日本的「国家」

2016.4.29.

「維新の身分的拘束の排除によって新たに秩序に対する主体的自由を確保するかに見えた人間は、やがて再び巨大なる国家(レヴァイアサン)の中に呑み尽され様とする。「作為」の論理が長い忍苦の旅を終って、いま己れの青春を謳歌しようとしたとき、早くもその行手には荊棘の道が待ち構えていた。それが我が国に於て凡そ「近代的なるもの」が等しく辿(たど)らねばならぬ運命であった。徳川時代の思想が決して全封建的ではなかったとすれば、それと逆に、明治時代は全市民的=近代的な瞬間を一時も持たなかったのである。」(集② 「近代日本政治思想における「自然」と「作為」(第六節)」1942.8.p.124)
「もとより国家的な自主性が彼(福沢)の最終目標であった事は疑うべくもない。しかし、「一身独立して一国独立す」で、個人的自主性なき国家的自立は彼には考えることすら出来なかった。国家が個人に対してもはや単なる外部的強制として現われないとすれば、それはあくまで、人格の内面的独立性を媒介としてのみ実現されねばならぬ。福沢は国民にどこまでも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである。その意味で「独立自尊」は決してなまなかに安易なものではなく、却(かえ)ってそこには容易ならぬ峻厳さが含まれている。安易といえば、全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なのである。福沢は我国民は「独立自尊」の伝統には乏しいとはいえ、その倫理的なきびしさに堪える力を充分持っていると考えた。つまり彼は日本国民の近代国家形成能力に対してはかなり楽観的だったのである。彼逝いて約半世紀、この楽観がどこまで正当であったかは、今日国民が各自冷静に自己を内省して測定すべき事柄に属する。福沢の近代的意義の問題はその後にはじめて決せられるであろう。」(集② 同上p.221)
「国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと-福沢諭吉という一個の人間が日本思想史に出現したことの意味はかかって此処にあるとすらいえる。国家的観念乃至(ないし)統一的国家的な意識が思想として福沢以前から存していたのはいう迄もない。しかし大事なことは、彼が独立自尊の大旆(たいはい)を掲げるその日までは、国民の大多数にとっては国家的秩序はいわば一つの社会的環境にとどまったという事である。…環境の変化は彼にとって畢竟(ひっきょう)、自分の周囲の変化であって自分自身の変化ではない。国民の大多数が政治的統制の単なる客体として所与の秩序にひたすら「由らしめ」られている限り、国家的秩序は彼等に環境として以上の意味を持ちえず、政治は自己の生活にとって何か外部的なるものとして受取られるのは免れ難い。しかしながら、国民一人々々が国家をまさに己れのものとして身近に感触し、国家の動向をば自己自身の運命として意識する如き国家に非ずんば、如何にして苛烈なる国際場裡に確固たる独立性を保持しえようか。若し日本が近代国家として正常な発展をすべきならば、これまで政治的秩序に対して単なる受動的服従以上のことを知らなかった国民大衆に対し、国家構成員としての主体的能動的地位を自覚せしめ、それによって、国家的政治的なるものを外的環境から個人の内面的意識の裡にとり込むという巨大な任務が、指導的思想家の何人かによって遂行されねばならぬわけである。福沢は驚くべき旺盛な闘志を以て、この未曾有の問題に立ち向った第一人者であった。」(集② 「福沢に於ける秩序と人間」1943.11.pp.219-220)
「もとより国家的な自主性が彼(福沢)の最終目標であった事は疑うべくもない。しかし、「一身独立して一国独立す」で、個人的自主性なき国家的自立は彼には考えることすら出来なかった。国家が個人に対してもはや単なる外部的強制として現われないとすれば、それはあくまで、人格の内面的独立性を媒介としてのみ実現されねばならぬ。福沢は国民にどこまでも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである。その意味で「独立自尊」は決してなまなかに安易なものではなく、却(かえ)ってそこには容易ならぬ峻厳さが含まれている。安易といえば、全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なのである。福沢は我国民は「独立自尊」の伝統には乏しいとはいえ、その倫理的なきびしさに堪える力を充分持っていると考えた。つまり彼は日本国民の近代国家形成能力に対してはかなり楽観的だったのである。彼逝いて約半世紀、この楽観がどこまで正当であったかは、今日国民が各自冷静に自己を内省して測定すべき事柄に属する。福沢の近代的意義の問題はその後にはじめて決せられるであろう。」(集② 同上p.221)
「日本は明治以後の近代国家の形成過程に於て嘗(かつ)てこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。…維新以後の主権国家は、後者(将軍)及びその他の封建的権力の多元的支配を前者(ミカド)に向って一元化し集中化する事に於て成立した。…この過程に於て権威は権力と一体化した。そうして是に対して内面的世界の支配を主張する教会的勢力は存在しなかった。やがて自由民権運動が華々しく台頭したが、…在朝者との抗争は、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、…もっぱら個人乃至国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。…」(集③ 「超国家主義の論理と心理」1946.5.p.20)
「それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐な振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!
