倫理意識

2016.4.26.

「明治初年の自由民権運動、ジャーナリストの抵抗には投獄を当然のこととし、投獄をむしろ誇りとする気風があり、それは民衆の心理のなかにもあった。そこで合法性のワクをひろげる努力、政府投獄の措置そのものを批判し改善する方向には十分発展しなかった。「来れ牢獄、絞首台」の伝統。
 日本人の行動評価。
 うつくしき心、きよき心、あかき心⇔きたなき心
 ピュリティの尊重から、正反対の行動様式がでて来る。
 i あるイデーや目的意識をもって対象をコントロールする努力、操作の意味、結果への顧慮と責任、手段の較量、そこから出て来る現実との「妥協」がけいべつされる。「純粋な動機」をもって行われた行動は、その目的やイデーの内容的評価をこえて賞讃される。ここからは心情的ラヂカリズムとマキアヴェリズムの同居がでて来る。なぜなら手段の軽蔑はどんな手段をも是認させることになるから。
 ⅱ 目的意識をもって系統的に出来事を組合せ、価値判断すること、-つまりあらゆるイデオロギー的判断をすることはすなおでないとして排斥される。ここからは逆に主体的決断のない、現実の流れのまにまにという機会主義がでてくる。(昭三十一)」(対話 p.145)
「「人に従わんよりは神に従え」という命題と、「凡ての人、上にある権威に服うべし。そは神によらぬ権威なく、あらゆる権威は神によりて立てらる。この故に権威にさからう者は神の定めに悖るなり、悖る者は自らその審判を招かん」(「ロマ書」第一三章の一)(cf.「ペテロ前書」第二章の一三)という命題と、この二つの命題のディアレクティクがキリスト教の歴史を貫いている。事実上の歴史として、キリスト教会が新旧を問わず、いずれの命題に傾斜したかといえば、否むべくもなく後者であろう。日常的には、キリスト教徒と教会とは地上の権威に従順でありこれを「神の立てたるもの」として基礎づけさえした。しかし例外状態には、つねに前者の原則が貫かれた。そこでは、良心の自由にもとづく権力への抵抗が義務とされる。例外状態とは、地上の権威への忠誠と、主なる神への忠誠とが矛盾したディレンマの状況である。こうしたディレンマは事実としてはレア・ケースに属する。しかし、キリスト教の核心的な原理はまさに、事実的傾向性としては稀な例外状態において発現されたのである。およそ原理というものはそうしたものである。頻度数(frequency)の問題と、原理の問題とを混同してはならない。」(対話 pp.172-173)
 「日本の場合。
 原理への忠誠が伝統化しない風土においては、思想と行動にたいする価値規準は、(イ)主観的動機の純粋さ(きよきこころ)と、(ロ)特定集団へのコンフォーミティ(集団的功利主義)-その場合、集団や組織が客観的なものと考えられる-との二方向に分岐する。(イ)(ロ)の価値規準をともに満足させる行動は、自己の属する特定集団のために純粋な(無私の)献身をささげることにある。」(対話 p.173)
「テオリア。
 「実践によって理論がためされる」というとき、日本では理論の検証の問題(認識論の問題)よりも、しばしば人間の正心誠意な打ちこみかた、人格的傾倒という意味合いで、つまりマゴコロ文化(知行合一、言行一致)というコンテックストで論じられる。「主観的意図にもかかわらず客観的には……」という場合も、目的Absichtよりはむしろ善意の意でつかわれる。‥
 認識の次元より行為の次元、行為の次元よりは行為の心理的個人的動機の次元、動機の次元よりは心情の次元! こうして「唯物論」があらゆる観念論よりも主観主義、いや主情主義的になる。…」(対話 p.253)
「いわゆる外来思想を変容する日本的なものをどうやったら取り出せるのかというのが日本思想史の課題です、」(手帖3 「日本の思想と文化の諸問題(下)」1961.10.17.p.16)
 「時勢に対して断固として普遍的な理を守るという態度は非常に弱い。これが、雪崩を打って転向するということと関係があるわけです。…状況変化に対する適応性というものにも現れる。つまり状況追随主義になっても現れるし、状況変化になっても現れる。」(手帖3 同上p.25)
