ホーム日本縦断登山エスニック雑貨店結婚ロード治療室本棚伝言版メール


         CONTENTS なぜ旅にはまるのか? 旅の哲学・バックナンバー 


         
  ■VOL.1  原風景という病 その1

    どういうわけか、いつの頃からか、身体に染み込んで忘れられない風景というものがある。
    それを見た時には、長い付き合いになるなどと、思いもしなかったのに
    地下鉄のホームで、スクランブル交差点で、酔っ払って乗り込んだタクシーの中で、
    ふと立ち止まると、いつのまにか思い出している。
    大抵はちょっと、調子の悪い時に──

    それを原風景と言うらしい。

    いちばん最初にこの言葉を意識したのは、たぶん二十歳をいくつか過ぎた頃だったと思う。
    もちろん知識としては、それ以前から意味も用法も知ってはいた。だが、知識はあくまでも
    知識である。
    小説や映画に登場する「永遠の愛」だの「崇高な魂」だの、あるいはテレビの「北の国から」
    と同じだった。

    つまり、実在などしていなかった。

    ところがある時、古くからの友達の1人が、大学の生協の二階でカレーかなんかをつつきながら、
    「オレ、就職は北海道にしようかな、時々むしょうに帰りたくなる時があるんだ」と言ったことが
    あった。
    「オマエ、なにバカなこと言ってんの」
    彼が小学校3年まで、北海道にいたことは知っていた。だが4年の時には東京に来て、中学から
    は自分と一緒に、渋谷や原宿で散々遊びまわった。いまさら北海道だなんて、就職活動に嫌気
    がさしたか、女にいたぶられてスネてイジケタか、とにかく本気とは思えなかった。

    「オレ、北海道の静内ってとこに住んでたんだよね」と友達は続けた。
    すでに10年近い付き合いだったが、彼が北海道について何か喋るなんて、記憶にないほどめず
    らしかった。で、私も黙って耳を傾けることにした。

    静内というのは有名な競馬馬の産地で、自分が住んでいた父親の会社の社宅も、大きな牧場の
    そばにあった、と友達は言った。社宅と言ってもごく貧しいもので、風呂は共同の浴場に、牧場を
    横切って、歩いていかねばならなかった。
    そしてなぜか繰り返し、いつも決まって思い出すのは、オヤジと妹とよく三人で歩いた、その浴場
    からの帰り道の風景なのだと、彼は言った。

    時刻は秋の夕暮れで、もう日が沈みかけている。秋の牧場は、東京の人たちのイメージとは違う。
    閑散としてだだっ広く、寂しく、厳しい。もうすぐまたあの冬が来る。そと思うと、子供の自分でさえ
    身体が少しこわばるような気がする。
    それでもまだ、風呂を出たばかりの自分は、ぽかぽかと暖かい。父親に夕日にうっすらと照らされ、
    その背中が口笛を吹いている。二つ下の妹が、後ろをチョロチョロついてくる。枯れた牧草の匂い
    がする。

    「オヤジが吹いてたのは、いつも<赤いサラファン>って曲だったんだけど、どんなだったっけな」
    友達はカレーを食べるのを中断し、口をとがらせた。
    <赤いサラファン>を吹ける彼が、私は急にうらやましくなった。

    私は正真正銘、東京生まれの東京育ちだった。私にとっての東京は、いまいる場所であり、これ
    からも生きていく場所であった。いつか帰っていく場所という概念は、私の中のどこを探しても、
    見つかりそうになかった。

    ひどく損をした気分だった。自分は「原風景」とかいう、なんだか良さそうなものを一生持たない
    まま、ここで生きていくしかないんだな、と思った。
    ──こういう生い立ち話は、女を口説く時の導入には最高なんだけどな
    そう思うと、なおさらもったいない気がした。

    つづく その2へ↓

           
  ■VOL.2  原風景という病 その2

    ↓その1より つづき

    それから何年かたった。私は東京でサラリーマンをしたり、地方に力仕事に出たり、無頼な生活を
    始めていた。
    どの仕事も長続きせず、というより最初から長い期間の仕事は嫌で、季節労働や臨時工のような
    仕事ばかりを好んでするようになっていた。フリーターと呼んでも別に良いのだが、意識としては、
    横文字ではなかった。

