<<<back


海と風の詩 act.3


 小さなテーブルを挟んですぐ目の前で、いつもは竹刀を握る大きな手が、見ていてあまりの不似合いさにおかしくなるくらいに、細くて頼りなげに揺れる鉛筆を握りしめている。
 白いノートの上に向かって、小難しい顔つきで、眉根を寄せながら数学の公式をといているゾロの姿は、体ばかりは大きくても、まだまだサンジの目から見れば、「可愛い弟」そのものだった。
 
 「ほら、そこ。間違ってんぞ。」

 手に持った、ゾロからの預かりものの中学校の数学の教科書を丸めてゾロの頭を軽く小突く。

 「お前、その歳で掛け算間違っててどうすんだよ。そんなことじゃ、行ける高校なんてどこにもねぇぞ。」

 数式の途中で間違った掛け算の場所を、臨時の家庭教師役のサンジが指先で示してやりながらからかってやると、ゾロはそのときばかりは歳相応の子供のように、すねたような表情で目の前でニヤニヤ笑っているサンジを見返してきた。

 「いーんだよ。どうせ特待で行くからよ・・・。」

 確かに、ゾロは中学も三年に上がった時点ですでに、剣道での特待生扱いで県内でも指折りのスポーツの強豪校に推薦で入学が決まってはいた。
 だが、いくらスポーツ推薦だからといって、学生の本分である勉学がおろそかでは格好がつかないだろう。今でもジュニアクラスでは日本一と言われるくらいにゾロは世間からも注目されている。
 そんな自慢の『弟』には、やはり格好良くいて欲しい、サンジはゾロに言うつもりは無かったけれど、そう思っていた。

 「バッカ。だからって卒業の成績が寒々しいんじゃ話しにならねぇだろ。小学生レベルで躓いてるヤツが偉そうな口きいてんじゃねぇ。」

 あ〜、ほらまた。同じとこ間違えんなよ。
 今し方消しゴムで消していた場所に、又同じ数字を書き連ねるゾロを今度は指先で小突きながら、サンジはいつまでこうやっていられるんだろう、なんてことを考えていた。つい、二三日前、ゾロが独り言のように呟いた言葉と、偶然見てしまったまるでサンジが見たことも無かったゾロの姿に、あれからサンジの心はずっと囚われ続けていた。
 
 『早く大人になりてー・・・。』

 その言葉は、あの時校門の影で抱きしめていた女の子のために思ったことなんだろうか。
 彼女のために、彼女を守るために、一刻でも早く大人になりたい、ゾロはそう思っているんだろうか。
 聞きたかった。
 だが、聞きたくても、どうしたことかサンジはその事を口にすることが出来なかった。
 そして、ゾロもサンジの前でその事は話すことは無かった。

 (俺には、言えないのか?。言いたくないのか?。)

 小さな頃からどんな些細な事でも、ゾロは困った事が起きたり、嬉しいことがあればサンジに話してくれていた。
 それなのに、『彼女』が出来た、なんて話はついぞ今まで聞くことは無い。
 あの時、サンジが見ていたことも、ゾロは気が付いているはずなのに。
 ゾロのことなら何でも知っていたはずだったのに、気が付けば、目の前にいるゾロが本当に自分が知っていたゾロなのかどうかすら、自信が持てなくなってしまう。
 あの日から、ずっとサンジの心はわけの分からない不安な思いにかき乱されていた。

 ゾロと繋いでいたはずの手のひらが、バラバラに離れていってしまったようで、それはとてつもなく淋しくて、サンジはどうしてか自分が又、薄暗い部屋の中、両親の帰りをたった一人で待っていたあの頃に戻ってしまったような気がしていた。

 (ゾロが一緒に居るはずなのに・・・。どうして『一人』だなんて思うんだ・・・・・。)

 暗く日が落ちた窓の外では、小さな雨音が響き始めていた。







 「あ〜、ここんとこズーッと雨だよなぁ・・・。」

 ただっ広い講義室の真中あたりの席で、サンジの隣に座った黒い髪にそばかすの目立つ顔の男がボツリとつまらなそうに呟いた。
 一応とばかりに開かれているノートは見事なくらいに白紙だ。
 かくいう頬杖を付いて窓の外の雨雲を見るとも無しに見ているサンジの目の前に投げ出されたノートも似たり寄ったりなのだが、それなりに狭き門と言われた受験戦争をかいくぐって念願の大学に入って半年、やる気がチョットばかり無くなるのも仕方が無いのかも知れない。

 「これが五月病ってやつかね〜。あ〜、やる気しね〜。」

 「テメェはいつでもやる気なんかねぇじゃねぇか。」

 しかも、五月病ってのはGW明けに無気力になることを言うんだよ。
 机に肘をついたまま、サンジは隣の男に言ってやる。

 「だってよ〜。」

 こうも雨ばっかりだとな〜、とか今だ一人ぶちぶちと文句を言いつづける男を放っておいて、サンジはやはりゾロのことを考えていた。
 今ごろはテスト用紙に向かっているはずだけど、とか、今日は英語の試験があるって言ってたよな、昨夜教えた文法ちゃんと覚えてっかな、とか、まさか白紙で終わったりしてねぇだろうな、とか。
 今日は俺も講義があるから、昼飯作ってやれなかったな、とか。
 
 無意識に、どうしても思考がゾロのことばかりに流れていってしまう。
 この数日と言うもの、何をしていても、どこに居ても、気が付けばサンジの頭の中も、心の中も、一片の隙間もないほどにゾロのことばかり。

 (そんなに、俺はアイツが離れていくのが、大人になっちまうのが・・・・。)

 淋しいのか?。

 (ゾロが俺を置いてどこかに行っちまうのが。)
 
