文化接触

2016.4.26.

「日本人の内面生活における思想の入りこみかた、その相互関係という点では根底的に歴史的連続性があるとしても、維新を境として国民的精神状況においても個人の思想行動をとって見ても、その前後で景観が著しくことなって見えるのは、開国という決定的な事件がそこに介入しているからである。…開国という意味には、自己を外つまり国際社会に開くと同時に、国際社会にたいして自己を国=統一国家として画するという両面性が内包されている。その両面の課題に直面したのがアジアの「後進」地域に共通する運命であった。そうして、この運命に圧倒されずに、これを自主的にきりひらいたのは、十九世紀においては日本だけであった。
 しかしそれだけに、‥思想的伝統(中国における儒教のような)の強靱な機軸を欠いていたという事情から来る問題性がいまや爆発的に出現せざるをえなかったのである。…国家生活の統一的秩序化と思想界における「無秩序」な疾風怒濤とが鮮やかな対照をなし、しかも両者が文明開化の旗印のもとにしばしば対位法(コントラプンクト)の合唱をつづけた。…
さし当り注意したいことは、伝統思想が維新後いよいよ断片的性格をつよめ、諸々の新しい思想を内面から整序し、あるいは異質的な思想と断乎として対決するような原理として機能しなかったこと、まさにそこに、個々の思想内容とその占める地位の巨大な差異にもかかわらず、思想の摂取や外見的対決の仕方において「前近代」と「近代」とがかえって連続する結果がうまれたという点である。そこに胚胎する諸現象を以下もう少し具体的にのべて見よう。」(集⑦ 「日本の思想」1957.11.pp.197-198)
「日本の場合には、儒教道徳を入れたけど、独自の変容をほどこし、恭順より活動を重んじた。…行動主義が忠君愛国のイデオロギーにも出てくる。中国では孝が優先するけれど、日本では忠が優先する。この場合の忠とは、受動的な君主への服従ではなく、無限の君恩にたいする無限の恩返しを行動によって実証して行こうというダイナミズムを含んでいた。とくに一旦緩急ある場合には、集団の目標に向って献身することが最高の徳になる。だから"尊王論"が幕末には非常にダイナミックになり、ヨーロッパ諸国に対抗するためには、システム内部の和など無視しても、忠の名において思い切った改革を断行するエトスとなる。明治以後、そうした積極的目標のための奮闘の精神が富国強兵と結びつく。」(集⑧ 「武田泰淳「士魂商才」をめぐって」1959.1.p.8)
 「僕はそういう活動精神は徳川以前のものだろうと思います。やはり荘園制の解体期、南北朝の内乱から戦国時代に到った時は、日本人民のエネルギーが一番高揚された時代ですよ。‥下剋上といわれたエネルギーが奔騰した時代で、堺や山城の一揆のように民衆の自治組織の萌芽もあった。この時代の茶の湯とかお能はみんな民衆芸術だし。.日本の民衆の文化レベルは切支丹の宣教師を感歎させた。…そのエネルギーが徳川になって箱の中にがっちり入れられてしまう。その箱が開国によって破られて、もう一ぺん奔騰するのだが、やがて、再び天皇制の枠にはまってしまう。…非常に小心翼々としたスタビリティの意識は徳川封建制が完成されていった過程において出てきたものでしょう。」(集⑧ 同上p.9)
 「だから僕は第三開国説ということを言っているんです。第一開国は切支丹による開国だったが全国鎖国に終る。第二開国は明治維新でイデオロギー的には鎖国、つまり使い分け開国に終った。第三開国は大戦後の現在で、ここではじめて全面開国になった。今後どうなるか分からないですが……。」(集⑧ 同上pp.9-10)
 「長期的にいえば、今度こそ本当の開国なんだな。世界のあらゆる価値体系に日本がストリップになって身をさらしたのは初めてですよ。これまではみんな支配層が使い分けてしまった。…民衆は上から下がってくる外来文化を受け入れる。上と下の文化的開きができて、下は鎖国同様になる。民族大移動も他民族の大規模な侵入も経験しないので、今までは仕方がなかったと思いますね。国際的なコミュニケ-ションに民衆が直接さらされるようになるのはこれからですよ。」(集⑧ 同上p.11)
「いわゆる外来思想を変容する日本的なものをどうやったら取り出せるのかというのが日本思想史の課題です、」(手帖3 「日本の思想と文化の諸問題(下)」1961.10.17.p.16)
 「時勢に対して断固として普遍的な理を守るという態度は非常に弱い。これが、雪崩を打って転向するということと関係があるわけです。…状況変化に対する適応性というものにも現れる。つまり状況追随主義になっても現れるし、状況変化になっても現れる。」(手帖3 同上p.25)
