越 中 路
 ● おくのほそ道 本文
 くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。
   わせの香や分入右は有磯海
 ● ぼくの細道

  有磯海

 市振を出るとすぐ、北陸街道は越中(富山県)にはいる。
 北陸道のこの辺りは、今では両側に家々が立ち並んでいるが、かつては海岸に向けて水田が広がり、稲作が盛んだった(元屋敷地内古老の話)という。
 前日は名にしおう難所の親不知を越えてきただけに、広々とした街道筋に出て芭蕉はほっとしただろう。色づき始めた稲穂、その先には青い海が広がる。この海が万葉の時代から歌枕として語り継がれてきた有磯海だ。空には真夏の太陽が照りつけているが、稲穂の波を渡ってくる風は、むしろ涼しい。ああ、いいきぶんだなあ、、、 わせの香や……の句からはそんなゆったりとした気分が伝わってくる。
 この句の句想は、おそらくこのあたりで練られたものであろう。
 しまった、昨夜の姐さんたちと一緒に歩けばよかった、と考えちゃうのは、風流の道を解しない、あたしみたいな朴念仁くらいかな?

  那古の浦

 放生津八幡宮。
 景勝の地、那古の浦または奈呉の浦に面して、あの大伴家持が建てた神社だ。
 大伴家持といえば、時代を代表する政治家であるとともに三十六歌仙の一人に数えられる詩人であり、万葉集の編者としても知られる偉大な文学者でもある。いってみれば芭蕉翁の大先輩に当たる。
 それを芭蕉翁が知らないわけはないが、それにしてはずいぶんそっけなくこの地を通り過ぎた。
 思うに芭蕉翁は、政治家は好きじゃないのだろう。家持って人は、政治の面舞台裏舞台にたびたび登場している。なかにはある陰謀に加担したことから流罪になった、なんてのもある。芭蕉翁は文学の先輩でもこういう人はあまり評価しないのかもしれない。
 直情径行、木曽義仲とか源義経のような、刀を持たせたら鬼神のごとき力を見せるが、政治家として小細工はできない、そんなタイプが好みなのだろう。
 ・・・・かどうか、大先輩ゆかりの地、歌枕の多い越中路を、滑川、高岡に各一泊しただけで通り過ぎた。
旅程索引 碑めぐり 金沢→