 「テクノロジーの発達により過去の地理的条件というのは急速になくなった、なくなりつつあるということが言い得る。そうすると、どういうことになるか。永らく日本の特色をなしていた底辺の等質性というものが他の文明諸国のように崩れてゆくのは、時間の問題だということなんです。」(手帖3 同上p.26)
 「今までわれわれには模範国があった。これはさっきいった地理的条件。模範国から非常に高度の文明を輸入してきた。模範生というのは学習能力はあります。解答を出す能力はあります。模範答案をつくる能力はあります。残念ながら自分で問題をつくる能力は弱い。人が出してくれた問題を解くのは実に得意です。これはゴールの問題で言いますと、目標を人から与えられたら、さっきの勢ですね、エネルギーですごく張り切る。戦争というと一億火の玉になります。…これを目標達成能力と言うんですね。しかし目標は自分でつくるんじゃないんです。目標は外から与えられるわけです。戦争とかオリンピックとか。そうするとみんな張り切っちゃうんです。日本の会社のすごい生産力というのはそこなんです。‥「きよきこころ」「あかきこころ」で会社に奉仕する。自分で目標を設定するんじゃない。況や新しい目標をつくり出して来るんじゃない。…つまり新しいゴールというものをわれわれは設定し、あるいはプルーラルな、多元的な目標の中からわれわれの目標を選び出す能力というもの-つまり問題をつくる能力、模範解答を出す能力じゃなくて、そういうものを養っていかなきゃいけない。…
 良いものは放っておいても伸びるんです。悪いものは自覚しないとなかなか除去できない。そこでわれわれはそういう意味での自己批判の精神というものを養わなきゃいけない。」(手帖3 同上pp.29-30)
「日本の思想史を貫いている一つの大きな、ある傾向性というものの表れであります。つまり、それは名付ければ、「動機主義」。純粋な動機から出た行動は善である。善と言わないまでも、それには高い価値が与えられる。気持ちが純粋だからだということです。
 これは昔から高い評価があった。日本神話にもそういう特色があります。ここでは〔日本神話についての説明は〕略しますけれども。今日まで連綿とあるのは道義心、心情は実に美しい、やったことは困るけれども、実に美しい心情の道義的意味において評価される道義主義。福沢の言葉で言えば「一心一向」。それは一心一向というところで純粋さが買われるわけです。」(手帖57 「福沢諭吉」1968.9.14 p.14)
「要するに、善・悪に関係する神々が登場する『古事記』の段落には、善と悪との絶対的な対立よりも、両者間の機能的な関係、そして一方から他方への移行を重視する思考様式が底流している。「人間性が本質的に善か悪か」という問題は孟子と荀子との間に有名な論争を引きおこしたが、日本の倫理思想の歴史では古代以来、真剣な考察の対象とならずにきた。…
 …私が論じたいのは、‥『古事記』の表現が一対の枢要な言葉に関係するかぎりでの、倫理的観念である。それは、きよき[=清潔な、純粋な]心vs.きたなき[=穢れた、不正な]心のペアであり、後世の神道家が「日本精神」を代表するものとして頻繁に引照したものである。…この一対は「日本精神」ではないとしても、少なくとも前に私がふれた意味における執拗低音のいくつかである。…
 …かくて日本の倫理的判断の伝統では、行為者がしたことへの責任よりその動機にいっそう重きを置く、というのは言い古された命題である。‥日本人の純粋さや清潔さへの好みや尊重もたいへんよく知られている。
 きよき心ときたなき心の対立に私がふれるとき、‥ここで問題なのはむしろ、心の純粋さに対するこの好みや尊重の構造である。それは先に紹介した、実質的よりも機能的な善・悪の定義といかに関係しているだろうか。」(別集③ 「日本における倫理意識の執拗低音」1975-6 pp.206-208)
