日本国憲法

2016.4.30.

「バランス・オブ・パワーを平和の条件とする「現実主義」者たちは、中国が米ソに対抗して核実験を強行し、水爆製造への途を歩んでいることをどうして「当然」といわないのだろうか。自分の好まぬ現実をみとめない現実主義! バランス・オブ・パワーという既成観念をつきくずす方向にしか、日本の平和と安全への活路はありえない。しかもそれこそ日本国憲法の理念なのだ。」(対話 p.99)
「この憲法改正に関して我々が緊急に世人の注意を喚起したいと思うのはその実行に当って依るべき手続である。蓋(けだ)し、政府がこの点につき現に採らんとしつつあるやに見えるところはきわめて重大なる問題を包蔵すると考えられるからである。
 惟(おも)うに民主的なる憲法とは決して単にその内容が民主的なるを以て尽きるものではない。真に民主的なる手続即ち、国民の自発的なる意向にもとづき国民の十分なる批判と討議を経て作られた憲法にして始めて民主的なる憲法の名に値いするのである。政府は今次の憲法改正につき、従来政府提出の諸法律案の起草に関して採られたと同様な手続を採らんとするものの如くであるが、もし然りとすれば、改正草案は専ら政府の手によって作られることとなり、後に帝国議会に付議せられるとしても、原案作成の過程に於て民意の作用する余地は極めて局限せられざるを得ない。斯くの如くして成立した憲法は、たとえその内容に於ていかに民主的であったとしても、果して真に民主的な憲法として国民大衆の意識と生活の裡に深く根を下ろし得るであろうか。国民の実質的参与なしに作られ、「与えられた」憲法は、それが他日不当なる圧力による蹂躙の危機に曝(さら)された場合に於て、国民は之を擁護することに幾許(いくばく)の責任を感じ、又幾許の熱意を持つであろうか。我々は民主日本の将来の為に切にこの点を憂うるのである。  …要は憲法改正問題をどこまでも国民大衆の積極的な検討と批判に委ねることを通じて、一は国民の政治意識の向上に資すると共に、一は当来憲法をして能(あた)う限り国民自らの憲法たるの実を具(そな)えしめんとするにあるのである。」(別集① 「憲法研究委員会第一次報告」1946.3~6 pp.81-83)
「権力政治がなお現在でも国際関係を規定する最も有力な因子であることが国民の眼にますます明白になるにつれ、新憲法の理想はますます空虚な無力なものに映じて来た。対立する二大勢力の間に素裸で介在する日本の将来の国際的運命に対する不安が国民を濃く覆うようになった。…そうした国際的危機の激化が色々な階層の少からぬ人々のナショナリズム的感情を刺激した…。日本の国際的安全の確保と新憲法の理想の貫徹との調和を二つの世界からの中立という立場に求めようという動向が有力に台頭した。」(集⑤ 「戦後日本のナショナリズムの一般的考察」1950.7.20.p.109)
「元来、軍事占領下に、しかもその圧力によって民主化を推し進めてゆくこと自体に、たとえ、止むをえなかった事情はあるにしても、それ自体根本的な矛盾があった。なぜかというと、民主主義というものは民衆の下からの自発性と能動性を基盤にし、そのエネルギーを原動力にするのが建前である。ところが、戦後の民主化のための諸改革がいわゆるディレクティブ(指令)とか軍政官の指示のような形で、上から押しつけられてきたために、そこにどうしても不自然なところが出てくる。この不自然さと、それからどの国のいかなる内容の占領に対しても伴なうところの被占領者の心理的な反発、これが結びついて、講和ができたあとにいままで抑えられていた鬱積した不満やいろいろな感情が一度に噴出した。‥特に日本のようなばあいには、なんといっても、いままでの日本国において、長いあいだ教えこまれて当然なこととして通用してきた、ものの考え方なり価値意識からは、ほとんど一八十度の転換がおこなわれたわけだから、それだけ一種の精神的惰性に基づく抵抗感が強いわけである。…問題はそういう社会の底辺で、いわば物理的現象として起こった国民感情に便乗して、それに巧妙に入りまじった形で、いわば人為的な反動が起こっていることである。それがいちばん露骨に現われているのは憲法の問題であろう。すなわち民主的な憲法は、本来、国民がみずからつくるものである。しかるに、無理やりに押しつけられたアメリカ製の憲法を、占領が解除されて独立した今日までありがたがっているとはなにごとだ-といった議論が実に多い。…たしかに制定の経過やいきさつからいえば、現在の憲法が、押しつけられた憲法といわれても仕方のないところがある。しかしだからといって、アメリカ製の憲法だから、当然に内容までまちがっていると判断したり、制定の過程が押しつけだから、内容まで非民主的だと考えるのは、混同と飛躍である。ところがその点がゴッチャになっており、また保守的な政治家や勢力は意識的に、この二つのちがった問題をゴッチャにし、すりかえようとしている。あの憲法に盛られた理念と根本原則は決してマックアーサーがつくったものでもなんでもない。何百年にわたる血のにじむような全人類の努力と闘争の結果、ようやく世界的にその正しさが確認された原則である。現在世界中の国が真っ正面からは反駁できない人民主権と平和主義の根本原理はむろんのこと、その具体化としての、議会制とか、思想・言論・集会・結社の自由や労働者の団結権の保障とか、いろいろの権力濫用の制限規定にしても、人類が非常に長い経験と幾多の挫折を繰り返しながら、ようやくここまで到達してきた成果がああいう形で盛られているのである。われわれ国民がいま、恥じなければならぬことは、むしろ、戦前までそういった自分たちの血と汗でもって獲得しなかったということ、明治の欽定憲法-これもお手本はプロシャだった-このような、えせ立憲制を「与えられて」満足していたということなのである。
 アメリカから押しつけられたことを強調して、国民のあいだの反米感情に媚びようとする動きがあるが、現在あの憲法、特に戦争放棄を宣言した第九条をいちばん厄介視しているのも、同じアメリカであり、したがって憲法改正の動きを内心ほくそえんで待望しているのが今のアメリカの支配者なのである。保守勢力が国民の反米感情を向米一辺倒の目的のために利用しようとしているというこうした事態は、右に述べた自然的反動と人為的反動の関係を象徴的に示しているといってよい。」(手帖11 「復古調をどう見るか」1953.12.pp.30-31)
