歴 史 散 歩 (2)    目次へ戻る

芥 川 城 址 

概要、 地図、 ルートの概略、 途中の風景(道案内)、武将たちの墓

概 要

高槻市には2つの城跡があります。 
一つは市内の中心部にある高槻城址。今は城跡公園として整備されています。この城は戦国時代は和田惟政、高山右近が居城とし、江戸中期以降は高槻藩主永井氏の居城として幕末まで存続した城です。
もう一つは、芥川城といい、戦国時代の一時期、信長が上洛する少し前、畿内に覇をとなえた三好長慶が拠った山城です。摂津峡として知られる市西北部に位置する景勝地の裏山にあり、山頂(海抜180m)から山すそにかけて、石垣などが散在するかなり大規模な山城だったようですが、高山右近が一時在城した後、市内の高槻城に移った以後は廃城となり、荒れるにまかされ、現在では山頂の本丸跡へ辿り着くのも困難な状況です。この城の歴史の詳しい説明は既にいくつかのサイトで見られるので、
(例えば、
http://www3.justnet.ne.jp/~tohrutj/akutagawayama_siro.htm
http://www.osaka-c.ed.jp/akutagawa/akutajyo.html )

ここでは、迷わず本丸跡へ辿り着くルートの説明を中心にします。
下に2枚の地図を示します。地図1は市販の高槻市地図の関連部分に以下に紹介するチェックポイントの番号をつけたものです。地図2は、摂津峡公園にある説明板の写真から作ったものです。往時の城の構成が示されています。
自分も行ってみようと思われる方はプリントアウトして下さい。ただし、道は昼なお暗い木立や竹薮の中を行きますので方向を見失うこと必定です。必ず、コンパスを持参してください。

なお、最近この歴史上重要な地位を占める城跡を整備しようとする動きがあるようですが、現時点では道標一つ立っていません。


地図 1,2        top へ



ルートの概略      topへ

山頂(本丸跡)までのルートはいく通りもある。
ここでは、最もわかりやすいルートを紹介する。

スタート地点は高槻市バス(JR高槻駅北口発11番)塚脇バス停(1)とする。
バス停から山側を見渡すと大きなマンション(2)が目に入る。 ここを目指して、塚脇の集落の迷路のような小径を抜けてゆく。マンションの前を通る車道に達したら北西方向に坂を上っていくと「黄金の里」(3)という名の介護施設の前にでる。その先で道は突き当たり右(北)に進む。少し行くと道は左(西)に折れ、右(北)方向に視界が広がる。左(北西)前方に見える山が目指す三好山(城山)である。

この付近(4)から山頂(本丸跡)に至る道は3通りある。本来の登頂口は地図2に点線で示してある大手道であるが、ここは倒木に覆われ難路である。大手道の左右に迂回ルートが2つある。ここでは、右(東)側のルートをとる。このルートは距離的には一番長いが、比較的わかりやすく、平坦である。さらに、このルートをとると途中、城の東郭付近(6)を通りいくつかの遺構を見ることが出来る。それに対し、左(西)側の迂回路は急峻で、途中特に見るべきものが無い。

帰りはもとの道を引き返しても良いがここでは麓付近で倒木が多く歩きつらいが大手道を下りることにする。
このとき、途中石垣の遺構(13)が見られる。

さらに、バス停までは別の道を取り、摂津峡公園「かじか荘」(12)付近に出てくる道をとる。

以下、写真を示し名がらルートを辿って行く。


途中の風景(道案内)    topへ

(1)
塚脇バス停
高槻市営バス JR北口発 11番系統

車で行く場合はこのバス道(摂津峡大通)は駐車不可。
車の通れる道は、この新しい車道とほぼ並行に旧車道がある。
比較的広いところもあり、駐車スペースを見つけることは可能。
(2)
塚脇バス停を降り、山手を見ると大きなマンションが目に入る。
このマンションを目指して集落を抜けてゆく。ただし、北方へはストレートな道はなく、迷路のようになっている。
距離はわずかなので方向感覚さえ間違わなければ、すぐマンションの前を通る車道に出る。
(3)
マンションの前の車道を北西に登ってゆくと、「黄金の里」という介護施設の前に出る。その先で道は突き当たりT字路になっている。T字路を右(北)に曲がり左に竹藪を見ながら歩いてゆくと、すぐ道は左(西)に折れる。
少し行くと、視界が開き、右手(北西)に目指す三好山(城山)が見える。
前方には数軒の集落がある。
(4)
集落に入った所で、道の右手(山側)に左に示す祠がある。
この祠の左側(西)に舗装した小道がある。これが、東側迂廻路の入り口である。
この道を登っていくと、右手(東)に段々畑があり、途中で舗装がなくなり、山に突き当たったところで右(東)に折れる。
この付近は狭い平地になっており、何か柵が設けてある。
(5)
さらに東に行くと、竹薮に入り、すぐに道は左(北東)に折れる。
曲がり角付近、前方に小さな祠が見える。(左写真)
祠の方へ行く道もあるが、これは祠の前までですぐ行き止まりになる。
道はこの辺りから、昼なお暗い竹薮や木立の中を行くので視界は利かず方向を見失いがちなのでコンパスを見ながら北の方向へ登ってゆく。
また、人もめったに通らないようで、しばしば蜘蛛の巣が道をふさいでおり、蜘蛛の巣よけに小枝を拾っていくと良い。

