歴史意識

2016.4.26.

「自然的時間と歴史的時間。
 後者の前者への解消の傾向が日本の「事実主義・感覚主義」の伝統のなかには根強くある。  自然的時間は「機械的」に進行する。一時間、一〇〇年の長さはかわらない。歴史的時間は「意味」を与えられた時間だから、昔の百年は現代の一年に、あるいは、一週間に相当するということがありうる。(世代のちぢまりを見よ!)「時代区分」というのは、自然的時間に内在する区分ではなく、われわれが自然的時間に意味賦与することによって設定した区分だ。歴史叙述が現代からの歴史であり、また歴史が時代とともに書きかえられるということは、まさにこの人間による新たな意味賦与を前提としてはじめて理解される。「歴史は繰返す」という命題も、もし、歴史がたんなる自然的時間の過去を意味するならばナンセンスであろう。歴史からわれわれが「学」びうるのは、現代から過去の出来事に意味賦与をして、歴史的状況や人物を一定の「典型」にまで抽象化することを通じてである‥。
 「未来学」の流行、「前向きの姿勢」、古い慣行イコール悪、新時代の要請イコール善、新しいデザインに目の色をかえる傾向等々は、日本の思考における自然的時間の優位と無関係ではなさそうだ。」(対話 pp.118-119)
「「日本的なもの」を論ずる際に、  普遍性と特殊性という対概念に代えて、劃一性と個性を置いたらどうだろう。日本神話を個々の構造要素に分解したら、それは、アルタイ系神話とか、オセアニア神話とか、すべてどこかに共通したもののなかに解消してしまう。けれどもそうした、個々的にはどこかと共通しているものが、特定の仕方で組合わされて、記紀神話として現われるとき、それは全体として、どこにも外にない個性を帯びる。これをidiosyncraticと呼ぶかpeculiarとよぶかはどうでもよい。積み木の個々の形はきまっているが、でき上がった家や机はユニークなのと同じだ。全体性は普遍性ではなく、逆に、全体こそ個体的なのだ。個人という「全体」についてもしかり。Individual→分割できないもの、分解したら普遍的要素に解体する!(cf.「カール・ドイッチュとの対話」一〇一頁)」(対話 p.121)
「国立劇場の設立趣旨に「古典を保存する」というコトバがあった。古典は「保存」の対象なのか!?これほど古典というコトバの日本的な意味を露呈している例はなかろう。ギリシャ古典は「保存」されているのか。モーツァルト・ベートーヴェンの音楽は「保存」されているのか。
 しかし日本思想の「原型」をなす直線的な時間増からすれば、「古」は「今」ではない。物理学上の定理ではないが、一つのものが二つの異った位置に同時に存在するのは不可能である(少くも三次元空間では)。古典が「規範」ではなく、過去の、「いにしえ」の文化的産物であるところでのみ、古典を「保存」するといういい方が自然にひびくのであろう。」(対話 pp.121-122)
「(東京裁判の)被告の千差万別の自己弁解をえり分けて行くとそこには二つの大きな論理的鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、既成事実への屈服であり他の一つは権限への逃避である。」(集④ 「軍国支配者の精神形態」1949.5.p.116)
 「既成事実への屈服とは何か。既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となることである。…  ここで「現実」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起って来たものと考えられていることである。「現実的」に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。従ってまた現実はつねに未来への主体的形成としてでなく過去から流れて来た盲目的な必然性として捉えられる。」(集④ 同上pp.116-120)
「私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもっているか…。
 第一には、現実の所与性ということです。…現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性とか過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方ない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。…ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした「現実」観ではなかったでしょうか。…戦後の民主化自体が「敗戦の現実」の上にのみ止(や)むなく肯定されたにすぎません。…「仕方なしデモクラシー」なればこそ、その仕方なくさせている圧力が減れば、いわば「自動」的に逆コースに向うのでしょう。…
 さて、日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましょうか。…現実の一つの側面だけが強調されるのです。…
