一ヶ月遅れの話題で恐縮なんですが、"モデルグラフィックス"誌(以下MG)の'99年7月号の巻頭特集、"ガンダムテクノロジー0079"はなかなか面白かった。言ってみればこれ、伝説の"ガンダムセンチュリー"をもう一度今風に再編集しつつ、"ガンプラ"っていう、いまやモケイの1ジャンルになってしまった分野に対する考察とでもいうようなものであった、と言えますか。
どうも件の"ガンダムセンチュリー"、みのり書房から復刻版の計画もあるらしく、元版持ってる僕もそれはそれで楽しみだったりするわけなんだけど、そっちの話はさておいて今回はガンプラの話。
MGの基調は、現状、ガンプラが置かれている状況というのは、無定見な価値観の乱造と、それを積極的に拒否しないエンドユーザーによって、ガンプラというジャンルは混沌から崩壊へのシナリオに乗って推移しているのではないか、ということのよう。ちょっと長くなるけど………、
これは"ガンダム"という作品が「ファースト」「Z」「ZZ」………「G」「W」「X」、そして「∀」と、この20年のあいだに制作者があらかじめ設定していた作品としてのルールを制作者自身が簡単に破り、そのときどきで節操なくモノを作ってきたことと、そしてそれに対し、明確に「NO!」と言わない(もしくは「NO!」といいながらもプラモデルだけは買い続けてきた)エンドユーザーという、まるで「お互いのだらしなさに嫌気がさしながらも結局ダラダラ肉体関係だけは続けてしまうダメカップル」のような、だらしない二者関係のまま現在に至った結果である。
よってガンプラの世界は、統一したガンダム的世界観と言う物は存在せず、いわゆる今風な「オレ的」って言葉で括られるかって気ままな世界が育ってしまったのではないか、ってことらしい。さらに、ガンプラ、って世界とスケールモデルの世界の決定的な違いが、モデラーとしてのガンプラファンに、ある種のひずみを作り出してしまったんではないか、って主張が続く。すなわち………、
「ガンプラしか作ったことのない人、スケールモデルが下地になっていない人は、実物がないことがハンデになっていることにも気付かないんですよ(中略)。実物の存在しない模型っていうのがいかに奇形か、ユーザーはわかってないんですよね。」
この状況がガンプラユーザーたちのスキルの低下を招くことによって、ガンプラって世界が考証不可能の低レベルな自己満足の模型の世界に陥ってしまうことを真剣に危惧する、ってのがつまりMGの主張だと思うわけで、まあいかにもMGらしいスタイルで、ある意味HJに突きつけた挑戦状みたいな意味合いもあるのかもね。
これを、いかにもMGらしい頭でっかちなオルグと取って、"楽しみである趣味にそんな哲学的な教条主義みたいなモノを持ち込まんだってええやないの"というのは簡単なんでありますが、あたしゃこの主張、それなりにうなずける部分があったりするんだなァ。
たとえばHGやマスターグレード以降のキットたち。今の技術と"解釈"なるモノで産み出される、ハイ・クオリティのキットたちであることは否定しないんだけれど、でもみなさん、とりわけ最初のガンダムのテレビシリーズを見たみなさん、あのマスターグレード・ザクはザクですかね(^^;)?アレを「できのいいザクだ」と喜んでつくるってのは、結局何を作ってることになるんでしょうかね?ユーザーのスキルダウンを、メーカーのスキルアップがイビツに支えているって状況、確かにあるような気がするんですよワタシは(^^;)。
できが良く、作りやすいバンダイの一連のシリーズ、アタシも大好きなんでありますが、とりわけマスターグレードのシリーズには"これは違うな"的感覚が微妙につきまとうのも確かで、それは一面にこちらの思いこみがあり、もう一面として"制作者サイドの無定見"ってのがあるんだろうと思うんですが、それ以上に"じゃあガンプラって何さ"的な話題が、一般のスケールモデルに比べると確かに手薄だったのかもしれませんな。キットに対する積極的な批判がしにくい世界だってことを考慮に入れても。
つーわけで、あらゆるガンダムを一旦"SD"という共通の土俵にまで落とし込んだSDガンダムのシリーズこそ、じつは真の"ガンプラ"なのかも知れんなあ、などと思ったりする今日このごろ(結局そういうオチかいっ(^^;)
引用は大日本絵画発行・"月刊モデルグラフィックス"1999年7月号からのものです。
1999/7/5