日本的人権・デモクラシー

2016.4.29.

「昭二〇・一〇・二九
 我が国デモクラシーの諸問題
一、 天皇制との関係
安易に解決さるべき問題に非ず。君主政は共和政に対する概念で、民主政は独裁政に関する概念だから、両者矛盾せずなどといふのは形式論にすぎぬ。また我が皇室が原則として民意に基く政治を行つて来たといふことも、最近十年間の歪曲を防ぐ力が皇室になかつた事を顧れば、決して将来への楽観的素材となりえない。むしろ明治以後国体論はつねに藩閥、軍閥、官僚其他封建的=半封建的勢力の依つて以て「下からの」力の擡頭を抑圧する有効な武器であつた。民主政が民のための政治たるよりも民による政治を必須条件とする以上、天皇が大権の下に政治的決断を最後的に決定するのでは-よしそれが今度の終戦の場合のごとく結果的に国民の福祉になつた場合でも-如何にしても民主政の根本原則に反する。もし天皇から一切の実質的政治参与を取りのぞいた場合、天皇のレーゾン・デートルはどこにあるか。結局それは国民の情的結合のシンボルとしてしか考へられない。国民が天皇を媒介として相互に情的に結ばれてゐるといふ意識は、国民の政治的分裂が国民的統一の破壊にまで至る様な事態を避けるのに役立つであらう。
二、 いはゆるデモクラシーに内在する矛盾をいかに克服して行くか。
 我国はポツダム宣言の受諾によつて、デモクラシーへの道は唯一の国家的進路となつたが、いはゆる「デモクラシーの危機」を世界的に招来せしめた諸要因の探究を忘れてはならぬ。十九世紀的自由民主政の途をそのまゝ歩み、デモクラシーの危機への道を驀進することの愚なるはいふ迄もない。例へば執行権の強大化は世界的現象で英米も避けえない所である。問題は権力分立によつて執行権を弱体化することにあるのではなく、有効適切なる行政の迅速かつ能率的な遂行のため、能ふ限り権力を集中し、しかもかく集中された権力をいかに民衆の意思に根拠づけるかにある。二十世紀的デモクラシーは多かれ少なかれ一般投票的、大衆民主政への傾向をもつ。この意味に於て、議会の権限増大によつて内閣の政治力を単に弱体化させたり、中央官庁の権限の縮小によつて、地方的ブロック性を強化させる様な方向は断然避けねばならぬ。
三、 政治教育の問題
 デモクラシーのための教育の問題は決して単に狭義の政治乃至公民教育には限られない。いな、それを直接目標とすることは望ましくないとすら考へられる。なぜなら、それは結果に於ては戦時に於てみたと同じ様な押つけがましいお説教に堕して、むしろ国民を政治的なものに背をむけさせる懼れがあるからだ。大切なのは国民の生活的雰囲気に於けるデモクラシーの浸透である。そのためにはデモクラティックな精神を知的に了解させるよりも、情操的な訓練を通じて、無意識のうちに感得し体得させる事だ。デモクラティック・スピリットはなによりもまづ他人に対して寛容な精神をもち自己に対して良心の制約を課する事だ。これがいかに今の日本に欠けてゐる事か。電車内外の光景をみるがいゝ。我利我利の自己主張以外に何があるか。これは音楽などの情操的素地が我国の教育に全く欠けてゐたことに大いに原因がある。ハーモニーの精神を涵養せよ。デモクラシーを裏から育て上げて行くことだ。」(対話 pp.8-10)
「(昭二〇)十一・四
  デモクラシーの精神的構造
一、 まづ人間一人一人が独立の人間になること。
 真偽、正邪を自らの判断に於て下す。
      ↓
 他人のつくつた型に入りこむのでなく、自分で自分の思考の型をつくつて行くこと。
 間違つてゐると思ふことには、まつすぐにノーといふこと。
 この「ノー」といひうる精神-孟子の千万人といへども我行かんといふ精神-は就中重要である。このノーといひえない性格的な弱さ(*)が、雷同、面従腹背、党派性、仲介者を立てたがる事、妥協性等もろもろの国民的欠缺のもと。
 (*)独立的精神の苦しさに堪えられない、弱さ。自主的思索を放棄して、他人のつくつた枠に入り込むことは最も容易である。
 二、他人を独立の人格として尊重すること(一の裏面である)。
 ギリシャのデモクラシーと近代デモクラシーとの根本的差異は近代デモクラシーが宗教改革を経てゐること、換言すれば人間の内面的独立性の認識の上に立つてゐることにある。之を欠いだギリシャ・デモクラシーは奴隷の存在を許容し、単なる多数支配に堕し、少数者の権利尊重‥を知らず、従つて雷同的、貝殻投票的デモクラシーに堕し、自らの中から独裁政を準備して行った。」(対話 pp.10-11)
「(昭二〇・)一一・九
 デモクラシーが生々した精神原理たるためには、それが絶えず内面から更新され、批判されなければならぬ。デモクラシーがかうした内面性を欠くとき、それは一つのドグマ、教義として固化する。かくてそれはファシズムへの最も峻厳な対立点を喪失する。現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存在する。それはやがて恐るべき反動を準備するだろう。デモクラシーは決して理想乃至至善の代名詞ではない。一切の政治制度がしかる如く、デモクラシーは国民的統一意思を作り出すための一つの技術的手段であり、それは他の手段に比して相対的な優越性をもつにとゞまる。それを社会的万能薬のごとく振りまはす結果は、やがて民衆をして深刻な幻滅に追ひ込み、かくて反動勢力に絶好の乗ずべき機会を提供することになる。」(対話 pp.14-15)
「真の貴族のいないところでは、真のデモクラシー運動は起らない。疑似デモクラシーで社会が満足しているから……。ちょうど真の経営者がいないところでは、労働組合が強力にならないのと同様だ。クラッセとしての対抗意識が成長しないで、個々人の立身出世意欲だけが燃え上る。全体が成りあがり根性になる。」(対話 p.33)
「官僚と庶民だけで構成されている社会、市民のいない社会、それが日本だ。ジャーナリズムの批判性はここでは庶民的シニシズムのそれだ。シニシズムはそれ自体、原理ではない。それが唯一のポジティヴなものになると、シニシズムのヒエラルヒーが成立する。‥」(対話 p.33)
「日本の支配階級がデモクラシーを許容したのは、最初から革命に対する安全弁としてであった。だからデモクラシーが革命的である間は日本に土着せず、日本に同化したかぎりにおいてデモクラシーは保守的となった。(cf.加藤高明の演説)」(『対話』p.42、p.128再出)
「現代日本の状況‥
 天下太平と革命的状況が同じことのちがった言いまわしにすぎぬこと-保守党は、後者の側面をみておそれ、革新派は前者の側面でとらえて、絶望し焦慮する。
 制度とかルールとかキッカリしたものがあって、それとドロドロした状況とが対峙しているのでなく、もちつもたれつの人間関係によって制度も状況も浸透されている。だから制度を物神化する思考は、タテマエの思考や狭いアカデミーの思考の内部にはあるが、アメリカのようにそれが長い間の制度の安定性を背景にして起ったものとはちがい、社会的思考としてはむしろない。だから安定もなければ革命もない。その「制度」は十分凝固していずに半状況としてあり、「状況」は十分融解せずに半制度的である。この「状況」を制度面から見れば「天下泰平」となり、状況面から見れば「全革命的」となる。かわりに疑似安定(天下泰平)的相貌と、疑似革命的(全学連ラヂカリズム)相貌とが実は同じ事態の両面として作用する。制度とはフォーマルなものだ。ところが日本ではフォーマルとは形式的という意味と形骸的という意味と二つある。というより二つが同視される。つまりこれは制度が外から輸入されて実際にworkしていないからだ。」(対話 pp.53-54)
「開かれている精神(オープン・マインデッドネス)は「開けた(シヴィライズド)」精神ではない。福沢諭吉と「開化物」作者との精神のちがいがここにある。
 「開かれている精神」は自らをも開く作用をいとなむ。これがEnlightenment‥である。開けた精神は自分がすでに開けていると思うことによって、実は閉じた精神に転化している。日本の啓蒙の失敗は、「開けた精神」によって愚昧な大衆を教化できると信じた点にあった。そうして、第二の開国であった敗戦後のデモクラシイにおいては、未曾有の国民的な経験から出発しているにもかかわらず、「開けた精神」(マルクス主義もふくめて)の洪水にくらべて、「開かれている精神」の声はあまりにも弱かったことが、いまこそ反省されなければならない。つまり、トーマス・マンの「ドイツとドイツ人」の日本語版はついに書かれなかったのである。」(対話 p.86)
「このところ、東大紛争、いな全国的大学紛争に関連して、戦後民主主義への否定的言辞がひときわ高くなった。というより、事、評論界に関しては、戦後民主主義を正面から擁護する言論はほとんど見当らない、という珍現象が生まれている。(そうした否定的言論の自由がまさに戦後民主主義の享受の上に成立っているのに!)‥
それにしても、「戦後民主主義」という場合に、戦後の憲法(及び憲法に準ずる自由権を保障した諸法律)体系をいうのか、また現実の政治体制(およそ議会制民主主義の現実から遠い保守永久政権下の「議会政治」)をいうのか、それとも、社会主義運動や労働運動をふくめた、民主主義を名とする運動の現実(したがって革新政党の現実)をいうのか、それとも、最後に、世界的にはじめて公然と否定する政治勢力が消滅したデモクラシイの理念をいうのか、その位は弁別して議論してほしいものだ。」(対話 pp.185-186)
「日本は敗けてよかったのか、それとも敗けない方がよかったのか、戦後民主主義の「虚妄」を、それだけをわめくものは、この問いに答える責任がある。戦前の日本帝国は「虚妄」でなくて「実在」だとでもいうのか。それなら私は日本帝国の実在よりもむしろ日本民主主義の虚妄をえらぶ。」(対話 p.246)
「自由民権運動が華々しく台頭したが、この民権論と…在朝者との抗争は、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、…もっぱら個人乃至国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。凡そ近代的人格の前提たる道徳の内面化の問題が自由民権論者に於ていかに軽々に片づけられていたかは、かの自由党の闘将河野広中が自らの思想的革命の動機を語っている一文によく現われている。その際決定的影響を与えたのはやはりミルの自由論であるが、彼は、
 「馬上ながら之を読むに及んで是れまで漢学、国学にて養はれ動(やや)もすれば攘夷をも唱へた従来の思想が一朝にして大革命を起し、忠孝の道位を除いただけで、従来有(も)つて居た思想が木端微塵の如く打壊かるゝと同時に、人の自由、人の権利の重んず可きを知つた」(河野磐州伝、上巻)
と言っている。主体的自由の確立の途上に於て真先に対決さるべき「忠孝」観念が、そこでは最初からいとも簡単に考慮から「除」かれており、しかもそのことについてなんらの問題性も意識されていないのである。このような「民権」論がやがてそれが最初から随伴した「国権」論のなかに埋没したのは必然であった。かくしてこの抗争を通じて個人自由は遂に良心に媒介されることなく、従って国家権力は自らの形式的妥当性を意識するに至らなかった。そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。
果して間もなく、あの明治思想界を貫流する基督教と国家教育との衝突問題がまさにこの教育勅語をめぐって囂々(ごうごう)の論争を惹起したのである。…それが片づいたかのように見えたのは基督教徒の側で絶えずその対決を回避したからであった。今年初頭の詔勅で天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤がなかったのである。信仰のみの問題ではない。国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれなのだ。…何が国家のためかという内面的な決定をば「天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ」(官吏服務規律)忠勤義務を持つところの官吏が下すという点にその核心があるのである。…
従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。…従って私的なものは、即ち悪であるか、もしくはそれに近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。…そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。…「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。」(集③ 「超国家主義の論理と心理」1946.5.pp.20-23)
「維新政府はそれ自身は封建的勢力でありながら、外国勢力から自己を防衛して近代的な統一国家を作りあげるという任務のためにどうしても自己脱皮をしなければならぬ、自分の社会的地盤に対してかなり根本的なメスを入れるということなくしては維新政府の課題を遂行することができなくなった。…
 …維新の変革が上から急速に庶民の能動的参与がなくして行われたということによって、庶民の意識が変革についていけない。…つまり次々遂行される変革がほとんど国民的地盤がなくして行われるということになるのであります。…
 …新しい変革の意味をできるだけ国民にのみ込ませなければいかぬということ、そのためには全国的に啓蒙運動を展開する。…これがいわゆる維新直後に文明開化の旋風が全国的に吹きまくるようになった由来なのであります。…
 したがって文明開化思想はたしかに日本における啓蒙思想ということができるのであるが、この啓蒙思潮は‥民間から自主的に成長していったものではなく、むしろ政府が行いつつあり、またすでに行ったところの諸変革を説明する意図をもっていた。つまり上からの変革と民衆の意識とのギャップを埋めるのが文明開化思潮の目的であった。‥ヨーロッパの啓蒙思潮はこういうものと違って民間から自主的に起こったものである。つまり理性によってすべてのものを判断し動いていくということが民間の間におのずから起こって旧体制に対する批判的精神が広がる。‥目覚まされた理性により現実の制度を見、その現実の制度の不合理を悟って、現実の制度を変革していく、そういうふうに向かっていった。日本の啓蒙思潮はそうではなく逆であって、意識の方が遅れている。変革の方が先にいって、意識がついていけない。そのギャップを埋めるために、上から新しい制度の意味を説明するということで、啓蒙思潮が広がっていった。」(別集① 「現代日本政治の諸問題」1946.10 pp.160-166)
 「こういう啓蒙運動にまき起こされた文明開化運動がいかにして一般的に滲透していったかというと、とにかく下から自然にわき起こる運動というものは一般人民の意識の変革を土台にして行われるから暇がかかるわけである。ところが政府が上から一つの欧化思想に対してそれを宣伝するという形で、いわゆる政治力と結合して行われる宣伝というものは非常に強度の宣伝性をもっている。次々と生活環境が新しくなっていくということになってくると、国民の方では古いものと新しいものとの関係を考慮しないで新しいものに飛びついていく。古い意識が町民の中に残っているにもかかわらず、それが掃除されないで簡単に新しいものに慣らされてしまうということになるのであります。…それが非常に表面の運動になって、国民の本当の精神的な内からの変革に一向ならなかったという結果になるのであります。福沢諭吉がいったように、旧を信ずると同様な意識で新を信じていたのであります。古い意識を盲信していたと同じ無批判的な精神でただ新しいものに飛びついていったというのが文明開化時代の大きな一つの特色であります。その結果いたるところで表面的な皮相な形態においてヨーロッパ的な文化が理解されることになった。」(別集① 同上pp.173-174)
 「したがって自由ということがどういうふうに理解されたかというと、外からのタガがはずれるにすぎないとかいわれた。…自由を放縦と同じように理解された‥。…欧羅巴の自由主義のはじまりは、‥良心の拘束というものから入っていったのであるが、日本のはそうではなく、良心の自由を知らず、たんに外からの拘束がはずれることであった。之は感覚的な改革であり、したがって感覚的な本能的な要素を発揮する。だから人間の中の感覚的本能的なものを100%発揮させるのが自由であると理解させた。…自由ということがたんに外からの拘束の排除として感覚的な自由という意味に理解されていた‥。」(別集① 同上pp.174-175)
 「変革がまったく外面的であったということから、やがてなんらかの機会に反動的な情勢が出てくると、昔簡単に捨て去った古い意識が十分に新しい意識と対決されていないところからすぐ頭をもたげてくるのであります。‥なんらかの古い意識が思い出されてくるということになると、元来古い方が伝統的であるから根強い。そこで簡単に伝統的な古い意識に立ち返るという人間性が絶えず内在している。これがやがて10年以後文明開化思潮に対する反動思想が非常に強く台頭していったということは、つまり古い意識と新しい意識が自由に対決されなかったということにあった。」(別集① 同上pp.176-177)
「羯南がまず第一になしたことは、彼の立場を反動的なショーヴィニズムから峻別することであった。そうしてそのために彼は、欧州における近代的ナショナリズムの発展を叙べ、それが封建制を打破して国民的統一を完成する過程における進歩的イデオロギーなる所以を明かにし、…これをどこまでも世界史的関連のうちに基礎づけようとした。彼は後進民族の近代化運動が外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重の課題を負うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる歴史的論理を正確に把握していたのである。」(集③ 「陸羯南-人と思想」1947.2.p.95)
「吾々は現在明治維新が果すべくして果しえなかった、民主主義革命の完遂という課題の前にいま一度立たせられている。吾々はいま一度人間自由の問題への対決を迫られている。…「自由」の担い手はもはやロック以後の自由主義者が考えたごとき「市民」ではなく、当然に労働者農民を中核とする広汎な勤労大衆でなければならぬ。しかしその際においても問題は決して単なる大衆の感覚的解放ではなくして、どこまでも新しき規範意識をいかに大衆が獲得するかということにかかっている。」(集③ 「日本における自由意識の形成と特質」1947.8.21.p.161)
「今日の一番の課題はまず古い社会的束縛から人間を解放するということであり、それからその解放された自由な人間が新しい社会をつくる能動的な力になって行く、そういう問題なんですね。ところが、現在のようにまだ古い社会的きずなが大いに残っている所へ相互依存ということをいきなり持って来ると、結局これは現実の社会的な秩序を所与のものとして、その中へ自分が適応して行くことに重きが置かれる結果になると思うのです。…
 個人の自律性ということと社会的分業ということ、この二つの裏はらの関係を教えて行くことが一番中心の問題じゃないか。社会的な統一というものを、与えられた統一とは考えないで、つまり個人の背後に考えないで、むしろ作られ行く統一として人間の前方に考えるということ、そういうことが非常に大事なんじゃないかという風に思うのです。…そういう人間の主体的な能動性がなくては、これからの如何なるどんな社会だって創造出来ない。そういう意味でやっぱり自分で考え自分で判断するということ、‥そういう観念が一番大事なんじゃないかと思うのです。…
 例えば第一学年の一等はじめに家や学校でよい子と思われるには私たちはどうしたよいかということが一番最初に出て来ているが、これがすでに非常にいけない。つまり周囲からよい子と思われるということが一番大事なことになっている。‥ギューリックという昔、日本に来たアメリカ人が、日本人の特性としてsensitiveness to environment(環境に対する敏感性)ということを挙げている。しょっちゅう周囲の、世間の評判を気にし、世間体を考えて行動する、あの義理人情でがんじがらめになった人間像-それが無意識のうちに、こんどの新教科書の理念の中にもぐり込んでいるのです。世界がファッショならば自分もファッショになる、周囲が民主主義になると自分も民主主義に順応する。そういった日本人のオポチュニズムをこそ、真先にぶちこわして行かなければならないのに、むしろ家や学校でよい子と思われるにはどうしたらいいか、そういう意味の環境への適応性がまず第一に説かれている。やっぱり社会というものは個人の能動的活動によってのみはじめて生成発展して行くものだということですね。それがまず第一に来なくちゃいけない……。」(手帖64 1948.1. 「ディスカッション 社会科教育」pp.36-37)。
 「普通よくいわれているが、権利ばかり主張して義務を忘れている悪い傾向がある。これはいかん、権利も主張するがその代りに他面に社会的義務を履行しなければいかん、こういうことが盛んにいわれる。…私は一方で権利を主張し、他方で義務を履行するという風に両者を話す考え方自身が非常にいけないと思うのです。つまり近代社会では権利を主張すること自身がその人の社会的義務なんで、その関係を教えて行くことが大事ですね。…なにか権利義務をバラバラに切り離して一方権利を主張しながらそれをいいかげんにしてあとは義務を履行しろということになると、結局保守的な役割を果すことになる。…日本のように上からの権威に対する畏怖の強いところでは、権利を主張すること自身が社会的義務だとこの位強くいい切ってちょうどいいので、そうでないと機械的に権利義務が切り離される。その場合の「義務」というのは、きまって古い社会関係への義務なんです。…イェーリングがいっているように「権利のための闘争」が一つの社会的義務なんで、そうでなければならない。権利が侵害されたとき、権利のために闘争しなければ、それによって権利侵害という一つの社会的不正を許容することになる。…もっと市民社会における、権利即義務という関係を具体的に解明する必要があるというのです。」(手帖64 同上pp.39-41)。
「個人が権威信仰の雰囲気の中に没入しているところでは、率先して改革に手をつけるものは雰囲気的統一をやぶるものとしてきらわれる。これがあらゆる保守性の地盤となっている。従ってそこでは変化を最初に起すことは困難だ。しかしいったん変化が起りはじめるとそれは急速に波及する。やはり周囲の雰囲気に同化したい心理からそうなる。しかもその変化も下から起ることは困難だが、権威信仰に結びつくと急速に波及する。したがって一つのイズムを固守するという意味の保守主義はあまりない。日本の保守主義とは時々の現実に順応する保守主義で、…この現実の時勢だから順応するという心理が日本の現在のデモクラシーをも規制している。…デモクラシーが内容的な価値に基礎づけられないで、権威的なものによって上から下って来た雰囲気に自分を順応させているだけである。保守性と進歩性がこうした「環境への順応」という心理で統一されている。こういうデモクラシーは危っかしいデモクラシーである。何故なら情勢によるデモクラシーであり上から乃至外から命ぜられたから「仕方がない」デモクラシーだから、情勢がかわり或いは権力者がかわれば、いつひっくり返るかわからない。」(集③ 「日本人の政治意識」1948.5.pp.328-329)
「政治に対する嫌悪は、日本的な特殊事情と、もっと普遍的な事情、つまり政治そのものの性格からくる事情とが重なっているのではないかと思います。
 日本においてなぜ政治嫌悪がはなはだしいか、ということが問題になります。‥政治が国民に解放されず、長く一部特権階級の独占物であったところでは、政治が自分の身辺的な事柄ではなく、何か遠い、上の方の事柄であるように感じられる。しかもそうした政治の閉鎖性の支配するところでは、政治は真の意味でpublicのものとならないから、それは必然に私的性格を帯びる。利権の一種となる。政党は国民代表たるよりも政権にまつわる特殊利権にあずかろうとする徒党となる。」(別集① 「政治嫌悪・無関心と独裁政治」1948夏 p.290)
 「人間は環境をかえることができなければ、みずから環境にアジャストするほかない。これは政治的環境を宿命として受け取ることになれた日本人の生活態度で、それ自身歴史的社会的なもの。これを「人間というものは」として一般化するのは問題である。人間が環境に適応する。すなわち環境にあきらめをつけていく能力が発達していく。非政治的非社会的人間は、環境に絶望的となっていく。…この傾向は民主主義が根を下ろさなかった国にみられるのである。これは政治が国民一般のものとなっていないからである。日本特有の政治といえる。」(別集① 同上pp.293-294)
 「むろん政治には、政治特有の一種のいやらしさ、さらに悪魔性はある程度さけがたい。この意味では政治に対するある本能的な反撥は、どこの国の文化人ないしインテリゲンチャも分有する。
 実に政治に対する嫌悪は普遍的なものである。つまり政治は人間を動かして目的を達成するところに本質的特徴がある。人間を動かすためには種々の手段を用いる。政治は結果において判定される。人間を動かすところに使命がある。しかるに道徳や宗教では、その要求するところに外面的に従ったのみでは目的は達成されたことにならないのであって、内面的に従う。すなわち内面性が尊重されるのである。」(別集① 同上p.296)
 「政治に対する無関心・嫌悪は民主主義の最大の敵となり、いかなる政治形態にも消極的認可を与えることになる。政治に対して無関心・嫌悪の支配するところでは、民主政治の実質が否定され、政治家は独裁化し、ボス化する。独裁者は民主主義の敵であり、政治は形骸化される。…
 独裁者とボスの発生する原因はいろいろあるが、ここでは心理的な地盤について話をしたい。…
 政治的にいうと、両者は異なる。…両者とも民主主義の敵であることは同じことだが、あらわれ方が異なる。…ボスは多くイデオロギーをもたず、惰性や伝統的地位を利用して支配するが、独裁者は多くイデオロギーの化身としてあらわれ、そのざん新さでチャームする。ボスは表面に出ないが、独裁者は好んで大衆の前にあらわれる‥。…
 ボスはいかなる心理から発生するかというと、第一に指導者が固定していて指導意識が固定する心理的地盤の上に発生する。同じ人がいつまでも長く上に立つと、これが当然と考えるようになり、被治者的根性が生まれる。習慣的服従が出てきて、指導意識が惰性となり、客観的になるとボスになる。第二には伝統的権威信仰がボスの発生〔源〕となる。ある権力的地位に長くついていると、地位そのものが自己目的となる。このような心理状態のもとにおいてボスが発生する。あの人があの地位についていることに、いかなる存在理由があるかと問わなくなり、当然視し、またなぜ支配するかを問わなくなる。」(別集① 同上pp.298-299)
「今日なお広汎な大衆の間に、上の様な認識と価値判断(丸山:ザインの認識とゾルレンの判断)といわば鋏状差(シェーレ)が見られるということは、終戦後あれほど活発に啓蒙運動が行われたにも拘らず、進歩的陣営の思想のせいぜい結論だけが受取られて、そこに到達する論理過程が一向大衆の肉体化していない事を物語っている。そうして、一定のデータから正しい意味を汲みとる思想的訓練が普遍化していない限り、いいかえれば大衆の価値判断を一定の方向に流し込む鋳型の様なものを進歩的思想がつき崩して行くことに成功しない限り、急進陣営によって試みられる一切の現実暴露戦術はかえって全く逆の効果を生む恐れなしとしないのである。…今日なにより必要なことは、前に言ったザインの認識とゾルレンの判断との間の鋏状差(シェーレ)をうずめて行く具体的な論理過程を大衆が身につけることである。事は決して浮動的小市民だけの問題ではない。はっきりした目的意識を以てザインとゾルレンを結びつけている様に見える組織大衆乃至は進歩的インテリゲンチャでも、その結びつきの道程が隅から隅まで踏み固められていないと、いつなんどき自分の意識下の、平素自覚しない広大な世界を支配する生活感情によって復讐されないとも限らない。ちょうど、異常なショックを受けたときに、とっくの昔に忘れたと思っていた方言が飛び出すように、危機的な瞬間において人間を捉えるものは、いつもこうした「無意識の論理」だからである。」(集③ 「車中の時局談義」1948.12.pp.353-354)
