ルエラ・デイビスはそっと、溜息をついた。
彼女には自慢の双子の息子が居た。そのうち一人は遠い異国の地で事故に遭い、つい先日、死体となって帰国した。
残されたのは深い悲しみと、もう一人の息子。
失われた悲しみは、一朝一夕に癒されるものでは無かったけれど、それでもまだ、彼女にはもう一人、息子が残っていた。
支えと云っては彼に負担をかけてしまうけど、それでも彼が生きている事、こうして手の届く範囲にいる事がとても嬉しかった。
彼らは本当に良く似た双子だった。
黙っていればどちらがどちらかルエラにさえ見分けるのが困難な程。だけど彼らは見た目程性格は似ていなかったので、ほんの少し話しをすれば大抵の人が区別をつけられた。
だけど、事故に遭った片割れを探しに行った先 日本から帰って来たもう一人の息子に、最近妙な癖が出来たのにルエラは気がついていた。
それは死んでしまった方の息子に良く見られた癖で、その事が彼女の胸を重くしていた。
もしかしたら、彼は何事も無かったように平然としているけれど、本当は居なくなってしまった片割れの影を探しているのじゃ無いかと不安にさせられるのだ。
一見、変哲のない平和そうに見える午后。
お茶の用意をしながらルエラは読書に勤しむ息子を見た。そうしていると彼は以前と全く変わり無く、活字の文字を追う事に夢中でまわりの事等視界に入っていないようだった。
テーブルの上には焼き立てのマフィンとスコーン。そして美しい綱玉の色をしたお茶と、うるさく無い程度に飾られた切り花と。
一度、テーブルから離れて全体のバランスを見る。
テーブルクロスに変な皺は付いていないか?
お茶菓子とカップの位置は?
そんな事を確認して、ルエラはやっと、お茶のゲスト達を呼ぼうと息子の方を見た。
彼は相変わらず、本から視線を外そうとしない。そんな彼が、何か言葉を発しようとしてそのまま口を閉じた。彼の言葉は音として発する前に、彼の口の中で消されたしまった。
こんな時、彼は何時も決まって微かに眉をしかめている。何か、いけない事を言いかけたように。
死んでしまった息子もそうだった。
何か言いかけては途中で言葉を飲み込んでしまう癖を持っていた。
二人の姿がダブって見えて、ルエラは不安に胸が押しつぶされそうだった。だからあえて、気付かぬ風を装って、明るい声で彼の名を呼んだ。
彼が死人の影に取り付かれぬように祈りながら。
「ナル、お茶の時間よ。この時間ぐらいはその無愛想な本を閉じて頂戴。それからマーティンを呼んで来て。早くしないと折角のお茶が冷めてしまうわ」
ナル、と呼ばれた息子の方は急に声をかけられ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに元の無表情に戻って本を閉じた。
「マーティンは書斎?」
「そのはずよ」
ナルは閉じた本を今まで座っていたソファの上にのせるように置き、大人しくルエラに従う。
その姿を見てルエラは首を傾げた。何故だか、日本に行く前と帰って来た今では少し、印象が違うような気がする。そう思って夫のマーティンに尋ねてみた事もある。それはマーティンも気が付いていたらしいが、人間が丸くなって成長したようだと、そう評した。
そうだろうか?
一度気になると次から次へと不安になる。
死んだ息子のジーンは人当たりが良く、人気者だった。対照的にナルは排他的で、お世辞にも社交的とは言い難かった。そのナルが、なんだか雰囲気が柔らかくなって話しやすくなったように思う。
本当はもっと、素直に喜べば良いのだろうけど、この急激な変化は何処からきたのか解らないルエラには不安の材料でしか無かった。
いや、ナルに付き添って一緒に日本へ行って来たリンの少ない言葉からは、確かにナルが変わったような報告は受けていたけれど、この目で確認するまでは半信半疑だった。
ナルはどうして変わったのだろうか?
彼女は息子の僅かな変異も見逃すまいと、注意深く彼を見ていた。自分の不安が杞憂であれば良いと、リンやマーティンの言う通り、ナルが良い方向へ変化したのなら神に感謝しようと。
ナルがマーティンを伴って戻ってくると、テーブルには華やかな雰囲気を纏った女性が既に座っていた。ナルはその女性を見たとたん、眉間に皺をよせて顔をしかめる。
「はぁ〜い♥ ナル。お先に呼ばれてるわよ」
ナルの苦手とする人物リスト、上位にランク入りしている彼の上司、森まどか。その人である。
この女性、ナルが睨もうが皮肉を言おうが動じない事、瞠目するより他は無い。その、一見少女のような外見とはかけ離れた度胸の持ち主だった。
「こうしてまどかとお茶をするのも久しぶりでしょう?