「(この出来事が戦後史の中で占める位置、あるいは持っている意味)本当は敗戦の直後に民衆の下からの自発的な盛り上がりがあって、その力が新憲法を制定させ、また戦争責任者を追放すべきはずだった。その課題がまさに十五年遅れて出てきた。こういうことが敗戦直後に行なわれていたら、日本の議会政治は、日本国憲法という共通の土俵の上で行なわれていたでしょう。…憲法以前的、つまり大日本帝国的勢力と考え方が根強く残っている限り、人民主権という世界の常識が政治の現実の上ではなかなか常識にならず、むしろこの数年の政府のやり方にあらわれているように、憲法が邪魔者扱いされる。これでは共通の土俵はできません。
 ルール・オブ・ロー(法による支配)は基本的には権力に対する歯止めであるということが見失われてしまい、政府の行為に法の衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるような考え方が、日本には少なからずある。…既成事実を作って、法をそれに合わせて解釈しさえすれば、一時的に世論は沸き立とうとも、結局はまあ仕方がないということになって事態が収拾されていくような悪例が積み重なってきたところに、岸〔信介〕政府にあのような強行採決を決意させた遠い背景があった。だから、まさにここにおいて、大日本帝国やナチスドイツ的な法治主義と、民主主義のルール・オブ・ローとの区別を明らかにしなければならない。その意味では、これだけ激しい抵抗が起きたというのは、日本史上初めてといっていい画期的な事態だと思うんです。」(集⑯ 「新安保反対運動を顧みる」1960.7.pp.341-342)
「日本国憲法は最高の法規である。これが権力を制約するんだということで、それがルール・オブ・ローである。だから八・一五の画期的転換というものは、その意味で官憲主義から「法の支配」への転換の筈(はず)であった。それが日本国憲法に象徴されている。ところが‥あのときの革命は、上からの革命であった。占領軍の押しつけにより日本国憲法ができた。ただ、押しつけというのは支配層に対する押しつけだったということだ。そういう押しつけられた憲法ではあるけれども、諸々の民主化政策の結果が、この十五年の過程を経てずっと下に滲透していった。民主化には六・三・三・四制教育とか労働立法とかいろいろなものを含むのだが、その最高の表現が日本国憲法である。その民主主義の原理というものが、とにかくはじめは上からきたものではあるけれども、それが十五年の過程を経て国民の間に滲透していった。…
 つまり上からの憲法が、この(安保)闘争を通じて下からの憲法に変わってゆく。これは、日本の歴史においては画期的な転機なのである。その意味で、この闘争を通じて、はじめて日本国憲法は単なる条文ではなく、われわれの行動を通じた血肉の原理になってゆく。…日本国の進路をわれわれ自身の手によって切り開いてゆく。日本の国内政治、国際政治のゆき方を、国民自身がきめてゆく。これがまさに人民主権であろう。」(集⑧ 「安保闘争の教訓と今後の大衆闘争」1960.7.pp.337-338)
「岸内閣は、民主主義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民主政治のあらゆる理念と規範を脱ぎすてて、単純な、裸の、ストリップの力として、私たちの前に立っております。
 してみれば、‥あの夜(五・一九)起ったことを、私たちの良心にかけて否認する道は、ちょうどこれと逆のこと以外にはないでしょう。すなわち、岸政府によって脱ぎすてられた理念的なもの、規範的なものを、今こそことごとく私たちの側にひきよせて、これにふさわしい現実を私たちの力でつくり出して行く、ということです。もう一度申します。事態はいちじるしく単純化されました。わが国民主主義の歴史における、未曾有の重大な危機はまた、未曾有の好機でもあります。これまで、戦後に、ばらばらに、また時間をおいて登場してきたイッシュー、護憲問題とか、基地の問題とか、勤評問題とかいった形で、散発的に問題にされてきたことは、ここで一挙に凝集しました。ちょうど今まで、自民党政府、岸政府によって、個別的、断片的になされてきた民主主義と憲法の蹂躙のあらゆる形が、あの夜に、集中的に発現された。それによって、一方の極に赤裸の力が凝集したと同時に、他方の極においては、戦後十数年、時期ごとに、また問題別に、民主主義運動のなかに散在していた理念と理想は、ここにまた、一挙に凝集して、われわれの手に握られたわけであります。もし私たちが、十九日から二十日にかけての夜の事態を認めるならば、それは、権力がもし欲すれば何事も強行できること、つまり万能であることを認めることになります。一方を否認することは他方を肯定すること、他方を肯定することは一方を否認することです。これが私たちの前に立たされている選択です。
 この歴史的な瞬間に、私たちは、外国にたいしてでなく、なによりもまず、権力にたいする私たち国民の安全を保障するために、あらゆる意見の相違をこえて手をつなごうではありませんか。」(集⑧ 「選択のとき」1960.8.pp.349-350)
「私はこの復性復初、ものの本質にいつも立ちかえり、事柄の本源にいつも立ちかえるという、このことを今日の時点において特に強調したいと思います‥。なぜ初めにかえることが必要か。言うまでもなく、日本国憲法の基本原則にかかわる問題であるからであります。議会政治のレーゾン・デートルにかかわる問題であるからであります。…日本には、存在するものはただ存在するがゆえに存在するという俗流哲学がかなり根強いようであります。…少なくも何故存在する価値があるかということを不断に問題にする意識が乏しいように思います。…
