戦争責任

2016.4.30.

「戦争責任をわれわれ日本人がどのような意味で認め、どのような形で今後の責任をとるかということは、やはり、一度は根本的に対決しなければならぬ問題で、それを回避したり伏せたりすることでは平和運動も護憲運動も本当に前進しないところに来ているように思われる。…あらゆる階層、あらゆるグループについて、いま一度それらにいかなる意味と程度において戦争責任が帰属されるかという検討が各所で提起されねばならぬ。…
 問題は‥日本のそれぞれの階層、集団、職業およびその中での個々人が、一九三一年から四五年に至る日本の道程の進行をどのような作為もしくは不作為によって助けたかという観点からの誤謬・過失・錯誤の性質と程度をえり分けて行くことにある。例えば支配者と国民を区別することは間違いではないが、だからとて「国民」=被治者の戦争責任をあらゆる意味で否定することにはならぬ。少くも中国の生命・財産・文化のあのような惨憺たる破壊に対してはわれわれ国民はやはり共同責任を免れない。国内問題にしても、なるほど日本はドイツの場合のように一応政治的民主主義の上にファシズムが権力を握ったのではないから、「一般国民」の市民としての政治的責任はそれだけ軽いわけだが、ファシズム支配に默従した責任まで解除されるかどうかは問題である。「昨日」邪悪な支配者を迎えたことについて簡単に免責された国民からは「明日」の邪悪な支配に対する積極的な抵抗意識は容易に期待されない。ヤスパースが戦後ドイツについて、「国民が自ら責任を負うことを意識するところに政治的自由の目醒めを告げる最初の徴候がある」といっているのは平凡な真理であるが、われわれにとっても吟味に値する。」(集⑥ 「戦争責任論の盲点」1956.3.pp.159-161)
「天皇の責任について…日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人々までが極力論議を回避しようとし、或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを暴露したものはなかった。大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権はじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が-現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とその齎(もたら)した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。…天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的要因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的な存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果すところに日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この機密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがって‥天皇個人の政治的責任を確定し追及し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起さるべき事柄である(具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない)。天皇のウヤムヤな居座りこそ戦後の「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある。」(集⑥ 同上pp.162-163)
「共産党…ここで敢てとり上げようとするのは個人の道徳的責任ではなくて前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。‥ほかならぬコンミュニスト自身の発想においてこの両者の区別がしばしば混乱し、明白に政治的指導の次元で追及されるべき問題がいつの間にか共産党員の「奮戦力闘ぶり」に解消されてしまうことが少くない。つまり当面の問いは、共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったのか負けたのかということなのだ。政治的責任は厳粛な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は一般の大衆とちがって単なる被害者でもなければ況や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。…もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など掲げぬ方がいい。そんなことは夙(とつ)くに分っているというのなら、‥抵抗を自賛する前に、国民に対しては日本政府の指導権をファシズムに明け渡した点につき、隣邦諸国に対しては侵略戦争の防止に失敗した点につき、それぞれ党として責任を認め、有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に大胆率直な科学的検討を加えてその結果を公表するのが至当である。共産党が独自の立場から戦争責任を認めることは、社会民主主義者や自由主義者の共産党に対するコンプレックスを解き、統一戦線の基礎を固める上にも少からず貢献するであろう。」(集⑥ 同上pp.163-165)
「日本の支配層の責任意識のないこと、どこにも責任の主体が見つからないという問題がある。これがどこから生じて来たかを解明しないと、‥問題も十分解明されないのではないか。つまり、日本の戦争以後崩壊した、あるいは、現在も残っているかも知れないが、一応戦争前の支配体制-天皇制自身が膨大な無責任な体系だということ。
