中国的人権・デモクラシー

2016.4.29.

「modernizatio=westernizationという定式をはじめて完全にぶちこわしたのが、中国革命だ。それまでは(近代化とは)西欧国家への仲間入り(「国際社会」)、西欧文化の移入を多かれ少かれ意味した。
 ロシアは、ピョートル大帝以来、深く西欧圏と結ばれた。ナポレオン戦争-神聖同盟-第一次大戦という過程で、ずっと引続きヨーロッパ社会の一員として行動した。だから帝政ロシアの文化・芸術も西欧と離れがたく結びついている。‥ボルシェヴィズムもアジアの目覚めではない。アジア的特性をもちながら、ヨリ深く西欧社会の胎内での革命だった。反之、中国革命は、徹底的に西欧にたいする「外からの」チャレンジだった。」(対話 p.42)
「三民主義が何故に支那思想史上、国民大衆の内面的意識に支持された唯一のイデオロギーとなりえたか。何故今日に於て国民政府も重慶政権も、延安政権も競って自己の正統性を孫文とその三民主義の忠実な継承者たる点に根拠づけようとするのか…。この「鍵」を解くことなくしてそもそも支那問題の解決もありえないとするならば、事は決して単なる「方法論争」ではなくまさに我々日本国民が主体的に取上げるべき問題なのだ。そのためにはもっと三民主義をその内側から、内面的に把握せねばならぬ。…
 しからば孫文主義の内からの理解とは何か。私はそれはなにより孫文自身の問題意識を把握することだと思う。孫文は何を語ったか若(もし)くは何と書いたかではなくして、彼が一生を通じて何を問題とし続けたかということである。彼が現実を如何に観たかということよりむしろ、彼は如何なる問題で以て現実に立ち向ったかという事である。」(集② 「高橋勇治「孫文」」1944未刊 p.271)
「孫文自身は、支那革命の課題というものは…帝力、我に於て何かあらんやという、そういう非政治的な自由を享受する、いわば被治者としての意識しかもたない国民大衆に、国家のことを主体的に担うところの精神、国家あるいは政治というものをみずからのこととして自分の肩に主体的に担っていくような精神、そういうものを、人民大衆の中に起こさせていくということが孫文の第一の課題である。…
 …つまりなんら社会的結合力がない、一片の散沙にすぎない民衆を集めてセメントにする。これはどういうことかと言えば、非政治的な自由を享受しているところの人民を、近代的な国民にまで鋳直すということが支那革命の目的である、というふうに彼は考えたのであります。…被治者意識しかもたないところの個人を、政治的な国民、政治をみずからのこととして遂行するところの国民にまで育て上げていくということが三民主義の課題である。そうしてこれがまさに孫文の政治教育の目標であった‥。言い換えますならば、全人民を政治化する、政治というものを人民のものにすると同時に政治を人民化する、人民の全生活と政治とを直結するということが、孫文の課題であった‥。」(別集① 「孫文と政治教育」1946.4.6.pp.88-90)
 「東洋の従来のイデオロギーというものは、治者と被治者を完全に峻別する立場に立っており、‥治めるものと治められるものとの間の本質的な区別ということがあらゆる支那の政治思想の共通の前提であります。…孫文がもっとも力を傾けたことは、‥政治というものはけっして治者のことではなくて、まさに被治者のことである、ということを力説することにあったわけであります。…結局彼の民族主義にしても、民権主義にしても、あるいは民生主義にしても、そのもっとも核心となっているものは支那全民衆の政治化、‥ということであって、そういう意味で、支那革命の最大の課題というものは民衆の意識の改造であるというふうに言うことができる。…いわば非政治的な自由平等というものに代わる、まさに政治的人間の造出ということであったと思います。」(別集① 同上pp.91-94)
 「国家の改革とは人心の改造である。意識の革命が国家の革命の目標である。‥いかに外部的な機構を改めてみたところで、結局意識の改革ができなければ、それは砂上の楼閣にすぎない。‥外部的な機構の改革というものは、結局意識の改革の前提たることにおいてはじめて意味がある。…精神の革命がともなった革命にしてはじめて本当の革命であるということが、孫文の根本的な信念であったのではないかと思います。
