国際組織

2016.4.30.

「国連がそのさまざまの欠陥にもかかわらず、国際紛争の平和的処理と諸国の共同目標の達成のために、これまで人類の支払った犠牲と努力の結晶であり、従来のいずれよりも進んだ平和機構であることはいうまでもない。…ただわれわれが忘れてならないことは、国連がその発生の由来と精神から見て、どこまでも諸大国、とくに米ソの協調という地盤の上にのみ、またその方向に進むかぎりにおいてのみ、真の国連でありうるということである。国連憲章が国際紛争のための実質的決議に五大常任理事国(米・英・ソ・仏・中)の一致を要件としている(二七条)のも、平和の実効的な確保がもっぱら大国の協調に依存しているという現実認識に基づいている…。したがって国連の強化ということも、この大国協調という線に沿ってなされねば、却って反対の結果をまねくであろう。その意味では、国際連合の強化を常任理事国の拒否権の制限に求めるような見解は、やや形式論のように思われる。」(集⑤ 「三たび平和について」(第1章・第2章)1950.12.p.31)
「国連ができた前提というものは、もちろん世界戦争の防止です。世界戦争というものは、現在、大国と大国の争いがなければおこりません。あるいは小国の争いに大国が関与することによって世界戦争になる。したがって、大国間の協調が国連の前提であり、同時に目的です。つまり何のために安全保障理事国一般にでなくて、そのうちのいわゆる大国にだけ拒否権を国連が与えたか。それはつまり、大国の協調、具体的には米ソの協調が国連の前提になっているからです。もし国連が、ある大国が他の大国を道徳的に、あるいは政治的に圧迫し、非難するための道具になったとすれば、国連のそもそもの目的に違ってくるというわけです。特別に大国に対して拒否権という特権を与えたということは、小国の立場から考えますと不当だということになりますが、リアルに考えてそうしたのです。…国際連盟のように総会本位にしますと、国連総会のデモクラシーというものはリアルに考えるとおかしな結果になってくる。各政府がそれぞれ一票をもつということですから、グアテマラも一票、アメリカも一票、日本も一票です。つまり、政府の立場からいえば、各政府が一票もつということですが、人民の立場からいうと何億の人民というものは何億分の一しか表現されない。これにたいして別の国の何百万の人口というものはその何倍もに表現されるということになります。必ずしもデモクラシーとはいえません。しかしその問題は別としても、少なくともある大国が集団安全保障のための制裁を、他の大国に適用すれば、形式的には国連の制裁ということですが、実際にはそれは大規模の戦争を意味する。戦争を防止するための国連が大戦争を起すという結果にもなりうるわけです。そういうことを防ぐために「必要悪」として大国の拒否権が認められている。とすれば、拒否権というものは紛争の原因ではなくて結果であります。つまり、拒否権が発動されるようになったのは大国間の協調が破れた結果であって、拒否権を発動したから大国間の協調が破れたのではない。そうすると、拒否権を制限することによっては、具体的には世界平和の問題は解決できない。…もし拒否権を制限し、安全保障理事会は多数決ですべてを決めてしまって、少数は多数に無理に従わせるということにしたらどうなるか。国連は機能しなくなるか、それでなければ世界戦争になるか、どっちかです。それよりも、よろめいて、ぐらぐらしているけれども、すべての大国が国連に参加しているということが、まだしも世界にとってはいいんです。」(集⑦ 「政治的判断」1958.7.pp.325-326)
「国連というのはそもそも米ソの提携の上にのっかっている。冷戦というものを夢にも思ってなかった。悪いのはファシズムだ、と。だからファシスト諸国は国連には入れない。"ピース・ラヴィング・ネーションズ"という言葉があるんです、国連憲章の中に。平和愛好国家の団結が国連なんです。国連は国家が集まっているのではなくて、平和愛好諸国が団結して、ファシスト国家は締め出すという。」(手帖12 「伊豆山での対話(上)」1988.6.4.p.50)
