お便りのご紹介

2006.10.27

*ミクのことで気遣ってくださった方が、私がこのページで書いたことに対してアドバイスを寄せてくださいました。とても有り難く、また、励ましになりました。感謝を込めて、ここで載せさせていただきます。

前略、季節の移り変わりを楽しむ余裕のない毎日です。

先生には、ご活躍のことと存じます。

6月に、F地で、教育基本法のお話しをしていただいた時に、「障害者自立支援法を学ぶ」講演会の冊子を渡したSです。あれをきっかけに、先生がホームページで「障害者自立支援法について考える」を書いてくださって、それでどれほどの力と勇気をいただいたか、語りきれません。「NO!」と言ってもなかなか分かってもらえず随分落ち込んでいた時でしたので、分かってくださる方がいるということ、しかもそれが偉い先生だということ(すみません、こんな言い方をして)、発信してくださるということ、何よりもきちんと理論的にまとめてくださって運動に確信がもてたということで、本当に元気が出たのでした。みんなに、あのレポートを広げ、その後、元気がなくなるたびに、あの文章を読み直しては、気持を立て直してきました。もちろん、それ以後も、何ら国は変わらず、とうとう10月、通園施設にも契約制度、日額性、応益負担、実費負担が持ち込まれてしまったのではありますが・・・。

実際に、持ち込まれてみて、恐れていたことではあったのですが、本当にむごい法律であることが、日に日に実感されます。私は、自慢できることではありませんし、けしからんことですが、今迄、あまり政治とか法律とかに、無頓着に生きてきた人間です。障害をもった子どもたちやお母さんと共に生きていくことが本当に幸せだと感じて、この仕事に出会ったことを本当にありがたいと思って生きてきました。福祉とは「幸せづくり」と思うのですが、まさに、出会うものの幸せをも作ってくれることを実感してきました。おこがましいですが、糸賀一雄さんが「この子らに世の光を、ではなく、この子らを世の光に」と言われるように(高谷清著「異質の光」が糸賀さんのことに詳しい)。数年前に園長という職について、子どもたちとの直接の実践ができなくなって、相当落ち込んだのですが、それでも、地域のたくさんの人との共同の力で、どんな障害でも、どんなに重い障害をもっていても、生まれてよかった、育ててよかったといえるような地域づくりをしたい、安心して育ち育てられる地域を目指そうと、1歩進んで2歩下がるようなおぼつかない歩みではありますが、やってきました。

それが、ここに来て、福祉がこわれてしまう、共同が競争に変わって、福祉が福祉でなくなる。  療育に値札がついて、商品になってしまった。許せないし、こんな法律を持ち込ませてしまった私たち業界(?)団体の責任は、とてつもなく重い。結局、育成会などの当事者団体や、施設の団体が、明快にNO!と言わなかったことが、大きな責任です。大きな声にできなかった。なさけないことです。なんか自分の人生を否定されたような気持にもなってしまいます。歴史をふりかえったときに、今がどんな風に評価されるのか、その時代を生きている一人として、責任の重さを感じます。

やっぱり、あきらめるわけにはいかない、子どもたち、母さんたち、働く職員たち、そして、自分の人生のためにも、できることを一つひとつやっていかねばと思っています。きちんと声をあげていかねばと思っています。どうぞ、力を貸してください。

前置きが長くなってしまいました。実は、今日は、自立支援法のことで手紙を書こう、と思ったわけではないのです。あれ以来、楽しみに先生のホームページを時々開いています。ミクさんのページも読ませていただいていて、いろいろ感じることがあって、先生に力をもらった者として、書かなければと思いつつ、どんどん日がたってしまって、とうとう今日になってしまいました。ミクさんにお会いしていないので、的外れな意見になるかと思いますし、先生の考えておられることからそれることかも知れませんが、お許しください。

1.自立について

「依存しつつ自立する」と言うことばがあります。障害をもっているミクさんは、将来、一人で生きていくことは、確かに難しいかもしれません。しかし、考えてみれば、私たちはどうでしょう。一人で生きているでしょうか?「自立」していると思ってはいても、実は、たくさんの人に助けてもらいながら、たくさんの人の力を借りたり、依存しながら、生きています。「人」という文字が表すように、もたれかかりつつ、上を目指して歩んでいます。

食べる事も、着ることも、寝ることも、一人で全部やっているわけではなく、作ってくれる人がいて、売ってくれる人がいて、世話してくれる人がいて・・・。もちろん、その度合いは、いろいろですが、本来、人は、助け合いながら、生きていくもの。じゃあ、自立って何か?

