2004-03-02
第3章 ◆ 月光
「ねぇ、正直に答えて頂戴」
珍しく、その女性は笑顔を控えて真正面から顔を見据えて来た。しかも、逃げられないようにと両手を使って挟み込むように相手の顔を押さえ込んでいる。もっとも、彼女の細い指先には力など入っておらず、ほんの少し身を引いて振払えばするりと抜けられるだろう。
その相手───彼がそうしないのは単に、この場から逃げても何れは捕まる事を熟知しているからだ。この女性は舐めてかかると後で酷い目にあう。だったら必要以上の言及を免れる為には、最初から逃げなければ痛くも無い肚を探られる事も無い。
「何かありましたか?」
彼女が何を知りたいのかこの時点では予想も付かなかったので、彼はそう、口にした。
「ナルの様子、変じゃ無い?」
そこで初めて彼───リンはノート型パソコンのキーボードから指を離し、デスクの向こう側から身を乗り出して自分の顔を引き寄せている女性───まどかを改めて見た。
「何か気に懸かる事でも?」
ナルの私生活に一番近くに居ると認識されている研究所員であるところのリンは、好む好まざるに選らずこうした質問をしばしば受ける。
何故なら、ナルはナルを知る人物達の間では、気難しい扱い難い相手と思われているので、ナルが黙っていると何か不興を買ったのかとリンに聞きにくるのだ。リンはリンで普段、滅多な事では口をきかないので話し難い相手では有るのだが、必要以上に話しをする理由も無い時、ちょっとした事など、ナルに直接聞いて侮蔑の目でみられるよりも、一時、リンの静かな圧迫感に耐える方を選ぶらしい。
そんな遠慮とか圧迫感とは無縁のまどかがリンにナルの事を聞いて来たのだ。リンの方が驚いて逆質問を返した。
「なんて云うのかな、大好きなレポート書きに身が入って無いと言うか、時々、考え込んじゃってると思った次の瞬間にはポーっとしてたり、これってナルらしくないじゃない?」
普通の人なら、おそらくはそんなナルの変化になど気付いてもいないだろう。彼は幼い頃から感情を面に出さない子供だった。それは今でも同じで、注意してみなければ無表情に見える。
実際にはそんな事は無く、ナルは自身が思っているより感情が豊かで、彼を良く知る人物達はナルの顔の僅かな変化でそれを知る事ができる。
言い換えれば、一見ポーカーフェイスにみえるナルの表情の変化を知る事のできる人間の方が珍しいのだ。まどかはその貴重な一人だった。
「なんだか、日本で会った時より落ち着きがないわね」
「そうでしょうね」
リンは口の端に笑いを忍ばせてあっさりと言った。
「心配有りませんよ。原因は分かっているのです。たまにはこんな事も無いと。
ナルには丁度良い薬になるでしょう」
余裕をかますリンに、まどかは更に顔を近付けた。
「ナルのイライラの原因、知ってるのね? ナルの上司である私には当然、知る権利があるわよね?」
「そうですね、ここではなんですから、食堂の方に行かれませんか? 丁度、お昼をとりに行こうかと思っていたところですし」
珍しく、誰の目から見ても微笑んでいると分かる表情をリンは浮かべ、自分の顔を離さないでいるまどかの手を、やんわりと退けた。そのままパソコンの電源を落とし、ディスプレイを閉じる。
閉じたノートパソコンを小脇に抱え、まるでまどかをどこかのパーティーにエスコートするかのように、二人連れ立って部屋を出た。
たまたま部屋に居合わせた研究所員達は、暫く、自分達の見たものが信じられず、その場で凍りついたように全ての動作を停止していた。やがて、誰とも無く「あれは目の錯覚だよな」と自分に言い聞かせて仕事に戻った。
某、勤労女子高生にとって縁起の良い笑顔も、彼らにとっては天変地異の前触れと取られたらしい。なにせ、初めてなのだ。リンが優しく微笑むなどという所を見るのは。
その後、彼らは嫌と言う程ナルとリンの変化を目にする事になるが、この時点では、ただ、珍しいの一言ですまされていた。何故だか、日本から帰って来た二人が、人間的に丸みを帯びて付き合いやすくなったと噂されるようになるのはもう少し、後の事である。 その噂を聞いて、お話好きの女性が研究所員全員に日本の少女の事を、ナルとリンの二人に影響を与えたと思われる少女の事を吹き込むのは、更にもう少し後の話しである。
◆
リンは可笑しくて仕方が無いと言う風だった。
いつもと変わらず、静かな動作でゆったりとコーヒーを口元に運ぶ彼の姿はまどかが憶えている以前の姿と変わらない。だが、前は何所か他人を寄せつけない空気が強く、こうして心から寛いでいるように見えるのは気のせいでは無いだろう。
これはナルにも言える。