 「常任理事国が拒否権を発動すると何もできないんです、国連は。ですから、僕は本当は国連が主権国家の代表だけじゃなくて人民も代表にした方がいいと思うんですね。アメリカ憲法のようにしたらいいと。上下両院を設けるんです、国連に。上院は主権国家の代表-つまりアメリカの各州の代表が上院でしょ。人民が直接選ぶのが下院ですね、それと同じように。主権国家というのはなかなか強いですから、歴史も由来もあるから、上院は今までのように主権国家。下院は国家にかかわらず人民投票で国連の議員を選ぶ。そういうふうにしたどうか。そして選ばれた議員は国籍を離脱する。辞めればまたどんな国籍にも帰れる。国家の代表じゃないということをハッキリすれば、もう少し国連が強くなる。今は国家代表ですから無理がある。‥今国内で一票の格差が問題になっているでしょ。そのもっと甚だしい例が国連にある。‥国家という枠をはずして国連の選挙区を国境とまったく別につくる以外にないんです。そして人民が直接国連の議員を選挙する。そうすると国連ははじめて本当に強くなって国家に対して-制裁だけじゃなく国連の強化はいろいろありますけれど-もっと強くなる。これは夢みたいな話ですけれどね。」(手帖12 同上pp.53-54)
 「国連をエフェクティブ‥にしようと思ったら、国連を離脱した国連軍を作るほかないんです。ただ、主権国家はなくならないから、軍人が国連軍から脱退した時には、前の国籍に戻すという保証がなければ、ちょっと困ります。
 (「今社会党の中に「ニュー・ウェーブの会」というのができていまして、‥彼らが出したのは、多国籍軍には反対である。あるべきものとしては、国連軍が組織された場合、自衛隊を派遣してはいけない、後方勤務ならいい、医療・通信・運輸、そこまではいい」との発言を受けて)今のままの自衛隊ならちょっと問題だな。それで政府に言明させるわけです。これは軍隊ではない、と言わせる。そうしたら、賛成します。
 (「国連軍が、仮にできたとしますね。理想型として。その場合、武器はどうしますか。」という質問に答えて)その場合は国連の費用で調達すべきです。実際は自衛隊の武器を渡すとするでしょ。国連がペイ〔支払い〕すべきです、理屈から言えば。肩代わりするのはいいんです、主権国家が。特定の主権国家の軍隊ではなく、国連直轄の軍隊、ここが大事なんです。‥「これは日本国家の自衛隊ではない、と理解する」ということでいいんです。そうすれば憲法に違反しない。」(手帖56 「「楽しき会」の記録」1990.9.16.pp.18-19)
「今さかんに国連強化と言うでしょ。国連強化ということは、主権国家をマイナスにすること以外にないんです。実に簡単明瞭なんだ。国際組織が強くなれば主権国家は弱くなる。反比例なんです。ところが誰も主権の問題を言わない。
 主権論はグロチウス以来-ジャン・ボーダンですが-さんざん西欧で議論されてきている。国家主権の限界が言われて、主権概念と訣別しようと言うことは国家論と政治学で半世紀以来いわれてきている。多元的国家論もその中から出ている。ラスキの最初の本["Studies in the Problem of Sovereignty,1977"]が国家主権の絶対性批判なんです。主権を一方では国際的な方向に、一方では国内の社会の自立性の方向に両極分解していって……。それが第一次大戦以後、初めて出てきたんですね。だから解決されていないんですよ。国際連盟という組織自身が画期的なのは、国家主権を初めて制限して、国際組織が国家主権に対して制裁を課するという、今まで考えられなかったことを-現実には一つも実行されなかったのだけれども-少なくとも国際連盟規約に載せたわけですね。
 あれは決して或る国が他の国に対して制裁を課するのではなくて、国際社会が国際社会のルールに違反したものに対して処罰する、それが制裁なんです。…