 こうした立場はまた倫理と権力との相互移入としても説明されよう。国家主権が倫理性と実力性の究極的源泉であり両者の即時的統一である処では、倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけずして却って直ちに外的な運動として押し迫る。国民精神総動員という如きがそこでの精神運動の典型的なあり方なのである。」(集③ 同上p.25)
「この究極的実体(天皇)への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけでなく、全国家機構を運転せしめている精神的起動力にほかならぬ。官僚なり軍人なりの行為を制約しているのは少くも第一義的には合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、絶対的価値体にヨリ近いものの存在である。国家秩序が自らの形式性を意識しないところでは、合法性の意識もまた乏しからざるをえない。法は抽象的一般者として治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段にすぎない。だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。…従ってここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的職能よりも、天皇への距離にある。…
 …支配層の日常的モラルを規定しているものが抽象的法意識でも内面的な罪の意識でも、民衆の公僕観念でもなく、このような具体的感覚的な天皇への親近感である結果は、底に自己の利益を天皇のそれと同一化(アイデンティファイ)し、自己の反対者を直ちに天皇に対する侵害者と看做す傾向が自から胚胎するのは当然である。藩閥政府の民権運動に対する憎悪乃至恐怖感にはたしかにかかる意識が潜んでいた。そうしてそれはなお今日まで、一切の特権層のなかに脈々と流れているのである。」(集③ 同上pp.27-29)
「日本で特に注意されねばならないのは国家権力の暴力性が問題にされないという事実だ。国家権力だというだけで神聖視してしまう傾向が強い。日本に於て暴力という言葉は常に民衆の側に対してのみ言われるが、暴力は誰が行使しても暴力なのだという事を、国民は肝に銘じて置く必要がある。
 露わに行使された暴力は誰の目にも判断がつく。非常に判別が困難で従って我々が特に警戒せねばならないのは、種々な形での心理的強制である。例えば日本のように身分的な上下関係が常に人間的な平等の観念に優位する傾向のある所では、ただ長上者又は上司の一つの目つき、一つのものごしだけで、事柄の理非を問わずにその意志が強行される場合が少なくない。
 こういう強制力は表面には見えない。然(しか)もしばしば外見的にはデモクラティックな手続をとって現れる場合が多い。例えば会議の際に各人が内面の確信によって意見を述べるのではなく、その中の権威者・勢力者の意見を先回りして予測し、これに迎合した意見を述べる傾向がある‥。こういう暗々裡に行使される暴力は、露わな暴力よりも目につかないだけに、ある意味では民主主義にとってより多くの敵である。ボスや顔役の支配は結局ここに心理的な根源を持っている。…
 戦後の日本社会の民主化-政治犯人の釈放から財閥解体、農地改革に至るまで-が国際的な圧力をもってしなければ遂行されなかった事を見ても、いかに日本の反動勢力が根強く、これに対する民主主義的な抵抗力がいかにひよわいかが判る。左の暴力だけが強く目に映ずるのは一つにはジャーナリズムのセンセーショナルな報道のためであるし、又一つには露わな暴力は感知しても隠れた暴力には平気で屈服する日本人の意識による事が大きい。日本の社会の封建的基盤を一掃することが、右、左、中間、いかなる暴力をも根絶する唯一の道である。」(集⑯ 「"社会不安"の解剖」1949.8.pp.7-9)
「今は"国家とは何か"ということが問われる非常にいい時期だと思うんです。つまり中越戦争、ベトナム・カンボジア戦争は国境の問題、領土の問題の本質を明らかにしている。つまり我々が昔大学で憲法を習いますと、国家の三大要素は主権者・人民・領土と教えられました。…やはり現代の社会主義の最大の問題は、伝統的な国家概念を一歩も脱していないということなんです。我々が習った国家概念がそのままなんですね。尖閣列島問題じゃないけれども、神聖なる領土とか言っている。神聖なる領土なんて社会主義のどこから出てきますか。ということは、逆に社会主義の中で国家論というのが階級という観点だけからできていて、我々が習ったブルジョア的な国家論‥に対して単純に国家死滅論というものが信仰されたために、その問題の重みというものが本当に反省されなかった。