 どうしてそういうふうになるか。まず第一に、天皇がヤヌスの頭のような性格を持っていること。実は日本憲法〔大日本国憲法〕の建前からいうと、大権事項が多く、かつその程度が強く、議会のコントロールは限定されている。それは統帥大権によって最も端的に現われている。にもかかわらず、天皇の補弼の重臣たちのリベラルな考えによって天皇は立憲君主としての教育を受けた。また護憲三派内閣〔第一加藤高明内閣〕から犬飼〔毅〕内閣の倒壊までは一応軍部大臣を除いては政党出身者によって構成され、議会のコントロールを受ける体制が出来た。半ば立憲的である。しかし、根本的な政治体制自身は絶対主義的なものがそのまま残っている。そういうヤヌス的な性格が、国家の最高統治者、主権の総攬者としての天皇の責任をアイマイにしている。
 第二には、それと密接に関連して、日本の統治構造自身が多元的なこと。…日本には議会を通じないで直接政策決定過程に影響を及ぼすような疑似プレッシュア・グループがたくさんある。それも枢密院とか貴族院とか制度的に保障されている勢力のほかに、院外団とか右翼とかいうものがあって、元老とか重臣に働きかける。すると、そのプレッシュアによって国策の大きな決定が、議会及び内閣というポリシー・メーキング・プロセスにおいて一番大事な場所をツンボ桟敷に置き、それ以外のところで決定されて、しかも責任は負わないという特殊な統治構造が生れる。この多元性が端的に現われているのは戦争の真最中における日本の政局の不安定性だ。」(別集② 「戦争責任をめぐって」1956.5以後 pp.119-120)
 「これがビヘビヤーの面に現われると、主に二つの意識形態になって現われる。一つは、すべての人が天皇の臣下であるという臣下意識を持っている。…そこから政治的な責任意識は出てこない。もう一つは、権限意識である。議会政治家が実質的に無力であったので、したがって政治家の責任がなくて官僚としての責任しか存在しない。官僚は自分の権限については責任があるが権限外は責任がないということになってしまう。だから一元的な政治的主体がなかったのでまた政治的意識もそこから生まれてこない。
 次には日本のブルジョアジーの寄生的な伝統である。明治以来、主体的にブルジョアジーが国家権力を駆使したというより、国家権力に常に規制し甘い汁を吸って来た。…独立の産業ブルジョアジーとしての自主的な成長がなかった。」(別集② 同上p.121)
「国際法の問題としても‥ニュールンベルグ乃至(ないし)極東国際軍事裁判では、従来においてはウォア・クライムという概念は大体戦時国際法規に対する違反に限定されておりましたのを、はじめて非常に拡大して平和に対する罪と人道に対する罪という新たな概念を成立させました。
 こういう犯罪責任に対して、過失責任があり、それにも、積極的な行動に基く過失や錯誤のほかに、怠慢乃至不作為-つまり当然遂行すべき職務を怠った、或いは或る状況にあって当然なすべき行動をなさなかったという不作為責任というものも考えられるんじゃないかと思うのです。」(集⑯ 「戦争責任について」1956.11.pp.324-325)
 「一番重大な戦争責任が帰属される筈(はず)の日本の支配層が実は一番責任を感ぜず、罪の意識が殆(ほとん)ど欠けている、という問題-これがどういうところから生じて来たかということを考えてみたいと思います。
 責任の意識がなく、かえって支配層を構成していた人々が被害者意識しか持っていないということは、つまり支配層にリーダーシップの自覚がなかったということと関係があります。じゃ何故日本の支配層に政治的リーダーシップの自覚が少なかったか、という問題になります。
 …戦争に突入した頃の日本の天皇制自身がいわば一個の厖大な「無責任の体系」だと思うのです。‥第一に、天皇自身がヤーヌス(双頭の怪物)的な性格を持っていた。いうまでもなく、立憲君主としての面と絶対君主としての面です。…日本の戦前の政治構造は本来、終戦の時の天皇の「聖断」にあらわれたように、天皇自身が最後的に国家意思を綜合し決定するようにできている。‥にも拘らず、大正天皇の精神薄弱とか、天皇に政治責任がかからぬようにというような元老の配慮といった色々な歴史的事情で、現在の天皇は事実立憲君主としての教育を受けて来たし、しかも護憲三派内閣から犬養内閣までは完全な形からは遠いけれども一応政党内閣が続いて、いわゆる「憲政の常道」が成立した。こうした習慣が政党政治の崩壊以後もダラダラと続いて、実際は天皇自身が政治的な発言もし、決定もする建て前になっているのに、実質的な大権行使をひかえた。こういうところから主権の総攬者としての天皇というものの責任が非常に曖昧になった点が第一です。
 第二には、‥第一のことと関連して日本の統治構造自身が非常に多元的であり、そのことからまた責任意識が雲散霧消してしまう。国務大臣は行政大臣を兼ね、しかも単独輔弼制をとっているので行政のセクショナリズムがそのまま内閣に反映する。しかも統帥と国務は全く切り離されて、天皇のところではじめて統合されるようにできている。その上、内府・枢密院・元老・重臣会議といった権限範囲の曖昧なシュウト・小ジュウトが内閣に重大な政治的圧力をかけ、また議会の権限の失墜に比例して、国民の中の右翼や浪人のような全く無責任な勢力が正式なルートを通じないで、政策決定に舞台裏から働きかける。‥ちょうど戦中戦後の統制経済と同じように、政治意思の伝達過程が殆ど正規のルートでなく闇ルートで行われた。しかも大事なことは、これが決して突然変異の現象でなく、むしろ明治以来の日本の政治構造自体にそういう闇ルートによる政策決定を可能にする基盤があったということです。三〇年代以後顕著になった政治的病理現象で、明治以来の政治史に現われなかったものは殆どない。ただ色々の歴史的事情で散発的にしか現われず、したがって何とか弥縫(びほう)されていたのが昭和の危機に一度に顕在化したまでです。そういう統治構造の多元性を一番端的に示すのが日本の政局の非常な不安定性でありまして、これは他のいかなる全体主義国家にもみられない特色であります。…
