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2004年 10月の雑記 |
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2004. 10/12(火) 今さらアテネ(3) ![]() まず驚いたのは、僕がずっと応援していた女子短距離のマリーン・オッティ選手が出場していたこと。44歳ですよ。前回のシドニーに40歳で出場した時にも驚いたが、まさか今大会まで現役を続けるとは思わなかった。オリンピックで7大会連続出場なんて、聞いたことがない。 ジャマイカ人の彼女は、自国の陸連ともめたらしく、スロベニアに国籍を移した、それは昨年のこと。その年の世界選手権からスロベニア代表として国際舞台に登場することになる。今年ももちろんスロベニアの国旗を背負っての出場だった。 むろん優勝争いに絡めるとは最初から思っていないから、比較的冷静に見られた。それでも今季、100mで11秒09という記録を出しているらしいから決勝には残れるかも、と見ていたが、惜しくも準決勝で5位になり敗れた。あと100分の3秒速ければ4位で決勝に行けたのに、とも思うが、ここまで勇姿を見せてくれたことに素直に拍手を送りたい。 続く200m、こちらのほうがいけるかもと思っていたが、準決勝で足を痛め、途中棄権となった。たぶんこれがホントにホントの最後のレース。お疲れさまでした。 オッティと共に応援しているゲイル・ディバース選手も、100mと100mハードルに出場した。彼女も37歳(僕と同い年!)、5回目のオリンピックだ。100mではオッティと同じく準決勝で敗退し、100mハードルでは途中棄権となってしまった。彼女の場合、アトランタオリンピックの同種目決勝で、ダントツでリードしていながら最後のハードルでひっかかり、優勝を逃した苦い記憶がある。残念ながら今回その雪辱どころか二の舞になってしまった。 砲丸投げの室伏選手は、曲折のすえ遂に金メダルを獲得した。これは素直に喜びたい。アヌシュ選手はつまりドーピングをやっていなかったらあの記録は出なかったということで、誰にも遠慮することなく、室伏選手が優勝なのである。これまでずっと、体力面・技術面・精神面のすべてにおいて努力を続けた如実なる結果だ。本当に強くなったなあとあらためて思った。 女子マラソン、野口選手の金メダルもすごかった。日本人3選手の中ではトップだろうなという予感はあったが、まさかラドクリフとヌデレバをさしおいて優勝するとは、読めなかった。あのストライド走法は、坂道では圧倒的に不利だからだ。大方の関係者の見方もそうだった。それでも彼女はそれを克服した。想像できないくらいの練習量をこなしたのだと思う。感服。それにしてもハードなコースだった。 男子100m、期待の末続選手は準決勝にさえ進めなかった。こうなると200mに出てくれるかと思ったが、さすがにそんな簡単なものではないだろう。まだまだ若いのだから、めげずに今後も活躍を続けてほしい。 準決勝までの走りではアメリカのクロフォードが乗っていて彼が優勝だと思っていた。なのに決勝では堅くなったのか、同僚の正反対に物静かそうなガトリンが優勝してしまった。それでも200mではクロフォードが雪辱を果たした。なんとなく彼のことは好きだ。走り方もきれいだし。 それからモロッコのエルゲルージ選手。1500mでの悲願の金メダルは僕も泣かされた。前オリンピックでは、終始リードを保ちながら最後で逆転負けを喫した。さらにその前のアトランタでは、途中で転倒した。世界選手権では何度も優勝しているのに、オリンピックで勝てない。そういう選手は、とかく応援したくなるものだ。 最後の最後まで決着は読めなかった。ケニアのラガト選手がゴール直前で前に出たとき、やはりだめかと思った。そこへ最後の踏んばり。エルゲルージは0.12秒差で先にゴールインした。 さらに彼はつづく5000mでも優勝してしまい、中長距離二冠という偉業を成し遂げた。彼が今大会、陸上競技における最大のスターだったということに異論をはさむ人はいないだろう。 