 ところで、領土というのは実に深刻な問題ですね。私は日本というのは将来こんな狭いところにこういう国家観念がある間はもう浮かぶ瀬ないと思うな。つまり領土とか、そういう観念をなくしていく以外ないんですよ。領土というのはどこに線をひっぱるかということでしょ。パスカルが言っているように、「この線の向こうで人を殺せば英雄になるし、こっちで殺せば殺人になる」と。変なものですよね、実にこれは。だけど、領土というのはそういう重みをもったものなんです。領土とは主権がおよぶ範囲です。ですから、国家主権によって我々は保護されているわけです。金大中事件というのはまさに国家主権の侵害でしょ。私が日本の右翼が如何にインチキかと思うのは、真っ先に怒るべきなのは金大中事件なんですよ。だって首都の真中で国家主権の侵害がなされたということに対して全然怒らないで、日本の右翼というのは元号とかなんとか言っているわけですよ。いかに本当の意味で国家観念がないか、といえる。‥左翼は逆に国家観念というものを定義し直さなければならない。そういう意味で私はやはりゆるいかもしれないけれども、ヴァンガード[前衛、先駆者]として新憲法でもって新しい-つまり武装しない国家というのは、はじめてですからね-国家の定義をくださないと、日本は国家ではないことになってしまう。「諸国家の公正と信義に信頼して、日本の国の独立を保持する」なんていうのは、伝統的国家概念から絶対に出てこないです。みんな武装をして自分の国の独立を保持しているんですから。だから、そういう意味で日本はヴァンガードたらざるを得ないんですね。中国もソ連もでっかい国でね、それがアンシャン・レジーム[旧体制]から継承した領土を何の矛盾もなく自分の領土としているでしょ。どうしてこれが革命的と言えますか。ちゃんちゃらおかしいと言いたいんだな、私に言わせれば。全く伝統的な国家概念を継承しているんです。領土は御先祖様からもらっている。ちょうど親の遺産をそっくりもらって、それを湯水のように使いながら社会主義者になっているのとよく似ているんです。だから国家というのはそれだけ現在の問題的存在なんですね。」(手帖12 「慶應義塾大学 内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(下)」1979.6.2.pp.13-14)
「(大山郁夫の『政治の社会的基礎』(1923年)及び『現代日本の政治過程』(1925年)が日本の政治学の発達の歴史における画期的な意味を論じて)「第一には、政治現象というものを下から解明しようと試みた、ということであります。…『政治の社会的基礎』という題をつけるということは、まず第一に、国家と社会との区別を前提としております。…日本語の「くに」という言葉は、古事記・日本書紀にすでに出て参ります。そして今日まで「くに」は同時に国家であります。‥日本の国の連続性、‥少なくとも六、七世紀以来の驚くべき連続性があります。文明国としてはほとんど例外的な連続性があります。
 こういうことからして、国家というものが全体社会であって、社会という概念は逆になかったわけです。これは福沢とかいろんな人がsocietyを「社会」と訳して、はじめて社会という言葉が定着したぐらい、社会というのはなかった。つまり、「くに」というものの中に包括されていた。ですから、社会の中にあるいろいろな集団というものは国家の中の存在、国家あっての存在ということが自明の理とされていたわけです。ですから国家と社会の区別をするということ自身が、日本ではそう自然にできることではなかった。国家と社会の区別をするということは、社会を国家内の存在として見るのではなく、逆に国家を社会の中の存在として見るということです。ちょうどその意味ではコペルニクス的転回であります。つまり、国家というのはすべてを包括するところの全体社会ではなくて、多くの社会の中の一つの社会ではないか。…
 こういうふうに見てきますと、初めて、政治における民衆というものの意味とか、あるいは世論というものが、政策決定に対してどういうインパクトを持っているか、というような問題が登場してくるわけです。‥社会を国家内の存在として見ないで、逆に国家を社会内存在として見るということは、いろいろな社会集団の独自性の着目です。‥そういう社会集団は、国家によって初めて存在を与えられるのではなくて、それ自身の存在根拠を持っているという見方になるわけです。これは当然、国家主権の絶対性の否定につながるわけです。‥つまり、今までは国家と、国家に服従する公民ないし個人、そういう二つの図式で描かれていたものが、個人も、いろいろな社会集団に組織化された個人、あるいは一人の個人がいろいろな社会集団に同時に参加する‥そういう問題。
 同時に、今度は国家の位置づけをやりますと、国家というものは、他の社会集団の上に位するものではなく、他の社会集団と並列する一つの社会集団‥。国家には国家としての特徴があります。例えば物理的強制力の独占です。簡単にいえば、正当な暴力の独占というものが国家の特徴として挙げられます。‥しかし‥そういう制裁手段を持っていることは必ずしも国家だけの特徴ではない。‥どんな団体でも制裁規定がある。…したがって、それだけ認識論的にも価値的にも、国家の絶対化を排して相対化する、他の社会集団と並列させてこれを相対化する、という意味を持つわけです。