 これについて私は以前‥ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿(みこし)の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われている。
 この日本の特殊な政治構造に見合った心理として二つのものが考えられる。一つは臣下意識である。総べての人が天皇の忠誠な臣下であるという意識。従ってどんなに実質的に国家権力を左右した人間も自分は天皇の忠実な臣下として行動したに過ぎないという意識がいつも底にあり、それだけ政治的指導の責任意識はうすれるわけです。
 もう一つは「権限」の意識です。ナチのようなファシスト政党がなくて、然も議会政治というものは実質的に無力になると政治家の責任はますます官僚としての事務責任にとって代られる。官僚としての責任は、自分の権限については責任があるが、権限外には責任がないということです。つまり軍部も含めて官僚は国家機構の中で精密な分業によって与えられた職務を行う建て前になっていますから、全体的な見透しを立てたり、政策を決定する責任は自分にはないと思っています。官僚が実質的に政治家として行動しながら、意識としてはどこまでも官僚だということ、それが前に述べました政治的多元性とあいまって、いよいよ一元的な責任の所在を曖昧にしたと思います。
 最後に、日本のブルジョアジーの伝統的な寄生意識が問題になります。明治以来非常に国家権力に依存してその庇護の下に成長した日本のブルジョアジーは、伝統的に寄生的な、明治の言葉でいえば、「紳商」的性格を持っています。従ってブルジョアジーは国家権力を主体的に動かす自信というかプライドをもたず、せいぜい受益者または被害者の意識しかない。…
 然し‥二・二六以後から、日華事変頃を契機として非常に事態が違って来ております。軍部自身が二・二六事件を経て軍自身の内部のラディカリズムを粛清し、むしろそれを脅しに使いながら、全体として日本を戦争体制に持ってゆくことに主力を注ぐようになりますし、他方、日本経済全体の戦時体制化が進むに従って、戦争経済を拡大再生産する以外に利潤追求ができなくなりますから、財閥乃至独占資本はますます軍部と運命共同体になって行きます。つまり軍部の表見的ラディカリズムの解消とブルジョアジーの戦争へのコミットによって、両者の利害は事態の進展とともに密接に結びついて来たわけです。
 ‥要するに、‥ファシズムと戦争を客観的に推進した諸力と、彼らの主観的な意図なり意識なりのギャップが、日本の場合非常に大きいこと、しかもそのこと自身、単に人柄とかモラルの問題でなく、そういうギャップがでて来る機構的な必然性があったということ、これを社会科学的に、また歴史的に解明することが非常に大事だということです。…実は支配層がそれぞれ困った困ったといいながら、全体としては戦争へひきずりこんで行ったそのメカニズムを明らかにすることが私達の任務だと思います。」(集⑯ 同上pp.326-331)
「決して支配層の責任と共産党其他反体制指導者の責任を一緒くたにしたことはありません。ただ私が感じたところでは、共産党が独り戦争に反対した、終始レジスタンスしたのはコンミュニストだけだ、そういうことばかり言われていて、その「反対」なり「抵抗」なりが、あの歴史的現実のなかでもつ重みといったことについての反省がうすいんじゃないか、ということだったのです。戦後の共産党のものの考え方のなかにも、リーダーシップの責任ということが個々の党員の心構えや態度の問題に解消されているような点が見受けられるので、今後のためにもこういう根深い思考方法を反省してもらいたいという意味で問題を提起したわけです。
 それから、反体制の側での抵抗の組織化という問題については、‥遠山〔茂樹〕さんが「中央公論」で、歴史的可能性の問題として間接に僕の考え方を批判されたので、この機会に一言しておきます。簡単に申しますと、当時の苛烈な状況の下では共産党が幅広い抵抗の組織をつくる歴史的可能性がなかったのではないか、歴史的可能性がなかった場合には政治的責任を追及することが出来ないのではないか、ということを遠山さんは言われるのです。一般論としてはその通りだと思います。しかしそれには二つのことを附け加えておきたい。第一に如何なる時期に歴史的可能性が失われたかということの確定が大事です。たとえば日華戦争のころにはそれが既になくなっていても、満州事変のころはどうだったか。大正十四、五年のころはどうだったかということです。つまりある時期にはある範囲で存在した歴史的可能性が、指導の失敗ということのために次の時期には一層狭くなったとするなら、やはりその限りで責任の問題は残るわけです。もし終始歴史的可能性がなかったということなら、それを裏返していえば、共産党というものは当時の現実のなかで歴史をつくる積極的な力としては殆ど無に等しかったということにならないか。それなのに、そういうネグリジブルな力を一方の極として歴史的叙述をすることにどのような意味があるのかという疑問があるわけです。」(集⑯ 同上pp.332-333)
「結果責任という考え方は往々誤解されるように、「勝てば官軍」という思想と全く同じではない。たとえば‥第一級戦犯の責任は必ずしも戦争に負けたことに対する責任を言っているのではなく‥なにより彼等の政治的指導及び彼等の決定し遂行した政策の結果、平和が破壊され、ひいて厖大な民衆の生命財産の喪失、国土の荒廃、貴重な文化遺産の毀損などを招いたことが問題なのである。…政治的評価を個人道徳的評価からハッキリ区別して特質づけなければならぬのは、前者が権力にかかわるからであり、権力は限界状況において人間の生命の集団的抹殺を含むからである。とくに政治的指導者に対して非情なまでの結果責任が追及されるのはひとえにこの点に関連する。」(集⑦ 「現代政治の思想と行動第三部 追記」1957.3.p.40)