以前より、断然、付け入りやすい状況におなり遊ばして、随分年相応に見えるようになった。
それは同時に、警戒心の強さが失われた事を示している。今までなら特定の人物にだけみられた変化が、かなり顕著化しているのだ。
彼らが変わったのは、日本で知り合った協力者に因る所が大きいのはまどかも一度日本に出向いた時に分かっていたつもりだった。だが、彼らがいない状況で見る二人の変化は思っていたよりもずっと、大きなもののようだった。
「もしかして、もしかしなくてもアレ、かな?」
寛いだリンの姿に、なんとはなしにみとれかけていたまどかは頭を振って本題を持ち出した。
表情変化の乏しいリンとナルをからかって、様々な反応を引き出すのを密かな楽しみとしていたまどかだが、最近、それがやり難くて仕方が無い。まどかが顔を至近距離に持っていくと、目を見開いて驚くのは相手の方だった。だのに日本から帰って来た二人ときたら、驚くどころか平然と微笑み返すなどと言う技を返すようになった。それで無くても、二人とも容姿的に言えば平均以上、見目麗しい類いに入る。その二人が余裕を持って微笑み返すのである。
決して友好的な微笑みでは無いと分かっていても、見とれるなと言う方が酷であろう。
話術で相手を翻弄する前に、相手の僅かな隙を作るのに有効だった手は、今や自分の首を絞めるに等しい効果を持っている。まどかは、早々に手の内のジョーカーをさらす事にした。
そうしなければ、この二人に主導権を握られたら最後、自分がこの二人に勝てる立場を確保出来る自信が無い。
負けを認めたら、本当に最後なのだ。
今はまだ、認める訳にはいかない。
まどかは自分の中の負けず嫌いな部分を見つけて笑った。
ナルの事をとやかく言える程、自分は出来た人間じゃ無い。あのナルにでさえ、負けるのが嫌な負けず嫌いだったのだ。
だから切り札を出す。
多分、今一番ナルが触れられたく無い部分。
「ズバリ聞くわ。麻衣ちゃん?」
リンは静かに微笑みをたたえている。
否定は無い。それで、まどかは自分の勘がまだ衰えていない事に安堵した。
「ナルのイライラの原因は麻衣ちゃんに関する事なのね」
「ナル自身、どうして良いのか分からない様ですが、谷山さんに関する事で彼の冷静さが失われるのはまどかもお気付きでしょう?」
「美山邸事件では、ナルと麻衣ちゃん、イイ感じだったじゃない。その後、なにかあったの?」
リンが眉間に皺をよせて、何かを懸念するように目を細める。手にしていたカップをテーブルに起き、考え事をするように右手を口元に当てた。
「私もハッキリと聞き出したわけでは有りませんので、正確さを欠きますが……
どうやら、谷山さんはナルと出会った所為で霊能力を発現させた可能性が有ります。と、言うのも、谷山さんが調査中に視ていた夢は、ジーンが見せていたものらしいのです。
夢の中でナルと同じ顔をした人物と会っていたと、谷山さん自身がナルに打ち明けたそうです」
まどかはリンの話しを聞いて手が震え出すのを止められなかった。偽オリヴァー・デイヴィス博士の正体を暴く為に日本に行って、そこで出会った少女、谷山麻衣はナルの事が好きなように見えた。ナルも彼女を随分気に入っているとみた。
傍目からみても、可愛いカップルになると思っていたのだ。それがジーンの出現で、そううまく行かなくなったらしいと言う事はすぐに想像出来た。
「もしかして、麻衣ちゃん、夢の中の方に惹かれてたとか言っちゃったり?」
「笑顔が綺麗で好きだったと……」
はぁ〜、と盛大な溜息がもれる。
「なんで、ナルって人生の美味しいトコ、ジーンに持っていかれるかな? で、麻衣ちゃんときたら、ナルじゃ無くてジーンの事が好きだったのかもって、考えているんだ。ナルはナルで自信喪失かな? こう言っちゃなんだけど、あの二人、あの時点で出来てるって言われても別におかしくは無い程度に親しかったと思うのよ。大体、あのナルの内側にあそこまで食い込んで来た娘って、麻衣ちゃんがはじめてよね」
これにはリンも深く頷いて同意を示す。
「ええ、ですからナル自身もどうして良いか分からなくなっているのでしょう。谷山さんが自分に焼く世話が、本当はジーンに向けられるべきものではと疑心暗鬼に陥っているのです。そのくせ、彼女に対する独占欲だけは肥大化していく」
「困ったものね」
「そうでしょうか?」
「……随分余裕ね。それとも突き放しているのかしら? 考えたら貴方って、他人に干渉するのもされるのも嫌いだったわね」
「性分ですから。ナルに関して言えるのは、単に彼が子供だからです」
「……」