 湾岸戦争で露骨になった最大の矛盾は、アメリカは世界の憲兵って言うでしょ。半分正しいんですよ、残念ながら。全部否定したら、国際連盟以来の主権国家の制限を全部否定することになっちゃう。だからミッテランもブーブー言いながらもついていくんです。つまり残念ながらアメリカが国際警察を代行しているんです。しかし、そうするとアメリカは世界の超大国ですから、一体どこまでがアメリカのナショナル・インタレストに基づく行動なのか、どこから先が国際社会の利益を代表するのか、全然分からないわけです。ソ連がダメになってアメリカだけの支配になったというのは、半分は正しい、しかし半分は間違っているんです。ブッシュでさえ分かっている。もう一生懸命、国際社会の代行者でアメリカの利益じゃない、と。にもかかわらず主権国家の原理を捨てようとしないから、主権国家の寄せ集めである限り国連は永久にダメなんですよ。」(手帖7 「秋陽会記」1991.11.3.pp.56-57)
「(「以前、国連の上院・下院ということをおっしゃいましたが」)国連が現にあるから、国連を改組するにはどうしたら良いかという文脈で考えたのですが、国連じゃなくてもいいんです。ただ、国連を強化するのが手っ取り早いし、その強化を今までのような主権国家単位の国連ではない、国連自身の主体的な構成要因をプルーラルにしなければ、国連の強化にならないと思います。それには本当は個人まで、つまり個人が直接に国連のメンバーを選挙するというところまでいかなければならないが、これはなかなか難しいです。だからあとは団体ですね。団体が自分たちの利益代表を国家を通過しないで国連に出す。難民問題、公害問題どれ一つとってみても国家では始末がつかなくなっている、みんな国家を超えた問題です。にもかかわらず、アタマの方が非常に遅れていて、また国家の伝統的な力が非常に強いものだから、一方では国家に頼る、他方では国家は始末しきれないでいる。[そういう問題が]溢れていると思うんです。…
 だから、近代の構成者の世界秩序の構成原理じゃなくて、或る意味では中世の復活みたいな、つまり種類の違った世界構成単位の連合体として世界を考える。」(手帖7 同上pp.60-61)
「国際連盟以来の歴史は、理事会中心主義と総会中心主義。国際民主主義の原理から言えば、総会中心主義であるべきなんです。小さな国でも独立国家なら一票。主権国家本位ならそうなるわけです。アメリカはなんじゃということになって、アメリカの国連に対する反感は想像を絶していましたからね、湾岸戦争までは。なまじっかニューヨークに本部があるから。脱退説は多かった。国連の分担金の問題、払えない国が多くて、ほとんどアメリカ、ソ連、日本なんかが出している。国際民主主義から言うと、総会中心主義なんだけれども、総会ではアメリカの言うことがひっくり返されるし、イスラエルは〔採決で〕しょっちゅう負けているから。第一次大戦以後、国際連盟というのは総会中心主義で、デモクラシー。ところが、現実には国際紛争を解決する能力がないと。国際紛争を解決しようと思ったら、国際連盟の中の常任理事国に強い権限を与えなければならない。結局、日本の満州侵略、イタリアのエチオピア侵略に対して国際連盟は何らできなかった。これはアメリカが入っていなかったというアメリカの責任もあるんだけれど。その反省にたって、国連が逆になっちゃって、常任理事国に拒否権という強大な権限を与えてしまった。するとこれは大国中心主義になるわけです。国連の理念から言うと、矛盾するわけです。国連というのは、そういう矛盾をはじめからはらんでいるわけ。大国中心主義と国際民主主義に従った主権国家の多数決によって決めていくという。それが全然解決されていない。」(手帖49 「「楽しき会」の記録」1991.12.22.pp.53-54)
「今度のソマリアでもそうだけれど、国連軍というものの性格がよく分からない。つまり、多国籍軍だから、今のは。多国籍軍と国連軍が一緒である限り、実際にはどこまでが大国の利害にもとづく派遣なのか、それとも、世界秩序の維持という、つまり、警察的な行動なのか弁別できないです。‥多国籍軍というのも、おかしなものだけれど。
国際連盟まで遡ると、地域的安全保障という観念がないんですね、そもそも。安全保障というのは、国連の規定する全般的な安全保障、つまり、国連軍が侵略国に制裁を科すという。地域的安全保障というのが国連にできたのは、妥協の産物なんです。‥日米安保体制というのは、地域的安全保障の名のもとに合理化されている。しかし、実際には軍事同盟と変わりない、地域的安全保障というのは。軍事同盟とどこが違うかと言うと、軍事同盟というのは主権国家の同盟ですから。主権国家を否定しないと、国連の直接の軍隊はできないんです。
