自己武装(自衛)

2016.4.30.

「基本的人権が自然権であり、いわゆる前国家的権利であるということの意味は、あらゆる近代的制度が既成品として輸入され、最初から国家法の形で天降って来た日本では容易に国民の実感にならない。自然権という考え方は‥原始社会で各人が弓矢や刃物をたずさえて自分の責任で自分の身を護って来た記憶と経験とに深い関係があるのではないかというような気がしてならない(現にホッブスなどの国家論は首尾一貫してそういう仮説の上に組み立てられている)。…豊臣秀吉の有名な刀狩り以来、連綿として日本の人民ほど自己武装権を文字通り徹底的に剥奪されて来た国民も珍らしい。私達は権力にたいしても、また街頭の暴力にたいしてもいわば年中ホールドアップを続けているようなものである。どうだろう、ここで一つ思いきって、全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世帯主の責任において管理することにしたら……。…これによってどんな権力や暴力にたいしても自分の自然権を行使する用意があるという心構えが、‥ずっと効果的に一人一人の国民のなかに根付くだろうし、外国軍隊が入って来て乱暴狼藉しても、自然権のない国民は手を束ねるほかはないという再軍備派の言葉の魔術もそれほど効かなくなるにちがいない。」(集⑧ 「拳銃を……」1960.3.pp.280-281)
「第三点は、すでに前文において日本国民の国民的生存権が確認されているという問題であります。それはさきほどの、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する云々の言葉に続いて、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という表現に表明されております。つまり国民的生存権は、一つは、恐怖と欠乏からの自由を享受する権利であり、もう一つは、国民として平和的に生存する権利であります。‥前文におけるこうした国民的生存権の確認ということが、第九条における自衛権をめぐる解釈の論争のなかに取り入れられているのかどうか、ということであります。国民の自衛権を、そもそも戦争手段による自衛権の行使としてだけ論ずること自体にも問題があると思うのですが、国際法上の伝統的な国家自衛権がたとえ否定されても、この前文の意味における国民的な生存権は、国際社会における日本国民のいわば基本権として確認されていることを見落してはならない。それとさきほど申したダイナミックな国際社会像をあわせて考えると、日本国憲法が、あたかも日本の運命を国際権力政治の翻弄にゆだねているかのように解釈することが、いかに誤解ないしは歪曲であるかはあきらかだと思います。」(集⑨ 「憲法第九条をめぐる若干の考察」1965.6.pp.269-270)
「国民総武装というのはフランス革命からですから。これで雇い兵を破ったんですよ。画期的なんだ。国民の軍隊が国家の軍隊を破ったんです。国民総武装というのは、国民の自己武装なんです。国家が国民を徴用して軍隊を作るのは徴兵なんです。国家の武装であって国民の自己武装ではない。僕は前に小さな文章を書いたことがある、「ピストルを配れ」ということを(「拳銃を……」『丸山集』第八巻)。外国が入ってきた時にどうするか、と。女房を犯されてどうするか、と。そんなに言うのなら、各戸にピストルを配れ。そうしたら婦人も安心して夜間に外出できる、と。襲ってきたらやればいい。正当防衛ですよ。」(手帖56 「「楽しき会」の記録」1990.9.16.p.17)
 「軍隊は国民の独立〔のため〕なんだ。個人の独立なんだ。「立て祖国の子らよ」でしょ。暴虐を懲らしめる国民の軍、‥「市民らよ武器を取れ」なんです。まわりの国がフランス革命を潰しにかかるんですよ、ロシア革命も同じですが。その防衛から始まって、その中からナポレオンが出てきた。あとは侵略で違うんだけれど。」(手帖56 同上p.20)
 「今こそ世界に、憲法にこういうのがあるから採用しろと。僕はこういう条件がかなえば、憲法は第二の条件であって、憲法改正の議論も自由にしていいです、九条も含めていいですよ。その大前提として、国際主義の議論を言わないと、非常に危険だ。
 (「先生が六〇年安保の直後に、憲法九条はこういうことを言っていると思うとおっしゃった。あのことをもっと条文に書くべきだと思うんです」という発言に対して)いや、あの条文には「国の交戦権はこれを放棄する」と書いてあるんですよ。国の交戦権は放棄しているんです。(「しかし、先制の解釈で言えば、政府に対して軍縮を求めるという意味だとおっしゃっていますよ」という指摘に対し)まぁ、その方向性です。(「ダイナミックにこうでなければいけないというのではなくて、ダイナミックにこのことを言っているものと解すべきであるとおっしゃっています」という追及に)それは政治論として。憲法解釈論は違いますね、僕は。憲法解釈論としては自衛隊は違憲です。どう第九条を解釈しても、自衛隊を合憲だと言えますか。「交戦権を放棄する」と書いてあるのは、国家の交戦権を前提にしているわけです。条文について言うならば、今の自衛隊は違憲です。ただ、憲法の前文を引用すれば、前文の趣旨に自衛隊を解釈すればジャスティファイできる。吉田首相は交戦権を否定する意味に自衛権もない、とはっきり言っているんですよ。あれは「国家の自衛権」がないという意味です。‥いつ「国民の自衛権」を否定しましたか。国家と国民の混同の上に成り立っている。‥国家の自衛権と国民の自衛権を区別しなければいけない。そんなことはあり得ないけれど、ソ連がやってきたとしますね。国民が自己防衛するのは憲法は許していますよ。完全に合憲です。ピストル持とうが何をしようが。国家が国家として国家の軍隊を行使してはいけないとだけ、現在の憲法は禁止している。国家の交戦権の禁止は不戦条約‥を拡充したに過ぎない。不戦条約は国策の手段として戦争に訴えることを永久に放棄する、というんです。極東国際軍事裁判の時、なぜ不戦条約が引用されたか。国策の手段として戦争したじゃないか、と。他の国がしなかったかというと、それはインチキですよ。不戦条約に調印しながら、国策の手段でない、と一度も言わないですよ、満州事変以後。条約違反だと言われてもしょうがない。」(手帖56 同上pp.21-22)