「力によらない」平和

2016.4.30.

「バランス・オブ・パワーを平和の条件とする「現実主義」者たちは、中国が米ソに対抗して核実験を強行し、水爆製造への途を歩んでいることをどうして「当然」といわないのだろうか。自分の好まぬ現実をみとめない現実主義! バランス・オブ・パワーという既成観念をつきくずす方向にしか、日本の平和と安全への活路はありえない。しかもそれこそ日本国憲法の理念なのだ。」(対話 p.99)
「単なる平和主義や国際主義の願望がいかに空しいものかは、inter-war yearsが世界史上嘗てないほど、そうした思想の基調の上に立った会議、条約、調査が氾濫した時代であったことを以ても知られる。…ラスキは、…大西洋憲章やいわゆる「四つの自由」の雄弁な約束が安心ならない所以を、ウィルソンのFourteen Pointsの遭遇した運命からして、警告するのである。そして前大戦の後に於て、戦争の結末を更に積極的な目標に向って押し進める事を怠った各国政治家の懶惰、怠慢、無気力を鋭く剔抉する。」(集③ 「西欧文化と共産主義の対決」1946.8.pp.44-45)
「第一章 平和問題に対するわれわれの基本的な考え方
 戦争は本来手段でありながら、もはや手段としての意味を失ったこと
 「元来戦争は人間がある問題を解決するために用いる一つの、而(しか)も極めて原始的な方法である。嘗(かつ)てこの方法が有効且(か)つ有利と認められる時代があったにしても現代は全く相違する。今日にあっては戦敗国はもとより、戦勝国と雖(いえど)も、一部の特殊な人間を除いて、殆ど癒し難い創痍を蒙る。……もはや戦争は完全に時代に取り残された方法と化しているといわねばならぬ。」ひとはこの趣旨をあまりに当然自明のこととするかも知れない。しかし、むしろ問題は、このことが自明の理とされることによって、それはそれとして至極簡単に承認されてしまい、現実の国際問題を判断する際の生きた標準としてはたらかないということにある。…
 戦争の破壊性が恐るべく巨大なものとなり、どんなに崇高な目的も、どのような重大な理由も、戦争による犠牲を正当化できなくなったという厳粛な事実に否応なく世界の人々を直面させたのは、いうまでもなく第一には、原子爆弾、水素爆弾などのいわゆる超兵器(superweapons)の出現であった。…現代戦争の内包するこのようなパラドックスは決して忽然として生じたのではない。それは、近代産業及び交通通信手段の発達が、一方において全世界を一体化し、各国家各民族を密接な相互連関の関係に置いたと同時に、他方において、もろもろの政治権力の集団的な組織化を高度にし、その相互の軋轢(あつれき)をいよいよ大規模なものにしたという歴史的過程によって齎らされたものである。現代戦争が国際的には世界戦争(global war)として現れ、国内的には、全国民を動員する(total war)という様相を帯びるのは、その必然な結果にほかならない。したがって、戦争の破壊性が戦場における武器による直接的な破壊性に限定されなくなったということこそ、何にもまして重要なことである。…最も惨憺たる被害を蒙るのは、家を焼かれ、近親を失って彷徨する無辜の民衆であるのが、皮肉というにはあまりに痛ましい現代戦争の実相なのである。しかも、戦後に待ち構えているのは、経済的政治的荒廃、大量的失業、飢餓、暴動であり、深刻な道徳的頽廃がこれに加わる。…
 いまや戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪となったのである。どのような他の悪も、戦争の悪ほど大きくはない。したがって逆にいうならば、世界中の人々にとって平和を維持し、平和を高度にするということが、それなしには他のいかなる価値も実現されないような、第一義的な目標になったといわなければならない。どのような地上の理想も、世界平和を犠牲にしてまで追求するには値しない。なぜなら、それを追求するために戦争に訴えたが最後、戦争の自己法則的な発展は、当該の理想自体を毀損してしまうからである。」(集⑤ 「三たび平和について」第1章・第2章1950.12.pp.7-10)
「一九四八年(昭和二十三年)の七月にユネスコが主体になりまして‥各国の社会科学者に呼びかけまして、‥「平和のために社会科学者はかく訴える」を発表したのであります。‥そして戦争と平和の問題について声明を発表した。そしてその資料がGHQを通じて『世界』の編集長をしていた吉野[源三郎]さんのところへ来たわけです。…十二月に、‥「平和問題談話会」という名称で、非常に具体的な、日本の講和の問題がはじめて取り上げられたわけです。ここで「講和問題についての平和問題談話会声明」というものが発表されました。それが翌一九五〇年(昭和二十五年)の二月に『世界』に掲載されました。…