 今くらい、日本の絶好のチャンスはないんですよ、そういう意味では。実際、いかなる主権国家も自分の軍隊で軍事的防衛ができなくなっている。‥というのは、戦争手段の破壊力が大きくなっちゃって、手段じゃなくなっている。原水爆になると、なおひどいけれども。使ったら最後というのが出てきた。通常兵器のミサイル攻撃だって、だんだん発達してきて、軍事力そのものが、主権国家が自由に行使できるという範囲をはるかに越えてテクノロジーが発達した。
 僕は国連直接の軍隊というのは、二一世紀になるとできると思いますね。軍隊は将校をはじめ、みんな国籍を離脱して国連に所属する。それが国連憲章違反に対する警察になる。僕は、武力的衝突は、‥起こると思うんですね。だから、やっぱり、国連を強くする以外にない。論理的に言っても、国連を強くすることは主権国家を弱くすることなんです。そうでなければ、国連は、強大な主権国家の隠れ蓑にすぎなくなっちゃう。今のは多分に、そういうところがあるけれど。
 アメリカは、戦後の歴史を見ると、国連を無視してきた歴史なんですね。湾岸戦争以来ですから、国連、国連と言い出したのは。朝鮮戦争は、ちょっと別です。朝鮮戦争はソ連がバカで棄権したから、ああなっちゃったんで。あれを例外とするなら、アメリカは国連を終始敵視してきた。‥裏返せば、アメリカは自分が世界の警察力だという自信があるからね。
 結局、主権国家から直接的な武力行使を禁止しなくても、制限する方向に、だんだんもっていって、国連自身を‥強化する以外にないですね。ただ、今の主権国家のままだと、結局、主権国家が国連軍を派遣することになるから、どうしたって多国籍軍になっちゃうんです。だから、やっぱり、不徹底だと思いますね。
 PKOでも、国連を離脱して本当の国連部隊が現地へ行って治安を維持するということだったら、日本国憲法とも矛盾しないんだ。‥日本の国家が、軍隊を行使するということを禁止しているんで。今のPKOは主権国家の軍隊の寄せ集めだから、それでどうだこうだという問題が起こるんです。国連の軍隊ができれば、軍隊はみんな国籍を離脱すると、日本国憲法の問題にならない。日本国憲法の精神だな、むしろ。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と前文にあるでしょ。国家が直接武力を行使することを禁止するというのが、第九条ですから。これを、ずっと及ぼせばいいわけ。…
 国連の軍隊が本当にできて、これが世界各地の紛争を解決するということならば、日本国憲法の問題は起こらないんです。そうすると、日本国憲法というのは、非常に先駆的な意味がある。つまり、主権国家が国家の手段として戦争を放棄しているわけですから。みんなそれにならえということになるわけです。なかなか、ならないですよ。ならないけれども、その具体的な案としての国連強化。今、国連強化というのがインチキなのは、日本を常任理事国にしろとか、とんでもないんだ。むしろ、常任理事国とかいう制度が、大国中心主義なんです。あれは国連を弱くする。
 戦後の歴史を見ると、国際民主主義でやっているのが総会なんです。これが、大体、アメリカと反対のことを決議して、みんな通っちゃう。いちばん分担金を出しているのがアメリカで、大義名分を言っている小国はカネがないから、全然出さない。だから、アメリカが怒るのも無理はないけれど、その財政をどうするかという大問題があります。
 だから、僕は、〔日本は〕せめて案を出したらいいと思うんだ。例えば、国連の常任理事国、それから総会をやめて上院、下院にして。上院は国家代表にする、なかなか国家というのはなくならないから。下院は世界人民の直接選挙-ただ、選挙区は難しいけれど-にして、当選した国連の下院議員は国籍を離脱する、国家代表じゃないから。国家利益は、上院で、下院は国際秩序-防衛だけでなく、金融とか交通とか教育とか文化とか、国家を越えた-を討議する。ただし、それは個人だけでは無理です。具体的には、NGOを三分の一にする。あとの三分の一を職能代表にする。‥残りの三分の一を個人というぐらいにして下院を構成する。
