サンフランシスコ平和条約

2016.4.30.

「個々の点よりなお重大なのは、もちろん今度の講和条約の国際政治的意義であり、それを集中的に表現しているのが、講和条約と日米安保条約の抱き合せである。…日本が長期間にわたり最大の兵力をもって莫大な人的物的損害を与えた当の中国を除外し、剰(あまつさ)えこれを仮想敵国とするような講和とは、それだけで果して講和の名に値するかどうか。…もし今回の桑港会議でアジア諸国の調印を得られなかったら、日本は地理的、歴史的、経済的に最も近い隣人たちから孤立して遠く西欧諸国と友好関係を結ぶという結果になる。…日本の悲劇の因は、アジアのホープからアジアの裏切者への急速な変貌のうちに胚胎していたのである。敗戦によって、明治初年の振り出しに逆戻りした日本は、アジアの裏切者としてデビューしようとするのであるか。私はそうした方向への結末を予想するに忍びない。」(集⑤ 「病床からの感想」1951.10. pp.82-83)
「何かアメリカが自国のインタレストをさしおいて、日本の為を計ってくれるかのように考えて、感謝感激するのは滑稽を通りこして悲劇というほかない…。こうした当然のことを強調するのも、日本人の政治殊に国際政治に対する見方が、恰(あたか)もA国はB国を先天的に好いているとか、C国を先天的ににくんでいるかのように考える女学生的センチメンタリズムを多分に脱していないからである。…「ものの見方」の弾力性にとぼしいことと、一辺倒的行動とは密接な関係があるに違いない。われわれがそうした固定的な思考態度を脱却しない限り、今後何度でも国際政治から手ひどいしっぺがえしを受ける羽目になろう。」(集⑤ 同上pp.83-85)
「一九四八年(昭和二十三年)の七月にユネスコが主体になりまして‥各国の社会科学者に呼びかけまして、‥「平和のために社会科学者はかく訴える」を発表したのであります。‥そして戦争と平和の問題について声明を発表した。そしてその資料がGHQを通じて『世界』の編集長をしていた吉野[源三郎]さんのところへ来たわけです。…十二月に、‥「平和問題談話会」という名称で、非常に具体的な、日本の講和の問題がはじめて取り上げられたわけです。ここで「講和問題についての平和問題談話会声明」というものが発表されました。それが翌一九五〇年(昭和二十五年)の二月に『世界』に掲載されました。…
一九五〇年の二月に発表されました講和問題についての声明は、批判を含めて大きな反響を呼んだわけです。というのは、ここではじめて「全面講和」の要請、それから「中立」-日本の道は二つの世界に対する中立の立場以外にないという考え方-、それからいかなる外国に対しても軍事協定を結ばず、また軍事基地を提供しないという、三つの趣旨がこの声明に盛り込まれたからであります。…おそらく国内においていろいろな立場の学者が寄って、未だ占領下にあった日本の講和問題について、具体的な発表をした最初のものではないかと思います。…
 ところがここでまた新しい大きな要素が日本の状況の中に出て参りました。それは一九五〇年の六月に勃発した朝鮮戦争であります。日本に与えた衝撃というものは、非常に大変なものでした。…朝鮮戦争の勃発は、全面講和、日本の国際的位置は中立不可侵であるべきである、いかなる外国に対しても軍事基地を提供せず、かつ軍事協定を結ばないという、「平和問題談話会」の三つの趣旨に対する非常に重大なチャレンジであったわけです。…九月にようやく東西(東京と京都)の総会でまとめ上げた草稿が発表されました。それが活字になったのが一九五〇年の十二月、‥「三たび平和について」です。」(手帖4 「一九五〇年前後の平和問題」1977.5.25.pp.6-10)
「片面講和・サンフランシスコ条約がどんなに大きな課題を残しているかは、後になればなるほどあきらかになる。イギリスもダレスの提案に反対していたんです。つまりイギリスは人民中国を成立直後に承認し、アメリカは台湾の蒋介石政権でしょ。だからイギリス首相アトリーはワシントンに飛んでいって、日本に選択を強いるのは無理じゃないか、と異議を申し立てたが、反共で頭に来ていたアメリカは台湾を選択し、日本も台湾を正式の中国の代表とした。これが日中の国交の回復をものすごく遅らせる原因になったわけでしょ。
 もう一つは千島問題ですね。サンフランシスコで調印しちゃったからどうにもならない。ソビエトに強硬な主張ができなくなる一つの大きな原因は、あそこで日本は北半分の千島を放棄しちゃったことです。というのはこれはアメリカとソビエトとの間の密約ですからね。それがそのままサンフランシスコ条約に体現されているわけです。それで千島に対する請求権を放棄したのと同様になっちゃった。南千島は別ですけれども-これはいろいろと解釈の余地はあります。僕らが大学で教わった限りは、明治初年の樺太・千島交換条約で全樺太はロシアに、全千島は日本の領土にと国際条約で決めたわけです。ですから条約的に言えば全千島は日本の領土になる、これは侵略でも何でもない。その後侵略した土地とは別だと思う。サンフランシスコ条約で決めちゃったということは非常に負い目になった。
 少なくとも中国についてはどうして留保しなかったのか。日本は直接、中国の何百万人の人を殺し、何億兆だか知らない財産を破壊してるわけですね。蒋介石政権は現実に中国を支配している政権ではなく亡命政権ですから。これは好き嫌いの問題、共産主義が良いとか悪いとかということとは別ですね-国家の承認の問題というのは。、それが当時の状況として不可能なら、日本は対中国に関しては態度決定はできない。二つの大きな連合国の間で、真二つに見解が割れているのに、どうして日本はどっちかを選ばなきゃいけないのか、ということをもっと強く言えた。そうすれば、その後の日本の外交のやり方というのはもっと楽になっている。外交というのはオプション=選択の範囲を拡げた方がいいわけです。自ら進んで台湾を選択したということは、ダレスの威嚇に屈したと言われても仕様がないと思います。僕はそういう意味でサンフランシスコ条約というのは禍根を残したと思います。」(手帖5 「南原先生と私」1977.10.23.pp.19-20)