歴 史 散 歩 (7) 目次へ戻る

散歩道の史跡(高槻市北部の史跡)

古曽部・芝谷遺跡(弥生時代)安満宮山古墳(古墳時代)三島古墳群(古墳時代)、 伊勢姫と能因塚(平安時代)、太閤道(戦国時代)高槻城址(江戸時代)
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我が家のある高槻市は大阪平野の北端に位置し、淀川水系の豊かな水に恵まれ古代より多くの人々が居住した先進地域だったようで、朝夕の散歩で通る道端にも、弥生時代、古墳時代から近世にいたる多くの遺跡や史跡が見られる。上の写真は、今パソコンを打っている書斎の窓の正面に見える安満山の中腹にある安満宮山古墳(卑弥呼から下暢されたという青龍三年銘の銅鏡が発見され国の重要文化財に指定されている)から眺めた市街。

写真中央に見える運動場のようなところは安満遺跡と呼ばれる弥生時代の大きな集落跡で、現在は京大農学部の農場となっている。 その右手に高槻市街が広がっている。後ろ地平線上に霞んで見えるのは大阪市の中心部。

写真では分からないが中央付近を左(東)(西)に横切り、古代から続く西国街道、水運の中心淀川、名神高速道路(この直下で見えない)、国道171号線、東海道新幹線線、JR東海道線、阪急京都線が通っており交通の要衝でもある。

以下、時代順にいくつかの史跡を紹介する。いずれも2km以内の距離にあり私にとっては徒歩圏内である。交通機関を使っての道順などはこちらを参考にして下さい。

古曽部・芝谷遺跡(弥生時代)

美しが丘住宅

何の変哲もない住宅地の写真だが、この地は私が30数年前に引っ越してきた頃は木々に覆われた小高い山で子供達をつれて山登り気分を味わっていたところであった。

バブルの頃、この山を崩して宅地開発をする計画が持ち上がり調査を始めたところ、この辺りに巨大な弥生時代の高地性環濠集落跡が発見され一時開発が中止された。この周辺にはこのような高地性集落跡がいくつも発見されているがここの規模は大きく保存するかどうかかなり議論があったようである。

結局開発許可が下りたがバブルがはじけ長い間空き地になっていたがここ数年で住宅が建ち始め今では瀟洒な住宅街になっている。

この写真左後方の山が安満山で、尾根の右端辺り色が薄く見える部分が高槻市の墓地公園でその右辺りに上のパノラマ写真を撮った安満宮山古墳がある。


この写真は下の説明板の右上にある発掘調査時の様子。公開説明会の時は多くの人が見学に訪れた。

それ以前はこの地は木に覆われた山の中腹であった。左下の写真はこの町の公園の入り口にある遺跡跡を示す説明板である。 既に10年以上経っており読みにくい所もあるが以下のような内容である。

古曽部・芝谷遺跡
1900年ほどまえの弥生時代、高槻丘陵で尾根や急斜面を造成して100棟以上の竪穴式住居や幅8m深さ5mの濠がめぐる大きなムラが開発されます。ここからは多くの土器、石や鉄の武器や農耕具、米やドングリなどの食料も見つかりました。なかには河内地方や滋賀県、さらには瀬戸内海を通じて香川県や広島県から運ばれてきた土器もあり、広範囲の交流があったようです。
古曽部・芝谷遺跡跡からつづく谷を下ると安満遺跡にたどり着きます。みつかった土器や石器のかたち・材質から古曽部・芝谷ムラの人々は安満ムラとの強いつながりのなかで暮らしていたことがうかがえます。


平成7年4月  高槻市教育委員会

つまり、2000年近く前にもこの地は開発され住宅地になっていたが、一旦消え去った後、現代になってさらに大規模な開発が行われ再び住宅地となり多くの人が暮らすことになったわけである。

天神山遺跡(弥生時代)

上宮天満宮の裏手にある小さな公園。この一角から大きな銅鐸が出土した。 公園入り口にある説明板。写真のような大型銅鐸が見つかっている。

高槻市役所前の大通りの歩道と車道の境目
にある柵の支柱は銅鐸をデザイン化したも
のである。

安満宮山古墳(古墳時代初期)


平成9年頃、この地を墓地公園として整備するため調査が行われ、その過程で長大な木棺を収めた古墳が発見され、安満宮山(あまみややま)古墳と命名された。棺内には青銅鏡5面をはじめ、ガラス小玉をつづった装飾品や刀・斧などの鉄製品が副葬され、並々ならぬ人物が埋葬されていたことが明らかになった。

