歴 史 散 歩 (3)    目次へ戻る

今 城 塚(いましろつか)古 墳 

概要、 公式案内、 地図、 航空写真墳丘パノラマ、 発掘現場、 継体天皇藍野陵、 はにわ公園継体天皇、
最近の研究から 

概 要

 高槻市から茨木市にかけての山際には大小さまざまな古墳が無数に点在しています。その内最大のものが高槻市にある今城塚古墳(地図中の(1))です。2重の周濠に囲まれた全長300m以上ある巨大前方後円墳で、歴史学者の間ではこれこそ本当の継体天皇陵だと言われてきました。実は、現在継体天皇陵として宮内庁から公式に治定されている古墳は、これより約1km西にある茨木市大田の藍野陵(大田茶臼山古墳 地図中の(2) 写真 )です。ところが、最近(2002年11月)新聞やテレビでも報道されましたが、この古墳の一部が修理のため宮内庁職員により発掘調査された結果、出土した土器の年式が継体天皇の没年を100年以上遡るものであり、これが継体天皇陵である可能性は事実上否定されました。一方、今城塚古墳のほうは、宮内庁により陵墓参考地としても指定されていないため、現在自由に出入り出来、高槻市が史跡公園として整備するため発掘調査を行っております。ちなみに、この古墳は、巨大な古代大王墓として一般人が自由に出入りできる全国唯一のものではないかと思います(残念ながら現在は高槻市が史跡公園にするための整備工事を行っており立ち入り禁止になっています)。 発掘の結果多くの埴輪などが発見されていますが、ごく最近(2002年11月27日)にも日本最大の巨大家型埴輪など当時の宮廷を表す壮大な埴輪列が発掘されたことが報道されました。私も早速デジカメをもってかけつけ写真を撮ってきたので紹介します。

 整備工事は終了し2011年4月より「いましろ大王の杜」として公開されています。こちらにどうぞ
 
ところで、2つの古墳の中央北方向に(地図中の(3))巨大な埴輪工房があり、これらの古墳に埴輪を供給していたものと考えられています。それだけでなく、大和地方の古墳にも供給されていたようです。現在、この工房跡は新池ハニワ工場公園として整備され、いくつかの施設が復元されています。


公式説明板の内容     Topへ

上の説明と一部重複しますが、高槻市教育委員会が作成した今城塚古墳の説明板の内容を再録しておきます。

今城塚古墳は、6世紀前半の古墳時代後期に築かれた巨大な前方後円墳です。全長350m、2重の濠をもち淀川北岸では最大級の古墳です。かっては、墳丘や堤に円筒埴輪や形象埴輪をめぐらし、2重の空濠で厳然と画された広大な墓域を誇っていました。今城塚の名は戦国時代に三好長慶が出城を築いたことに由来します。
 この古墳が真の継体天皇陵であるとしたのは歴史学者の故天坊幸彦氏でした。天坊氏は古代条里制を研究し、摂津の国嶋上・嶋下両郡の境界を示して嶋上郡にある今城塚古墳こそ、延喜諸陵式にいう継体天皇三嶋藍野陵であるとされました。この説は考古学の古墳の年代感からも裏付けられています。天皇陵といわれる古墳は、大和・河内地方に集中していますが、唯一継体天皇陵のみが攝津の地に営まれています。継体天皇(531年没)の出身地でもない摂津になぜ陵墓が築かれたか明らかではありませんが、淀川とのちの山陽道を間近に望む沃野に大王陵を誇示することにその意義があったと考えられます。
 周辺には史跡嶋上郡衙跡附寺跡、史跡阿武山古墳をはじめ、弁天山古墳群、郡家中塚古墳、前塚古墳、狐塚古墳群、岡本山古墳群などがあり、一帯が『三嶋』の政治・経済の中心地であったことをうかがわせています。