 それから、第三には‥政治というものを動態的に見るということです。‥いろいろな国家なり何なりの制度の、法的な説明というものだけでは足りない。その現実に動いている姿及び現実に運用されている仕方、そういうものを眺めていくということになります。国家は伝統的に申しますと、国家の目的から定義されてきた。例えば文化国家とか、福祉国家とか、あるいは法治国家とか、いろいろな国家論がありますが、これらはみな、国家は何のためにあるのかという目的から定義されている。それは同時に国家の理想とされてきた。そういう国家の目的ないし理想というものから定義すると、どうしてもそれは静態的な、スタティックな定義になる。そうではなく、先ほど申しましたような社会集団の独自性というものの認識の上に立って、そうして、社会集団の相互関係、相互交渉というものの中から、国家の政策が生まれてくる、というふうに見ていきますと、つまり下から見ていきますと、これはもっぱら動態的考察-政治過程の考察になるわけです。…
 コミュニティとアソーシエーションとの区別。community-よく全体社会、あるいは基底社会とも訳します。それとassociation-結社との区別。国家は決してcommunity、共同体ではないんだ、国家はassociationなんだとする。‥つまり、国家を結社の一つとして見て、したがって他の結社と並べて相対化するわけです。」(手帖1 「大山郁夫・生誕百年記念に寄せて」1980.11.20.pp.7-12)
「中野(好夫)さんほどの知性をもった人が、国策が決まった以上それに従うのが国民の義務だ、ということを信じて疑わなかったということは、中野さんが正直に書いているだけにぼくらにとってはおどろくべき問題ですね。国家を超えた価値というものにコミットしてないということです。それは、明治生まれの日本国民が、幼児から叩き込まれた教育というものがいかに恐るべきものであるかということをも示しています。‥ただちょっと時代が違っただけで中野さんは兵隊にもとられず、特高に追い回される経験もなかった。ぼくらは幸か不幸か近代日本の最悪の時期に青春期をおくり、兵隊にとられて毎日ぶんなぐられ、その前は共産主義者でもマルクス主義者でもないのに、特高に追い回されたという経験をもっている。おのずからそれが国家というものに対する見方のちがいとなってあらわれます。国民の義務とは何なのか、ほんとうの愛国心とはどういうものなのか、その時々の政府が決定したことが国策になるとき、それはほんとうに日本の国家にとってもいいことかどうか-それは国家が決めることじゃなくて、国家を超える価値を規準としてはじめてその国家がやっていることが正しいかどうかがわかることです。これはほんとうは自明の理なんだけども、その自明の理を中野さんのような知性といえども戦争前まで気がつかなかった。敗戦によってはじめて致命的な錯誤を冒したと気づいた。‥明治以後の日本の教育の効果というものはいかにおどろくべきものだったのか、ということです。」(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.177-178)
「近代知識人の課題に必然的につきまとうディレンマがあります。‥一つは、真理の普遍性に対する信仰です。これは言いかえれば、世界市民的な側面ということになります。‥身分社会から解放されて、思想の自由市場で多様な世界解釈を競うわけですから、どうしたって、ユニヴァーサリズム(普遍主義)の側面を持たざるをえない。普遍的な「世界解釈」の提供者ですから、真理の普遍性に対するコミットメントが一つの側面です。
 しかし、他方、‥目的意識的近代化の役割を課せられているわけですから、知識人に寄せられる期待なり役割なりは、どうしても特殊な集団に限定される。たとえば、日本をどういう国にするか、日本という国の独立をいかに計るかというふうに限定せざるを得ない。これは、さっきの真理の普遍性とは逆に、パティキュラリズム(特殊集団主義)へのコミットメントです。世界とか人類の問題よりも、まず日本を優先することになります。ここに当然ディレンマがあるのです。そうして、目的意識的近代化とは必ず計画的な近代化ですから、同時に選択的な近代化になります。何もかも一度にやることはできない。とすると、何を先にし、何を後にするかという優先順位の設定という問題が出てくる。これが‥『文明論之概略』を貫通する一つの大きなテーマになっています。…これが、いわゆるナショナリズムとインターナショナリズムの問題となってあらわれてくるわけです。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.pp.53-54)
 「その一つは、民族のアイデンティティ、同一性の問題です。これは‥伝統と欧化、あるいは伝統と近代化の問題になります。日本がいったいどこまで「欧化」してしかも相変らず日本でありうるのか、という問題です。これは実は今の日本でも解決していない。一般的には、過去を変え、あるいは変わって行きながら、しかも同一性を保っていくこと、これが国民あるいは民族のアイデンティティの問題であり、そこにディレンマがあるのです。…