    仕事と仕事の継ぎ目には、よく旅に出た。ネパールにトレッキングに行ったり、バリ島に腰を据えて
    サーフィンにどっぷり浸かったり。なかなか旅グセが抜けなかった。
    一番最初に旅に出たのは、まだ学生の時だった。立派かどうかは別にして、とにかく就職し、社会
    人になっていく友人たちと別れて、バックパックを背負った。アジアからアフリカを、一年ほどかけて
    歩いた。それがはじまりだった。

    それでも時々は、こう思うこともあった。「やっぱりマズイんじゃねーの」と。そろそろ東京に腰を落ち
    着けて、定職に就くべきではないのか。真っ当な生き方というのは、そういうものの、はずではない
    のか、と。

    それで性懲りもなく、またネクタイを締めてみたりもした。
    だが今から考えると、採用担当者の方にはまったく申し訳ないのだが、そもそも私は、年齢が幾つ
    になったところで会社員が無事に勤まるような性質の人間ではなかった。

    会社に限らず、少年ギャング団であろうと、老人ホームであろうと、女子修道院であろうと、多くの
    人間が寄り集まり関係を作る場所には必ずつきものの、あのぬめぬめとして嫌らしい、誰もが嫌っ
    ているのに、それでいて避けられない、だからじっと黙って冷笑しているほかない独特の息苦しさ
    に、私はまったくといって耐性が無かった。「協調性に欠ける」と小学校一年生の一学期の通信簿
    に赤で記入された子供、そのままだった。

    東京での最後のサラリーマン時代(それでも1年4ヶ月続いた。私としては最高記録なのである)、
    私は白昼、ふと立ちすくんでしまうことがあった。駅に向かう長い通路で、混み合った昼の定食屋
    で、整髪料の匂いのするエレベーターの中で。突然、なんの前触れもなく、かつて見た旅の断片
    が蘇り、私を驚かせた。

    砂漠にひざまずき西を拝むベトウィンの姿や、ジャングルの朝もやに溶けた太陽の光や、アジアの
    名もないマーケットの喧騒が、私を現実から引き離す。
    首をつたう汗の感触、音、匂い、空気の震え、その場に立ち呼吸していた自分の、五感の全てが
    一瞬にして蘇り、記憶が洪水のようにほとばしる。
    そんなものを、かつて見たという事実さえ、すでに意識の外側にあったというのに。

    身構える暇も、拒否する間もなく、私は何度となく、そうやってアジアやアフリカの村を再び旅した。
    そしてある時、ふと気づいた。
    もしかしたら、これが自分の原風景というものなのかも知れない、と。

    どういうわけか、それまで私は、原風景というのは幼児の目にだけ映るものだと、勝手に思い込ん
    でいた。5才か6才、せいぜい小学校の4、5年までの、やわらかな心でなければ、それに触れる
    ことは出来ないのだと。

    だが例外も、あるのかも知れなかった。
    それが、旅だ。

    考えてみれば、異国を歩く旅人というのは、幼児によく似ている。言葉は喋れず、バスの乗り方も
    知らず、レストランに入っても、何を注文してよいのかわからない。寝る場所も、食べ物も、移動も、
    全てが不安な一方で、目を輝かせて、自分の目の前の新しい世界を見つめている。何を見てもめ
    ずらしく、驚き、感動し、動揺し、バカな失敗を繰り返す。だからこそ風景の全てが、胸に突き刺さっ
    てくる。

    だが原風景というのは、決して現実の景色のことではない。その時、その場所に立って、目前に
    広がる世界を見ていた瞬間の、その人の心のありようのことだ。
    だとしたら、旅に生き、旅に憧れつづけることこそが、私の原風景なのだろうか。

    私は70を過ぎ、ヨイヨイ爺さんになっても、バックパックを背負い原風景を追い求めて歩く自分の姿
    を想像してみる。
    ──おい、おい、ちょっと待てよ、と言いたくなる。
    原風景というものを抱えてしまった人間の、複雑な胸の内を、私は今頃になって、理解し始める。

    ちなみに、私がかつて羨んだ例の友達は、そのご結局は東京で就職した。いまは女でトラブり、
    北海道どころか九州に飛ばされている。
    なかなかうまくいかない。
    おもしろいもんだ。     (了)


         
  ■VOL.3  放浪の果てに山里の仙人になれるか?