聞いて頂戴。ナルったら、お茶の時間もこうして本を手放してくれないのよ。貴方からも何か言ってやってくれない?」
ルエラは嫌そうなナルの顔を無視してまどかに話しかけた。実際、ナルもマーティンもお喋りな方では無い為、話し相手としては役者が不足している。その点、まどかはどんな些細な事でも良く反応して話題を広げてくれる才能を持っていた。
ナルが何時も本を手放さないのは今に始った事では無かったけれど、まどかは全くだというように首を縦に振った。
「ほんと、日本にいる間もそうだったみたい。事務所のみんなもナルの読書の邪魔をすると後が煩いって、それは腫れ物でもさわるような感じだったものね」
「そう言えば、日本に行った時にお会いした方々が協力者の皆さんね。ナルにしては珍しい事があるものだと思っていたのだけれど、まどかは彼らとお話をした事があるのだったわね。
ねぇ、彼らについてもう少し詳しい事を知りたいわ。お分かりでしょうけど、ナルは日本の事は殆ど話してくれないんですもの」
協力者について話して欲しいと頼むと、ナルは決まって一瞬だけ奇妙な表情をする。怒ったような、困っているような、そして「お話する程の事はないです」といつも逃げられるのだ。だが、話好きのまどかなら多少の脚色の可能性があるが、色々と教えてくれるだろう。
この時のナルも、ジロリとまどかを睨み付けて「余計な事は言うな」と目線で訴えていたが、まどかはさらりとそれを受け流し、にっこりとルエラに微笑みかけた。
「それはもう、楽しい方ばかりでしたわ。それにとても優秀な逸材ばかりがこれだけよくも集められたものだと感心するばかり! なんと言っても、我がSPRの精鋭達でさえ平気でこき下ろすナルが協力を求めるような人ばかり。
思わずスカウトしかけちゃいましたわ」
ただ、初めて会った時はナルがSPR関係者である事を伏せていた為、表立っては勧誘する事が出来ず、とても残念だったと付け加える。
「でも、この間お会いした時はジーンの事を知っているようだったわ?」
「それなんですけど、ナルが話した訳じゃ無くて、彼らが独自に推理して行き着いた答えが……」
「正解だったと?」
「ええ、その洞察力には驚くでしょう? でも、最初から最後まで彼らは彼らは彼らだった」
普通、この世界に片足でも突っ込んだ事のある者なら一度は聞いた事がある有名人の中に、イギリスのオリヴァー・デイヴィスが居る。年令経歴不明の博士だ。その正体が十代の少年の肩書きと言うのが世間に公表して直ぐに受け入れられると思われなかった為、彼の発表した論文が少年の書いた物とは思えぬ程の出来だった為、未だナルの経歴は非公開だ。唯一公表しているのは既にSPRの会員である事、最近になってどうやらケンブリッジに在籍中であるらしい事等が分かっている。
それまで隣に座っていた少年が博士号を持つ人物だと分かった瞬間に、人は態度を変える。それまで大して親しくも無かったはずなのに、妙に馴れ馴れしくする奴。かと思えば、急に距離を置いて離れていく者。
肩書きが付くと云うだけで、ナルに対する態度が大きく変わる。
ナルにとっては何も変わらないのに、まわりの人々はそれを許さない。
まったく、鬱陶しくてかなわないとナルは思う。ナルの中で一旦引かれた距離が変更を余儀無くされるから。
確かに、そう言う点では彼らは『彼ら』だった。初めから最後まで、ずっと、同じスタンスで接していたと思う。時間と共に馴れ馴れしくなってくるのは、ナル自身が彼らの存在に慣れていく事で解消されていたから、自然の摂理と言えなくも無い。お互い、何処までの接触なら許されるのか試行錯誤しながら距離を計っていた。
本当に嫌がっていると思えば、引く事をわきまえていた。そんなメンバーだから、今までやって来れたのだ。
中には約一名、距離感の無い奴も居たが。
まどかの言葉に、何となく五月蝿いイレギュラーズの顔が浮かんで物思いに耽りかけたナルだったが、その沈みかけた意識を浮上させたのもやはり、まどかの言葉だった。
「……で、麻衣ちゃんが可愛かったんですよぉ」
完全にナルを無視して会話は女性二人で進んでいたらしい。マーティンは時折ルエラに同位を求められて「そうだね」なんて相槌を打つだけだ。
「麻衣さん……そう、確かリンの報告にもあったお名前ね」
「ナルがアルバイトに雇った女の子よね」
急に話しを振られてナルは鼻白む。まどかはいつもと変わらないように見えるが、どこか悪戯っぽい光を瞳の中に隠していると思えるのは気のせいでは無いだろう。こんな話しにナルが積極的に加わる事など無い事を分かっていて、話しを振るのには何か企んでいると考えるのが自然だ。