難しいことはさておき、私は、「自立」して生きていくというのは、生きがいや、自分の意思、意見を持ちながら、人と共に楽しく、自分らしく生きていくこと、と思っています。その際に、たくさんの助けや、協力、あるいは障害などで言えば、援助や介助がいるかもしれない。しかし、それは、だれでも、多かれ少なかれあるのです。現に、私にとっては、雲の上のような存在である浅井先生が、お孫さんの事で、悩んでおられる。私にもなにか、できることがあるかもしれない。もちつもたれつです。

そんな風に、考えていったときに、ミクさんにどんな力を育ててやったらいいのかが、少し見えてくるのかなと思います。私たちは、障害をもった子どもたちが、人の指示がわかりそのとおり行うことさえできればいいとは思っていません。たとえ、障害をもっていても、その子らしく、主体的に人生が歩めるような、人と遊んだり生活するのは楽しいという生活を送れるような、そんな力を育てたい。そのための訓練や療育や学習であります。ですから、中身は、子どもの発達や障害の状態に合わせて、しっかりした体作りであったり、遊びや、ことばの学習であったりします。できる範囲の中で、自分のことは自分でできるようにということももちろんです。しかし、大切なことは、単に「できるーできない」というような見方での能力をどれだけ身につけるかということではありません。集団(→社会)のなかでどれだけ互いに自分のもっている力を発揮できるのか、活動できるのか、ということがとても大切です。ですから、具体的にいえば、人の世話をしたり、手伝いなども大切なとりくみです。

障害の種類や程度によって、できることにはもちろん限界があります。でも、考えてみれば、私たち、健常と言われるものも、限界はあります。将来、どれだけの、能力が獲得できているかは、育ててみないと分かりません。まさに「今」の積み重ねでしょう。その結果として、大きくなった時に、たくさんの助けはいるかもしれないけれど、生きがいを持ちながら、自分の意思、意見を持ちながら、人と共に楽しく、自分らしく生き生きと生きていくことができる力を育てていたら、うれしいなと思います。

その時に、Iさんのいわれるような、そんな生き方が受け入れられる社会であらねばならないと思います。ミクちゃんの人生、親でなければ支えられない、そんな冷たい社会にしてはならない。

障害をもっていても、人として、自分らしく生きたいという願いを、きちんと育て、そして、かなえられる社会でありたいと思います。障害をもっていても、子どもには生きていく力があるし、世の中そんなに捨てたものでもないと思うのですが。

そういう意味でも、たくさんの人の力を借りる経験(例えば、親から離れて、お泊りやお出かけをするような体験)を、積極的に取り入れていけるといいと思います。

2.自我の発達について(10月6日のシャワー事件について)

「いや」と言う力は、すばらしい力です。自分でしたい、自分で決めたい、という自我の成長ととらえていいのではないでしょうか。(もちろん、大人からすれば、心配だったり面倒なことですが)こういう時には、選ばせてやることが大切です。自分でしたいという気持を、どう実現させてやるかです。

しかも、ちょっとわれに返った時に、もじもじと、途方にくれていたミクさん、すごいなあ。何とか、折り合いをつけようとする力です。

こういうことを通して、人との間で、自己主張もし、折り合いもつけながら生きていく力を身につけていくのだと思います。

参考になればと、本(加藤先生も、白石先生も、私にとっては、私の仕事を、心理的にも理論的にも支えてくださっている大切な先生です。)を同封しました。少しでもお役に立てれば幸いです。