執拗低音

2016.4.26.

「日本が停滞的なのは、日本人があまりに時々刻々の変化を好むからである。日本にある種の伝統が根強いのは、日本人があまりに新しがりだからである。日本人が新しがりなのは、現在手にしているものにふくまれている可能性を利用する能力にとぼしいからである。目に見える対象のなかから新たなものを読みとって行く想像力が足りないからである。したがって変化は自発性と自然成長性にとぼしく、つねに上から、もしくは外部から課せられる。
 つまり、保守主義が根付かないところには、進歩主義は自分の外の世界に、「最新の動向」をキョロキョロとさがしまわる形でしか現われない。
 (上記のことの一例)
 「古典落語」の面白さは、筋(ストーリー)(素材)にあるのではない。それははじめからわかっている。わかっている話を話術で笑わせる。
 現代の落語家も聴衆も素材の新しさやクスグリの笑いを求める。だから芸をみがくことが怠られるし、また人気をうるためにはその必要もない。(昭四三)」(対話 p.247)
「伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、それは‥私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している。近代日本人の意識や発想がハイカラな外装のかげにどんなに深く無常観や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理やによって規定されているか‥。むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却(かえ)ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。…新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思いで」として噴出することになる。
これは特に国家的、政治的危機の場合にいちじるしい。日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる。…
…何かの時代の思想もしくは生涯のある時期の観念と自己を合一化する仕方は、はたから見るときわめて恣意的に見えるけれども、当人もしくは当時代にとっては、本来無時間的にいつもどこかに在ったものを配置転換して日の当る場所にとり出して来るだけのことであるから、それはその都度日本の「本然の姿」や自己の「本来の面目」に還るものとして意識され、誠心誠意行われているのである。
ほんらい、同じ精神的「伝統」の二面をなすところの、新たなもののすばやい勝利と、過去のズルズルな潜入・埋積とは、たんに右のようなかたちとして現われるだけではない。ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提からきりはなされて商品としてドシドシ取入れられる結果、高度な抽象を経た理論があんがい私達の旧い習俗に根ざした生活感情にアピールしたり、ヨーロッパでは強靱な伝統にたいする必死の抵抗の表現にすぎないものがここではむしろ「常識」的な発想と合致したり、あるいは最新の舶来品が手持ちの思想的ストックにうまくはいりこむといった事態がしばしばおこる。…
ちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異なるものと措定してこれに対面するという心構えの軽薄さ、その意味でのもの分かりのよさから生まれる安易な接合の「伝統」がかえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。」(集⑦ 「日本の思想」1957.11.pp.199-202)
 「日本ほど早くから「未開民族」の段階を脱して、その時代時代の最高度の世界文化に浴しながら、しかも人種・言語・国土、底辺の生産様式と宗教意識などの点で、相対的に同質性を保持して来た文明国は世界にもめずらしいんですね。‥日本の国籍をもつ人民の圧倒的多数は先祖代々この国土に住み、日本語を話して来たこと、しかも逆に日本語が通用する地域は、一歩この国土の外へ出るとほとんどないこと-というわれわれにとっては当り前のことが、世界的にみるとちっとも当り前ではない。ですからこうした当り前を当り前にしないで、これを「問題」として問うて行くことが必要です。そうして、なぜ土着対外来、内発対外発、日本対「外国」(複数)という対置法が好んで用いられ、しかもそれがしばしば主体性や自主性の主張と結びついて、くりかえし日本の思想史に現われてくるか、という問いも、実は、右のようなヨリ大きな問いの一環として考えられると思います。」(集⑨ 「日本の近代化と土着」1968.5.pp.369-373)