平成元年10月

高槻市教育委員会


地 図 昭文社発行 高槻市地図より   topへ

(1) 今城塚古墳
高槻市営バスで行く場合はJR摂津富田駅より74,81,82,84番バスにのり岡本で下車します。

(2) 継体天皇藍野陵
藍野病院の近くです。

(3) 新池ハニワ工場公園
大丸ピーコックの近くです。
 

航空写真 説明板に掲載されていた航空写真です。 上が東、下が西です。   Topへ

今回の発掘現場は赤線で囲った付近です。柵で囲まれており一般人の立ち入りは禁止となっています。

黄色い矢印は今回写真を撮った方向です。

埴輪列は内周濠と外周濠の間の盛り土部の上に、当時は舞台上の飾りのように並べてあったそうです。

パノラマ 1 は南側から墳丘前景

パノラマ 2 は西側道路より前方部

パノラマ 3 は墳丘から発掘現場の方向

墳丘パノラマ写真   Topへ

南側より墳丘前景左(西)が前方部、右(東)が後円部

戦国時代に芥川山城の出城として利用されていたため墳丘がかなり削られています。

しかし、最近では、織田信長が城郭を築くため切り崩したという説が有力です。

パノラマ写真 2

西側 前方部 中央に墳丘への登り道が見える。


パノラマ写真 3

発掘現場 墳丘上より北方に向け撮影
埴輪列が出土したのは右手奥の台状の付近


発掘現場    Topへ

埴輪列の出土状況

突き出し部から後円部にかけての基底部


継体天皇藍野稜 1999年8月撮影 Topへ

現在公式に継体天皇陵とされている茨木市大田の藍野陵

厳重に管理されており入り口付近しか見られない。

正面i入口は旧西国街道に面している。



新池はにわ工場公園  1999年3月撮影    Topへ

高槻市阿武野にある新池はにわ工場公園。 大規模な古墳時代の埴輪工房跡を整備、一部復元し公園にしたもの。 

下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります

全景 工房 登窯 登窯遺跡格納建屋
入り口

左内部

継体天皇とは    

6世紀初頭の大王(天皇)。 その出自は謎に包まれている。 応神天皇5代の孫といわれているが諸説あり。越前・近江の豪族で、淀川流域にも勢力をもつ息長氏の出であるという説が有力のようである。大和の豪族大連(おおむらじ)大伴金村に推され、大王位につくが王宮は樟葉の宮(枚方市)、筒城の宮(京田辺市)、弟国の宮(長岡京市)などを転々とし晩年まで中央(大和)に入れなかった。葛城氏など、今で言う強力な抵抗勢力が存在したためである。黒岩重吾氏の小説によれば葛城氏の支族であった、蘇我氏の協力を得て大和入りを果たしたという。確かに、継体天皇の直系で蘇我氏と深いつながりのある欽明朝や用明・推古朝において*蘇我氏が圧倒的な勢力を誇るようになる。

学問的な解説は、水谷千秋著『謎の大王 継体天皇』(文春新書)にくわしい。

* 継体天皇の第3子 欽明天皇の妃が蘇我稲目の娘 堅塩姫 その子が用明・推古天皇

最近の研究から 森浩一 門脇禎二 編 継体王朝 (大巧社)より

1. 大田茶臼山古墳の被葬者は? 
  継体天皇の陵墓であることが否定された大田茶臼山古墳の被葬者は誰であろうか? この古墳は、墳丘の大きさでは今城塚より少し大きく、周辺の古墳とくらべると群を抜いて大きい。つまり、相当な権力者の墓であると推定される。その一人として継体天皇(オオド王)の曽祖父で息長一族のオホホド王(允恭天皇の外戚に当たる)の墳墓ではないかとの説が有力である。

2. 埋葬施設は?
 最近の発掘で、墳丘の周辺部から異なった3種類の石棺の破片が発見されている。それぞれ異なった石材を用いているので、少なくとも3体の石棺が埋葬されていたようである。ただ、13世紀に書かれた西園寺公衡の日記『公衡公記』にこの古墳が大規模な盗掘に遭ったとあり、また戦国時代に城を築くため墳丘が大きく削られているので、中心部から埋葬施設そのものが発見されるかどうか疑問である。

3.  城を築いたのは誰?
 上に、芥川山城の出城が築かれたと書いたが、そのときの工事が以外に大規模なものであり、かなりの権力者でないと出来ないことがわかってきた。 当然その人物は神も仏も恐れぬ(その時代にはこの古墳は継体天皇陵と考えられていたようである)権力者、織田信長その人ではないかと考えられている。信長が、芥川山城にこもった三好一族と対峙するためこの地に城を築こうとしたようである。ただし、城が完成する前に三好軍は撤退したようで、結局基礎工事の段階で計画は放棄されたようである。

というわけで、奇しくも、ここで取り上げた3つの遺跡、安土城祉、芥川山城、今城塚は信長を媒介として結ばれたわけである。

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