 初めにかえるということは、さしあたり具体的に申し上げますならば五月二十日にかえれ、五月二十日を忘れるなということであります。…五月二十日の意味、その意味を引き出せ、その意味を引き続いて生かせということです。…五月二十日の意味をこういうふうに考えますと、さらにそれは八月十五日にさかのぼると私は思うのであります。初めにかえれということは、敗戦の直後のあの時点にさかのぼれ、八月十五日にさかのぼれということであります。私たちが廃墟の中から、新しい日本の建設というものを決意した、あの時点の気持というものを、いつも生かして思い直せということ‥であります。」(集⑧ 「復初の説」1960.8.pp.351-358)
「(五月二十日に帰れということは、遡れば敗戦の八月十五日にかえれということになるといった意味をもう少し註釈してくれませんか、という問いに対し)これも、今日の問題意識に立って、十五年前の日本をもう一度ふりかえって見ると、逆に今日立っている地点の歴史的意味がヨリ鮮明になると思っただけのことです。たとえば今日しばしば、議会政治には共通の土俵、あるいは基盤が必要だ、それなのに自民党と社会党は離れすぎている、だから議会政治がうまく行かない、といわれていますね。…(しかし)共通の基盤の原理は日本国憲法以外にはありえないでしょう。そう考えてこの十五年の歴史をふりかえって見れば、少くも朝鮮戦争前後から政界・官界・財界のパワー・エリートに、どんなに日本国憲法以前的な、その意味で本来議会政治の土俵からはずされて然るべき勢力とものの考え方が復活して来て、今日では当然のような顔をしておさまっているかが明らかになります。…この根本のところを無視して、議会政治の共通の基盤を語ることはできない筈(はず)です。」(集⑧ 「八・一五と五・一九」1960.8.pp.362-363)
「第九条の規定には、‥思想史的意味が含まれている‥。第九条、あるいはこれと関連する前文の精神は政策決定の方向づけを示している‥。…第九条は‥現実の政策決定への不断の方向づけと考えてはじめて本当の意味でオペラティヴになる‥。したがって憲法遵守の義務をもつ政府としては、防衛力を漸増する方向ではなく、それを漸減する方向に今後も不断に義務づけられている‥。根本としてはただ自衛隊の人員を減らすというようなことよりも、むしろ外交政策として国際緊張を激化させる方向へのコミットを一歩でも避け、逆にそれを緩和する方向に、個々の政策なり措置なりを積重ねてゆき、すすんでは国際的な全面軍縮への積極的な努力を不断に行なうことを政府は義務づけられている‥。したがって主権者たる国民としても、一つ一つの政府の措置が果たしてそういう方向性をもっているか、を吟味し監視するかしないか、それによって第九条はますます空文にもなれば、また生きたものにもなる‥。」(集⑨ 「憲法第九条をめぐる若干の考察」1965.6.pp.261-263)
 「第九条と憲法の前文との関連の解釈について注意すべき個別的問題点(に関して)、憲法の前文に、日本国民は「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、(中略)自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあります。この言葉はまさに「そもそも国政は……」以下の人民主権原則の宣言への導入部を占めているのですが、ここには戦争というものが、経験法則に照らして見ると、直接には政府の行為によって惹起されるものだという思想が表明されております。すなわち政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起らぬよう、それを保障するということと、人民主権の原則とは密接不可分の関係におかれている。もちろん、人民主権が確立さえしていれば戦争は起らぬというような単純なことはいえない。ただ過去の多くの戦争の歴史的経験から見て、単に形式的に政府が戦争の主体であるというだけでなく、政府の政策決定-これがつまり政府の行為によりということです-が少なくも直接的な戦争の起動力であり、反対に人民がまったく自発的に戦争を欲し、自分のイニシアティヴで他国に戦争を起したという例は、あまりきいたことがありません。その意味で政府が起す戦争で、勝利の場合にさえ、民衆はむしろ戦争の最大の被害者であるといえるわけです。とすれば、政策決定の是非に対する終極的な判定権というものが人民にあるという、人民主権の思想、‥政策決定によってもっとも影響を受けるものが政策の是非を最終的に判定すべきであるという考え方というものは、まさに戦争防止のために政府の権力を人民がコントロールすることのなかにこそ生かされなければならない。それが前文の趣旨であり、ここに第九条との第一の思想的関連性というものを考えてよいのではないかと思います。しかもその意義は現代戦争においてますます痛切となって来ております。
 …すでに第二次大戦における、都市への無差別な空襲、艦砲射撃、ロケット攻撃、そうして原爆投下に象徴されておりますように、戦争はいよいよ戦闘員間の戦争に限定されず、かえって一般非戦闘員の損害が飛躍的に増大している。…日本国憲法が、政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこらぬよう、人民主権原則を確定すると言っているのは、もちろん直接には、第二次大戦の経験が背景になっているわけですが、そこにはもっと広く現代戦争の傾向をふまえた思想的意味を読みとることができると思います。」(集⑨ 同上pp.263-267)