 つぎには、制度的な革命と精神革命の間の問題です。…福沢の言葉でいえば、文明開化の進展と独立自尊のディレンマです。…
 第三には、国内の改革と対外的独立の確保のあいだのディレンマです。…対外問題を考えていると国内の自由平等の実現が遅くなる。さりとて、国内的変革を遂行しようとすると、こんどは西欧の圧力に抗して独立を保持するという切迫した課題に間に合わない。‥これが自由民権と国権確立とのあいだのディレンマですね。
 四番目に言うならば、民主化と集中化のディレンマです。民主化というのは具体的にいえば四民平等、それから地方分権です。福沢は、この地方分権を強く唱えています。国権論を唱える一方で、同時に地方自治の確立を強く主張している。…
 これも今でもあらゆる「後進」国の近代化につきまとっている問題だと思います。中国で民主集中制といっているものは、その苦しいディレンマの表現だと私は思います。これは言葉で言っても、それだけで解決する問題ではない。集中の方に重みをかけてくれば民主化の方がどこかへ行ってしまい、反対に民主化におもりをかけるとアナーキーの傾向が出てきて、集中化(したがって計画化)ができない。そういうディレンマです。」(集⑬ 同上pp.55-58)
 「(福沢によれば)日本人が日本の領土において支配している限り国体は続いている、他国人が日本の領土を支配するようになったら国体は断絶したという、こういう定義です。ですから彼の定義によれば、日本はこんどの敗戦によって国体は一時断絶したことになる。ポツダム宣言を受諾してマッカーサー司令部の力に主権者の天皇が従属したとき、国体は断絶した。この場合、君主がいても国体が続いているとはいえない。‥
 この「国体」という言葉ほど、日本の近代を通じておどろくべき魔力をふるい、しかも戦後、急速に廃語になった用語は少ないと思います。ポツダム宣言受諾をめぐって最後まで御前会議で紛糾したのが、それによって「国体」は変更されるかどうかということでしょう。あんなギリギリに至るまで、支配層のなかでさえ、「国体」についての定義がきまらなかったのです。定義が明白なら、もめることはなかった。…これ(ポツダム宣言)を受諾することで果して国体が維持されるかどうかで最後まで解釈が分れ結局最後に、天皇が自分は護持されたと解釈する、という「聖断」を下したので終戦が決まるわけですが、宣言の解釈がきまらず、御前会議でもめている間に原爆が投下されたのですから、ずいぶん大きな犠牲を払ったものです。」(集⑬ 同上pp.156-157)
「「くに」という言葉は記紀に出てくる最も古いやまと言葉の一つ‥です。古来から、日本ほど領土・言語・人種などの点で相対的に連続性を保ってきた国は世界でも珍しい。しかし、いま「ネーション」に対応するコトバとして国というものを考えてみると、いまだ国の体をなしていない。政府と人民との「対立の統一」としてのネーションはいまだできていないのだという一大逆説がここに提示されています。これは今日でもまだ生きている命題だと私は思います。‥
 この「くに」という言葉の多義性が近代日本ナショナリズムがふるったおどろくべき魔術的な力の秘密でもあるのです。「くに」はいくつにも相似形に重なった構造をなしています。いちばん外に「大日本国」という国がある。その中に出羽の国とか、播磨の国とかいう場合の「くに」がたくさんあります。さらに今日でも「くにへ帰る」という場合のように自分の祖先が住んでいた「郷土」という意味の「くに」が最小単位をなしています。これらが相似形をなして重なっているでしょう。そこで自分にいちばん近いクニにたいする自然の愛着心を、いちばん大きな大日本国というクニに比較的たやすく動員できるのです。‥日本語ではさらにおどろくべきことに、政府も「くに」なのです。‥カントリーが同時にガヴァンメントをも指すわけです。日本の「くに」という言葉がもっている魔術の秘密というのは、それです。
 けれども同時にその魔力はネーションの意識のおどろくべき低さと背中合わせになっているのです。「くに」への依存性・所属性の意識は非常に強く、その半面、この「くに」は俺が担っているのだ、俺の動きで日本国の動向もきまるのだ、という意識は非常にとぼしい。ですから、第二次大戦の末期に連合国が日本を見損ったのも無理はありません。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.pp.160-161)
「「国家」というのは漢語ですが、漢語の場合にも、家と国と両方をいうときには、「家国」とふつうはいいます。「国家」というと、中国の場合でも、君主(または朝廷)と同じ意味に用いられます。日本語の訓読では、ミカドです。『日本書紀』にすでにこの訓(よ)みは出てきます。国家と書いてミカドですから、今日でいう国家ではない。福沢は王室だけでなく武家の場合も同一に見て、近代国家、つまり、人民が政府とともに構成体であるような国家と区別しています。ヨーロッパでも絶対主義国家時代の国家には人民は包含されていません。官房国家(カメラールシュタート)というような名でよばれるように、王室の財政と国家の財政とも区別されていないのです。また江戸時代の漢文で「国家」という言葉を用いているのは大抵「藩」を意味します。ですから、福沢が「国家」という表現をおかしいと見ていること自体が新しい考え方なのです。今日でも「国家」という場合を福沢は国家といわず、たんに「国」と表現しています。「政府を富ますを以て御国益などゝ唱ふる」のも彼によると「甚だしき」因習ということになるわけですが、今日のナショナル・インタレスト論でも、そういった混同はないとはいいきれないのではないでしょうか。」(集⑭ 同上pp.209-210)