まどかは絶句して、相手のすました顔をまじまじと見る。確かにこの目の前の男は、ナルの両親から直々に面倒を仰せつかったお目付役兼、世話係だ。彼にかかればナルと言えども、ただの子供に過ぎないらしい。
ナルの肩書き上、まどかは彼を子供扱いする事は控えている。年の割に大人びた子供であった事にも一因は有る。だが、ナルの実年齢を知っている以上、対当以上に扱う事も無かった。
だが、やはり、普通の子供とは明らかに精神面で大人だと思っていた。
「あれでも、もうすぐ二十歳になるのよ?」
「この際、時間の経過に因る年令は関係有りません。ナルは幼年期から大人として扱われていた関係上、同年代の人間とのコミュニケーションが出来ていないのです。
心理学者としての知識はあっても、その知識をいかして他人を診断する事が出来ても、自分自身に当てはめて考える事が出来ていません。こればかりは誰がどう出来るものでは有りませんし、自分自身で学んで頂くしか無いでしょう」
「つまり?」
「ナルは初めてなのですよ。他人に執着する事自体が。慣れていないのです。自分の感情を扱う事に、相手の感情を推し量る事に。
今までは他人の事など意識しなくても良い環境に恵まれ過ぎていましたから、そういった面では彼は同世代の誰よりも世慣れていないと言って差し支えない」
「今、思い付いたんだけど……」
リンの説明を聞いている内に、まどかは有る事象に気が付いていた。そしてそれを確かめずにはいられない程の好奇心が疼いている。
「ナルって、よく谷山さんに意地悪と言うか、手厳しい事言ってたじゃ無い?」
麻衣が必死で覚えた知識を依頼者に披露しようものなら、横合いから空かさず訂正が入ったり、余計な事を言うなと押し込められたり。
これは学者馬鹿なナルが、専門分野にて間違った知識を当然のように話す素人を増やしたく無い為、ひいては麻衣を心霊おたくと呼ばれる一団から守る為と思っていたが、真実は違うのかもしれない。
「あれって、所謂好きな子苛め?」
今度もリンは何も言わなかった。
静かに、カップに残った琥珀の液体を飲み干していた。
───好きな子苛め。
それは自意識が確立し始める幼小時、大抵の子供が体験する人間関係の第一歩のようなものである。
おませ、と言う言葉が有る。
小さな子供には、好きか嫌いかがはっきりしていて、そのうち異性に対して男の子なら「およめさん」に、女の子なら「おむこさん」にすると言い出す遊び相手が出てくるモノなのだが、この約束が果たされるのは極めて稀である。
この時点で、彼らに恋愛感情というものが本当に芽生えているかどうかは別として、もう少し成長してくると素直に異性に対して「好きだ」と言えなくなってくる。だが、好きな相手に自分の存在をアピールするには何かアクションを起こさなければならない。
そこで登場するのが、好きな子苛めである。
まず、自分という存在に気付いてもらいたいという気持ちから、振り向いて欲しい、意識して欲しいというふうに変わっていくのだが、その意中の相手に手っ取り早く自己アピールする手段として使われるのが「苛める」だった。
はっきり言って、されてる方はたまったものでは無いのだが、認識されると言う点では確実である。
この手段、相手が本気で嫌がるまで続けると逆効果になる。適度な所で相手に優しい所を見せて、本当は悪い人では無いのだと再認識させる事によって、初めて成功したと言えるだろう。人間は勝手なもので、良い人だと思っていた相手の悪い面を後から知ると、必要以上に悪い人なのだと勘違いしやすい。その逆で、悪い人だと思っていた人に良い面を発見すると、いつもの悪い面は照れ隠しで本当は良い人なのだと好感度が上がるのだ。これは心理学の面で実証されているし、基本でも有る。
当然、ナルもそのくらいは知っているはずだ。 「あ───でも、ナルの初見の印象が悪いのは今に始った事じゃ無いのよね。でも結果的には自己アピールは成功してるとおもうけど」
「ナルにその気は無いでしょう。苛めているという自覚そのものが見受けられません」
「それじゃ、小学生以下じゃ無い」
「だから、そう言っているでしょう」
「不毛ね」
「自分で自覚して頂く以外、どうしようもないと言った訳がお分かりですね」
「で、リンの見解としてはどうなの?」
「さきほどまどかが仰ってたでしょう? ナルがイライラしていると。少なくとも、谷山さんの不在に対して苛立ちは覚えている訳です。気を付けていれば、ナルの行動に面白い変化も見受けられるのですが、これは御自身で確認した方が面白いでしょう。
今は、ナル自身の精神的成長を待つしか無いと思いますよ?」
すっかり、コーヒーを飲み干してしまい、ランチも平らげてしまったリンはおもむろに立ち上がる。話す事は話したと言う事なのだろう。