 「前文との関連において、注意すべき第二点は、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という一節であります。…しばしば誤解され、また意識的に歪曲して解釈されているので、念のために付け加えておきます。というのは第一に「平和愛好諸国民の公正と信義に信頼する」ということを他の国家に依存するということと往々ゴッチャにした解釈があります。日本語ではピープルとネイションとステイトといった区別があまりはっきりしないこと、言葉だけでなくものの考え方のうえで、機構としての国家と民族共同体を同一視する習慣があること、更に人類普遍の理念とか国際主義という意味がとかく日本のそとにあるものというイメージを伴い、そこからしばしば他国や特定文明(たとえば西洋文明)の崇拝と混同されること、によって一層上のような誤解が根付きやすい。けれども上の言葉の思想的意味は、それにすぐつづいて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と結んでいることとの関連で考えれば明らかです。ここに基底をなしているのは「人間相互の関係を支配する」普遍的理念に立った行動を通じて、日本国民はみずからも平和愛好諸国民(ピープルズ)の共同体の名誉ある成員としての地位を実証してゆくのだという論理であり、その方向への努力のなかにわれわれの安全と生存の最終の保障を求めるという決意が表明されているにほかなりません。その思想と、特定の単数または複数の他国家に日本の安全と生存をゆだねることとの距離はあまりにも明確です。…この普遍的理念へのコミットから出て来るものは、‥日本がそういう国際社会を律する普遍的な理念を現実化するために、たとえば平和構想を提示したり、国際紛争の平和的解決のための具体的措置を講ずるといった積極的な行動であり、そういう行動に政府を義務づけているわけです。…
 ‥さらに日本が名誉ある一員たる地位を占めるべき国際社会というものが、この前文ではどういうイメージで描かれているかを考えねばなりません。それはこの憲法の国際主義の性格に関わることです。つまりここでは現実のパワーポリティックス、およびパワーポリティックスの上に立った国際関係が不動の所与として前提されて、このなかで日本の地位が指定されているのではない。むしろここで前提されているのは「専制と隷従、圧迫と偏狭」の除去に向って動いている、そういう方向性をもった国際社会のイメージであります。このイメージが、「国際連盟規約」以来問題になっておりますところの国際社会の構造の平和的変更(ピースフル・チェンジ)の課題に連なります。具体的には植民地主義の廃止、人種差別の撤廃、そういった方向に向っている国際社会ということになります。したがって、ここで日本がコミットしている国際主義は国際社会の現状維持ではありません。むしろそうした現状維持の志向に立っているのは、権力均衡原理です。この前文は植民地主義の廃止、あるいは人種差別の撤廃といった問題を平和的に実現する使命を、日本に課しているということになります。」(集⑨ 同上pp.267-269)
 「第三点は、すでに前文において日本国民の国民的生存権が確認されているという問題であります。それはさきほどの、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する云々の言葉に続いて、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という表現に表明されております。つまり国民的生存権は、一つは、恐怖と欠乏からの自由を享受する権利であり、もう一つは、国民として平和的に生存する権利であります。‥前文におけるこうした国民的生存権の確認ということが、第九条における自衛権をめぐる解釈の論争のなかに取り入れられているのかどうか、ということであります。国民の自衛権を、そもそも戦争手段による自衛権の行使としてだけ論ずること自体にも問題があると思うのですが、国際法上の伝統的な国家自衛権がたとえ否定されても、この前文の意味における国民的な生存権は、国際社会における日本国民のいわば基本権として確認されていることを見落してはならない。それとさきほど申したダイナミックな国際社会像をあわせて考えると、日本国憲法が、あたかも日本の運命を国際権力政治の翻弄にゆだねているかのように解釈することが、いかに誤解ないしは歪曲であるかはあきらかだと思います。」(集⑨ 同上pp.269-270)
「前文と第九条との思想的連関を全面的に考察するには、さらにそこに含まれた理念の思想史的な背景にまで遡らねばならないでしょう。これはサン=ピエールやカントからガンジーに至るまでの恒久平和あるいは非暴力思想の発展の問題であり、日本の近代思想史においても、横井小楠などからはじまって、植木枝盛、北村透谷、内村鑑三、木下尚江、徳冨蘆花などへの流れがありますし、さらに現実の社会運動にあらわれた思想としてはすでに明治三十四年の社会民主党の綱領に明記された軍備の全廃の主張とか、それと関連した『平民新聞』の日露戦争中の宣言-「人種の区別、政体の異同を問はず、世界をあげて軍備を撤去し、戦争を禁絶する」宣言など、いろいろな形態の表現を第九条の思想的前史として追うことができます‥。ただ、この点で、日本国憲法の成立に直接関連した、制定当時の思想的背景を一言だけ申し上げたい。
 というのは第九条がほとんどリアクションなしに受け容れられたのは、戦争に懲りた直後だからで、あまり戦争の惨禍がひどくてなまなましかったから、その実感からほとんど無反省に、先き行きのことなど考えないで第九条を受け容れたというようにいわれます。そういう面が少なくなかったことは否定できません。しかしそれがすべての物語であったというといいすぎです。たとえば、昭和二十年十一月二十四日の官制で「戦争調査会」が設置され、その第一回の総会が翌年の三月二十七日に開かれました。‥幣原さんは首相としてこの調査会の総裁になっていたわけでありますが、こういう挨拶をされた。「先般政府の発表いたしましたる憲法改正草案の第九におきまして」といって、後の第九条になった趣旨を読み上げ、「斯(かく)の如き憲法の規定は、現在世界各国何れの憲法にもその例を見ないのでありまして、今尚(なお)原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは、夢の理想であると考える人があるかもしれませぬ。併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。