平和と尊厳

2013.06.14

*全障研の雑誌『みんなのねがい』に「人間の尊厳を考える」というテーマで12回の連載を1年間書かせてもらうことになりました。この「ミク」のコラムで随時紹介させて貰おうと思います。今回は7月号の第4回です(6月14日記)。

 私の平和についての理解は、時とともに私なりの発展がありました。そして、人間の尊厳という普遍的価値が私の物事の判断におけるモノサシとして確立したとき、平和についての理解も確固としたものとなりました。今回は尊厳というモノサシで平和を考えることの意味についてお話しします。
 長い間、私の平和についての理解は月並みでした。つまり、「戦争対平和」という捉え方です。平和とは「戦争のない状態」あるいは「戦争を否定する考え方」ということでした。また、戦争という物理的・組織的な暴力だけでなく、貧困、飢餓、抑圧などを「構造的暴力」として捉える考え方(ヨハン・ガルトゥング)が提唱されて広まり、私も素直に受け入れました。つまり、平和とは「暴力のない状態」あるいは「暴力を否定する考え方」という理解になりました。
しかし、私はこのような理解に疑問も感じていました。というのは「平和とは何か」という問いに正面から答えていないからです。つまり、平和とは「◯◯が備わった状態」、「◯◯を実現すること」と言えるものでなければならないと思ったのです。
 また、戦争と対立するものとして平和を捉える考え方も実は再吟味が必要です。人類の歴史では、私流の表現を使えば、「力による」平和観と「力によらない」平和観が長い間競ってきました。今日でも、国際関係では権力(パワー・)政治(ポリティックス)に固執するアメリカが推し進める「力による」平和観が主流です。日本でも「日本の平和は日米安保のおかげ」と考える人が今や多数派です。そして、権力政治や日米安保、つまり軍事力(組織的な暴力)の備えがあってこそ平和を保つことができるという考え方の根っこにあるのは、必要ならば暴力を使う(戦争する)という決意です。「力による」平和観では戦争と平和とは対立するものではないのです。
 平和とは何かという問いに対する答は、私にとっていわばコロンブスの卵のようなものでした。私は前に、人類の歴史とは「人間の尊厳という普遍的価値を一人一人の人間にあまねく実現することをめざして歩み続ける歴史」と言いました(第1回)。実はこの中に「平和とは何か」の答がすでに含まれていたのに、私はなかなか気づけなかったのです。それは、私が尊厳と平和とを切り離して別々に考えていたからでした。しかしあるとき、「◯◯」の中心に座るのは「人間の尊厳」であるということにハッと気づきました。言うならば、尊厳と平和とが私の頭のなかでドッキングしたのです。
 もう少し具体的に説明しましょう。尊厳を一人一人の人間にあまねく実現するということは、一人一人のなかに備わっている尊厳の実現を妨げる力を取り除き、その実現のための条件・環境を保証・保障するということです。
人間の尊厳の「実現を妨げる力」はすべて許されてはなりません。戦争も構造的暴力も許されません。障がい者・児がその尊厳を実現する上で妨げとなる「社会の平等な構成員としての参加を妨げる障壁」(「障害のある人の権利に関する条約」前文k項)も、「障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって…他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする目的又は効果を有するもの」(同条約第2条)も許されてはならないのです(訳文は川島聡=長瀬修仮訳(2008年5月30日付)によっています)。
つまり、「力による」平和観は、人間の尊厳という普遍的価値とは根本的に衝突するものとして認められないということです。戦争、構造的暴力、障壁、「障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限」はそういう「力」だからです。「力によらない」平和観だけが人間の尊厳の実現を保証・保障します。
第二次世界大戦の結果、人間の尊厳が普遍的価値として確立したことにより、二つの平和観の対立に最終的に終止符が打たれたということです。今や、国内でこの普遍的価値を否定する政権は国際的に「市民権」が認められません(例:最近までの軍事独裁政権のミャンマー)。これは、人間の尊厳の実現を目ざす人類の歴史が着実に前進していることのなによりの証です。
確かに、すでに述べましたように、今日の国際関係ではなお唯一の超大国・アメリカが大きな力を持っているために、その権力政治(「力による平和観」)が支配しています。国内でも、安倍政権の下で様々なきな臭い言動が絶えません。しかし、人間の尊厳が確立した21世紀においては、国際関係においても日本においても、「力による」平和観は必ず淘汰される運命にあります。私たちはそう確信する確かな根拠(「人類の歴史は自らを誤ることはない」)があるのです。日本政治に即して言えば、日米安保・軍事同盟を肯定する主張、平和憲法を「改正」しようとする主張は「歴史の屑箱」に放り込まれる運命にあることは間違いありません。
人間の尊厳が存在を許すのは「力によらない」平和観だけです。人間の尊厳という普遍的価値と「力によらない」平和観との間の親和性(結びつきやすい性質)は高いと言えるでしょう。