「筆者はかつて日本の社会体制に内在する精神構造の一つとして「抑圧委譲の原理」ということを指摘した。それは日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順次委譲して行くことによって全体の精神的なバランスが保持されているような体系を意味する。この原理は一体、上にのべたような日本ファシズムの体制の「下剋上」的現象とどう関連するのだろうか。…「下剋上」は抑圧委譲の楯の半面であり、抑圧委譲の病理現象である。下剋上とは畢竟(ひっきょう)匿名の無責任な力の非合理的爆発であり、それは下からの力が公然と組織されない社会においてのみ起る。それはいわば倒錯的なデモクラシーである。本当にデモクラチックな権力は公然と制度的に下から選出されているというプライドを持ちうる限りにおいて、かえって強力な政治的指導性を発揮する。これに対してもっぱら上からの権威によって統治されている社会は統治者が矮小化した場合には、むしろ兢々として部下の、或いはその他被治層の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任な街頭人の意向に実質的にひきずられる結果となるのである。抑圧委譲原理の行われている世界ではヒエラルヒーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然的に外に向けられる。非民主主義国の民衆が狂熱的な排外主義のとりこになり易いゆえんである。日常の生活的な不満までが挙げて排外主義と戦争待望の気分のなかに注ぎ込まれる。かくして支配層は不満の逆流を防止するために自らそうした傾向を煽りながら、却って危機的段階において、そうした無責任な「世論」に屈従して政策決定の自主性を失ってしまうのである。日本において軍内部の「下剋上」的傾向、これと結びついた無法者の跳梁が軍縮問題と満州問題という国際的な契機から激化して行ったことは偶然ではないのである。」(集④ 「軍国支配者の精神形態」1949.5.pp.124-125)
「『文明論之概略』‥の根本的なテーマというものは、まさしくヨーロッパ文明と日本文明との対比というところにあったわけであります。その際、彼が日本社会を貫く根本法則として、これをヨーロッパ社会と対比しながらかかげたものは、「権力の偏重」というプリンチープであったのであります。
 彼のいう「権力の偏重」というのは、‥日本社会のすみずみにまで‥内在しているところの構成原理、‥広く日本社会の構造原則としての権力偏重という観念を提出してきたのであります。…つまり、ちょうど結晶体がこれをどんなに微細に砕いてみても同じ形をしているのと同じように、どんな小さい集団にまで日本社会を解剖していっても、そこには権力の偏重がある‥。…一切の社会的関係というものが平衡状態を保たず、事実的な強弱関係というものにしたがって実質的価値が一方に集中するということになります。したがってまた‥事実上の強弱あるいは大小といったような関係がそのまま規範関係になるわけであります。‥事実上の強弱関係がそのままゾルレンの、つまり何々すべしという規範状態にまで高められてくる。そして、これが「法の支配」(rule of law)というものが貫徹しているヨーロッパ社会と、もっともいちじるしい対比をなしているのであります。…法の支配というのは、支配の適法性ということとは必ずしも同じでない。治者と被治者が平等に客観的な法の支配に服するということです‥。」(別集① 「ヨーロッパと日本」1949.6.17. pp.322-324)
 「福沢は、‥「日本文明の由来」という章‥で「権力の偏重」の日本における具体的な様相というものを分析していったわけであります。
 彼にしたがって、そこでの分析を要約いたしてみますと、第一には、それは治者と被治者との固定性としてあらわれるというのであります。…
 第二には、「国力王室に偏す」というテーゼであります。これは、‥治者と被治者とが分かれて固定している‥だけではなくて、治者の法に一切の社会的価値が集中しているということなのであります…。
 それから武家政治の勃興になるわけでありますが、この変化のことを、福沢は、「政府は新旧交代すれども国勢は変ずることなし」‥という第三のテーゼで表現しております。つまり、…そこにはたんに政府の交代があるにすぎないのであって、大多数を占める人民の生活そのものの歴史はないも同様だと言っているのであります。
 そして、そのことの必然的な結果として、第四の命題-日本の人民は国事に関せず-が出て来るわけであります。つまり日本の人民には、国家の秩序というものを自分達の秩序として、主体的にになうところの内面的自覚が欠如しているということであります。…したがって、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」‥であると、彼は言うのであります。…
 そしてまた、その結果として、第五の命題-国民その地位を重んぜず-という被治者根性が出てくるのであります。…
そして、このように政府に一切の価値が集中して、人民にプライドのないことがいろいろな文化の領域にあらわれて、そうした文化が特殊の刻印を帯びてくるわけであります。
まず第一に宗教についていえば「宗教権なし」‥ということであります。ここでは、良心の自由というものが根本的に欠如していることが指摘される。…
同じ現象が学問にも見られる。福沢のテーゼによれば「学問に権なくして却て世の専制を助く」‥ということであります。これは、学問というものが、乱世の後に起こるにあたって、西洋諸国においては、人民一般の間に起こってきた。ところがわが日本においては政府の内部に起こったのである。…学問というものの独立性がなく、政治権力に依存してのみ存在した。…
それから転じて、彼は第八のテーゼとして、いわゆるIndividualityの問題を出してくるわけであります。…「乱世の武人に独一個の気象なし」‥。武士というものは、快活不羈浩然たる一個の男子たる気分をもっているようであるけれども、これを分析してみると、これはけっして「一身の慷慨より発したるもの非ず自から認めて一個の男児と思ひ身外無物、一己の自由を楽むの心に非ず必ず外物に誘はれて発生したるもの歟、否ざれば外物に藉て発生を助けたるもの‥である。その「外物」とは‥「先祖のためなり、家名のためなり、君のためなり、父のためなり、己が身分のためなり」‥であって、自分のほんとうの内面性から出ている勇気ではない-これが、ヨーロッパの独立不羈の気風というものと根本的に異なっている点であ(る)…。」(別集① 同上pp.324-330)
「近代的な議会政治を運営してゆく精神が国民の中に育っていないため、国民の大多数は"誰が本当に自分の利益を護ってくれるのか"を理性的に判断する事が出来ず、選挙の際は封建的な義理人情、親分子分の関係で投票したり、現実的に出来ないことが明らかな空虚な「公約」に幻惑されて投票する。従ってその結果は、非常に保守的な形となって現れる訳だ。こういう特殊な日本的現実を打開するには封建的な社会の基盤を覆えさねばならない。しかし仮りに英米なみに日本の国民意識が高まったとしても、議会政治でこの問題が解決されるかどうかはなお若干疑問がある。これは議会政治というものの根本に問題があるからで、日本ばかりでなく世界的に議会政治というものは再検討さるべき状態に来ていると思う。」(集⑯ 「"社会不安"の解剖」1949.8.p.4)
 「日本で特に注意されねばならないのは国家権力の暴力性が問題にされないという事実だ。国家権力だというだけで神聖視してしまう傾向が強い。日本に於て暴力という言葉は常に民衆の側に対してのみ言われるが、暴力は誰が行使しても暴力なのだという事を、国民は肝に銘じて置く必要がある。
 露わに行使された暴力は誰の目にも判断がつく。非常に判別が困難で従って我々が特に警戒せねばならないのは、種々な形での心理的強制である。例えば日本のように身分的な上下関係が常に人間的な平等の観念に優位する傾向のある所では、ただ長上者又は上司の一つの目つき、一つのものごしだけで、事柄の理非を問わずにその意志が強行される場合が少なくない。
 こういう強制力は表面には見えない。然(しか)もしばしば外見的にはデモクラティックな手続をとって現れる場合が多い。例えば会議の際に各人が内面の確信によって意見を述べるのではなく、その中の権威者・勢力者の意見を先回りして予測し、これに迎合した意見を述べる傾向がある‥。こういう暗々裡に行使される暴力は、露わな暴力よりも目につかないだけに、ある意味では民主主義にとってより多くの敵である。ボスや顔役の支配は結局ここに心理的な根源を持っている。…
 戦後の日本社会の民主化-政治犯人の釈放から財閥解体、農地改革に至るまで-が国際的な圧力をもってしなければ遂行されなかった事を見ても、いかに日本の反動勢力が根強く、これに対する民主主義的な抵抗力がいかにひよわいかが判る。左の暴力だけが強く目に映ずるのは一つにはジャーナリズムのセンセーショナルな報道のためであるし、又一つには露わな暴力は感知しても隠れた暴力には平気で屈服する日本人の意識による事が大きい。日本の社会の封建的基盤を一掃することが、右、左、中間、いかなる暴力をも根絶する唯一の道である。」(集⑯ 同上pp.7-9)
 「日本のこれまでのファシズムの歴史的発展にはどういう特徴があるか…。下からの運動が国家権力を掌握するというプロセスをとらないで、既存の国家権力の内部における編成替え、支配機構内部の政治力の相対的な推移によってファシズム支配が完成して行ったのであります。…下からのファシズム運動は、こういう支配機構の内部的な編成替えをうながす注射としての役割をしたにとどまった。独伊においてファシズム政党が果した役割は、日本では、軍部官僚勢力によって代位された‥。
 ではなぜ日本においてはこういう代位関係が生れたかということが問題になって来ます。…最大の問題の所在はやはり日本の天皇制機構にあると思うのであります。
 ‥ファシズムというものはその国の資本主義体制が経済的政治的な危機に立っており、社会的な分裂が高度化してプロレタリア革命の危険性が切迫するということが一つの発生条件になっています。
 そういう時に民族的ないし国家的な全体性とか一体性とかいう名において階級闘争を抑圧するという事が、ファシズムの重要な任務になって来るわけであります。…日本では、本来天皇制というものがこういう階級闘争を抑圧するために全体性を強調するのに非常に好都合な道具であり、また実体であったのであります。
 明治以来天皇制官僚というものは常に自らを社会的な全体性の代表者として意識し、そこにプライドをもっていた。…これが明治以来の一貫した日本の支配層のイデオロギーであったわけであります。そしてこれは本来絶対主義というものが階級的均衡の上に成立っているので、いつも超階級的な外観を呈するものなのであります。
 …官僚や軍部は全く国民的背景をもたない「特権的」部分にすぎません。にもかかわらずそういうイデオロギーが強大な支配力を持っていた。何か部分的利害の外に、別に国民全体の利害というものがあってそれを天皇制官僚が代表するという考え方が非常に強固であったからこそ、社会的な対立が激化し国際的な危機が切迫して来れば来る程、こういう天皇制官僚勢力がちょうどファッショやナチス党のように、国家の全体的利害を代表し、国民的統一を保障する政治力たる事を自称し、そういうものとして自分を資格付けつつ、急激な進出を遂げることが出来たわけであります。…  では独占資本とこういう軍部官僚勢力との関係はどうだったかというと、‥独伊に比して一層独占資本の政治的主体性は弱かった。…日本のファシズムの発展過程を見ると、やはりイニシァティヴは軍部がとり、財閥はこれに追随し、「適応」して行った傾向が強いのです。しかもこのように軍部官僚が実質的には政治的ヘゲモニーをにぎりながら、形式的には日本ファシズムは最後まで、軍部官僚、重臣、政党、財閥といったさまざまの政治力の不安定な連合形態をとったのであります。それが天皇制「挙国一致」の実態だったのです。…
 しかも軍部は極力政治的責任をとることを回避しましたから、ますますもって、日本のファシズム機構は複数的多元的形態をとらざるをえなかった。それはあくまで明治憲法の枠内で、既成国家機構の相互間の比重の移動によって実質的ファシズムが樹立されたという事の必然の結果であります。…
 本来政治運動というものは、はじめから政治的な「敵」というものを前提として成りたつものです。敵から味方を区別することなくしては、そもそも政治運動とはいえません。区別するということは自分を限定することです。ところが、まさにそうした自己限定をみとめない、自己は一切を含むところの全体であるというのが、日本の天皇制の特殊のイデオロギーであるから、そこでは、天皇制の下での一切の政治的対立が否定され、その意味で階級闘争は「本来あるべからざるもの」として真向から否認されるわけですが、同時に、まさに一切の政治的対立を否定することが、実質的な政治的統一よりも、形式的な統一-まあまあ総親和でやって行こうという考え方を生んでいろいろな雑多な勢力をゴッチャに包擁する結果になってしまうのです。これには所謂家族主義的イデオロギーの影響ということも忘れてはならない。
 つまり日本というものが天皇を中心にした家族的な結合であるという考え方が、国内における政治的な対立抗争を露骨な形で表現することを最後まで抑制して、いわば偽装的な挙国一致形態を維持させたわけであります。家族主義イデオロギーというものは日本の社会機構の一つの精神的支柱ともいうべき強固なものです。これがあるところでは権力は非常に露骨な抑圧、あるいは赤裸の暴力的な支配という形態ではあらわれない。  いわゆる家族的穏城主義というやつで、ふんわりと抑圧する。そのために権力が権力として露骨に登場して来ないで、どこかぼかされいわば神秘化されて現れて来る。その限りにおいて一般的にいえばナチスのような非常な惨虐な抑圧は、日本の場合には少くも表面的には見られないのであります。
 ところが家族主義というもののもう一つの特長は、家族的なものの内部においてはそういう一種の恩情主義が支配している反面において、家族的秩序の外にいるもの、或は家族的秩序にどうしても入らないものに対しては、逆にあらゆる方法でのいびり出しや惨虐な抑圧を強行するのであります。…
 それと同時に家族的エゴイズムというものが家族主義のもう一つの特長になって来る。いわゆる対内道徳と対外道徳の分裂という現象がそれで、家族的伝統の拘束力のないところでは、「旅の恥はかきずて」という様に、全く無道徳破廉恥になる。日本の社会によく見られますが、自分の家の前だけ綺麗にして隣りの家の前にごみを捨てて平気であるというような家族的なエゴイズム、こういうものが国際的に表現されれば当然日本の国家-家族的国家!-さえよければ隣りの民族はどうなっても世界がどうなっても少しも構わないという考え方が出て来る。今度の戦犯の死刑になった人が刑を執行される前に「日本の国民がまた不幸から立ち上がることを望む」というような非常にもっともらしい事を言って居ります。また日本国民に詫びると言うことも言って居ます。しかし中国の民衆を言語に絶する苦悩につきおとした事について、中国の民衆に、あるいは世界人類に詫びるということをいったものは一人も居ない。自分のやった行為が世界の人類にどういう害悪を与えたかという事は全く関心の外にあるようです。これが家族的イデオロギーの典型的な病理的現象です。」(別集① 「ファシズムの歴史的分析」1949.12. pp.387-395)
「民主主義がアメリカ人にとって、所謂(いわゆる)"way of life"となっているのとはちがって、日本人の日常生活様式と、こういういろいろのイデオロギーとは実はまだほとんど無媒介に併存しているにとどまる。…現実の社会関係はつねに具体的な人間と人間との関係であり、その具体的な人間を現実に動かしている行動原理は、その人間の全生活環境-家庭・職場・会議・旅行先・娯楽場等々-における全行動様式からの経験的考察によって見出されるべきもので、必ずしも彼 (浅井注:インテリ) が意識的に遵奉しているつもりの「主義」から演繹されるものではない。…「非政治的」大衆が現実の政治的状況の形成にネグジリブルな要素ではなくして、むしろ直接には非政治的な領域で営まれる彼等の無数の日常的な行動が複雑な屈折を経て表面の政治的舞台に反映し、逆にそうした政治的舞台で示された一つ一つの決定がこれまた複雑な屈折を経ながら、日常生活領域へと下降して行く。この二つの方向の無数の交錯から現実の政治的ダイナミックスが生れてくるのだ。まさにここに現実分析の異常な困難さがある。…
 西欧的民主主義の根本的な原則なりカテゴリーなりが、きらびやかな表面の政治的セットの裏の配線の中においてはいかに本来の姿から歪曲されるか。このことのリアルな認識なくしては僕は日本における政治的状況の真の判断は出来ないと思う。…
 …日本の圧倒的に強大な前近代的人間関係のなかでは、上位者の権威の無言の圧力、「にらみ」の実質的な暴力性が隠蔽され、それへの内面的な畏怖からの服従が容易に近代的な同意(コンセント)の偽装をとりうる…。
 僕が常々日本社会の民主化にとっては誰の眼にも顕著な独裁者型の指導者よりもボス型のそれにヨリ多く警戒の目を光らせる必要をやかましくいうのもこうした理由からなのだ。独裁者は民主主義を、いわば外から公然と破壊し、ボスはそれを内部から隠然と腐食させる。顔役、親方、旦那、理事、先生など、どんな名で呼ばれるにせよ、ボスは家族関係の擬制とか成員の心理的惰性を利用して支配するから、露骨な権力的強制は伝家の宝刀として背後に秘めておくことができる。またボス的支配は社会の日常的伝統的な価値意識や習慣的な思考様式に支えられているから、とくに「宣伝」や「アジ」をする必要がない。…こういう風に考えて来ると、ボス的支配が、人民の自由な批判力の成長を強靱にはばんでいながら、その腐蝕性がいかに看過され易く、その権力に対する下からの有効なコントロールがいかに困難であるかは思いなかばに過ぎるものがあろう。…
 日本の歴史は階級闘争の歴史よりもむしろはるかに多く、被抑圧者が、蔭でブツブツいいながらも結局諦めて泣寝入りして来た歴史である。論より証拠、日本は古来、尚武の国として戦争は盛にやりながら、本当の下からの革命はいまだ嘗(かつ)て経験したことがない。その限りで、家族主義に基く「和」の精神が日本的統治の美わしい伝統だという例の国体史観も、歴史的現実のある面を映し出していると思う。ただその「和」というのが平等者間の「友愛」でなく、どこまでも縦の権威関係を不動の前提とした「和」であり、従って、苟(いやしく)もこの権威に不敵にも挑戦し、もしくは挑戦の恐れありと権威者によって認定されたものに対しては、忽ち「恩知らず」として恐るべき迫害に転化する、というメダルの裏を意識的無意識的に見逃している点にまさにこの史観のイデオロギー的性格があるのだ。こうして「和」と「恩」の精神は大は国家から小は家族まであらゆる社会集団にちりばめられて福沢のいう「権力偏重関係」を合理化することによって、それぞれの社会における支配者・上長を果しのない偽善ないしは自己欺瞞に陥らせた。…
 大衆の自発的能動性の解放が執拗に阻まれて、その結果として生じたレヴェルの低さとか自暴自棄とかがまた逆に解放尚早の根拠づけにされるという恐るべき悪循環は今日依然断ち切られていない。この悪循環に止めを刺すのは、いかなる形にせよ外からの、あるいは上からの恩恵的解放ではなく、言葉の真実の意味での内部からのトータルな革命以外には恐らくないだろう。
 以上、僕は日本の諸社会関係の民主化をひきとめ伝統的な配線構造を固定化している力がどんなに強靱なものかを、主として具体的な人間関係と行動様式を中心に述べた。…こうして、我国の権力構造や人間関係における、およそ「英米的」民主主義の原理と相反する前近代的諸要素がまさに、「英米的」民主主義の防衛の名において復活強化されて行く。君はこのいたましいパラドックスの進行に対して果して晏如たりうるか。…
 一般に旧社会構造の強固なところでは労働運動とか社会運動とかおよそ既存の秩序なり支配なりに対するチャレンヂは、同時にその支配秩序に内在している価値体系なり精神構造なりをきりくずして行かなければ到底有効に進展しないという本質的な性格をもっている。中国革命はその事を巨大な規模において実証した。よし一時的にはむしろ古い意識や人間関係を利用することが手っとり早く見えても、間もなくそれは運動によって-とくに反動期に入ると共に-手痛い復讐となってハネ返って来る。なぜなら人間の意識や行動における惰性の力は、まさにそこに大衆支配の心理的地盤をもっている保守反動勢力によって、急進勢力によってよりもはるかに容易に動員されるからである。…日本社会の近代化という課題は近代的学理を暗記することによってではなく、歴史的具体的な状況において近代化を実質的に押しすすめて行く力は諸階級、諸勢力、諸社会集団のなかのどこに相対的に最も多く見出されるかという事をリアルに認識し、その力を少しでも弱めるような方向に反対し、強めるような方向に賛成することによってのみ果される…。
 …僕は日本の問題は、究極的には日本人によってしか解決されないし、また外部からの規定性も内部からの反応の仕方との関係においてある程度変わって来るという意見だから国内の問題を何でもかでも世界情勢の方にもって行ってあなたまかせにするようなこのごろの風潮は甚だ感心しないと思っている…。」(集④ 「ある自由主義者への手紙」1950.9.pp.319-334)
「私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもっているか…。
 第一には、現実の所与性ということです。…現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性とか過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方ない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。…ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした「現実」観ではなかったでしょうか。…戦後の民主化自体が「敗戦の現実」の上にのみ止(や)むなく肯定されたにすぎません。…「仕方なしデモクラシー」なればこそ、その仕方なくさせている圧力が減れば、いわば「自動」的に逆コースに向うのでしょう。…
 さて、日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましょうか。…現実の一つの側面だけが強調されるのです。…
 …第三の契機(は)その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。…われわれの間に根強く巣喰っている事大主義と権威主義がここに遺憾なく露呈されています。…昔から長いものに巻かれて来た私達の国のような場合には、とくに支配層的現実即ち現実一般と看做され易い素地が多い…。
 こうした現実観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。…私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つははどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。」(集⑤ 「「現実」主義の陥穽」1952.5.pp.194-200)
「支配層の今後の動向を卜する上にまだ一つ注意すべきことがあるように思います。一般大衆に対しては、私生活への封じ込めと、こま切れになった旧いシンボルで釣って行くが、ある程度以上の政治意識をもった層に対しては、やはり「民主主義」のシンボルで押さざるをえない。そこでこのシンボルを特定の意味に限定して行く方向がとられる。これは現在アメリカで進行している過程ですけれども、日本でも今後ますます行われるでしょう。それは「民主主義的自由」という考え方を漸次限定して行って、国民の意識なり思想を規格化し、画一化して行くことです。元来英米流の民主主義は、そういう思想なり言論なりの面における多様性の尊重、多様性を通じての統一ということが前提になっている。ところが「民主主義」が自己を積極的に実現して行くという方向でなく、「民主主義」の名において「民主主義」の敵を排除するということが第一の主要な課題になって行く。異端の排除すなわち民主主義的と考えられてくるということです。異質的なものを排除するというプロセスを通じて-例えば左右独裁を排除するという名目の下に、実質的にはヴァラエティ〔多様性〕をなくして正統化された思想に画一化していくわけです。…現在のレジームに対しては讃美の自由しかない「自由」、同質化された、同じ考えのものにだけ言論の自由を許すという自由のタウトロギー(同語反復)化です。…
 …本来オーソドックスという考え方は自由主義の建て前に反する。ところが忠誠審査ということは、正統的なものを予めきめてかかる考え方の上に立っている。言論の自由、思想の自由というのは、いわゆる形式的自由で、何が正しいかは、言論・思想の市場での公平な自由競争を通じてきまって行くという考え方だ。ところが、例えば自由の内容は「自由企業」だ、自由企業が民主主義の精髄だというふうに自由の内容が限定されて来る。それに反対するものは自由一般に反対するものであるという形で、異端を排除して行く。」(『手帖』68 「民主主義の名におけるファシズム-危機の政治学-」『世界』1953年10月号pp.22-23))
 「頂点がインターナショナルで、底辺が国粋的であるということを、政治構造の場面で見ると、頂点が西欧的な議院内閣制で、底辺が日本的ボス支配、ということになるかな。もっとも、その議院内閣制そのものも建て前であって、現実の運用はさっぱり議会政治のルールに従っていないのだが、しかしその建て前と現実の乖離は下部に行くほど甚だしいことも事実だろうね。
 …議会政治は民主的なプロセスを通ずる決定という原則が、社会的基盤として存在して、その上部構造としてはじめて意味がある。ただ制度としてだけの議会は、それ自身、実質的には民主的自由を抑圧する役割を果すことだってありうる。たとえば本来の意味からかけ離れた多数決主義、即ち多数決万能によって、議会、政党という制度の存在を前提としながら、実質的に画一化、翼賛化が進行して行く可能性もある。…国民の政治的権利の行使は投票日に行って投票する権利だけで、それ以外の政治行動は議会政治下においてはあるべからざる「暴力」だ-こういう考え方で、国民の日常的な政治活動を封殺していく。形式的な選挙のメカニズムというものは温存しながら、その結果を「国民の意思」に等置するというフィクションで体制への默従を推し進めるだろう。」(『手帖』 同上pp.24-26)
「日本の大衆の政治的無関心という場合には、‥世界的な普遍的な現象としての-のほかに、とくに日本においてそれを甚だしくしている要素があると思います。それについてすこしお話してみたい。
 アメリカのように自由の伝統が根づよいところですら、「自由」の内容の変質がこのように甚だしいとすれば、日本ではなおその危険がある。日本ではとくに農村など伝統的意識の強いところでは、部落なら部落の慣行とか、家柄相互の関係とかによって規定された一定のふるまい方というものの型ができていて、このふるまい方に反したり、それをこわそうと努力したりする行動は強い道徳的非難(村民の風上にもおけぬ)を浴び、ついには村八分といった制裁にまで発展しかねない‥。こういうところほど人々の言動が型にはまっているから、その型にはまらぬ言動は非常にめだち、そこからこれをその型に同化させようという有形無形の圧迫が働く。
 そこで皆とちがった意見をもち、ちがった行動をとるということが甚だしく困難で、そういう習慣的なふるまい方に従わないとすぐ「アカ」だとか思想がよくないとかいわれる。
 「気風に合わない」という気風への強制力が非常に強い。この場合「気風」それ自体は政治的意味をもたないかのように考えられている。実はその気風それ自体も一つの是非善悪の態度決定を包含しているのだが、「気風」に従って行動している限りその行動は「政治的」とはみられない。気風にさからって行動することだけが「政治的」と見られる。こういう伝統への同化力の強い社会では、「政治的に動いてはいけない」という形で既成の権威への服従が教えこまれ、教化される。そこからして政治的無関心なり受動性が一層根をはることになる。…