若し左様なものが発見せられましたる暁におきましては、何百万の軍隊も、何千隻の艦艇も、何万の飛行機も、全然威力を失って、短時間に交戦国の大小都市は悉(ことごと)く灰燼に帰し、数百万の住民は一朝皆殺しになることも想像せられます。今日われわれは戦争放棄の宣言を掲ぐる大旆を翳(かざ)して、国際政局の広漠たる野原を単独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し、結局私共と同じ旗を翳して、遙か後方に踵(つ)いて来る時代が現れるでありましょう」と、こう言っているわけです。‥ここに現われている思想は、すくなくも敗戦に虚脱状態になった意識、あるいは、戦争の惨禍の直接的な実感、から出た第九条の無抵抗な受容でもなければ、また、のちの吉田首相の著名な国会答弁に現われた考え方-自衛戦争ということも、過去の経験では侵略戦争の口実に使われることが多いから、むしろ自衛戦争も含めて一切の戦争を放棄した方がよいという考え方-でもありません。‥幣原さんの右の思想は、熱核兵器時代における第九条の新しい意味を予見し、むしろ国際社会におけるヴァンガードの使命を日本に託したものであります。」(集⑨ 同上pp.270-272)
「私は八・一五というものの意味は、後世の歴史家をして、帝国主義の最後進国であった日本、つまりいちばんおくれて欧米の帝国主義に追随したという意味で、帝国主義の最後進国であった日本が、敗戦を契機として、平和主義の最先進国になった。これこそ二十世紀の最大のパラドックスである-そういわせることにあると思います。そういわせるように私達は努力したいものであります。」(集⑨ 「二十世紀最大のパラドックス」1965.10.p.293)
「憲法が空洞化されたとよくいいます。確かに空洞化の傾向は否定できない。しかし、もし憲法を擁護したいという気持、国民の間に広がっている感情および感情の上にのっかった組織、そういう見える力、及び見えない力の牽引力がなかったならばどうか。現在よりもはるかに憲法の空洞化は進んでいたでしょう。もしかしたら、保守党の綱領にちゃんと書いてある憲法の改正も行なわれたかもしれない。現在の状況がいいとか、満足しろというわけではありませんよ。政治状況をどうみるかという認識のしかたを問題にしているんです。政治的な磁場は何をもって構成されているか…。無数の磁場の働きの中で全体的な政治状況は進展している。そう見ないと、いわゆる全く絶望的な悲観論に陥る。‥非常に複雑な政治的な磁場で構成される。その磁場で無数の圧力を受けながら、しかもその力の算術的な合計ではなくて、いわば「積分」によって実際の政治というものは動いている。日本の政治状況だけでなく、世界の政治状況は全部そういうもので、楯の両面を見なければいけない。」(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.p.106)
「日本国憲法第九条というのは非常に革命的な大きな意味を持っている。国家の手段として、国策の手段として戦争を放棄する、と。戦争がまだ手段として使えるということを、日本が先がけて放棄したわけでしょ。これは世界に誇れる。他の国にはまだ旧来の戦争概念があるから、平和と戦争を自由に選べる、と。しかし戦争を選んだら核戦争になりますから、おしまいですから、戦争はもはや国家の手段としては選べない-現実には。現実にはそうなっているにもかかわらず、アタマの方が遅れている。
 日本は由来からすれば押しつけられたのかも知れないけれど、憲法第九条は、現代の戦争の性質というものを先取りして放棄している。日本が世界に政治的に誇るべきものがあるとしたら、僕は憲法第九条だと思います。逆の考えをとってみて、日本が核を持つと考えると、いったいどれだけ核を持ったら安全になるのか。本当にバカバカしいんです。…日本が一発や二発核を持って、それで日本の安全が保障されるとしたら、こんな滑稽な話はないわけですね。そこのところがまだ世界中で分かっていない。日本は唯一の原爆被災国であるということの意味をもっと活かさなきゃいけない。世界に胸を張って、何とお前たちはバカなのだ、と言わなければいけない。核兵器は通常兵器の延長の上に、ただ強力な兵器ができたぐらいに考えられている。もはや戦争というのは国家の政策の手段にならないんだ-その精神が第九条に現れている。絶対平和主義-国家の安全の手段として武器を持つことを放棄しているというのは、そういう精神の現れです。この精神というものを非常に先取りしている。むしろ世界に向かって、現代の戦争の意味というものを照らし出している。"負けたから仕方がない"あるいは"押しつけられた"と言って、変にいじけている方がよほどおかしい。逆にアメリカ、ソ連を見てごらんなさい。あれだけ強大な軍備を持って国家の安全感というものがほとんどない、ということを逆に考えてみたらいい。」(手帖7 「丸山先生と語る会-岩手県東山町-」1977.10.22.pp.8-9)
「「戦後民主主義」の世界におけるヴァンガード的な理念はなにかといえば、私は憲法第九条がまさにそうだと思います。これはもうヴァンガードです。だって国家の定義を変える意味が含まれていますからね。今までの国家の定義だったら、日本憲法は日本は国家ではないといっているんです。つまり武装しない国家は歴史的に言ってこれまでないわけです。だから、外国が攻めてくるとお手あげじゃないかとすぐいいますね。日本が新憲法の理念をかざして、お前の方こそ古い観念にしがみついているんだと、列強に精神的攻勢をかける以外にないんです。しかも現実に、国家の定義を変えていく条件は熟してないかといえば、熟しているんです。アメリカとソ連は相手の国を完全に破壊するのに必要な核武装の何十倍の核武装をもっているんです。それでもなおナショナル・セキュリティを保障できないということは、今や核時代に入ると、武装力がかつてのように国家を防衛する機能をもたないということを暴露しているわけです。だから両国ともSALTで一生懸命になってる。軍備は相対的ですから、競争になれば、これで安全という限界はない。結局、実際の必要の何十倍の核をもつというバカバカしい結果になっているわけです。そうすると軍備にたよって国の安全を守るという観念が実は古くなってしまっている。われわれの思考のほうが現実よりはるかに遅れている。むしろ憲法第九条というものは、非常に前衛的な意味があるんですから、それを掘り下げたらいいのです。戸締まりがなくてどうするのか、ときかれたら、じゃあ、どの位戸締まりをすれば安全なんですか、と逆にききかえせばいいんです。最強の軍備をもった米ソ自身が弱っているんです。」(集⑪ 「日本思想における「古層」の問題」1979.10.pp.216-217)