「儒仏が日本に入って来るまでは日本は「道」-つまり普遍的なイデーという観念を知らなかった。こうして儒仏などの教義から近代のイデオロギーにいたるまで、普遍的なものがいつも外から入ってきたために、内と外とが特殊と普遍に結びついて、内=特殊、外=普遍という固定観念になる。…しかも日本はそういう外来文明をただウノミにしたのではなくて、「内」なるなにものかがそれを変容させて、いわゆる仏教の日本化、儒教の日本化が行なわれる。このなにものかというのがクセモノで、それは宗教や思想の領域だけでなく、文化一般における日本的修正主義の原動力になっている。このなにものかを固有の「思想」として純粋培養しようとした試みが昔からいろいろ試みられたけれど、神道史に一番顕著にあらわれているように、これは抽象的ドクトリンにはどうしてもなりえないものです。ただ、このなにものかが‥民族的な等質性の持続ということと密接な関連があることはあきらかです。私は数年前から学校の講義では、これを日本思想の「原型」=ウル・ティプスとかりに呼んで、その内面構造をさぐろうとしていますが、なかなかうまく行きません。しかし、ともかく、この「外来」の普遍的イデーと「原型」との間の相互作用が、維新以来は、欧米文明の日本的修正による摂取という形でひきつづき行なわれるわけです。…ですから「土着主義」の問題性は、ウラをかえせば、普遍的なるものを、日本がそこから摂取した特定の外国、もしくは特定の外国群の文明と癒着させて理解する「疑似普遍主義」の問題性でもあるわけです。…この疑似普遍主義と、それへの反動‥としての「土着」的発想と、この何度もくりかえされる悪循環をどうして断ち切るか、それが今後の私たちにつきつけられているもっとも切実で、しかも安易な処方箋のない課題じゃないでしょうか。」(集⑨ 「日本の近代化と土着」1968.5.pp.373-375)
 「伝統ということをよくいいますが、伝統とは何かということをまず問うていかなければならない。伝統の解釈自身が多義的なんです。…比較的に支配的な考え方、といってもよく調べてみると、それはある時代以後になって初めて支配的になった考え方で、それも以前では必ずしもそうでなかったかもしれない。のみならずどんな時代を通じても支配的でない、つまり少数にとどまった考え方がある。その中から今日われわれの思想というものを鍛錬するうえに汲んでいくべき源泉がいくらもあるかもしれない。それだってやはり伝統を今日生かすという意味をもっている。ところが、伝統復活論者がいう伝統というのは多くの場合、主流的な考え方、それも実はある時代の支配的な考え方を日本の伝統といっている。非支配的な考え方、傍流であった考え方は伝統とみない。そこにそもそも伝統の考え方についてのドグマがあるんじゃないかと思うんです。過去の思想の中の何をわれわれの伝統として定着させるべきか、というのは、現在におけるチョイスの問題です。伝統というのはわれわれの創造力の源泉になるものです。何を源泉として生かせばいいかという場合に、われわれは長い過去の中から自由に選択すべきものです。ある考え方がこれまで支配的であったからそれによりかからなければいけないというのは、既成の過去にもたれかかった最も非創造的な考え方じゃないかと思います。支配的でない、つまり時代の過去とならなかったが、まぎれもなく過去にあった考え方というものからわれわれが自由に糸を紡ぎ出してもいいわけです。われわれの伝統をかえりみなければならないというときに、決してわれわれは単に旧来支配的な考え方に拘泥してはいけないということです。実際はそこがしばしば混同されて、伝統を復活しろとか、伝統を重んじなければいけないとかいうのは、支配的な考え方、それも極端な場合には、明治以後、支配的になった考え方のことをいっているにすぎない場合が多いんです。」(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.94-95)
「儒教思想の日本的な変容といっても、目的意識的な変様と、それから、まったく無意識とはいえないとしても、認識者自身がそれほど自覚していないのに、やはり経典の解釈の仕方が中国や朝鮮の場合と違ってしまう場合、そういうサブコンシャスなレヴェルで起こる変容と、この二つを一応分けて考える必要があると思うんです。…
 ‥本人は一生懸命聖人の道を説いているつもりなのに、その説き方なり、アクセントの置き方が、中国や朝鮮の場合と違っているというケースがある。この第二のタイプは、なかなかわかりにくいのですが、また無意識的あるいは下意識的な変容だけに、逆にわれわれの思考様式なり、価値体系をいっそうよく表現しているとも考えられ、少なくも文化の比較のうえでの一つの-けっして唯一のとはいいません-一つの手がかりになるのではないかという感じがします。
