2004-02-23
第2章 ◆ 真昼の月
ナルは部屋に付くなり、疲れた躯を放り投げるようにベッドに倒れ込んだ。資料になる本を読まなくてはと思う。だけど、自分の居なくなったお茶の席ではどんな会話がなされているかと思うと気が重い。
まどかは麻衣とジーンが似ていると言った。ナル自身、似ていると感じた事は有る。すぐに他人に入れ込んで同情した挙句、そいつの為に泣きだす所とか……
くるくる変わる表情。
いつだってじっとしていなくて、目をはなすと何をしでかすか分からない。その癖、自分の事は棚に上げ、人の事を責めるのだ。
「健康管理くらい、自分でやんなさいよね」と。
だけど、麻衣は麻衣だ。
ジーンとは違う。
姿が違う。声が違う。その身に纏う空気も、その場に居る人物達に与える影響も何もかもが違う。
他の誰にも、代役の勤まらぬただ一人の希有な存在。
先程、お茶の時間を過ごしたばかりだと云うのに渇きを覚える。いくらお茶お飲んでもこの渇きは癒せない。疲労からくる脱水症状とも違うようだ。
喉が乾いたなと思う。
無意識に唇が言葉を綴ろうとする。
麻衣、お茶。
だけど、その言葉をかけるべき相手がここには居ない。ナルの唇は最初の一音を発する前に閉ざされてしまう。
麻衣……お茶。
何度も口の端にのせられて消えていった言葉達。
お茶が飲みたい……
イギリスへ帰って来てからすっかり癖となってしまったその行為を飽きもせず繰り返す。
麻衣、お茶。
◆
英国心霊教会、通称SPRの本部に人が居る事は稀である。大抵の会員はどこかの大学や研究室に在籍し、そちらを主な職場としているからだ。
新進気鋭の若手ナンバーワンと誉れの高いオリヴァー・デイヴィス博士にしても、それは変わらない。彼はプラット研究室と呼ばれる所に属していた。
久しぶりに顔を見せたデイヴィス博士に何とか渡りをつけようと、連日何所かからお客と称する人間が出入りする。普段なら、相手にもされぬ研究所員にお世辞を云う様など、浅ましい。
人間が出来ていると評価の高いまどかでさえ、「鬱陶しい」と呟く程に。
その日も、数え切れない程の訪問者を門前払いにし、ナル以外の所員は殆ど、自分の仕事など手に付かない状態だった。そう、ナル以外。
そう、ここSPRでナルは特別だった。何せ、彼の為ならと特別資金を援助してくれる後援者は引きも切らない。SPRの活動資金援助の最大大手を抱えているのがこの、ナルこと、オリバー・デイヴィスだった。
だから、彼と直接チームを組んでいない他の所員達もナルの言動には注意を払っている。まるで腫れ物のように扱う。
正直、ナルは自分の手足のように動かない所員達にあれこれと世話を焼かれるより、放っておいて欲しいタイプだったから現在の状況は理想的と言って良かった。彼らの同僚として、親し気に話し掛けられるのも気に入らないが、必要以上に距離をとられると急ぎの時に誰も捕まらないという事態を引き起こす。
だが、研究所にはナルを目的にやってくる招かざる客が引っ切りなしに来る為、常に誰かしら部屋に詰める事となる。だからナルは自分でやる暇の無さそうな事を、部屋に詰めている誰かに頼む事がすぐ出来、自分が呼ばない限り接してこない所員達の存在は有り難かった。
この際、多少の融通の効か無さ、無能さは目を瞑る。
最低限、言い付けた事さえきちんとしていれば問題ない。彼には右腕とも言える、もっとも優秀な部下が居て、彼一人居ればナルが色々と指示を出さなくても大抵の事はこなしてくれるからだ。
だのに、本来自分のホームベースであるはずの研究所で、ナルは酷く苦痛を感じていた。
先に述べた通り、大概の事は優秀な部下、林興徐が片付けてくれる。これまでと何等変わり無く。
だが、やはり何かが違うと感じる。もともとナルのまわりは、限られた人物だけで構成していたから日本に行く以前と殆ど体制は変わっていない筈なのだ。それでも、『足りない』と感じる事が余りにも多すぎる。
それはリンも感じて居る事のようで、時折困ったように視線が誰かを探しているようだった。