 「テクノロジーの発達により過去の地理的条件というのは急速になくなった、なくなりつつあるということが言い得る。そうすると、どういうことになるか。永らく日本の特色をなしていた底辺の等質性というものが他の文明諸国のように崩れてゆくのは、時間の問題だということなんです。」(手帖3 同上p.26)
 「今までわれわれには模範国があった。これはさっきいった地理的条件。模範国から非常に高度の文明を輸入してきた。模範生というのは学習能力はあります。解答を出す能力はあります。模範答案をつくる能力はあります。残念ながら自分で問題をつくる能力は弱い。人が出してくれた問題を解くのは実に得意です。これはゴールの問題で言いますと、目標を人から与えられたら、さっきの勢ですね、エネルギーですごく張り切る。戦争というと一億火の玉になります。…これを目標達成能力と言うんですね。しかし目標は自分でつくるんじゃないんです。目標は外から与えられるわけです。戦争とかオリンピックとか。そうするとみんな張り切っちゃうんです。日本の会社のすごい生産力というのはそこなんです。‥「きよきこころ」「あかきこころ」で会社に奉仕する。自分で目標を設定するんじゃない。況や新しい目標をつくり出して来るんじゃない。…つまり新しいゴールというものをわれわれは設定し、あるいはプルーラルな、多元的な目標の中からわれわれの目標を選び出す能力というもの-つまり問題をつくる能力、模範解答を出す能力じゃなくて、そういうものを養っていかなきゃいけない。…
 良いものは放っておいても伸びるんです。悪いものは自覚しないとなかなか除去できない。そこでわれわれはそういう意味での自己批判の精神というものを養わなきゃいけない。」(手帖3 同上pp.29-30)
「僕は日本は地理的環境、いわば、温室みたいにして、離れ小島でズーッと来て、異民族との接触ないし異文化との接触を大規模にしなかったにしては、驚くべく豊穣な文明を育てた国だと思いますね。
 ところが今や、その条件というのは、決定的に崩れているということです。コミュニケーションと相関的だから、今後は全然違った環境になる。今度は世界の荒波の中に出てゆく。その時はじめて日本の玲瓏(れいろう)の伝統は問われるんで、今までのような条件というようなものは存続しない。全然環境が変わっているから、今までの伝統みたいなものでやっていこうと思っても、とてもダメだと。‥一度八方破れになって世界の荒波に乗りだして行かないと、どうにもならないんじゃないか。あの、伝統の中から発掘しろとか何とかいう発想は、もうかなわんという感じがするんです。」(手帖48 「丸山先生にきく 生きてきた道 その3」1965.10.15.pp.42-43)
 「日本人というものが、転変する状況とか、雑多なものを団子みたいにまとめちゃって、それで何かこう一種の変種を作りだしてゆく、その秘密ね。飛鳥文化なんかにしたって、決して直輸入じゃないですよね。‥建築なんかを見たって、ちょっとmodifyしていますよね。はじめからmodifyしていますね。‥
 それからcuriosityと言うのかな、好奇心。これは驚くべきですね。知的好奇心の高さということ。それから、一刻も現在の自分に安んじない。そういう意味で非常に非保守的じゃないでしょうか。こんなにあぐらをかかない国民ってないと思うんだ。つまり、習得learningしたいという。凄い国民ですよ、実際。‥働き者じゃないでしょうかね。そりゃ不思議ですね、どうしてこんなに働き者なのか。これは、僕も解けないな。‥
 modifyするというのは、grand schemeがないんですね。ユートピアを構想する能力がないということは、確かだ。日本の思想の中にはほとんどユートピアっていうのがないから。だけど、主体的だっていうことでしょ、modifyするということは。優秀な文化があって、それをただ優等生みたいに習得するっていうだけでもない。東大の秀才なんていうのは、ただ習得するだけの能力ですよ。教師のmodifyする能力がないんですよ。だから単なる優等生。よく日本人は優等生だと言われるけれど、優等生っていうのは、ただ教師の言うことを書くだけなんですよ。それだけじゃないと思うんです、modifyするというのは。これはむしろ主体的。それをアメリカの日本研究者なんかは強調しますね。Cultural identityを失わなかった。でなければ、隣に中国みたいな、どえらく優秀な文明民族がいたら、とても圧倒されちゃうんだけれど、借りてくるものだから、ちょっと中国文明とも違ったものができる。‥つまり、決して直輸入じゃないんですよ。‥はじめからmodifyしている。林羅山自身がもう違っているんですから、朱子と。理気論において、「気」の方にアクセントがある。ところが、それが「働き主義」と何か関係があるんですよね。「気」が付くというのは、元気があるとか、意気盛んなりとか、気っていうのが好きなんだ、とにかくエネルギーが。」(手帖48 同上pp.46-47)