いっぽう男子1万mでは、常勝の哲人、エチオピアのゲブレシラシエの衰えを見た。ずっと長距離においてトップを保ってきた彼が、若い同僚二人についていくことができず、レースの途中で彼らの肩を叩いた。「もう私のことはいいから、先に行きなさい」という言葉が聞こえるようだった。ずっと大先輩の様子を気にしていた二人はそれをきっかけにスパートをかけ、ワンツーフィニッシュでエチオピアに2つのメダルをもたらした。ゲブレシラシエは5位に終わったが、レース後には3人で肩を抱き合って喜んでいた。こんな姿にも涙してしまう。 男子800mに出場したデンマークのキプテケル選手は、生で観たことがある。博多でグランプリファイナルのレースが行われたのを、ずっと前に見に行った。800mという距離を、短距離のように、浮かぶように走る彼の姿に、観客からどよめきが起こった。彼はその年のグランプリシリーズで全種目におけるトップとなった。一時代を築いた選手だった。なのに今大会では、3位に終わった。女子800mでも、同じく常勝だったモザンビークのマリア・ムトラ選手が敗れている。ずっと活躍してきた選手の衰えを見るのはしのびない。たとえそれが、常に繰り返されていくサイクルだとわかっていても。 女子棒高跳びでは、今大会の陸上競技で唯一、世界記録が更新された。ロシアのイシンバエワ選手だ。この試合、ずっと劣勢だった彼女が中盤になって逆転し、その勢いで世界記録にまで届くというすごいドラマじたてになっていた。高跳び系種目ならではの駆け引きが存分に楽しめる戦いだった。 最後に、リレー。日本は、100m×4、400m×4の両方で4位という過去最高となる好成績を残した。100×4では、アンカー朝原選手のごぼう抜きが圧巻だったし、400×4でも、ベテラン小坂田選手と若手とのいい具合のチームワークは微笑ましかった。どちらも価値ある4位だったと思う。 2004. 10/13(水) 今さらアテネ(4) ![]() 昨日書き残したのは男子マラソン。勝負そのものにはあまり興味がなかったのだが、例の乱入男の話。 くだらない。じつにくだらない。他愛もない遊び心が、一人の人間の栄光を奪い去ってしまった。被害にあったブラジルのデリマ選手にとって、たとえIOCが金メダルを与えたところで納得はできないだろう。自分の足で、自分自身の力で獲得することではじめて満足を得られるのだ。もし乱入がなくてあのまま走り続けていたとしても、結果がどうなったかは誰にもわからない。この世にタラレバは存在しないのだ。 僕が感心したのは、レース後のデリマ選手のインタビューだ。記事を読んだだけだからニュアンスはわかりづらいけれど、彼は“なくした”金メダルを悔やむより、獲得した銅メダルに喜び、誇りを抱いていた。 さらに、「このようなことが二度と起こらないために、どうすべきだと考えますか」という記者の質問に対し、「それはわからない」と、答えた。これはすごく偉いと思う。日本の愚劣なマスコミなら、「二度とこんなことが起こらないよう、今後は警備の強化などを検討していく必要があります」などというくだらない言葉を吐いただろう。でもデリマ選手は、そんな嘘を言わなかった。だって、あの何十キロにも及ぶ長大なコースを観客が埋めていている状況で、どの場所においても誰も侵入できないようにするなんてことは無理だ。本気でやるなら観客を完全にシャットアウトするしかない。でもデリマ選手は、それはやりたくない、僕らには観客のサポートが必要だ、と答えた。そりゃあそうだ、と思う。誰も観るものがいない道路を淡々と走っていくなんてできない。応援の後押しがあってはじめて42.195キロという遠路を走りきれるのだ。 ついでだから、前々から思っていることを書きたいと思う。今の日本において、何か事件や問題が発生した場合、必ずその原因とこれからの対処が求められる。僕が前に勤めていた会社でもそうだった。問題発生のたびに報告書が行き交い、対策委員会が開かれることもあった。そして必ず最後に、今後こうしたことが起こらないようどうするかという具体案が示され、実行されていく。