  第三に、これまで述べてきたのは、みな江戸時代の儒教のモディフィケーションについての説明ですが、しかし、今度は江戸時代にかぎらず、もっと古くから、もっと持続的にある、日本的な諸条件との関連で起こった儒教の変容という側面に光をあてることもできます。
 …古代からひきつづき存続している-つまり江戸時代の社会や体制にかぎらない、社会的文化的条件と関連して起こる日本的変容が、儒教についてもあります。ですから、儒教のモディフィケーションといっても、特殊的に江戸時代に関連するものと、もっと長期的なカルチュアに根ざしているものと、この二つの面からとりあげなければならないわけです。
 …つまり儒教の範疇の日本的変容というときに、各時代を通じて共通にみられるある種の思考様式の日本的アクセントが江戸時代の儒学にも現われている、ということもあれば、とくに江戸時代における儒学でなければみられないような変容もある。さらに第三に、270年の江戸時代のなかで、変容の仕方自体がさらに、前期と末期とでは変遷しているという問題があるわけです。
 この第三の問題は、‥幕末維新においてヨーロッパ文明と接触する場合に、その理解のためにどういうふうに儒教的な範疇が用いられたかというときに、この第三の問題は顕著に出てくる。…
 しかし同時に、この第三の問題にしても、どうして幕末にそういう変様が日本で可能であったのか、どうして同じような外圧の状況に置かれながら、あるいはヨーロッパの近代国家体系を基礎にした国際法の理解にあたって、儒教の範疇が動員される仕方が、日本の場合と中国の場合、あるいは朝鮮の場合と違ったの〔か〕をさらに問うていくと、またさきの第一、第二の変容の問題にかえっていくと思うんです。」(別集③ 「日本における儒教の変遷」1974.3.pp.185-188))
「ここしばらく私は、日本思想史における連続性と変化という問題について研究してきた。この仕事は三つの部分に分かれる。第一の部分は歴史意識に関する論文で、「歴史意識の「古層」」という題で4年前に日本語で発表された。第二の部分は日本史を通じてみられる倫理意識にあてられる。そして研究計画の第三の部分は、まつりごと(政事)の構造を分析することにより、政治意識の問題を扱うことになろう。今日の午後に私が話すのは、部分的ながらこの第二の部分、すなわち倫理委識に関するものである。
 …日本はなみはずれた等質性によって特徴づけられている。それは世界の高度に産業化した諸国のなかではとても珍しい。この等質性は日本歴史の過程で、連続性がいかに変化に関係するか、その仕方に深く影響してきた。…私が問いたいのは、歴史的変化が日本的経験の底に横たわる基本的な連続的要因にもかかわらずではなく、まさに連続的要因ゆえに起こったのではないかということである。そして日本の例外的な等質性がとくに関連しているのは、この文脈においてであると考える。そうした連続性がきわめて多様な歴史的変化を通じて長く存続したのは、この等質性によるからである。…
 その連続性が日本の経てきた歴史的変化といかに関連しているか、という‥研究に取りくむことで、私は日本思想史におけるバッソ・オスティナートbasso ostinato〔以下では執拗低音と訳す〕と自分が呼ぶものを明らかにしたい。…バッソ・コンティヌオbasso continuo〔通奏低音〕から区別された執拗低音は、低音のくり返すパターンで、主旋律に色彩を与えるが通常は主旋律を構成しないで下部に横たわるモティーフである。
 日本思想史の主旋律に関するかぎり、‥大抵それらは古代以来、外からの輸入品であった。…
 しかし‥輸入された直後に変容をうけた歴史の経過を綿密に調べれば、それぞれの場合に著しく似たある思考のパターンが存在し、そしてこれらのパターンが原因となって原物に微妙な変化を与えていると思う。このくり返すパターンこそ私が日本思想史の執拗低音と呼ぶものである。」(『別集』③ 「日本における倫理意識の執拗低音」1976年 pp.200-202)
「日頃私が感じておりますことは、‥われわれの歴史意識ということであります。どういうことかと申しますと、日本人の歴史意識というものはいま中心主義であるということです。ということは、逆に言えば、過去というものは済んでしまったことなんです。過去を語るということは、済んでしまった、或る時間的に過ぎ去った過去のことを語る。つまりいまと関係のない過去のことを語る。思い出というものはそういうふうにして話されます。またそういうふうにして聞かれます。
 いつもいまの問題、ないしいま起こっている事柄に興味が集中している。…これは非常に根深い問題であり、必ずしも世代の差というようなことでなく、もっとわれわれを深く規定している考え方ではないか。…