 「本居は『古事記』で使われている古代日本語では、人の心に関する純粋さと汚さの規準がまったく普遍主義的ではなく、その判断は敵対するどちらの側に味方するかに依るということをうよく知っていた。要するに人が清く明るい心をもっているか、あるいは汚い穢れた心をもっているかは、人が自分を同一化する特定共同体という点からみて定義されるのである。その規準は高度に政治的で特殊主義的である。
 私はこの規準をさしあたり集団的功利主義collective utilitarianismと呼びたい。善は特定の共同体にとって有用なものであり、悪はその共同体に禍害をもたらすものである。日本的倫理意識の執拗低音に関して、ただ純粋さの好みや誠実の尊重だけを強調すれば十分だと私は考えない。なぜならそうした動機づけの側面は、本性上高度に特殊主義的である集団的功利主義という、もう一つの規準と密接に関連しているからである。…純粋な心は、欺瞞的手段が敵あるいは自分の属する共同体のよそ者に対して向けられる時には、そうした手段を使うことと矛盾するものではないのである。」(別集③ 同上pp.212-214)
 「日本的倫理意識の執拗低音を明らかにするためには、こころの構造を最低限でも論じる必要があろう。
 古代日本人のマインドmindでは、こころは人体にやどる霊(たま)(あるいはひ)である。さて霊(ひ、たま)は我々の宇宙に遍在しているものである。…たまはその不断の活動によって特徴づけられる。…この関連で、古代日本人がこころをその絶え間ない活動という点でも考えていたのは、ごく自然である。そしていったんこころがその観想的な面でよりも、作用的・動的な面で定義されがちになると、感情や意図が、知的・規範的判断よりもこころの性質を代表する。たとえこころがこれらすべての機能[mind/will/heart]を含んでいるとしてもである。…
 かくて純粋なこころは元来、内側からの自発的な感情を意味した。それは純粋に外部に表現される。すなわちそこには、わけ知りの抜け目ない考慮が混じることも、ためらいによる動揺もないのである。…」(別集③ 同上pp.214-215)
 「第一に、もし純粋なこころが感情の自発的発露という点から定義されるとすれば、‥自分が属している共同体あるいは集団(それが民族、御家、会社、宗教結社など何であれ)に対する心情的で一途な献身は、その共同体の内部で蔡虹の評価を得てきたし、いまも得ているということである。そうした行為は、‥内部的と外部的という二つの規準(すなわち純粋さの尊重と集団的功利主義)を同時に満たすだろうからである。
 第二に、純粋なこころは、必ずしも政治的あるいは社会的共同体と結びつかないことが注意されねばならない。‥前述したこころの構造を与件とすれば、人はこころの活動領域をそうした公的事象に限ることはできないからである。こころが倫理的用語よりも、純粋で清いvs.汚く醜いといった美的用語で定義される傾向があるかぎり、そしてまた規範的判断よりもむしろ、絶え間ない運動や活力ある流れが決定的な役割をはたすかぎり、純粋なこころの爆発がもっとも現われやすいのは、まさに愛、とりわけ性愛の領域においてであった。
 この意味で清き心の尊重は、たしかに普遍主義的であった。…それは彼らの日常生活を縛ってきた政治的・社会的義務をさえ無視するのである。」(別集③ 同上pp.217-218)
「倫理意識の方はまだprinted matter[刊行物]になっていないんで困るんですが、一つキーワードがあるんです。歴史意識や政治意識の「なる」とか「いきほい」とか、マツルもそうです。ほかにもキーワードはあるけれど略しますが、倫理意識のキーワードの一つがキヨキココロ、アシキココロなんです。これが最高の倫理的判断なんです。良き、悪しきってのは二次的なんです。これ[良き、悪しき]は中国からきた考え方なんです。[古層では]善悪の判断がむしろ美的な判断によって代位される。
 ‥倫理的判断はgoodとbad、goodとevilが基本なんです。これは神と悪魔に対する……。中国でもそうです。儒教の場合も、善悪が基本なんです。比喩として、そういう潔白とかも出てきますが。