 実はこの場合、政治的行動と非政治的行動の選択があるのではなくて、一つの政治的行動と他の政治的行動との選択の問題にすぎない。ボスの行為自身が政治的なのはもとより、そうしたボスの行為を見て見ぬふりをしている、或は見てもまあ仕方がないと思って見すごす村民の多数のふるまい方も実は非常に政治的な意味をもっている。つまりボスの支配の下地をつくっているという意味で、政治的なのであって、決して、それを摘発する行為だけが政治的なのではない。どっちの政治的なふるまい方がヨリ村全体の進歩と発展のためにいいかという観点から判断されるべきであるのに、どうかすると、一方だけが、政治的に動くということで非難される。
 こういう風に見てきますと、日本の保守的勢力の心理的基盤は、国民的規模でも地方的規模でもこういう大衆の日常的生活環境のなかにはぐくまれた非政治的心情の上にのっかっているということが分かります。…選択以前の惰性が、保守勢力の基盤になっている。…
 ここに日本の政治権力を担当している保守勢力が一面圧倒的に強大な地盤を誇りながら、その実非常に国民的な支持ということに内面的な自信をもてない根拠があるのであります。
 つまり政治的自覚の水平面に上がって来ない非政治的、伝統的な心情の上にキバンをおいているために、大衆からおよそ右とか左とかの差をとわず、政治的自覚をもつということ、沈澱している精神が政治的水平面に浮かび上って来るということそれ自体が保守勢力にある恐怖心を呼び起すのであります。そこで日本の保守勢力は大衆を自分たちのイデオロギーに基いて組織化したり、積極政治教育する代りに、およそイデオロギーや思想に対して不感症な、非政治的水準におしとどめておくことに全力をけいちゅうする傾向があります‥。ここに議会主義と民主主義を標榜する政党が国民の政治的関心の高まりを奨励しないで、むしろ厄介視し、危険視するという矛盾した現象が見られる所以があります。」(別集② 「政治的無関心と逃避」1953年? pp.53-55)
 「政治的狂熱の害は容易に認識され、「世間」もすぐこれを激しく非難しますが、政治的無関心が民主政に及ぼす害は、殆んど目に見えず、新聞や輿論の制裁もないだけ、それだけ恐ろしいのです。政治的狂熱がタイフウや地震のように、何人にもショックをあたえるに反して、無関心、受動化の方はいわば白蟻が知らない間に家を内部からむしばむように、民主政治を知らぬ間に空洞にしてしまう。むしろこの方がヨリ警戒すべきだといえないでしょうか。…  国民を羊のようにおとなしく、飼猫のように無気力にすることによって国が治まったといってよろこんでいる政治家は、国民の政治的エネルギーを蒸発させることによって結局自分自身の墓けつをほるに至るのであります。」(別集② 同上pp.56-57)
「戦後のいろいろな改革には、不手際もあるし、不徹底もある。これを改めてゆくのは当然だが、問題はどういう方向に改めるかにある。日本の実状に合わないものは駄目だとか、昔のものでもいいものがあるので、昔のものはなんでも悪いというのはおかしいというような論法は、抽象的にはもっともなだけに説得力がある。それだけにそういう説得力のある論法でもって、誰が具体的に何を意図し、どこへ引っぱってゆこうとしているのかということをしっかり見定めることが必要となってくるわけである。…
 たとえば、お祭りをしたり、みこしをかつぐということは、そのことだけを切り離してみると、別にどうという政治的な意味はない。‥しかし、そういうお祭りをさかんにすることに、どういう現象が随伴してくるか、それが問題である。お祭りを通じて昔ながらの村落共同体的な強制-つまり村八分的な現象-が強化されたり、あるいは、それを通じて顔役の支配が固められてゆく。そうなると、お祭りの復活には明らかに反動的な政治的意味がまつわってくることになる。このケジメをはっきりつけることが大事なのである。
 つぎに、いいものは残したっていいではないか。日本の昔のものがなんでも悪いとはいえないではないかということがよくいわれるが、ほんとうにいいものはおのずと残ってゆくものであって、決して残してゆくものではない。正しい伝統とはそのようなものであって、大いに掛け声をかけて残してゆこうとするものはたいてい伝統の悪い面である。日本の古いものの中にほんとうに世界的に通用するすぐれたものがあれば、どんなに人為的にこれをなくそうと思ってもできるものではない。日本の美術や学問の中には日本の立派な伝統として世界的に認められているものが少なくないが、それも歴史の試練と風雪に堪えて残って来たものである。はたして日本の古い政治や経済や社会の制度の中に、これと匹敵するだけの普遍性をもった伝統があるだろうか。…家族制度は日本古来の醇風美俗であるといわれる。‥実際は旧家族制度の生理と病理は離れ難く結びついている。…家族主義といわれるものは日本の半封建的な社会構造の中から生じたもので、それと密接に結びついている。それを昔の家族制度の仲のいいところだけを切りとって、新しい家族や集団の中に移植するなどということは、脳下垂体ではあるまいし、できるはずのものではない。こういうふうにものごとを切り離して考えないで、いろいろ網の目のように関連している社会状況の中で具体的に理解してゆく眼を養うことが、現在のような時代には特に必要と思われる。…民主主義には民主主義のモラルがあるので、親子兄弟愛し合わなくていいという民主主義は世界中どこにもない。問題はその愛し方なのである。」(手帖11 「復古調をどう見るか」1953.12.pp.31-34)
 「お上の権威に対しては何であれ長いものに巻かれろという、昔からの事大主義が、いままでは軍閥官僚の命令に対する默従として現われていたのが、今度は連合軍最高司令官の権威への默従になったという面があることは確かである。こうした権威主義・事大主義の社会的な根を芟除(せんじょ)しない限り、代議士さんたちが悲憤慷慨している隷従の精神はなくならない。そして、この根を芟除することがまさに民主主義の課題なのである。民衆の間に民主主義を培(つちか)わないで、とうていほんとうの独立の精神は出てこない。…人民の下からの自発性と能動性を喚起しなければ、とうてい民族の真の独立は保てないということは歴史の公理となっている。だから独立精神の喪失を嘆いて「日本古来の醇風美俗」の復活をしようというほど滑稽な皮肉と矛盾はないと思う。」(手帖11 同上p.35)
 「現在の反動現象は一見、地方的局地的な問題のように見えることでも、実は全国的な関連をもっており、国民的規模で取り上げられなければ、一町一村の内部だけではかたづかない問題が多い。…根本の解決は国民的な政治力を待たなければならない。しかし、それを表現をかえていえば、一町一村の問題の帰趨がいかに大きな意味をもっているかということにもなる(例えば内灘や妙義山の例を見よ)。つまり地方的な問題や矛盾の打開を一つ一つ積みかさねて行くことなしには、たとえば、ただ革新政党が中央の政界で進出するというだけではどうにもならないのである。それだけに国民がそれぞれ地方の日常生活の環境の中で試みるきわめてささやかな努力が尊ばれなければならない。‥
 特に農村では村の割拠主義ならまだしも、さらに村の中の部落の割拠主義が、まだ非常に根を張っている。‥この部落的な割拠根性の垣根を、地方地方でなんとかしてとりこわしてゆかないと、結局どんな民主化の動きもゆきづまってしまう。‥要するに縦に分断されているために農村の新しい力は弱いのであるから、横の方向にあらゆる形で会合やグループ結成を広げてゆかなければならない。‥それは何も特別になんとか反対期成同盟とかいったものものしい名をかかげた運動でなくてもいい。日常的に交通しているだけでいい。いっしょに映画を見る会でもいいし、雑誌の批評会でも何でもいい。青年たちが気持ちを交流させることがいちばん大事なことで、この交流が十分でないうちに早急にイデオロギーや政治をもち出すとたいてい失敗する。‥事態を多くの人が正確に認識するようになるということ自体が見えない大きな前進なのであり、それが知らぬうちに抵抗のエネルギーとして蓄積されてゆく。
 ‥同じ問題に悩む人たちが全国いたるところに、いや世界中にいる、いまこそ手をつないでいないが、やがては手をつなぐ見えない味方があるという希望をもちこの力を信じることが必要である。絶望感に襲われたらいつでも眼界を横に世界にひろげ、縦に歴史をひろげよう。世界の歴史を見れば、ジグザグのコースではあるけれども、ますます多くの人民が解放され、ますます多くの自由を獲得してきた歴史であることはだれも否定できない。この大きなつながりは、どんな力が阻止しようとしてもできるものではない。そういう歴史の力に対する信頼をもたないと、目前の現象に圧倒されて、つい勇気が挫(くじ)けてしまう。現在の内外の保守勢力が押しすすめようとしている方向はこの世界の大勢に逆行している限り、決して永続性はない。戦後日本の人民が、とにかく細いながらも学びとり、身につけたところの権力に対する批判の精神と民主主義的変革の精神は‥数百年のきびしい試練に耐えて一歩また一歩と前進して来たものである。われわれがあの悲惨な戦争の犠牲を払ってようやく手にしたこの宝を、もはやどんなことがあっても二度と手放さぬようにしようではないか。」(手帖11 同上pp.36-37)
「支配層の反動の方向として当時私が指摘したことは、(イ)国民の日常的政治活動の封殺ないし選挙法の人為的改正による議会政治の形式化、(ロ)「民主的自由」の概念の再定義を通じての劃一化、(ハ)警察及び「軍隊」のニヒリスティックな暴力機構化ということである。…
((イ)について)制度としてだけの議会は、それ自身、実質的には民主的自由を抑圧する役割を果すことだってありうる。たとえば本来の意味からかけ離れた多数決主義、即ち多数決万能によって、議会、政党という制度の存在を前提としながら、実質的に画一化、翼賛化が進行していく可能性もある。…形式的な選挙のメカニズムというものは保存しながら、その結果を「国民の意思」に等置するというフィクションで、体制への默従を推し進めるだろう。それにもかかわらず現在の体制に反対の政治勢力が強くなってきて、相当数議会に進出してくるという恐れのある場合、…選挙法を人為的に操作するやり方をとるだろう。…
 ((ロ)について)ある程度以上の政治意識をもった層に対しては、やはり「民主主義」のシンボルで押さざるをえない。そこでこのシンボルを特定の意味に限定して行く方向がとられる。…それは「民主主義的自由」という考え方を漸次限定して行って、国民の意識なり思想を規格化し、画一化していくことです。元来英米流の民主主義は、そういう思想なり言論なりの面における多様性の尊重、多様性を通じての統一ということが前提になっている。ところが「民主主義」が自己を積極的に実現して行くという方向でなく、「民主主義」の名において「民主主義」の敵を廃除するということが第一の主要な課題になって行く。異端の排除すなわち民主主義的自由と考えられてくるということです。」(集⑥ 「戦後政治の思想と行動第一部 追記および補註」1956.12.pp.285-287)
「福沢の見るところによると、「日本国の人心はややもすれば一方に凝るの弊あり」その結果「好むところに劇しく偏頗」-つまりあばたもえくぼになる、その反面「きらふところに劇しく反対する」-つまり坊主憎けりゃけさまで憎いということになり、人心が一方に進むかと思うと「忽(たちま)ち中絶し、前後左右に些少の余裕をも許さずして変通流暢の妙用に乏し」いといっております。つまり僻眼主義だから、認識や価値関心がいつも一つの溝に流れこんで、弾力性がない、ということを指摘しているわけです。…そういう単眼的な認識は現実の方向のいろいろな可能性を自分の視野の中に入れることができないから、すぐ行きづまりになってしまう、と同時に単眼的な行動は自分の進んで来た路を吟味しないから経験が蓄積されない。明治以来、私達の国全体の動き方を見れば、‥満州事変から太平洋戦争、さらに戦争直後から今日までの世の中の流れを考えてみただけで、そういう傾向を私達が免れていないことは容易にわかる筈(はず)です。福沢はこういう認識関心や価値関心が集中し固定することを「惑溺」という言葉で呼んでいます。社会でも個人でも惑溺が甚しいほど、多様な可能性の間を選択するチャンスがなくなり、それだけ精神の動きが自由でなくなる、と福沢は考えたのです。」(集⑦「福沢諭吉について」 1958.11.pp.379-380)
「調和ということも一つの徳で、それ自体はいいことですが、他の徳とのバランスを破ってまで強調されることが問題なのです。職場の調和については、「君主は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という『論語』の言葉に尽きているでしょう。コンフォーミティということと、ハーモニーということがとかく混同されるように思います。
 (「しかし、日本の調和とアメリカのそれとでは違うんではないですか」という質問に対して)それは日本の方が複雑ですね。日本の方には、アメリカ的な、企業の中の一つ一つの歯車としての調和の要請と、儒教というよりも家族主義的、あるいは部落共同体的な調和、企業一家と云う考え方の両面を持っていますね。
(「会社は人間の全存在をまるごとのみこもうと云う訳ですね」という質問に対して)そうですね。むろん仕事や職務をさぼるのはよくない。職務に対する責任と義務感は近代的人間のミニマムの資格です。しかしそれは本来、限定責任です。ところが組織が人間をまるのみにするから、とかく無限責任になりやすい。だから建前が厳しい無限責任で、実際はその中でいくらも抜け道ができるということになってしまう。市民としての面が職務の中に見失われてしまう傾向は、公務員に対するモラルや要求などの場合にいちじるしいでしょう。朝から晩まで公務員でなければならないような意識がある。だから市民としての当然の義務であり権利である政治活動の範囲までが、公務員ということで縛られてしまう。こういうように、日本で職業上の組織が全人格をまるのみにしがちだということの裏には、官庁、会社といった職業組織の他に、例えば教会とかサロンとかサークルというような、職業と違った次元で人間を欲に結合するだけの力を持ったソサエティが、十分発達していないという由来も作用しています。」(別集② 「丸山先生に聞く」1958年 pp.161-163)
「日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで滲透しながら、他方では強靱に「である」価値が根をはり、そのうえ、「する」論理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来たところに発しているわけなのです。
 伝統的な「身分」が急激に崩壊しながら、他方で自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議と討論の社会的基礎が成熟しないときにどういうことになるか。続々とできる近代的組織や制度は、それぞれ多少とも閉鎖的な「部落」を形成し、そこでは「うち」のメンバーの意識と「うちらしく」の道徳が大手をふって通用します。しかも一歩「そと」に出れば、武士とか町人とかの「である」社会の作法はもはや通用しないような赤の他人との接触がまちかまえている。人々は大小さまざまの「うち」的集団に関係しながら、しかもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざまなのですから、どうしても同じ人間が「場所がら」に応じていろいろふるまい方を使い分けなければならなくなります。私達日本人が「である」行動様式と「する」行動様式のゴッタ返しのなかで多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石がするどく見抜いていたところです。
 この矛盾は、戦前の日本では、周知のように「臣民の道」という行動様式への「帰一」によって、かろうじて弥縫されていたわけです。とすれば「国軆」という支柱がとりはらわれ、しかもいわゆる「大衆社会」的諸相が急激に蔓延した戦後において、日本が文明開化以来かかえてきた問題性が爆発的に各所にあらわになったとしても怪しむにたりないでしょう。ここで厄介なのは、たんに「前近代性」の根強さだけではありません。むしろより厄介なのは、これまで挙げた政治の例が示しているように「「する」こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展しているという点なのです。…現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか‥。」(集⑧ 「「である」ことと「する」こと」1959.1.pp.40-44)
 「昨年の秋、北大へ講義に行ったんですがね、ちょうど日本シリーズの最中で、構内どこを歩いても、学生は西鉄・巨人の話ばかりですよ。皇太子妃が決まれば、これまた町はどこへ行っても、美智子さん、美智子さんだ。こういうふうに世論が完全に一方へ流されてしまうというのは、そこにファシズムの基盤があるということでね、実に危険ですよ。そういう流される時代に最も必要なのは、確固とした文化の基準なんです。そしてそれは、精神的貴族だけが提供できるんです。貴族とは特権じゃない。大衆への奉仕ですよ。」(集⑯ 「書斎の窓 -憂える"流される時代"」1959.2.7.p.336)
「だいたいどこの国でも、ものの考え方や暮し方の規準や尺度を自分の内部から打ち出して行った中核的な社会層があるんです。たとえばイギリスでは貴族とミドルクラスが一緒になって「ジェントルマン」というタイプと規準をつくり上げて行った。それがフランスではプティ・ブルジョアですし、アメリカではコモンマンです。じゃ日本ではどうかというと、封建時代に侍とか公家とか町人とかがそれぞれちがった規準と生活態度をもっていたのが、維新でゴチャマゼになっちゃった。…身分の差が撤廃され、立身出世の社会的流動性が生じたけれど、バック・ボーンとなる社会層がなくてゴチャマゼのまま、ワッショイワッショイと近代国家を作り上げてきた。ですから整然とした日本帝国の制度と、統一的な臣民教育の完成のかげには、実は激しい精神的なアナーキーが渦まいていたと思うんです。外からはめるワクはあっても、内部からの規準の感覚というものは、実際はむしろ徳川時代よりもなくなって行ったのじゃないんですか。いわゆるもののけじめの感覚というのは、国家教育などというものではなくて、社会自体が与える持続的なしつけによって養われるんですが、なにしろそういう自律的な社会というものが国家にのみ込まれてしまったのが、近代日本だったわけですから。」(集⑧ 「我が道を往く学問論」1959.5.4.pp.98-99)
 「戦後そういう節度やけじめの感覚の喪失が急激に表面化したのは事実ですが、‥ずっと前からあった精神的アナーキーが外部からの-つまり旧国家権力による-たががはずれたので一度に露わになったという面の方が無視できないと思います。保守党の政治家が節度とかけじめの感覚を云々するとすれば、笑止千万というほかありません。まさに彼等にこそそれを一番要求したいですね。およそ政府権力の介入しうる領域と、それが本来冒すべからざる人間の自由な創造性の領域とを弁別する感覚がもともと日本の政治家や官僚には不足していたんですが、戦後はなまじ権力が民主主義のたてまえにあぐらをかくことができるので、そういう権力の自己抑制が見るかげもなくなり、選挙に勝てばそれこそ官軍で、多数決でもって何でも押し通す。‥都合のいいものは世論とか法治国の名でどんどん強行し、都合のわるいものは平気で無視したり、蹂躙したりする。その厚かましさたるや前代未聞ですね。」(集⑧ 同上p.101)
「やっぱり政治に対する文化の自立性というものの根本は、歴史的にいえば宗教だったわけですね。欧羅巴では教会と国家というモデルがあって、政治価値に吸収されない価値に対する意識が非常に普及していて、それがほかの学問とか、芸術とかの関係に押し及ぼされてきたのだろうと思うのですね。そうなると、‥僕は明治維新のときの近代化のやり方が問題に思うわけです。日本の運命の岐路は戦国時代にあったのですよ。石山本願寺を信長がつぶしちゃったということ、それから堺の自治都市をつぶしちゃったということ、それからキリシタンを秀吉と家康が根絶しちゃったこと、そうして仏教を行政手段にしたことが決定的の意味を持っていると思うのだ。‥そのときに政治価値からほんとうに独立の文化価値というものがなくなって、政治価値に従属してしまったわけだ‥。
 ‥逆に遡っていけば、問題は幕藩体制からそういうマイナスが出ているので、それ以前には文化的のレベルにおいても、いろんな可能性においても、いろいろの発展の可能性においても、ヨーロッパより当時はレベルが高かったですね。15世紀末ころにおいては向こうはルネッサンスが始まるかどうかというころでしょう。こっちの室町末期から戦国の末期ころは非常に高いです。それから一向一揆や山城一揆、それから自治都市の建設に示される民衆のエネルギーは相当のものだし、それからキリシタン、まったく異質的の文化に対する民衆の理解は大へんなものです。とにかくザビエルが驚嘆しているのですね。…ハビアンの『妙貞問答』を見ると、実に高度のアリストテレスの哲学をそしゃくしているわけです。…日本も民衆と当時の〔ヨーロッパの〕民衆と比較してみると、あらゆる可能性と能力においてむしろ日本の方が進んでいた。もし開きが出たとすれば、まさに三百年の鎖国によって大きく引き離されちゃったといってもいい。…(別集② 「1月13日 丸山眞男先生速記録」1959年 pp.195-196)
「現在は政治の力が野放図にふくれ上って、多方面に手を伸ばし始め、政治の限界が明確でなくなって来ました。それにつれて政治の動き方も少数の政治家や、政治に対して能動的な人々のいわゆる右とか左とかの運動によってのみ決定されるのではなく、無数の人々の目には見えない気分や雰囲気によって左右されるようになりました。たとえば政治的に全くパッシブな、無関心層の動向は無視してよいのではなく、それどころか政治的無関心層と言われるムードが、まさに政治の方向に大きく作用しているのです。
他方、政治・経済・文化などの相互関連が密接になり、しかもあらゆる面での組織化が進行して来ると、どんな地位にいる人間でも厖大な歯車の一員でしかないという気になってしまいます。我々は国民の一人として政治家は巨大な力をもって何千万の人間の運命を左右出来ると思っていますが、では政治家自身が実際にそういう力の意識を持っているかと言うと、目に見えない無数の牽制を受けて、どうも思うように動けないという実感をもっているというのが本当のようです。客観的には政治が大きな力を持っているにもかかわらず、政治家自身が自分の責任において自由に決断するという感覚を失っています。つまり決定の主体がぼやけて来た。ここに大きな矛盾があり、現代政治の問題点があるのです。
その上、日本においては政治が公的な問題とは無関係に、派閥争いなどの私的な人間関係によって決定される面がとくにひどい。この私的な関係と、政治の領域がキッカリと区分されなくなり、政治が非人格化されたという世界的な傾向とが、日本では変に癒着していよいよ問題が難しくなっているのです。これが現代の政治の様相といえます。」(集⑯ 「私たちは無力だろうか」1960.4.22.pp.12-13)
「代議制とか、国民を代表して代議士が政治をするといいますが、この代表っていう観念をもう一度考えて見なければいけないと思うのです。それは、代表というのは何もかもおまかせしてしまうことなのか、それとも代表というのは、‥基本的にはトラスト、つまり委託とか信託関係なのかということなのです。国民が本来自分のもっている権力を一定の代表者にあずけるには、あずける趣旨があって、信託された人は、その趣旨によって限定された権力を行使し、それに反した時には、国民はいつでも本来の主権をとり返せるわけです。選挙人と代議士との関係を国民のもつ主権の委託と考えるのか、それとも全面的委譲と考えるかで、非常に違ってきます。…
 ヒットラーの独裁というのは、国民の多数によって選ばれた代議士の多数決で、ヒットラーに独裁権を授与したのだから、どうしようもないのです。民主主義というもの、あるいは議会主義というものが、実質的には民主主義の墓穴を掘るようなことをやっても、国民にはどうにもならないという結果になるのです。
 ところが、トラストの考え方から言えば、授権法を提出すること、あるいは通すことが、そもそも信託の趣旨に反しているわけです。そういう場合には人民主権というものを直接に発動しなければいけない。そこで初めて抵抗権とか革命権とか、いろいろな問題が出て来るわけです。ですから、国民が代議士に対して一定の範囲でもって信託しているのだからその範囲に背いた時には、何時でもその信託を撤回できるという心構えをひとりひとりが持つことが、第一に大事なことではないだろうか。…選挙の当日だけが問題なのではなく、選挙日と選挙日との間に出てきたいろいろな問題に対して、自分の選挙区から出た代議士はどう行動するのか、とたえず監視している心構えということになるでしょう。」(集⑯ 同上pp.13-15)
 「選挙民の主権をフルに発揮できる方法は、投票以外にいろいろあるのです。それを活用することが、実際は代議士のデモクラシーでなくて、国民のためのデモクラシーにしてゆくことになり、ひいては議会政治というものを国民から遊離させない道になると思います。
 しかし要するに、我々の対政治的な態度の根本は、議会制度だけでなく、およそ制度というものの考え方に帰着すると思うのです。制度というものについてそれは出来上った既製品として上の方から我々に天降ってくるものだと考えずに、我々の行動が日々制度を作っているという側面をもって考えることが必要です。」(集⑯ 同上p.15)
 「大衆的な政治運動というのはある共通の目標のために、性格や考え方の違った多くの人間を組み合せていくことでしょう。ところが日本では必ずしもそうではない。
 我々の周囲によくある政治運動が非政治的だというのは、結局根底にある人間観にも由来していると思うのです。つまり人間は一人一人ちがった個性をもったものだという前提から出発するか、本来同じものだという前提から出発するかで非常に違う。肝胆相照らすとか、以心伝心とか、お前の気持はよく解ったとか、よく日本ではいうでしょう。人間の内面というものはそう簡単に通じ合うものではない。人間というものは一人一人全部ちがうものだという前提から出発すれば、本来ちがったものをどこで、どの点で一致させて共同の行動を起させるかということで政治的技術が必要となる。
 そうでなく本来一致するものだという前提から出発すると、はじめから気の合ったもの同志集ってしまい、異質の人に働きかける力を伴わない。つまり、仲よしクラブになってしまう。そこから派閥も生まれる。またいわゆる世界観が同じでないと同じ政治行動がとれないということが多いですね。つまり、すべての問題が世界観の次元に集中されてしまう。
 政治行動というのは本来、‥具体的な問題で一致する限りその人と一緒に行動するということなのです。‥政治は日々決断して行かなければならない事柄です。それを理論的統一とか何とかいって、全部一致させようとするから、皮肉なことに実際は無限に分裂してしまう。この問題を解決するうえにおいては、一致したから共にやろうというように、どこまでも個別的、具体的にやっていく。しかし問題によっては一致しないかもしれない。これが当然なのです。それを、何でもかんでもこの人とやっていこうとするのは完全に派閥です。つまり簡単にいえば、部落共同体ということです。部落共同体には手続きはいらない。ボスがだいたい皆の気持を推し測ったりして、大抵そうだそうだと満場一致で事がきまる。
 手続きというものは、考え方や行動のちがっている人々がいろいろな人間関係を結ぶとき、はじめて必要となってくる。手続きとルールの尊重はやはり他者の感覚がないところには生まれないのです。‥個人がめいめい独立自主的であるからこそ、その共同行動には共通のルールが必要になって来るんです。」(集⑯ 同上pp.18-20)
「見えない無数の世論の力が、案外巨大な力を振うということは、国際的な原水爆実験の禁止運動一つを見ても分りますよ。日本の原水協にしても、杉並の奥さん達が、その発端だったというように。…