 つまり過去と現在とを二重写しにして見るという眼が、われわれにはいささか乏しいのではないか。これを仮に私は"歴史的直線主義"と称する。過去、現在、未来を線で現す。線で現されますから、過ぎ去った過去は或る線のあっち側にあるわけです。未来はこっち側-反対側にあり、現在はここにある。したがって過去は、もう過ぎちゃったことであります。それでおしまい。‥それは少なくとも現在のこととは何のつながりもない。…
 ですから、われわれとしては、日本人を深く規定しているそういうものの考え方というものを考慮する必要があるのではないか。」(手帖4 「一九五〇年前後の平和問題」1977.5.25.pp.3-5)
「数年前に「歴史意識の「古層」」(『丸山集』第一〇巻)という論文を書いた時、丸山は日本思想の連続の問題、つまり変化の問題よりも連続性の問題に関心を払うようになったというふうに解釈されたのですけれども、それは正確ではないのです。そうではなくて、日本の思想なら思想が変化していくパターン、それを取り出してみたいということです。変化しないパターンではなくて。変化していく仕方、その変化していくパターンの特徴を問題にしたい。
 したがって、連続性と非連続性という問題と少し違うのです。古来共通している天皇制みたいに、昔からずっと続いている問題に興味をはらっているのではなくて。例えば思想史で言えば、儒教が日本に入ってきて修正される、その修正されるパターンと、それから明治以後、自由主義とか民主主義とかヨーロッパ思想が入ってきて、日本で修正されていく、そのされ方のとの間には、かなり共通性がある、僕に言わせれば。それはそのパターンの共通性の問題なのです。しかしそれは変化しないということではない。逆に日本の思想くらい段々テンポが速くなって、現代に至っては六〇年代の思想とか七〇年代の思想とか、極端に言えば週刊誌単位で変化していくでしょう。その変化好みも一つのパターンじゃないですか、そうでしょう。そういうパターンを取り出したい。
 なぜそうなのか。そういうパターンが昔から、ある時代ごとに繰り返されていく。繰り返されて起こる、そういう基本的なパターン、それが外来思想の修正過程を特徴づけている。そういう形でしか、僕は日本的なものというのは抽出できないのではないか、と。‥外来思想を修正していくその仕方。これは思想だけではなく、広げれば文化の問題でもあると言えるのです。中国から入ってきた建築とか絵画とか、決して機械的な模倣ではないんですよ。奈良時代でも。平安時代になればなおさらそうですけれど、修正を施しているでしょう。その修正そのものに日本的なものが現れている。思想も同じだと思うのです。言語もそうでしょう。…
 しかし、そのこと自身がまた日本的なのです。そういう意味では、そこに日本の特徴が現れている。だから変化に対する不変化という考え方は、僕は間違いだと。‥変化の仕方そのものに基本的な同じ特徴があるのではないか、ということに僕の関心が向けられる。」(手帖26 「第四回大佛次郎賞 受賞インタビュー」1977.9.25.pp.21-22)
「日本思想史において主旋律となっているのは、教義となったイデオロギーなんです。儒・仏からはじまって「自由主義」とか「民主主義」とか「マルクス主義」とか、こうみてくると「儒教」「仏教」を含めて全部これは外来思想なんです。それでは日本的なものはないかというと、ちゃんとした教義をもったイデオロギー体系が日本に入ってくると、元のものと同じかというとそうでなく必ず一定の修正を受ける。その変容の仕方、そこに日本的なものが現われているのではないか。…そこに共通したパターンがあり、それが驚くべく類似しているんです。それが「古層」の問題なんです。だから、「古層」は主旋律ではなくて、主旋律を変容させる契機なんです。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.180-181)
 「最初、一九六三年の講義ではprototype「原型」と言ったんです。‥「原型」といいますと‥なにか古代に日本人の世界像が決定的に定まってしまったというような非常に宿命論的な響きがするでしょ。…少なくもそういう誤解を招く。そこで今度は‥表現を「古層」に変えたわけなんです。「古層」というと、これは地層学的な比喩です。…「古層」というと、後々の時代まで、深層をなしているわけで、時間的にとっくの大昔に決まってしまったという感を与える「原型」に比べると宿命論的な色彩がより少ない。大地震でもあれば、「古層」までひっくりかえってしまう可能性もあるわけです。それからまたある時代に深層が地上に隆起してくるとか、いろいろな可能性があり、それだけ思想史のヴァリエーションを説明しやすい、と考えたのです。ところが、政治意識の「古層」を外国で発表した時、もう一度表現をかえてbasso ostinatoとしました。‥現在では比喩としては一番これが適当だと思っています。低音部に出て執拗に繰り返される音型です。