注目されるのは中国・魏の年号、青龍三年(235年)銘をもつ方格規矩四神鏡で日本最古の年号鏡である。

ここに眠る人物が眼下に広がる安満集落の王で卑弥呼が魏に派遣した使節団の一員で女王卑弥呼よりこの鏡を下暢されたのではないかと推測する人もいる。市の説明サイトはここ

現在墳穴は透明なカバーで覆われ中を覗くことができる。その後方は崖になっておりその向こうに高槻市の中心部が広がる。 手前の円形の台は5面の鏡の複製を取り付けた説明版。

古墳点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


説明板

青龍三年銘鏡

木棺埋納坑の底

三島古墳群(古墳時代中・後期)

高槻市から茨木市にかけて、山裾に大小無数(約800基が確認されている)古墳が存在し、奈良盆地、南河内(古市・百舌鳥古墳群)についで大きな古墳の集積地である。我が家から1km以内にも芝谷古墳、昼神車塚古墳など中型の古墳がある。また、近くの名神高速道の跨道橋から眺めると、西方に弁天山、岡本山古墳などの大型古墳も眺められる。


芝谷古墳
新しく開発された住宅地の中に取り残されたように保存されている。
昼神車塚古墳
上宮天満宮の入り口付近にある。この下を府道のトンネルが通っている。

昼神車塚古墳の埴輪群
側面テラスにこのような埴輪列が見つかっている写真をクリックすると大きくなります
恐らく今城塚とおなじく近くの埴輪工場で作られたものであろう

弁天山古墳群
近くの名神高速道の跨道橋から西(神戸方面)を望むと(緑矢印方向)小高い山のようなものが見える。実はこれは大型の古墳で左が岡本山古墳(一部道路工事のため削られている)、右が弁天山古墳。いずれも4世紀頃この地方を治めた王の墓と見られている。
右に航空写真を示すがその南方
(上写真では左枠外)今城塚古墳がある。闘鶏(つげ)山古墳は完全未盗掘の古墳でこれからの調査が期待されている
もう少し向こうには、藤原(中臣)鎌足の墓といわれている阿武山古墳があり、中臣氏もこの辺りに領地を持っていたと考えられている。

伊勢姫と能因法師(平安時代)

少し時代がとぶが、平安時代の歌人で三十六歌仙の一人、百人一首にもその歌を残す伊勢姫がこの辺りで晩年を過ごした。伊勢姫をしたってこの地に住んだという同じく百人一首に登場する能因法師にゆかりの地でもあり、その墓も近くにある。

伊勢寺山門

伊勢寺は伊勢晩年の旧居を寺にしたと伝えられている。元は天台宗の寺院だったが江戸時代に曹洞宗に転じた。


境内には伊勢姫を祀る廟があり、また、戦国時代の武将で一時高槻城主にもなった和田惟政の墓がある。

大晦日には、除夜の鐘をつきに来た人にぜんざいを振る舞う習慣がある。

伊勢寺点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


伊勢姫廟

百人一首歌碑

歌碑説明板


能因塚

能因法師、俗名 橘永ト(たちばなながやす 988〜1058?)は平安時代の歌人で百人一首にも次の歌を残している。

「あらしふく 三室の山の もみじ葉は 竜田の川の錦なりけり」

伊勢姫をしたってこの地に隠棲したという。

写真はその塚。この付近には彼の足跡を示すいくつかの遺跡がある。

能因塚周辺点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


塚正面
碑は高槻藩主の書

歌 碑
新古今集より

文 塚
吟稿を埋めた塚

不老水
能因が使った井戸

太閤(戦国時代) 

戦国時代、奥州藤原氏の流れをくむ芥川氏が既に紹介した芥川山城を築きこの地を支配していたが、戦国時代末期には、阿波の国からで出た武将 三好長慶(みよしながよし)がこの城を根城にほぼ近畿地方全域を支配する芥川政権を築いた。つまり短い期間(約7年)ではあるがこの地は事実上の日本の政治の中心地であったわけである(長慶の嫡子三好義興の墓が近くの霊松寺にある)。その後、信長が三好政権を倒し、和田惟政、高山飛騨守(右近の父)などを芥川城主にしこの地を治めさせたが、戦術の変化と共に山城は機能を失い、現在高槻城跡のある地に平城の高槻城が築かれた。熱心なクリスチャンであった高山右近が城主であった頃は2,3万の人口の大半がキリスト教徒となったという。その後、信長が明智光秀の謀反に倒れた後、秀吉が中国大返しでとって返し山崎の合戦で勝利し天下取りの道を歩み始めたのはご存知の通りのである。 