 「昔から人口が稠密(ちゅうみつ)でしょ。これまたなぜ稠密だか分からないですけれども。しかも平地が少ない。ということは、やっぱり働かざるを得ないという、非常に単純なことなんだけれど。〔遊牧民族のように〕見渡す限り草で、ちょっと移動すれば何か食うものがあって、という場合には働かないですよね。移動してしまえばいいんだから。やっぱり、そこを一所懸命耕して食わざるを得ない、という状況にあったということだと思います、一つは。‥
 それから、僕がしょっちゅう言う解釈だけれど、つまり世界的に優秀な中国文明と適当な距離にあったということですね。朝鮮みたいに近いと圧倒されちゃって独自性がなくなっちゃうし、ポリネシア群島みたいに遠いと、これは全くいつまで経っても未開発社会の研究材料みたいになっちゃって……。…いつも一定の距離で、しかも圧倒されない程度に外から刺激がきている。一定の距離をもっているものだから、主体的に余裕がある。それをちょっと変更する。したがって文化的・民族的な主体性と連続性を付加されて。〔だけど問題は〕その条件が今後も続くかどうかということなんですね。今までの説明としては、それはそれでいいと思うんだけれど、続かないんじゃないか。‥
 僕は多かれ少なかれ人間の平等を信じるけれども、現実に、経験的に見て、ちょうど優等生と劣等生があるように、民族的にcreativeな民族とそれから寝そべっていて何もやらない民族とあると思うんですよ、少なくとも歴史的には。これは固定したものじゃないけれど。これからはどうなるか分からないけれども。そういう意味では〔日本人は〕割合優秀な民族じゃないか、ということの根拠として言うわけですよ。…」(手帖48 同上pp48-49)
「世界の思想史をほんのちょっとでも勉強すれば、特殊から普遍への「突破」には、個人の場合にも民族の場合にも、質的な飛躍-宗教的にいえば、「回心」が行なわれており、ズルズルの連続的発展ではない‥。…
 土着対外来という発想にしても、またそれとしばしば結びつく、内発的対外発的という発想にしても、そこに共通して、土着的=内発的なものがすなわち主体的なものだという価値判断が伴っていますね。…ここには二つ問題があると思うんです。一つはいかなる内発的な文化も、まったく異質的な他者の文化に刺激され、その火花を散らす接触の過程を通じて新しい創造と飛躍が行なわれるという当然の事理が忘れられ、発生論と本質論とが混同される傾向があるということです。もう一つは、主体性という場合にも、個人の主体性と、日本民族の他民族に対する自主性という二つの事柄がゴッチャになるということです。「日本人の主体性」などという表現は、日本語では単数と複数の区別がはっきりしないだけに、「くに」という表現と同様に呪術性が強いんです。歴史的にみても日本のナショナリズムは「くに」への帰属意識を中核としているから、個人の次元ではかえって「くに」もしくは日本人集団へのもたれかかり、つまり非主体的になってしまうという皮肉が見られます。
 ‥たとえば、日本の神道が日本の民族宗教だという場合と、ユダヤ教がユダヤ民族の民族宗教だという場合との、質的な相違ですね。産土神(うぶすなかみ)からアマテラスにいたるまで、日本の神々はまさに日本の国土ときりはなせない特殊神ですが、エホバは初めから世界神で、ただユダヤ民族と契約で結ばれている。エホバから見放されたカインは、自分と途で会う者は誰でも自分を殺すだろうといいますが、こういう絶対的な孤独感-ちょうどホッブスの自然状態における個人のおかれた状況のようなものは、日本人の想像を絶していますね。日本の宗教を共同体宗教とよくいいますけれど、日本の場合、共同体が単一でなくて、複数的に重畳している。だから一つの共同体から追放されても、他の共同体へ帰属することで救われる。「捨てる神あればひろう神あり」という命題は、シチュエーションごとに神をもっていなければ成り立たないわけです。そうしてこういう複数共同体をそのままかかえこんだ形で「くに」共同体がある。「持ちつ持たれつ」の人間関係はこうした基盤の上に成り立っている。カインのような壮絶な孤独におちこまないのは有難い国ですけれども、その反面、精神の内面で一切の環境への依存を断ち切ることがむつかしいから、それだけにひとりひとりが自分の肩に民族の運命を背負い、民族の方向を決定する主体だという自覚も成長しにくいんじゃないですか。
