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2004年 8月の雑記 |
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2004. 8/10(火) 次へ ![]() とはいえ、すぐに閉鎖するつもりはなく、なんとか細々と続ける道を探りたいと思った。とりあえず、読書感想についてはお休みし、読了本の紹介だけにとどめたい。雑記はまあ書ける時に書ければというペースにし、と考えているとこれまでとそう変わらないかもしれないけれど。 個人サイトのたどる道はいつも似通っている。開設当初は熱気にあふれていて、あれもこれもと企画して更新頻度も高い。だいたい3年ぐらいが目処ではなかろうか。必ずその気合いがだれる頃合いが訪れる。男女の関係の倦怠期とほぼ同等のものだと思う。そこでうまくリニューアルできないと、次への存続のステップが踏めない。僕の場合、2年前のリニューアルが知らないうちにその効果を生んでおり、ここまでやってくることができた。しかしそろそろ息切れの時期だ。次なる発奮材料はまだ見つからない。 2004. 8/11(水) 人民の ![]() リンカーンが発したこの言葉は、日本人なら必ず習わされる。なぜか最近になってこの言葉が気になりはじめた。 ―「人民の」と「人民による」って、結局おんなじじゃないの? もちろん学校でそんなことを教えてくれるはずもなく、この三連句がセットで暗唱させられる。 最後の「人民のための」だけは、わかりやすい。人民の利益になるような政治、という意味合いで、明らかに他と独立している。なのに「人民の」と「人民による」は、ふつうに考えればどちらも「人民自身が実施する」という意味になり、だったら、「人民による、人民のための政治」とだけ翻訳されればいい話だし、現にそう表記しているサイトもある。 原文はどうだったっけ、と調べてみる。 "government of the people, by the people, for the people" まさに直訳であるから、こうしてみてもやはり同じ謎が残る。 さらにすすめて調べてみたところ、二つの解釈が出てきた。ひとつは、前置詞の「of」は「from」に近い意味を有している、とするもの。つまり「of the people」とは、政治を行う権限がもともと人民の側にあることを主張しているのだという。 政治は、一部の権力者によって牛耳られることがある。だからこそ、「元来人民に由来する」ことを強調し、さらに「(実際に)人民の手によって行われる、人民のための政治」と続けたのだという。 この主張は、下記のサイトに載っている。 ●リンカーンのゲティスバーグ演説 僕と同じ疑問を持ち、言語論をひもときながら独自にこれを解明している。ただ、すこし説明が苦しい気がする。僕としては、もうひとつみつけた解釈のほうに軍配を上げたい。 「丸谷才一の日本語相談」という著書のなかで、丸谷氏がしめしている解釈だ。こちらは、前置詞「of」が目的格をあらわす、つまり「of the people」=「人民を」であると解釈している。 「government」=「政治」と訳すと意味が通りにくいが、「統治すること」にすればわかりやすい。これで、「government of the people」=「人民を統治すること」になり、例の三連句をつづければ、「人民を、人民が、人民のために統治すること」となる。こちらのほうがどう考えてもスマートでわかりやすい。紹介していたのは、下記のサイトだった。 ●目的格関係を示す前置詞 of - 「の」 2004. 8/13(金) グループ ![]() それでも最近は、不祥事を起こしても出場停止にならないケースが増えてきているらしい。昔は、部員ではない生徒に関する事件でも野球部が出場を辞退するという、まったく訳のわからないケースがあった。野球部の人間に落ち度はないのになぜ大会への出場を辞退しないといけないのか、僕は本気で理由がわからなかった。 今年の6月、水泳の世界でも同じような事件が報道された。明治大学の水泳部水球部門所属の部員二人が線路に置き石をし、逮捕された。これにより水泳部水球部門は無期限対外活動停止となり、水泳部競泳部門は7月までの対外活動禁止となった。 この図式を説明すれば、こうなる。 ある人間が悪事をはたらいた場合、その人が属するグループが連帯責任を負わされ、活動が抑制される このルールに忠実に従うなら、ある高校の野球部部員が不祥事を起こした場合、彼は野球部部員であるのと同時に何年何組というクラスに属しているわけだから、そのクラスの生徒全員は、次の模擬試験に参加できなくなる。 また、不祥事の彼は、”家族”というグループに属しているわけだから、その家族全員は選挙権を剥奪される。そして彼はまた”町”というグループに属しているわけだから、その町に住む人は全員給料を10%カットされる。