 「多様な人心は多様な価値と多様な意見を生み、政府はそれを統合しなければならない。近代国家はその意味で、多様性における統一(university in diversity)であって、たんに治者と被治者があって、それが分れて固定的に存在しているだけではない。福沢のいう「治者と被治者」はあくまで政府と国民との関係とはちがうのです。ここで福沢は、日本の政府と国民との関係を、ヨーロッパ近代国家に対比して「主客」-主体と客体-といっているだけでなく、徳川幕府の対大名、対人民政策を評して、「同国人の所行と云う可からざるなり」とまで極論しています。‥「日本は古来未だ国を成さず」‥という命題の系(コロラリー)です。」(集⑭ 同上p.212)
「日本が主権的国民国家として西欧的国家体系の一員となることは、明治七、八年の福沢にとっては、また福沢の同時代人にとっては、まだ課題であった、ということを忘れてはなりません。
 福沢の課題は二つあります。一つは日本を「国民国家」にすることであり、もう一つは日本を「主権国家」にすることです。第二次大戦までの日本が、いやひょっとすると今日の日本でさえ、福沢がこれまで縷々(るる)述べてきたような意味での「ネーション」形成を完了したといいきれるかどうかについては、これまでの私の拙(つた)ない説明を通じてでも、皆様の中に疑問が生じうることは予想されます。…「日本には政府ありて国民なし」と‥断じたときの福沢は主として「国民国家」を課題としていたわけですが、この結章での眼目は日本を国際的に一人前の「主権国家」にするということに置かれているわけです。」(集⑭ 同上p.281)
「1920年代に多元的国家論という国家論があったのです。政治的多元論とも言うんですが、つまり国家というのは多くの団体の中の一つの団体に過ぎない。我々は大学にも属しているし、何とか組合にも、社民連にも属している。しかし国家にも属している、と。国家だけが忠誠を独占できないということは現実になっているんです。その意味では、‥むしろ自由民権運動時代の方が進んでいます。国籍を"奉還する"届けを出して、処罰されましたけれども、そんな人は今はいないんじゃないですか。我々はやっぱり国家にすがって生きている面がある。その現実を無視してはいけない。しかし国家がもはやメンバーの忠誠を独占できないし、メンバーの活動を国家だけが制限することはできない。ということは逆に言うと、国家が国家としてやって良いこととやって悪いことがある。やって悪いことがあるということを、徹底して教えなきゃいけない、教育で。それは国家を否定することでも何でもない。国家も一つの団体に過ぎない。大学とか教会とか総評とかアムネスティとか、そういう諸団体のうちの一つが国家なんです。」(手帖12 「伊豆山での対話(上)」1988.6.4.pp.57-58)
「「国家理性」の問題、レゾン・デタというのは中国語に訳しにくいけれど、消去法的に言うよりほかないんですね。「国家理性」という概念が出てくるのは絶対主義時代のマキャベリ以後ですけれど、個人のモラルと国家のモラルとは違う。国家が国際関係のパワー・ポリティックスの中で行動する時には、そんなきれいごとを言っていられないという面がある、「マキャベリズム」という言葉が出てくるように、国際権力政治の中で国家の存立を全うしていくという問題。これは個人関係にない問題。そこから出てくる問題が国家理性の問題なんです。実際には絶対主義の時代から出てくるわけです。実際には絶対君主の利害と違った国家の利害とか国家の必要とか、英語ではずっと遅れるけれど、ナショナル・インタレストという言葉が、「国家理性」の問題なんです。絶対君主の利害とか王朝の利害とか…から分離された国家の必要、国家の存立というものが支配階級の存在と区別されて意識される時に初めて、「国家理性」の問題が出てくる。マイネッケの本(『近代史における国家理性の理念』)がそういう趣旨でずっと書かれています。