 しかし、日本ほど早くから「未開民族」の段階を脱して、その時代時代の最高度の世界文化に浴しながら、しかも人種・言語・国土、底辺の生産様式と宗教意識などの点で、相対的に同質性を保持して来た文明国は世界にもめずらしいんですね。‥日本の国籍をもつ人民の圧倒的多数は先祖代々この国土に住み、日本語を話して来たこと、しかも逆に日本語が通用する地域は、一歩この国土の外へ出るとほとんどないこと-というわれわれにとっては当り前のことが、世界的にみるとちっとも当り前ではない。ですからこうした当り前を当り前にしないで、これを「問題」として問うて行くことが必要です。そうして、なぜ土着対外来、内発対外発、日本対「外国」(複数)という対置法が好んで用いられ、しかもそれがしばしば主体性や自主性の主張と結びついて、くりかえし日本の思想史に現われてくるか、という問いも、実は、右のようなヨリ大きな問いの一環として考えられると思います。」(集⑨ 「日本の近代化と土着」1968.5.pp.369-373)
「数年前に「歴史意識の「古層」」(『丸山集』第一〇巻)という論文を書いた時、丸山は日本思想の連続の問題、つまり変化の問題よりも連続性の問題に関心を払うようになったというふうに解釈されたのですけれども、それは正確ではないのです。そうではなくて、日本の思想なら思想が変化していくパターン、それを取り出してみたいということです。変化しないパターンではなくて。変化していく仕方、その変化していくパターンの特徴を問題にしたい。
 したがって、連続性と非連続性という問題と少し違うのです。古来共通している天皇制みたいに、昔からずっと続いている問題に興味をはらっているのではなくて。例えば思想史で言えば、儒教が日本に入ってきて修正される、その修正されるパターンと、それから明治以後、自由主義とか民主主義とかヨーロッパ思想が入ってきて、日本で修正されていく、そのされ方のとの間には、かなり共通性がある、僕に言わせれば。それはそのパターンの共通性の問題なのです。しかしそれは変化しないということではない。逆に日本の思想くらい段々テンポが速くなって、現代に至っては六〇年代の思想とか七〇年代の思想とか、極端に言えば週刊誌単位で変化していくでしょう。その変化好みも一つのパターンじゃないですか、そうでしょう。そういうパターンを取り出したい。
 なぜそうなのか。そういうパターンが昔から、ある時代ごとに繰り返されていく。繰り返されて起こる、そういう基本的なパターン、それが外来思想の修正過程を特徴づけている。そういう形でしか、僕は日本的なものというのは抽出できないのではないか、と。‥外来思想を修正していくその仕方。これは思想だけではなく、広げれば文化の問題でもあると言えるのです。中国から入ってきた建築とか絵画とか、決して機械的な模倣ではないんですよ。奈良時代でも。平安時代になればなおさらそうですけれど、修正を施しているでしょう。その修正そのものに日本的なものが現れている。思想も同じだと思うのです。言語もそうでしょう。…
 しかし、そのこと自身がまた日本的なのです。そういう意味では、そこに日本の特徴が現れている。だから変化に対する不変化という考え方は、僕は間違いだと。‥変化の仕方そのものに基本的な同じ特徴があるのではないか、ということに僕の関心が向けられる。」(手帖26 「第四回大佛次郎賞 受賞インタビュー」1977.9.25.pp.21-22)
「もし私の戦前の研究と戦後の研究とをいちばん大きく区別するメルクマールがあるとしたら、文化接触による文化変容という視点を投入しなければならないと私が思いだしたことです。それで、異質的な文化接触による文化変容という、その視角で書いた最初の思想史の論文が「開国」(1959年)なんです。ですから、それが外国に二年間滞在して帰ってきた時に、決定的に「原型」という発想になるんですけれどね。