(「先生は国民的生存権と言われています。国家の自衛権とは別に国民の自衛権-人権としての、という考え方ですね」という質問に対し)「そういう考えですね。僕は国家と国民とは区別するという……。政府に対しても、外国に対しても。‥つまり治者に対して国民が武器をとっても抵抗する権利-僕はそれも基本的人権だと思いますね。
 ただ、論理的に言うとそうだ、というだけであって、‥つまり日本国民が国民としてまとまって独立して生存するということを抹殺する権利は、他のいかなる国家及び国民にもないということ。そういう意味で日本国民の基本権ではないでしょうか。
 結局、あらゆる権力に対してだから、国民の自己武装権ですから、自国の政府が例えば基本的人権を侵し、そして法の支配を抹殺したときに、人民は武力をもってしても、その政府を倒す権利があると、僕は思いますね。
 (「外からの侵略に対して武装抵抗も可なり、と」との質問に対し)可なり、というか、原理的にはあり得る。ただ政策的にどうか、ということは別問題です。例えば、そういうことをやっても有効でないとか、逆に権力に利用されるとか-それも現実的な考慮でしょ。そのレベルで考察されるべき問題です。つまり外国からの支配と権力からの支配とを同じレベルで見る、というのが基本なんです。‥
外国の権力に対する抵抗と同時に自分の国の権力に対して-もちろん自分の国の権力が法の支配を侵したときには、したがって、或る意味には無政府状態に戻っちゃうわけで、ホッブスの言う自然状態です-あらゆる手段をもって自分を守る以外にない。つまり法を逸脱した権力は暴力である、という基本的認識を持たないと話にならないんだな。どうして政府が権力を行使できるんですか。アレは正当な法の手続きによっているからギャングの暴力と区別されるのであって、正当な法秩序によらなければアレは単純暴力なんですよ。法の手続きを逸脱した瞬間に。
その場合に次の問題は、単純暴力に対して無抵抗主義でいくか、それとも、こっちも暴力を含むあらゆる手段で自己防衛するか、ということはなお残る。これはトルストイの問題だ。僕もトルストイに組したいけれどもね。これが本当の無抵抗主義の問題になってくるんです。
何のために政府に服従するのかというのは社会契約説の根本問題なんです。われわれはどうして政府に服従する義務があるのか、という問題ですね。つまり、人民の間で契約を結んで‥各人から自然的暴力の行使権を取り上げて、いわば国家に集中させる。そのかわり、国家がひどいことをしちゃいけないからルール・オブ・ローで暴力の使用を厳重にチェックする。何のためかといえば、自分の個人の権利を保証するためですから、その暴力が侵害したら解除されちゃう-社会契約が解除されちゃうから何やってもいいということではなく、-原理的には。」(手帖2 「丸山眞男を囲む 或る勉強会の記録(下)」1981.6.16.pp.62-63)
「その当時の権力を握っていた層が大体どんな考えを持っていたかは、最初の(憲法の)政府草案を見てもわかるわけです。マッカーサー草案が出たときに僕らがびっくりしたといいましたが、彼らにとってはその何倍もの、想像を絶する困惑なんですね。ですから、新憲法は彼らの実感にとってまさに「押しつけ」であって、のちの改憲というのは、それを本音に近いほうに戻すという動きなんです。…
 支配層にとっての戦後の憲法問題は、三段階あると思います。第一期が、占領軍がいるから甚だ不本意であるが忍従するという、忍従期。第二に、改憲企図期、第三が、既成事実容認期、たとえば、第九条のように自衛権の解釈を変えていく。実際、自民党政府は、これまで現憲法の精神を滲透させることはまったくしていない。逆に自民党は党の基本方針としては現在でもやはり改憲を明記しています。
 国民の側も長期安定政権のもとで経済成長を遂げ、憲法が出たときの新鮮な感覚がなくなってしまっている。それが問題です。その問題が一番よく現れているのが、象徴天皇制をめぐる議論なんです。そもそも日本は昔から象徴天皇だったのではないかという議論がある。明治憲法はプロシアの絶対主義的憲法を真似て天皇の大権を大きくしたけれど、あれはむしろ例外であって、古代は別として摂関政治以後はずっと「君臨すれど統治せず」であった。だから、象徴天皇制は昔に帰っただけだという議論をする学者が結構います。しかし、昔から人民主権原則はありましたか。人民の自由意思によっては共和政にだってできるのだ、という思想的伝統がありましたか。おふざけでない、といいたい。こういう議論自身、いまの憲法の初期の瑞々(みずみず)しい精神がいかに失われたかの証左です。
 ですから、今度の昭和天皇の逝去は、憲法の問題を考える非常にいい機会になったと思います。…昭和をふりかえれば、どうしても、戦争責任問題だけでなく、戦後の「原点」が問われざるを得ない。
 主権在民がいかに画期的なことかは、ポツダム宣言受諾の過程を見れば一番はっきりする。日本政府が最後までこだわったのは「国体護持」で、八月十日の政府の回答では、最後に条件をつけた。‥国体護持というのは、天皇が主権者だという原則を意味していたのです。」(集⑮ 「戦後民主主義の「原点」」1989.7.7.pp.61-63)