 したがって…非政治的な、非社会的な意識に数千年来閉じこめられていた支那の国民大衆をはじめて政治的世界に大規模に導入するということ…を孫文がとにかく一生をかけて遂行したことによって、支那の歴史というものにはじめて数千年来の固定と停滞から脱して、今日もなお続くところの一つの大きな世界的な歴史的な運動のただ中に支那の社会が飛び込むということになるのであります。…デモクラシーの問題にしても、つまり民権主義の問題にしても、孫文にとっては、従来の教義の政治上のデモクラシーというよりはむしろ社会的なデモクラシー、日常生活の中にデモクラシーを実現させていくということが、第一の問題であったのであります。…民権ということを言うとすぐに非常に上部政治構造の変革ということを問題にしやすい傾向に対してむしろ警告して、まず日常生活そのものからデモクラシーというものを築き上げることに孫文はもっとも意を払った‥。ですから、全民衆を政治化するということは、民衆に床屋政談的な意味で政治を語らせるというようなこととはむしろ逆な意味をもっているもので、…そういう意味における政治的関心というものではなく、もっと日常生活すなわち政治である、‥パンを食うことがすなわち政治であるとされたのです。」(別集① 同上pp.94-97)
「客観的価値の権力者による独占ということから権威信仰は生れる。…良心的反対者を社会がみとめていないということである。シナの儒教思想にはまだしも価値が権力から分離して存在している。即ち君主は有徳者でなければならないという所謂(いわゆる)徳治主義の考え方で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日本の場合には、君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であった。そこには客観的価値の独立性がなかった。」(集③ 「日本人の政治意識」1948.5.p.324)
「一般に旧社会構造の強固なところでは労働運動とか社会運動とかおよそ既存の秩序なり支配なりに対するチャレンヂは、同時にその支配秩序に内在している価値体系なり精神構造なりをきりくずして行かなければ到底有効に進展しないという本質的な性格をもっている。中国革命はその事を巨大な規模において実証した。」(集④ 「ある自由主義者への手紙」1950.9.p.331)
「中国は支配層が内部的な編成替えによって近代化を遂行することに失敗したために、日本を含めた列強帝国主義によって長期にわたって奥深く浸潤されたが、そのことがかえって帝国主義支配に反対するナショナリズム運動に否応なしに、旧社会=政治体制を根本的に変革する任務を課した。」(集⑤ 「日本におけるナショナリズム」1953.10.3.p.64)
「(昭和二五年)一一月号の「「基督教文化」における「ニーバーの問題点と日本の現実‥」という座談会でも、私はこう言っている。
「西欧的自由という一つのアイディアというものが西欧社会に体現されていて、それとまったく対立したアイディアがコンミュニズムの世界に体現されている。こういうふうに観念的に見ていいかどうか、……アジア社会、例えば中国においては‥コンミュニズムというものが、歴史的にはブルジョアジーが西欧的自由を打立てていった、それと同じダイナミックスを東洋の現実の中で実現しているということもいえるのではないか。…東洋のようないわゆる後進地域ではウェスタン・デモクラシーそのままが植付けられるのではなくして、西欧的自由によって人格が解放されていったその歴史的過程というものが、ここではヨーロッパにおいてそれを担った力よりも、"左"の力によって行なわれているし、また行なわれざるをえないという歴史的状況にある」