 ‥その文化接触という考え方自身が、普遍史的な発展段階論の否定を意味してるということなんです。したがって、『日本政治思想史研究』はまだ非常に大きく普遍史的な発展段階論を想定しているんです。つまりボルケナウ的な"封建的世界像から近代的世界像へ"という普遍史的な研究です。ところが、文化接触というのは、歴史を縦の発展とすれば、いわば横のぶつかり合いなんです。いわば怒濤のように横から異質的な文化がやってくる。開国がそうでしょ。つまり、異質的な文化がぶつかりあったときにどういうものが生まれるかという問題は、縦の歴史的発展段階という考え方の中にはないわけです。‥全く異質的な文化圏がぶつかり合うという文化接触の問題は、普遍的な発展段階論からは生まれない。
 だからそういう意味での文化接触という問題は、さっき言った意味の狭義の歴史意識に入ってこないんですよ。狭義の歴史意識、つまり時間的系列のもとに事件を取り扱うという発展段階論の系列ではなくて、文化人類学やなんかにもずっと問題が伸びていくような問題、つまり異質的な文化が二つぶつかり合ったときにどういう現象が起こるか、という考察です。‥それは伝統的なマルクス主義の影響のもとに発展段階論というものを想定していた日本政治思想史からの、良かれ悪しかれ、決定的な離反といえると思います。実は「開国」とか「古層」とかいうことを考えるときに文化接触の問題を意識したんです。つまり、大陸からの文化が日本に入ってきてどういう変容を受けるか、という問題です。そこでbasso ostinatoという結論が出てきたんです。」(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6.2.pp.37-38)
「思想史でいうなら外来思想の問題が重要です。つまり、我々がもっている思想というのは、全部外来思想です。デモクラシーなんかだって外来思想であり、それから言葉が全部外来であり、翻訳語であるということ。権利とか義務とかいうのも全部翻訳語であり、全部明治以後できた言葉です。しかし、我々は非常に長い歴史をもっている。それまでそういう言葉を知らないできたわけですね。つまり、その問題が非常に大きいんです。…それが私の言う文化接触の問題です。西ヨーロッパに発生した文化価値というものが我々の精神の中に、もはや消しがたく入り込んでいる。しかし、それでは西ヨーロッパそのものになったかというと、今度はあまりに多く我々は我々の伝統的な価値がほとんど無意識の世界にまで浸透している。‥あらゆる生活、衣食住のあらゆるところで、そういう"ヨーロッパ的なもの"と"日本的なもの"、言葉は悪いんですけれど"伝統的なもの"の中に住んでいるわけです。
 "我々とは何か"ということが、我々が問うべき第一の問題です。…
 あんなヨーロッパほどの狭いところに、東からはイスラム文化が来るし、それからゲルマン文化があり、それからこんどはラテン文化があり、それがごちゃごちゃしたってことはないんです。それが統合されるまでには中世全体がかかるわけです。中世でトーマス・アクィナスが統合したんだけれど、またそれに反逆して文芸復興になるでしょ。文芸復興とは何かというと、ギリシャ・ローマの精神にかえれということです。つまりキリスト教に対する反逆です。そういうふうに文化接触を繰り返す。だからヨーロッパはヨーロッパのそういう精神史を彼らは彼らで共有しているんです。その中でのバリエーションにすぎない。我々はそういう意味でやはりアウトサイダーなんですよ。‥我々の問題はそれだけ深刻なんですよ。にもかかわらず、‥工業化とテクノロジーは、あらゆる文化の差異を越えて世界的にたちまち伝播する。日本・中国だけではなくて、第三世界のいかなる国でも、ヨーロッパに発したところの産業革命のインパクトを避け得ないです。その中で、我々のカルチュアというものをこれから形成していかなければならないというときには、そこで負っている課題は、ヨーロッパの場合よりもはるかに難しいし、また彼らの知らなかった問題なんです。…
 どうして義太夫なんかよりベートーヴェンの方がピンとくるのかということ。それがまさに我々が考えるべき日本の思想の問題ということです。」(手帖12 「慶應義塾大学 内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(下)」1979.6.2.pp.7-10)
「日本の場合には、学問そのものが、江戸時代の学問とかいろいろありますけれど、近代科学のいろいろな約束事は、全部西洋から来たものです。‥ヨーロッパ産の近代科学というものなしには学問活動ができないぐらい浸(ひた)されている。ということは江戸時代以前とは直接的には連続できない。…