 そんなに辛いのか?。

 (ずっと一緒に居てぇ、そう思っちゃいけねぇのか・・・・。)

 その思いがどこから湧きあがってくるのか、サンジには分からなかった。
 ただ、ゾロと繋いだ手を離したくは無かった。
 心まで温かくしてくれるその手を、ずっと離さないでいて欲しかった。
 
 そんな風に、ぼんやりと窓の外を眺めていたサンジのシャツのポケットの中で、突然携帯が小さく振動を始めた。
 講義中に誰だよ、そう思って着信画面を覗いてみれば、『公衆』と表示されている。

 (あ、ゾロ。)

 そう思った。
 始めから大して真剣に耳を傾けていた講義でもない、すぐに電話を受けると、思った通り小さな携帯の向こうからゾロの声が聞えてきた。

 「ちょっと待て、今講義中だから外に出る。」

 今更誰かが途中で退席したところで気にするような教授でもない。ぼそぼそとした声で講義を続ける教授を背に、サンジは隣で机に突っ伏して鼾をかきだした男を放って、自分の荷物を抱えると講義も真っ最中の教室を抜け出した。

 「どうした?。」

 「いや、講義、良いのかよ?。」
 
 「あ〜、いいよ別に。大丈夫だ、気にすんな。」

 番号を教えてはいたが、めったにゾロがサンジの携帯に電話をかけてくることは無かった。
 だから、正直に言えば、サンジは嬉しかったのだ。
 今は、ただゾロが自分の方を向いていてくれるだけでも、安心できた。

 「なんかあったのか?。電話かけてくるなんて珍しいじゃねぇか。」

 「その、すげぇ悪ぃんだけどよ。傘、忘れた・・・。」

 歯切れ悪くゾロが小さな声で言った。

 「はっ・・・?。だって、お前朝から雨降ってたじゃねぇか。」

 それどころか、ここ暫くはずっと雨ばかりの天気だったのに。

 「持ってってないのかよ?。」

 「あ〜、その・・・なくした・・・んだよ・・・。」

 ますます歯切れ悪く、ぼそぼそとした物言いでゾロが言った。
 おかしなヤツだな、そう思いながらも、サンジは結局ゾロに対しては甘く出てしまう。

 「わかったよ、傘持って迎えに行ってやるからどっか濡れねぇとこで待ってろ。」

 「悪ぃな。」

 プツリと電話をきった後、サンジは大学のすぐ側のコンビにで安っぽいビニール傘を買って、大学の通学の道の途中にあるゾロの学校に向かって歩き出した。自分が自宅から持ってきた傘はたたんで、一回り小さな買ったばかりのビニール傘を開いて灰色の空からひっきり無く降り続ける雨だれの下を歩いていく。

 (昔はよく一緒の傘に入って帰ったりしてたけどな。)

 母親の、小さな子供達に少し大きすぎる傘を握りしめて、ゾロを保育園まで迎えに行ったことを何となく思い出す。


手を繋いで一つ傘の下、一緒に歩いた幼い頃の思い出。

 (もう、アイツも俺も図体でけェから一緒に傘なんか入れねぇけど。)

 (雨の日に、こうやって一緒に帰るって、何年ぶりかだな。)

 (帰ったら、体暖まるような美味いもんでも作ってやるか。)

 見慣れたゾロの中学の校門はすでに静かな空気に包まれていた。大半の生徒達はテストの終了と共にすでに帰宅していったのだろう、土曜日の午後のように人気の少ない校内に足を踏み入れたサンジが、校舎の影に待っていたゾロの姿を見つけるのには大して時間もかからない。
 だが、サンジはそこに、もう一つの影を見てしまった。
 あの、髪の長い女の子。ゾロの目を下から覗き込むように何か話しをしている。
 手には二本の傘を持っていて、その彼女の手に握られている一本の傘は、なくしたといったはずのゾロの傘。
 
 (ゾロ・・・。)

 なぜか声をかけ損ねて、サンジは校門から校舎に差し掛かるスロープの中途半端な位置で立ち止まったまま、その光景をぼんやりと眺めていた。
 何を言ったらいいのか良く分からなかった。
 
 (傘、見つかったんじゃねぇか・・・。)

 (だったら、途中ででもいいから電話くらいよこせよな。)

 (俺、すげぇ間抜けっぽいじゃねぇかよ。)

 雨の影に見える『彼女』と話し込んでいるようなゾロの姿に苦い思いが込み上げてくる。
 『彼女』だけに視線を向けていて、自分の姿に気がついてくれないゾロに、胸が痛い。
 サンジは手に持った、自分の傘の柄をグッと握りしめた。小さなビニール傘から肩の上に垂れ落ちてくる雨の滴が、嫌に冷たく感じる。

 「ゾロッ!。お前、ちゃんと傘持ってんじゃねーかよ!。俺、先に帰るからな、まったく手間かけさせやがって。」

 目の前の女の子に気を取られたようなゾロに、遠くからサンジはどうにか声を絞り出すようにしてそう言った。その声がちゃんとゾロの耳に届いたのかどうかは分からなかった。
 どうしてかゾロの顔を見ていられなかった。
 
 踵を返して、ほとんど走るように校門に向かったサンジの視界の端で、長い髪が揺れてゾロの体に巻きつくように見えた。
 ギュッと胸が絞られるように痛くて、喉に何か詰め込まれたみたいに息苦しい。
 足元の水を蹴るようにして走るサンジの背中に、

 「待てよッ!!。」

 そう言ったゾロの声が聞こえたような気がしたが、サンジは振り返ることなく静かな校門を潜り抜けてあの砂浜の方に走り出していた。






                            BACKNEXT