一九五〇年の二月に発表されました講和問題についての声明は、批判を含めて大きな反響を呼んだわけです。というのは、ここではじめて「全面講和」の要請、それから「中立」-日本の道は二つの世界に対する中立の立場以外にないという考え方-、それからいかなる外国に対しても軍事協定を結ばず、また軍事基地を提供しないという、三つの趣旨がこの声明に盛り込まれたからであります。…おそらく国内においていろいろな立場の学者が寄って、未だ占領下にあった日本の講和問題について、具体的な発表をした最初のものではないかと思います。…
 ところがここでまた新しい大きな要素が日本の状況の中に出て参りました。それは一九五〇年の六月に勃発した朝鮮戦争であります。日本に与えた衝撃というものは、非常に大変なものでした。…朝鮮戦争の勃発は、全面講和、日本の国際的位置は中立不可侵であるべきである、いかなる外国に対しても軍事基地を提供せず、かつ軍事協定を結ばないという、「平和問題談話会」の三つの趣旨に対する非常に重大なチャレンジであったわけです。…九月にようやく東西(東京と京都)の総会でまとめ上げた草稿が発表されました。それが活字になったのが一九五〇年の十二月、‥「三たび平和について」です。」(手帖4 「一九五〇年前後の平和問題」1977.5.25.pp.6-10)
「「声明」と「三たび平和について」とを比較して顕著な相違は、むしろ‥「声明」の方が国内的-何と申しますか-社会的変革の問題と平和の問題とを結びつけて考えている。それに対して「三たび」の方は二つの世界の平和的共存という問題を、それ自身、独自に基礎づけようとしているということであります。これは時代的文脈というものを考慮しないでは理解しがたい問題ではないか、と思うのであります。
 というのは、戦争直後の考え方は、-これは日本だけでなくて例えばユネスコの科学者の声明を見ましても、「平和の問題とは、集団間ないし国家間の緊迫や侵略をいかにしてこれらを個人的にも、社会的にも建設的な目的に指向させ、かくして再び人が人を搾取するごときことなからしめるか、という問題である。この目的は単に表面的な改革や孤立的努力によって達成できるものではない。社会組織ならびにわれわれのものの考え方自体における、さまざまの根本的変化が肝要なのである」ということなのであります。社会組織の根本的変化なくしては平和というものはあり得ないんだという方が、むしろ戦争直後における一般的認識でありました。‥
 つまり戦間期‥があまりに短かった‥ということに対する反省が、世界的に拡がっておりました。それから日本の特殊事情を見ますと、ご承知のように初期の占領政策は日本を民主主義化することなしには日本の軍国主義の除去はあり得ない。民主主義化ということの意味には、今日では考えられないほど、かなり左-と申しますと語弊がありますけれども、つまり共産党を解放するようなものも含んだような民主化が考えられる。そういう文脈の中で理解されるのであります。したがって…平和は現状維持ではないんだ、ないどころか、社会組織の根本的な変革を含むんだ、という認識の方が一般的だったわけですね。  で、この声明は‥「生産力の向上および資源の利用に計画と調整を施して、最大限の社会的正義を実現することは、明らかに戦争の防止と平和の確立にとって基礎的条件をなしている」と。ここに私は、当時における平和問題というものが、日本の社会の、広義で言えば、社会主義化の方向と不可分のものとして考えられていたということの-これも良かれ悪しかれ-一つの例証があると思うのです。
 つまり平和問題の戦後の発展というのは、こういう社会主義的変革の問題と不可分であった平和の問題から、独自な平和問題の次元というものを発見してゆくプロセスなのであります。この点を歴史的に理解しませんと、戦後の平和問題研究の歴史というのは十分に理解できない。…
 革命のイデオロギーと全体主義への対抗イデオロギーという両方から、どうやって平和の次元というものを隔離するか、隔離しなければ、例えば資本主義者あるいはブルジョア民主主義者と共産主義者を抱えた平和運動というものは成り立たないわけですね。その間の連携というのはあり得ないわけです。したがってこの両方のイデオロギーからどうやって平和の次元を隔離して、その隔離することを通じて平和共存の可能性というものを基礎づけてゆくか、ということが「平和問題談話会」の非常に切迫した課題であったわけです。…平和問題の独自性、具体的にいえば二つの世界の共存の可能性というものをどうやって基礎づけできるか、というのが「平和問題談話会」が模索した方向であり、その具体的な現れが「三たび平和について」であったわけです。