 ですからそこに、ヨーロッパなりアメリカなりの人にはない以上に大きな困難というのが日本にはある‥。…横の接触を考えないですむ普遍史的な世界史的な法則では‥どうしても日本の問題は解けない‥。大化改新だって、そうなんですね。隋・唐文化との大規模な接触なしには、僕は大化改新はなかったと思う。大化改新、明治維新というのは、少なくも日本歴史をみれば、二大変革ですね、あらゆる領域において。これは全部外来文化に強烈に晒(さら)されたことと不可分です。…
 …世界史的な中で日本の運命が決まってくるというのは、非常に後なんです。そういう意味では孤島性をずっと保っていたわけでしょ。だから明治の断絶が非常に激しいわけです。したがって縦に日本の文化を古代からズーッと内在的に説明していくことは非常に困難で、横の文化接触の圧力というものを加えていかなければならない。これが、中国も朝鮮もそうなんですけれど、少なくも先進工業国と日本との非常に大きな違いだと僕は思うんです。」(手帖23 「聞き書き 庶民大学三島教室(下)」1980.9.15.pp.4-6)
「一九七〇年代に急に私が「古層」とかアーキタイプとかいうものを考えついたわけではなく、そこに至る道筋がある‥。」(集⑫ 「原型・古層・執拗低音」1984.7.p.112)
 「戦後にはどっと「開国」になったわけです。「鎖国」から「開国」へという現象-それが一研究者としての私の目の前にひろがった現実だった。学問的な考察の以前に、日常現実の体験としてそれがありました。解放されたという感覚は、同時に思想的な開国を意味したわけです。  そのときに私にダブル・イメージとして映ったのが明治維新だったのです。…軍隊から復員した直後に、私がこの目、この耳で見聞した戦争直後の世相といろいろな点でおどろくほど似ているのです。…私にとくに印象的だったのは感覚的な解放です。…それが、私には戦争直後の状況とダブル・イメージになって映った。…それを背景として、「開国」という問題の思想史的意味を考えようとした。…こうして戦後になって私は開国という問題を日本思想史の中に投入しようとした。」(集⑫ 同上pp.113-117)
 「例えば、一九五七年の講義を見ますと、その中に「視圏(perspective)の拡大と政治的集中」という章が設けてあります。ここで幕末維新を描いたわけです。…
 幕末における視圏の拡大ということも、地理的認識がひろがった、というような単純な問題ではないのです。永い間通用してきた世界イメージ、そのなかでの自分自身の位置づけが崩れることをも意味した。自分がいわば安住していた環境からほうり出されるのです。幕末の「開国」というのは、そういう精神的衝撃だったわけです。…この文化接触としての「開国」ということは、古代的・封建的・資本制的といった歴史的発展を縦の線で現わすなら、横の線-いわば横波を受けるという比喩で表わせます。…こうした「開国」-直接には幕末維新の歴史的開国-について考えて、文化接触の契機を日本思想史の方法に導入し出したのが、とうとう「古層」‥という考え方に辿りつくきっかけとなったわけです。」(集⑫ 同上pp.118-124)
 「私が文化接触というのは、-どんなに一方的な衝撃にせよ-何百年のちがった伝統をもった構造的に異質な文化圏との接触の問題なのです。…外来の-異質的な文化との「横の」接触というものと、それから日本史における段階区分の不明確さという問題、この二つの問題について思想史的にその意味を考えるということが、戦争の経験を経て、私にとって一層切実な課題になって来たわけであります。」(集⑫ 同上pp.125-131)
 「右の二つの問題が具体的にどういう形であらわれるかと申しますと、どうしてもこれは‥日本の地理的な位置と、それに関連した日本の「風土」と申しますか、そういう要素を考慮せざるをえなくなる。…
 一九五八年(昭和三三年)度の講義のプリントによるとはじめの方で、「日本思想史の非常に難しい問題というのは、文化的には有史以来「開かれた社会」であるのに、社会関係においては、近代に至るまで「閉ざされた社会」である。このパラドックスをどう解くのかということにある」と言っております。…絶えず新しいメッセージを求めるということと、新しい刺激を求めながら、あるいはその故にか根本的にはおどろくほど変わらないということ-この両面がやはり思想史的な問題としても重要なものになってくるのではないか。たとえば、‥キリシタンの渡来とその「絶滅」の運命について…日本の場合にはおどろくべく速く浸潤するけれども、絶滅するときには、また‥おどろくべく速く姿を消す。これを私は集団転向現象というのです。