 下院の方が決定機関で、国際的な武力発動には、下院の三分の二以上の賛成が〔必要である〕と。それで上院-国家代表ですね-の三分の一以上が反対したら、拒否権と同じで、たとえ下院を通過しても、制裁の効力はないと。しょうがない、その時は。両方通過したら、国連が強制力を行使できる。‥これは、国連軍だから侵略もへったくれもない。武力衝突だけを止めて秩序を監視すると。警察みたいなものです。
 まぁ、二一世紀頃だと思うけれど。どうにもならなくなっているんですよ、国家では。経済がいちばんはっきりしているけれども、多国籍企業とか。金融がそうでしょ。通貨がそうでしょ。みんな国家をはみ出して、一国ではどうにもならないところにきている。‥国家はエゴイズムが強いから、僕は主権国家がある限りはだめだと思うんだ。」(手帖42 「丸山眞男先生を囲む会(下)」 1993.7.31. pp.23-26)
「今の国連の根本の矛盾は、主権国家の寄合所帯なんです。あれは決して国際組織じゃないです。だけど過渡的にはしょうがない。主権国家から超主権国家の、つまりグローバルな秩序になる過渡的段階なんです、国連は。その矛盾が最近になって我々の前に出てきたのが、PKO(Peacekeeping Operations)じゃないですか。‥僕も日本がPKOに参加するのは、反対ですよ。反対だけれど、地域的な紛争に対してどこの国にも属しない国連軍が直接制裁をするんだったら、僕は場合によっては賛成しますね。と言うのは、国内だってそうでしょ。国内で暴力沙汰があったら、警察が捕まえたり、いけないと言ったりします。それに反対するという立場もありますよ。けれど我々はだいたい是認しますよ、喧嘩しているんだから。世界がグローバルな社会になったら、その中心の政府が社会的な紛争を平和的に解決しない場合には、その犯人を世界政府が捕まえて裁判に処する。直接処刑をしてはいけない。世界の法廷に付すると。これは僕は否定できないと思う。そういう方向に行くべきです。…
 欧州共同体がいい参考になるんですよ。欧州議会は直接選挙だけれども、限定内で直接選挙をする。国連の場合は直接選挙にすると、選挙区をどうするとか、非常に難しい問題が起こります。しかし、やっぱり国連も今の総会を直接選挙にする。我々が直接国連のメンバーを選挙する。当選した者は国籍を離脱する。いかなる政府にも属しない国連の市民になるんです。それが理想的なんだけれど、そうはいかないから、アメリカをまねて上下両院制にするというのが、僕の考えです。…今までの主権国家はなかなかなくならないけれど、その上の秩序をつくって、それにだんだん、だんだん権力を集中していって、今までの国家の権力を弱めていく。現実にはそうなっているんですよ、多国籍企業とか、一国ではどうにもならなくなっている、全てが。公害がそうですし、難民問題もそうです。みんなどうにもならない。だから条約をつくって各国を拘束する。そういうものをつくればつくるほど、主権国家の自由にできる範囲は狭まって、国際的な秩序の権威が増してくる。そういう方向で国連を強化する。国連を強化することは、主権国家を弱くすること。そういう単純なことが、理解されていない。
 今の国連は主権国家の寄合所帯。極端に言えば、軍事同盟の変形。だから、国連がやっても、どこまでが本当の国連の利害なのか、それとも国連の中で非常に大きな力を持っているアメリカならアメリカの利害なのかがはっきりしないわけです。その根本の矛盾なんです。国連の理念は、と言うと、そうじゃないです。例えばアメリカが国連の条項に違反したとする。そうしたらアメリカに対して制裁を課する権限がある。国連の機構自体が主権国家の寄せ集めになっているから実際にはできないだけで、機構を改めて、加盟国に対して国連が強大な権限を持てば、加盟国が国連の決議に違反したら、ちょうどユーゴに対してやった、あるいはかつて国際連盟の時代には日本に対して-日本は脱退してしまったので脱退国には力がないんですけれど-、あるいはイタリーのエチオピア侵略に対してやったように、制裁は行われるわけです。