 日本の場合は逆で、清き心、邪(きたな)き心が基本範疇です。…要するに善悪という倫理的判断の一番基本にあるのは、いわゆる中国的にいう善悪でもなければ、good and badでもなくて、清いか汚いかで、それはどういう意味かというと、心情の純粋さなんです。心情の純粋さというのが非常に価値評価が高いということなんです。良い悪いってのは客観的な基準になるわけです。客観的な基準に照らしてお前のやったことは良いと、お前のやったことは悪いと。ところが、どんなことをやっても純粋な心情でやれば、それは許されるというのがある。心情的純粋主義はここから出てきているわけです。
 それを一番よく示唆する例は、直情径行。つまり自分が感激したらそのままさっと行動に出す。会社の中でも、あいつは直情径行でちょっと困ったというふうに。けれど割合それに対して寛容なんですよ。団体を維持していくためにはちょっと困るんだが、いいやつなんだと。情をまっすぐに発露するわけでしょ。
 ところが『礼記』ではどうかというと、「直情径行は夷狄の道なり」。これが中国なんです。直情径行というのはとんでもない。客観的な規範によって裁かれるんだから、情をそのまま出すってのは道に反するわけです。夷狄の道です。動物はみんなそうでしょ。動物は思ったことをそのまま表現するんだから、夷狄の道なんです。
 そういう意味で日本では心情の純粋性というのは非常に価値が高い。これは、ココロという言葉の造成にも関係してくるんです。中国ではこの字[心]をあてます。例えば朱子学でいいますと、心の定義は、「心は性情を統ぶ」っていうんですね。性と情というのは相反する概念なんです。性というのは本然の性で、これはアプリオリな善なんだな。情っていうのは気質ノ性で、人間の育ちとか、あるいはもって生まれた性格とか、そういうものによって影響されるのが情なんです。情をなるべく純化していって、性がそのまま現れるようにするのが修身の過程なんだと。聖人は情が完全に透明なんです。したがって性がそのまま発現する。普通の人はそうじゃないから、性と情がちょっとぎくしゃくしている。本然ノ性がそのまま出ないんです。心の定義は、心が性情を統ぶでしょ、これは両方の統合名詞なんです。
 日本語はこっち[情]と結びつく。心情と結びつくわけ。つまり、ココロっていうのは、宣長の有名な‥「動くこそ人のまごころ 動かずといひて誇らふ人は岩木か」というのがあります。何でそういうことを言うかというと、これはカラゴコロ(漢意、漢心)排撃なんです。儒教で-本来は仏教なんですが-寂然不動という言葉があるんです。泰然として動かない、寂然不動。これが性なんです。気質ノ性ってのは情なんです。情というのは、動くものなんです。動くものの根本に動かないものがある。アリストテレスの哲学もそうですね。アリストテレスによると、神様の定義ってのは、自分はちゃんと、ある個所にいて人を動かす。自分は動かされないで人を動かすものが、神なんだ。つまり、動くものの背後に、絶対動かないものがある。これが絶対者なんです。中国の人も同じ。したがって寂然不動が性となる。ところが、宣長曰く、動くのが人のまごころなんだと。本来ココロってのは動くものなんだ。俺のココロは寂然不動であるなんて威張っているのは、あれは岩木か、死んだ岩や木じゃないのか、というんですね。宣長は古代文献をよく読んでいますからね。日本人の価値意識というものを知ってるわけです。寂然不動なんて、儒者も坊さんもみんな威張っている。あれはカラゴコロだ。動くこそ人のマゴコロ。
 恋愛にも非常に高い価値を認めている。勅撰和歌集に「恋部」というのがある。勅撰和歌集に恋が一つのセクションをなしているのは驚くべきことなんです。恋愛は動くものの代表ですね。だから恋ってものに対する評価が非常に高いわけです。また同時に心情の発露です。宣長のイデオロギーは全部それが基礎になっているんです。‥内部にある純粋なものが、他の分別とか判断とか、そういう理性的判断に妨げられないで、純粋に発動するものは、結果がどうであろうと高く評価される。
