで欲しいと願っている。
麻衣と云う少女を知るにつれ、ナルには必要な人間じゃ無いかと考えるようになっていた。いつも糸を張詰めたような空気を纏うナルには、彼女の醸しだす空気も、存在感もその緊張感の緩和に繋がるだろう。
確かに、麻衣はジーンと似た所があると今でも思っているが、ナルが言うように似ていない所もある。麻衣はジーンにさえ出来なかった事を可能にする将来性を秘めている。
ナルはその事に気が付いているのだろうが、それ自体を認める事には抵抗しているように見える。それほどまで、他人に依存するのが嫌なのだろうか?
他人の存在を必要とする事は、自分の弱さを認める事では無いのだけれど。
ナルにはその境目は見えていないらしい。
「まーいー♥」
カラランと軽快な音がして、事務員では無いが、事務所になんとなく居座りたがる男が姿を現わす。
「お! お嬢さん、お邪魔するぜ」
「いらっしゃい〜。依頼が無くて閑してた所なの。御一緒にお茶などいかが?」
「う〜ん、新しい所長様は話せるねぇ。いつもうちの娘がお世話になってるお礼も兼ねて、今日はお土産なぞ持ってきたんだがね」
元、高野の坊主と云う男、滝川は遠慮無しにオフィスの中央に設置された来客用のソファに身を沈め、テーブルの上に白い箱を置いて
「麻衣、小皿とケーキナイフの用意、頼むわぁ」
と、大声で呼ばわる。
「そこで真砂子ちゃんにも会ったから、じき来るだろうから……」
「あ〜ら〜、美味しそうね。なんなら、御相伴に預かってやってもいいわよ」
タイミングよろしく現われたのは自称巫女の松崎綾子。
「お前の為に買ってきたんじゃない」
「あのぉ〜、お邪魔でしたやろか?」
その後ろから金髪碧眼のプリースト、実は世界有数の悪魔払い師、ジョン・ブラウンが続いて姿を見せた。
「わたくしは、構わないのでしたわよね? 滝川さん」
そのまた後ろから、和服に身を包んだ小柄な美少女がにっこり微笑みかける。
「皆、打ち合わせて来てる訳じゃないよね?」
麻衣が思わずそう尋ねてしまう程、彼らは集中して現われる。決して、嫌いな訳では無い。
ただ、一気に忙しくなるので大変なのだ。
其れ其れ遠慮無しに飲み物に注文を付け、座れと勧められる前から勝手に腰掛けていく。仕方なく、麻衣は人数分のお茶の準備をしに、1人、お茶室へと駆け込んでいく。
「皆さんも、ここのお茶が恋しくていらっしゃるのかしら?」
ふふ、と笑いながら言うまどかに皆注目する。
「も?」
それまで、大人しくエアメールの分類をしていた安原が仕事を中断して、話しの輪に加わって来た。
「失礼ですけど、以前は麻衣のお茶が恋しくなる程、こちらに居られなかったと存じますが」
真砂子が窺うようにまどかを見る。
それに、まどかは大きく笑い返した。
「恋しいのは私じゃなくて、リンとナルよ」
途端、辺りには納得の空気が充満する。
「研究所員のいれてくれるお茶が不味い訳じゃないのよ。私だって美味しいと思ってたんだから。
だけどね、二人とも物足りなさそうな顔してるから分かっちゃうの」
「分かるわ。これまで一流ホテルのティールームを愛用してたんだけど、違うのよねぇ」
綾子はグルメを自称しており、実際、有名レストランを語らせたら(この事務所では)右に出るものは居ない。ジョンがはんなりと笑って続ける。
「For Youの精神が違うんです」
誰かの為に入れられたお茶。
貴方の為にいれたお茶。
ほんの一寸の違いだけれど、麻衣のお茶にはその差が歴然として現われる。
だからこそ止められない。
「しかし、所長にそんな素振りが見られますか?」
安原がもっともな疑問を口にした。ナルのそんなシーンが見れるものなら一度は見てみたいと思っているメンバーばかりがここには揃っているのだ。皆、好奇心丸出しでまどかに詰め寄る。
「お〜もしろかったわよ〜。聞きたい?」
悪戯を思い付いた子供のような表情でまどかがウィンクをする。
勿論、誰も止めなかった。
◆
リンとまどかが密談を済ませて戻ってくると、研究室には奇妙な空気が漂っていた。言葉に現わすならば、『困惑』が一番近いだろう。
珍しく、籠っていた自室から出て来ていたナルが二人を見つけて、固まっている。何がなんだか分からないリンとまどかが取り敢えず部屋に入ってくると、ナルは気を取り直し、何事も無かったかの様に声をかけて来た。
「───お茶をお願いします」
そして、さっさと部屋に逆戻りだ。ナルの言葉にやっと反応した他の所員がお茶の準備を始める。まどかはリンと顔を見合わせると、一番近くにいた所員の1人を捕まえて何があったのかを尋ねた。
「それが、急に部屋から出てこられて、意味不明の言葉を仰られて……」
それが先程の困惑の原因らしい。ナルは理解不能の何を言ったのだろうか?