「(南原繁)先生は戦争責任の問題は個人が考えるべきものであって、自分の良心に反省してとるべき態度である、と言って、追放ないし弾劾ということをやらなかった。‥先生の根本的な考え方は、それはあくまで個人の良心の問題だということです。
 先生は非常に"皇室思い"なんですね‥。だからこそ先生は、"陛下は退位されるべきである"ということをはっきり言われた。自ら進んで道義的責任をとるべきである、と。非常に少ない退位論。というのは、当時は議論が天皇制存置と反対に分かれちゃった。天皇の道徳的責任というのはウヤムヤになったわけです。天皇がどんなに政治的責任がないにしろ、人格として-先生は皇室を尊敬されるが故に-範を示して、道徳的に責任をとって退位する。それが皇室のためだし、日本のためなんだ、ということを強く言われた。‥そういう立場からの天皇退位論というのは珍しかった。
 もし天皇が退位されるということがあったら、日本の針路は大きく変わっていたでしょうね。天皇でさえ責任をとられたんだ、いわんやその下にある閣僚が、昔のことを忘れたかの如くに、また平気で首相になるということは、まず起こらなかったですね。もっと人格的責任というものを、政治家は重く考えたでしょうね。この場合は政治的責任があるわけですから。天皇に政治的責任があるかどうかは非常に微妙な問題です、これは。私は或る程度政治的責任があるという見解ですけれども。先生は政治的責任はないが、しかし天皇の国民を率いられた立場として道徳的な責任をとって退位されるべきだ。それが道徳の筋というものを日本国民に身を持って示されることだ、という立場です。皇室を尊敬しているけれどもじゃなくて、いたから望まれたのですね。不幸にして実現しませんでした。しかし、私は日本の国民の根本のけじめをつける上では、先生のそういうお考えが日本の国民の間に広まるとよかったと思いますね。天皇制を存続すべきかどうかという議論に、足をすくわれてしまったんです。」(手帖5 「南原先生と私」1977.10.23.pp.17-18)
「戦後すでに四十年でしょ。‥あの日本の破局的な三〇年、四〇年代の戦争および軍国主義の時代というものを、大きくは歴史の教訓として、日本史の教訓として、さらに直接には、一個の日本人としての自分自身の経験として、何を学んだか、それともあの巨大な経験から何も学ばないのかということが、ぼくには非常に気になるんです。
 …大事なのは、日本人が戦争経験からどういうふうに、またどこまで学んだか、ということではないかと思います。‥歴史から学ばなければ同じ歴史を繰り返すということです。ぼくはどうも最近の事態を見ると、一体日本はどこまであの最近の歴史から学んだのか、あれだけひどい目に会い、かつ近隣諸国をひどい目に会わせながら、そこから一体何を学んだのか、経済大国になっていい気になって、経済的繁栄に酔い痴れているのが現状ではないか、ほんとうに何と忘れっぽい国民だろうと思わざるをえないわけです。そういう感想でもって、ふりかえってみますと、獄中十八年とか、はじめから非転向の、軍国主義に反対して投獄された人、そして苛烈な拷問を受けながら自分の信念を貫いた少数の人はもちろんそれだけで尊敬に値します。そういう人がこっちの端にいますね。もう一方の端には、戦争中は鬼畜米英といい、枢軸による世界新秩序を謳歌しながら戦後掌を返すように米英の自由主義陣営万々歳、とくにアメリカ一辺倒になっちゃったという人がいます。まあ今の政・財・官界の長老の大半はそれです。それから第三の類型として、戦争直後はちょっと首をすくめてて、あるいは一応しおらしいことを言っていて、だんだん日本全体の精神的空気があの戦争の経験をまるで忘れたようになってくると-といっても必ずしも復古だけではなくて、新しく経済的繁栄の上に乗っかって日本の風向きが変わってくると、またぞろ本音が出てくるというタイプがあります。…そういういくつかの類型がぼくはあると思うんです…。そういうなかにあって、一番少ないのが、戦争前および戦争中から確かに考え方が変わって、しかも変わったということの意味を反芻しつづける人ね。これが一番少ないと思うんです。その少数の一人が中野さんなんです。…戦後史のなかで、自分の戦前・戦中の経験をバネにして、二度とその過ちを繰り返すまい、という態度を持続的に貫き、その半生を通じて自分の「思想」を変えていったかどうか-その検証のほうが、静態的な「転向・非転向」のの区別よりもはるかに生産的であり、またその人の生き方が「ほんもの」かどうか、をはかる指針になると思うんです。」(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.172-174)
「歴史の必然性という問題は僕もずいぶん苦しんだ問題なんです。…歴史的必然といいますと、必然に対立するものは人間というよりはむしろ偶然なんですね。歴史家の多くは、もはや今日では歴史を必然的連鎖と考えていません。‥取り返しがつかないというのは不可逆的だということです。不可逆的なのは歴史の宿命であって、どんな大きな事件でも小さな事件でも、人間の出来事というのは全部不可逆で二度とおこらない。だから不可逆ということと、歴史の必然ということは必ずしも結びつかない。それが僕が問題にしたい一つの点です。ではなにが歴史において対立しているのかというと、歴史的必然対偶然ではなくて、因果連鎖対人間の選択可能性ということだと思うのです。因果の連鎖というのは、単線ではない。複数の因果連鎖がある。歴史は無数の因果連鎖から成り立っているんです。歴史の中で生きている人間が決断をするごとに、この因果連鎖の中に、その決断もくみこまれます。こうした過程のなかで、歴史的必然というのは、一種の極限状況であって、因果連鎖が単線的になったという状況、つまりそれ以外の選択可能性が考えられなくなった状況で、はじめていえることです。必然というコトバをみだりに口に出すべきではないというのは、そういう状況は現実には滅多にないからです。
