ミクという存在

2013.04.12

*全障研の雑誌『みんなのねがい』に「人間の尊厳を考える」というテーマで12回の連載を1年間書かせてもらうことになりました。この「ミク」のコラムで随時紹介させて貰おうと思います。今回は5月号の第2回です(4月12日記)。

 私には二人の孫がいます。障がいを持って生まれたミクは、長女ののりこの子ども、私にとっては最初の孫です。6人兄弟で育ったこともあってか、私は北京に在勤していたときには、中国人と会うときでものりこをつれて出かけていました(今にして思うと、小学生で遊び盛りののりこがいやな顔もせず、よく付き合ってくれたと思います)。そんな娘に初孫で、しかも女の子のミクだったわけですから、私の喜びは尋常ではなかったみたいです(私自身はそのような自覚症状はなかったのですが、他人様の目にはそう映ったらしい)。とても小さく産まれたこともあり、かなり長い間集中治療室に入れられていましたが、私は時間さえ都合つけば病院に出かけ、のりこがミクの世話をする様子をガラス越しに見て過ごしました。本当に楽しい記憶です。
 ミクが生まれながらに障害があるらしいことは、ほとんど背丈が伸びないことや、主治医の説明を受けるのりこがときおり洩らす断片的な話を通じて、私もだんだんと理解していきました。最終的に診断がおりたのはミクが3歳になってすぐでしたが、私にはかなりこたえたらしくて体調不調に陥り、診断がおりた約半年後のある日突然パニックになり、鬱の診断を受け、数年間治療を受けることになりました。
 そのときから約11年近くになりますが、私におけるミクの存在は大きくなるばかりで、正に圧倒的です。ミクがいなかったなら、今の私はあり得ません。つまり、私が人間の尊厳を、頭のなかでの理解に留まらず、私の中に溶け込むように我がものにし、私がありとあらゆる事柄を判断する際のモノサシとしてごくごく自然に据えるようになったのは、ミクの存在を抜きにしては考えられないことです。
 ミクの診断がおりるまで障がいについてまともに考えたこともなかった私は、はじめは茫然自失といった感じで、ただただミクが不憫でした。正直言って、そういう気持ちは折に触れて今でも私のなかをかすめることがあります。特に、ミクが自分の「小さい」という障がいをハッキリ意識していることは、のりこの観察からも明らかです。「小さいのはいやだ」「(ミクに向けて)赤ちゃんみたいね、と言ってはいけないよ」ということを口にするミクに、私は今もいたたまれない思いをすることがあるのです。
しかし、会うたびに驚かされるミクの着実な発達・成長は、ミクという人間存在の重みを私にずっしりと実感させてくれるものでした。誤解を恐れずに言えば、障がいがあるからこそ確認できる着実、確実な発達であり、成長であるのです。いわゆる健常な子だったら「当たり前」で簡単に見過ごしてしまう発達・成長が、実は大変な、奇跡の連続であり、積み重ねであることが分かるのです。「人間ってなんてすごいんだろう」という実感です。
直感力とか感受性とかが乏しい(要するに鈍感である)ことを自覚している私にとって、ミクが会うたびに私を驚かせてくれる機会がなかったならば、人間のはかりしれない可能性、すごさということを素直に、しかも継続的に実感するということはなかったでしょう。一人の「個」である人間が持つはかりしれない可能性、それこそ尊厳の源です。
ミクにはある意味申し訳ないのですが、ミクがいてくれて、会うたびにぶつかる、何気ない所作としての発達・成長が私を驚かせてくれること自体が、人間のかけがえのなさ、つまり尊厳を、私に不断に実感させてくれてきたのです。広島に住んだ6年間、月に原則1回ミクに会う機会を持つことにした私は、広島に戻る新幹線のなかで、その都度のミクとの出逢いを私のなかに刻みつけ、ミクに驚かされたことを文字として記録し、家に着くとすぐHPに載せることを繰り返しました。それはいわば、ミクを通して人間の尊厳が私のなかで血肉化するための不可欠な作業であったように思います。
前回書きましたように、人間の尊厳は「独立した存在(「個」)であること」を抜きにしてはあり得ないのですが、ミクは正に「個」そのものです。これは、「個」を確立している母親・のりこのもとで育ってきたことが大きいと思います。もう一つ誤解を恐れずに言えば、ミクが「個」をしっかり備えているのは障がいがあることと無縁ではないとも思います。
私は、まったく素人としての印象論なのですが、集団の中にいてはじめて安心感が得られる(「群れる」ことに安住する)日本人が多い一つの大きな原因は、幼稚園時代に始まる集団生活で、「個」を押さえ込むルールにがんじがらめにさせられる環境(日本社会の精神的土壌)にあるのではないかと常々思うのです。幸か不幸か、障がいがあるミクは、そういう集団的ルール、日本社会の精神的土壌からかなり自由なのです。
尊厳と障がいというテーマについては別の機会に取り上げる予定ですので、ここではこれ以上深入りしません。しかし、障がい者・児を排除する厳しい日本社会の環境は、「個」を抹殺する日本社会の精神的土壌に障がい者・児が染まることをも「排除」しているかもしれないというのは、ミクを通じて私が学んだことでした。