人間の尊厳と国連憲章 -3-

2013.12.31

*全障研の雑誌『みんなのねがい』に「人間の尊厳を考える」というテーマで12回の連載を1年間書かせてもらっています。1月号の第11回のものです(12月31日記)。

 私が人間の尊厳についてお話しできるのもあと3回になってしまいました。最後の4回で国際社会と国連憲章そして日本社会と日本国憲法をテーマに取り上げて、人間の尊厳がそれぞれに占める地位を確認したいと思います。前回は国際社会を取り上げました。今回は国連憲章です。
 日本国憲法と同じように、国連憲章、というより国連、についての私たち日本人の受けとめ方は非常に高いものがあるように感じます。ところが、国連憲章の中身について詳しく知っている人はそんなに多くありません。むしろ、「国連=正義の味方」という印象が先にあって、したがって日本は国連中心の平和外交をするべきだ(「国連中心主義」)という考え方が一人歩きしているのが実情ではないでしょうか。
 前回(第9回)、人間の尊厳を軸にして見るとき、国際社会には「様々な矛盾・問題が山積している」、しかし「紆余曲折は経ながらも前進していく」と指摘しました。同じことを国連憲章(及び国連)についても確認する必要があります。  国連憲章(1945年)をその前身である国際連盟規約(1920年)と比較すると、人間の尊厳(すなわち人類)の歴史が確実に前進していることを実感できます。
憲章前文の書き出しは「われら連合国の人民は」です。これに対して規約前文の書き出しは「締約国は」です。つまり、両文書はわずか25年の時間を隔てているだけなのに、国際社会の主体は国家から人民へと変わったのです。この変化を生みだしたのはほかでもなく、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念」(憲章前文)です。
 確かに連盟規約も人道的・社会的・経済的な国際協力について規定を設けていました(第23条)。しかし、その主体はあくまで国家でした。人民は国家という主体の行為による客体としての受益者という位置づけに過ぎませんでした。
これに対して国連憲章は、これらの国際問題についての国際協力について定めるのは当然として、さらに「人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励」するための国際協力についても定めます(第1条3及び第13条1b)。そして国連自体が、「人種、性、言語又は宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」を促進しなければならない(第55条c)と定めています。
 しかし、人間の尊厳というモノサシで見るとき、国連憲章には様々な矛盾・問題があることも知っておかなければなりません。矛盾・問題があることを認識することこそが、その矛盾・問題を正し、人間の尊厳をあまねく実現することへの展望へとつなげるもとになります。
 一番大きな規定・制度上の問題は、国連憲章では国際問題の圧倒的に多くの部分について、これらを担当する主体は相変わらず国家であって、人民ではないということです。特に国際の平和と安全(保障)の問題について主要な責任を負うのは安全保障理事会(特にその中心を占める5大国)です(憲章第5章及び第7章)。つまり、国家を主体とする国連憲章は、平和と安全という問題について、人民を主体とする視点がまったく欠けており、国家にとっての平和と安全という視点で貫かれているのです。とても重要なポイントなので、もう少し詳しくお話しします。
民族自決原則については世界史で学んだ記憶がある人は少なくないと思います。人間の尊厳・人権・デモクラシーが普遍的価値として確立する歴史の歩みを背景に、第一次大戦さなかにレーニン及びウィルソンが民族自決原則を唱えたことを皮切りに、人民が自らの国家を持つことを含めて自らの運命を決める権利(人民の自決権)が国際法として確立しました(憲章第1条2)。第二次大戦後に多くの国々が独立を実現したのは人民の自決権行使によるものです。
「国家の自衛権」という伝統的な国際法上の権利も、人間の尊厳に根本を置く人民主権が普遍的になった人類史の中で、その中身が変わらなければならないはずです。つまり、昔は「国家(君主)が自らを守る権利」としての自衛権でしたが、人民主権のもとでの自衛権は、「主権者である人民が自らを守る権利」(人民の自衛権)でなければおかしいのです。
ところが国連憲章は相変わらず国家の自衛権について定めています(第51条)。今日本では、改憲がらみで自衛権・集団的自衛権の問題がきな臭く取り上げられていますが、きな臭くなってしまうのは、国連憲章が昔ながらの「国家の自衛権」という考え方に縛られていることに最大の原因があります。
「人民の自決権・自衛権」からは「集団的」自衛権という「権利」が出てくるはずがありません。なぜならば、人民は自らの運命を自分自身で決めるからこその「自決権・自衛権」だからです。「集団的自衛権」の本質である、他者に頼る、他者に守ってもらうというような他力本願の発想、グルになって他者をやっつけることを正当化するというような弱いものいじめの発想が生まれて来ようはずはないのです。
国連憲章が実現した、人間の尊厳に基礎を置いた規定はしっかり受け継いで将来につなげていく。しかし、憲章が色濃く残している時代遅れな(人間の尊厳にそぐわない)内容については、人類史の流れに即して改めていく。そういうしっかりした視点を持ちたいものです。