 国際連合の前身の国際連盟がはじめて主権国家を超えた秩序をつくった。アメリカが入っていなかったから世界秩序にはなっていなかったけれど、世界秩序を目指す国際秩序が国際連盟ではじめてできた。‥画期的なのは国際連盟の第一六条第四項の制裁条項です。超国家的な秩序が主権国家に制裁を課する。これが画期的な思想なんです。その片鱗を遡ると、中世になるんです。中世は超国家的な秩序が個別的な領主の国家に対して制裁を課することができた。ところが、超国家的な神聖ローマ帝国の影が薄くなって秩序が崩壊して、主権国家万能の時代になった、それが一七世紀です。そこで、主権国家の連合が国際秩序をつくるという常識ができたんです。それまではローマ法王庁と神聖ローマ帝国が、世界秩序を代表していた。主権国家連合ができたのは、非常に新しい。だけど、主権国家連合だから、その時の国際法は主権国家間の取り決めにすぎないんです。条約が取り決めに過ぎなかったから、主権国家に制裁を課することはできない。個人の約束と同じでしょ。それ以上の機関が国際連盟ではじめてできて、この規約に違反したものには経済制裁、経済制裁で効かなければ軍事制裁を課すると。これがそのまま国連憲章につながっている。だから、地域紛争に対して、国連は経済制裁、次は軍事制裁を課する権限を持っている。僕はその根本の考え方は正当だという立場なんです。国連の機構が根本的におかしい。
 今の日本の問題提起が、マスコミ、社会党も含めておかしいのは、日本国憲法を守れという一国平和主義。つまり、一国平和主義対PKO反対という対立になっている。こんなおかしいことはないんですよ。国連至上主義でいいんだ。国連至上主義を貫くためには、国連の機構を根本的に改革しないといけない。日本の国連改革とは何ですか。日本が常任理事国になるなんて、とんでもない。その常任理事国制度自身が、主権国家本位の思想なんです。主権国家の中の有力国家が集まる。つまり、ボスが集まって、ある団体を運営しているということなんです。だから、どこまでがボスの利益で、どこまでが団体の利益だかわからなくなっている。日本政府は国連強化をなぜ打ち出さないのかと。それには国連を根本的に改造する。でもその勇気はとてもない。日本国憲法に合致する方向で国連を改革する。日本国憲法の精神は、一国が戦争をする権利がないということでしょ。国連憲章の精神は、いかなる国も戦争をする権利がないということなんです。国連憲章どころか、一九二八年の不戦条約がそうです。…
 国際連盟ではじめて、超国家的な組織が個別国家に対して制裁を課する〔ということが決まった〕。ちょうど国家が国民に対して法律に違反したら制裁を課するというのと同じ論理です、世界が一つの国家になるということは、そのメンバーに対して世界国家の機関が制裁を課することは当然なんです。戦争がなくなるのがいちばんいいんです。だけど国内でさえ法律がないというわけにはいかない。いわんや国際社会は、なおさらでしょう。」(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.20.pp.23-27)
「主権国家を超えた、強力な暴力装置を持った-つまり、世界の警察をつくらなきゃいけないという主張は、世界的にもないんだな。僕の学生時代には非常にあった。国際連盟の当時ね、世界国家論というのが非常に……。要するに主権国家がいけない、と。主権国家がある以上、暴力装置を独占しているんだからね。戦争というのは-僕らが教わったのは-紛争解決の手段、これが戦争の定義です。だからネゴシエーションで解決するか、暴力的手段を使うのかというのは、折衝が破裂したらしょうがないんだ、紛争を解決するためには。国内だったら紛争を解決するのに暴力を使っちゃいけない。つまり上級権があるからね。人を殺してはもちろんいけない。国際社会というのは、そういう上級権ができない前の段階。だから、解決としては世界国家をつくる以外にないというのが非常に盛んで、H・G・ウェルズなどそうです、あの頃は。