 …第三の契機(は)その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。…われわれの間に根強く巣喰っている事大主義と権威主義がここに遺憾なく露呈されています。…昔から長いものに巻かれて来た私達の国のような場合には、とくに支配層的現実即ち現実一般と看做され易い素地が多い…。
 こうした現実観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。…私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つははどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。」(集⑤ 「「現実」主義の陥穽」1952.5.pp.194-200)
「日本の歴史意識の古層をなし、しかもその後の歴史の展開を通じて執拗な持続低音としてひびきつづけて来た思惟様式のうちから、三つの原基的な範疇を抽出‥(する)ならば、「つぎつぎになりゆくいきほひ」ということになろう。念のために断っておくが、筆者は日本の歴史意識の複雑多様な歴史的変遷をこの単純なフレーズに還元しようというつもりはないし、基底範疇を右の三者に限定しようというのでもない。こうした諸範疇はどの時代でも歴史的思考の主旋律をなしてはいなかった。むしろ支配的な主旋律として前面に出て来たのは-歴史的思考だけでなく、他の世界像一般についてもそうであるが-儒・仏・老荘など大陸渡来の諸観念であり、また維新以降は西欧世界からの輸入思想であった。ただ、右のような基底範疇はこうして「つぎつぎ」と摂取された諸観念に微妙な修飾をあたえ、ときにはほとんどわれわれの意識をこえて、旋律全体のひびきを「日本的」に変容させてしまう。そこに執拗低音としての役割があった。」(集⑩ 「歴史意識の「古層」」1972.11.p.45)
 「古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、「いま」にほかならない。われわれの歴史的オプティミズムは「いま」の尊重とワンセットになっている。過去はそれ自体無限に遡及しうる生成であるから、それは「いま」の立地からはじめて具体的に位置づけられ、逆に「なる」と「うむ」の過程として観念された過去は不断にあらたに現在し、その意味で現在は全過去を代表(re-present)する。そうして未来とはまさに、過去からのエネルギーを満載した「いま」の、「いま」からの「初発」にほかならない。未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ、はるかなる過去が歴史の規範となるわけでもない。…「今も今も」は、たえず動きゆく瞬間瞬間を意味しながら、同時にそれが将来の永遠性‥の表象と結びついている点で、まことに日本的な「永遠の今」-ヨリ正確には「今の永遠」-を典型的に示すものであろう。
 したがって血縁的系譜の連続性に対する高い評価にしても、一方ではたしかにいわゆる祖先崇拝としてあらわれるけれども、それは尚古主義に傾くよりはむしろ赤子(あかご)の誕生の祝福に具体化される。生誕直後の赤子は「なりゆく」霊(ひ)のポテンシャリティが最大であるだけでなく、キヨキココロ・アカキココロという‥倫理的価値意識の古層からみても、もっとも純粋な無垢性を表現しているからである。…
 ことはたんに血脈相承だけの問題ではない。「天つ神・国つ神」の非究極性と不特定性が、「いま」の立場から「自由に」祖霊を呼び出すことを容易にし、しかも新たなる変革や適応を、こうして呼び出された「原初」の顕現として連続的にとらえる、という特異な思考様式がこうして可能となる。大化改新にはじまる一連の革新は、まさに同時代の-つまり「いま」の-中華帝国の制度をモデルとして、「昨日」の旧習を「断つ」決断であった。したがってそのイデオロギーには儒教的民本主義の影響が著しいのは当然といえるが、その反面に‥原初の天つ神を引照した「いま」の論理が前景に出ているのは興味なしとしない。‥このパターンが基本的に明治維新に再現していることは言うまでもない。」(集⑩ 同上pp.55-57)
 「「いま」を中心とする歴史的オプティミズムが個人の生活態度に対してもつ実践的意味には両極共存性(アンビヴァレンス)があり、必ずしも単一ではない。今の世を「穏(おだい)しく楽しく」享受する古代人の生活態度を近世において強調し、「複写」しようとしたのは、いうまでもなく宣長に代表される国学であった。けれども、看過してならないのは、『古今(こきん)』の世界はもとより、『万葉』歌人も、仏教の現世厭離と「三世」の因果応報の哲学を彼等なりにくぐっていた、ということである。「生ける者つひにも死ぬるものにあれば今(こ)の世なる間(ま)は楽しくをあらな」(三四九)「今(こ)の代(よ)にし楽しくあらば来む生(よ)には虫に鳥にもわれはなりなむ」(三四八)「価(あたい)無き宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめやも」(三四五)のような歌は、あきらかに、「生者必滅」と輪廻の思想、ないしは「無価宝珠」としての仏法の意味づけ、への理解を前提としながら、自嘲と風刺をこめて、あえて「今の世」を享受する態度を打ち出したものであって、けっして馬淵や宣長が上代に想定したような「おほらかな」現世肯定そのものではなかった。