 政党でない、つまり政治団体でない集団の政治活動というものが、実際は、日本のデモクラシーの地盤になっているのです。母親大会とか子供を守る会とかは、みな元来政治団体ではなく、何か他の具体的な目的を持って集って来た団体なのです。原水爆禁止運動にしても、それは政治と言えば政治ですが、何も権力を獲得するとか、そういう目的の運動ではないのです。‥これを、抽象的な言葉では「非政治的団体の政治的活動」といいます。
 これがデモクラシーにとって一番大切な一般国民の自発性を呼び起すポンプの誘い水のような役割をするのです。非常に大きな日本のデモクラシーを支える根となってきている。‥だから我々は、いろいろな団体作りをやって、その団体の目的を実現させるため、あるいはその目的の妨害を排除するためという、その限りにおいて政治にタッチするというような習慣をつけていくことが大切です。…
 一般の人の政治行動というものは他に自分自身の職業や仕事を持ち、自分の定まった生活の場を持ちながら、その合間々々に政治に参加すること、それが一般市民の政治行動なのです。市民の立場において、種々の問題について気軽に集まり話し合い、その目的のために四方へ働きかける。目的が実現されれば、すぐにその会は解散される。そしてまた何か問題がおこれば再び集まるという具合でいいのです。実はこれが非常に大切なのだ。政治的状況を動かしていく力、それはこのような一般市民の力の結集として現われるのです。まず自分達の力に対する信頼、これを失わずに、その力を結集していくことですね。」(集⑯ 同上pp.23-25)
「生命・自由および幸福追求の権利は私たちが何ものにも譲り渡すことのできない神聖な基本権であり、そもそも政府の存在理由がなによりそうした基本権の保障にあることは、アメリカ独立宣言以来、ほぼ二百年を経て世界の常識となっております。私たちの祖国もあの惨憺たる太平洋戦争の犠牲をくぐり抜けて漸くこの基本的原理を日本国憲法の中に宣明し、そこから新らしい日本が出発したことは皆様御承知のとおりであります。私たち国民はふたたび過去の悲惨な途を歩まぬためには、何度でもこの原理にたちかえらねばなりません。そうして今日、岸内閣の暴挙によって根底から問われているのはまさにこの近代民主主義の基本原則であります。新安保条約の強行採決をめぐって、これだけ広汎な層からこれだけの批判が高まっているのに、何故、政府与党は馬の耳に念仏の態度で押し通そうとするのでしょうか。そもそもあれほど国民の運命にかかわる重大な条約を、解散によって国民の意向を予めきく事もせずに結ぼうとしているのでしょうか。
 むろんそこには種々の背景があります。しかし根本の由来はここ数年来の政府の相つぐ憲法じゅうりんのやり方を私達国民が結局のところ黙って見過して来たところにあると私は考えます。一たび既成事実をさえ作ってしまえば、一時は世論がわきたっても、やがては権力の無理押しが通って行くという事態がこれまでに重なって来たからこそ、ああいう議会政治の常識では考えられないやり方をして政府は平然としているのです。権力はもし欲すれば何事でも強行してそれに法の衣をかぶせることができるということになれば、それは民主主義の基本原則の破壊にほかなりません。私たち国民は今こそこうしたやり方にストップをかけなければ、人民主権も、したがって私たちの幸福追求の権利も、政府の万能の権力の前に否定される結果となるでしょう。  政府の権力濫用にたいして憲法や法律は本当に歯どめとして効いているのかいないのか、私たち主権者としての国民がそうした権力の歯どめとして憲法を生かす力をもっているかいないのか、それがいままさに試されようとしております。これが現在の根本の問題です。私たちの幸福はたんに与えられた幸福に満足するだけでは守ることはできません。私達が幸福を追求する積極的な姿勢を不断に保ってこそ、現在の幸福の享受は維持されます。芸術と学問の自由な発展の基礎となる基本的人権の原則を私達が貫くために、その原則を政府に守らせるために、この重大な歴史的時点において私達のあらゆる力を結集しようではありませんか。」(別集② 「「民主主義をまもる音楽家の集い」へのアピール」1960.6.9 pp.261-262)
「(一九六〇年五月)十九日から二十日の早暁にかけて衆議院で政府与党の一部によって強行された一連の事柄、そこから起こってきたさまざまの事態というものは、いやおうなく私達に議会政治というものを、もっとも原理的な問題に立ち返って考えることを迫っていると思います。‥今日ほどもっとも原理的な事柄が、じつはもっともなまなましいアクチュアルな意味を帯びている時期はこれまでなかった。‥今日の政治的な危機というものは、単に与野党の間のおきまりの衝突ではなく、あるいは政局の混乱という言葉でさえとうてい尽くし得ない性質のものです。むしろ日本の政治体制のレゾン・デートル(存在理由)そのものが問われているのではないかと思います。」(集⑧ 「この事態の政治学的問題点」1960.6.12.p.284)
 「今日のような議会制民主主義は西欧でもようやく十九世紀の末から二十世紀のはじめにかけて、それまで長い歴史の間に発展してきた議会制が民主主義の潮流に洗われて以後、ほぼ今日のような姿になったものです。…
 現代の民主主義において議会制が果たす実質的な機能はどこにあるのでしょうか。
 …第一は国民の間にあるさまざまの利害、あるいは意見の争いを統合(インテグレート)し、調整(コオーディネート)するところの機能です。第二は国会の審議過程を通じて、争われている政策についての国民の関心を不断に呼び起こして、それと同時にいろいろな問題点、あるいは一つの問題のいろいろな側面を国民に明らかにして行くこと、いわば「教育的機構」であります。…
 第一の統合調整機能は、いわば国民→国会という上昇過程であり、第二の教育機能は国会→国民という下降過程として現われます。この二つの過程がリンクして無限なサイクルをえがいている。そのサイクルが円滑に進行している程度に応じて、議会政治というものは現実に機能する。すなわち政治学的な意味で議会政治が現実に存在しているということがいえます。国会における討議の過程を通じて、争点や問題の所在がいっそう明確に国民の前に照らし出され、それを通じて国民の意見ないしは世論というものが、無自覚的なものから、自覚的な反省的なものへと高まって行き、それがまた国会に反映していく、こういう無限のサイクルが、一方では国民の公共事に対する自発的な関心を高め、自分たちの声がとり入れられるというところから国民の参与感が増大する。また他方、国会のなかに統合される意見や利害の幅を広げるほど、国会が国民から遊離するという事態を防ぐことにもなる。すなわちなにより大事なことは、議会制民主主義であるかぎり、どこまでも民主主義の全体の政治過程の中で、国会の政治的機能を位置づけることが大切だと思います。」(集⑧ 同上pp.286-267)
「(議会主義の機能が今日わが国で機能することを妨げている考え方である「院内主義」について)根本的にいうならば、議会が実質的に統合機能を果たし得ない度合いに応じて国民と議会との間にズレが起こります。そうすると院内の多数意志をそのまま国民の多数意思として通すことに対する抵抗が起こってきます。したがって議会制というものを円滑に機能させるためには、ズレをできるだけ少なくするよりほかに根本の方法はないわけです。…
 …小さなズレは審議過程の中で正し、大きなズレは解散による国会分野の再編成によって是正されて行く、これが根本だと思います。そのプロセスに国民が信頼できるかどうか、これが議会政治が信頼されるかどうかということの分かれ目になります。ズレに対して国民がどの程度敏感に、またどの程度広い範囲で反応するかということは、こういうふうに見ますと、国民がどの程度国政に対する能動的な関心を持っているかの目安であって、ズレに対する反応や抵抗がおこること自体はむしろ民主主義の健在な証明なのです。」(集⑧ 同上pp.288-289)
 「(議会主義の機能が今日わが国で機能することを妨げている考え方である「多数決主義」について)議会政治が多数決による決定を基礎にしていることはもちろん当然のことです。‥しかし‥多数決主義は前提としてのディスカッション(討議)の過程を離れては意味を失います。…(しかし)現代の民主主義がいわゆるマス・デモクラシーに変質したという大きな歴史的な背景がある…。ですから「討議による政治」というモメントにしても、現実的にはやはり国会が民主的な政治過程の全体のなかでもつ政治的機能との関連において、その有効性を考えていかなければなりません。それには何よりもまず、討議のレベルというものが、社会的に多層でなければならないという問題があります。‥討議のレベルが多層であるほど、国民意思はより広く、より深く統合される。国会内における討議と採決は、そうした社会的に多層なレベルにおけるディスカッションの終着駅です。また他面、国会内の討議が下降して国民の種々のレベルでの討議をひきおこすという意味では始発駅であります。そのプロセス全体が民主的政治過程を形成しているわけです。)(集⑧ 同上pp.290-291)
 (「声なき声」という問題は)「結局、「泣く子と地頭には勝てぬ」「長いものは巻かれろ」という、長く日本人にしみついた政治にたいする默従と権威への順応の態度が、日本帝国の時代からいつもこれまで官僚政治家によって「支持」のなかにくり入れられてきたことが、積もり積もって、ああいう岸首相の抜きがたいものになっているわけです。…
 政治過程の全体の循環の中で民衆の合意、納得を調達していく程度が少なければ少ないほど、いいかえれば権力介入度が高ければ高いほど、それだけそれは議会政治の機能における変則現象が起こっている証拠です。その場合に責任を民衆の水準の低さとか、粗暴さとかいうことになすりつけることは、民主的政治家にとっては最低の弁解であります。
 人民が自発的に自ら誤りをおかすことを認める主義が民主主義であるという、やや逆説的な定義があります。人民が自らの行動を通じて、その経験のなかで誤りを正していくという過程そのものが教育になる。そのプロセスを信じなければ、それは民主的な政治過程全体を信じないのと同じことになるのではないかと思います。」(集⑧ 同上pp.296-297)
「(五月十九日以後の国民的運動は何を残したか)なにより新安保がああいうむちゃな通り方をし、しかもこれだけの抵抗が世界的に明らかになったことで、成立したとたんにその政治的な実効性が当のアメリカ自身によって疑問視されているという事実がある。これだけでも二、三カ月前までは想像もしなかった結果です。法律というものは、条文から当然に何か具体的な結果がでて来るわけではなくて、だれ(浅井注:政府や国民)がどういう状況でそれをどう使うか、また使わせないかということで、政治的な効力が決まって来る。だからこそ法が死文化するというような現象が起こるわけです。条約というものは、その意味では法律以上に政治的なものです。
 この数カ月の安保問題をたとえていえば、こういうことになる。新安保条約というのは、鉄の丸い輪に厚い紙をはったウチワみたいなものだった。紙がつまり条文の内容です。それが国会審議の過程で野党からいろいろ疑問の点を追及されて、紙にブスブス穴があいてきた。このままでは穴が多くなるばかりだというので政府は一挙に採決を強行して、ウチワを強引に国民に押しかぶせようとした。とたんにものすごい風圧が下から起こったが、政府はしゃにむに批准までもっていった。成立してみると、風圧-そのなかには尊い人命の犠牲も含まれている-のために「新安保条約」という鉄の輪(形式)だけは残ったけれども、紙はビリビリに裂けてたれさがっている。それが今日の状態だと思うんです。もちろんほうっておけば、政府はまた繕おうとするでしょうが……。  第二にアイクの訪日中止で日本の国際信用が落ちたというけれども、むしろこの一カ月ほど、日本が国際的にクローズアップされ、見直されたというときは、戦後かつてなかったと思う。米国官辺からいえば、飼い犬から手をかまれたという気がするでしょう。その意味では憤激もするだろうし、飼い犬的信用は落ちたでしょう。しかし、日本国民が自分の進路を、ただ政府のいいなりにならずに、自分で決定する意向をはっきり示したこと、簡単に外国によって御し得られる国民ではないという認識を与えたという意味では、むしろ国際的な地位を高めたといえる。ですから、アメリカも対日認識の浅さを反省せざるをえなくなっています。」(集⑯ 「新安保反対運動を顧みる」1960.7.5.pp.339-340)
「(この国民運動から何を教えられ、学び取ったか)「日本の進路をみずから切り開く」ということについていえば、その過程ではいろんな混迷や錯誤や行き過ぎが行なわれるけれども、その錯誤や行き過ぎがどこまでも国民みずからの批判や運動のなかで是正されてゆくのが民主主義であって、そういう自己修正能力を信じないというのは、つまり民主主義を信じないということだ。ところが民主主義者を自称する人で、それを信じてない人が多い。だからすぐ上から治安対策というような権力手段にたよろうとする。
 それから根本的なことでは、大衆社会状況では政治的無関心が蔓延するという一般的なテーゼがあったのですが、この一カ月で、むしろ国民の中には権力の無理押しに抵抗する健康なデモクラチックなセンスが、戦後十五年の間にかなり生活感覚として生きてきたことが実証された。もちろん中央と地方の差はまだまだ大きいですが、国民の自発性と能力性のポテンシャリティー(潜勢力)としては大きなものを持っていることを示したと思います。」(集⑯ 同上p.341)
 「(この出来事が戦後史の中で占める位置、あるいは持っている意味)本当は敗戦の直後に民衆の下からの自発的な盛り上がりがあって、その力が新憲法を制定させ、また戦争責任者を追放すべきはずだった。その課題がまさに十五年遅れて出てきた。こういうことが敗戦直後に行なわれていたら、日本の議会政治は、日本国憲法という共通の土俵の上で行なわれていたでしょう。…憲法以前的、つまり大日本帝国的勢力と考え方が根強く残っている限り、人民主権という世界の常識が政治の現実の上ではなかなか常識にならず、むしろこの数年の政府のやり方にあらわれているように、憲法が邪魔者扱いされる。これでは共通の土俵はできません。
 ルール・オブ・ロー(法による支配)は基本的には権力に対する歯止めであるということが見失われてしまい、政府の行為に法の衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるような考え方が、日本には少なからずある。…既成事実を作って、法をそれに合わせて解釈しさえすれば、一時的に世論は沸き立とうとも、結局はまあ仕方がないということになって事態が収拾されていくような悪例が積み重なってきたところに、岸〔信介〕政府にあのような強行採決を決意させた遠い背景があった。だから、まさにここにおいて、大日本帝国やナチスドイツ的な法治主義と、民主主義のルール・オブ・ローとの区別を明らかにしなければならない。その意味では、これだけ激しい抵抗が起きたというのは、日本史上初めてといっていい画期的な事態だと思うんです。」(集⑯ 同上pp.341-342)
 「(このエネルギーと思想を持続、発展させるには)簡単な妙薬はない。やはり市民の間に自発的な討議をするチャンスを無数に作っていくことしかないと思います。それはみんなが不断に政治を監視する姿勢を作っていくということです。職業的政治家から政治を解放する。デモクラシーとは本来シロウトによる政治ということです。そういういわば「政界」に出家してやる政治から在家仏教化していくことが必要ではないでしょうか。」(集⑯ 同上p.343)
「そもそも現代というのはどういう時代なのかという根本的な問題に行き当らざるを得ないと思います。‥私たちは私たちの毎日毎日の言動を通じまして、職場においてあるいは地域において、四方八方から不断に行われている思想調査のネットワークのなかにいるというのが今日の状況であります。…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。…しかもおよそ政治的争点になっているような問題に対して、選択と決断を回避するという態度は、まさに日本の精神的風土では、伝統的な行動様式であり、それに対する同調度の高い行動であります。(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.303-306)
「政治行動というものの考え方を、‥私たちのごく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほんの一部であっても持続的に座を占める仕事として、ごく平凡な小さな社会的義務の履行の一部として考える習慣-それが‥デモクラシーの本当の基礎です。…私たちの思想的伝統には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治家の政治活動という考え方になります。…つまり本来政治を職業としない、また政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられるということであります。」(集⑧ 同上pp.314-315)
「官憲主義というのは日本の支配原理を非常によく現わしている。官憲主義というのは、一つには日本帝国的な法治主義、「国憲を重じ国法に遵ひ」(教育勅語)という、ルール・オブ・ローと区別された意味の一種の法治主義だ。ルール・オブ・ローというのは権力をチェックする、権力に対する歯止めとして法があるという考え方である。人民主権でもって、主権をもっている国民が権力に対して、権力の乱用を防ぐために法を設定した。‥君主という人の支配にたいする反対概念としてルール・オブ・ローという考え方ができた。日本の帝国的法治主義というものは逆で、支配層が法を制定し、制定した君主・官僚に被支配層が従わなければいけない。遵法(じゅんぽう)ということはまず第一に、被支配層に要請される。ルール・オブ・ローにおいては、まず第一に権力が法に従わなければならない。権力の上に法がある。」(集⑧ 「安保闘争の教訓と今後の大衆闘争」1960.7.pp.336-337)
「今日民主主義や議会主義の名のもとに息をふきかえしているのはまさに、官憲国家的な支配様式です。官憲国家原理というものは、第一に民衆はお上(かみ)によっていろいろ世話をやかれないと、頼りなく危っかしいものだという考え方が根本にあって、そこから民衆の自発的、能動的な行動にたいする本能的な恐怖や不信感が出て来る。それから第二には、その世話をやくお上というのが、あたかもあらゆる党派的利害から超越した公平無私な存在であるかのようなたてまえが根底をなしている。パブリックという、本来、社会の横のひろがりを意味する観念が、ここでは「公」、おおやけとして、お上によって占有される。したがって、それに対応する服従の仕方は、権力的支配に対する服従よりも、むしろその世話やき的な指導に対する默従に近い。ただ默従に甘んじない異端分子に対しては、非常にあらわな裸の暴力をもって臨むというのが官憲的国家の特徴だと思うんです。この典型的な支配様式が、そのまま民主主義の定義のなかに、いつの間にか再現されるようになってきた。こういうふうに考えてくると、‥議会政治を共通の土俵にのせていくという課題も、日本の敗戦後の再生の歴史的意味をふまえて論じないと、事柄の本来の筋をつかまえられないんじゃないか、と思うわけです。」(集⑧ 「八・一五と五・一九」1960.8. p.369)
 「支配層は‥默従的な臣民意識の持続の期待の上に法的な民主主義の制度を乗せようとしているのだと思うのです。したがって民主主義それ自体についての考えは、恐ろしく形式的法律主義に傾斜せざるをえないことになります。…ここでは第一に実定法万能主義がルール・オブ・ローとすりかえられている。第二に民主主義が「話し合い」という部落共同体の和気あいあい主義にすりかえられている。日本の戦時体制も無数の会議体でこの話し合い主義が行われ、いわば話し合い的全体主義だった、そこには独裁者の決断意識がなく、したがって決定の責任が雲散霧消してしまったのです。この実定法主義と話し合い主義が結合して民主主義のイメージを形造っている。ですからそこには一方が合法的暴力を行使できる立場、さらに決定の結果をすぐ法制化できる立場にあるという意識-つまり権力の自覚と責任意識が欠けていて、そのかわりに、あたかもハンディキャップのない-テーブルをかこんだトランプの遊戯者のような「話し合い」の関係が政府と国民との間に存在しているかのような錯覚あるいは自己欺瞞がいつもあるわけです。」(集⑧ 同上pp.370-371)
「臣民というのは‥天皇の百僚有司と「民草(たみぐさ)」の合成されたものです。太平洋戦争における総力戦の極限状況では、「民」をほとんど根こそぎ「臣」にしてしまった。一億翼賛と滅私奉公がそのイデオロギー的表現です。戦後はまさに「臣」から「民」への大量還流としてはじまった。民主主義はそういう形で出発したわけです。還流した「民」は大ざっぱにいって二つの方向に分裂したと思うのです。一つは「民」の「私」化の方向です。これはちょうど滅私奉公の裏返しに当る。農村ではこれが主として個々の農家の経済的な利益関心の増大と名望家秩序の崩壊として現われ、大都市などでは消費面において私生活享受への圧倒的な志向として現われた‥。ところでもう一方の「民」の方向はアクティヴな革新運動に代表されます。この方はエトスとしては多分に滅私奉公的なものを残していた。したがって前者の方向から見ると、後者の運動や行動様式はどこか押し付けがましく、また騒がしく見え、その気負った姿勢はむしろおぞましく映ることになる。ところで支配層にとっては‥臣民意識をあてに出来なくなったかわりに、この「臣」の分岐が少からず有利に作用したと思うんです。第一に、臣民的默従とは多少ともちがった形ではあるが、前のグループの「私」主義にもとづく政治的無関心が、第二グループの「封じ込め」を意図する支配層には都合がよい。さらに積極的には、いわゆる補助金行政で、農家の利益関心にくいこむことができる。つまりこうした形の「民」の分割支配が、天皇制のカリスマを失った支配層の苦しい逃道ではあるが、今日までともかく続いて来たと見られるのじゃないか。ですから逆にいえばこの二つの「民」の間に、人間関係の上でも、行動様式の面でも相互交通が拡大されるとすれば、ここに戦後の歴史は一転機を劃することになる。警職法闘争はその大きな端緒でしたが、この一カ月余りの大衆的な盛り上りの意味もそうした方向にまた一つ大きくふみ出したことにあると思うんです。」(集⑧ 同上pp.371-372)
「非常に迂遠かもしれないが、僕は自然状態から考えてみる。かりに一人一人が、自分の生活なり幸福というものを、自分の責任で守ってゆかねばならない、つまり外からの侵害にたいしてめいめい自分一人で棒きれでも何でも使って身をまもらねばならない状態を想定してみる。万人の万人にたいする戦い、という極限状況が、いつも生き生きとしたイメージになってはじめて、国家が暴力を独占していることの意味-意味というのは同時に限界ということだが-その意味がきびしく問いつめられる。…
 ところが、日本はむかしから、自然的・地理的な境界が同時に国家なんですね。で、どうも「自然状態」っていうものがイメージとして浮かばないんですね。もし浮かぶとすれば共同体ですが、共同体的自然状態ではこれまた、暴力の制度化という必要の切実さがでて来ない。そういう日本の歴史的条件だけから見れば、僕のいう無数の内乱状態と制度との二重イメージがひろがるということは、絶望的に困難なように思われる。ところが逆に、核兵器の飛躍的な進歩とか放射能の問題の方から考えると、一人一人の人間が国家などは超越したものすごい暴力に直面しているという状況に、またなってきているんじゃないかしら。国家あるいは政治権力に人々がともかく服従しているのは、結局生命財産を保護してくれるという期待があるからです。ところが、世界中でだんだん、もはや国家頼むにたらず、という状況になってきつつある。だから、ぼくは日本でも生き生きした自然状態のイメージが出てこないとは必ずしもいえないと思いますね。
 「近代」っていうものを、成熟した高度資本主義のモダーンじゃなくて、近代社会がうまれてくるその荒々しい原初点でね、もういっぺん思想的につかみなおそおう‥。
 僕は永久革命というものは、けっして社会主義とか資本主義とか体制の内容について言われるべきものじゃないと思います。もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても「支配」は少数の多数にたいする関係であって、「人民の支配」ということは、それ自体が逆説的なものだ。だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する。…
 マックス・ウェーバー‥は「権限」を厳守する官僚制の精神と「自由」な政治家の責任倫理とを区別した。けれども、たんに区別しただけじゃない。機構のなかにあることの不可避性の自覚が、瞬間瞬間の自由な人格的決断に結びつくところに理想的人間像を求めた。その意味ではすべての人は合理的官僚であると同時に指導者でなければならない。それ以外に自由の将来はあり得ない。共同体的自由も「山林の自由」もこの現代の宿命を自覚しないからどうしても無責任になっちゃうと思うんです。」(集⑯ 「5.19と知識人の「軌跡」」1960.9.19.pp.32-34)
「声なき声は、声をあげた瞬間に声ある声になる-というより声ある声にくり入れられてしまう。しかし私たちはそのパラドックスにたじろぐことはない。なぜならそれは人民(多数)ということと支配(少数支配)とを一緒にした民主主義の理念そのもののパラドックスに通じているからだ。デモクラシーが逆説だからこそ、それは運動としてだけ本当に存在する。声なき状態はそれ自身何ものでもない。しかし声ある状態を固定することもまた運動の死を意味する。」(集⑧ 「感想三つ」1960.9.26.p.386)
「二重構造なのは経済だけでなく、われわれ日本人の意識構造自身が、表層と下層とに分裂している。これを統一する努力のなかにはじめて本当のデモクラティック・パースナリティが育って行くのである。」(集⑧ 「選挙後の課題」1960.12.15.p.392)
「一般に日本の社会では、いろいろな政治的問題、社会問題について、いろいろ違った意見がぶつかり合うということが非常に少ないのじゃないかと思います。だいたい似たような考え方の人が集まって話し合いをやる、別の意見の人はまた別のところでやるというふうに、小さな集団でもそうですし、日本全体をとり出してもそうです。…  これは、個人のレベルの問題だけではなく、戦後の日本の転換を考えてみますと、今までの日本の政治なり、何なりが間違っていた、これからはデモクラシーでいかなければならないということになったわけですが、その場合、今までのやり方のどういう点が間違っていたか、それに対してデモクラシーはどういうふうな点に長所があるか、そして、自分たちが今まで正しいと思っていたことと、これから自分たちがとろうとする方向は、どこが違って、どこがかみ合っていくかを議論するということなしに、何しろデモクラシーになれば万事うまくいく、というふうに考えたり、逆に、昔のやり方の方がやっぱりよかったと思ったり、という具合で、いろいろな違った考え方の人の間に「対話」というものがないわけです。つきつめていくといろいろな問題はそこから出てくると思います。  そこでいろいろな政治や社会の問題を考えていく上に、もちろん考えの違った人と意見をたたかわすことは望ましいのですが、ただ、そういう場合にわれわれの間には非常に「勝ち負け」思想が強いので、お互いに意見を交換し合って自分の意見を確実なものにするということよりも、「勝った」「負けた」で片づけてしまうことが多い。…ですから、もっとも必要なことは、自分の内部で自分と違った意見というものを仮にいろいろ考えてみて、つまり自分と反対の意見をたくさんおいてそれと対話をする、議論をする、そして両方の意見を調整する、そういうことを、自分の中で、各人がやることによって問題の理解なり、考え方なりに、深みと厚みを加えていくことです。」(別集② 「明星学園講演会速記録」1960年 pp.263-264)