    その仙人に出会ったのは、私が例の「激痩せダイエット登山」で、日本海から太平洋まで
    一気に歩き通すという、バカバカしいと言えば、まったくバカバカしい、意味が無いと言えば、
    まったく意味の無い旅に出発して、まだ二日目の時だった。

    旅の記録に詳しく書いたが、マムシにビビッて親不知からの北アルプス突入を断念した私
    は、いったん北に大きく迂回し、今度は糸魚川経由で、そのとき再び山道にさしかかろうと
    していた。

    すでに二日で40キロ以上もアスファルトの上を歩き続け、まだ旅なれない足が、ずきずきと
    痛んでいた。今夜の宿泊予定地である中俣の避難小屋までは、あと3時間半か、4時間
    ぐらいはかかるだろうか。荷物は重いし、おまけにポツポツ雨まで降り出している。

    私は林道にザックを放り出し、ノロノロと雨具を取り出した。いちど地面に座り込んでしまう
    と、再び立ちあがるのがひどくおっくうだった。いや正確に言えば、旅そのものが、すでにし
    ておっくうだったのかも知れない。

    ひどく緩慢な動作で、カッパを着たりスパッツを取り着けたりしながら、私はいま登ってきた
    ばかりの道を、意味も無くぼんやり眺めていた。すると、100メートルほど先のカーブから、
    不意にコウモリ傘が現れた。

    「人だ…」
    なぜか珍しいものでも見たように、私は当り前のことを口にした。ザックがないから、登山者
    ではないだろう。といって、短パンにスニーカーという格好は、林道の工事関係者や地元の
    人間にも見えない。
    年は50前後だろうか、白髪だが贅肉の無い締まった体つきで、仙人かなにかのように軽快
    に坂道を登ってくる。

    「こんにちは」
    10メートルくらいまで距離が縮まったところで、どちらからともなく声を掛け合った。
    「やあ、やあ、どうしました旦那さん、こんなところで」
    仙人はなぜか、私のことを“旦那さん”と呼んだ。そして自分はこの下の最後の部落に昨年
    移り住んできた者で、小さな畑を耕したり、本を読んだりして暮らしている。いまは昼飯前の
    散歩の途中なのだ、と言った。

    文章にすると、ずいぶん唐突な自己紹介だが、この時はこれで特に奇異にも感じなかった。
    私は私で、自分のことを素直に喋った。昨日から太平洋に向かって歩き始めたところで、親
    不知ではひどい目に遭って云々…。なぜか言葉がよどみなく出てきた。

    アジアやアフリカの辺境を旅していると、日本人の旅行者はおろか欧米のバックパッカーに
    さえ何日も会わないことがある。そんな時、まさかこんな場所でと思うような田舎でたまたま
    日本人と出会って、お互い顔を見るなり息せき切って話し込んでしまう。
    そんな経験が、バックパッカーなら一度や二度はあるはずだ。感覚としては、それに似ている
    気がする。

    この山旅で、その後も多くの人に私は出会ったが、この仙人に対してのように最初から自由
    に喋れた相手はいなかった。
    いい歳をして、特に意味もないこんな山旅をしている自分が恥ずかしかったし、いきなりそん
    な話をされたら、短い休みを遣り繰りしている相手が、不愉快になるのではないかと、常に
    恐れてもいた。

    だが彼に対しては、そんな気遣いなど無用だということが、なぜか最初からわかっていた。
    たぶん挨拶を交わした瞬間から。あるいはその前から。

    我々はしばらく一緒に歩くことにした。歩きながらも、多くのことを喋った。
    仙人は54才で、ここに移り住む前は、静岡の方で英語の臨時教師のような仕事をしていた。
    オウム事件の後だったから、他県のよそ者が家をさがすのは大変だった。部落の人の信用
    が得られず、ずいぶん苦労した。でもどうしても、山里に住みたかった。と仙人は言った。