もしそれが10年に一度起こるか起こらないかということであっても、その対策を実行していかなければならない。 これはしかし、どの会社においても同じことだろう。原因を徹底的に解明し、二度と起こらない対処を練る。一つの部署は別の様々な部署とからみあい、また一つの会社はいろんな別の会社とからみあって、この同じ考えのもとに世の中が動いている。その中のどこか一つだけが、やーめた、とすることは不可能なのだ。 ただし、これは疲れる。コストパフォーマンス的にみても馬鹿みたいなことをやっていることもある。前述のマラソンの場合、事件が二度と起こらないようにするのは不可能ではない。たとえばコースの全経路に高い金網を敷設すれば、ほぼ完璧に防御はできる。しかしそのためにかかるコストは膨大だ。たぶん今回の事件のことで改善点は練られるだろうが、たいした対策が講じられることはないだろう。マラソンにおいては、今後も同じような事件が起きるかもしれないという可能性を抱えたまま開催されることだろう。僕はそれでいいと思う。現実問題としてそれしかないとも思う。しかし、日本社会においてはどうだろう。わずかな可能性のために多大な事前準備を強いられているようなことがないだろうか。マラソンコースに金網を張るような行き過ぎた対処がされていないだろうか。僕はあるような気がする。それが僕らの生活をひどく息苦しいものにしている気がする。 ●その他 ちょっと話が逸れてしまった。ひきつづき、その他の競技について。とにかくメダルラッシュだった今大会では、日頃めだたない競技にスポットが当てられることにもなった。たとえばアーチェリー。初めてちゃんとした試合の模様を見た。ものすごい集中力を必要とするスポーツだと思う。銀メダルを獲った山本選手は、中年サラリーマンにとって希望の星だろう。41歳にして完璧なオヤジキャラなのには少し笑ってしまったけれど。 彼も5回目のオリンピックだ。初出場が1984年のロサンゼルスで、その時に銅メダルを獲得したものの以後は結果を残せず、前回シドニーは国内予選で負けて出場できなかった。この時に引退を考えたという。当然だろう。普通ならこの結果を「衰え」ととらえ、そこが限界だと考える。しかし、山本選手は競技生活を続け、20年ぶりのメダルを獲得した。インタビューでは、「20年かけて銅が銀になった。次はもう20年かけて、金メダルをめざします」とオヤジギャグ。聞きながら僕は泣き笑い。 レスリング女子は評判通りの強さで、出場全選手がメダルを獲った。とくに55kg級吉田沙保里選手の強さは圧倒的だった。いっぽう伊調姉妹は妹が金、姉が銀という微妙な結果で、家族も接し方が難しかっただろう。姉の伊調千春選手が試合後、銀メダルでも全然嬉しくありません、と呆然とした顔で語ったのが印象的だった。 そして毎度お騒がせ(悪い意味ではなく)の、浜口京子選手。準決勝で敗れ、金メダルがなくなった時、お父さんは観客席から身を乗り出して“暴れた”。浜口選手自身も表情をなくし、この様子だと3位決定戦もだめだろうなとその時僕は思った。なにせ、ずっと「優勝します」と言い続け、親子して金メダルにしか意味がないという態度をとり続けた二人だ。それがこの敗退である。3位決定戦はもしかして辞退するんじゃないかとも思った。 しかしその後に行われた試合、浜口選手は笑顔で臨んだ。そして見事に銅メダルを獲得し、意外にも心から喜んでいた。僕はそれを見ながら、彼ら親子のことがとても好きになった。 2004. 10/22(金) 今さらアテネ(5) ![]() 男子団体については8/17の雑記に書いたので、それ以降の話をしよう。 大会直前の7月、日本体操協会の公式サイトに、「ルールの変遷からみる今どきの体操競技」と題する遠藤幸一氏のコラムが連載された。僕はこれをオリンピック閉幕後に知り、読んだ。そこには、「今の体操競技において、必殺技は必要ない」とする興味深い内容が記されていた。いくつかの重要な指摘がなされていたが、その筆頭が次のようなものだった。 