「日本が所与としての日本の過去を背負ったまま、沖縄が沖縄の所与を背負ったままでは、沖縄の独立もないし祖国復帰もない、つまり、双方の側での自己否定を契機にしない限り双方の結合はあり得ない、ということなんです。そのことは、単に沖縄だけの問題ではない。僕は、知識人とか大衆とか、いろいろな問題でそのことを考えている。その意味では、あらゆる形におけるべったり土着主義というものを断ち切らねば、日本の独立、真のナショナリズムというものも出てこないということを考えるわけです。」(集⑨ 「点の軌跡-『沖縄』観劇所感-」1963.12.pp.131-132)
 「「沖縄」は、近代日本と沖縄の連帯という問題-それは、アジアの民衆との連帯ということでもいいですが-を提出しているんですが、実は、日本人のなかにおける隣人との連帯の問題が重要なのです。…日本対沖縄という問題が、政治的問題としてあるにしても、それを更につっこんで行けば、国内における連帯の問題になると思うのです。それは、内(うち)と外(そと)という問題です。内とか外とか、部落民対われわれ、われわれ対沖縄人、あるいは朝鮮人という形をとって、内と外の論理=思考様式というものが、日本人の相手同士にある。閥とか閉鎖的集団とか、内の人間と外の人間、インズとアウツというものを断ち切らねば、連帯の生まれようがない。インズとアウツというのは、僕にいわせれば「部落(ムラ)」なんです。これが原罪なんです。そこで、僕は土着主義を切らねばならないと思う。ムラが抵抗の根源であるとか、部落共同体というものが近代における抵抗の根源だとはどうしても思わない。これこそが、内と外という論理の醱酵するもとなんです。内というものは、空間の領域の区別、垣根のこっち垣根のあっちというのではなく、本当は内面性にならなければならない。内と外が、空間的にひかれた境界であるとすると、どうしても差別というものが出てくるし、人間と人間の結びつきは生まれてこない。それはちょうど、家族的エゴイズムというものがある限り、家族のなかにおける人間的結合がない、というのと同じでしょう。従って、沖縄に対して差別しているということは、日本人同士が差別しているということと同じなのです。」(集⑨ 同上pp.133-134)
 「このドラマ(浅井注:木下順二『沖縄』)の真意は、‥人間存在の根本問題を、人間の連帯の問題として出している。しかもそれは政治の問題でもある。日本人のなかで連帯が実現できないで、どうして日本対沖縄とか、日本対アメリカとか言えますか。日本人と日本を同一化するのがまちがっている。そうすると、問題が、無限にナカの問題に転化する。沖縄対日本の問題は、ゆえに、われわれとわれわれ隣人の問題になって行くと思うんです。日本の近代化にしても、いわゆる近代の否定ではなくて、近代日本の否定でなくてはいけない。封建的なものを背負い、他方では目まぐるしく近代化して行った。そういう日本の否定なんであって、日本の近代化した側面の、その否定ではない。その意味でも、僕は土着主義に反対なんです。日本の近代的側面が支配層によって代表され、先取りされたから、それに対する抵抗が「部落(ムラ)的抵抗」にどうしてもなるんです。官僚制が近代的なものを先取しちゃったからいろんな形で、近代化からとり残された者に、共同体的なものを抵抗の拠点にしようという発想が生まれるのは、ナチュラルですよ。しかしその二つは、実は、背反関係にあるのではなくて、かえって補完関係にある。日本の近代は、部落共同体の基盤の上でめざましい発展をしているんです。その結びついた両方を否定しなければ、同じことなんです。それを片方を抵抗の拠点にして、近代日本を否定する。それは丁度、所与の一方に寄りかかって、他方の所与を否定するということになる。」(集⑨ 同上p.137)
「戦後、戦後と言いますけれど、戦後と言ったってもう三〇年経っているわけでしょう。一体それを一括りにできるのか、と。そのイメージの違いが、例えば戦後民主主義という言葉の解釈、受けとり方の違いに象徴的に現れているわけです。つまり、戦後民主主義と一口に言った場合に、理念を言うのか、制度を言うのか、それが全部ごちゃごちゃに言われているでしょう。甚だしきは、戦後の政治そのものを戦後民主主義と言っている。戦後の政治の現実そのものがどこまで民主主義であり、どこまで民主主義でなかったが問題であるのに、戦後政治を戦後民主主義と言っている場合さえあるわけです。ということは、民主主義の理念・運動・制度、それから制度の現実の運用のされ方と、そういうレベルが全然区別されていない。それで、戦後民主主義はよかったとかよくなかったとか、ワアワア言っているのではないでしょうか。
 日本の議会政治がどこまで民主的に運営されてきたのか、あるいはどこまで民主主義の基本的ルールが活かされてきたのかというと、随分あやしいところがあるでしょう。まさに民主主義の理念に従って、戦後の政治を裁く余地があるわけですね。‥
 僕はそういう次元の混同があると思う。それは、一九六〇年代以降の、特に高度成長期以後に甚だしい。なぜかと言うと、高度成長期以後の日本の政治的・社会的現実は、ある意味で固定したレールの上を滑るようになってしまったわけです。政治も経済も。それで、今自民党の半永久的独裁は続いているし、戦犯はほとんど復活してきたし。
 つまり、戦後の初期の、ある意味での混沌とした、極端に言えばアナ-キスティックなものまで含んだ、多様な可能性を含んだ戦後初期の状況というものとは、非常に大きな違いが生まれてきているわけです。…
 そういう原点、原点という言葉は嫌だな。出発点だな。僕らにとっては、それが戦後民主主義なんですね。高度成長期の‥全部が規格化され、その型が押しつけられ、それを民主種として受け取っている世代が、戦後民主主義クソくらえと思うのは、もっともではないでしょうか。全くズレがあるわけです。戦後とは何か、ということをもっと誠実に検討する必要があるわけです。…
 多様な可能性が一つずつ削られていって、もう軌道が決まってしまっている時代、それはそもそも民主主義ではないのですよ。民主主義というのは、多様な可能性からの選択でしょう。政党からしてそうでしょう。つまり明日にも社会党が天下を取る、また今度は保守政党が天下を取るということでなくては、議会政治とは言えないわけです、政権交代というものが普通にならなければ。‥普通の、ノーマルな民主主義的な政権交代というものが、現実には行われていない。議会政治のイロハが現実には実行されていない。実行されていないことをとらえて、議会政治ナンセンスと言い、さらに民主主義ナンセンスと言っているわけでしょう。そういうこと自身をもう一度考えてみる必要がある。
 戦後民主主義のレベルを分けていく。民主主義運動の問題、制度の問題、その現実の政治の運用のされ方の問題、その腑分けをしていく必要があるのではないでしょうか。どこが今後発展させていく要素なのか、どれが今度は、やはりまさに民主主義の名において変革されなくてはいけない要素であるのかということですね。それをオール否定してしまったら、何が残るでしょうか。何によって現代を批判するのか。いかなる規準によって批判しようとするのか。‥だから、二、三〇(年)前からの視点というのは、二、三〇年後からの視点ということと同じなのです。それは、想像力、イマジネーションによる以外にないです。
 そういうものと、現代の「現代から現代をみる」という視点を重ねあわせないと。…二〇年、三〇年昔というのは、実につい昨日のことであるということ。そういう眼を持つことも、同時に必要なのではないでしょうか。」(手帖26 「第四回大佛次郎賞 受賞インタビュー」1977.9.25.pp.13-16)
 「戦争中は近代的思惟というものを、非常に盤石な幕藩体制のようなものであっても、蟻の穴から崩れるように内側からズルズルと崩れていって、迎え入れる準備ができていると。決して舶来のものではないのだと。近代的思惟の内発性を戦争中は言おうとしたわけですね[「『日本政治思想史研究』あとがき」]。ところが、今度は一夜にして民主主義になってしまうから、アメリカ民主主義万々歳でしょう。要するに、日本のものは全部ダメだということになってしまうわけです。戦争中と力点が逆になって、近代的思惟イコール西洋思想、ヨーロッパ思想と。それを排撃して日本精神と言っていたのが戦争中です。西洋思想イコールダメだと、鬼畜米英だと。それが今度は価値判断をひっくり返しただけで、基本的な考え方は同じ。近代的思惟というのはアメリカデモクラシーなのだと。そういうことになると、日本のなかから自主的にデモクラシーを生みだしていくということは、ほとんど絶望的になってしまう。
 したがって、日本のなかにある内発的なデモクラティックな要素というものは微弱ながらあったのだから、やはりそういうものを育てていくということで、われわれ自身が自信をつけなくてはならないのだというのが、戦争直後の状況でしょう。」(手帖26 同上pp.16-20)
「ウチ・ヨソ意識の打破というものがないと、やはり人権感覚も出てこないし、集団の内部の少数者の意識の尊重ということも絶対に出てきませんよ。共同体主義からは、満場一致社会ですから。‥いちばん日本に欠けているのはそれですよ、マイノリティの尊重。‥あらゆる集団の中における"ノー"という権利の尊重、これこそ決定的に欠けているものですよ。雰囲気の圧力というものが非常に強いから。"ノー"と言いにくい空気ということですね。ある方向にはずみがついちゃうともうどうにもならない。戦争中の私の実に深刻な経験です。もうどうにもならない。恐るべき孤立感です。だから、国家権力よりももっと周囲のはずみの方が怖い。‥マスコミのあり方もそれと関係している。」(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6.2.p.36)
「「戦後民主主義」というとき、みんな「制度化」されたものを考えているでしょう‥。完全に「制度化」された民主主義というのは、実は自己矛盾です。だから「戦後民主主義」の否定とか肯定とかいう言葉自身が、言葉の魔術を含んでいて、つまり「理念」のレヴェルと「制度」のレヴェルと、それから「制度」が現実にどうワークしているか、という現実政治のレヴェルと、もう一つ「運動」のレヴェルがあって、実際はそれを弁別せずに、ごちゃごちゃにして、とくに「運動」よりは「制度」のレヴェルだけ見て戦後民主主義ナンセンス論というのが出てきたと思うんです。その制度にしても理念にリファーしない。議会政治というけれど、それは本当の議会政治になっているのか。どこまで議会政治の制度が、いわんや理念がワークしているのか。それを問うという発想がない。全然おかしいんです。つまり反対している本人にとって見えている現実だけしか頭にない「現実主義」なんです。そこにやはり日本のbasso ostinatoが現われている。つまり、理念によって現実を裁く考え方が弱い。議会政治の理念によって議会政治の現実を裁き、あるいは方向づけてゆく考えが弱い。民主主義の理念によって、民主主義の現実を変えて行く発想が弱い。…理念へのコミットメントが弱い。一つの事実によって他の事実を批判することはできないんです。事実は無限に異なり、細分化されます。理念によってこそ事実を批判できる。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.215-216)
「日本に内発的な、デモクラシーの萌芽があったんだということを言いたいという気持ちは非常に強かったんですね。占領軍から押しつけられたものじゃないという気持ちが。‥明治の精神の中にもあったんだということを、福沢とか何とかもってきて、それがいつの間にか忘れられ、ないしは歪曲されたのであって、必ずしも今日初めて、デモクラシーということをアメリカに教えられて、言い出すんじゃないという気持ちもあったし、そういうことは庶民大学に限らず、あの時の機会にだいぶしゃべったし、私の中には非常に強かったんですね、その気持ちが。‥江戸時代でさえあったんだ、いわんや明治においてをや、ですね。」(手帖22 「聞き書き 庶民大学三島教室(上)」1980.9.15.pp.6-7)
「戦後民主主義の否定と言われているものには、戦後政治の否定と同義なのが多いんです‥。[戦後政治は]一体、民主主義と言えるのか。たとえば議会政治についても、議会政治の原理と議会政治の制度と議会政治の実際とがあるわけです。今言われているのは、実際なんですね。議会主義の原理に照らしてみれば、現在議会政治と言われているのは、議会政治じゃないんだという批判だって出てくるわけでしょ。ところがやっぱりそこは、現実主義の風土が非常に強いから、論壇人や学生や知識人たちも、みんな現実の方で批判するわけです。原理の方で見ていかないで、原理にどれだけ即しているかという検討抜きに戦後民主主義論がなされている。
 実際に原理はともかく-原理というとプラトンからになるから話は大きくなるけれども-少なくも運動と制度の弁証法的統一として見なければいけないんだ。
 この時代[敗戦直後]というのは、民主主義が最も状況化した時代です。こっちの端に制度化がある。こっちの端に状況化がある。状況化というのは制度が融解したものなんです。制度化というのは状況が凝固したものなんです。僕はそういうふうに理解する。あらゆる政治というのは状況と制度の統一から成り立っている。‥戦前の制度が融解した極致に生まれたんだね、これ[庶民大学三島教室]は。それが戦後民主主義の原点なんですね。最も状況化した時代。ところが、一九六〇年以後の高度経済成長の過程というのは、戦後民主主義がひたすら状況の側面が失われて、制度化されていった過程なんです。だから、それを否定するのは当たり前だと思うんだな、僕は、心情的に。
 しかし、僕はそれは戦後民主主義を否定したことにならないと思います。あなたの言っている戦後民主主義とは何ですか、と逆に問わなければいけないんです。‥完全に制度化され、すべてがレールに乗っちゃった、そういうものを戦後民主主義と言っていますね。‥だから、僕らとの喰い違いは、どっちがいい悪いは別として、そこにあったんです。戦後民主主義ナンセンスとか、いやそんなことないと言うのは、こっちはその原点で考えているでしょ。片っ方は無理ないんですよ、完全にレールに乗っちゃった戦後民主主義で考えている。やっぱり僕はその両方の統一として[考える必要があると思う]。ある時にやっぱり変質して、完全に制度化されるということは、民主主義の自己否定なんです。民主主義の理念自身が、つまり状況によって制度をいつも溶解していく、溶かしていくという面を含まないとね、民主主義じゃないんですよ。民主主義がフルに制度化されたら、それは民主主義じゃないんだ。そういう自己矛盾的なものなんです。
 ‥制度化された度合いに比例して状況化がなくなるし、状況化するということはアナーキー化することですから、つまり制度が溶解していくわけです。完全にアナーキーになっちゃうと、‥全部がハプニングになるんです。制度がゼロですから。明日何が起こるか分からない。全然予測がつかないでしょ。そうするとエライことになっちゃうんですよお互いの不信感ばかり募って。
 だから、そういう状況と制度という観念を用いて、全体の、広い意味での状況をつかまえることが必要なんですね。戦後民主主義についてもそうだと思いますよ。」(手帖23 「聞き書き 庶民大学三島教室(下)」1980.9.15.pp.1-3)
「政治というのは、人間活動の不可分な一部分なんです。それを否定することによって、実は、全政治主義的なんですよ。だから、反政治主義と全政治主義は同じなんです。大変な自己欺瞞なんですね、僕に言わせれば。自分は客観的には政治活動をしているにもかかわらず、これは政治活動じゃないという、そういう自己欺瞞がある。したがって、そこには責任意識は生じない。パートタイムの政治活動をしているんだという意識があったら、それについては自分は政治的責任を負うという意識があるはずなんです。…
 自己否定という言葉が流行りましたけれど、自己否定というのは、実は、昨日までの自分の自己否定であって、瞬間瞬間の全肯定なんです、僕に言わせれば。したがって、現在やっている行動に関しては何ら責任を負わない。昨日までの自分は全部否定する。そうすると、つまり、自分の行動に対して何ら責任を負わない、という結果になってくるわけです、自己否定というのは。‥自分の行動の中に政治活動を位置づけられない者は、必ずそういう自己欺瞞に陥る。政治活動というものは他人を動かすということです。独りで思索している場合以外は、必ず政治活動しているわけです。何らかの、他人の行動に影響を与える行動は、全部政治活動なんです。…
 結局、政治的志向というものが-平凡に言えば民主主義と相即しているんですが-成熟しないんですよ。政治的思考が成熟しないで、客観的には政治運動をしている。負けるに決まっているわけです。そうすると負けた時にどう言うかというと、それは弾圧されたから悪いと。機動隊を導入したから悪いと。何の問題の解決にもならないわけですよ。つまり、責任を他に転嫁するに過ぎないわけだ。結局、[太平洋戦争で]日本がなぜ負けたかと言う時に、アメリカの物量に負けたと言うのと、現実にはちっとも違わないわけです。政治思考というのは、どこまでも自分の問題として自分のやった行動のどこにまずい点があったか、自分の目的を達成する上にどの手段が適合的であったか、どの手段が適合的でなかったか、という目的と手段との関係を考察することです。」(手帖23 同上pp.14-16)
「政治における最も顕著な契機であるところの物理的強制の契機ですね。物理的強制の契機が日本ではミニマム[最小]になる。だから、政治意識と社会意識の区別は、そんなにはっきりしない。…物理的強制というのは、簡単に言えば、暴力。最後の決め手としての組織的暴力は政治を他の社会行動から区別する決定的な要素でしょうね。
 政治の領域と他の領域との区別がそれほどはっきりしない日本の政治の場合、[物理的強制の契機よりも]合意の調達のほうが大事になる。下の合意の調達のほうが。だから、訳せない言葉が多い。例えば「根回し」とか。(笑)そういう訳せない言葉が多くなるのは、やっぱり、献上物であるということと関係がある。
 したがって、少数意見の尊重ってのはないんですよ。だから、それはデモクラシーとは、やっぱり区別される。それを、変に日本は昔からデモクラシーがあったなんて、とんでもない。村八分なんです、日本のは。その集団の中では、非常に村八分になりやすい。少数意見の尊重が気風としてないから、みんながある方向へ向いた時に、「ノー」ということを公の席で言えない、空気として。したがって、それだけ個人の責任が曖昧になる。誰が何を決めたかということが曖昧になる。そして、何となく合意に達する。しかしその代わり、「ノー」ってことを言わせないためのいろいろなテクニックを使うから、公の会議は儀式化するんです。儀式です、一種の。日本の議会政治、とくに本会議は儀式です。実際のディスカッションは非常に少ない。委員会でさえそうです。
 対立する意見の統合を通じて一般意思が形成されることが西洋の考え方なんです。…そういうことは、日本の場合には考えられない。というのは、暗黙の合意が非常に多いわけ。したがって、ディスカッションは、まあ、発達しないな。「わかってるじゃないの、おまえ。わかんないのは野暮だ」ということになるから、討論は発達しない。ディスカッションは、他者の存在を前提にしないといけない。他者をどうやって説得するかという技術は発達しない。腹でわかっちゃうんです。
 ということは、相互了解の社会なんです。相互了解の社会じゃないと、いちいち、「私は」「あなたは」と言わないとわからないわけです。つまり、個人がみんな異質的な個人から成っているという社会です。そういう言葉の問題は、たくさんありますよ。国語学者に言わせると、主語というのが間違いでね。例えば落語の「サンマは目黒に限る」。(笑)「サンマは」ってのは、主語じゃない。‥国語学者に言わせると、主題だっていうんです。「サンマは」って言うと、ああ今度サンマの話が出るんだということが、みんなにわかるんです。「サンマは」という主題を出して、「サンマを食うんなら、目黒に限る」。と言うと、長くなっちゃうわけね。……「春は曙」っていうのもひどいですよね。(笑)春イコール曙ではないんです。だけど、わかるわけね、われわれには。
そういうのは、政治に限らない。しかし逆に、政治の定義の仕方にもよりますが、それがいろいろな政治現象を統一的に説明する場合にかなり重要な役割を果たすということなんです。」(手帖11 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回(下)」1983.11.26.pp.2-4)
「(鶴見「丸山さんの『政治の世界』(一九五二年刊行)、‥この本の終わりにね、今の大衆、労働者にとっては組合への関心ですらも非日常的になりがちだ、それは失業の恐怖があるし、手から口への生活をしているからで、その生活にもっとゆとりができるなら、そのことから政治的関心が出てくるんだ、ということが書いてある。たしかにそうで、一九五五年、この時からわずか三年後ですね、昭和三〇年くらいから経済成長というのが現われてくるわけですが、昭和三五年を越えるともう一度、その、たいへん豊かになったことからの大衆の無関心というものが出てきますね。この無関心……。戦後の丸山さんの著作を見ると関心を持たなきゃいけないということに主なアクセントがあるような気がするんですが……。‥その昭和三五年以降の、手から口へ、でなくなった状態での無関心については、どんなふうに考えられますか。」)もう、まったく予測を誤った点はそこです。『政治の世界』で、ぼくは、結局、デモクラシーを支えるのは自発的結社であって、したがって労働組合がしっかりしなきゃいけないと、自発的結社のモデルとして労働組合を考えていた。
 戦前はね、労働組合法ひとつないわけでしょ。どこのブルジョア国家にもある普通の労働組合さえ、合法的存在じゃないわけです。で、労働組合に対する期待が非常に大きかったわけです。これは政党じゃないからね。政党じゃない結社の政治的活動によってデモクラシーがはじめて支えられるというのが、ぼくの一貫した信念なんです。その時に、このモデルを労働組合に求めたわけです。
 完全に間違いです、これは。この本のいちばん最後に書いた予測は、完全に外れました。ただね、政治家だけじゃなく、非政治的大衆によってデモクラシーが担われるという大きな見取り図は、その通りだろうと思うけれども。それで、これよりちょっと後だけども、『政治学事典』(中村哲・丸山眞男・辻清明変、一九五四年刊行)に「政治的無関心」という項目を書いてます。それをお読みになれば、今の問題に対してもう少し、これほど素朴じゃないお答えができてると思うんだけれども。
 ぼくはね、非政治的自発性が重大だという観点を抱いたとき、組合官僚化と、ある意味での労働貴族化というものが、これほどになるとは夢にも思わなかった。それから高度成長をぜんぜん予言していない。それはぼくだけじゃないけれども。高度成長後にどうなるかということはまったく……。そもそも高度成長を見越してないんですから、これは最も誤った点です。こんなに豊かになるとは思いもよらなかった。ぼくが政治学を廃業したのにはいろんな原因があるけどね、当たったのは「非政治的大衆」といった点だけです。政治化の時代と非政治的大衆-砂のような大衆が生まれてきたと言いうる。つまり、その頃は非常に大衆を美化する言辞のほうが多かったから、それに対して、これだけは当たったと言えると思うんですけども。さっき言ったように労働組合を美化したということは……。」(自由 1984.10.6.pp.69-71)
「仏法と王法との関係、つまり仏教というものを日本の政治思想史の中でどう位置づけるか。これは非常に難しいんですね。…  仏教というのは、政治的イデオロギーとしてじゃなくて、個人の世の中に対する振舞い方において、非常に大きな役割を演ずる。世間からの隠遁。世間に対して積極的に出ていく態度。それから、聖なるもの-仏法を享受する態度。実践する態度。こういうふうに分けたんです、四つに。そうすると、聖なるものを実践する態度と世間に対する否定の態度は、ちょっと宗教改革に近くなるわけです。それが聖なるものを享受する態度と、世間に対する受動的態度ということになると、体制内宗教なんです。そうすると、やっぱりこれは、移動の法則。どうして親鸞の始めた浄土真宗が体制内宗教になったのか。…現状に対する見方と将来に対する展望とが、同時に二つ変化するということはあまりないわけです。将来に対する展望はあまり変わらないけれど、現状の見方が変わるとか、あるいは逆に、現状の見方はあまり変わらないけれども、将来に対する展望がだんだん悲観的になってきたとかいうことはあり得るわけです。これが、親鸞、日蓮、道元らの鎌倉仏教の宗教態度の移行過程について参考になったんです。  それで、またいろいろな範疇をつくったんですけれど、例えば脱王法、王法を脱する態度。これは遁世です。それに対し向王法。日蓮とか、王法に向かって行くタイプ。それから、王法を断つ[断王法]。これは類型的には親鸞。王法と仏法とは違うんだと。だから、王法に向かって行く態度に比べると、その政治的態度ではノンポリなんです。ノンポリなんだけれど、リベラルに近い。ひとたび王法が仏法を侵すならば、立ち上がる、仏法を守るために。それから、王法内在[在王法]ですね。仏法が王法に内在しているという体制宗教。四つの類型で、その軸が、どういうふうに変動していくか。時代によってどう違っていくか。世間肯定的で、そして、聖なるものを実践していくという日蓮なんかの態度から今度は聖なるものを享受していくという態度に移ると、日蓮宗も現状肯定的になっていって体制宗教になっちゃう。そういうことで、主に中世から近世にかけての各宗教集団の政治的態度の変遷を描こうとしたわけです。しかし、僕は、これは現在でも、個人の世の中に対する態度の基本的パターンだと思っています。」(手帖21 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(下)」1985.3.31.pp.7-8)
「政治的なるものの特徴というのをちょっと離れてね、やっぱり政治的思考-ポリティカル・シンキングですね-の問題として考えたいんですがね。その場合、ぼくはまず第一に、日本人だから日本のことをまず考えるわけですよ。そうすると、日本で今いちばん大事なことはね、紛争というものをそれ自体悪いとみなさないようにすることです。紛争というものを、価値的にはニュートラルなものとして。…
 そうするとね、現在のような、紛争それ自体を悪いことだとする考え方が、日本人の国民性かというと、もともとそうじゃないんですよ。むしろ、こっちのほうこそ、幕藩制から明治天皇制に至るあいだにできた負の遺産なんです。それ以前はね、紛争は通常のこと。で、通常のことを前提に、法律というのはできてるんです。西洋はみなそうです。紛争は当たり前のこととして、法律を考えていく。
 つまり、日本でも、紛争はそれ自体がいけないということになったのは、幕藩体制以後のことなんです。これは儒教の浸透と関係があります。儒教によると、紛争、つまり争いは、それ自体がいけない。…
 暴力は、もちろん避けなきゃいけない。けれど、人間がいる以上、紛争はある。それを前提とするかどうかで、すべて考え方が違ってくる。法とは何か。国家とは何か。集団とは何か。そういうことが、すべて変わってくる。
 つまり、なぜ日本では少数者の権利というものが尊重されないか。なぜ満場一致になるか。逆から言えば、どうして多数決というのは、満場一致が得られないがための、やむをえざる悪としてしか考えられないのか-。人が違えば意見が違うのは当然だとして出発するか、それとも、本来なら一致すべきなのに残念ながら分かれてると考えるかで、ぜんぜん制度の考え方が違ってくる。
 ‥実際は、満場一致というのは虚偽なんです。ぼくはそう思うんです。ありうるはずがない、フィクションなんです。だからこそ、多数決でやる。そのかわり、少数者の権利を保障する、という考え方が出てくる。つまり、満場一致が得られないから残念ながら多数決っていうんじゃなくて、多数決以外にないんです。決定するには。
 ぼくは<権力-紛争>という図式から出発したんですけど、やっぱり、紛争のあるところ政治があり、社会があるところには紛争がある。
 鎌倉時代の『御成敗式目』っていうのは、明らかに、こうした紛争を通常のことと認める建前でできてる。これは、主に鎌倉御家人の所領争いの裁判を扱うための基本法典です。