集団転向してキリシタンになるけれども、また集団転向して棄教する。‥これが‥開かれた文化と閉ざされた社会の逆説的な結合にどうも関係があるのではないかという問題を私は一九五〇年はじめごろから考え出したわけです。…そういう観点(丸山:全体構造としての日本精神史における「個体性」)から、さきほど指摘した矛盾した二つの要素の統一-つまり外来文化の圧倒的な影響と、もう一つはいわゆる「日本的なもの」の執拗な残存-この矛盾の統一として日本思想史をとらえたいと思うのです。…日本が一面では高度工業国家でありながら、他面においては、それこそ以前から「未開民族」の特徴といわれた驚くべき民族等質性を保持しているのは否定できません。観察としてはそんなむつかしい事柄ではないのです。ただこの両面性が、思想的にどう現われるのかというのは、日本思想史を解明するうえに看過できない重大な問題だ、と思うのです。」(集⑫ 同上pp.131-143)
 「要するに私は右のような方法論的な遍歴を経て、古来日本が外来の普遍主義的世界観をつぎつぎと受容しながらこれをモディファイする契機は何かという問題を考えるようになったわけです。…外来思想の「修正」のパターンを見たらどうか。そうすると、その変容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる。…私達はたえず外を向いてきょろきょろして新らしいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない。そういう「修正主義」がまさに一つのパターンとして執拗に繰り返されるということになるわけです。…
変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、といいたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変るけれども、にもかかわらず一貫した云々-というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変る、という事です。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。‥よその世界の変化に対応する変り身の早さ自体が「伝統」化しているのです。
「よそ」と「うち」ということは必ずしも外国と日本というレヴェルだけでなく、色々なレヴェル-たとえば企業集団とかむらとか、最後には個人レヴェルでひとと自分という意味でも適用されます。つまり一種の相似形的構造をなして幾重にも描かれることになります。…私達は、不変化の要素にもかかわらず、ではなくて、一定の変らない-といってもむろん天壌無窮という絶対的意味でなく、容易には変らない-あるパターンのゆえに、こういう風に変化する、という見方で日本思想史を考察するよう努力すれば、日本思想史の「個性」をヨリよくとらえられるのではないか、と思うわけです。」(集⑫ 同上pp.144-155)
「日本は[これから]激しい文化接触を必ず経験します。飛び地だったわけですから、[日本は]何千年来日本の思想の特質といわれてきた条件が、いま音を立てて崩れつつあるわけです、ジェット時代になって。激しい文化接触にさらされると、変革の可能性が出てくるわけです。ヨーロッパと似てくるわけです、異質文化とのごった返しのなかに置かれるわけですから。同質性ということが消滅するわけです。‥いままでは、テクノロジーが未発達なために同質性が保たれていた。その条件というのが急速になくなる。欲すると欲せざるとにかかわらず、文化接触の大波に洗われる。だから、結局、問題は二つに一つです。つまり、日本というものの思想的な主体性がなくなって、文化的にはどこか別の国の属国になっちゃうか、それとも、その文化接触の荒波のなかから、新しい日本の主体性を見出していくか、その試練はこれから諸君の双肩にかかっているんだ。」(手帖19 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(上)」1985.3.31.p.22)
「今後どうなるかは分かりません。というのは、日本は大陸から非常に離れて、ある意味で飛び地ですよね。そういういろんな条件に作用されて、同質性も確保されてた。ところが、いまや水田耕作じゃなくなったし、それからコミュニケーションがこれだけ盛んになってくるとね、どうなるか分かりません。だけど、こうした条件が作用して、これまでは権力的支配をミニマムにすることができたと、ぼくは思うんです。