 そこで政治責任とちょうど逆になるわけです。状況に対してどんな結果を及ぼそうと、お国のためにやったというのは価値があることだから、純粋なんだから、お国を滅ぼしたって、極端に言えば、今度の戦争じゃないけれど、あれだってお国のためにやったんじゃないかということで、心情の純粋さということが認められる。」(手帖9 「丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回」1983.11.26. pp.19-21)
「(倫理基準の古層としての「心情の純粋主義」に加え)そして、それだけかというと、そうじゃないところが面白いんです。もう一つある。…もう一つの基準は‥特殊集団への忠誠があるかどうか、という基準です。…
 そうすると、第一の基準は心情主義。第二の基準はパティキュラリスティックな集団。人類じゃなくて、ある特殊集団、日本でも会社でもなんでもいいんです。ある特殊集団に対して忠誠心があるかどうかということが基準なんです。これは僕は集団的功利主義と呼ぶんです。集団的功利主義の方は、心じゃなくて、行動で判断されるわけです。ある特殊集団に対して忠誠を示すことは、その集団の立場からみればキヨキココロになるわけです。…
 そうすると、二つ価値基準がある。この二つの価値基準を両方満足させる精神及び行動は一番倫理価値が高いということなんです。ということは、自分の属する集団にマゴコロをもって忠誠を尽くす。キヨキココロをもってというのが第一の基準。そして自分の属する集団にってことは、特殊主義的なんだ。マゴコロをもって忠誠を尽くす、これが一番価値が高い。会社のために献身するのが一番いいことだ、ということになるわけです。これが倫理的価値基準、倫理意識の古層です。」(手帖9 同上pp.21-23)
「日本人の考え方と中国人の考え方がいかに違うかということの例として…『礼記』のなかに「直情径行は獣の道」だという言葉があるんです。この直情径行というのは、つまり自分の感情をそのまま表現して行動するのは動物、動物は感情で動きますから。だから自分の感情をそのままストレートに発動して行動するのは動物、禽獣であって人間じゃないと。‥
 もちろん日本でも礼というのは、盛んに言われました。言われましたが直情径行がそんな悪い意味で使われたかというと、必ずしもいい意味じゃないけれど、思ったことを率直にそのまま出す、裏がないという時に、「あいつはいい男だ、直情径行だ」と。‥禽獣の道という『礼記』の教えと非常に違う。そういうところが、やはり情というものに対する、つまり日本思想における「情」の重さと関係があるわけです。逆にいうと「理」の軽さということになるわけです。このことが中国と日本との思想の違いを考える上に、非常に大事なんです。」(手帖16 「中国留学生の質問に答える(上)」 1988.10.5 pp.10-11)
 「非常に中国と違うのは、日本では忠が孝に優位する。中国では孝が忠に優位する。
 というのは、伝統的な儒教によりますと、孝というのは父に対する孝でしょ。父は選択できない。忠というのは選択できる。君子というのは選択できる。‥したがって孝のほうが基本なわけです。‥
 日本ではいつ頃からか、よくわからないんですけれども、忠のほうが優位になる。かなり昔からそうです。‥孝のほうが基本だというのが、もとの考え方。ところが、日本では孝は忠のもとということは、家庭において孝行の道徳を習得することがやがて社会に出て忠という道徳を習得する準備になる。‥家庭で孝を覚えた人間、孝子は社会に出ると忠臣になる。そこで孝は忠のもとというのです。同じことをいわれていても、ニュアンスが違うのです。…大義親を滅す‥、これも盛んに日本で言われたんです。親を滅ぼすということは、非常に重大な時にはその家族を、親に対する孝を犠牲にしても君主に忠を尽くさなければいけないという意味で、大義親を滅すと言われた。言葉は中国から来ているんです。だから中国でも、ある場合にはこういうことがあったわけですね。ところがそれが頻繁に繰り返される、その頻度がはるかに日本のほうが大きい。」(手帖16 同上pp.11-12)