 ぼくが戦争中にマイネッケを読んで一番面白かったところは、最後の「国家理性の堕落」のところなんです。彼に言わせれば、ビスマルク時代のドイツが健康な国家理性があった最後なんですね。第一次大戦直前のドイツがビスマルクとビスマルク時代のドイツと対比されているわけです。ヴィルヘルム二世やベートマン=ホルヴェークとか、そういう連中になると、国際関係に対する冷徹な見通しの上に立って、その中でドイツがどうやって生きるかという問題じゃなくなって、国民の間に興った狂熱的な愛国心に引きずられちゃうんですね。彼はミリタリズムと資本主義と技術革新だったかな、三つぐらいを国家理性堕落の原因に挙げていますけれど。もちろん為政者の無能というのがあるんだけれど、自分で見通しを持たないでズルズルベッタリに状況に引きずられちゃって、特に、いまの言葉で言えば、情報社会化すると、国民の間に排外的な狂熱的な愛国心的な感情が高まって、為政者がコントロールできなくなっちゃう‥。ズルズルベッタリに破局にいくんですね。それをマイネッケは「国家理性の堕落」と呼んでいて、結章にしているんですね。国家理性の中にマキャベリズムにいく危険な要素もあるけれども、健全な時には権力の自己抑制の意識がいつも働いている。それが失われていく。それが、戦時中に読んでいて、我が身につまされるようだったんです。」(手帖61 「丸山眞男先生を囲む会(上)」1991.8.4.pp.8-9)
 「福沢の国権論のこともそうですね。…彼の明治10年以後の国権論は明らかに『文明論之概略』とは-もちろん『学問のすすめ』以前とは-違って、国権論に非常にアクセントがかかっている。これはまさに国家理性の問題なんですね。極東に帝国主義が殺到するのはちょうどその頃です。結局、具体的な状況から一番危険なのは帝政ロシアです。明治10年代頃から南下の勢いはすごかったわけです。日露戦争まで含めて南下政策なんです。日清戦争は朝鮮をめぐる日清間の衝突なんだけれども、すでにそこに列強が介入している。文字通り、食うか食われるかの戦いになっちゃうわけです。座して朝鮮がロシアの勢力範囲内に入ったらどうかと言うと、やっぱり日本の独立は非常に危ないわけです。その問題を離れて国権論というのは言えないんです。…
 だから、明治の国権論というものの性格を本当に議論したならば、ぼくの経験では中国の人はだいぶ分かっていますね。一番大変なのは朝鮮だな。これは「併合」しちゃったからね。「併合」という事実は否定できないでしょ。みんな「併合」のために着々としてステップを踏んでいたという、そういう見方。そう言われてもしょうがない、結果論から言うと。実際の外交史を見ると、伊藤博文そのほかの当局者もいい加減なんですね。直前まで思いも寄らない、朝鮮の併合なんか。ただ、ロシアとかイギリスとかが足場を築くということにはものすごく敏感なの。だから、日本のやったことのどこまでが侵略でどこまでが防禦かということが、区別がつけにくい状況ですね。」(手帖61 同上pp.9-10))
「良心的兵役拒否というのを制度的に認めているのは、なぜですか。クエーカー教徒が、戦争が嫌だからというのではないの。そして、それを国家が認めているわけ。それはどうしてですか、ということです。これが、理念が国家を越えているということ。〔日本では〕何でも国家が単位で、国家の理念で。そうすると国際基軸というのは国家が何かをするということで、国家以外の団体とか個人が国家を飛び越えて直接何かをするということではないわけ、日本の観念では。これはどうにもならない島国の考え。しかしこれ〔を変えるの〕は容易なことではないですよ。」(手帖49 「「楽しき会」の記録1991.12.22.p.57)
「(日本の今後について)今まではみんなモデルがあった。これからはモデルのない社会。それをどうするか、それが問題。日本は中国をモデルにしてずっとやってきて、それからスイッチを切り替えて、ヨーロッパをモデルにした。中国はそういうことはできないわけですよ。日本みたいに切り替えられないです、中華帝国なんだから。…
 目的達成能力ですね。目標達成能力は最大で、目標選択能力はそれからやや落ちて、新しい目標を設定する能力は最低。だからモデルがなくなった時に困る。目標設定能力の問題になってくるから。明治の時も選択なんです。中国はダメだと中国を選択からはずして、ヨーロッパを選択する。その選択能力はたいしてものです。しかし今や選択能力だけではダメで、新しい目標を設定する能力が必要なんです。」(手帖49 同上pp.60&64)
「(「お上」という言葉があるのは日本だけでしょう」という問いかけに答えて)日本だけです。それから「クニ」が政府を意味し同時に国家を意味するのは、日本語だけです。governentとnationは違うんです。クニというのは本来我々なんだ。クニという魔術なんです。郷土がクニということは、世界的に-ハイマートとかカントリーという-そうです。カントリーは、田舎という意味と国という意味がある。だが、governmentと一緒というのは、governmentとnationが一緒というのは日本語の特色。お上もそこから出ている。だから公という字が日本に入ってきた時に「キミ」なんです。公というのは、パブリック・ガーデンとか、そういう意味なんだ本来は。だから図書館、博物館、公園-つまり、みんな日本になかったもの。これがパブリックの代表なんです。パブリックというのは、オオヤケ。オオヤケというのはウエ。ウエというのはキミ-天皇上に立ち-これが同じになる。これはやっぱり独特ですね。
 (「向こうでは、パブリックというと自分たちのことなんですね」という問いかけに答えて)だからタテの概念ではなくて、ヨコの概念なんです。パブリック・オピニオンになって初めてわかるんです。ヨコの概念です、世論というのは。」(手帖34 「ある日のレコード・コンサートの記録」1992.3.pp.21-23)