 …歴史にとってもっと大事な問いは、他の可能性がほとんどゼロになった時点はいつかということなんです。他の選択可能性がゼロになった時点が歴史的必然なんです。それはもう本当に例外的で、実際は、どんなにせまくても他の選択可能性が残っている。こう考えて初めて歴史にたいする人間の責任を問えると思うのです。他の選択可能性があるのに、実際はこの選択をしたということで、戦争責任ということも初めて問えるので、どうにもしようがなかったら、責任の問題が出てくる余地はありません。ですから、歴史的必然とそれに対して必死にもがく人間という対立ではなくて、無数の因果連鎖のなかでの人間の自由な選択という対立項で考えて、その自由な選択に対して、あれこれの人間はその自らの行動への責任を負うというふうにとらえる方がいいのではないでしょうか。その自由な選択がなくなったら、これは決定論ですから責任を問う余地はない。実際は他の可能性がいつも残っている。太平洋戦争でも、その時期の設定は非常に難しいのですけれど、だんだん選択可能性の幅がせばまっていって無限にゼロに近くなってゆく過程ですね。…最後の段階、十二月の開戦直前の段階になって、ルーズヴェルト大統領から、日米双方とも軍部をしりぞけて陛下と自分とが直接交渉しようではないかと連絡がくるわけです。非常に絶望的ですけれども一縷(いちる)の可能性がまだ残されていた。天皇は宣戦媾和の大権をもっていたのですから、その時天皇がイエスといえば交渉はまだつづくことになる。ですから、十二月八日の一日前でも厳密にいえば、戦争は必然とはいえません。これは天皇の戦争責任の問題にもつながると思います。結局、あらゆる歴史過程において自由な選択の可能性というものを考えないと、責任の問題は登場する余地がなくなるのではないでしょうか。これは歴史観の根本にかかわることで、こんな場で論ずるには問題が大きすぎるのですが。」(集⑮ 「「子午線の祀り」を語る」1989.pp.53-56)
「(「宮廷的に言えば、美化されているとはいえ、ヒロヒトがいたでしょ。木戸〔幸一〕がいたりして、できることなら(対米開戦を)やめたほうがいい、という感覚があったわけでしょ。東郷〔茂徳〕もその一派、末端にいるわけですね」との発言を受けて)張鼓峰事件が最後なんです。昭和一三年。その時に板垣〔征四郎〕を天皇が怒ったんです。何事であるか、と言って。‥ノモンハン事件で、天皇はかわいそうと言えば、かわいそうなんだけれど。歴史的に言えば西園寺〔公望〕とかの重臣派から、陛下自身がああいう〔張鼓峰事件の時のような〕ご発言をなさると軍の反発を招くから、なるべく黙っていらしたほうがいい、と〔言われる〕。…天皇に責任が及ぶということを極端に重臣派が恐れるから、天皇はそこで発言をやめちゃうわけです。それからあとは、意に反してズルズルと来たということは事実。ただ、天皇も太平洋戦争の途中から日和見になっています。勝つからね。敗戦でもういっぺん原点に返ったわけ。それからあとの天皇の居直りはひどいものです。戦争責任について「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」と言うに至っては、もっての外だ。天皇自身の転向があるの。終戦の時の天皇は退位まで覚悟しています。〔戦犯〕裁判に喚問されるのはどうかな。しかし、極端に言えば、そこまで。朕の身はどうなってもいいというのは、天皇制さえ護持されればという意味なんです。天皇制さえ護持されれば、自分が裁判に喚問されても仕方がない、と。それが原点なんですよ。いわんや、退位においてをや。それをとめたのは周辺なんです。僕は南原〔繁〕先生や田辺〔元〕先生のほうが天皇の意に沿っていたと思うな。ただ、僕の自己批判としては、半年ぐらい考えたけれども、個人の独立を阻んでいる究極の根源は天皇制だと(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」一九八八年)いう議論になったんだ、僕も。「超国家主義」論文を書いたのはその時です。」(手帖56 「「楽しき会」の記録」1990.9.16.pp.27-29)
「(『昭和天皇独白録』への感想を問われて)率直に言って、鉄面皮も甚だしいな。責任回避がひどいですね、僕の知る限りでも。事実関係がおかしいのと、憲法の解釈が天皇ともあろうものが基本的に間違っているんです。いや天皇が間違うはずがないので、ごまかしている。たとえば、立憲君主として行動した、従って、下の者が決定した事柄は受納する、と。それが自分の原則である。それは具体的には、なぜ終戦の詔書を出して戦争をやめたのに、どうして開戦の時にしなかったか、というのに対する答えなんですね。自分は立憲君主として行動したが、そうでない場合が二つある。一つは二・二六事件の時に討伐を命じたこと。もう一つが終戦の時。これが立憲君主の例外的行動である、と言っているんです。
 それはその限りで正しいんですね。両方とも天皇がやったというのは正しい。ただし、明治憲法の誰でも知っている解釈は、憲法一一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。それから「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ議シ」、これは一三条。一二条は「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」。後世統帥権と称せられたのは、そのことを言うわけです。統帥というのは明治憲法の国務の外にあるわけです。国務については、五五条で「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」という言葉がある。これから国務大臣の国務、天皇無答責、という根拠が出てくる。立憲君主制じゃなかったという一つの証拠は内閣制がなかったということなんです。…