むしろ逆に読むならば、そうした自然的生の謳歌の素朴性に対して、仏教的世界観がいかに強い衝撃を与えたかを、これらの歌は物語っているともいえる。にもかかわらず、五戒の一である飲酒戒を冒すことで、来世は畜生道におちてもかまわない、とひらきなおる態度は、大伴旅人という一知識人の特殊な個性だけには到底帰せられないような広い基盤に支えられていた。その点で「諸行無常」の観念は、一方では「なりゆくいきほひ」のオプティミズムとはげしく摩擦しながら、他方では、すべてを「永遠の相の下に」でなく、むしろ不断の変化と流転の相のもとに見る「古層」の世界像と、互に牽引し合うという奇しき運命をもったのである。」(集⑩ 同上pp.58-59)
 「根本的な現世否定の論理が日本の歴史意識の古層に入りこんだとき、仏教哲学における「三世」すなわち過去世・現在世・未来世の「因果」は、いずれも現世の歴史的な過去・現在・未来における因果的連鎖の意味をもちあわせ帯びるようになり、まさにその点でインド哲学に乏しい歴史的思考を豊饒にさせた。それだけではない。「いま」の肯定が、生の積極的価値の肯定ではなくて、不断に移ろいゆくものとしての現在の肯定である限り、肯定される現在はまさに「無常」であり、逆に無常としての「現在世」は無数の「いま」に細分化されながら享受される。「なりゆく」ものとしての現在は、次の「いま」の到来によって刻々過去にくり入れられるので、「いま」の肯定なり享受なりは、たえず次の瞬間-遠い未来でなく-を迎え入れようとする一種不安定な心構えとして現われざるをえない。
 こうして、「来世」が次の瞬間として、つまり「今の世」の線的(リニアー)な延長のうえに観念されるならば、きわめて淡泊に、また突然に死を選ぶ行動も生まれるであろう。生を享受しながら、生への執念がそれほど強くない、という両面性はここに根ざしている。‥「未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」(曽根崎心中)という‥近松版「愛の死」の結びの言葉にもまして、仏教的「来世」観の日本的変質を簡潔に表現しているものはなかろう。むろんこれは、「憂き世」の「浮世」への変貌に対応して、江戸時代が宗教的世俗化の途をどこまではるかに辿って来たか、の一つの指標にはちがいない。けれども、情死にはいたらぬにしても、「いま」の恋愛の享受をそのままに、いやヨリ自由な形で「来世」にまで持ちこもうとする希求は、「現世(このよ)には人言(ごと)繁し来む生(よ)にも逢はむわが背子(せこ)今ならずとも」(五四一)として、『万葉』歌人においてすでに十分発酵していたのではなかろうか。
 こうして「いまここなる」現実の重視は、仏教とキリシタンという二つの世界宗教の「否定の論理」の否定から出発した江戸時代の思想的文脈においては、(イ)空虚な観念の弄びに対して経験的監察を強調する際の、みずみずしさと、(ロ)所与の現実に追随する陳腐な卑俗さと、この両面をたえず伴い、しかもその両者が同じ人間の内面に微妙に交錯するのは、ほとんど避けがたい運命であった、といわなければならない。つまり‥歴史的相対主義について述べたように、「いまここに」の個体性の認識の成熟も、「近代化」と古層の露呈という二重進行の形であらわれるのである。…時・処・位の名における具体性・現実性の尊重という近世思想史の漸強過程(クレツシェンド)は、すでにこの時にはじまっていた。」(集⑩ 同上pp.59-61)
「歴史的認識は、たんに時間を超越した永遠者の観念からも、また、たんに自然的な時間の継起の知覚からも生まれない。それはいつでもどこでも、永遠と時間との交わりを通じて自覚化される。日本の歴史意識の「古層」において、そうした永遠者の位置を占めて来たのは、系譜的連続における無窮性であり、そこに日本型の「永遠の今」が構成された‥。この無窮性は時間にたいする超越者ではなくて、時間の無限の線的な延長のうえに観念される点では、どこまでも真の永遠性とは異なっている。けれども、漢心(からごころ)・仏心(ほとけごころ)・洋心(えびすごころ)に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした「古層」は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる格好の土壌となった。ところで、家系(いえ)の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に、「いま」の感覚は、現在ではあらゆる「理念」への錨づけからとき放たれて、うつろい行く瞬間の享受としてだけ、宣命のいう「中今」への讃歌がひびきつづけているかに見える。すべてが歴史主義化された世界認識-ますます短縮する「世代」観はその一つの現われにすぎない-は、かえって非歴史的な、現在の、そのつどの絶対化をよびおこさずにはいないであろう。しかも眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の持続」は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。このパラドックスを世界史における「理性の狡智」のもう一つの現われとみるべきか、それとも、それは急速に終幕に向かっているコメディアなのか-だが、文明論は所詮、この小稿の場ではない。」(集⑩ 同上pp.63-64)