つまりアソシエーション(近代的結社)の力がコンミュニティ(伝統的共同体)への緊縛から解放された自主的な人格を創出するという過程は東西とも基本的に共通するが、アソシエーションの歴史的具体的内容やその階級的基盤は東洋と西洋とで全くちがうというのが私の考えなのである。むろん東洋といっても日本と中国は同日に論じられない。同じ座談会で私は、「中共が政権掌握に成功すると何んでもかんでも中共中共で、日本と中国の社会進化のちがいとか階級構成などの上で、中国の(革命の)型をどれだけ日本に類推できるかということについてはほとんど突込んだ反省が行なわれていない」。「中国の場合は比較的簡単で、現実問題として中共以外に中国を近代化する主体的力はないし、また中共にはそれだけの実力があると思うのです。…東洋社会ではコンミュニズムの力によって却って近代化が遂行されていると僕が言った意味は、コンミュニズムが、あるいは共産党が必ずヘゲモニーをとって、共産党独裁政権をしいて、それが主体となって近代化するといったような意味で必ずしも言っているのではなくて、つまり共産党というものが推進力になるという意味で言っているのです。…そういう意味で共産党が近代化のひとつのファクターになる。」(集⑥ 「現代政治の思想と行動第一部 追記および補注」1956.12.p.273)
「あらゆる革命政権が権力を掌握してまず直面する政治的課題は、旧体制の社会的支柱をなして来た伝統的統合様式を破壊し、‥社会的底辺に新たな国民的等質性を創出することである。それは同時に新たな価値体系とそれを積極的にになう典型的な人間像(たとえばフランス革命における「市民(シトロイアン)」、人民民主主義における「人民」)に対する社会的な合意(コンセンサス)をかちとる道程でもある。…この段階では形式的民主主義のある程度の制限が少くも歴史的に避けられなかった…。民主主義的諸形式はこの国民的=社会的等質性の基盤の上にはじめて円滑に機能し、後者の拡大と共に前者の拡大も可能となる。ルソーの社会契約説における原初契約が「全員一致」を条件とし、この基盤の上に多数決原則を正当化したことの意味はここにあり、それはまさに来るべきブルジョア革命の論理化であった。そうしてこの論理は中国の「百家争鳴」や諸政党の共存の前提にもそのまま継承されている。そこではまず「政治上においては敵味方をはっきり区別せねばならない」という原則が立てられ、複数政党の許容や百家争鳴は革命的等質性の内部においてのみ妥当する。…ここで敵味方を区別し異質的な「敵」に自由を否定するという際にも、「敵」は相対的であって、その具体的状況に応じての移行が前提されているわけである。…その基底にある論理はブルジョア民主主義の中にも内在しているダイナミックスであり、限界状況においてはつねに発動されることを看過してはならないだろう。…すでに西欧で長い歴史をもちその伝統と慣行が国民の中に広く根を下している西欧国家体制においてもこの法則が妥当するならば、社会主義的生活様式について「「一致がまさに空気のように存在し、べつに反省するまでもなく当然と受取られている」段階を急速に期待しえないことは明らかである。そうした「一致」の社会的政治的基盤が拡大される段階と範囲に応じて「自由化」もまたその具体的な相貌を変ずるであろう。したがって、今日の形態における「自由化」の限界をもって本質的な限界として水をかけたり、あるいは逆にこれを悉(ことごと)く社会主義そのものに帰属させて合理化することは早計を免れない。」(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3. pp.19-21)
「日本でももう少し「悠久」なものの見方から目前の事象を判断することをしてもいいのじゃなんでしょうか。竹内好さんにいわせると毛沢東には永遠という発想があるというんです。僕はそこはよく分らないけれど、もしそうだとしたら革命家としてもマルクス学者としても毛沢東という人はやはり図抜けているような気がします。」(集⑧ 「我が道を行く学問論」1959.5.4.p.103)
「中国というものは、長い間それ自身ひとつの宇宙みたいなものだったから、世界市民的発想も生れたが、そういう条件は今後は急速になくなって、中国もひとつの地域となって行くでしょう。その場合にただ中国には天下思想があるなどという伝統へのもたれかかりではすまなくなる。ですから、たんにヨーロッパ世界主義を中国あるいはアジア主義にかえただけでは、ちっとも問題の解決にならない。やっぱり一種の特殊の普遍化でしかない。」(集⑨ 「好さんについての談話」1966.6.p.338)
