日本の歴史認識 > 小論報:"真相箱"の南京事件

R07

"真相箱"の南京事件

2019/5/22

"真相箱"は、太平洋戦争の終戦直後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本人を洗脳するために、NHKを通じてラジオ放送した番組の名前です。GHQは1945年12月から"真相はかうだ"というラジオ番組を放送しましたが、抗議や非難がNHKに殺到したため、1946年2月以降は「真相箱」として放送を続けました。(出典;Wikipedia:「真相はかうだ」)

 今回、水間政憲著「完結 南京事件」を検証している段階で、その「真相箱」の台本が国立国会図書館から公開されていることを知り、さっそくダウンロードして「南京事件」の項を検証してみました。ダウンロードのURLは次のとおりです。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042022/1

目次

1.本文の内容

南京事件の項の全文は次のとおりです。内容の妥当性を検証するため、記載内容をいくつかの事象に分割し、それぞれの出典を調査しました。戦後まもない時期で東京裁判も終っておらず、中国での調査もまともにできていない状態ですので、事件当時南京にいたアメリカ人の記録やニューヨーク・タイムズなどの記事をもとにしているだろう、と推定しましたが、案の定、安全区国際委員会のベイツやフィッチがティンパレーが編集した「戦争とは何か What war means 」に寄稿した記録などが主体になっていました。

(注) 原本は活字がかすれて非常に見にくいので、「完結 南京事件」に記載の内容を参考にしながらテキスト化しましたが、ダウンロードしたものと「完結 南京事件」の記載内容が微妙に異なり、かつ文字の判読ができない部分は■にしてあります。また、読みやすくするため、数字はアラビア数字、旧字体は新字体にしてありますが、雰囲気を残すために一部は旧かな使いにしている部分もあります。


「南京の暴行」

日本が南京で行った暴行についてその真相をお話ください

「我が軍が南京城壁に攻撃を集中したのは昭和12年12月7日でありました事象1これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、この1週間後、その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺された事象2 のであります。南京城内の各街路は数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体が覆はれたのであります。この間血に狂った日本兵士らは非戦闘員を捕へ、手あたり次第に殺戮、掠奪を逞しくし、また語ることも憚る暴行を敢て致しました事象3。日本軍入城後数週間といふものは、一体南京市中でどう云ふことが起ったのか、非戦闘員たる中国人の保護に任ずるため踏み止まった外国人が一体どういふ運命に遭遇したのか、これは杳として知ることは出来ませんでした。といふのはかかる真相の漏洩より予想される不測の反響を慮った我が軍部が、あらゆる報道の機関を封じて厳重なる検閲を実施したからであります事象4。だが、結局この真相は白日の下に露呈されました。そしてかかる日本軍の常軌を離れた行動そのものに対しては、その大部分の責任がこれを抑え切れなかった軍部自体の負うべきものなることが判明致しました事象5

集団的なる掠奪、テロ行為、暴行等人道上許すべからざる行為は、市内至るところで行はれました。はじめ南京城市民はもしも日本軍さえ入城してくれるなら、中国軍の退却のドサクサにまぎれた暴行、掠奪も終るだろう、と期待したものです事象6。ところが彼等の希望は無残にも裏切られたのみならず、更に大なる恐怖に直面することとなったのであります。かうした暴行事件は南京初め保定その他北支の占領都市でも見られることですが、これは明らかに日本軍将校が煽動して起こしたものであり、彼等の中には自ら街頭に出て商店の掠奪を指揮したものもあった事象7 と言はれています。日本軍の捕虜となった支那兵を集め、これを4、50人づつロープで縛り、束にして惨殺したのもまた日本軍将校の命令であった事象8 のです。

日本軍兵士は街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、老ひたるは60才の婦人から若きは11才の少女まで見逃しませんでした事象9。そして中国赤十字社の衛生班が街路上の死体片付けに出動するや、我が将兵は彼等の有する木製の棺桶を奪い、それを勝利の炬火の薪に使用致しました。赤十字作業夫の多数が惨殺され事象10、その死体は今まで彼等が片づけていた死体の山に投げ上げられました。また市内のある発電所では日本軍の■■■■■■にして技師54名が殺害されました事象11。その後クリスマス当日は、日本軍当局は彼等の捜査に取りかかりましたが、それは発電所の復旧に彼らの必要を感じたからでありました。