(5)−(6)
左(北東)へ曲がると、竹薮の中の登り坂にさしかかる。しばらく右側に竹柵が続く。(左写真)
さらに登っていくと、小さな池につきあたる。
ここで左に曲がり竹薮を抜けると、小さな平地になり、ここを起点に四方に道が分かれており、コンパスがないと間違った道をとる可能性があるので注意が必要である。
なお、竹薮から平地に出る付近は倒木(竹)などに覆われ、帰りに今来た道の入り口を見誤りやすいので、この付近の地形をよく覚えておくこと。
登頂を急ぐなら、左(西)に向かう道を行けばよいが、ここで少しあたりを見ていこう。
(6)
この池のある平地は城の東郭付近と思われ、石垣などの遺構がみられる。その中で目立つのは、左写真にある井戸跡(近世のものと思われる)でいい目印になる。この写真は、井戸の南側から撮ったもので、左手に池、右手に石垣、前方は北である。
目指す山頂へ通じる道は、広場の北端付近から左(西)へ通じる道であるが、この写真の奥(北)にある竹薮に入るとすぐ右手(西側)に比較的長い石垣が残っている。(下写真)
竹薮から北方へ道が通じているがこの道は何処へ通じるのか不明である。
(6) 付近
東郭付近、竹薮の中の石垣。 かなり整ったものなので後世の物かもしれない。
この石垣はほぼ南(左)北(右)に伸びており、この奥の高台には墓石が数基残っている。
このように、この付近にはいろいろな遺構らしき物があるが、廃城後別の目的で比較的最近まで人が住んでいたのかもしれない。

山頂へ通じる道は、この石垣の左(南)側にあり西に向けて続いている。
(6)-(7)
上の石垣の左手(南側)の平坦な道を西に向かって少し行くと、右側(北)山側に枝道があり、その上の台地に、左写真のような墓石が立っている。
道の山手側にはこのような墓石がこれ以外にもいくつかある。

この辺り、本道も紆余曲折してFに向かうが、枝道もあるので注意が必要である。
(7)
しばらく行くと道は大きく左へ折れるが、曲がり角付近の左手に小高い平地があり、地図2にある出丸跡と思われる。さらに少し行くと左写真の「城山城址」と記した石柱が立っている。ここまで来ればもう一息である。
この石柱を正面に見て奥の方(登り方向)へ通じる道が本丸へ通じる道である。

なお、この石柱の正面付近に南方への下り道がある。これが大手道である。 帰りはこの道を降りていくことにする。
(8)
さらに進んでいくと左手(西)に頂上の高台が見えてくる。これを上がった所が本丸跡の広場である。なお、この写真の左手にも主郭跡と思われる平地があり、ここからも本丸跡へ上がる道がある。
(8)
山頂(海抜180m)の本丸跡はかなり広い平地になっており、ここにも城山城址と書いた石柱が立っている。
(8)
石柱の他には、この写真の小さな祠があり、この2つ以外にはここに芥川城の本丸があったことを示すようなものは見当たらない。

一応ここで頂上までの道案内は終了する。

帰りは、もとの道を戻ってもよい、がここでは大手道を下っていく道を選ぶことにする。
この場合、最初の石柱(7)まで戻り、石柱の正面(南)方向にある下り道を下りて行く。
(9)
大手道の途中にある石垣。最初の石柱Fの正面(南)へ降りる道を少し下ったところにある。この石垣はかなり壊れているが、戦国時代のもののようである。

その道をさらに下っていくと大手道の入り口(10)にいたる。ふもと付近は倒木が激しいが少しの間(数十メートル)なので通れないことはない。 
(10)
大手道の麓近くなると写真のように、2人くらいがやっと並んで通れるくらいの細い溝状の道で、しかも倒木に覆われており通りにくい。左側の竹薮の中も歩けるので何とかなる。


(10)
さらに下ると、おそらく大手道に取り掛かる入り口のような所ではないかと思われる遺構が見られる。

そのあとは、普通の小道になり、すぐ舗装した小道に出会う。ここを左(東)に折れると民家の間を通り、最初の登り口(4)に通じる舗装道路に出る。
帰りは、別ルートをとり下の口バス停まで下りて行く。

先ほどの舗装道路を少し行くと(4)の手前で、右手前方向(西南)へ下る枝分れした道がある。この道を下って行くとレジャー農園にたどり着き、摂津峡の下流付近に出る。
J
少し川の左岸に沿って下ると、写真の小さな板張りの橋にたどり着き、対岸にわたる。川の右岸は、釜風呂温泉「かじか荘」の敷地内(公道)になっている。少し行くと右手に清流の流れる溝に沿って細い舗装道路が続く。
(11)
さらに行くと「かじか荘」の入り口の左側に出る。
あとは、近くの下の口バス停から帰ればいいが、ちょっと足を伸ばして摂津峡の対岸から先ほど登った城山を見てみよう。
(12)の前の道を左手に行くとすぐ摂津峡公園の入り口がある。右手の車道を100mほど登ってゆくと道路の右手川側に左写真の説明板があり、芥川城の簡単な解説が書いてある。地図2はこの案内板から作ったものである。後方に見える山が先ほど登った城山である。

武将たちの墓                 topへ

我が家の近く、高槻市天神町には、芥川城にゆかりの二人の武将の墓があります。1つは三好長慶の嫡子 義興、もう一つは和田惟政の墓です。

三好義興の墓

高槻市立天神山図書館の南側に広がる霊松寺の墓地の西北隅に生垣に囲まれて、通称「かんかん石」と呼ばれる、三好長慶の実子、筑前守 三好義興の墓がある。
和田惟政の墓

三好長慶の去った芥川城に一時入った伊賀太守 和田惟政の墓

平安時代の歌人で三十六歌仙の一人伊勢姫が晩年を過ごした伊勢寺の左手の墓地、伊勢を祀る霊廟の左裏手上方にある。

和田惟政:近江の国人。還俗した足利義照を匿った。後、信長により高槻城主に任ぜられた。

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