「日中戦争は国家としての帝国主義と運動としてのナショナリズムとのたたかいであって、中国のナショナリズム運動に日本帝国が敗れたというべきです。日本をふくむ帝国主義国家が土足で中国をふみにじってゆくその過程が、同時に新生中国の陣痛でもある。‥マクロの歴史過程でも解体が同時に新生の陣痛だ、という矛盾する両面をもって事態が進行している。」(集⑫ 「竹内日記を読む」1982.9.p.29)
「民主化と集中化のディレンマです。民主化というのは具体的にいえば四民平等、それから地方分権です。…
 これも今でもあらゆる「後進」国の近代化につきまとっている問題だと思います。中国で民主集中制といっているものは、その苦しいディレンマの表現だと私は思います。これは言葉で言っても、それだけで解決する問題ではない。集中の方に重みをかけてくれば民主化の方がどこかへ行ってしまい、反対に民主化におもりをかけるとアナーキーの傾向が出てきて、集中化(したがって計画化)ができない。そういうディレンマです。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986 pp.57-58)
「初めは暁部隊の〔船舶通信連隊〕暗号〔教育〕隊ですけれど、転属になって船舶司令部参謀部の情報班におりました。‥今の共同通信‥が出していたウィークリーをタネにして、国際情報というのを、毎週書かされていたのです。‥ぼくはあまり中国共産党のことはやっていなかったけれど、あの情報を書くことで、ずいぶん覚えました。トップレベルの朱徳とか、国共内戦で出てくる、いろいろな人の名前を、それで初めて知りました。」(回顧談・上 1988.4.-1994.11.pp.1-2)
(「儒教のなかにある自然法的な要素ポジティヴな面に注目されたのは、やはり戦後の「近代日本思想史における国家理性の問題」〔丸山集四〕あたりがはじめでしょうか。」)伝統的な自然法に近いものの考え方としては、そうでしょうね。むしろ戦後でしょうね。ただ、いまでもそうなのだけれど、儒教には自然権という考え方は決定的に欠落していると思うのです。儒教にそれはあるか。ぼくはないと思います。全儒教の歴史のなかで、前国家的、前社会的権利という発想自身がないと思います。権利という発想自身がまごうかたなく西欧の産物です。儒教には自然法思想はあるけれど、自然権という考え方はないと思います。」(回顧談・上 pp.253-261)
 「ぼくは‥敗戦の頃は、孫文をやっていた。東洋政治思想史ですから。‥いちおう読んだと言えるのは、梁啓超と孫文ですね。孫文には感心した。ナショナリズムとデモクラシーの結合は孫文から学びました。左翼文献の勉強からはナショナリズムの契機は出てこないのです。民族・民主・民生の三つと、それから政治思想として大したものだと思ったのは、軍政・訓政・憲政という三段階論ですね。はじめは軍事独裁。それから教育独裁の訓政。これなんかたいへんな感覚ですね。今だって、中国共産党のやっていることは、ここを出ていない。最後に憲政。これは第三世界に通じる革命の発展過程だと思うんです。それから今でも覚えているのは、伝統的な考え方をどう利用するかということ。その点では福沢の面白さと共通するところがある。たとえば、共和という思想の説明のとき、四億の民がみな皇帝になることだ、といった言い方をする‥。皇帝という伝統的な考え方や範疇を用いて新しい思想を説明していくのは興味深かった。…
 (「中国共産党のことは、敗戦の前に、どの程度の知識をお持ちだったのですか。」)ほとんど持っていなかった。唯一といっていいものが、スノーの『中国の赤い星』。‥指導者の個々の人名については、軍隊で覚えてよく知ってはいた。〔船舶司令部で〕国際情報ですから、同盟通信の週報がきていて、それに中国の動向が詳しく出ているんです。それをせっせとノートしたから。‥だから戦後役に立ちました。中国共産党が権力をとったとき、指導者の名前はよくわかりましたね、おかげで。…