それではなぜ表現として「古層」を、もう一度変えたのかというと、日本はマルクス主義の影響がとくに歴史の分野では非常に強いですから、「古層」というとマルクス主義の「土台」ないし「下部構造」‥と混同されるんです。‥マルクス主義の場合には「土台」ないし「下部構造」が究極的に上部構造を制約する。…古層がそれと混同されると、究極的には「古層」が日本の思想史を制約するということになってしまう。これは私の意図とは、くいちがってくる。単に、時間的にいって相対的に一番古く、したがって地層の一番下にある層にすぎないわけですから。その上にいろんな層が積み重なっているだけのことです。「究極的」原因という意味はない。…basso ostinatoというのは執拗に繰り返される低音音型ですから、ひとつの音型があって、それがいろいろ姿をかえて、繰り返し出てくる。…日本思想史でいうと、主旋律は主として高音部に現われる「外来」思想なのです。ところが儒教・仏教・功利主義・マルクス主義‥そういう外来思想がそのまま直訳的にひびかないで、日本に入って来るとある「修正」を受ける。それはbasso ostinatoとまざり合ってひびくからです。そこで、こういう外来思想を「修正」させる考え方のパターンを「歴史意識」「倫理意識」「政治意識」、その三つの面から考えてみようというのが私の意図です。」(集⑪ 同上pp.181-184)
 「古層のパターンはあくまで外来思想と一緒に交り合ってシンフォニックなひびきになるのであって、それ自体は独立の「イデオロギー」にはならない。低音の音型を、それだけで主旋律に-というよりもむしろ独自の単旋律にしようとしたところに、平田学から戦争中の皇道精神までのあらゆる日本精神イデオロギーの悲喜劇性があったわけです。…純日本的なものを一つの「教義」という意味でのイデオロギーにすることは、外来思想を借りないではできないんです。では、日本思想史はたんに外来思想のつなぎ合わせで、その間に「日本的なもの」はないのかというと、そうではない。それが低音に執拗に繰り返される音型と私が呼んだものです。これが未来永劫続くというのではありません。しかし、日本の地理的条件とか、‥日本民族の等質性(ホモジェニティ)に支えられて、文化接触のこういうパターンはまだ当分続くのではないでしょうか。」(集⑪ 同上pp.189-190)
「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 同上pp.222-223)
 「日本の執拗な低音音型-そういうものを成りたたせてきた歴史的地理的条件というのは、現代のテクノロジーとコミュニケーションの発達によって急速に解体しつつあると思います。ウチ・ソト思想だって長くは続かないとは思うんだけれど、ただ惰性はまた、非常に強いから、われわれの根本的な思考様式はそう急には変わらないです。精神革命というのは口でいうほどやさしくない。たとえ現実は変わっても、ただ思考惰性としては、いろんなヴァリエーションとして生きつづけている。‥だから過去をトータルな構造として認識することそれ自体が変革の第一歩なんです。逆にいえば、それをしないで、前の方ばかり向いた未来志向だと、下意識なるものが何かの折に噴出して、それをコントロールできなくなる。‥だから下意識の世界を不断に意識化するように努めねばならない。意識化というのは、認識の対象とするということであって、それを正当化するとか、合理化する、ということではないんです。」(集⑪ 同上pp.223-224)
「日本政治思想史でも、例えば何といってもわれわれの現在の生活というのは、明治維新というのが非常に大きな転機ですから、明治維新から話を始めて現代に来てもいいじゃないか、その方がわれわれの現代の生活に直接近い話になるじゃないか、という疑問が出るかも知れません。私も事実、非常に昔の頃-昭和二十五年頃までは、大体、幕末から今度の戦争ぐらいまでをテーマにしていたのでありますけども、「それではいけないんだ」ということをだんだん気がつくようになったのです。…
 というのは、‥現代に時間的に近いものほど何か私どもに直接かかわりがある、時間的に遠いものほど私たちの現在のものの考え方なり感じ方なりから遠い、縁が薄いのだ、というイメージがあるんじゃないか。‥時間的に近いものを論ずれば、それはわれわれに切実なもの。時間的に遠いものを論ずると、何か縁がないことを論じている。はたして本当にそうだろうか、ということをもういっぺん尋ねてみる必要があるんじゃないか。