1992年のバルセロナオリンピックの後、競技のルール改正が行われた。それまでは、独創性のある技・熟達度の高い技に多くの加点が与えられるシステムだったが、これだと審判によって評価にばらつきが生じる。そのため、複数の技を連続して実施することに重きを置き、加点を多く与えることになった。 これで体操が変わった。今までのように難しい技、誰もやらない新技に挑戦しなくとも、中くらいの難度の技を連続して行えば高得点が出る。こうなればもちろん、誰も危険を冒すわけはない。多くの選手が新技の開発をとりやめ、“無難な”演技を行うようになった。結果、演技は確実に“地味な”ものになったと言える。 今回のオリンピックの体操競技で、これに関するちょっとしたハプニングが起こった。ロシアのネモフ選手の、鉄棒の演技である。上記の理由により、鉄棒においても危険な離れ技を減らし、見た目は地味だが確実に点数の稼げる技(持ち手のひねりなど)を多用する選手が目立った。しかしネモフ選手は離れ技を連発する派手な演技を行い、観衆から拍手喝采を浴びた。しかし、点数は伸びない。彼よりも見た目は地味だった選手のほうが得点が高いということが、観客には理解できなかった。激しいブーイングが起こり、いっこうに収まらない。ついにはネモフ選手まで出てきて、「まあまあ」と観客をなだめるそぶり。観客はいったんはこれに応えて静まりを見せるが、次の選手が演技を行おうとするとまたブーイング。競技が続けられなかった。 しばらくすると、信じられないことが起きた。なんと、二人の審判が採点を訂正し、ほんの少しだが点数が上がったのだ。これでようやく観客は静まった。 たしかに現状の点数の付け方は、見る側にとって面白みに欠けるのは事実だし、体操界全体にとってもいいことだとは思えない。どんなスポーツにだって、夢は何よりの原動力だ。新しい技への憧れをなくせば、体操はただの作業と化してしまう。 ただし、本オリンピックが今のルールにのっとって運営されているかぎり、ネモフ選手の点数は妥当なものだったと思う。じっさい、離れ技といっても他の選手も普通に使っている技ばかりだし、素人の僕から見ても“古くさい”演技ではあった。点数訂正の裏にどういう経緯があったのか知らないが、実況の刈屋アナウンサーの言葉の通り、あれはあってはならないことだった。 それに僕は、ああいう時の観客のマナーの悪さが大嫌いだ。2003年9月7日の雑記にも、陸上競技について同じようなことを書いた。 見ていておかしいと思うことがあった時に、ブーイングをする。それぐらいならいいだろう。しかし、あそこまでしつこくやれば、選手に多大な影響を及ぼす。僕らは何の苦労もなく、彼らが血眼で練習した結果を見させてもらっている。いつも僕はそう思っている。それなのに、彼らの苦労を踏みにじる行為をしているのが、あの観客にはわからないのだろうか。あの場にいた人が皆、判定を不服として抗議していたとは僕は思わない。ようするに、ノリだ。なんかみんなが騒いでいるから、調子に乗って一緒に盛り上がってしまえというつまらない野次馬根性だ。あの客の中で、競技終了後に正式に抗議行動を起こそうとする人などいない。愚劣だ。あまりにも愚劣に過ぎる。僕は見るに耐えなかった。 そのぶん、ネモフ選手は偉大だった。彼自身には何の落ち度もないのに、静まらない観衆に向かって手をあげ、もういいんだよ、という仕草を見せた。「これがみんなの憧れたネモフです」という刈屋アナウンサーの言葉に、僕は涙した。そう、彼は前回オリンピックでの、個人総合チャンピオンだったのだ。 2004. 10/23(土) 今さらアテネ(6) ![]() 昨日紹介したコラムの続編で、遠藤幸一氏はさらにもうひとつ重要なルール変更を指摘している。1997年に実施された、審判分業制だ。 ずっと以前、技の難度はA〜Cの3段階だった。しかしモントリオールでコマネチ選手が10点満点を連発し、体操競技にはさらなる厳密な判定が必要とされるようになる。Cの上にD難度を作り、さらにE難度ができ、現時点ではスーパーE難度も設定されて6段階の難度設定がされている。