    若い頃から山が好きだった。自分の足で、日本中を歩いた。何年か前までは海外にもよく
    行った。中国を長く旅して、雲南やチベット、カイラスにも行った。

    「…カイラス、いいですねぇ」と私は言った。「自分もいつかは、行ってみたいんですよ」

    20分ほど、そうやって歩いたろうか。ある見晴らしの良いカーブで、仙人はふと立ち止まっ
    た。
    「どうですか、この眺め、素晴らしいでしょう。僕はこの墨絵みたいな景色が気に入ったんで
    す。いろいろ見て回ったのですが、ここに住むと決めたんです」
    深い谷をはさんで、明星山の岸壁が目の前に迫っていた。谷からは雲が湧きだし、岩肌に
    所々立つ濃い緑が雨に煙っている。
    「ええ」
    と私は答えたが、本当を言えば、それを美しいとは感じていなかった。むしろ凛として冷たく、
    厳しいもののように、その風景は見えた。

    それまでの会話で、仙人が一人で暮らしているということは、察しがついていた。結婚はし
    なかったのだろうか。奥さんや子供は、いないのだろうか。あるいは見捨て、見捨てられた
    のか…。さすがにその話題には、触れることができなかった。

    「さあ、さあ、それじゃあ旦那さん、僕は、そろそろおいとまします」
    仙人が言った。
    「それで、もしかして旦那さん、もし昨日みたいに迷うことがあったら、どうぞ引き返して、ウチ
    に寄っていってください。下の部落の一番上ですから。でもきっと、大丈夫ですよ」
    「ええ、もし迷ったら、でもそうしますよ」
    「ええ、ええ、○○と言えば部落の人間はみんなわかりますから。一番上ですから」
    「はい、ぜひそうします。もし迷ったら、きっと寄らせてもらいます」
    「ええ、でも大丈夫ですよ」
    「そうだといいんですが」

    旅のずっと後半になって、この時の会話をふと思い出すことがあった。たぶんゴールが目前
    に迫り、余裕が出たのだろう。どうせなら彼の家に行き、もっと話を聞くべきだったと、後悔し
    た。一泊くらいはなんでもなかった。先を急ぐことより、もっと大事なことがあったはずだ。

    人生を旅に生き、好きな場所に出かけ、好きなものを見る。年をとってからは山里に暮らし、
    小さな畑を耕し、晴耕雨読の生活を送る。それはある意味、理想の生活のはずだ。確かに
    そう思う。
    だがその一方で、彼があの谷の風景を毎日ひとりで見ていると知った時に感じた、恐れに
    も似た感情は何だったのか。

    ひとつ言えるのは、晴耕雨読の山里の仙人には、自分は決してなれないだろうということ。
    60を越えても、70になっても、たぶん一生ムリだろう。
    欲望ではちきれそうな焼肉オヤジだのフェロモンだけで生きているギンギンお姉ちゃんだの、
    どうしょうもなく甘ったれた小悪党だのクズ男だの、そんな連中の中に、身を置いて漂ってい
    なければ、私は安心して息ができないのだ。

    そしてそれは、私の好みの旅のスタイルでもある。

    彼はどんな旅を経て、あの場所に行き着いたのだろうか。
    そしていま、どんな家に住み、どんなモノを食べ、何を感じて暮らしているのか。
    彼のようにはなれはしないと、わかっていながら、なぜかそれが今も知りたくてたまらない。

            
  ■VOL.4  旅先の女 その1 ジェニー〜バリのアル売春ガール  

    男の真っ当な人生を狂わす大きな要因に、“旅”と“女”があることについては、みなさん御
    承知の通りだ。その二つがよりにもよって合体した“旅先の女”が安全であるはずがない。
    これはそんなおはなし。