「それで、誰も反応出来なくて困っていると、ドクターも御自分で自分の言葉に気付いたらしく」
「お互い固まってた訳ね」
思わず、苦笑を浮かべる。ちなみに、この研究所ではナルは養父のマーティンと区別するため、マーティンをプロフェッサー、ナルをドクターと呼び分けている。
「彼が何と言ったのか、再現出来ますか?」
リンが後ろから問う。言われた方は質問の意味が分からなくて聞き返す。
「どうゆう意味でしょう?」
「もしかしたら、無意識に日本語を使ったのではと思ったものですから」
嗚呼と、まどか以下所員達全員が呟いた。ナルの言葉を聞いた者たちが集まって言葉を再現してみせた。
「彼は多分、こう仰ったのです。『まい、おちゃ』」
がたんと派手な音がして、驚いた所員達が見たものは、机に突っ伏して笑いを堪えているらしいまどかだった。リンは額に手をあてて頭痛をおさえているように見える。
「あはははは……! おかしい!」
ナルはきっと、無意識に口を付いて出てくる言葉を飲み込むのに苦労していたのだろう。まどかはルエラからナルの様子をそれとなく見ておいて欲しいと頼まれていた事を思い出していたが、彼女の不安は杞憂であると報告するつもりだった。
「間違い無く日本語ね」
事の成りゆきが見えなくて不安そうな所員達を安心させる為にまどかは笑いを必死で抑えこんだ。
「『おちゃ』はお茶のことよ。ナルはお茶が飲みたかっただけなのよ。ちょっと日本での滞在期間が長かった所為かしらね? 日本語で言っちゃったのは」
そう説明されて所員達は一応、納得したようだった。ナルのバツの悪そうな様子は、日本語の分からない者に向かって日本語で話しかけてしまった己の失敗に気が付いた為と、皆解釈したようだ。プライドの高いナルならそれもあるだろうと、不思議に思う者はいなかった。
ただ、暫くの間、『おちゃ』と言えば、紅茶を出すのが所内で流行し、ナルは自分の失敗がまどかとリンにばれた事を知っていたが、肝心の二人が突っ込んで聞いてこなかった事を酷く訝しんでいた。単に、リンは保護者モードに入った為、まどかはからかうタイミングが掴めなかっただけなのだが。
───麻衣、お茶。
まどかは期待している。麻衣がナルを支える1人になる事を。ナルが他人を必要とする事で強くなれる事があるのを学ぶのを。
切っ掛けなんて、些細なものでかまわない。
貴方に側に居て欲しいなんて、そんな風に思える人物に巡り合えたなら、その人は幸せである。
ナルはそんな貴重な人に巡り合えたのだから、その出合いを大切にして欲しいと思う。
ゴールは果てしなく遠そうだけど。
◆
「お茶が入りましたよ〜」
麻衣の声に全員が身を竦ませた。今の話しを聞かれたのではと思って。
ナルの事である。このメンバーにはまどかを通して伝わる事は予想のうちと思われるが、それが麻衣にまで筒抜けたとしたら、きっと、考えるのも恐ろしい報復が待っている事だろう。
そんな事とはつゆ知らず、この呑気者の娘はそれぞれに御所望の飲み物を配っていき、中央のケーキにナイフを入れた。
どうやら、まったく気付いていないらしいと踏んで、ようやく皆安心する。
「なぁ〜にぐずぐずしてんのかしらねぇ、この子は。さっさとしなさいよ」
「なによう、見てるだけの綾子に言われたく無いやい。文句言うんだったら手伝ってよ」
「いやよ。今日のあたしは客なの。きゃく」
「まーさーこーぉ」
「あたくしはそこの、一切れをいただきますわ。早くしてくださいね」
「なんやったら、僕がお手伝いしましょうか?」
「ジョンは良いんだよ〜。座っててね〜」
「この扱いの差は何よ?」
「当然でしょ。綾子だもん」