「「原日本的世界像」というものを強いて図示すると、‥無限に続く直線として表わされます。‥「天地初発」(古事記)が、ダーッとすごいエネルギーをもって宇宙が「発する」わけです。そのいきおいで次々と神々が生ずる。…一方向的な線的(リニアー)な発展で、だから扇形の発展になっていくわけです。…それで結論的に言いますと、ここ(A点)に「無限」の天地初発のエネルギーが蓄わえられていますから、それがある時点時点に、ロケットみたいに到着し(B・C点)、そこからまた新しいエネルギーになって未来に進んでゆく。これが「天地の始は今日を始とするの理あり」という『神皇正統記』のテーゼです。つまり、「いま」がいつも天地の始めなんです。瞬間、瞬間、「いま」が天地の始めとして、「天地初発」のエネルギーがその瞬間、瞬間にロケットみたいに発射される。「いま」から出発する。ミソギで過去を洗い流せば「いま」から新しく出発できる。…いつも「いま」が天地初発だ、という意味での未来志向型で、一方向性をもっている。未来志向型ということは摂理史観のような、歴史の目標という考え方とはちがうのです。未来志向型ということは、今日から明日に向うということであって、明後日以後の遠い目標の設定にはならない。したがって日本の思想史をみますと、強い復古主義もなければ、逆にユートピア思想もない。…たえず瞬間瞬間のいまを享受し、その瞬間瞬間の流れにのっていく。したがって適応性はすごくある。…
 進化論の日本的な入り方がそうです。進化論と進歩の思想とどこが違うかというと、古典的な「進歩の思想」というのは‥完全社会を想定して、それへの進歩という考え方です。歴史のいろいろな段階にしても、パーフェクト・ソサエティーから逆算するんです。…ところが生物学的進化というのは、とくに社会ダーウィニズムは適者生存で、状況に対して適応した者は残るし、適応に失敗したものは滅びていくわけです。だからこれは、無限旋律になって、目標というか、終着点がないんです。…発展の思想の方が、有機体のエネルギーの成長という、‥日本神話の宇宙生成と親和性があるから、入って来ると燎原の火のようにひろがる。ゴール・オリエンテッドということはわれわれには苦手なんです。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.198-203)
「例えば、死を讃美するということが日本の国民性であるということがよく言われます。…しかし死の讃美がはたして日本の国民性と言えるのか…。万葉集の中にこういう歌があります。「生けるものついにも死するものにあれば、いまの世のある間(ま)はたのしくおわらな」…。どうせ皆死ぬんだから、せいぜい現世をエンジョイしようじゃないか、と。これはおよそ死の讃美から遠いものですね。現世に対するエンジョイの態度です。…これはこの歌だけではありません。例えば「この世にしたのしく終わらば来世(こんよ)には虫にも鳥にもわれはなりなん」…。これも大伴旅人の歌ですけども、先ほどのもそうですけども-むしろ居直って、この世をエンジョイしたならば、‥来世は虫、鳥-畜生になったっていい、いまの世をエンジョイしようじゃないか、と。…  これは万葉ですから大変古いのですが、少し下りまして今度は平安時代をとってみます。有原業平が‥死ぬのを覚悟して詠んだ歌であります。「ついにゆく道とはかねて聞きしかど きのうきょうとはおもはざりしを」これも有名な歌です。誰でも死ぬ、だから自分もどうせ死ぬんだと思ったけど、まさか昨日、今日とは思わなかった。その、いざ、病気になって死に直面したときの狼狽ですね、人間の、-それが非常によく出ていますね。  これは江戸時代の契沖が絶賛した歌です。…それをまた今度は本居宣長が‥『玉勝間』で‥褒めて「やまとだましいなる人は法師(ほっし)ながらかくこそありけれ」と言っている。‥「ついにゆく道とはかねて聞きしかど きのうきょうとはおもはざりしを」と狼狽する-これが大和魂なんですね。戦争中われわれがさんざん言われた"一死君国に殉ずる"なんてのとはおよそ違う、大和魂という言葉の使い方が。…  そういうふうに、死の讃美というものが日本の思想の国民的伝統であるということは、到底言えない。」(手帖2 「日本の思想と文化の諸問題(上)」1981.10.17.pp.8-10)
「日本の歴史意識のパターンの一つとして、不断に移ろい行く「いま」がその都度、視野の拠点となる「現在中心」志向を挙げたことがありますが、思想からステレオ装置にいたるまでの新製品好みもまた、戦後の状況におけるそうしたパターンの変奏でこそあれ、けっして突然噴出した現象とは思われないのです。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.17)