               *             *            *

    ジェニーは二十歳の中国系インドネシア人で、バリ島のサヌールに住んでいた。
    最初に会ったディスコでは、州都のデンパサールに通う女子大生という触れこみで、俺と
    Hがクタのロスメンに泊まってサーフィンをしていると言うと、「まあ!」と言って驚いてみせた。
    クタは猥雑で汚く、不良が集まる危ない町です、というのである。
    「うん、そうかも知れないけど。でもそのゴチャゴチャした感じが、僕は好きなんです」と俺は
    言った。ああ、これがインドネシアの女子大生というものなのかと、無邪気に感動すらしなが
    ら……。

    ラジオの脚本の仕事で手にした多少の小金を抱えて、その時俺は、2ヶ月の予定で島に来て
    いた。馴染みのクタでサーフィンすることと、小説を一本書き上げるのが目的だった。
    南の島でサーフィンをしながら小説を書く──。
    理想の生活を実践してやるつもりだった。

    話のあった文芸誌の指定では、50枚くらいの短編という注文だったが、俺は最初からそんな
    ものを書くつもりはなかった。
    ──ここは一気に300枚くらいの長編を書いてやる。とにかく中身さえ良ければ、あとはなん
    とかなるだろう。
    正直、乱れに乱れた生活を立て直すチャンスだと思っていた。長編ならそのまま本にできるし、
    生活費の安いバリで、2ヶ月こもって集中すれば、それくらいのことは出来るんじゃないかと、
    なにを根拠にしたのか、勝手に思い込んでいた。

    だが、もちろんそんなわけがなかった。
    島について1ヶ月近くがたっても、小説はさっぱり進まず、ただやたらと健康的に色が黒くなっ
    ただけだった。
    「なんて言うか、リズムがデスクワークに向いてねーんだよな」
    俺はヒマラヤで遭難するアルピニストの話を書いていたのだが、海と太陽とサーフボードは、
    どうやら小説とは両立しないものらしかった。たまに見かける子供連れのカップルが妙に幸せ
    そうに見えたりして、俺はボンヤリと夕陽を眺めたりした。

    Hから連絡があったのは、そんな頃だった。
    Hは中学時代からの俺の悪友で、またナンパの時には常に頼もしい相棒でもあった。「よし、
    ヤツが来たらいっちょう派手にやるか!」──この時まで、俺は掛け値なしに夜は品行方正
    にして小説に打ちこんでいたのだが、それもそろそろ限度だと思えた。
    なにしろ“バリ”なのである。バリと言えば“ビーチボーイ”。ビーチボーイと言えば“ナンパ”。
    俺もそろそろ、やるべきことをやるべきだったのである。

    ジェニーはそのディスコの顔らしく、俺たちと話ながらも、やたらにいろんな奴と挨拶を交わし
    ていた。そうこうするうちに、ジェニーの女友達のひとりとHがくっついた。俺たちは四人でひと
    しきり踊った。

    ジェニーは本当に踊りが好きらしかった。おどけた仕草でこちらを挑発し、愛嬌たっぷりにフ
    ロアの上を飛び跳ねた。ちょっとエキセントリック過ぎるくらいだったが、若くて綺麗な女の子
    が、とにかく自分の目の前でニコニコ身体をくねらせているのだ。俺が楽しくないはずがなか
    った。
    それに実は、俺も踊りがけっこう好きなのだ。ボヴ・マーリーの『ワンラブ』がかかると、俺と
    彼女は歓声を上げ、同時に飛びあがった。お互いこの曲が大好きなのだ。そのことを一瞬
    にして、伝えあった気がした。

    ワン ラブ
    ワン ハート  
    レッツ ゲッツ トゥギャザー フレンド
    フィール オーライ

    熱帯の夜の中に響くボヴ・マーリーの声は、また格別なものがあった。俺とジェニーは歌い
    ながら踊り、踊りながら歌った。
    「これ、これ、これなんだよ。俺が求めてたのは!」
    Hの耳元に俺は大声で話しかけた。奴もワカッテルッてと片手をあげた。奴もヨロシクやっ
    ているようだった。