ここで紹介する太閤道はその時秀吉軍が山越えで天王山へ向かった道である。


既に何度も出てきた我が家の窓から東に見える安満山。 山裾は成合地区といいまだ里山の雰囲気が残っている。太閤道は右端付近にみえる電機部品の工場の裏手辺りに登り口があり、介護施設の後ろを通り、左手の谷道を上っていくと、途中で金龍寺(創建西暦790年)跡にいたる。さらに昇っていくと道が分かれ、まっすぐ進むと、山崎の方面に向かう。ここでは、右に曲がり、尾根沿いに南へ進むと、悠久の丘と名付けられた展望所に出る。ここからは、京都盆地の南半分、淀川流域、さらに大阪市内まで見渡せる見事なパノラマ風景が見られる。さらに、100mほど下るとトップに紹介した安満宮山古墳にいたる。

太閤道点描(ほぼ道筋に沿って) 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります

上宮天満宮(JR高槻駅から望む)
鳥居の辺りで山崎合戦に臨む秀吉軍が馬揃えを行ったと伝えられる
登り口付近
成合集落の入り口辺りにある介護施設の裏から太閤道が始まる。

しばらく、なだらかな渓流添いの道が続く。
座禅石
しばらくすると急な登りになり、道端にかって上に大きな寺
(金龍寺)があったことをうかがわせる石造物が散見される。これは座禅石。能因法師や西行も座ったかも? 
金龍寺跡
山の中腹に8世紀末に創建され中世には大いに栄えたた大きな寺があった。桜や紅葉の名所で
能因法師や、西行、芭蕉なども訪れたという。残念ながら昭和58年不審火により無住の本堂が焼失した
太閤道道標
この道は高槻市民にはよく知られたハイキングコースで道標が整備されている。道なりに行くと水無瀬の若山神社にたどり着く。ここでは右に曲がり尾根道を南に行く。
悠久の丘
尾根道が下りにはいると急に視界が開け京都盆地から大阪平野までを一望出来る雄大なパノラマ風景が広がる
(下動くパノラマ)さらに100mほど下ると安満宮山古墳に至る。

悠久の丘(動くパノラマ写真 現れないときはここをクリック

安満山の尾根の先端部は現在高槻市の墓地公園として整備されているが、その上にすばらしい眺望の展望所が設けられている。
左の動くパノラマ写真はそこからの眺めである。

左端は京都市の南部で伏見から向日市辺りが望まれる。淀川の流れが左右に横切っており中央部の対岸は石清水八幡宮のある八幡市の男山、手前の鉄塔の左遠方に大阪市の中心部が見える。2つの鉄塔の間が高槻市の中心部である。右端遠方にかすかに見える山は六甲山。 

古代よりこの地域は東西日本を結ぶ交通の要衝であり、また戦乱の時は多くの侍達が行き来した場所である。

高槻城址(江戸時代)

芥川城とは別に14世紀入江氏がこの地に平城を築いていたが、江戸時代初期の城主土岐定義が藤堂高虎の手を借りこの地に大規模な城郭を築いた。その後、永井家3万6千石の居城となり江戸末期まで続いた。明治になって取り壊され、現在はその一部が城址公園として保存されており、この写真はその入り口付近である。

歴代の城主は次々と代わり列記しないが、有名どころは、戦国末期の和田惟政、高山右近、江戸時代初期から明治維新まで13代高槻藩主となった永井家 などである。中でも高山右近はキリシタン大名として有名で、城址内に立像があり、また少し北にあるカトリック高槻教会内に祈りの像がある。

下の写真は、中心部の池。右端に右近の立像が建っている。


城址公園内点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります

高山右近像

池とクスノキ


復元建物

歴史民俗資料館

その内部
城址公園周辺点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります

カトリック高槻教会

祈る高山右近像
教会内

藤井竹外住居跡
竹外は幕末の文人

しろあと歴史館

城址歴史館
入り口ホール

江戸時代の城の
模型

歴史館展示物

八丁松原
城から西国街道への道
(一部復元)

西国街道
少し郊外に出ると古い家屋が残っている。
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