 ‥御家人っていうのは、鎌倉幕府成立以前からその所領を持ってるわけで、いわばそれは自然権的権利なんですよ。鎌倉幕府は、彼らに対して、この所領を安堵する。つまり、前国家的権利として持ってるものを、時の政権が保障するにすぎないわけです。だから、御家人同士の所領争いは当然ある、ないほうがおかしい、という観念です。それをいかに公平に裁くかという建前で『御成敗式目』はできている。…
 『御成敗式目』の画期的な特色としては、第一に、執権の(北条)泰時ほか、一二人の評定衆たちが連名で署名した起請文が、末尾に付いてるんです。つまり、法を定めた自分たち自身もこれに従うと、明記してあるわけです。法律というのは、けっして支配者の命令ではない。支配者自身も拘束されるものとして『御成敗式目』はできている。
 それから第二に、評定所では、評定衆たちの合議で裁判をするんですけど、そのとき「三問三答の訴陳を番ふ」ということになってるんです。つまり、原告が三たび訴状を提起して、被告は三べん陳状で答える。で、それらを審理した上で、最後に評定所で決を採るわけです。
 近代法とこれは非常に似ていて、違うのは弁護士がいないことくらい。で、弁護士制度というのは、マックス・ウェーバーが、どうして西洋にだけ弁護士ができたかと問題にするくらい、世界的に見ると特徴的な制度なんだな。悪いやつをなんで弁護するんだっていうほうが、むしろ、人間の自然な感情であってね。さすがの『御成敗式目』にも、これはないんだな。それは別として、あとは近代法と驚くほど似てます。原告と被告が平等であるという点もそうだし。
それから、評定所は、集団で裁判官をつとめるでしょ、その発言順を抽選で決めるんです。‥つまり、原告と被告の話を聞いて、合議するわけでしょ。そのとき、誰から発言するかってことを抽選で決めるんです。というのは、ちゃんとそこに書いてあるけれども、権勢ある人が最初にものを言うと、ほかの者が意見を言いにくくなると。‥これはたいしたものですよ。
 「道理」の精神って言うんですけども。「道理」に従って裁くんだと。この言葉を使ってる。その道理というのは、けっして、紛争がないことじゃないの。紛争を公平に裁くのが道理なんだという、ほとんど近代法の考え方なんです。一審、二審とか、そういうのはないけど、裁判官忌避の制度はあるんです。原告も被告も、評定所の特定の人を忌避することができる。驚くべきものです。
 だけど、これも当たり前なんです。御家人の所領は、元来持ってたものを鎌倉幕府が安堵するわけですから、御家人の側には鎌倉幕府からもらったっていう感覚はないわけですよ。ところが江戸幕府になると、大名領については言葉は同じで「所領安堵」とは言いますけど、‥藩主は次つぎに転封でしょ。‥近代の地方官並みになっちゃって、在地性がなくなっちゃう。したがって、その本源的権利、前国家的権利って観念もなくなる。だから、ほんとの封建法的な性格というのは、むしろ『御成敗式目』のほうにあるんです。
 つまり、紛争それ自身がけしからん、とか、お上のおかげで天下泰平なんだという観念は、日本国民の伝統のなかに、江戸幕府が儒教を通じて埋め込んだ思想です。それが明治に受け継がれてる。
 だから、たとえば、江戸の元禄時代、なぜ赤穂浪士のことであんなに非難が起こったのかというと、本来の武士の考え方からすると、あれは「喧嘩両成敗」のはずなんです。‥それで、いわば世論が沸き立ったわけです。
 つまり、あのとき、支配の論理としては、天下の大法を乱したとかね、だんだんそういう観念が熟してきた。公法的な秩序を乱すやつがいる、と。‥"乱す"とか"攪乱する"というのは「悪」の行為だと考えてるわけです。つまり、紛争はそれ自身悪いものではないという観念とは、もう違っている。乱すものは排除せよ、元来あった秩序がそれによって回復する、という観念です。
 そうすると、紛争は当然あるものだという、封建法の観念はなくなっちゃう。ただ、西洋なんかでは封建法の伝統が長いし、自然権という考えも根強いから、近代法の論理のなかにもそれが続くんだけれども。
 だから、ぼくに言わせれば、大事なのは「紛争の統合」なんです。ただ、統合、統合で行くのでは、日本は非常に危険な国です。「和」の名において、実は強制が行なわれる。そういう危険のほうが、より大きいとぼくは思うんだ。
 だから、まず「紛争」というのをあいだに置けば、その点は大丈夫なわけです。そうではなく「統合」から出発しちゃうと、紛争それ自身がいけないんだという、幕藩体制から儒教なんかが大いに要請した-明治以後とくに強いけれども-秩序本位の考え方のほうに行っちゃう。"和をもって貴しとなす"といった言い方で。
 …つまり「一億火の玉」、これがいちばん怖い。やっぱり、日本国民には、そういう等質性ってあるんですよ。朝鮮人差別や部落差別とかを抱えながらも、世界的に比較すれば、これほど等質的な国民っていうのは、ぼくはないと思うんだ。本来的にみんなが一致すべきであるっていう建前のほうが、どうしても先行する。こうなると、ハーモニーも存在しない。実はユナニミティ、つまり挙国一致。やっぱり、これを破っていかないといけない。そうでなきゃ、ぜったい、ぼくはデモクラシーは根づかないと思う。いわんや、リベラリズムにおいては。
 (鶴見「しかし、このまま破られなければ、かつてなき抑圧的な「真のデモクラシー」が完成するかもしれない。」)うん。(鶴見「それは恐ろしいけどね。」)そうなんだよ。…
 ぼくはね、そういうことを小学校のうちから徹底して教えなきゃいけないと思うんです。人がいれば、みんな違うんだと。違った人が、互いに意見をたたかわせることから、どうやって‥統合を実現していくかと。そういう、ここでの議論以前の問題が、もっとあるんじゃないか。ぼくは、ほんとの反動時代をくぐったから、こんなふうに悲観的に見るのかもしれないけどね、そっちのほうが心配ですね。」(自由 1985.6.2.pp.181-190)
「近代知識人の課題に必然的につきまとうディレンマがあります。‥一つは、真理の普遍性に対する信仰です。これは言いかえれば、世界市民的な側面ということになります。‥身分社会から解放されて、思想の自由市場で多様な世界解釈を競うわけですから、どうしたって、ユニヴァーサリズム(普遍主義)の側面を持たざるをえない。普遍的な「世界解釈」の提供者ですから、真理の普遍性に対するコミットメントが一つの側面です。
 しかし、他方、‥目的意識的近代化の役割を課せられているわけですから、知識人に寄せられる期待なり役割なりは、どうしても特殊な集団に限定される。たとえば、日本をどういう国にするか、日本という国の独立をいかに計るかというふうに限定せざるを得ない。これは、さっきの真理の普遍性とは逆に、パティキュラリズム(特殊集団主義)へのコミットメントです。世界とか人類の問題よりも、まず日本を優先することになります。ここに当然ディレンマがあるのです。そうして、目的意識的近代化とは必ず計画的な近代化ですから、同時に選択的な近代化になります。何もかも一度にやることはできない。とすると、何を先にし、何を後にするかという優先順位の設定という問題が出てくる。これが‥『文明論之概略』を貫通する一つの大きなテーマになっています。…これが、いわゆるナショナリズムとインターナショナリズムの問題となってあらわれてくるわけです。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.pp.53-54)
 「その一つは、民族のアイデンティティ、同一性の問題です。これは‥伝統と欧化、あるいは伝統と近代化の問題になります。日本がいったいどこまで「欧化」してしかも相変らず日本でありうるのか、という問題です。これは実は今の日本でも解決していない。一般的には、過去を変え、あるいは変わって行きながら、しかも同一性を保っていくこと、これが国民あるいは民族のアイデンティティの問題であり、そこにディレンマがあるのです。…
 つぎには、制度的な革命と精神革命の間の問題です。…福沢の言葉でいえば、文明開化の進展と独立自尊のディレンマです。…
 第三には、国内の改革と対外的独立の確保のあいだのディレンマです。…対外問題を考えていると国内の自由平等の実現が遅くなる。さりとて、国内的変革を遂行しようとすると、こんどは西欧の圧力に抗して独立を保持するという切迫した課題に間に合わない。‥これが自由民権と国権確立とのあいだのディレンマですね。
 四番目に言うならば、民主化と集中化のディレンマです。民主化というのは具体的にいえば四民平等、それから地方分権です。福沢は、この地方分権を強く唱えています。国権論を唱える一方で、同時に地方自治の確立を強く主張している。…
 これも今でもあらゆる「後進」国の近代化につきまとっている問題だと思います。中国で民主集中制といっているものは、その苦しいディレンマの表現だと私は思います。これは言葉で言っても、それだけで解決する問題ではない。集中の方に重みをかけてくれば民主化の方がどこかへ行ってしまい、反対に民主化におもりをかけるとアナーキーの傾向が出てきて、集中化(したがって計画化)ができない。そういうディレンマです。」(集⑬ 同上pp.55-58)
「大日本帝国の解体状況は維新直後に似たところがあった。…今まで通用していた価値体系が急速にガラガラと音をたてて崩れ、正邪善悪の区別が一挙に見分けがつかなくなってしまう。途方に暮れてどうやって物事を判断するのか分からないという状況。これは狭い意味での制度の融解からくる政治的社会的アナーキーということに尽きない、精神的アナーキー状況です。…これは‥ほとんど下意識にまで入りこんでいる判断枠組のレヴェルの問題だという点が大事だと思うのです。…思考の枠組自身が分らなくなってしまった状況、これまで当然のことのように通用していた価値体系の急激かつ全面的な解体によって、たとえ瞬時であっても生まれた精神的真空状態-そういう状況を、われわれが、歴史的想像力を駆使して頭の中に描いてみる必要があるのです。
 今までの公式が崩れた時代というのを、よく言えば百家争鳴の時代といえるでしょう。福沢の根本の立場に、「人事の進歩は多事争論の間に在り」という考え方があります。そういう考え方自身がこれまでの伝統と大きくちがっている。社会・政治・歴史について、いろいろなちがった考え方が出てきて争うこと自体が悪い、あるいは新しい厄介な問題が発生すること自体がのぞましくない、それが秩序の乱れるもとになる、というのが、江戸時代に通用していた一般のたてまえです。だが、福沢はそうではなく「多事争論」のなかにこそまさに進歩の源泉があるという。ただ、それが福沢の根本の考えにはちがいないけれども、混沌状況のなかで多事争論になり、みんながワイワイ言い出すと、当然に不毛の議論が非常に多くなります。議論の座標軸がないでしょう。…こういうワイワイ状況のなかでは、どうしても二つのことが必要になってきます。
 一つは、議論の交通整理です、第二は、異説をすぐけしからんといって天下の議論を統一しようとする傾向にたいするたたかいです。」(集⑬ 同上pp.67-68)
「(文明の)「精神」をいいかえれば「人民の気風」です。これがこの書物の中核的な概念の一つになります。…たとえば、アジアとヨーロッパとのちがいは一人のちがいではなく全体のちがいである。一人一人見ていったらアジアにも秀れた人はいるのだが、全体の気風に制せられる。…要するに一国の気風を変えて、人民独立の精神を根づかせるということになります。」(集⑬ 同上pp.118-119)
 「たとえば今の日本を見ると、官に在る人にもなかなか秀れた人物が少なくないし、平民にしても無気力な愚民だけではない。ところが、一人一人は智者でも、集まると愚かなことをやる。…日本はなぜそうなってしまうのか、といえば、結局一国の気風というものに制せられるからだ。だから、今の我国の文明を前に進めるためには何よりも「先ずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず」ということになるわけです。そして、有名な一身独立して一国独立するという命題に結びつけていくのです。」(集⑬ 同上pp.119-120)
「どんなに純精善良な説であっても、それが政治権力と合体して正統とされたときは、思想的自由は原理的には生じない。‥自由の気風はただ多事争論の中からしか出てこない。必ず反対意見が自由に発表され、少数意見の権利が保証されるところにのみ存在する。いわゆる市民的自由というものが「形式的」自由であるといわれる理由がここにあります。つまり、特定の思想内容に係わらない、いかなる説でも自由に表明されるべしということです。ここでは必ず複数の考え方の共存と競争が前提になるわけです。…
 ‥自由の専制-つまりザ・リバティ-は自由でないという逆説ですね。自由はつねに諸自由(リバティーズ)という複数形であるべきで、一つの自由、たとえば報道の自由が、他の自由、たとえばプライヴァシーの自由によって制約せられている-まさにそのいろいろな自由のせめぎ合いの中に自由があるのだ、というわけです。…
 これと対立するザ・リバティを主張する典型的な命題はロベスピエールの「自由は暴政にたいする独裁である」という、別の逆説です。こっちの流れから「プロレタリアート独裁」という観念も出てくるので、これは、まさに二つの自由観の対立なのです。
 けれどもここで注意しなければならないのは、この二つの対立する自由観がともに近代的自由観のなかに流れこんでいる、ということです。たとえば三権分立とか権力分立とかいう考え方はや制度は、右の「諸自由」の間の牽制と均衡という原理に立っていますが、人民主権-あるいは人民主権まで徹底しないでも、政府の専制対人民の自由というアンチテーゼを前提とする政治思想や制度は明らかに「もう一つ」の自由観の現われです。国民代表の原理にたつ議会制民主主義の考えもそうです。…近代的自由にはその二つの要素がともに内在していて、簡単に一方だけを切りすてるというわけに行かない‥。」(集⑬ 同上pp138-139)
「一歩「うちわ」から外に出ると、さわらぬ神にたたりなしで、一種の家エゴイズムまたは部落エゴイズムみたいなものを脱け出せない。…ヨコの公共精神の欠如-果して今日の日本は維新の時代からどれだけ変っているでしょうか。これでは人が集まって会議をひらく、という「集議の習慣」が定着しないのも当然です。そういう意味では、最近の難民収容問題ひとつをみても、果して戦後になって他者との連帯感にもとづくパブリックの精神がどこまで発展したのかを問うてもいいくらいの問題がここにあると私は思うのです。」(集⑬ 同上p.354)
 「ヨーロッパ列強に対して、理によって対等に交際する。それができるようにするためには、内において権力にたいする抵抗の精神を養わなければならない。「上下同権の大義」は外の強大国に抵抗する下た稽古だ、というわけです。」(集⑬ 同上p.364)
「福沢は「権力の偏重」という彼独特の用語によって、(日本の)あらゆる社会的・文化的領域に潜んでいる人間関係の「構造」的特質を横断的に剔抉(てっけつ)しているのです。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.126)
 「「権力の偏重」という場合の権力は、けっして政治権力だけを指しているのではありません。…「権力の偏重」という命題の意味論としては、政治権力に限定するのは狭すぎます。福沢はいわば多元的権力論者なのです。…男女関係、親子兄弟関係といった政治以外の「人間交際」にもみな権力の偏重が現われているのです。
 したがってまた「権力の偏重」は、金力の場合でも、腕力(軍事力)でも、いや、‥智力でさえも、およそ「力」として人間交際に現われるかぎり、あらゆる領域の活動にあてはまり、それ以外の権力によって制限されないと腐敗と濫觴の源になるというのが、福沢の根本の考え方です。…
 福沢の執拗低音である政治主義批判が、この「権力の偏重」指摘の場合にもこうして現われます。…日本ではおよそあらゆる人間交際-つまり社会関係のなかに、権力の偏重がいわば構造化されているのだ、というのが福沢の主張であり、また彼の最も独創的な思想です。
 それから第二には、権力の偏重というのは、たんに事実の問題ではなくて、価値の問題であるということです。…「権力の偏重」が日本文明の構造的特質なのは、この事実上の大小に価値が入ってくるからだ。つまり、小より大の方が偉いのだという価値づけを同時に伴なっている。それが問題なのです。  …上級者と下級者がたんに職務分担上の区別ではなく、上級者の方が当然価値的に「偉い」ということになると、それがすなわち日本における権力の偏重になります。事実上の「有様」のちがいだけでなく、それが同時に価値上の「権義(ライト)」の差になっていることを、福沢は‥日本文明の病理として剔抉(てっけつ)しているのです。」(集⑭ 同上pp.128-131)
 「‥権力の偏重が実体概念ではなく、関係概念なのだ‥。特定のある人間が権力の偏重を「体現」しているのではなく、上と下との関係においてある。ですから、上にたいしてはペコペコし、下にたいしては威張っているという「関係」が、ずっと下にまで鎖(くさり)のようにつながっている。ある傲慢な人間がいるのではなくて、同じ人間が下に対すると傲慢になり、上に対すると卑屈になる-そういう関係概念としての権力の偏重が見事に描かれています。」(集⑭ 同上p.133)
 「権力の偏重ということが、「全国人民の気風」であって、それが西洋諸国と日本との根本的なちがいを生んでいる、というわけですが、そのちがいの原因は何か‥。…
 治者と被治者が出るというところまでは同じだ。だが、それが固定化すると同時に、上下・主客・内外の価値的差別が生じてくる。それが価値の偏重の端緒となる。
 …日本文明は異なる説もしくは制度が「化合」しないままに「片重片軽、一を以て他を滅し」、他のいろいろな「種族」は独自性をなくししまうために、結局「元素」は治者と被治者との二つに吸収され、そのまま固定化してしまうというわけです。…
 ヨーロッパ中世においては、寺院もあり君主もあり貴族もあり自治都市も民庶会議もあって、それぞれが各々政治的権力を擁していて、それら全体を包括するものが何もなかった‥。そういう中間勢力の多元的な併立が、絶対君主と人民とに分れていくことによって、ネーションを基盤とした政治的統一の前提ができていく。国家構造における政府と人民との機能分化ということは、あらゆる近代国家に共通していることで、福沢もそう思っています。だが、‥福沢がいっているのは、社会の構成単位としての宗教(寺院)とか人民の集まりとかが、一つも独自性をもった元素にならずに-つまり「自家の本分を保つものなし」に-治者と被治差という統治の二大元素に、しかも一方に偏重した関係のままに磁石のように吸いつけられてそのまま固定してしまうことを指します。「被治者」というのは、その名のように「治者」の対象であって、「ネーション」のように「政府」に対峙する自主的な人民の総称ではありません。」(集⑭ 同上pp.137-142)
 「治者と被治者との分岐が固定化するのが第一段で、つぎに、その治者としての王室に権力の偏重が現われるのが第二段‥です。…つまり文明化自体はあらゆる社会の通則ですが、政府主導型-具体的には大和朝廷主導型-の文明化というパターンが早くから形成された、という特質に(福沢は)注意を促しています。ここには、維新後の政府主導型の文明開化の問題性についての福沢の批判が二重映しになっているのです。
 中央政府が、政治以外の諸価値、富価値とか学問などの文化価値‥を独占して、これを人民に配給する、という形をとる。たんに政府がそうした諸価値を「兼有」しているだけでなくて、「文明の諸件を施行するの権は悉皆(しっかい)政府の一手に属し」ているという点が強調されています。…
 天下の権力がすべて王室に偏したが、王室への権力の集中が必ずしも後世の権力の偏重の原因ではないというところが大事です。権力の偏重は人間の交際、つまり社会全体の問題で、王室と人民との間の権力の偏重「も亦」そのあらわれなのだ、と再説しています。
 ただ歴史的条件でいえば、王室と人民との間にまず権力の偏重が生じた。つぎには武家政治の時代になった。政権担当者は変ったけれども権力の偏重という「人間交際」の構造は変わらない‥。政権が王室から武家の手に移っても、治者と被治者との関係は固定して変らず、上下・主客が価値の関係であるのもそのままで、依然として治者が諸価値の源泉であるというのです。変わらないだけでなく、兵と農との分離がすすんで、富強貧弱がいよいよはっきりしてきて偏重が著しくなった‥。…
 ここでは、日本の社会の構造法則として、上下の事実上の関係が同時に価値の関係になるということをいおうとしている。至尊と至強が分れた、という側面から武家政治をみると、日本は中央政権的皇帝政治一点ばりの中国よりはましだけれども、それも治者の間における価値の分化にとどまり、ヨーロッパにおけるような全社会体系にわたる諸価値の間のチェック・アンド・バランセズという点に着目すると、『概略』では中国も日本も同じジャンルにくくられて批判の対象になってしまうわけです。…
 政府と人民とがあってはじめて国がある、といえる。ところが、新井白石‥を読んでも、頼山陽を読んでも、人民の歴史というものは一向に出ていない。政府の歴史しか書いていない。…ヨーロッパでは政府というのは社会におけるいろいろな権力の変動(国勢)と関数関係にあるということです。社会にブルジョワジーの勃興というような変化がおこると、それに対応して政府の形態も変らざるをえない。ところが、日本はどうかというと、むしろヨーロッパと逆の関係にあり、政府が社会の諸権力-宗教・学問・商工業などをみんな手のうちに「籠絡」しているから、たとえば宗教の権が衰えて、商工業の権がおこったとしても、それによって政治のパターンが変ることはない。政府はただ同類の者-つまり治者の間の変動さえ心配していればいい。」(集⑭ 同上pp.142-152)
 「治者と被治者との間が高壁で隔てられ、軍事力にとどまらず、学問・宗教など文化の領域までもが、みな治者の勢力範囲に入って、その関係の相互利用によって、各々の領域での自分の権力を伸長しようとする。その結果、富価値・才能価値・名誉価値(栄辱)・倫理価値(廉恥)など一切の社会的価値が、全部治者の側に磁石のように吸いとられてしまう‥。治者はこれら諸価値を独占して被治者をコントロールする。そうすると、世の中の治乱とか、文明とかいっても、それは治者の支配領域に関することであって、被治者の側には、自(おのず)から政治的無関心だけでなく、一切の社会や文化の問題にたいする傍観的態度が生まれる。
 この見方は、福沢のナショナリズムの伏線になっています。ナショナリズムは、福沢にとっては政治だけの問題でなく、人民の多様な社会的文化的活動が同時にその源泉なのです。ですから、そういう諸領域の活動に被治者が無関心で、俺の知った事じゃないという態度だと、下からの自発的エネルギーを発揮する余地が少ない。それでは「外国交際」、とくに国際関係が逼迫したとき、果して日本の独立を全(まっと)うできるか、それでいいのかという問いの伏線となっているわけです。…国を愛するという言葉は、人民が主体となり、国を自分のものとして愛する、ということですから、愛国心は実質的に人民主権的思想と連動しています。」(集⑭ 同上pp.155-157)
「人民の身分を脱して自分だけが治者の党に入っていくか、それとも人民自身の地位を全体として上げていくか。湿地に土盛りして高燥の地を作るのが、ヨーロッパにおける市民階級の勃興にあたり、自分一人だけ高燥の地へ移る立身出世が、秀吉に代表される日本型「デモクラシー」に当ります。秀吉ひとりが尾張の百姓を脱して、「治者の党」へ入っても、ほかの尾張の百姓は相変わらず湿地に住んでおり、百姓の社会的地位が上がったわけではない。これでは権力の偏重というパターンは少しも変らない、というわけです。
 これは‥明治以後の近代日本の立身出世型デモクラシーの問題性を実に見事に言いあらわしています。タテの個人的モビリティはあるが、必ずしもヨコの連帯意識はない。立身出世の自由があるから、仲間を置きざりにして自分だけ階層性の階段をどんどん昇進していく。それでも一応、家柄・氏素性に関係なく出世できるから、一見いかにも自由平等な社会のようにみえる。‥
けれどもリンカーンの国どころでなく、中世ヨーロッパの独立市民が藤吉郎を見たら何というだろうか。薄情なヤツだというにちがいない。「独り武家に依頼して一身の名利を貪る者は、我が党の人に非ずとて、之を詈(ののし)ることならん」。」(集⑭ 同上pp.163-164)
「権力の偏重が日本をどのように特徴づけるか、それを宗教の歴史的地位がいちばんシンボリックにあらわしている‥。宗教というのは人間の内面的良心に関係する領域なのに、そこに権力の偏重があらわれているというのは非常にドラスティックな例といえます。…
 日本では、俗界での位の「えらさ」が仏門内の位階に横すべりしてしまう。権門勢家の人が出家すると、坊さんとしての位階や生活程度もはじめから高い、という習慣がむかしからあって、それをだれもおかしいとは思わない。…日本の場合は、律令制の時代から、僧尼令というものがあって、政治権力が仏教界を統制していた。宗教の俗権に対する自立性は、宗教自身が、自分独自の価値体系をもっているかどうかによります。…
 日本の宗教史をみると、元来、そういう「信教者の懦弱」の要素はありましたが、その傾向が全面化したのは江戸時代になってからです。その前には、教権自体が俗権に対してあえて武力的な抵抗をおこなった例がないわけではない。戦国期には、例の石山本願寺は、信長を敵としてあれだけ戦っているわけです。また室町末期から各地におこった一向一揆、あるいは法華一揆が江戸時代の多くの百姓一揆とちがう点は、「村」といった地域的な限定性がないことです。たとえば一向一揆は阿弥陀信心に基づく信仰共同体を基盤にしていますから、北陸なら北陸、三河なら三河のある地方で勃発すると、たちまち燎原の火のようにひろがる。このダイナミックな横への伝播力と団結の強さには、信長も家康もにがい経験をなめている。この経験から彼等は信仰共同体のおそろしさを知り、それがやがてのちのキリシタン弾圧にいたる一つの背景になっています。」(集⑭ 同上pp.168-177)
「福沢はおそらくギゾーによって、ヨーロッパにおいても、世間に学問が開けていくのは一六〇〇年代以後のことだといっております。一六〇〇年代といえば、日本では江戸時代以降になります。江戸時代になって、幕府はいわゆる文治政策をとりますから、学問がさかんになってくる。その点ではヨーロッパに比しても日本もそんなに遅れてはいない。…にもかかわらず、西洋とは学問のあり方が出発点からちがった。その両者の相違とは何か。ここに問題があるというのです。
 ヨーロッパでは、ちょうど宗教世界が俗権から独立していたように、「学者の世界」つまり学問共同体が形成されて、それが独立していた。学者においては、学問以外の社会的所属性が問題にならなかった。「官私の別なく」というのはそれです。…ところが日本においては、第一義的に学問以外の団体所属性が問題になる。こうして意識のうえでも事実としても学問共同体の形成がなく、学問世界というのは治者の世界の一部分にすぎない。」(集⑭ 同上pp.183-184)
「どうして誇り高い武士が「児戯に等しき名分」などに疑いを抱かないのか、どうして抑圧の移譲にすぎない上下関係に甘んじてきたのか。もし、これを上級権力者にたいする「卑屈の醜態」として道徳的に糾弾するだけなら、それは外圧的批判に終ります。それだけにとどまらず、武士団が「党与」を結んでいることが、第一に彼らの利益にもなり、第二に心理的満足感を与える、と内在的に説明することで、福沢の叙述はヨリ説得的になります。‥同時に福沢は、ここでは武士団のエートスのなかに上下階層関係だけではなくて、「党与一体の栄光」があったことを指摘しています。つまりこれは個々の武士が特定の武士団という集団に自分をアイデンティファイすることからくる、武士の名誉感です。「党与」ですから、人類などというのはそれに入りません。源氏とか平家とか足利とか武田とかいう特殊集団です。その特殊集団への所属感・帰属感によって、その集団の栄光は自分一個の栄光のように感じられる。この伝統は現在の「日本株式会社」まで脈々と続いていると私は思うのですが、それはともかく、いわゆるタテ社会関係だけでなく、ヨコの集団帰属心理を挙げたことは福沢の卓見です。」(集⑭ 同上pp.203-204)