    実はこのディスコに乗り込む前、俺とHは三軒ほど、サヌールの売春宿をハシゴしていた。
    ハシゴといっても実際に女と挌闘したわけではない。一種の社会科見学のようなものである。
    成り行き上しかたなく、ハシゴしてしまったと理解していただきたい。

    事情は、こんな感じだった。
    長いブランクのせいか、日本人のギャル相手ではいまいち成果を上げられないでいた俺と
    Hは、その日、目標を日本人から地元の女の子に切り換える作戦を立て、顔見知りのビーチ
    ボーイに相談を持ちかけた。
    「なあ、なあ、どっかに地元の女の子と仲良くなれる場所ないかな?」
    「なに、アナタ、インドネシアの女、好きか、それカンタンよ。イクくか? ワタシ案内よ」
    そう言われて、とにかくついて行ってみると、案内されたのは鬱蒼とした森の中に建つバカで
    かい屋敷だった。なんのことはない、要するにただの巨大な置屋だ。

    庭の中央でタクシーを降りると、庭のそここから途端に女たちがわらわらと集まってきた。見る
    と、庭の暗がりのあちこちに、小ぶりなバンガローが建っており、そこが彼女たちの仕事場ら
    しかった。
    気がつくと俺たちのまわりを、40、50人はいる女たちがグルリと取り囲んでいる。そして目が
    合うと口々に「オニッサァ〜ン」「選んで、選んで」「アイ ラブ ユー」などと、疲れと退廃の混じ
    ったネバネバした視線を投げかけてくるのである。

    これには正直、相当に腰が引けた。逆に女たちから輪姦されているような気分だった。とても
    その気になどなれない。
    別に主義主張があってのことではないのだが、Hにも俺にも、いわゆる“オンナを買う”という
    習慣がなかった。とにかくどんなにチャチくてもいいから、それなりに出会いがあり口説きが
    あり、擬似恋愛的なストーリーがなくては、パンツを脱ぐ気になれないのである。まあ単純な
    話、たんに遊び慣れていないというだけのことかも知れないが…。

    「違うんだよ、違うんだよ」──とにかく俺は案内役のビーチボーイにささやいた。「俺がウォ
    ントなのはこういうんじゃないんだよ。仲良くなるってのはつまり、ほら、お喋りしたり、ダンス
    したりさ。そりゃあ、ヤレるに越したことはないけど、こんな風に即物的にじゃなくて、つまり…
    わかるかなぁ」
    「オウ、わかるゥ、わかるね。すぐヤル、ダメね。ムードないよ」
    「そう、そう、そうなんだよ」
    「ヤル前、話すね、ダンスね、OK、レッツゴーよ。アイ アンダースタンドよ」

    そうやって次に連れて行かれたのは、野外ビア・ガーデンつきの、が、しかしやっぱり置屋だ
    った。客の男たちがビールを飲むテーブルに女たちがつき、軽く会話を交わし、話がまとまれ
    ば、庭を取り囲むようにして建っているそれぞれの個室の中に消える。もしどうしても言うなら
    庭の隅でダンスを踊ることも可能だ。
    アバだのクイーンだの、ラジカセから流れてくる20年落ちのヒットソングが、俺の純な心を空し
    くかきむしった。
    「…違う、ちがうんだよぉぉぉ」

    そんな風にして、4軒目にようやく辿り着いたのが、このディスコだった。
    そこで俺とHは、それまでの不調がまるでウソのように速攻で女たちをゲットし、楽しく踊った。
    それも“クタ”と聞いただけで、瞳を曇らすような女子大生とである。
    ──なんだか話がうますぎるかも…
    と思わないこともなかったが、熱帯の夜の勢いの前では、そんな警告のベルなど、イノシシの
    耳にとなえる念仏ほどにも、役に立ちはしなかった。

    「カズ!」
    ジェニーが俺の名前を呼んだ。俺たちは手をつなぎ、フロアーの真ん中に踊り出て行く。
    またボヴ・マーリーが流れ始めた。
                                                    (つづく)


         CONTENTS なぜ旅にはまるのか? 旅の哲学・バックナンバー 


         ホーム日本縦断登山エスニック雑貨店結婚ロード治療室本棚伝言版メール