この人はあどけない少女のような微笑みを浮かべながら、人の裏をかいて驚かせるのが大好きな女性なのだ。その辺については百戦錬磨の手腕の持ち主だったりする。
この一点において、ナルはこの女性に敵わない事を自覚しているので出来るだけ和やかなお茶の席では同席したく無いと避けていたのだ。だが、養母であるルエラの『お願い』に弱いナルは、こうしたシチュエーションでは逃げようが無い。
大体、ナルは他人が麻衣の事を話題にのせるのが気に入らない。どんな顔をしていれば良いか分からないから。
何故だかこの場から逃げ出したい衝動にかられる。
この聡い女性、まどかはナルのそんな異変に逸早く気が付いていたらしく、何かある度にナルの前で麻衣の事を話題にする。
確かに、麻衣をアルバイトに雇うと言ったのはナル自身だ。他人を雇うなんて事は初めてだからまわりの皆が驚いたのは言うまでも無いが、それでもこの話しが後々、ここまで尾を引く事になるとは正直思ってもみなかった。
「ああ、良く覚えているわ。ジーンの為に泣いてくれた子ね。とっても可愛らしいお嬢さん」
「今度、日本へ行かれる時は是非、彼女の入れてくれたお茶をいただく事をお勧め致しますわ。本当に美味しいお茶を入れてくれるのよね。ナル」
クスリと笑って同意を求められる。
ナルは肩を竦めて返事をしなかった。でも否定しない事で『不味くは無かった』と肯定している。そんなナルを理解している両親は静かに笑った。笑われてナルはまた、居心地の悪い思いをする羽目になる。
「なんて言うのかしら? とっても感情が豊かで、そうね、ジーンに少し似ていたかしら」
まどかの言葉に、ルエラとナルはそれぞれ心臓が大きく跳ねたように思えた。そんな動揺を悟られまいとルエラは敢えて興味本位のように話しを促し、ナルは目の前のカップに意識を集中する。
「とても、興味があるわ。そのお嬢さんの事、もう少し詳しく教えて? ナルが大変お世話になったのでしょう?」
「あれの世話になった記憶はありません」
ルエラの言葉に思わず反論してしまったと思ったナルだが、もう遅かった。まどかがテーブルに突っ伏して笑っている。
「はいはい、そうね。『世話になった』わけじゃ無くて、『世話をしてあげた』のよねぇ〜」
ドンドンと拳で音が出る程テーブルを叩く。下手に反論して、これ以上妙な方向に話しを持っていかれても面倒なのでナルはむっつりと黙りを決めこんだ。
「まどか、笑ってばかりじゃ分からないわ。ナルは説明してくれる気が無いみたいだし」
「ご免なさい、そうね。
ジーンとくらべると、もう少し活発な感じでよく笑う子でしたわ。これはもう話したかしら? 麻衣ちゃんはジュニア・ハイの時には両親共に亡くなっていて親戚も居なかったらしいのですけど、いつだってそんな事を感じさせないくらい前向きで明るい子でした。
他人の苦しみや悲しみを我が事のように感じる事のできる、とても優しい子……」
まどかの目が優しく笑う。どうした事か、誰もが麻衣の事を誰かに説明しようとすると、こんな表情になる。
ナルは麻衣の事を決して弱い人間だとは思わない。柔軟な感性は大抵の困難をチャンスに変える術を知っている。
だけど、だからこそか、麻衣の在り方が変わらないように、彼女の中の中心を成す部分に変化しないようにまわりを構成する人々は気を使うのだ。
肝心の本人は、まわりのみんなが気を使っている事等まったく気付いていないだろうけど。
酷く人懐っこくて、警戒心の薄い彼女はまた、酷く寂しがりやで一人になるのを嫌がっていた。
そのくせ、淋しいと思っている事を人には悟らせないように立ち回ろうとするのだ。そんな事は誰もお見とうしで、今度は麻衣に気を使わせないようにそれとなく入れ替わり立ち代わり、事務所で騒いで行く。初めのうちは例のメンバーが何故、こうもナルの事務所に遊びにくるのかと不審に思っていたが、謎が解ければ得心も行く。
結局、誰も彼も麻衣には弱いのだ。
麻衣の笑っている姿を見たくて、その手を差し伸べる。そんな気にさせる事のできる空気を身に纏っている。
「残念だわ。そんなお嬢さんならもっとお話、しておくのだったわ。ねぇ、ナル。麻衣さんはジーンに似ていたのって、本当?」
ルエラが聞く。ルエラはナルが日本に留まってなかなか帰ってこないのを淋しく思っていた。そんなにジーンを失ったのが悲しかったのか?