 「民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、‥「永久革命」なんですね。資本主義も社会主義も永久革命ではない。その中に理念はあるけれども、やはり歴史的制度なんです。ところが、民主主義だけはギリシャの昔からあり、しかもどんな制度になっても民主主義がこれで終わりということはない。絶えざる民主化としてしか存在しない。現在の共産圏の事態を見ても分ります。それが主権在民ということです。主権在民と憲法に書いてあるから、もう主権在民は自明だというわけではなく、絶えず主権在民に向けて運動していかなくてはならないという理念が掲げられているだけです。決して制度化しておしまいということではないんです。その理念と運動面とを強調していくことがこれからますます大事になって行くと思います。」(集⑮ 同上pp.66-70)
「平和と戦争を自由に主権国家が選択できるという前提が、国際連盟で初めて崩れたんです。それで戦争観が大転換したんです。それが不戦条約でさらに確かめられた。つまり、国策の手段としてやる戦争は国際的に見ると不法な戦争なんです。これは一九世紀には全然通用しない。帝国主義の真っ只中だからね。アヘン戦争はどうなんだ、清仏戦争はどうなんだ、と。同じことやったじゃないか、と。それは自民党が言っている議論です。日本の悲劇は、あまりに遅れて古典的帝国主義をやったことなんです。‥警察行動以外の、自分の国家の利益を増進するための戦争に訴えてはいけないというのが、不戦条約以後、国際規範になっちゃったんです。日本国憲法に始まったんじゃないんですよ。それを徹底して条文に規定したのは、日本国憲法が初めてなんです。しかも原水爆時代が現実でしょ。すると昔の意味での軍事的な勝者と敗者がもはやない。これくらいはっきりしたのは、ないんですよ。今、地球が破滅する何十倍だか何百倍だかの原水爆を持っている。ところが、軍備というのはやっぱり手段なんです。昔の観念がなかなか打破されないわけ。ところが「三たび平和について」‥に書いたんですが、手段じゃなくなったわけです。自己目的になっちゃって、地球を破滅させる道具になっちゃった。それを相変わらず国家の手段と思っているわけですよ。世界中、英米仏も含めて、程度の差はありますが。」(手帖56 「「楽しき会」の記録」1990.9.16.pp.22-23)
「社会党の「違憲・合憲論」はかなわないんだな、正直言って。国内論なんですよ。日本はこういう憲法を持っている、もっとこれを国際的に採用しろ、と言うのならいいんだ。しかし、どういう憲法を採ろうと国家の自由だから押しつけるわけにいかない。憲法を強調するわけにはいかない。しかし、いくら威張っても威張りすぎることはない。つまり予期していなかったけれど、核兵器時代を抑止する結果になったから。今や世界のシンボル・パワーズがみんな自分の国を自分の国の軍隊では守れなくなった。主権国家の軍隊という意味が全く歴史的に変わった。それと戦争概念の変化があるでしょ。だから〔社会党は〕防衛じゃなくて宣伝すべき時なんだ、平和主義の国を。その仕方の拙さ。」(手帖56 同上p.29)
 「(今、若手の小沢なんかが言い出しているのは、集団的自衛権を認めるところから一気に海外派兵まで認めちゃえ、憲法改正するのが一番いい。と。それがいやなら憲法の解釈を変えちゃえ、というところまで一気に行こうということですかね」という質問に)それは、‥現実問題として、憲法改正は三分の二を要するから、到底できない。それと、世界の現実とどう調和するかというと、今までの議論を変えていく以外にないんですね。そういう国際的な現実と国内で憲法改正が通らないという現実と、二つの現実をよく見れば、それを両方を美化しようとしたら、ああ言うより外ない。
 そういう場合、どうやってその議論をやっつけるか。政治だから論戦でしょ。大義名分を持ってやっつける。自衛隊は実際に危険があると思うな。既成事実になりますから。いつの間にかまた、日本の国家の自衛権みたいになっちゃって、ズルズルべったりに。すると国家の自衛権として自衛隊がジャスティファイされるという危険が非常にあると思うな。今の〔事態に〕瞬間的にうまいことを言っているだけなんですから。だから僕は絶対ダメだと言っている。  国籍離脱が無理なら、ぎりぎりの現実論は、‥自衛隊を二つに分けて、国連協力隊と今までの自衛隊と。僕は今までの自衛隊というのはおかしいと思うけれど、実際あるんだから。ごちゃごちゃになっちゃダメですよ。きれいに分ける。国連に自発的に協力する、自衛隊員でなくても。自衛隊法を改正しないでできるかは、法律家と議論しないと分からないけれど。(「政府は国連平和協力法案を国会に出そうとしているわけですから」との発言を受けて)その中に国連から要請があった場合-アメリカじゃダメですよ、安保理事会じゃなければ-のことを考慮して、自衛隊の一部に国連協力隊を置く、という一条を設けるんですよ。(「常備軍を国連に置くということじゃないんですか」との質問を受けて)それが一番いいですよ。僕はそれに賛成だ。だけど、現実論はそこまでいかない。国連協力隊法案の中にその一条を入れる。今の自衛隊を二つに割って、一つを国連協力隊と名付けると。国連協力隊には自衛隊員以外も参加できるというのがあれば、なおいい。そうすると国連軍に近づくから。
 国家というのは強いからね。国籍離脱は自由民権時代には何でもなかったんだけれど。大日本帝国の遺産があるから強いんですよ。だから、国籍離脱だなんて言うとうるさいから、国連ボランティアの参加を妨げない、という一句があればいい。僕は国連軍は本来的には国籍離脱をするべきだと思うけれどね。要するに、国連とはなんぞや。主権国家の単なる集合ではないという理解なんですよ。今は単なる集合体なんですよ。だから僕は国連組織の改編までいくといつも議論するんです。国連を国連たらしめるには、主権国家の集合という組織体がおかしい。