 ところが、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」でしょ。それから「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ議シ」でしょ。それから「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」でしょ。誰の「輔弼」ということは何も書いてないわけです。…これが天皇が軍を親裁するという意味なんです。そのためにわざわざ書いてないわけです。それが明治一五年の軍人勅諭の発展〔した形としての明治憲法の天皇親裁規定〕なんです。…
 〔『独白録』の〕ああいうところ、昭和天皇のごまかしはひどいな。あのウソはアメリカへ行く直前の対外記者団との会見で始まったんです。  タマゴをぶつけられるかもしれないというんで、前もって真珠湾攻撃について言っておいた方がいいだろうと。陛下は前もって真珠湾攻撃をすることを知っていたかというのを執拗に聞かれるから。それで初めて知っていたと〔話した〕。あれは初めてなんです。東京裁判の全過程を通じて、東条以下、天皇はご存じなかったと。自分たちの責任でやったと。一切天皇に責任が及ばないようにして自分たちは死んだわけでしょ。それだけでも昭和天皇は許せないと思うんだ。あれだけみんながかばって、天皇に責任が及ばないようにしたわけです。…
 それから太平洋戦争の時には天皇はしばしば「宋襄の仁」という言葉を使っています。妥協し過ぎるとかえって敵につけ込まれるという比喩として。四五年二月の近衛上奏文を退けたのはそれでしょ。その時には「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(木戸幸一関係文書)と言っている。それだけでも責任重大だ。またポツダム宣言では「国体護持」を天皇が固執した。最後にはポツダム宣言で国体が護持されると自分は確信するということで受諾でしょ。それだけ「国体護持」に関心があるの。それでぐずぐずしている間に原爆が投下された。天皇がノーと言わないで、ポツダム宣言をすぐに受諾していたとしたら原爆は落ちないですよ。」(手帖62 「丸山眞男先生を囲む会(下)」1991年8月4日 pp.30-35)
「(「敗戦の予測ということでいえば、家永三郎さんは、日米戦争がはじまったら、日本が負けると予想して、自分の殻に閉じこもって生きた不作為の責任がある、と『戦争責任』[岩波書店、一九八五年]に書いていますね。」)難しいね。ただ、学生も含めた知識人で、勝つと思った人はいないんじゃない?予測といったら言いすぎで「これはえらいことになった」と思った。大多数の知識人が、これはいけるかもしれないと思ったのは、ハワイ・マレー沖海戦なんです。予想外のことで、あれは知識人の一種の転向だな。…
 蝋山政道先生は、開戦の報を聞いて、辻清明くんがすっとんで行ったら、まるでお通夜のように、一家そろって沈んでいて、びっくりしたそうです。やっぱり「えらいことになった」というのですね。先生は、東亜共同体論者でしょう。‥そういう人が、お通夜みたいだったと言うんですから。その日、帰りの国電の電灯が暗いんですね、すぐ灯火管制になりますから。みんなシーンとして、いつもより暗い車内の吊り革につかまっていた。やはりお通夜みたいな雰囲気でしたね。‥
 沸き返ったのは、ハワイ・マレー沖海戦。それはたいへんなものでした。空気を一変させた。世界一の戦艦プリンス・オブ・ウェールズの撃沈でしょう。ぼくは考えは別に変わらなかったけど、びっくりしました。国民の気持ちからいえば、なにかほっとしたものがあったのでしょうね。…
 結局、世論調査はないし、実地で見たわけではないから、よくわからないのだけど、竹内好(よしみ)さんが戦後「勝つとは思わなかった。さりとて負けるとも思わなかった」と言った。それが大多数の正直な感じじゃないかしら。ぼくは好(ハオ)さんにそう言われてびっくりしたのですが。また好さんは、一二月八日に解放感を覚えたとも言って、それにもびっくりした。ぼくは、日中戦争の泥沼化をさらに進めるものと思ったのだけれど、好さんは、全く逆に、これで戦争の意味が変わったという受け取り方でした。日中戦争はかなわんと思っていたが、こんどは欧米植民地からの解放戦争に変わったと。そういう受け取り方は、比較的左翼的な訓練を受けたインテリにも少なくなかったようです。
 ‥あそこでもって明らかに空気が変わる。ただ、戦争の意味が変わったということであって、対英米戦で勝てるかと聞いたら、みんな難しい顔をしたでしょうね。‥必勝の信念を持てとは言われたけれど、必ず勝つという信念は聞いたことがなかったな。…開戦の詔書の、「事既ニ此ニ至ル」というのは、考えてみると、当時の日本の状況をよく表している言葉ですね。
 それが、ハワイ・マレー沖海戦、シンガポール陥落での破竹の勢いをみて、知識人を含めて、何とかいくかも、といった空気に変わってきたことは確かですね。ただそのときも、勝つということではなく、これだけ打撃を与えれば、アメリカも、ハル・ノート‥の非妥協的な態度を改めて妥協するだろう、と考えるのがせいぜいのところだったのではないかな。講和を申し込んできて、戦争が終わると。