 一般的にいうと、情報というものが当てにならなかったのは、日中戦争ですね。いわゆるシナ通の予測はほとんどはずれた。‥シナ通が日本を誤らせたとは、あまり書かれていませんね。シナ通の中国観というのは、パターンがあって、軍閥相抗争する国ですね。国民的統一への動きということは、およそ考えない。蒋介石も一軍閥にすぎない。‥どちらに国民を統一する能力があるか、したがってどちらに利用価値があるか。そういう見方じゃないんです。」(回顧談・下 pp.169-172)
「(日本に比べると中国は)村落共同体というものは日本よりはるかに強い。つまり中国の伝統的な帝国というのは徴税国家なんだな。人民の配慮をするとか、そういうのはなくて、要するに税を取ればいいわけ。上の方に国家の壮大なる官僚機構というのがあって、下にそれと-極端に言えば-無関係に、村落共同体というのがあって、非常に細い絆で村に派遣された官吏みたいなのがいるわけ。だから村落共同体の農民運動に対しては全く無力ですよ。ぱーっと農民暴動が拡がっちゃって、そして王朝が倒れちゃう-大体、農民暴動で。だけど農民暴動だから、切れているから上の方の機構を変える力がないわけ。するとまた新しい王朝ができちゃう。だけど古い王朝が倒れるときは必ず農民暴動で倒れる。その農民暴動は日本みたいに村に限られるなんていうことはないんですよ。わーっと拡がっちゃうんだ、中国の農民暴動というのは。…
 人民公社というのが革命的なのは、(国家と社会の二元論的みたいな)それを抹消したことなんですよ。つまり国家の機構が末端までいく機構でもあったんです。あれが中国史上、画期的なんです。つまり、人民を直接とらえたという意味では。しかし、それは逆に人民が上にいくという意味では、人民公社のデモクラチックな意味になるんだけれども、-毛さんはそう考えたのでしょう、恐らく-。だけどそれは初めて人民を直接にとらえる試みなんです。…
 日本は国が小さいせいもあって、末端まで届いちゃうわけ。‥自然村はありましたよ、確かに。あったけれども中国に比べると弱いんだな。つまり、行政村的なんです。…しかし山県[有朋]の地方自治制というヤツで徹底的に行政村が末端まで浸透する。明治二十一年の地方自治制というのはどういう意味があったかというと、自然村というのをなくすんですよ。戦後の農地改革でもっと徹底するんです-ほとんど自然村はゼロになっちゃう。農業の崩壊と両方ですけどね。日本の場合には水田耕作ですからね、基礎は。水田耕作を基礎にして部落というものがあって、部落共同体の或る独立性というのは江戸時代までは或る程度まではあったんです。それが近代国家になると逆になくなる。明治以後になると逆になくなる。
 中国の方がはるかに強い、その伝統は。中国の方がはるかに無政府主義的になる要素がある。無政府主義的になる要素があるから‥上から一生懸命押さえるのは無理はない。放っておくとアナーキーになる要素は、はるかに伝統的にいうと強いんです、中国は。」(手帖4 「「権力の偏重をめぐって(下)」1988.8.10.pp.52-53)
 「ワイマール時代に有名な論争があるんです。リベラーレ・デモクラティー=リベラル・デモクラシーとゲマインシャフツ・デモクラティー=共同体的デモクラシーと大論争があって十九世紀でリベラル・デモクラシーの時代はもう終わった、今やゲマインシャフツ・デモクラティーの時代になった、と。‥その時、共同体的デモクラシーを言った人はみんなナチにイカレたんです。リベラル・デモクラシーと言ったのが頑張ったのです。というのは、リベラルと言うと個人が残るから。共同体的デモクラシーと言うと、ゲマインシャフトの中に没入しちゃうんですよ。共同体の中に個人が。それでみんなナチに。ナチはデモクラシーですからね。やっぱりそれは。リベラルでないだけで。リベラリズムがないだけで、ナチは断然"人民の意志"ですから。人民の意志というのは、カール・シュミットが言っているように、‥算術的計算よりは、はるかに生き生きと人民の喝采によって実現される、という有名な言葉があるんですよ。…人民と結びつかなくちゃ絶対ナチスというのはないわけよ。だからデモクラシーの要素はあるんです。ただ反対する意見とかリベラリズムの要素はない。
 だからゲマインシャフトと言ってリベラルな要素を脱落しちゃうと、全体主義になっちゃう。スターリニズムもそうです。あれを反デモクラシーと言ったら間違いなんです、その意味では。やっぱり大衆の意志に基礎を置いているんですよ。毛さんだってやっぱりそうだと思う。全く[大衆と]無関係に独裁権を持ったのではない、その基盤があるんです。」(手帖4 同上p.55)