そんな風に考えていた。
だけど、リンやまどかの報告を聞く限りではナルが悲しみだけに耽っているようには思えない。
そこでもしかしたら、麻衣という少女にジーンを見ていたのではと思い付いたのだ。だけど、ナルは速効否定した。
「ジーンと麻衣は似ていない」
これにはまどかも驚いたように目を丸くする。
「読みかけの本がありますので、先に失礼します」
「あまり根を詰めないように。それで無くてもナルは没頭するとまわりが見えなくなる傾向が強いのだからね」
暫くしたらまた、日本へ戻るつもりである事を知っているマーティンは、ナルが短期間でSPRに対する報告書を作成しようとしている事を分かっていたので止めはしない。だが、すぐ限界を忘れて研究に没頭する我が息子の悪癖も知っていたので釘を刺す事は忘れない。
以前、突然倒れてルエラに心配をかけた事があるナルは、一瞬だけ少年の顔で振り返り、「分かっています」と返答し、自分の部屋に戻っていった。
どうやらナルが『麻衣』という少女の事を話題にされるのが苦手らしいと見破ったマーティンは、すぐ側の女性に悟られないように思考を巡らせた。ナル自身、自分の感情に戸惑いを覚えているのだろう。それが多分、今まで経験の無い事であったのはナルを見ていれば解る。
自分で自分の感情を分析するの程難しい事は無い。ナルの中で麻衣と云う少女はとても微妙な位置を占めているようだが、ナル自身がどうランク付けしてよいのか悩んでいるとみた。
彼は長い事、息子の変化を楽しみに待っていた。悪い傾向では無いと思っている。彼の記憶にも日本の華奢な少女の姿は新しい。聞けば彼女は平気でナルに怒鳴り付けたりできるらしい。今まで、そんな事をできる人間は限られた人物にしか出来なかった事だ。そんな事をした場合、ナルが鬱陶しいと判断し、遠避けてしまうのが関の山だった。だが彼女はそう判断されなかった所を見ると、彼女に対する許容範囲はかなり広いらしい。
ルエラでは無いが、こうなると確かに、噂の少女ともっと話しがしておきたかったと思ってしまう。だがナルは日本に戻る気でいる。その証拠に日本支部は閉鎖されずに、ナルがこちらでの用事を済ませるまでまどかが向こうで所長代理を務めると聞いている。そのまどかがスカウトしたいと言ったら、彼女の事だ。その後、何気なく言ったように見えたその事を実行に移すのは想像に難く無い。
要するに、麻衣に直接会える機会はこれから幾らでもあると考えられるのだ。
ここで我が息子の機嫌を損ねて、麻衣を紹介させる気を失わせる事は無い。
「まどか、そんなに良いお嬢さんなら一度、この家に御招待申し上げたいところだね。いや、前々から日本の文化には興味があったんだ。その方達に観光案内を頼むなんて事は無理だろうか?
別に急ぐ訳でも無いのだが、ナルが嫌がるかな? 優秀な所員をそんな事に使っては」
にっこりと、微笑みつつ未来の設計図を引いていく。それにルエラも賛同の意を示す。
「まぁ、素晴らしい案ですわ。皆さんが来て頂けたらおもてなしをしなければ! でも、皆さんの御予定も有りますものね。それはとても大変かも……。それに私も一度ゆっくり日本の美を堪能したいと思ってましたの。日本滞在中、ずっと可愛らしいお嬢さんが側に居てくれたらどんなに楽しいでしょうね」
やはりにっこりと笑いつつ、まどかが答える。
「ナルに彼らを束縛する理由なんて有りませんわ。でも、なかなかに楽しい計画ですわね。
是非、実現させたいですわ」
ナルの知らない所で、楽し気に計画だけが進行する。肝心のナルの機嫌を損ねては大変なので、時期とタイミングは今後の様子を見てという事になった。
その頃、遠い日本で麻衣が、部屋に引きこもったナルがほぼ同時に小さなくしゃみをした事は誰も知らない。