日本人の集団行動

2007.10.21

以下の文章は、「みんなのねがい」の連載用に書いたものです。「コラム」にも載せたように、最近は「他者感覚」について考えることが多く、障害者・児の問題についてもこの他者感覚がとても大切だという気持ちがあったので、書いてみました。「コラム」では長すぎると思われる方に読んでいただけたら、と思っています。私ごとですが、10月は仕事の関係でどうしても都合がつかず、広島に移り住んでから初めて、上京することができません。一月に必ず一度はミクと会おうと決めてきたのですが、ついに残念なことになってしまいました。来月は必ず上京するぞ、と今から意気込んでいます。(10月21日記)。

 私たち日本人は、とかく集団行動を好みます。というより、集団のなかにいないと安心できないのです。そして、集団に入らない(と見なす)もの、集団と行動をともにしない(と見なす)ものを疎んじ、いじめ、差別し、時には排除するということにすらなります。ミクのような障害のある子・人は、往々にしてその犠牲になるのです。

娘ののりこが通常学級と心障学級がある小学校にミクを通わせることにしたのも、通常学級の子どもたちが小さいときからミクに日常的に接していれば、そういういじめ、差別、排除の気持ちを育むことなく、ミクをあるがままに受けいれるようになるのではないか、と考えたことも一つの大きな要素でした。

私は、なぜこういう差別や排除が起きるのかと考えることがあります。結局、自己(集団)中心的に物事を考えがちな私たち日本人は、自己(集団)の立場、考えを他者に平気で押し付け、他者を他者としてあるがままに理解し、受け入れ、尊重するという意識(「他者感覚」)の働きが少ないことに原因があると思います。

私たちが他者感覚を自分のものにすることは、自己(集団)中心的な人が多い日本社会を根本から変えるため、特に障害のある人・子どもが尊厳を持った生き方ができるようになるために、とても重要なことだと思います。

他者感覚を養うことは簡単ではありません。「自分が相手(他者)だったら、どうだろう」という程度の努力では、自分をそのまま引きずっているのだから、相手(他者)を理解したことにはなりません。相手(他者)の生い立ち、家庭環境、障害の内容・程度をはじめ、相手(他者)のありとあらゆることをまるごと理解し、できるだけ相手(他者)になりきる努力を不断に心がけることによってのみ、他者感覚を我がものにすることができるのだと思います。

みんなが他者感覚を身につけるようになるとき、日本という国、社会ははじめて本物の人権先進国の仲間入りができるでしょう。