 (「ハル・ノートの内容は正確に国民に知らされていたのですか。」)開戦と同時に正確に知らされた。東条内閣の絶好の宣伝材料ですから。「これじゃ、戦争をせざるをえないな」と、先に内容を知った親父が言いました。普通のリアリズムからいうと、そうなんです。満州の権益なら、交渉で何とかできると思った。ポーツマス条約による権益は、いちおう国際的に認められたものでしたから。‥大国が隣接した地域に特殊の権益を持つというのは、国際法上一般に認められていた。熱河作戦以後少し変わりますが、日本の特殊権益論というのは、当時かなり説得力があったのです。‥中国が南満州鉄道に対抗して並行線を作る。抗日、排日、侮日運動をやる。当時の言葉でいえばポーツマス条約違反の懸案が三百何件もあると言われた。堪忍袋の緒が切れたという感じが一般にありました。少なくとも柳条湖事件の段階では。
 (「それは日本側からの見方ですね。」)もちろん、全くそのとおりですね。客観的にいえば、中国のナショナリズムの高まりです。中国側から見たら、とくに張作霖暗殺から遡ってみれば、全く無理はない。その点では関東軍の責任は重大ですね。張作霖に譲歩して妥協するというやり方をしないで、殺してしまったのは、政策的には決定的でしたね。…国連のリットン報告は、日本の軍事行動は自衛権の逸脱だとしたが、満州において認められている権益を中国が侵害したのは遺憾であると言っているんです。‥イギリスは、自分の権益を中国に持っていますから、なんとかして最後まで日本と妥協しようと思っていたのです。イギリスは自分が帝国主義だから非常にリアリスト。アメリカは中国での権益獲得というバスに乗り遅れたから特殊権益否定の原則主義なんですね。…
 満州の特殊権益については、中学生のぼくも含めて、当時、大多数の日本人が容認していたというか、疑問を持っていなかったな。…  ハル・ノートが、満州事変以後の日本の行動を批判して、期限をつけないで、日本は将来満州から撤兵する、というものであったなら、つまりリットン報告の線であったなら、事態は変わっていたのではないですか。外交のリアリズムから言ったら、ハル・ノートはミスなんだな。ほとんど外交交渉とはいえない。日本は絶対に呑めないわけですから。一年費やした日米交渉は意味ないことになってしまった。何のために一年間やったのか。ただ、アメリカを弁護する立場から言えば、そのころすでに、日本が開戦準備をしていたことを知っていたのですね。その上で出された。‥
 日本の信用がなくなったということですね。全くそうなのです。遡れば、四一年七月、南部仏印進駐の段階で、ルーズベルトは日米戦争を決意しているでしょう。あとは中立法との関係をどうするか。ほぼ半数が戦争介入に反対している国民をどう引っ張っていくか。そこで、第一撃を日本にやらせるという彼の言葉が出てくる。真珠湾攻撃は彼にとっては救いの神だったといえる。
 そういうことを全部理解したうえで、歴史の流れとしてみて、日本はその流れに逆らっている。日本は、古典的帝国主義を実行した最後の国家なんですね。時代遅れになってから古典的な帝国主義を演じた悲劇。そういうふうに捉えないと、ヨーロッパ諸国も帝国主義をやってるのに、どうして日本だけが非難されるのかという意見に十分反論できないと思うんだ。‥国際秩序を犯した罪がある。やはり、その罪に対する処罰の最初の適用を受けたのだ。そういうふうにいう他ないと思うんです。
 戦後の一つの問題は、ある世代以後の諸君と話をしていると感じるんだけど、国家の重さが軽くなったという印象ですね。そうすると、過去のことがなかなか理解しにくい。…だんだん国家理性にかわって人民理性になった。こうなると為政者もコントロールできない。ビスマルクまでは国家理性はあったけれど、第一次世界大戦ともなると、世論というものが沸き立って、為政者自身がそれに左右されるようになる。シュターツ・レーゾンからフォルクス・レーゾンへ。ぼくがマイネッケを読んでいたのが戦争中でしょう。本当にこのとおりだと思ったんです。よく軍部が悪いというけれどマスコミも相当なものです。‥実際マスコミの煽り方はたいへんなものです。よく言論の自由がなかったとかいうけれど、そんな大きなことは言えない。少なくともぼくが大学の時代には、まだ言いたいことは言えた。言いようはあったけど。それを、煽りに煽ったのが大新聞ですよ。「当局は一体なにをしているんだ」とね。国家理性が人民理性になってしまったんだな。
 国家理性がある限りは、大東亜共栄圏なんてバカな議論は通らないのです。日清戦争のときの有名な山県有朋の「主権線と利益線」。非常にクリアじゃないですか。主権線を守るためには利益線を守らなければならないと。これが国家理性です。‥「満蒙は生命線」というスローガンは、当時の常識からそんなにひどくはずれていたわけではない。それがだんだん空疎な言葉になってゆく。あとはもう悪循環。国際的に孤立してゆく過程ですね。リットン報告書が、日本の軍事行動は国際法を逸脱していると言っただけで、それを全面否定して、国際連盟脱退へと進んでゆく。日本の軍事行動を認めろというのがどだい無理なんですね。‥それ以後、日本は、撤兵の時期を明示したことは一度もない。どんどん拡大してゆく。…
 そういう中で、日本が満州国をつくったのは大失敗ですね。日本の主張は、特殊権益の維持だけではなくなった。王道楽土なんてことを言いだした。」(回顧談・下 1988.4.-1994.11.pp.152-164)