「(「「権力の偏重」はただ政治権力だけではないということについては気がついていませんでした」との発言に対して)一般の福沢理解はそうだと思うんです。僕に言わせると、そこはもっとも福沢のすごいところなんです。多元的権力論。〔一般には〕プルーラルな、多元的権力論というのは非常に少ない。権力というと政治権力-それ自身が政治主義なんです。〔ところが実際には〕社会の中にたくさん権力がある。大学も権力だし、たくさんある。…
(「政治権力の偏重は権力の偏重の一形態にすぎないのですか」)ええ。
(「その権力の偏重の源泉はどこにあるのか-先生の解明によると、社会の人間関係」)の中に。
(「根源があるんですね。そうすると福沢は西洋の方はこういう権力の偏重はないと」)相対的になくなったということですね。ない、というよりは。
(「確かにそこまで理解しないと、根源的なものを見失う。変革、変革と言っても……」)上の方の変革になる。「人間交際における権力の偏重」というと、初めて下からの変革になる。
(「中国の革命もそうですし、日本の近代化を見ても非常に……」)上だけでしょ、変革しているようだけど意外に人間交際が変革していない、その意味では。これが戦後の日本の現在なんですよね。マッカーサー的、与えられた自由の悲しさで、「人間交際」〔の変革〕がないんですよ。」(手帖3 「「権力の偏重」をめぐって(上)」1988.8.10.pp.52-53)
「ヨーロッパと日本-あるいはアジアを含めてもいいけども-とどこが違うかというと、社会の権力が変わる、そうするとそれが政治に及んで来る、そういうことを言いたいのです。つまり「昔日は封建の貴族をのみ恐れたりしが」-封建時代には、封建の貴族というのは政治権力であり、同時にそれがいろいろな権力を握っていたわけでしょ。ところが「世間の商工、次第に繁盛して中等の人民に権力を有する者あるに至」る、と。この権力は政治権力じゃないんです。つまりミドルクラスが社会的に権力を持つようになると政治権力も変わって来る。それが、その後「故に欧羅(ヨーロッパ)巴の各国にては、其の国勢の変ずるに従て政府も亦其の趣を変」ずる、と。政府は政治権力でしょ。国勢というのは全体なんです。社会における権力の移動-つまり社会においては封建勢力の権力が衰える。相変わらず政治の権力は持っているんだけど、社会の権力が貴族からブルジョワジーに移るわけです。で、それが政治に及んで来ると政治の形態が変わって来る-これがヨーロッパだ、と。ところが「独り日本は然らず、宗旨も学問も」みんな政府が持っているものだから、だから、「其の変動をふるに足らず」。…政治権力が他の社会権力を全部押さえている状態。他の社会権力がゼロということはないんですよ。他の社会権力はあるのだけれども、それを政治権力が「籠絡(ろうらく)している」。-というのは、全部コントロールしている。だから多少、商売とか学問とか、そういうものが変わっても、それが政治の領域に及ばないのです。社会の権力関係が動いても、それが政治の領域に及ばない。ヨーロッパだと、例えば封建貴族というのは政治権力だけを持っているんじゃない。土地の所有者でしょ。従って経済権力を持っているわけでしょ。商工業が勃興すると、ブルジョワジーが社会の経済権力を持つようになる。それが今度は政治権力に及ぶようになるわけ。ところが、もともと政治権力が初めから社会の権力や学問の権力を押さえていれば、学問の権力が-例えば林家から荻生徂徠の方に移った、とか何とかということがあっても、政治権力の方は別に驚かないわけですよ。それが政治権力に及ぶことがないんだから。日本と西洋とそこが違うんです。つまり非政治権力が-厳密に言えば-政治権力を変動させる力にならない。
(「日本の場合、社会にいろいろ権力はあるがその変動が政治に及ばない、-つまり政治権力が偏重されているという……」)うーん、それが原因とは見ない。それが福沢の特色なんです。関数なんです。社会の権力の関数にすぎない。だから政治権力の偏重を原因と見ないんです。原因と見たら間違い、-むしろ逆に言うと、そうじゃなくて、人間交際の中にある-原因は。人間交際が偏重している-そもそも。それを変えていかなくちゃいけない。大変なことになっちゃうんですけどね、それは。
人間交際というのは個人交際という意味はないんです。社会と同じ意味にとっているわけですから。社会と言ってもいいんです、人間交際と彼が言っているのは。社会という言葉は熟していないから。だけど根本は人間交際の中にある権力の偏重。だから、人間交際が偏重しているために政治権力の偏重がある。むしろ政治権力の偏重が原因ではない、と言っていうわけですね。それが非常に彼独自の見方で、あくまで社会を中心に見ている。政治は社会の関数である。
政治権力に価値をおくということと一応別なんですね。人間交際に偏重があるということは、天秤の例で言うとこうなっているわけでしょ。[両手を使う]こっちの方が偉いという価値判断がある。それがないんです。だってどこの社会にも上下関係というのはあるんですよ。社長が上で従業員が下というのはどこの社会にもある。ただ、社長の方が偉いという価値判断がないわけ。
(「ただ分業とか……」)そうそう、分業にすぎない、これが同時に上の方が偉いという価値判断、そこが独特のところなんです。」(手帖3 同上pp.53-56)
「「思想的近代化」、近代化の意味を思想的近代化という意味にとるならば、つまり自由とか民主とか人権とか、あるいは法の優位、(rule of law)、法の支配、そういう思想的近代化の意味にとるならば、日本の儒教はほとんどその反対の役割をしました。それをチェックする、それを妨害し、それを阻止しようとする役割を果たしたといえるんです。だから日本の近代化と近代日本とまた区別しなきゃいけない。これは近代化の問題になってくるわけです。近代化の定義の問題になってくるわけです。日本の近代というのは歴史の区分でしょ、そういう意味では。だから日本の近代では儒教は非常に大きな役割を果たした。それから、そのなかには儒教道徳を巧妙に利用した面もあります。天皇への忠の集中もそうでしょう。ナショナリズムというものが日本の明治以後の経済発展に寄与しなかったとはいえない。ですからそういう意味ではマイナスではない。
 思想的近代化に限りますと、プラスの役割はしなかったというのが私の見解です。その一つの理由は日本の儒教が国体論と結びついたからです。しかし、かといって国体論と結びつかなかったら儒教思想、儒教道徳そのものが思想的近代化に役立ったかというと、それにも私は否定的です。何故かと言いますと、先ほどの五倫、人間関係の基本的な道徳というのは君臣・父子・兄弟あるいは長幼とも言います。君臣・父子・兄弟・夫婦、夫婦は男女とも言います。それから朋友でしょう。このなかで平等の横の関係というのは朋友だけなんですね。後は全部縦の関係、いわゆる縦の倫理なんです。…
 朋友だけですね、五倫のうち最後の朋友だけは横の関係。しかも朋友というのは友達ですから、友達以外の他人との関係はというと、ないんです、五倫のなかに。いくら昔の中国社会でも友達以外の関係がないということはないわけですね。それを社会道徳にするにはどうするかというと、五倫の倫を他人の関係に推し及ぼすんだと、説明するわけです。‥
 基本的に、しかし五倫のうち四倫が上下の関係ですから、どうしても上下の関係が社会に推し及ぼされるということにならざるを得ない。これは思想的近代化にとっては、つまり自由と平等を基本原則とする近代思想にとってはマイナスの要因として働かざるを得ない。
 もう一つ、個人というものの不在という意味がありますけれど、これは次の問題になりますから省きます。」(手帖16 「中国人留学生の質問に答える(上)」1988.10.5.pp.17-18)
「大熊信行氏が「戦後民主主義の虚妄」と言ったことに対して、自分は意地でも民主主義に賭けると言ったんですね、あれもずいぶん誤解されたけれど。‥それで、『増補版 現代政治の思想と行動』の「増補版への後記」(『丸山集』第九巻)では、「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」という反語を使ったわけです。(「括弧付きの虚妄ですね」という問いに)ええ、反語を使ったんですね、「実在」よりも「虚妄」に賭けるという。…
戦後民主主義と一口に言うけれど、まず第一に、あらゆるものを言う場合に、民主主義の理念を言うのか、民主主義の運動を言うのか、それとも、民主主義の制度を言うのか、そういうレベルを区別しないといけない‥。日本は制度として一応民主主義となっているけれど、民主主義運動というのは多少市民運動があるけれども、ないに等しいし、第一、理念と現実とをほとんど区別する意識がない。普通、民主主義の精神というのは理念ですから。そういう区別がなくて、最も甚だしい場合には、戦後政治のことを戦後民主主義と言う。戦後政治が果たしてどこまで、理念としても、いわんや運動としても、制度としてさえ民主主義であったかということさえ問わないようになっちゃって。‥戦後民主主義の虚妄なんて言うけれど、民主主義というのは何ですか、民主主義の理念を言うのか、運動を言うのか、制度を言うのか、それとも、戦後政治を言うのか。それをはっきりしてから虚妄とかなんとか言ってくれということを言えばよかったと思うんです。」(手帖25 「丸山眞男先生を囲む会」1988.11.27.pp.11-13)
「(昭和天皇の重病化を受けた日本国内の状況に関して)「僕は自粛の全体主義と言うんだけれど、その自粛の全体主義をどう理解したらいいのか、ということですね。僕の意見を言う前に、僕の記憶を言いますと、大正天皇の時はほとんど記事にならない。‥それが今度はなんでも発表してしまう、ある意味では新しい現象。決していい意味じゃないですよ。情報社会と結びついた天皇制、つまり情報社会の特徴を非常によく表している。‥情報社会と結びついて、しかしやっぱり天皇制のあれをひきずっているという、そういう二重構造であって、単なる戦前の天皇制ではないんですね。全部ニュースになる、そこに何となくみんなが集中する、地方のお祭りまでやってはいけないと。情報社会と結びついた自粛の全体主義と言うのは、ちょっと戦前以上でしょう。例えばどこどこでお祭りがあったとなるとそれが広がる。そういうことがなければ、つまり地方のオートノミーが保たれていれば、各々でやるわけです。ところが、なまじっかナショナルなニュースとして広がるからこそ、自粛しようということになるわけ。情報天皇制というのかな、そういうもとでの全体主義。…
 (「東京でもそうでしょうけれど、京都でも、秋の有名な祭、行事もほとんど中止でした。」との発言を受けて)それを誰が言い出して、どういうプロセスでそうなるか、それが分からないんです。それが[満州事変以後の一五年]戦争と非常によく似ている。誰が戦争をここまで拡大し、誰の命令でああいうふうになったのか、ついに分からないわけ。なんとなくそうなっちゃった。雰囲気でそうなっちゃう。僕は戦争について、雰囲気の支配と言ったことがあるんですけれど、同じなんだな、今度のも。…
 それからもう一つは、自粛の自粛です。つまり自粛が行き過ぎじゃないかというのを、僕の知る限り、官房長官と、皇太子が言ったんですね。自粛が行き過ぎじゃないかという声も上からきているんです。これは記憶にとどめなければ。つまり行き過ぎじゃないかという世論が起こったんじゃなくて、官房長官が-官房長官もおそらく誰かの意をうけたんでしょう-少なくとも新聞には官房長官談話として、あまりに自粛するのは陛下の意にそわないんじゃないかというようなことが出た。
 戦前は新聞記事に出すのが大変なんだ。いちいち畏れ多くもと書くわけだから、畏れ多くも下血なんておかしい、そういう意味では出るはずがない。むしろ本当に畏れ多い気持ちがあったら騒がない。それからもっと昔の考え方から言えば、死んだ時と病気の時とは全く別です。病気の時だったら、むしろ日本の古代の考えから言えば、霊(たま)を振り動かすんです。祭を盛大にして。病気の時に自粛するというのは全く日本の伝統にない、むしろ、病気の時は逆に大いに騒いで早く元気になってくださいというほうが普通です。だから非常に奇妙な現象なんです。病気の時からすでにXデーを前提にしている。それが頭の中にあるから自粛という考え方が出てくるんであって、病気だったら一日も早く元気になってくれというのが人情。人情から言ったって非常に不自然なものなんです。あらゆる意味で不自然なんですね、あの自粛というのは。いわんや伝統にない。大昔だと殯(もがり)といって、生き返るかもしれないというんで、むしろ一週間ぐらい霊を振り動かす祭をやるわけです。それからお葬式になるんです。死んでからさえそうです、いわんやその前だったら、頑張れよということであって、自粛というのは逆。それを誰が言い出したのか、倒錯した、つまり、天皇の伝統的権威が失墜した結果だと思います。伝統的権威があったら、そんな死を予想したことを言うこと自身が、おかしい。畏れ多くも言えないことなんだ、Xデーを予想して言うということが。‥
 ところが、今度は逆に、Xデーを予想して万事やることが普通にされているかというと、そうじゃないんですね。英文毎日が間違えて出しちゃったらクビですよ。どうしてクビになるんですか、みなやっていることが。それはやっぱりいけないことであるという前提があるんだ。何とも言えない、道徳的退廃もここに極まれり、と言うより他ない。つまり内面性というのが今やゼロになってしまっている。今や人間としての天皇に対する心配もない。天皇に対して人間として心配するなら、もっとやりようがあります。お祭りをやれというわけではないけれど、なんとなくこれも自粛、あれも自粛ということにはならない。(「そうっとしておいてあげるというのが……」という発言を受けて)そう、そのほうが普通の人情。それからお祭りはお祭りとしてやるというのも普通の人情で、多くの民衆の人情。非常に不自然に、何とも言えない目に見えない強制力が働いている、これはデカダンスですね、ちょっとひどいんじゃないかな。…
 逆に天皇制をどうするとか、そういうことを論ずるタイミングではないというのが僕の個人的な意見です、今は。やっぱり人間として見れば、人が重病にある時に、その人の過去の責任とかを論ずるのは、人の自然の情に反しますね。人が病気になればそっとしておくのが僕は自然だと思います。現在の天皇の戦争責任の問題は、永久に、病気であると否とにかかわらず、昭和史の問題として論ずるし、論じなければいけない。それをまさにジャーナリズムはやらなければならない。その時にジャーナリズムは忘れてしまって、あるいはトピックじゃないと言う、そういうトピック主義のほうがいけない、持続性がないことのほうがいけない。天皇の戦争責任は、永久に問い続けられなければいけない。同時に天皇制というものが持っている意味を永久に問い続けなければならない。それをどうして今ワーワーと言うわけ、これは今を過ぎたら言わなくなっちゃうということと裏腹なんですよ。だから僕個人はそれにも反対だと言ったんです。短絡的なんですね、そう意味では。さっきのXデーと同じです。」(手帖25 同上pp.14-18)
「(リクルート事件の構造的な汚職問題、戦後最大の疑惑に対して国民の側の平均的な意識、反応の仕方が、全然……」という問題提起を受けて)怒らないと言うことです。世界に今二つ不思議があるんです。自粛の全体主義と、これだけの腐敗が構造化していて、国民がほとんど反応しないということに対する不思議。隣の韓国では大したものです、若い人も。あれに比べたら問題にならない、日本の反応の鈍さは。フィリピンや韓国のほうがよほど立派です。虚しいな、日本の……。
 (「二・二六事件の時の青年将校みたいな、ああいう軍部のような牽制勢力がないから、今の内閣が続けてやっていられる。」という発言を受けて)テロだけじゃ合理化できないから、天皇の下で何たることをするのかというんで報復するわけですから、天皇親政の実現ということをみんなが言うのはそれでしょ。…
 自分で倒さないで、ああいうものがないと困るという、天皇がいるから日本はいいんだという、それがなくなったから日本は道徳観がなくなったというのは、内面的な道徳観がゼロだということなんです。情けないことなんです。世界中に国が一六〇もあるのに、天皇がいなければどうにもならない国というのは、他にないんじゃないの。それほど日本という国はダメな国なのか、それほど日本人をみくびるなと言いたい議論ですよ。しかし、事実としてみれば、そうなんだ。事実としてみれば戦前は恐懼すべきものがあった。今は数の論理と金の論理の二つだけです。絶対多数を擁すれば何でもできる、それからもう一つは金を持っていないと何もできない、この二つですね、今の価値観というのは。驚くべき、僕も不明にして、こうなるとは思わなかった。信じられない。
 リクルート事件でも、一番の困った点は、リクルート問題よりも腐敗を腐敗と感じなくなったという、そのことの腐敗なんだ、くどいけれど。腐敗だと感じているならば、まだいい。そんなことは当たり前じゃないか、みんなやっているじゃないかという、そちらのほうが腐敗なの、むしろ。構造化しているからそうなんです、空気みたいになっちゃっている。みんなやっていて、たまたま捕まったが損したみたいな考え方でしょ。これをイギリスのタイムズが早速取り上げましたね。日本という国は政界の腐敗に対してなんて反応が鈍いんだと。腐敗に対して怒らない異常なる国、天皇の病気に対して、かくも敏感に自粛現象がナショナルになる国。…
 僕は大衆社会が極まった現象が日本なんで、知識人の沈黙なんて言うけれど、知識人不在なんだ。「近代日本の知識人」でも書きましたけれど、明治の初めと、マルクス主義の時代と、終戦直後と三つの例外的な時期を除くと、あとは普通の社会層に解消してしまっていて知識人が層をなしていない。」(手帖25 同上pp.19-21)
「「自粛の全体主義」について‥。多くの論者が、昔の天皇制から少しも変っていない、というような批評をするが、私にいわせればとんでもない、大変りなのである。大正天皇「御不例」の折は、それが発表された十月から天皇死去のその年の暮れまでに、大見出しの新聞記事になったのは何回もなかった。毎日数回もTVで脈拍・血圧から下血に至るまで報道されるというのは異常に新しい現象であり、情報社会下の天皇制の変質を物語っている。第一、「下血」などというきたならしいことを「玉体」について語ることさえ憚るのが戦前の感覚というものである。当時は皇居前で病気平癒を祈って平伏する「臣民」の写真は何度か新聞に載った。けれども小さな村の祭りまで「自粛」するというような珍現象は私の記憶するかぎり全くなかった。言葉をかえていえばそのこと自体が柳田国男のいう「日本の祭り」の堕落-そのショウ化-を示している。病気の平癒を祈る臣下の内面的な心情が失われるのに反比例して、あたりを伺いながら「まあこの際うちもやめておこう」という偽善と外面的劃一化とが拡大したのが今度のケースなのである。」(集⑮ 「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」1989.1.31.pp.14-15)
 「敗戦の翌年二月頃に、私は‥「超国家主義の論理と心理」を執筆し‥た。この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で‥私の「自分史」にとっても大きな劃期となった。敗戦後、半年も思い悩んだ揚句(あげく)、私は天皇制が日本人の自由な人格形成-自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成―にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。」(集⑮ 同上p.35)
「敗戦直後の状況として、食糧事情の緊迫たるや、戦時中をも超越していた。…その意味では戦後デモクラシーというのは飢餓デモクラシーなんです。ちょうど飽食の時代に民主主義が空洞化して行った、その後の現実と正反対と思えばいいんです。
 そういう状況の中で、言論・出版・結社の自由というのは、ほんとうにうれしかった。飢餓状態での精神的な自由で、喜びを感じたのは必ずしもインテリだけではないんですね。一九四五年の暮れから、三島の庶民大学が始まり、僕も出かけていったわけですが、聴衆は‥大体は普通の労働者や主婦でした。そのときの民衆の真剣な表情、質問はほとんど想像を絶しますね。つまり、いままでの価値体系が一挙に崩れ、皇国とか神州不滅とか、それまで教えられたことがすべて通用しなくなってしまった。まったくの方向感覚の喪失なんです。
 民主主義といったって、なんのことか分らないですから、まず民主主義とはどういうことなのかから話を始めるんですけど、庶民は決して知ったかぶりはせずに、分らないことは分らないとはっきりいう。…そういう人たちを相手に、僕がやったのは、フランス革命からはじまる十九世紀ヨーロッパ思想史でした。なぜかといいますと、社会主義も共産主義も、あるいはロマン主義も実存主義も非合理的な国家主義さえ十九世紀にはじまっていて、それらが提起した問題が未解決のまま今日まできている。だから、十九世紀から話をはじめないと今日の問題は分らない、ということなんです。…
 僕はそういう雰囲気の中にあって、明治維新のときを追体験した気がしました。…敗戦直後はまさに「学問のすゝめ」の時代で、庶民の中にそういう思考が生まれた。羅針盤がなくなり方向感覚を失ってしまったわけですから、新しいものの考え方を求めざるを得ない。「学問」というのは「情報」ではないんです。主体の問題なんです。これが飢餓の中の民主主義の原点なんです。だから、戦後民主主義ナンセンスなんていう人がいますが、僕らから見ると逆にそれこそナンセンスです。そこでいっている民主主義というのは制度のことです。甚だしきは戦後政治の現実を戦後民主主義といっている。現実がどこまで民主主義といえるか、という「問い」が欠けている点で皮肉にもいわゆる新左翼と政府自民党の定義とが一致していたんです。理念と運動という民主主義の持っているもう二つの側面がまったく欠落している。敗戦当時は、憲法制定以前ですから制度はまだできていなくて、理念と運動という民主主義のイロハからはじまったわけですから、高度成長以後のいわゆる「民主主義」とちょうど逆ですね。その辺のことを理解しないと、戦後の出発点はわからないと思います。」(集⑮ 「戦後民主主義の「原点」」1989.7.7.pp.61-63)
「その当時の権力を握っていた層が大体どんな考えを持っていたかは、最初の(憲法の)政府草案を見てもわかるわけです。マッカーサー草案が出たときに僕らがびっくりしたといいましたが、彼らにとってはその何倍もの、想像を絶する困惑なんですね。ですから、新憲法は彼らの実感にとってまさに「押しつけ」であって、のちの改憲というのは、それを本音に近いほうに戻すという動きなんです。…
 支配層にとっての戦後の憲法問題は、三段階あると思います。第一期が、占領軍がいるから甚だ不本意であるが忍従するという、忍従期。第二に、改憲企図期、第三が、既成事実容認期、たとえば、第九条のように自衛権の解釈を変えていく。実際、自民党政府は、これまで現憲法の精神を滲透させることはまったくしていない。逆に自民党は党の基本方針としては現在でもやはり改憲を明記しています。
 国民の側も長期安定政権のもとで経済成長を遂げ、憲法が出たときの新鮮な感覚がなくなってしまっている。それが問題です。その問題が一番よく現れているのが、象徴天皇制をめぐる議論なんです。そもそも日本は昔から象徴天皇だったのではないかという議論がある。明治憲法はプロシアの絶対主義的憲法を真似て天皇の大権を大きくしたけれど、あれはむしろ例外であって、古代は別として摂関政治以後はずっと「君臨すれど統治せず」であった。だから、象徴天皇制は昔に帰っただけだという議論をする学者が結構います。しかし、昔から人民主権原則はありましたか。人民の自由意思によっては共和政にだってできるのだ、という思想的伝統がありましたか。おふざけでない、といいたい。こういう議論自身、いまの憲法の初期の瑞々(みずみず)しい精神がいかに失われたかの証左です。
 ですから、今度の昭和天皇の逝去は、憲法の問題を考える非常にいい機会になったと思います。…昭和をふりかえれば、どうしても、戦争責任問題だけでなく、戦後の「原点」が問われざるを得ない。
 主権在民がいかに画期的なことかは、ポツダム宣言受諾の過程を見れば一番はっきりする。日本政府が最後までこだわったのは「国体護持」で、八月十日の政府の回答では、最後に条件をつけた。‥国体護持というのは、天皇が主権者だという原則を意味していたのです。…
 民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、‥「永久革命」なんですね。資本主義も社会主義も永久革命ではない。その中に理念はあるけれども、やはり歴史的制度なんです。ところが、民主主義だけはギリシャの昔からあり、しかもどんな制度になっても民主主義がこれで終わりということはない。絶えざる民主化としてしか存在しない。現在の共産圏の事態を見ても分ります。それが主権在民ということです。主権在民と憲法に書いてあるから、もう主権在民は自明だというわけではなく、絶えず主権在民に向けて運動していかなくてはならないという理念が掲げられているだけです。決して制度化しておしまいということではないんです。その理念と運動面とを強調していくことがこれからますます大事になって行くと思います。」(集⑮ 同上pp.66-70)
「どこまで事実かどうかは知らないが、最近のヤングについてこういうことを耳にしたことがある。それは彼等の日常交際するサークルの範囲がますます小さくなり、しかもその仲間同士でも、お互いの考え方なり立場なりを批評し合うような会話の場がほとんどなくなった、という話である。これを美化するならば、いやしくも相手の心を傷つけるおそれのある論争や言葉をひかえるという「優しさ」のひろがりとも表現できる。しかし裏返すならば、そうした「優しさ」によって担保されているのは、ひとの批判によってたやすく傷つけられるようなひよわな魂の住む世界ではないのか。」(集⑮ 「内田義彦君を偲んで」1989.11.p.87)
「建前とよく言うんですね。自由・平等というのは建前だとか、建前だけで現実は……とか。建前というのは、非常にいけない言葉です。理想というのは建前だと言う。建前は第九条だけど、現実は、そうはいかない、もっと厳しいものだと言う。ほとんどそういう議論でしょ。理想というのは建前ではない。建前だったら「我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」とどうして言えますか。建前が貫けないぐらいなら、死んだほうがいいということになる。これは建前と言うんじゃないんだな。自由のために何千万、何億の人が自分の一身を犠牲にしているわけでしょ。建前では表せないですよ、自由・平等・博愛というのは。‥自由主義のいちばんいいところは多様性だから、画一性ほど自由主義に反対のものはないんですよ。だから、日本では、自由主義は非常に難しいという感じがしますね。」(手帖34 「ある日のレコード・コンサートの記録」1992.3.pp.20-21)
「われわれが何気なく使っている‥「公共」という言葉の使い方は、〔近代以前には〕ほとんどないんですね。
 〔「公共」の「公」-〕「公(おほやけ)」というのは、古くは「公家」-「武家」に対する-とか、江戸時代では「公儀」-当時の文献では「幕府」という言葉はほとんど出てこない-ですね。つまり、「公」というのは、「お上」なんです。〔逆に言うと〕パブリックという観念は、非常に新しい。
 だから、幕末から明治にかけて、福沢の様にヨーロッパに行った人も、吉田松陰みたいに行かなかった人も、一様に感心しているのは、公園・博物館・図書館・孤児院・病院といったパブリック〔な施設〕ですね。松陰も、それをヨーロッパの新しさとして言っています。そういう、ヨコのパブリックという観念自身の新しさ、それが僕には気になるわけです。それは当然のことではないわけです。
 福沢はそういう意味でのパブリックという観念を強調した。上下の関係での「上」という意味ではなくて、人と人とのヨコの関係を強めていかなければならない、と。…
 だいいち、日本の場合、広場というものがないでしょ。日本の都市は城下町として形成されたものが多いわけだけれども、お城があって街並みがあっても、広場はない。そこでは、ギリシャ以来のポリスの伝統のような、広場に集まって-人々がヨコに集まって、ディスカッションをするという「広場」の観念はなかったわけです。だから、それは新しい観念として入ってきた。…