「僕は文革だって評価しましたね、結果が分かるまでは。あんなに権力と知識層が癒着しているところだったら、反知識主義になるのももっともです。何しろ儒教の国で政教一致でしょ。科挙制度に受かって出世していく以外に道はないわけですよ。役人はみんな秀才なんだ。昔から秀才が国家の中枢を占めるというシステムなんです。そこ日本と基本的に違う。サムライという野蛮人が出てきて、京都を無視していったという、それが福沢のいう日本の幸福なの。中国ではトップに叡智が集まっちゃうわけでしょ、しかも政教一致で、国家権力というのは民を教育しなくちゃいけないという立場だから、ある意味で権力を取ったコミュニズムに似ているんです。民は遅れていてこれを上から大いに階級意識、マルクス主義を植えつけて強化しなくちゃいけない、というのとうまく合う、まずいことに。まずい面も合っちゃうわけ。それで、まずい面はこちらはよく知らなかった。」(手帖61 「丸山眞男先生を囲む会(上)」1991.8.4. pp.12-13)
 「仮に1949年の中国革命後、中国共産党のやったことが全部間違っているとしよう-そういうことはありえないと僕は思うけれども-。それじゃ前と同じかと、逆に留学生に反問したのです。仮に中国が内乱状態に陥ったとする。いい機会だからまたあそこを租借しようと、日本を含めた西欧列強が出てくるかと。そういうことは考えられないと思うんだ。帝国主義の時代は永遠に終わった、と。そこには歴史のある不可逆な動きがあった。誰が終わらせたのか。中国共産党以外終わらせられなかったのです。
 …中国を独立させようというのが三民主義でしょ。その路線を継承しているわけです、毛沢東だって。麻の如く乱れた中国を統一し、帝国主義の桎梏から解き放れて中国を独立国家にする。途中で国民党は腐敗しちゃった。結局どっちがナショナリズムを掴んだかというと、中国共産党、中でも毛沢東路線。それが農民を掴むのに成功したということでしょ。…そういう意味で、中国の統一と独立が毛沢東によって率いられた中国共産党によって達成されたことを否定できますか、と言ったら、さすがにそれは誰も否定できなかった。」(手帖61 同上p.14)
 「(「アムネスティが今直面しているのは、‥人権というものの普遍性を持ちながら、どう現場の課題につなげたらいいのかという悩み」という発言を受けて)それは全ての問題です。近代的な抽象語は、全部翻訳語ですから。人権だけじゃないです。自由も、平等も、みなそうです。‥あらゆる抽象語は大和言葉ではないんですよ。だから全部漢語を使った。漢語、あるいは仏(ぶつ)語ですね。面白いんです。平等(びょうどう)と言うでしょ。もしも平等を漢語で読めばヘイトウです。なぜ呉音でビョウドウと言うかというと、漢語ではないからです。‥ビョウドウという仏教語はある。だからビョウドウという呉音で読むんです。なぜか。それは‥普遍宗教というものがはじめて平等観念を生んだということの一つの証拠なんです。
 中国の儒教は普遍宗教じゃないんです。最も高度な哲学を持った特殊宗教です。なぜなら儒教の基本的な道徳は、五倫なんです。‥(君臣・父子・夫婦:・兄弟・朋友の中の)朋友は友だちでしょ。友だち以外の人はたくさんいるわけ。赤の他人。友だちじゃないわけですよ。それについての道徳がないんです、儒教には。結局どう解釈しているかと言うと、朋友の観念を推し及ぼすという。赤の他人同士の道徳はないんです。なぜないのか。つまり、特殊主義的な哲学だからです。つまり、ただの人間なんてものはない。‥今でも日本は強いでしょ、人間なんて抽象概念で、ないじゃないかと。日本人、アメリカ人、フランス人なんてのがあるだけで、ただの人間なんてものは存在しないんだという。これはやっぱり儒教がそういう考え方なんです。ただの人間という観念が存在するということを教えたのが、普遍宗教。キリスト教だけでなく仏教にもある。」(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.20.pp.15-16)