…二つの世界がありながら平和共存は可能であるということを言うにとどまっていたのに対して、二つの世界とは何なのだ、一般に流通しているこの言葉のセマンティクス=意味論を試みたのが「三たび平和について」であります。…
 何とかして共存を基礎づけようとするわけですけれども、資本主義対社会主義の体制の対立として見るか、それとも自由主義対全体主義の対立として見るかによって、まるで意味が違ってくる。しかも両方に共通していることは、アメリカないし英米的な体制を自由民主主義の権化として見るわけです。‥他方は、コミュニズムないしソシアリズムというものとソ連ないし東欧圏及び中国を含めて殆ど同一視する。つまり、そういう国家ないし国家群は、社会主義というイデオロギーを具体化したものと見るわけです。その点では奇妙な一致があるわけであります。
 果たしてそうであるか。イデオロギーの次元と具体的な体制の次元、さらに具体的な国家の次元というものはそんなに同一視できるのか。-そこでどうしてもセマンティクスの問題が出て来るわけです。‥セマンティクスが打開されませんと、かくも違った立場の知識人の平和についての協力というものは、現実的に不可能ですし、今日でもそうだろうと私は思います。そこに平和問題というものの持っている困難な面があった、と思うのです。
 …米ソが今日、如何に対立しようと、冷戦の方向をとるにしろ、平和の方向をとるにしろ、意外に両体制は近似してくるんじゃないか、ということとか、中国は、今日こそ毛沢東の向ソ一辺倒で、支持する方も反対する方も一枚岩。[しかし]それは必ずしも一枚岩ではないんじゃないか、というようなことを言うことは大変なことだったのですが、にもかかわらず、何とかかんとか通ったわけです。
 どういう訳なんだろう、ということを考えてみますと、非常に広い背景としては、戦争直後の知識人の間に共通していた或る感情があったと思います。それを私は-この問題に限らずに言うんですけども-"悔恨共同体"と呼んでいるのです。…戦争に対して積極的に協力した者も、あるいは消極的に抵抗した者も、あるいは獄中十八年組はどう考えたかは別として、少なくとも"これでよかったんだろうか"と。‥われわれはインテレクチュアルズとして、やっぱりなすべきことが他にあったのではないか、それを怠ったのではないか。その後の非常にすり切れた言葉を使えば"知識人の自己批判"というものが、驚くべく広範に拡がっていったわけです。…これは「平和問題談話会」の、例えば声明の前文に「翻って、われわれ日本の科学者が自ら顧みて最も遺憾に堪えないのは、われわれも夙にこの平和声明に含まれている如き見解を所有しておったにも拘わらず、わが国が侵略戦争を開始した際にあって、僅かに微弱な抵抗を試みたに留まり、積極的にこれを防止する勇気と努力とを欠いていた点である」と。‥したがって「われわれ科学者は、国民に((ママ))信頼し彼らと共に歩む時にのみ、初めて何事かを為し得るものである」と。大衆組織とどういう関係に立つかということは、プラスだけでなくマイナスもありますけれども、そういうことが広範に提起されたということも、知識人が独善的な態度をとってはいけないという考え方が普遍的にあったからです。…
 で、これが知識人の問題であると同時に日本の問題ということに関係してくるわけです。つまり日本は現代の情勢にどう対処するかという、そういう問題の立て方ではない。今や身に寸鉄を帯びない日本が、世界に対して何を貢献できるのか、世界に対して発言できるとしたら何を発言できるのか、ということですね。何をコントリビュートできるのか-こういう考え方ですね。考え方の根本が、まず世界情勢があって、それに対して日本はどうしたらいいかという考え方ではなくて、日本はいわばナッシングになったという意識ですから、ナッシングになった日本が一体何をもって世界に貢献するのか、-それには平和問題しかないじゃないかという、その意識ですね。これがあらゆるイデオロギー的立場を超えてなければ、協同した結論に到達することは不可能だということ。」(手帖4 同上pp.13-22)
「(平和問題談話会の法政部会で)僕は、こうなったら国家概念自体を革命する以外にない、今日の言葉でいえば、つまり小沢一郎ばりの「普通の国家」論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機になって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力というものを持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかと言って、‥議論したのを憶えています。」(集⑮「サンフランシスコ条約・朝鮮戦争・60年安保」1995.11.p.326)