各審判員は演技を見ながら、「どの難度の技が」「どの程度うまく」できたかを、瞬時に判断して採点をおこなわなければならない。これはかなりの負担である。このため、上に太字で示した2つの項目を、別々の審判が判定する方式に変わったのである。 つまり、技の難度を見る審判、技の出来映えを見る審判、という二種類に分け、それぞれは自分の持ち分だけを判定すればいいことになった。(以下、「難度審判」「出来映え審判」と略する。) これは審判員には大好評だったが、問題もあった。例えば、床運動のひねり技において、3回ひねりがC難度、2回ひねりがB難度に設定されていたとする。ある選手が演技を行い、ちゃんと3回ひねり切ったかどうか微妙だった。これまでのように一人で全て判定している場合、3回ひねったと判定すれば「あまりうまくできなかったC難度」、いわば「Cの下」とするか、3回ひねり切らなかったが2回はきっちりとひねっていたから、「うまくできたB難度」、いわば「Bの上」となる。 これが分業制だと、難度審判がC難度と判断したのに、出来映え審判はそれがB難度として「うまくできた」と判断する可能性がある。この場合の評価は「C」の「上」となる。同様に、難度審判がB難度と判断し、出来映え審判がC難度として「うまくできなかった」と判断すれば、結果として「B」の「下」という評価が下されてしまう。これは、実状に合わない。 僕が思うに、分業制は確かに審判員にとって楽だろうが、やはりいいシステムとは言えない。どうすればいいのかは難しいが、一つ考えられるのは、ビデオの導入だ。生で観ながら全てを間違いなく判断するというプレッシャーから逃れるため、審判が自分の判断に自信がない場合はビデオで確認する、というものだ。それなりの機材が必要だが、不可能ではない。ビデオについては、最近いろんなスポーツで取り入れられつつあるものの、いまだにどこかタブー視されている雰囲気がある。導入すればうまくいくのに、といつも思うのだが。 あるいは、分業制なら分業制で、一つの演技が終わるたびに二者のすり合わせを行い、最終的な判断を行うようにすればいい。そうすれば、上述したような極端な評価の違いはなくなるだろう。むしろ、分業制を採用した場合にはそうするのが普通の考え方だ。 もうひとつ、常々思っていることを書きたい。 それは、なぜ複数の審判が必要なのか、ということだ。たとえば文芸作品や絵画などを評価する場合、通常は複数の人間で評価をおこなう。それは、答えが一つではないからだ。美しさや、それを鑑賞した際の感動には個人差がある。いろんな人の嗜好を加味し、それらの総合として評価が下される。 これに対し、体操やフィギュアスケートでの評価の意味あいはだいぶ違う。どういう場合にどういう点数を与えるかが緻密に正確に規定されており、それに基づいて各選手の演技が採点される。だから基本としては客観的な、唯一の評価を得るのが目的だ。しかし実際には、一つ一つの技の完成度を画一的に判定するのは難しい。だから複数の審判の評価を集め、その平均をとることでより客観評価に近いものを求めている。つまり、評価機械のかわりだ。陸上競技のタイム計測のように、もし機械的に採点するのが可能ならばそうするだろう。今の技術ではそれが不可能だから、しかたなく人間を使うだけのことだ。 こんなことを書いたのは、体操やフィギュアスケートなどの採点競技、つまり技の優劣が人間の評価に委ねられている競技が、スポーツとしてどこか低い位置に追いやられている気がするからだ。「しょせんは人が採点するもんだろう。そんなもの、スポーツとは言えない」という意味合いの言葉をときおり耳にするからだ。 そんなことはない、と僕は強く言いたい。評価基準は明確にある。ただ「評価をしづらい」というだけだ。もちろん、技の完成度や美しさにおいて、主観的な判断は入る。それでも上述のように、けっして順位が審判員の好みだけで決められているわけではない。 その点において僕は、審判員がちゃんとした教育を受けているのか、はなはだ疑問だ。技の種類も難度も多岐にわたる現状で、規定された通りの判断を瞬時におこなうことは、大変な熟達を必要とするだろう。