「ナルも恋するお年頃って事かぁ〜。なんか変な気分ね。対象がナルって事だけで、大事のような気がする。普通は放っておいても大丈夫とか思うものなんだけど、なんでかしらねぇ〜心配なのよ」
まどかが苦虫を噛んだように顔を顰めると、今度はリンが同じように渋面を作る。
「お願いですから、これ以上、自体をややこしくする事だけは避けて下さい。ここで私達が手を出す事で、ナルの成長を妨げる事になりかねませんから」
「でも、ナルの事よ? ぐずぐずしているうちに麻衣ちゃんが他の男に取られるのは落ちよ。あれでいて彼女、そうとうモテルとみたわ」
これにはリンも溜息を漏らした。
「実際、谷山さんの自覚が薄いだけで、彼女に交際を申し込もうとした方達はかなりの数に達するでしょうね。現在彼女がフリーなのは、交際を申し込まれた事自体に気付かず、うやむやのうちに申告者達を振ったからなのと、滝川さん以下、数名の助力で撃退されているからです」
撃退と言う言葉にまどかが目を丸くする。しかも、数名でと言った。
「それじゃ、こうしてナルがこっちにいる間も滝川氏が麻衣ちゃんのまわりの虫達を払ってるんだ?」
「皆さん、谷山さんがつまらない男に捕まってはと、結託なさっておられますから」
なんとなく、以前会った面白いメンバーの顔が次々に浮かんできて笑いを誘う。彼ら、全員が全員、麻衣を大事にしている事はすぐに分かった。だとしたら、リンの言う所の『皆さん』とは、彼ら全員だ。
お節介を通り越して、これでは過保護だ。
でも、きっとまどか自身、麻衣がつまらない男に捕まりそうだと知ったら、彼らの様に何等かの手を打って撃退しようとするだろう。
「そっか、それじゃあ、安心かな」
「今回の事はナルにとって、自分を見つめ直す良い機会だと私は思っています。
少なくとも、谷山さんが側におられる時は自分でも彼女の事を気にしている事に気付いて無かったと思われましたが、離れてみる事で彼女の存在感は間違い無くナルの心境に変化を与えています」
「まるで月の様ね……」
月の女神アルテミス。見るものを魅了する存在。儚気な印象の光。誰もが有る事を意識していないが、月の無い夜には不安が広がる。
「良い例えですね。しばしば女性は陰の気、つまり月に例えられる事が有りますが、月と言うのはこのような明るいうちでも空に有るのです。ただ、太陽の光が強すぎて見えないだけで、いつも変わらず其所に有ります。また、月が無ければ全ての生命が滅ぶとも言われてますね。月の引力は人の運命を握っているのです。
また、夜の闇の下、月の光の下では人は自分の内側と自然に向き合う事が出来ます。夜は心を解放する扉の一つなのです。ただしそれは完全な闇で起きません。月の光が必要なのです。
月があってこそ、人は夜の闇のなかに安らぎをみいだすのです」
「ナルにとって、彼が自分に素直になれるのは彼女の前だけだと?」
「そうであって欲しいと思っています」
「意外にロマンチストなのね」
「そうでしょうか?」
リンの困った顔にまどかはクスクスと笑いをこぼした。
───何故だろう? この人が可愛く見えるなんて。
言葉にして言ったら怒るだろうから、黙っておく。だが、まどか自身はこれはお手上げかもしれないと密かに降参宣言をした。どうも、この寡黙な男の事が気になって仕方が無かったのが、ここに来て一気に爆発したように思える。
確かに、気になる相手とは一時的に離れてみるのも手かもしれない。自分の中の相手の占有率を知る事になるから。だが、生憎まどかはまわりの人間が認識する程、素直な性格では無かった。
まだ、リンにもナルにも上位を譲る気はない。
もう少し、個の立場を楽しませてもらおうと、席を立つ際、態とリンの腕にぶら下がるように抱きついた。案の定、リンは慌てて手にしたノート型パソコンを取り落としそうになる。
「お楽しみはこれからって事よね? それじゃあ、部屋に戻りましょう。私達がいない事にナルが気付いて拗ねる前にね」
今の所、リンに抱きついたりできる女性をまどかは知らない。ライバルは少ないはずだ。
このまま、もう暫く今の立場を楽しませて貰おうと色々考える。それに、自分から告白するくらいなら、相手から告白された方が、より、楽しいに決まっている。だったら、相手に告白してくれるように画策するのも一興だ。
負けを認めて心の軽くなったまどかは、自分が出来る限りの微笑みを浮かべて、リンを見た。
落ちぬなら、落としてみせよう、ホトトギス。
オリジナルを無視した一句を詠んだあと、リンの腕を引いて歩く。知らない人が見たら、仲睦まじい恋人が歩いているかの様に寄り添いながら。