 これはあらゆる領域でそうなのですが、特に思想と文化の領域ではそうなのでありまして、むしろそういう領域では、時間的に遠く離れて距たった見えるものが、実は意識しないで-深層心理学の言葉を使うならば-深層、下意識のレベルでわれわれを深く規定しているのではないか。…一見、現代の生活に縁のないように見える千何百年前の記録に見えるようなものの考え、思考様式、あるいはその中に現れている発想というものが、実は深く私たちのものの考え方の底辺に横たわっている、生き続けている。ただそういうものが昔あったというだけじゃなくて、現在生き続けている。必ずしもわれわれはそれを意識していない。思想としては意識していない。思想というと大変ハイカラなものを意識する。しかし実はそのハイカラなものを受けとる受けとり方の中には、われわれが意識しないで、何千年の昔からわれわれの意識の底に沈んでいるものがあるんじゃないか、ということであります。」(手帖2 「日本の思想と文化の諸問題(上)」1981.10.17.pp.5-7)
 「それでは歴史的変化を超えて継続している思想的契機というのは何もないのか、というとそうでない。ある、-私は確かにあると思います。どんな歴史においても、非連続的な契機、あるいは変わる契機ですね。-変わる契機と変わらない契機と両方あります。その両方を押さえていかないと歴史にならない。…ですから、国民的伝統と軽々しく言えないということは、必ずしも歴史的変化を超えて一貫したものがないということではないわけです。問題は、その歴史的変化を超えて執拗にズーッと残ってゆくもの、それをどうやって掴まえるのか。われわれの通念ではなくて-さっき言ったように、武士道が伝統だとか、あるいは死の讃美が伝統だとか-、そういう通念を超えて、どうやってとらえていったらいいかということは、問題にしなければいけない。…
 これはちょっとわれわれが視点を転換してみたらどうか。つまり、或る変わらない契機があるから変わるんだ、と。変わらない契機にもかかわらず変わるんじゃなくて、或る変わらない契機があるからむしろ非常によく変わる、ということがあり得るんですね。非常に逆説的ですけど、そういう考え方をもういっぺんしてみる。必ずしもそういう変化的な契機と不変化的な契機と対立させないで、或る不変化的なというか、持続的な契機ゆえに、むしろ変化を好むということがあるかも知れない。そういうふうな仕方で二つの矛盾したものが関連している。
 私はそういう問題の立て方をしてみる必要があるんじゃないか、それによって、日本の思想・文化-制度の問題は一応度外視しますが-というものの或る側面というものが、少なくとも解明されるのではないかと思います。」(手帖2 「日本の思想と文化の諸問題(上)」1981.10.17.pp.14-15)
 「よく日本人は変わり身が早い、と言いますね。‥いつも最新の流行を追って次々と衣装を変えてゆくという傾向が日本人に顕著である。これを国民的伝統と言うとこれはおかしい。ただしそういう傾向がないかというと、どうもありますね。…
 そうすると、歴史的変化の底に執拗に流れている或る考え方の故に、めまぐるしく変わる。‥つまり、特定の時代‥を超えて流れる思考の、或るものの考え方のパターンがあって、或る型-洋服で言う型ですね-があって、その方が執拗に残存しているが故に、その型自身のために非常に変化を好む。変化を好むか、あるいは外の世界の変化に対して敏感である、-そういうふうに考えることが可能であります。つまり、非常に逆説的に響きますけど、不変な或る契機のために見事に変身していく、ということであります。」(手帖2 同上p.15)
 「私が文化接触というのは、-どんなに一方的な衝撃にせよ-何百年のちがった伝統をもった構造的に異質な文化圏との接触の問題なのです。…外来の-異質的な文化との「横の」接触というものと、それから日本史における段階区分の不明確さという問題、この二つの問題について思想史的にその意味を考えるということが、戦争の経験を経て、私にとって一層切実な課題になって来たわけであります。」(集⑫ 「原型・古層・執拗低音」1984.7. pp.125-131)
 「右の二つの問題が具体的にどういう形であらわれるかと申しますと、どうしてもこれは‥日本の地理的な位置と、それに関連した日本の「風土」と申しますか、そういう要素を考慮せざるをえなくなる。…
 一九五八年(昭和三三年)度の講義のプリントによるとはじめの方で、「日本思想史の非常に難しい問題というのは、文化的には有史以来「開かれた社会」であるのに、社会関係においては、近代に至るまで「閉ざされた社会」である。このパラドックスをどう解くのかということにある」と言っております。…絶えず新しいメッセージを求めるということと、新しい刺激を求めながら、あるいはその故にか根本的にはおどろくほど変わらないということ-この両面がやはり思想史的な問題としても重要なものになってくるのではないか。たとえば、‥キリシタンの渡来とその「絶滅」の運命について…日本の場合にはおどろくべく速く浸潤するけれども、絶滅するときには、また‥おどろくべく速く姿を消す。これを私は集団転向現象というのです。