その日の午後数名の者が市内の某病院に同行されました。それは一度試し切りしたうえ早速手当を加へるためだったのです。これらの人々は二人づつ背中合わせに縛られ、我が教官が、銃剣で突くには何処が一番効果的であるかを実物教授する間、じっと坐ってをるやう命せられました。だがその多くは負傷のために縛目を解かれる前に絶命していました事象12。このやうな大規模な暴行は終始間断なく行はれましたが、その間日本軍飛行機が次のように書いた宣伝ビラを撒いていました。即ち

「■■に■■すべての善良なる中国人に対し、我が軍は食物並に衣類を給与すべし、中国国民が憎むべき蒋介石軍の圧政を脱し、我が親愛なる隣邦国民となることこそ、我が国の希望に他ならず」と、こうした宣伝により、このビラの撒かれたその日のうちに数千人の中国人がその一時的な避難先から、続々として戦火に破壊されたわが家へ帰ったのです事象13。しかも、その翌朝日本軍は恐るべき暴行を敢えて行ひました。

大晦日の夜には我が軍部は避難民宿舎の中国人首脳部を呼び出し、いはゆる住民の「発意」による祝典を翌日行ふべきことを申渡し、避難民にすぐさま祝賀行列用の日章旗を作れと厳命しました事象14。当時日本大使館員はこれを説明して、日本国民はニュース映像によって、かうした日本軍の歓迎振りを見るならば、必ずや大なる満足を覚えるであらうと暴言したものです。だがかうした大規模な虐殺も漸く日と共に下火になりました。そして昭和13年3月 政府の御用機関たる東京放送局は次の如き出鱈目の虚報を世界に向って送ったものです。「南京においてかく多数を惨殺し、また財産を破壊した無頼の徒はこれを捕縛した上厳罰に処せられました。彼等は蒋介石軍にいて平素から不満を抱いていた兵士の仕業であることが判明しました」と 事象15

死者に答へを求めることは固より不可能なことであります。然しながら我が軍がかかる惨虐行為を行った紛れもない事実は、わが将兵の所持する写真によって遺憾なく暴露されてをります。南京の暴行、これこそ中国をして最後まで日本に抵抗を決意せしめた最初の動機となったものであります。


2.各事象の検証

事象1; 日本軍が南京城壁に攻撃を集中したのは昭和12年12月7日

【誤り】 どの史料をもとにしているか不明ですが、蒋介石が南京を脱出したのが12月7日なので、そのころ日本軍が南京城にせまったと解釈したのかもしれません。日本陸軍の資料によれば、このころ、日本軍は南京城まであと5~10kmほどのところまで進出していましたが、城壁に対して本格的な攻撃を始めたのは12月10日です。

{ 12月8日、各師団の追撃隊は、湯水鎮-淳化鎮-方山―東善橋の敵第一線陣地を突破して南京外郭の主防御陣地に迫った。}(「証言による南京戦史(3)」,P9) 

事象2; 婦女子2万名が惨殺された

【誤り】 殺害者数2万人という数字は、次のような史料に出てきますが、婦女子だけで2万人とはいっていません。ベイツが強姦件数2万件(事象9参照)と言っているのと混同しているかもしれません。

エスピー報告(1938年1月15~24日) { 市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも2万人がこのようにして殺害されたものと思われる。}(「南京事件資料集1」,P24-P241)  ※エスピーは、南京アメリカ大使館の副領事

第100回国際連盟理事会における顧維均の演説 { 日本軍が南京と杭州で犯した残虐行為につき、アメリカの大学教授や宣教師たちの報告に基づいた信頼のおける記事がもうひとつ、 1938年1月28日付けのデイリーテレグラフ紙とモーニングポスト紙にも掲載されています。日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は20,000人と推定され、また若い娘を含む何千という女性が凌辱されました。}(「南京の実相」,P89-P90)

事象3; 南京城内の各街路は数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ…

【誇大な表現】 ベイツは「戦争とは何か」で、{ 通りには市民の死体が多数ころがっていた…}(「大虐殺事件資料集2」,P24) と書いていますが、欧米人の文章はせいぜいこの程度で、「真相箱」の文章はかなり誇張して書かれています。