 それができないものだから、まあちょっとリアリズムになっちゃってね。横田[喜三郎]さんなんてのは相当のアイデアリストだったから、その頃は。国際連盟をだんだん強化して、第十六条「この連盟規約に反して戦争をおこなった行為は、連盟加入国すべてに対して戦争行為をなしたものと見なす」だ、と。この規定から制裁が始まるんです。これはどういう規定かというと、初めてそこでワールド・オーダーという概念なんだな。だから一国対一国じゃなくてワールド・オーダーを侵害した、連盟規約に違反した奴に対して。オーダーを維持するために制裁を加えなきゃいけない。それが経済制裁から軍事制裁まであるわけで。初めて、あの時に国際連盟規約第十六条で国家が最高の正統な暴力機関ではなくなったという意味では、画期的な規定なんです。それが国際連合に受け継がれている。
 ところが連盟にはアメリカが入らないしね、つくっておいて。日本とドイツが脱退する-脱退したらその規約は適用されないからね。だから結局は非常に無力だったわけ、そういう意味で。
 ただ満州事変を起こした時は国際連盟に入っていたわけですから、国際連盟の規約を遵守しなきゃいけない国際法上の義務があるわけですよ。遵守しないので-そこは解釈だけれども-満州の軍事行動は国際法違反。自衛権の範囲を逸脱した軍事行動はポーツマス条約でも認められてない。南満州鉄道を防衛するための駐兵権-日露戦争で認められた-を越えた軍事行動は自衛権を越えたことになり、違法の戦争になり、世界の世論はほとんど……。
 だけどまあ、理屈をつけるとその後脱退したからね……。だから国際連盟は東京裁判であまり言われないで、不戦条約です。一九二八年のパリの不戦条約-これは憲法第九条のはしりなんだけど-で「国策遂行の道具としての戦争を否定する」と。それに日本はサインしているわけでしょ。そうすると国策遂行の具として満州に進出するということが不戦条約違反であるということは、いちばん強力な論拠なんだ。[パリ不戦条約の批准に際して]留保してたんですよね。ただし自衛権行使の戦争はこれに入らない、と。だから戦後のアメリカはみんな自衛でもっておかしなこと-国策遂行の具として戦争を使っているんだけどもね。それを留保している。こっけいなのは日本だな。日本もしておけば、自衛ということを国際法的にも言えたのですね。…
 今の国連もユナイテッド・ネイションズでしょ。つまり寄り合い所帯、-国際組織と言えない。国際連盟はなおそうだけれども、国際連合もネイションズがユナイトしたにすぎない。そういう意味じゃワールド・コミュニティじゃないんだ。ワールド・コミュニティをつくり、それが軍隊を持つ、それ以外にない。それでないと結局-具体的にするためには個別的に主権国家の権限を制限していって、それに応じて国連を強化していく。例えば国際裁判所の権限を強化するとか……。つまり、国家間の紛争について個別国家が最終的な判断者じゃなくて、国連が最終の判断者になる、ということを一つ一つ強化して、それだけ主権を弱くして、そういう方法はあると思うんです。
 国連を強くするということは、理念から言えば、主権を弱くするということ。国連が何故無力かと言えば、国家主権が強すぎるから。国連が強大国の道具に利用されるというのも、強大国の主権のためなんだから。だから本当は国連憲章に違反しているアメリカにも制裁を加えなきゃいけない。」(手帖5 「伊豆山座談(上)」1994.8.10.pp.53-55)
「国家権力を制限するには二つ方向があって、国家内の社会団体の自主性を強くすること。それから、そういう社会団体が国家を経ないでグローバルに結びつく。NGO、例えばアムネスティとか。ああいうのがどんどん出て来る。内からと外からと、両方から国家主権が制限されていく。だからどうしても、国連の改組にいくんです。ぼくに言わせれば、国連という名前もダメなんです。ユナイテッド・ネイションズでしょ。ネイション(国家)の集まりなんです。地球組織とは言えないんだな。それが矛盾なんです。バルカン問題とかに無力なんです。軍事の問題だけじゃなんだけれど、結局、軍事になっちゃう。そうすると国連の名においてと言いながら、実際は強国の利害ということになっちゃう。ロシアも相変わらず大きな力を持っていますけれど、主にアメリカとイギリスとフランスでしょ。ある意味で古いんです、国家主権にこだわるという点で。」(『手帖』66 「「丸山眞男先生を囲む会」最後の記録」1995.8.13. p.5)