(「これから、国連軍を常備で作らないかと各国で議論が起きると思うんです。そうすると、‥参謀本部を超国家的に作ろうということにならざるを得ないんじゃないか」という発言を受けて)それが日本国憲法の精神だ、と言うんですよ。国内向けには、それがナショナル・インタレストだ、本当の意味で。それを今の自衛隊で日本の国を守ろうというのが、およそ空虚であって、いざという時にアメリカが助けてくれるなんて、とんでもない。今ほどいいチャンスはないんですよ。また風化しちゃうからね。同時に、国際連合の改組を持ち出すべきだと思うな。主権国家の寄せ集めでいいのかと。今の多国籍軍という言葉自身が主権国家を前提にしているんだから。多国籍軍という言葉自身がおかしい。軍事同盟はみな多国籍軍じゃないですか。」(手帖56 同上pp.34-36)
「日本は第九条を国内でもかざしていないんだから、どうして世界に向ってかざせますか。日本くらい憲法を粗末にしてきた国はないです。それは単におまえさんの国の憲法であって世界には通用しないというだけじゃないです。おまえさんの国で通用してないんだから、全然だめですよ。
 だけど原理論から言えば、‥いまこそ第九条の時代だと思いますよ。国家が自力で戦争できなくなったんだから。みんなごまかしているにすぎないんだ、目の前の現実を。」(手帖61 「丸山眞男先生を囲む会(上)」1991年8月4日 pp.23-24)
「核は画期的だと思うんです。初めて国家を越えた軍事力ができたということ。矛盾だらけなんですね、核だけをとっても。核拡散防止なんてのは、けしからん話で、持っているやつのエゴイズムですから。そこを今北朝鮮が突いているんですね。北朝鮮というのは、別の意味で始末の悪い国家だけれど、論理に無理はない。核拡散防止とはなんだと。核保有国のエゴじゃないかと。これには反駁のしようがない。(「彼らにしてみれば。自分を守るための開発だということもありますからね」との発言を受けて)そう。だから、国家を中心とした自衛権の否定までいかないと、片づかないんです。それが日本国憲法なんです、そういう意味では。国家を中心にした自衛権の否定ということになる。
 日本は、有史以来、ある意味で、擬似的に国家だったからね。文化的統一体、言語的統一体、領土的統一体、中は分かれているけれど、よく他の国から言われるのは、他の国は戦争に勝ったり負けたりしているけれど、〔日本は〕一ぺん負けただけで、あんなに懲りるんだと。大国の言うのはみんなそれなんです。懲りすぎなんだと、第二次大戦から。まぁ、懲りて、ちょうどいいんだけれど。しかし、それももっともなんだ。普通の主権国家から言えば、戦争に勝ったり負けたりするのは当たり前で。一度負けたからと言って、戦争がいかんと言っている日本の平和というのは分からない。だけど、それだから〔日本は〕国家の防衛そのものがだんだん意味を失ってくるということを、最も強力に言える立場にあるということですね。…
 人間の想像力なんて貧弱なものだから、イマジネーションがなくて、過去の経験を絶対化するんですね、どうしても。だから、軍事的な防衛力なしに国家の独立はないというのは、非常に根強い。」(手帖42 「丸山眞男先生を囲む会(下)」1993.7.31. pp.30-31)
「(平和問題談話会の法政部会で)僕は、こうなったら国家観念自体を革命する以外にない、今日の言葉でいえば、つまり小沢一郎ばりの「普通の国家」論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機になって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力というものを持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかと言って、‥議論したのを憶えています。」(集⑮ 「サンフランシスコ条約・朝鮮戦争・60年安保」1995.11.p.326)
「ふつう、大衆運動が盛り上がっていった頂点に六〇年安保があったというふうに考えられがちですけれども、そうではない。突如としてあの大爆発になった。アクティヴな知識人や学生の見方からすると「ついにここに来た」、つまり多年の努力が実って六〇年の大爆発になったというのですが、いわゆる普通の市民と接触している僕らから見ると、五月一九日の強行採決によって突然大爆発がおきた。その見方の違いというのが、かなり重要なことじゃないかと思うんです。…
 なにしろ、国会の周辺は毎日毎日何十万という市民でしょう。いま、ああいう事態というのは、ちょっと考えられないですね。正直言って、よくあれだけ、どこからも動員されないで、自然に集まったものだと思います。‥
 そのあと、安保がおさまった直後に、野間宏君たちが中国へ行った。そうしたら毛沢東主席が「日本国民を見直した。これで中国は安心した」といったそうです。つまり、日本の国民の間にこれだけ戦争に反対する勢力が強い以上は、またああいう日中戦争のようなことは起こらないと、そのとき本当に思ったらしいんですね。毛沢東の言葉は本心だと思うんです。あの騒ぎで、日本の国民の平和への志向がいかに高いかというのを、毛沢東は知ったんです。それはたいへん大きなことだと思います。政党や組織に動員されないで、一般の大衆があれだけ動いたというので、戦争反対の意志が相当に強く国民的に滲透しているということを知ったんでしょうね。」(集⑮ 同上pp.337-341)
「(「「超国家主義の論理と心理」‥をお書きになるまでに、半年間、思想的に非常に苦しまれたという模索のプロセスを、もう少し詳しく伺いたいのですが。」)ぼくにとっては、天皇制を否定するということは大変なことだったのです。 (「前に南原先生の「勅命」でできた憲法研究委員会の議論を取り上げられましたが、それとも関係しますか。」)憲法研究委員会も非常に早かった。やっている最中にマッカーサー草案が出たでしょう。それで途中で逐条審議をやめて、マッカーサー草案について少し議論して、結局、憲法制定手続きを上申したのです。その草案はぼくが書いたからよく覚えています。… 内容についても議論はしました。…天皇論については、国民統合の象徴というのはよくわからないという議論がいろいろな人から出た。…マッカーサー憲法草案が発表された当日しかよく覚えていないのだけれども、当日は非常なショックでした。人民主権ということを、あれほど明白に書くということは予想できなかったから。」(回顧談・上 pp.299-301)