こうしてみると、日本に居たメンバーはかなり、優秀だったと言わざるを得ないようだ。
もともと素人だったので大した期待はしていなかったが、仕事を覚えるのは速かったし、何より、やたらと気の付くメンバーが多かったように思う。
ナルの性格にもすぐに馴染んで、その対処の仕方も独自に確立していた。実にやりやすい人員配置だった。
おかしなものだとナルは独りごちた。
何が楽しくて日本くんだりまで出かけなければならないのかと、愚痴ったところでジーンは帰らないのだけれど。それでも、研究の為(滅多にとれない海外のデータを取る為)と自分に言い聞かせて日本に来たのだ。
ところが、この国は貴重で面白いデータが沢山とれるだけでなく、貴重で優秀な霊媒まで揃っていた。
期待していなかった分、このようなサンプルが見つかるとは喜ばしい限りだ。それぞれが得意分野の違う、タイプの異なる霊媒達。それが分かっているから、お互い協力体制を敷けばほぼ完璧なフォーメーションとなる。
文句のつけようのない仕事内容だったと自負している。少なくともSPRに対する責任や義務は果たしているはずだ。
だが、『上』は不満が有るようだった。
ナルが再び日本へ行こうとするのを何かと引き延ばしてくれている。だから、彼らを納得させる為に、今日もせっせと報告書を作るのだ。日本でのデータ。サンプル。全てを系統立てて整理し、分類する。
2年足らずの間に溜まったデータは、予想を遥かに凌駕して膨大な量となっていた。そのどれもが顕著で、他の研究者を納得させるには難しい内容だった。まず、報告される霊現象の殆どが虚偽に満ちた作意有るものばかりの中で、ナルの報告ではそれが見当たらない。また、事件を担当した霊能者にしても、SPR本部に登録されている者達よりも優秀な成績を修めている事等、数えだしたらキリが無い。
何より、上層部の者が興味を示したのは『M』とだけ記されている、未分化の能力者だった。霊能力に目覚めたばかりで、能力そのものが不安定な為、正式な文書には記されていないが、この『M』なる人物は非公式の報告書となると随所にあらわれる。
本人が霊媒を本職としていないのと、未成年者である事を理由に、ナルは一切のプロフィールの公開を拒否していた。それが上層部には気に入られなかったらしい。なにかと報告書に難癖を付けては聞き込みに来る。ナルがどんなに、公開できる状態では無いと説き伏せても駄目だった。
仕方なく、非公開用の報告書まで作成する事になってしまっていた。
ナルがこの報告書の作成にかかろうとすると、キーボードを打つ指が何故だかぴたりと動かなくなる。単語と言う単語が頭の中から消えてゆき、文章として成り立たない謎な文字の羅列が出来上がる。
何度試しても、結果は同じ。仕方なく急ぎの資料作成と別の報告書を先に片付け続けて、『M』の報告書は後へ後へと引き延ばされていた。
そしてナルは内に凝ったモノを吐き出すように息を付いた。
日本には、こんな時に丁度良いタイミングで声をかけてくる者が居た。
───お茶にしよう?
彼女のいれる紅い液体は喉を潤すだけで無く、滞った思考を解きほぐし、活性化させる。
───感想は?
不味くはないな。
いつもそんな風にしか返事をしていなかったと思う。紅茶を入れた事が無かったと云う、バイトを始めた当初だけだ。不味いと思ったのは。
いつの間にかその味に慣れ親しんでいる自分。
前なら本当に美味しいと思っていたルエラの入れてくれるお茶でさえ、物足りないと感じている。
2年だ。
たったの2年で人はこうも変われるものなのだろうか?
空気が違う。
渇望する。
───一体、何を?
苦しいと思う。何が足りないのか、きっと自分は知っている。だけど、何かが邪魔をして答えは心の奥に沈んだままだ。
突き付けられる現実と、理想とする現実とに差が生じた時、自分がどうするのか解らない。
渇く。
この渇きを癒せるのはただ一つだけ。
だけど、それを手に入れる事は可能か?
手を伸ばしても届かぬ可能性は無いか?
答えはきっと目の前に有る。
まるで真昼の月のように。
だけど、一番恐れているのは永遠に失う事だ