だから、権力の行使はだめだ、とかって言うのは、ちょっとダブルミーニングでね、危ないなという気がするんです。人民主権というのは、君主主権をひっくり返したものですから。人民主権が板につかないのは、逆に、君主主権がなかったからだ。価値判断抜きに、政治意識における古層っていうのは、やっぱり非常に貫徹してる。つまり、明治における立憲制の移植過程、その後の代議制にまで貫徹してるというのが、ぼくの考え方なんですよ。だから、そこでは「協賛」から「翼賛」まで、ワンステップだと。
(鶴見「そうすると、日本における無責任の体系っていうのは、かなりフェータリスティック(宿命的)になって。」)まあね。今までのところはね。だけど、その条件をなしてきた、地理的、風土的、歴史的環境っていうのは、ぼくは壊れつつあると思いますね。…ただ、日本はそういう隔絶された歴史的伝統が長いから-例えば、家に黒人がやって来て「二階の部屋を貸してくれないか」と、そういうふうになるまで、なかなか、社会の同質性というのは、完全には破りきれないでしょう。
やっぱり、日本では電車に乗っても新幹線に乗っても、まわりは圧倒的に日本人ですよね。‥こんな国は世界にまずないでしょ。きわめてホモジニアス。だから、「日本が同質的であるというのは神話である」っていう言い方は、そっちのほうがどうかしてると、ぼくは思う。
だから助かってる面もあります。安心する面もあります。「同じ日本人だから、血を流すのはよそう」とかね。そんなこと言ったら、外国人とは血を流していいのかって、訊きたくなるくらいだけど。どこかで飛行機が落っこちたら、まず「日本人の乗客は何人」っていう報道になるのも、あたまに来るしね。まず、そこに関心が行くんだな。人間、なに人だって、死んだら大変だし、同じじゃないですか。驚くべきウチ・ヨソ主義ですよ。インズとアウツ。
インズの同質性-「異議なし」「ナンセンス」の社会ですし、パーラメンタリズム(議会政治)の"パルレ"っていうのは、話すことですからね、討議なんです。これはなかなか日本で目につかないです。「満場一致制」が、やっぱり理想とされるから。
だけど、その「満場一致制」っていうのが、現実には無限分裂の因子にもなるんです。‥満場一致制を取ってるもんだから、結局、そのなかで分裂するしかないんですよ。多数・少数制っていうのは行われないんだから。」(自由 1985.6.2.pp.205-207)
「以上(浅井注:身分的=制度的な錨付けから解かれることと、思想の自由市場での多様な世界解釈の競争に参加するということ)はだいたい世界的にも共通した現象なのですが、もう一つ、日本、あるいは東アジアに特徴的な現象があります。それは何かというと、開国という問題です。これはヨーロッパ知識人が当面しなかった問題です。
 では開国とは何か、あらたまって問うとむずかしいのですが、ここで具体的にいうと、要するに高度に発達した異質文明との急激な接触の時代がくるということです。…この異質的な西洋文明の翻訳者であり伝播者であるという使命が、そういう時代に生きる知識人に課せられるわけです。…
 とくに日本の場合は、いわゆる「開国」という条件がありました。…生活様式・制度から思想に至るまで、これまでまったく未知の文化が怒濤のように押し寄せてくる時代、そこから出てくるいろいろな問題を知識人が解釈していかなければならない。これは現在でも続いている問題だと思います。…ヨコのものをタテにするというのは、全くちがった伝統のもとに育った文化を移植する仕事ですから、これはほんとうは大変なことです。おそらく大化改新前後から律令制の確立の時代(七-八世紀)における日本の知識人も同じ問題に当面したと思います。…ヨコのものをいかに自家薬籠中のものとしてタテにしたか。そこに思想のオリジナリティがあったのです。…結局、思想史というのはすべて、従来の思想を読み替え、読み替えしてゆく歴史なのです。昔の思想を読んで読んで読みぬいて、それを新しく解釈したり、新しい照明をあてていく。そういうことの歴史にすぎない。その意味で、本当の独創というのは何もかも真新しく始めるということではなく、むろん珍奇な思いつきということではないのです。…意識的意訳とは、日本の風土に応じて原意を生かし、理解を容易にするにはどうしたらいいかということで、意識的にある意味での原典の「歪曲」を行なう。私は、福沢はその大家だと思います。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.pp.46-49)