集団転向してキリシタンになるけれども、また集団転向して棄教する。‥これが‥開かれた文化と閉ざされた社会の逆説的な結合にどうも関係があるのではないかという問題を私は一九五〇年はじめごろから考え出したわけです。…そういう観点(丸山:全体構造としての日本精神史における「個体性」)から、さきほど指摘した矛盾した二つの要素の統一-つまり外来文化の圧倒的な影響と、もう一つはいわゆる「日本的なもの」の執拗な残存-この矛盾の統一として日本思想史をとらえたいと思うのです。…日本が一面では高度工業国家でありながら、他面においては、それこそ以前から「未開民族」の特徴といわれた驚くべき民族等質性を保持しているのは否定できません。観察としてはそんなむつかしい事柄ではないのです。ただこの両面性が、思想的にどう現われるのかというのは、日本思想史を解明するうえに看過できない重大な問題だ、と思うのです。」(集⑫ 同上pp.131-143)
 「要するに私は右のような方法論的な遍歴を経て、古来日本が外来の普遍主義的世界観をつぎつぎと受容しながらこれをモディファイする契機は何かという問題を考えるようになったわけです。…外来思想の「修正」のパターンを見たらどうか。そうすると、その変容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる。…私達はたえず外を向いてきょろきょろして新らしいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない。そういう「修正主義」がまさに一つのパターンとして執拗に繰り返されるということになるわけです。…
変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、といいたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変るけれども、にもかかわらず一貫した云々-というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変る、という事です。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。‥よその世界の変化に対応する変り身の早さ自体が「伝統」化しているのです。
「よそ」と「うち」ということは必ずしも外国と日本というレヴェルだけでなく、色々なレヴェル-たとえば企業集団とかむらとか、最後には個人レヴェルでひとと自分という意味でも適用されます。つまり一種の相似形的構造をなして幾重にも描かれることになります。…私達は、不変化の要素にもかかわらず、ではなくて、一定の変らない-といってもむろん天壌無窮という絶対的意味でなく、容易には変らない-あるパターンのゆえに、こういう風に変化する、という見方で日本思想史を考察するよう努力すれば、日本思想史の「個性」をヨリよくとらえられるのではないか、と思うわけです。」(集⑫ 同上pp.144-155)
「日本思想の特質ということは、『日本政治思想史研究』を書いたときから考えていました。だって、江戸時代の儒教をやっていると、日本の儒教の特質ということにすぐぶつかるんですから。具体的に言うと易姓革命問題なんです。中国はしょっちゅう王朝が変わるでしょ。それ[を正統化するのが儒教です]、暴君は放伐していいというのが儒教思想ですから。日本は暴君放伐を機械的に適用すると困っちゃうわけです。日本はなぜ王朝が変わらないのか。だから、中国儒学をそのまま適用しちゃいけないという考え方が江戸時代の初めから出てきてるわけです。‥その問題を江戸の儒者は儒者なりに、国学者は国学者なりに、解こうとしているわけです。
 だから、‥勉強して、ある問題に直面して、その問題を解こうとした。だから、僕が純粋に頭のなかで考えたことは非常に少ない。そういう先人の業績を受けているわけです。受けていて、そして日本の思想史というものにおける不変化の要素と変化の要素との関連というものは何だろうかということが、僕の問題意識にあった。」(手帖19 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(上)」1985.3.31.p.25)
「「なる」「うむ」「つくる」という三つの観念を、いかにも私がそういう範疇を初めに考えて、それからだんだん論理的に書いたと思われるかもしれませんけれども、そうじゃないんですね。私が‥助手時代から読んできた日本の、歴史書に限らない書物、そこから得た、ほとんど直感に近い全体的な感じが、先ずあるんです。…助手時代から日本の本を見ていた時に、私の中に浮かんだ直感です。直感を後から理屈づけるんです。」(手帖36 「『忠誠と反逆』合評会 コメント」1993.4.24. pp.12-14)