 ヨコにディスカッションするという観念は、当時においては、非常に大きな、革命的な意味を持っている。逆に言うと、「処士横議」という言葉は、悪い意味で使われたわけです。それは乱世の徴候なんです。「横議」-ヨコに議するのは、悪いというイメージがくっついている。それが一八〇度変わるわけです。われわれはディスカッションという観念に慣れているから、そっちの方が普通だと思っているけれども、そうじゃない。
 しかし、乱世になって、昨日のようには今日はいかなくなるという状況で、藩の中でもヨコの関係が急速に増大する。それはもちろん、上士-家老クラス-の無能さと、官僚化による思考の硬直化と、両方があってのことですが、みんな進路に困っちゃって、上も、ヨコのフリー・ディスカッションを奨励する。急激ですね、それまでなかったことです。
 〔そのヨコの「横議」の増大は、〕極端に言うと「脱藩」にまで、なるわけです。だから、「多事争論」と福沢が言ったのも〔『文明論之概略』〕、そういう意味です。「争論」というのは、「論争」を引っくり返した言葉ですけれども、その言葉自体、非常に新しい。これは江戸時代だったら、とんでもないことなんです。…「多事争論」がなければ進歩はないという福沢の命題は、まさに画期的で、オーバーに言えば「価値の転換」と言えるくらいのものであったと思うんです。…
 「横議」という場合は、けしからんという価値判断が入っている。「処士横議」の「処士」というのは、なにも位のない者で、そういうものが勝手に議論をする「横議」は、けしからんというわけです。「横行」というのもそうでしょう。ヨコというのは悪いんです。
 ‥上と下の関係がちゃんとしていて、下の意見を聴いてディシジョン・メーキングしなければいけないというのは、むしろ東洋に昔からある観念です。下の意見を聴くのはいいことだけれども、下から勝手に意見を言ってはいけない。
 ‥藩がヨコというのは、たしかに藩単位で言うとそうです。これは、東アジアにない特色で、昔、ハドソンが立てた仮説で、国際秩序を幕末の日本がどうして受容できたかといえば、藩があったから。藩平等の観念があって、石高にかかわらず平等だというのが、当たり前になっていたんですね。
 だから、百万石の大名と五万石の大名が完全に対等です。各藩の家老や下級武士も、他藩士に対するときは対等です。それが主権国家の対等性と似ているわけです。これは中央集権的家産官僚制の支配していた、他の東アジアにない特色で、藩と藩はイクォール。同じ身分同士-家老と家老、藩士と藩士は、禄高にかかわらず、対等だったわけです。ちょうど大国と小国の国際関係と、よく似ている。
 ‥自由ということは‥あなたと私は意見が違うということが前提になっているわけですよ。違う人が議論をする。同じだったら議論する必要がないわけです。満場一致社会だったら、議論という問題がそもそも生じない。
 ‥「談合」という言葉。これは非常に面白い。それから部落寄合(よりあい)ですね。これらは暗黙の共通した考えがあって、それを誰か-大体、目上とか、長上とかなんだけれども-が言い出すと、それにみんなが賛同するという形ですね。部落寄合とフリー・ディスカッションとの違いです。各々の人が個人として自立していて、自由に意見を述べるという、われわれが普通に了解している自由討議とは、およそ違います。
 だから、違っているということが前提になるかどうか。日本語の「違う」という言葉も困るんだけれども、相違ということと、「それは違うよ」ということを、同じ意味に使うでしょ。「あなたと私は違う」という意味の「違う」と、「お前の意見は間違っている」という意味の「違う」とが連動している。differentな(異なった)意見を持っているということと、あなたの意見はwrong(間違い)であるということは、元来関係ないはずだけれども、それが連動してしまっている。違った意見を持つこと自身が、-悪いと言ったら言いすぎだけれども、あまり好ましくない、desirableではない。
 そうした満場一致社会だと、「多数決」の考えが違ってくる。満場一致ができないから、necessary evil(必要悪)として、多数決になると考えるのか、それとも、満場一致は虚偽だ、そんなことはあり得ないのだと考えて多数決になるかで、非常に前提が違うでしょう。
 では、なぜ、少数意見の尊重ということが出てくるかというと、満場一致が虚偽だということが前提になれば、しようがないから多数決で決め、少数意見が明日の多数意見になるという前提となって、少数意見の尊重ということになる。他方、満場一致が理想でやむを得ざる悪としての多数決だとすれば、どうして少数意見を尊重しなければならないのか、ということになる。‥
 ケルゼンが言うように、多数決というのは、正確には、マヨリテート・ミノリテート・プリンツィープMajoritat-Minoritat-Prinzip(多数・少数原理)と言わなければならない。なんでもかんでも多数で決めちゃえ、というのなら、ユナニミティーunanimity(全員一致)がいちばんいいに決まっている。しかし、ユナニミティーということはあり得ない、ということが前提になっている。それはどこか嘘がある。本当に違うのに、みんな恐れて黙っている。それが満場一致だというのです。
 その根本には、違うのが当然だという前提がある。一人ひとり顔が違うように、二人集まれば、意見が異なっても当たり前と思うか、それとも、意見がなるべく違わない方がいいと思うか、それによって価値意識が非常に違うと思うんです。」(手帖32 「第78回マックス・ヴェーバーの会例会にて」1992.7.11.pp.10-15)
「現実、現実じゃないか、ということで、もう学生の時から、お前たちの言っているのは観念論なんだ、そして、現実を見よ、現実を見よ、もっと足元を見よと、しょっちゅう言われたんですね。そうすると、「現実」というのは何なんだろう。「現実」に対して「理想」とか「観念」というのは何なんだということは、そこから発せられた問い〔だったわけです〕。‥規範性を内面にしっかり持っていない者は、必ず流される。
 それで、私がそれを非常に感じたのは、マルクス主義者の転向の仕方なんですね。転向する人は、マルクス主義の中にあるMaterie〔物質〕、現実、歴史的現実、それから歴史的発展、歴史的必然性、そちらの方を重視した人は、必ずと言っていいほど転向しました。というのは、世界を見回してみても「現実」は全くそれと反対の方向に行っているわけです。翻然として全体主義に行っているわけですね。これが「現実」じゃないか。だから、「自由主義から全体主義へ」というのは歴史的必然ではないか、という……。‥
 そうじゃなくて、マルクス主義を、或る意味で「規範」として、つまり「現実」と離れて、にもかかわらず真理は真理なんだという、規範として受け取った人は、非転向です。‥マルクス主義と自然法とは違うんだけれど、自然法になっちゃったんです。だから非転向になったと思うんです。
 現実と日々接触していると、毎日の現実を問われますからね。そうすると、すべて周りの状況が非なる時に、いや、これが正しいんだと、これが真理なんだ、これが正義なんだと思ったって、よほどじゃないと言い切れません。‥つまり、世間が全部おかしいと、我々だけがおかしくないと思うのはちょっと傲慢すぎると。やっぱり、我々の方がおかしくて、世間で言っている方が大体普通なんじゃないか、我々の方がアブノーマルじゃないか‥。
 周りが全部変わっている時に、自分ひとりで同一性を維持するということは、絶望的に困難ですね。日本のは特に‥「いきほい」と関係するんですけれど、朝鮮なんかの儒学は実に頑張りますね。大勢非なる時に。だから、アジア的とか西洋的とか、言えないんですね。何故日本はそうだとなると、面白いんですけれども、それが良く言えば臨機応変になるわけです。真・善・美への忠誠が薄い、その分だけ、現実に対する適応性が高いということになるわけです。」(手帖36 「『忠誠と反逆』合評会 コメント」1993.4.24.pp.21-22)
 「例えば、大杉栄は本能の絶対肯定でしょ。とくに日本みたいに理想主義の伝統が弱いと、克己という、自分を克服するというのが出てこない。これは全面解放だから、なにも女性関係だけじゃなくって。それは、ちょっとひどいものだ。自分が自分を抑えるというか、自分の中の分裂を認めないんだから。自我の解放ですから。自我の解放というのは、日本的心情主義と相通じるところがある。ファウストじゃないけれど、「わが中に二つの魂がある」というのはないんだ。魂は一つしかないから、レーベンが、生命力が外へ向かって噴出しようとするのと、それを抑えようとする権力の制限との闘いという、その二元論しかないわけ。自分の中の二元性というのを認めない。だから、当為とか、そうすべきだということが出てこない。」(手帖41 「丸山眞男先生を囲む会(上)」1993.7.31.p.23)
「明治維新とは違うけれども、似ている点は法律革命だったということですね、戦後の革命は。明治維新もそうなんだ。法律革命というのは、社会的意識が変化しないで、上の法律だけ変わるんです。…
 つまりご布告革命なの。ペシミスティックになるけれども、非常に大雑把な僕の見方を言えば、〔現在は〕戦後進みすぎた反動が、まだずっと続いている時期だと。社会的実体と表面の政治的実体とが、大体揃うまではこの混乱が続く。
 戦後の改革の中で農地改革だけなんです、内発的に日本がやったというのは。これは非常に長い歴史があって、帝国農会に依拠した地主支配、それから貴族院ですね、それに対して農林省の石黒〔忠篤〕農政以来対抗して。篤農主義と言うのだけれど、つまり、土着でこつこつ耕している〔農民を中心にした体制をつくろうとしている〕という構想。‥〔農地改革には〕二つ行き方があって、小作人に土地を与えるという行き方と、それから、いわゆるイギリス型というか、小作料をタダみたいにしちゃうという行き方と。そうすると、小作人がブルジョア化するわけです。本当の土地耕作者が。〔戦後の農地改革は〕そういう行き方じゃない方向、つまりフランス革命型をとったわけです。大土地所有者の土地を没収し、自作農をたくさんつくるという行き方をとった。フランス革命の時は無償没収でしたが、この時は有償没収で、その違いはあるわけですが、フランス革命型です。
 フランス革命後は小農民とかが見事にナポレオン帝政の支持者になったわけです。それはマルクスがいちばんよく分析しているけど。マルクスの農民に対する不信はそこからきている。小農が全部、ナポレオンの帝政を支持した。結果に於いては、保守化したわけ。
 農地改革もちょっと似たような……。もちろん、改革はしなければいけなかったのだけれど、改革の仕方は、むしろ日本の保守化の強大な地盤を作った。だけど、全体としての戦後改革を言えば、教育も含めて進みすぎています。日本国民の意識からすると、今の父母の意識も含めて、戦後の教育基本法の理念というのは、国民に定着したとは言いがたい。まぁ、よく教育基本法をつくったということじゃないですか。‥やっぱり、法律革命だと思うな。…
 大体、戦後の変革は、進みすぎですね。進みすぎというのは、デモクラシーの行きすぎという意味じゃなくて、社会の実体から見ると法律の方が進歩的だったという意味。そのうちのある部分は、それこそ憲法じゃないけれど、だんだん浸透したという面はあるんです。それは明治もそうです。まず上から始まったけれど、浸透したという。上からというのはしょうがないですけれどね。」(手帖42 「丸山眞男先生を囲む会(下)」1993.7.31.pp.1-3)
 「(「憲法の問題とか、教育基本法の問題だとか、本当の意味での民主主義は何ぞやとか、もっと大きな問題まで、日本の人々、選挙民まで行かなかった。それは、我々選挙民が悪いというのと、それをできるだけ遅らせようとする保守勢力との闘いの中で負けたのか、そのへんはどうなのでしょう」という問題提起を受けて)それは、意識の闘いで負けたんじゃないですか。…それから、都市は空襲でやられたけれども、あとはそのまま解体されないで、つまり官僚制が残って、官僚制の上にマッカーサー司令部が来たという、こういうかたちですね。ドイツは徹底的に解体された、官僚制が。つまり〔占領軍の〕直接統治なんですよ。日本はそうじゃなく、官僚制をはじめから温存したかたちで。‥日本統治の実権を握っていた官僚制が温存された、文部省だけじゃなくて。(「保守層という言い方をしてもいいわけですか」という問いかけに)保守層というより社会層的連続性、戦前における。‥官僚というのは、元来オポチュニズムだから、イデオロギーが保守だとすると間違うんですね。上が進歩的だと進歩的になるんでね、そういう意味では。ただ、連続的だから。それからエスプリ・ドゥ・コール、団体精神と言うのだけれど、団体のアイデンティティーを保持したいというのは、いかなる団体にもあるわけ。官僚もやっぱり、官僚のアイデンティティーを保持したいというのは非常に強いから、それをイデオロギーと言うならば、イデオロギーです。
 僕の友達なんか〔官僚が〕多いからね、余計、思うんだけれども、まだ一度もないんじゃないですか、民主主義に変わったということは。天皇の替わりに、マッカーサーが来たから、‥民主主義的にコンバージョンしたとは思えないな、僕は。」(手帖42 同上pp.3-4)
(「まさに今おっしゃったことが、アムネスティの抱えている大きな問題だと思っているんです。アムネスティ・インターナショナルということで、そのインターナショナルにこめている意味というのは、単に欧米の人権概念の押しつけじゃないんだとと。もっと内発的なものとして人権をとらえて、普遍的なものとしていこうと口では言っているんです。ところが、現実はどうなっているかというと、どうしても欧米の運動のものまねのようになってしまう自分たちの運動のあり方。そのジレンマがまさにある。」という発言を受けて)僕はそれに反駁する立場なんです。ただ、そういうふうに考えることは大切です。歴史というのはそういうものだと、とりあえず認識すること。しかしそれを承認することじゃないです。まったく反対です。日本では、まさにその反対だということが、なかなか理解されない。つまり、正統性の根拠と発生の由来とが混同されるんです、日本では。どこに発生したかということと、それが正しいかどうかということが、混同される。その本質と発生とが混同される。簡単な例で僕が何べんも出すのは、キリスト教はヨーロッパの宗教、ヨーロッパの伝統だと言いますね。では、ヨーロッパでキリスト教が発生したのか。とんでもないですよ。‥キリスト教はオリエントに生えた宗教をもってきて、ヨーロッパの伝統にしたんです、長い歴史の間に。ウチに生えたものだけが伝統だという感覚が、日本は非常に強い。それは、‥ウチとヨソに関係があるんです。…どこに発生したかということと、伝統かどうかというのは、関係ないんです。日本で言うと、およそヨーロッパ的なものの考え方は、全部ヨソなんです。国会であれ、立憲制であれ、自由であれ、平等であれ、発生は全部ヨーロッパ。だから発生と伝統とに必然な関係があるならば、これは伝統じゃないんですよ、全部。ヨーロッパに発生しようが、中国に発生しようが、それをもってきて伝統にするかどうかということは、我々の問題なんです。…日本に昔からなかったということ、それから日本において理解されている自由とか平等とか人権という考え方と、ヨーロッパの理解の仕方とは違うという、そこを認識することが大事です。日本のは良くて外国のはダメだとか、外国のは良くて日本のはダメだとかいうのとは別問題なんです。」(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.20.pp.11-15)
「人間というのは何をするかわからないという感覚。少なくとも僕個人にはあります。一つは、軍隊経験ですね。つまり、人間というのはある状況に置かれると、何をするかわからないということ。ナチの領袖ですら、子どもを可愛がり、小鳥が大好きな人が、どうしてアウシュビッツをやるのか。常識では理解できないですよ。しかし、我々はみんな、やりかねないという感覚を持っていないといけない。ところが、けしからんという考え方が支配的になればなるほど、つかまっただけで何かけしからんということになっちゃう。すると制裁、つかまっただけでもう制裁となる。「けしからん主義」です。  違う例だけれど、宮崎〔勤〕という幼女誘拐犯がいましたね。考えられない事件だけれど、彼の親もみんな村八分になったらしいですね。もちろん親の責任はありますよ。あるけれど、僕なんか、自分の子どもが絶対に宮崎にならないとは言い切れないですね。ビデオばかり観ていて人とあまりつき合わないというのは、今の文明そのものじゃないですか。僕は第二の宮崎はいつでも出ると思いますよ。その根源が今の社会にある。それを何か親がほっとくからいけないという。これはやはり、「けしからん思想」です。
 (「今の社会だけじゃなくて、人類永遠にそういうものはある」という発言に対して)同調社会である日本ほどある。つまりノーとなかなか言えない社会。ということは、他者を他者として理解する能力が比較的乏しい社会。自分の価値判断で考えられない。だから新聞が叩くと、よってたかって袋叩きにする。僕がマスコミの嫌いなところは、そこだな。袋叩き、しかも少数意見がほとんどない。これは一億火の玉にいつでもなる社会です。ファッショは国家権力がだんだん肥大していくものだなんていうのは、大間違いです。同調性がある社会は、いつでも一億火の玉になります。」(手帖54 同上p.43)
「日本政府も国民も含めて、日本がどうして難民問題について比較的関心が薄いのかということの歴史的背景には、日本が東アジアでいちばん早く主権国家として世界に認められて、世界秩序に入ったということが深く関係している。それと日本の地理的位置とが深く関係している。「国」という言葉の曖昧さを見ればいちばんよくわかります。例えば、私の国は土佐ですと言う。それは故郷でしょ。国の支出でと言う時は、政府。アメリカに対して日本という場合は、国民と政府全部含めての国でしょ。国という言葉は非常に多義的なんです。こういう多義性は他の国の言葉にはありません。governmentとnationが同じ言葉で表現される。‥普通、外国では政府と国家とはちゃんと区別した言葉を使う。中国だってそうです。日本語には「国」という非常に便利な言葉があるので、そこがこんがらがるんです。‥
 (死刑廃止問題に関して、「世論というのがどこにいるのかわからない。また政府という時の、政府というのはどこにいるのかわからない」という発言を受けて)あなたが悩んでいることは、決して日本政府の問題じゃないです。我々の意識の問題です。日本政府もそれを反映しているに過ぎない。我々の意識とは何かと言うと、非常に簡単に言えば、ウチとソトという区別です。その区別の持っている強烈さです。英米仏、ヨーロッパのどこに、うちの会社は、という国がありますか。そういう言い方はないです。‥例えば、英語でstrangerという言葉がありますね。外国人。それはめったにstrangerは余所(よそ)者という意味のほうが多いんです。外国というのは、strange countryですが、日常会話では、strange countryという言い方はまずしない。イギリスは、ベトナムは、朝鮮は、中国は、と言います。外国はという言葉は非常に日本的です。これは僕の言うウチ・ヨソ意識に深く根ざしている。難民というのは余所者なの。余所者の中の最も余所者なんです。そういう意味で関心が薄いんです。ウチに近いほど関心が深い。そういう世界像の問題と深くかかわっている。それは非常に難しいもので、世論の問題とは違うんです。‥日本の不幸なところは、主権国家になっちゃったでしょ。主権国家になったということは、世界的に独立国家として認められたということ。ところが、日本は古来から政治集団として独立しているんですよ。大和朝以後、少なくとも五、六世紀、遅くみも六世紀以来、一つの政治集団なんです。外国に征服されたことがない。言わば自主主権国家なんだな。これは、日本の地理的条件が非常に大きいです。大規模な人種混淆を知らない珍しい国。‥これはどういうことかというと、ウチ対ヨソという意識が非常に強くなる、異人種との交流がないわけですから。それを克服するのは容易ではないということ。」(手帖54 「「アムネスティ・インタナショナル日本」メンバーとの対話」1993.12.20.pp.10-11)
(「自分の生活体験から、普遍原理につながる言葉がどうやって出てくるのかよくわからないんです。どうすれば豊かな実感をもった普遍原理の言葉が自分の中に生まれていくのか、そのための契機というか、チャンスというのは、今の日本社会の中でどういうふうにあり得るのかが、よくわからない」という発言に対して)気が短いんだな、日本人は。そういうことは、今日や明日でできると思うほうが間違い。僕はそう思います。今日、明日でできると思うから、そんなことやっても意味がないか、その言葉に酔っちゃうかのどちらかになっちゃう。政治改革と言うと、猫も杓子も政治改革になる。民主主義と言うと、猫も杓子も民主主義になる。それに対して迷う人は、‥本当の意味での内発的、自分の内側から出たものになるかということを考えているんです。しかしそれはなかなかならないという覚悟を持たないとできないの。気を長く持ってやる以外ないんですね。僕自身がそうです。‥歴史の勉強をやっていますと、一年や二年では考えないんですよ。一年や二年では変わらないんですね。二、三百年単位でしょ。極端に言えば僕の言ったことは、絶対に少数だといつも思っています。それは構わない。‥ぼくはマイノリティという意識がいつもあります。だけど、百年後、二百年後にはもう少しわかる人が増えるかも知れないと思っています。‥今通らなくたっていつかは通る。真理は必ず通るんだと。まさにそれがないの、我々には。我々はやっぱり気が短いです。一〇年や二〇年で浸透するはずがないです、アムネスティの理念なんてものは。‥一人でも、二人でもいいからつくっていく、言わば同志を。それがあちこちにいれば、大変な運動になるんです、結果においては。自由主義運動でも、民主主義運動でも、社会主義運動でも、あらゆるものはそうやって運動になっていった。はじめから一挙に大衆に広がるなんて言うのは、嘘に決まっています。みんな少数者の、非常に長い少数者の運動というものを経験しているんです。だからまた思想はそれだけ長い生命を持つ。‥だからロングランに考える以外ないんですね。」(手帖54 同上pp.20-21)
「ウチとかヨソとか言ったのは、そういう普遍主義的な考え方が、実感として定着するのを阻む事情が日本にあるのではないか、ということの歴史的説明をしたつもりなんです。だから、しょうがないじゃないかというのは、僕に言わせると気が早いの。気が早いから変わり身も早い。‥亡命したことなんてないでしょ。向こうの知識人なんかだと自分の思想を捨てるか、思想をとって亡命するかという選択に何度も立っているわけ。僕が戦争中抵抗したと言って威張らないのは、海外に行ってまずはじめに、なぜ亡命しなかったのかと言われたからです。夢にも思わない、亡命なんてことは。当時、新聞や雑誌を覆っているあらゆる思想に対して一〇〇パーセント近い反対を持っていながら、亡命ということが頭にないんですよ。これはやっぱり日本の特殊事情です。‥それぐらい自分の思想を守って亡命するというのは、普通のこと。ということは、国を捨てるということは、普通なんですよ。自分の国は手段ですから。何も日本人である必要はないわけです。自分の信念と相容れなかったら捨てるほうが当たり前なんです。‥日本に生まれて、日本にいるよりほかしょうがないというのが、我々の根本の観念で。
 だんだん変わりましたね。戦後は変わったんじゃないですか、僕らの時代から比べると。良い悪いは別として、国籍を変更するということに対する観念が割合自由になったでしょ。僕はそれは非常に良いことだと、特にウチ・ヨソ思想〔を破るという点〕から言えば。国籍なんてものは変更したっていいんですよ。‥日本国民であり、日本国籍を持っているということは、人工的なものです。だからそれは、自分の信念に反すれば、何時でも変更してもいい。」(手帖54 同上pp.21-23)
「政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っているのです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗していく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立されないということです。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.291-293)
「欠如理論というのは、日本ではマイナス・シンボルに使われる。日本にはこれがない、あれがない、とばかり言って、ないないづくしじゃないかと、だいたい悪口として言う。けれども欠如しているからこそ、ますますそれを強調しなければいけない。本来あるものなら、放っておいても生長するから大丈夫です。もし日本を豊かにしようとするならば、欠如している、あるいは不足している面を強調しなければいけない。本来もっている自然的な傾向というのは言わなくてもいい。むしろそれは自家中毒を起こしやすい。…
 要するに福沢の言動というのは、そういう意味で、いつも役割意識というのがつきまとっている。彼が教育者として自己規定したというのも、この役割、この使命感ということに密接に関係しています。つまり、教育というのは、長期的な精神改造なんだ、自分は政治家ではないから、政治にコミットしない、ということの対比において、彼はそういうことを言っている。ロングランの精神改造というものに彼は賭けているわけです。」(集⑮ 同上pp.305-308)
「「公」という観念が、いまだと上と下の関係だけなんです。上が「公」で、下が「私」。そうじゃなくて。パブリックガーデンとか図書館とか。みんなパブリックでしょ。幕末に吉田松陰が一番驚いたのが、西洋のパブリックの概念なの。図書館、博物館、公園。当時の伝統には全部ないです。あの攘夷論者の松陰が一番感心しています。横のパブリックの観念、それが広がる度合いで、国家が「公」の代表じゃなくなるんです。皮肉なことに、阪神大震災を通じて、日本語にない「ボランティア」が初めて通用しだした。前からあったけれど、社会全体に通用し出して普通の言葉になった。それに対応する日本語がないということが、象徴的。横のボランティア活動がなかったから、日本語にはそういう言葉がないんです。
 …今回の阪神大震災のボランティア活動は画期的ですね。関東大震災の時に自警団という市民団体があった。これはもう悪いことをやった。朝鮮人を虐殺したのも自警団ですから。‥自警団には助け合うというのがなくて、文字通り、治安維持、自警。」(手帖66 「「丸山眞男先生を囲む会」最後の記録」 1995.8.13. p.39)
「ふつう、大衆運動が盛り上がっていった頂点に六〇年安保があったというふうに考えられがちですけれども、そうではない。突如としてあの大爆発になった。アクティヴな知識人や学生の見方からすると「ついにここに来た」、つまり多年の努力が実って六〇年の大爆発になったというのですが、いわゆる普通の市民と接触している僕らから見ると、五月一九日の強行採決によって突然大爆発がおきた。その見方の違いというのが、かなり重要なことじゃないかと思うんです。…
 なにしろ、国会の周辺は毎日毎日何十万という市民でしょう。いま、ああいう事態というのは、ちょっと考えられないですね。正直言って、よくあれだけ、どこからも動員されないで、自然に集まったものだと思います。‥
 そのあと、安保がおさまった直後に、野間宏君たちが中国へ行った。そうしたら毛沢東主席が「日本国民を見直した。これで中国は安心した」といったそうです。つまり、日本の国民の間にこれだけ戦争に反対する勢力が強い以上は、またああいう日中戦争のようなことは起こらないと、そのとき本当に思ったらしいんですね。毛沢東の言葉は本心だと思うんです。あの騒ぎで、日本の国民の平和への志向がいかに高いかというのを、毛沢東は知ったんです。それはたいへん大きなことだと思います。政党や組織に動員されないで、一般の大衆があれだけ動いたというので、戦争反対の意志が相当に強く国民的に滲透しているということを知ったんでしょうね。」(集⑮ 「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」1995.11.pp.337-341)