「大事なのは、やはり歴史的認識ですね。…ぼくが心配しているのは、下手をすると、イギリスやフランスもみんなやっているじゃないか、そうして日本だけお辞儀しなけりゃいけないのか、という議論に十分反駁できないということなんです。これは、国際的な規範意識が革命的に変化したということを言わないと、わからない。つまり、帝国主義戦争が悪いという認識が初めからあったわけじゃないんで、…帝国主義というものはあるんだ、と。力関係で決まるんだ、そういう考えが一九世紀いっぱい支配していた。二〇世紀の初めまでそうですよ。つい最近ですね、国際感覚が〔変わったのは〕。国際連盟の誕生と同じなんです。そこで初めて戦争観の革命的な変化が起きた、国際的に。ある種類の戦争というものは、法的にいけないんだと。倫理的にいけないだけじゃなくて、法的に違法な戦争なんだと。違法な戦争というのは、主権国家万能の時代にはないんですよ。主権国家が一番上ですから。…違法な戦争という観念ができたのは、比較的新しいんですね。それを教えなくてはいけない。そうすると、アヘン戦争で〔イギリスが〕謝らないのは当たり前なんですよ。強い者勝ちの規範意識が国際的に通用していた時代なんです。…極東軍事裁判ではさすがに法律家の集まりだから、日清・日露戦争には何も触れていません。例えば、ポーツマス条約というのは合法的でしょ。ちゃんと国際的に結ばれた条約。その条約によって日本は、南満州鉄道の沿線に駐兵権を持っている。これは国際法的に認められているわけです。いま言われている侵略じゃないんです。結局、満州事変の問題性というのは、南満州鉄道を保護するという、満州に駐留している日本の軍隊がその範囲を逸脱して、熱河まで出て行った、そこで初めて侵略になるわけ。満州にいたこと自身は国際法で認められている。その辺が、日・韓・中の学者の議論でも大変だと思うが、ちゃんとその点は言わなくてはいけない。…
 国際的な規範意識の変化、それを言わないと、アヘン戦争がどうだとか、‥キリがなくなっちゃう。…ある時代以後の国際規範意識からすると、日本はその国際規範に反した軍事行動を取った。これは、国内法上の強盗や殺人と同じになるわけです。そこで戦争犯罪ということになる。…国際社会に初めて一つの秩序ができた。ただ、その秩序を維持する強制力がほとんどない、ということが問題なんだ。しかし、秩序が初めてできて、国際秩序に違反したヤツは、国内上の犯人と同じなんです。国際という言葉も、ぼくはよくないと思う。だから、グローバルと言うんだけれど、つまり、地球社会だな。地球社会の犯罪なんです。それがいま言われている侵略ということ。…
 国際連盟規約の第一六条には、この連盟規約に反して、連盟国の一国に対して戦争行為をおこなった国家は、すべての連盟国に対して戦争をおこなったものと見なす、とある。革命的な規定なんですよ。…一国に対して戦争した者はすべての連盟国に対して戦争したものと見なすというのはワン・ワールドができたから。…国際社会は第一次大戦の結果、初めてそうなったんです。国家間の相互依存関係が考えられないほど増大した。ということは逆に言えば、主権国家というものがそれ自身自立できない。相互依存しなければ自立できないということが、初めて第一大戦の時に共通認識になったんです。その結果として、国際連盟ができ、その発展として〔第二次大戦後に〕国際連合ができた。ですから、極東裁判でも‥不戦条約違反と九ヵ国条約違反、日本が問われたのは、その二点だけです。不戦条約で国策の具として戦争をしない、と。それを日本は調印しているわけです。…不戦条約が画期的。あれが日本国憲法第九条の先駆です。国策の道具として戦争をやってはいけないという国際法があの時初めてできたわけです。満州事変・太平洋戦争というのは国策を遂行する手段としてやった戦争ですから、国際法違反と言われても仕方がない。そう言わないと、さっきの自民党の、みんなやっているじゃないか、みんな侵略しているじゃないか、というのに対して、ぼくは有効に反論できないと思うんです。」(手帖66「「丸山眞男先生を囲む会」最後の記録」1995.8.13. pp.13-15)
 「日清・日露はいままでの普通の戦争。…日清戦争の時、奇襲で始まったでしょ。真珠湾〔だけ〕じゃないんですね。宣戦布告の前にやっているんです。ただ、違うのは、「国際法の条規に則り」というのが宣戦の詔勅にあるのに、今度の〔「大東亜戦争」の開戦の詔書で〕は抜けちゃって。それは非常に違う。日清・日露時代には日本はまだ小国だったから国際法に違反しちゃいけないという意識があったんです。…でも今度はない、「大義を世界に宣布する」一方だから。…日清戦争の結果、台湾を領有し、日露戦争の結果、満州の権益を獲得したというのは、いいとは言えないけれど、悪いとも言えない。戦争というのはその時においては、そういう、いいとか悪いとかの価値判断とは別です。」(手帖66 同上p.16)
「あれ(「戦争責任論の盲点」)は短かすぎて誤解を招いたの。その点(共産党が)怒るのも無理はない。  ぼくは、舌足らずだったと自己批判しています。ただ、あれを書いたのはメーデー事件のあとなんです。…宮城前に行こうと言ったのは、共産党なんです。明らかに扇動しているわけです。行ったヤツはひどい目に遭っている。…しかし共産党は何ら責任を取らない。リーダーシップの責任というのが全くないんですよ。…それでぼくは、日本共産党はファシズムに対して戦いができなかった。リーダーシップの問題としてどう責任を取るのかと。もっと詳しく書けばよかったんだけれど、天皇と並べちゃったものだから。あれは、「思想の言葉」で〔紙面が〕狭いから、ぼくが悪い。  あの時、リーダーシップの責任ということを書けば、少し誤解がなくなったと思うんです。…上の方針が変わって、実際に捕まったり、罰せられたり、ひどい目に遭うのは、普通の党員なんですよ。それは非常によくないと思っていて、その点を主に言ったのだけれど。そのことをみんな言わずに、〔共産党は奮戦力闘して立派だったということばかり言っているから、ぼくの悪い癖で、からかったわけ。…  (『前衛』一九九四年五月・六月号で)丸山批判の大論文を書いた人は、見当外れだけれども、よく勉強しています。ぼくのあの時の批判が舌足らずと思っているから。ただ、ぼくは、日本共産党が、トップの方針が変わったにもかかわらず、一貫して革命のために歩んできたと言って、責任は全部普通の平党員にいく。そういう体質、つまり党内民主主義の欠如、それがどうにもならない。」(手帖66 同上pp.20-21)