事象4; 軍部が、あらゆる報道の機関を封じて厳重なる検閲を実施した・・・

【正しい】 戦争のとき、報道管制をひくのは各国共通のことで、日本軍もそうした報道規制を行っています。次の証言がそれを裏付けます。

ニューヨーク・タイムズ記者F.T.ダーディンの証言 { (私が)南京を離れたのは南京からニュースを送る手立てがなかったからです。私が南京を離れる時は、日本軍部の圧力はありませんでした。・・・ 日本軍は、南京でおきている虐殺行為を世界に知られないようにせねばと気づき始めていました。}(「南京事件資料集1」,P561)

安全区国際委員会委員長 ジョン・ラーベの証言 { 昨日の夕方、福井氏が訪ねてきた。昨日、日本大使館に会いにいったのだが、会えなかったのだ。なんと、氏は脅しをかけてきた。「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」 ・・・ }(「ラーベの日記」,P274)  ※福井氏:日本大使館の福井淳総領事代理

事象5; 大部分の責任はこれを抑え切れなかった軍部自体が負うべき

【正しい】 GHQは、次のような事実をもとにして、事件の責任は個人ではなく軍の組織が負うべきもの、と判断したのではないでしょうか。問題が起きるリスクを認識して命令を出しておきながら、配置された憲兵のあまりの少なさなど、命令を遵守させるための処置が不十分だったのは、軍中央および現地軍幹部の怠慢ととられてもしかたありません。

エスピー報告 { われわれの聞いたところによると、日本軍指揮官より、兵士を統制下におくよう少なくとも2回の命令が出され、また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう厳命が出されていた。それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である。}(「南京事件資料集1」,P241-P242) ※エスピーは、南京アメリカ大使館の副領事

「戦争とは何か 第2章」(筆者はフィッチ) { 最近、憲兵が17名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろうとのことでした。5万余りもの軍隊にたいしてたったの17人!}(「大残虐事件資料集2」,P36)

事象6; 南京市民は日本軍が入城すれば、中国軍の暴行、掠奪も終るだろう、と期待した

【ほぼ正しい】 南京市民が本当に日本軍に期待したかどうかは確認できませんが、下記史料だけでなく、ラーベなども同様の期待を持っていました。

1937年12月17日のニューヨーク・タイムズ記事(F.T.ダーディン) { 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。・・・ 日本軍が南京城内の支配を掌握した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。}(「南京事件資料集1」,P417)

事象7; 日本軍将校の中には自ら街頭に出て掠奪を指揮したものもいた

【正しい】 以下のような証言をもとにしたと思われますが、中島今朝吾師団長の日記には松井司令官に対して中島師団長がカッパライを正当化するような会話が記されています(本文4.5.3項(6))

「戦争とは何か 第4章」(筆者はベイツ) { トラックを使って行動する日本兵の集団による(しかもこれはしばしば将校の監視と指揮の下に行われたが)、計画的な略奪が行われ、それから放火されたのです。}(「大残虐事件資料集2」,P49)

事象8; 捕虜となった支那兵を惨殺したのもまた日本軍将校の命令であった

【正しい】 下関の埠頭での処刑シーンをダーディンらが目撃しています。捕虜の処刑は日本軍の公式記録である戦闘詳報などにも多数記載されています。数十人数百人以上にも及ぶ捕虜をいっせいに殺害するのは個人の力では不可能です。

1937年12月17日のニューヨーク・タイムズ記事(F.T.ダーディン) { 安全区の中のある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されていった。
上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。}(「南京事件資料集1」、P418)

事象9; 老ひたるは60才の婦人から若きは11才の少女まで強姦した

【正しい】 強姦の報告は下記以外にも、いやっというほどたくさんあります。

「戦争とは何か 第4章」(筆者はベイツ) { 有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を2万件と見ています。私にも8000件以下であるとは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。・・・ 金陵大学構内だけでも、11歳の少女から53歳にもなる老婆までが強姦されています。他の難民のグループでは、酷いことにも、72歳と76歳になる老婆が犯されているのです。}(「大残虐事件資料集2」,P49)

事象10; 中国赤十字社の有する棺桶を奪って炬火の薪に使用、赤十字作業夫の多数が惨殺された

【可能性あり】 中国赤十字社は紅十字会をさすと思われますが、紅十字会に関する記録は見当たりません。ただ、犠牲者の埋葬を行った紅卍会については、次のような記録があります。

「戦争とは何か 第2章」(筆者はフィッチ) { 紅卍会が彼等を埋葬するでしょうが、トラックは盗まれ、棺桶は焚火に使われてしまい、会の標識をつけた労務者の何人かが拉致されました。}(「大残虐事件資料集2」,P35-P36)