「われわれが何気なく使っている‥「公共」という言葉の使い方は、〔近代以前には〕ほとんどないんですね。
 〔「公共」の「公」-〕「公(おほやけ)」というのは、古くは「公家」-「武家」に対する-とか、江戸時代では「公儀」-当時の文献では「幕府」という言葉はほとんど出てこない-ですね。つまり、「公」というのは、「お上」なんです。〔逆に言うと〕パブリックという観念は、非常に新しい。
 だから、幕末から明治にかけて、福沢の様にヨーロッパに行った人も、吉田松陰みたいに行かなかった人も、一様に感心しているのは、公園・博物館・図書館・孤児院・病院といったパブリック〔な施設〕ですね。松陰も、それをヨーロッパの新しさとして言っています。そういう、ヨコのパブリックという観念自身の新しさ、それが僕には気になるわけです。それは当然のことではないわけです。」(手帖32 「第78回マックス・ヴェーバーの会例会にて」1992.7.11.p.10)
「日本政府も国民も含めて、日本がどうして難民問題について比較的関心が薄いのかということの歴史的背景には、日本が東アジアでいちばん早く主権国家として世界に認められて、世界秩序に入ったということが深く関係している。それと日本の地理的位置とが深く関係している。「国」という言葉の曖昧さを見ればいちばんよくわかります。例えば、私の国は土佐ですと言う。それは故郷でしょ。国の支出でと言う時は、政府。アメリカに対して日本という場合は、国民と政府全部含めての国でしょ。国という言葉は非常に多義的なんです。こういう多義性は他の国の言葉にはありません。governmentとnationが同じ言葉で表現される。‥普通、外国では政府と国家とはちゃんと区別した言葉を使う。中国だってそうです。日本語には「国」という非常に便利な言葉があるので、そこがこんがらがるんです。‥
 (死刑廃止問題に関して、「世論というのがどこにいるのかわからない。また政府という時の、政府というのはどこにいるのかわからない」という発言を受けて)あなたが悩んでいることは、決して日本政府の問題じゃないです。我々の意識の問題です。日本政府もそれを反映しているに過ぎない。我々の意識とは何かと言うと、非常に簡単に言えば、ウチとソトという区別です。その区別の持っている強烈さです。英米仏、ヨーロッパのどこに、うちの会社は、という国がありますか。そういう言い方はないです。‥例えば、英語でstrangerという言葉がありますね。外国人。それはめったに使わない。strangerは余所(よそ)者という意味のほうが多いんです。外国というのは、strange countryですが、日常会話では、strange countryという言い方はまずしない。イギリスは、ベトナムは、朝鮮は、中国は、と言います。外国はという言葉は非常に日本的です。これは僕の言うウチ・ヨソ意識に深く根ざしている。難民というのは余所者なの。余所者の中の最も余所者なんです。そういう意味で関心が薄いんです。ウチに近いほど関心が深い。そういう世界像の問題と深くかかわっている。それは非常に難しいもので、世論の問題とは違うんです。‥日本の不幸なところは、主権国家になっちゃったでしょ。主権国家になったということは、世界的に独立国家として認められたということ。ところが、日本は古来から政治集団として独立しているんですよ。大和朝以後、少なくとも五、六世紀、遅くみも六世紀以来、一つの政治集団なんです。外国に征服されたことがない。言わば自主主権国家なんだな。これは、日本の地理的条件が非常に大きいです。大規模な人種混淆を知らない珍しい国。‥これはどういうことかというと、ウチ対ヨソという意識が非常に強くなる、異人種との交流がないわけですから。それを克服するのは容易ではないということ。」(手帖54 「「アムネスティ・インタナショナル日本」メンバーとの対話」1993.12.20.pp.10-11)
「「公」という観念が、いまだと上と下の関係だけなんです。上が「公」で、下が「私」。そうじゃなくて。パブリックガーデンとか図書館とか。みんなパブリックでしょ。幕末に吉田松陰が一番驚いたのが、西洋のパブリックの概念なの。図書館、博物館、公園。当時の伝統には全部ないです。あの攘夷論者の松陰が一番感心しています。横のパブリックの観念、それが広がる度合いで、国家が「公」の代表じゃなくなるんです。皮肉なことに、阪神大震災を通じて、日本語にない「ボランティア」が初めて通用しだした。前からあったけれど、社会全体に通用し出して普通の言葉になった。それに対応する日本語がないということが、象徴的。横のボランティア活動がなかったから、日本語にはそういう言葉がないんです。
 …今回の阪神大震災のボランティア活動は画期的ですね。関東大震災の時に自警団という市民団体があった。これはもう悪いことをやった。朝鮮人を虐殺したのも自警団ですから。‥自警団には助け合うというのがなくて、文字通り、治安維持、自警。」(手帖66 「「丸山眞男先生を囲む会」最後の記録」 1995.8.13. p.39)