そして、ただしくそれが行われているならば、各審判員の間でそれほど大きな点数格差は生まれないはずだ。しかし現に、驚くほどの点差を見ることはしょっちゅうである。遠藤氏のコラムの続きを読むと、明らかに不当な採点を続ける審判に対しては注意・警告が発せられるそうだが、僕が言いたいのはそれ以前の問題だ。正しい審判員の育成。このことが、「しょせんあいまいな人間の判断だから」という意識の陰にかくれ、おざなりにされている気がしてならない。 2004. 10/26(火) 今さらアテネ(7) ![]() ●体操 体操男子団体が金メダルを獲ったあと、実況と解説のすばらしさを称えるサイトが後を絶たなかった。多くの人があの放送を素晴らしいと感じていたことに、僕は感銘を受けた。 各サイトで引用・紹介されている実況コメントにそれぞれ微妙に違いがあったのが面白かった。たとえば例の「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」という名セリフも、「伸身の新月面宙返りが〜」とか「〜未来への架け橋だ」とかになってたり。かくいう僕もその一人で、解説の小西さんのことを、「小島」さんと書いてしまっていた。恥ずかしい。 それからもうひとつ。跳馬で使われる台の形が変わったことに最初気づかなかった。従来は単に細長い直方体の形状で、男子と女子とで置く向きを90度変えて使用していた。それが今回、手をつく面が湾曲した不思議な形状になっていた。(こちらの図解・説明を参照)。選手が手につける白い粉が入れてある台と似ていて、ずっとそれだと思っていた。男子と女子とでは置く向きは同じで、高さを変えて使用するらしい。 ●ビーチバレー ビーチバレーの愛好家の方には悪いけれど、僕にはこの競技がオリンピック正式種目に採用されていることにすこしばかり疑問を感じる。だって、正式種目化をめざしている競技は他にも山ほどあるのだ。ゴルフ、アメフト、ラグビー、クリケット、ボウリング、ビリヤード、空手、ローラースケート、等々。僕が思いつかないだけで、まだまだあるだろう。正式種目となるには競技人口や競技国数などの制限があるようで、採用されない理由はそれぞれにあるのかもしれない。上に挙げた中でも、以前正式種目だったものが今は外れているものもある。それでも、各競技に携わる人たちにとって、オリンピックでの種目化は大きな願いだ。いたるところで、「〜を正式種目に!」というスローガンを目にする。 そこへきて、ビーチバレーである。僕がもっとも解せないのは、オリンピックにバレーボールという競技があって、さらにビーチバレーも加わったという点だ。もともとは海岸でバレーボールをやっていただけのことだろう。泳ぎにでも来ていた仲間たちが、本当なら6人対6人でやりたいけれどそんなに集まるわけはないから、2対2とか3対3で適当に遊んでいた。もちろんそこから正式な競技にするためにいろんな規定は作られているのだろうが、基本はあくまでもバレーボールだ。これをオリンピック競技として認めるなら、「草野球」とか「三角ベース野球」とか「温泉卓球」とか、もうなんでもありじゃないか。現に、ビーチサッカーやバスケの2オン2なんかはかなり盛んに行われている。ビーチハンドボールもあるようだし、軟式野球やソフトテニスなども同じこと。 オリンピックの種目の数に明確な制限はないのだろうが、ビーチバレーが採用されたせいでそれ以外の競技の入り込む余地は確実に狭くなっただろう。他に採用する種目がないのなら話はわかる。しかし、競技の多様性から考えて、ビーチバレーよりも先に正式種目化すべき競技は他にいくらでもあると思うのだ。 ●テコンドー 僕ははほとんど興味はないけれど、競技の多様性からみれば、テコンドーが正式種目であることに異存はない。今回紆余曲折のすえに出場した岡本依子選手。残念ながらあっさり負けてしまったけれど、大会後の彼女のコメントが紹介されていて、非常に率直な感想だったので好感を持った。最後にこれを紹介して締めくくろう。 ◇岡本依子「終わったなあ」 |