事象11; 発電所では技師54名が殺害された

【ほぼ正しい】 殺害されたのは正しくは43名ですが、ほぼ正しいとみてよいでしょう。

「戦争とは何か 第2章」(筆者はフィッチ、12月22日の日記) { 下関にある電気会社の技師の呉(訳音)氏がおかしいニュースを伝えてくれました。彼によれば、54人の労働者は南京陥落の日まであれほど健気に職場をまもり続けたのですが、とうとう揚子江岸のイギリス系の国際輸出会社に避難する破目になり、そのうち43人は、発電所が政府機関だという理由で(実際にはそうではありませんが)拉致されて銃殺されたとのことです。日本側官憲は、これら労働者の一人一人をつかまえて発電機を始動させ、送電しようとして、毎日私の事務所にやってきたのであります。あなた方の軍隊が労働者の大半を虐殺してしまったのだと、彼らにいってやることはせめてもの慰めでした。}(「大虐殺事件資料集2」,P37-P38)

事象12; 試し切りされた数名の者が病院に運ばれましたが、多くは負傷のために絶命していました

【ほぼ正しい】 これは以下のベイツの記録、つまり兵民分離で元兵士と認定されて刺殺された人たちのことだと思いますが、病院に来たのは軽傷の人だけで試し切りされた人たちは現場で亡くなっていました。

南京安全区档案第50号文書(筆者はベイツ) { ・・・1月3日、図書館の中にいた5人の知り合いのうちの2人の男とインタビューが持たれた。12月26日に起きた事件の生き残りである。彼らの一人は大学から連行された最初のグループの中におり、… 27日と28日の五台山で起きた「部屋と火事」の件について、詳細に確認した。彼は彼のグループの80人が殺され、40~50人が逃げたと踏んでいた。そのうちの一人は、銃剣により突かれ負傷した者だが、図書館におり、連れてきてそのことを報告させることができた。
2番目の男は稀に見る知的な人で、話も質疑応答も両方とも明快で明確であった。彼は第2番目のグループで、ある寺院の反対にある五台山の大きな家に連行された(…)。
・・・ 雰囲気が不吉なのを感じて、その男は好意的な警備兵に話しかけ不安の念を示した。その警備兵は、黙って棒で「上司からの命令」と土に書いた。私の報告者の直ぐ近くの男達は、2人1組で腕と腕を針金で縛られていた( … )。30人かそれ以上の人が漢中門に連行され、運河をわたった。そこで4,5人は死に物狂い夕闇や暗夜を利用し列を抜け出し、防壁で身を守り、隠れ場所を見つけた。その男は月齢から推定すると1時頃、北方の遠くないところで絶望的な叫び声を聞いた。彼は、夜明けに少しその方向に行くと、銃剣で刺されて列をなした死体を見た。大きな恐怖の中だったが、彼は門を何とか無事に抜けることができて安全地帯に滑り込んだ。・・・}(「南京安全地帯の記録 完訳と研究」,P272-P274)

ウィルソンの日記(12月28日){ 日本兵が彼らを登録するとき、まず結構な演説をして、兵士を探しているだけだと述べた。もし兵士だったと進み出て認めれば、命は助けて、軍の使役隊に編入されると日本兵は言った。・・・ 200人が前に進み出て、兵士だったことを認めた。
この患者の話によると、この数百人の男性は町の西にある丘に連行され、銃剣の練習台にさせられたそうだ。彼には何人生き残ったか見当がつかないという。彼には銃剣の傷が5ケ所あり、うち1カ所は腹膜を突き破っていた。・・・ 腹膜炎が重傷でなければ、彼はおそらく回復するだろう。}(「南京事件資料集1」,P290)  ※ウィルソン: 南京国際赤十字委員会委員で鼓楼病院の医師,アメリカ人

事象13; 日本軍飛行機が宣伝ビラを撒き、数千人の中国人が避難先からわが家へ帰った

【確認できず】 陥落後から2月上旬までの外国人の日記や記録を調べたが、飛行機がビラをまいた、という記録は見当たりません。日本軍は安全区の治安がやや落ち着いた1月中旬に避難民は全員帰宅するようポスターを貼りだしたが、そのことを言いたいのかもしれません。