また彼は”市”というグループに属しているから、市民全員の税金が増額され、同時に”県”というグループに所属しているから県民全員が国体参加を辞退し、”国”というグループに所属しているからオリンピックも辞退する。さらに”男”というグループに属しているからには地上のすべての男性は去勢を余儀なくされ、”人間”というグループに属する私たちはすべて一週間の断食を強いられ、”地球”というグループに属するすべての生き物は……もう、いいか。 最後までいかなくても、誰もがどこかの時点で、不祥事を起こした彼と同じグループに属する。そして、そのせいで自分の活動が阻害されたなら、誰もがこう叫ぶだろう。 「僕(私)には関係ないだろう!」 これが、先に書いた水泳部部員たちの悲鳴だ。野球部部員の誰かが不祥事を起こしたことで出場辞退を強いられた、甲子園を夢見る生徒たちの叫びである。 2004. 8/17(火) オリンピック ![]() そりゃもちろんオリンピック観戦の日々なのである。基本的には全ての競技に目を通している。とはいっても、ビデオ2台をフル稼働させ、録画したものを20倍速くらいで早送りしながら必要な所だけ見ているので、それほど時間はかからない。 この雑記を読んでいる人の中には、僕のことを、ずいぶんうがった目でものを見る人だと思っている方がいるかもしれない。でも、なにもかもを斜めから見ているわけではないのだ。いいものはいいと素直に言いたい。その意味で、スポーツは大好きだ。さらに言えば、スポーツ選手が大好きだ。 というわけで、体操の男子団体を見たのは今日の午後であった。そしてもう最後の鉄棒がはじまるあたりから涙が止まらなかったわけである。 あのプレッシャーでよく戦えるなあ、と感嘆するしかない。途中までトップだったルーマニアの選手たちはみな最後はがちがちで、鉄棒では素人目にもわかるくらい動きがおかしかった。アメリカの選手も似たような感じで雰囲気に飲まれていたのに対し、日本の選手たちは冷静に自分たちの演技をおこなった。 最後の最後、鉄棒の演技者、冨田選手。あの状況でコールマンという難しい離れ業を使うとは恐れ入る。とにかくみんなタフで、しかも堂々としている。格の違いさえ感じる金メダルだ。 プロフィールの「好きなスポーツ」で体操を挙げているくせに、最近は疎遠になっていた。だから昨年の世界選手権で冨田選手が個人総合3位になったことや、鹿島選手があん馬と鉄棒で金メダルを取ったことさえ知らなかった。今回もオリンピックに出場はするものの、メダルは難しいだろうなあと思っていた。なんという見当はずれな予想だったことだろう。 今回のオリンピックでは、VHSテープ2本を使い回して録画している。しかしこの体操男子団体を収録したテープは、爪を折って保存版にすることにした。上に書いた内容もさることながら、実況が僕の大好きなNHKアナウンサー、刈屋富士雄さんだったからだ。 2002年2月23日の雑記に書いたように、僕は刈屋さんの実況が大好きだ。担当するスポーツに精通した正確なコメント、なおかつ余計なことはしゃべらず、短い言葉でエッセンスを伝える技術。それでいて温かくて、スポーツを見ていてよかったと思わせてくれる。そんなところが大好きだ。 今回も、じゅうぶんにそのすばらしさを堪能した。ルーマニアとアメリカと日本、僅差で3国が並んだ状態で最終種目を迎えた時に発した、「しびれるような点差!」には、泣きながら笑ってしまった。 そして金メダルが決まったあと、解説の小西さんに向かい、「小西さん、どうぞ泣いてください」というコメント。なかなか普通のアナウンサーでは言えない。この二つが今回のヒット作であった。 さて、これまでの競技で、そのほかに心に残っているのは、柔道女子の横沢由貴選手、あの奇跡の準決勝だ。 残り数十秒のところで相手にポイントを奪われリードを許した。ずっと応援していた僕は、がっくりきた。そして、ああこれで決勝進出はないな〜、それでも銅メダルは取れるかな〜と、すでに心を切り替えていた。 しかし、残り、1秒。最後に組み合って、普通なら時間切れを待つことだろう。それを彼女はあきらめずに技をかけにいった。 劇的な一本勝ち。僕は歓喜に沸き立ち、すぐに、選手よりも先にあきらめてしまった自分のことを、猛烈に恥じた。 僕をふくめ普通の人は、最後の結果が出る前に自分で身を引いている。本当の結果が出る瞬間ではなく、その前に自分で負けを決めているのだ。 言葉を言うのは簡単だ。いまや、「最後の最後まで、選手はあきらめずに戦いました」なんてセリフを民放アナウンサーなどが簡単に使うものだから、概念さえも陳腐化してしまった。でも、それを本当に実践できる人がどれだけいるだろう。僕らはすぐにくじける。とても越えられそうにない壁を見上げ、立ち向かう前に放棄してしまう。それは、自分を守る本能だからだ。本気で戦って敗れればそのぶん傷は深い。それを避けるために、自分で身を引いてダメージを小さくしている…………いや、こんな抽象的な書き方じゃ駄目だ。 あの試合、残り数秒の状態で、技をかけられるか。 僕なら、あきらめる。 それを、横沢選手はあきらめなかった。 そういうことだ。 ただ尊敬するしかない。 |