ミニーヴォートリンの日記(1月16日) { 新しい支配者たちが、帰宅を促す大きなポスターを安全区の外に貼り出した。日本兵が2人、農民、母親、それに子どもたちが描かれている。兵士はとても友好的で親切そうに描かれ、また、中国人たちが彼らの恩人に心から感謝している様子が描かれている。書かれていることばは、人々が自宅に戻った場合、万事うまくいくだろうということを暗に伝えている。たしかに、場内の緊張はゆるんできているし、女性たち、とくに年齢の高い女性たちは試しに帰宅している。初めは昼間だけ帰宅してみて、何事も起こらなければ、そのまま自宅で暮らしている。若い人たちはいまもたいへん怯えている。}(「ミニーヴォートリンの日記」.P120)

事象14; 日本軍は大晦日の夜、翌日行う住民の「発意」による祝典のために、日章旗を作れと厳命した

【正しい】 1938年1月1日、日本の"指導"により中国人による「南京自治委員会」が発足し、新年祝賀もかねて祝典が行われました。そのために作られた国旗は日章旗と五色旗(国民政府成立当初の国旗)で、この時点での国民政府国旗である青天白日旗ではありません。

「戦争とは何か 第2章」(筆者はフィッチ、12月30日の日記) { … 今日の午後、私が日本大使館を訪れた時、大使館員たちは新年の祝賀について約60人の中国人(多くがわれわれの収容所の幹事)に指示を与えるのに忙殺されていました。旧来の五色旗が国民党の青天白日旗にとって代わることになり、彼らは五色旗約1000枚と日本の国旗約1000枚を、新年の祝賀用につくるように命じられました1000人以上を収容している収容所は代表を20人出すことになり、小さい収容所は代表10人を出すことになりました。元旦の午後1時に五色旗が鼓楼に掲揚されるとともに、(プログラムによれば)"適当な"演説と"音楽"がおこなわれる予定です。もちろんこの旗を振って新体制を歓迎する幸せな人々がニュース映画に撮影されるのです。}(「大残虐事件資料集2」,P42)

事象15; 東京放送局は「南京で惨殺などを行った無頼の徒は蒋介石軍の兵士で、厳罰に処せられた」と放送した

【確認できず】 1938(昭和13)年3月28日に日本の傀儡政権である「中華民国維新政府」が成立したが、それと前後して上記のような報道がなされた可能性はあるが、報道があったかどうか確認できませんでした。

参考文献

上記では、文献名を省略形で記していますが、以下、正式名称を記します。掲出順に記載しました。

① 水間政憲:「完結 南京事件」,ビジネス社、2017年9月1日

② 偕行社(畝本正巳)編:「証言による南京戦史」,雑誌「偕行」、1984年4月~1985年3月

③ 南京事件調査研究会編:「南京事件資料集1・アメリカ関係資料編」、青木書店、1992年

④ 日本の前途と歴史教育を考える議員の会 監修:「南京の実相」,日新報道,2008年11月1日

⑤ 洞富雄編:「日中戦争 南京大虐殺事件資料集 第2巻 英文資料編」,青木書店,1985年11月1日

⑥ ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳:「南京の真実」,講談社文庫,2000年9月15日

⑦ 冨澤繁信:「南京安全地帯の記録」,展転社,2004年9月29日

⑧ 岡田良之助、井原陽子訳:「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」,大月書店,1999年11月19日

3.まとめ

以上みてきたように、真相箱の説明を15個の事象に分解し、それぞれの信頼度を検証してみると、15件中10件は"正しい"、"ほぼ正しい"又は"可能性あり"であり、明らかな誤りが2件、確認できないものや表現が誇大と思われるものが3件ありますが、全体としてはおおむね正しい内容ではないかと思われます。ここで検証に使用した文献は、上記文献リストの①,④以外、すべて事件が起きたときに記録された一次史料をもとにしており、それらのほとんどは他の記録者や日本側史料の記録などと突き合せても、極めて信頼性の高いものです。

水間氏は「完結 南京事件」において、真相箱の南京事件に関する台本の全文を掲載し、その内容を批判した上で、「南京大虐殺はGHQが創作した日本人洗脳ラジオ放送からスタートしていた」と主張しますが、氏が真相箱の台本は誤りだ、とする有力な根拠のひとつは報道規制のもと日本軍に都合の悪い事実を報道することがなかった日本の新聞・雑誌などの記事です。氏の主張に対する反論は別のレポートでご報告する予定です。

以上