「個」

2016.4.26.

「若いうちに、感受の弾力性があるうちに、異質的なものと対決せよ。Stirb und werde(死ね、そして成れ)!日本思想はやはりどこか自分の本来的な傾向を再確認するといふところがあるから、あまり日本の古典ばかりやるのは危険だ。採長補短では主体は動かないままでゐる。主体が客体に対して捨て身になつてぶつかる事が重要だ。西洋的なもののなかに身をさらせ。Sturm und Drang.強靱な日本精神はそこからのみ生まれる。(昭18.6.2)」(対話 p.5)
「「日本の政治はつねにグループの寄合世帯であった。議会もそのグループの一つであった。軍部は天皇を党首とする武装政党であった。」
 「日本の社会は蜜蜂の集団からなっている。ここには独裁者はいない。」(バイヤス)」(対話 p.146)
「官僚と庶民。
 官僚と庶民で構成されていて市民のいない国-それが日本だ。ジャーナリズムの批判性は庶民の官僚批判の典型的パターンである。庶民的シニシズムには原理がない。庶民的シニシズムはそれ自体評論界としてヒエラルヒーを構成する。‥(昭二八)」(対話 p.146)
「洋服屋の子供が、大きくなって何になるときかれて、全国一の、いや世界一の仕立のうまい洋服屋になるという社会が市民社会だ。一流の洋服屋の方が、二流、三流の政治家や役人や教授よりはえらい社会、それが市民社会だ。
 身分=職業=価値の体現。三流の社会主義者と一流の保守主義者。」(対話 pp.146-147)
「もちつもたれつ社会。
 「蜜蜂の集団」と「グループの寄合世帯による統治」とが、大日本帝国とその社会の構造についてのヒュー・バイアスの観察であった。これはいわば望遠的に見た日本であるが、ズーム・レンズをつかって、これに接近して社会的人間関係を見ると、それは「もちつもたれつ社会」、といえる。「こっくりさん」の社会である。誰もが自立せずに、他者にそれぞれ寄りかゝっている。"going my way"という生き方が、それだけ困難な社会である。
 それを心理的に表現すれば、他者への暗黙の期待がおそろしく肥大している社会である。その期待に答えないものは、「冷酷」で「不親切」で「官僚的」とされる。‥
 バス→「曲りますから御注意願います」「只今、停止信号ですから(or車両混雑のため)しばらくお待ち下さい」 国電ホーム「危険ですから白線の内側にお下りください」 何というおせっかいの親切さ、サーヴィスぶり! 車外を見れば、赤信号かどうかは分るではないか。
 ↑↓
 ロンドンのバス内にはこうあった。「停留場以外で乗降する者は自己の責任においてなすべし」
 踏切や交差点のスローガンとにぎやかさ! 「踏切を渡る笑顔に待つ笑顔」「死者発生地点」「追突事故多発地点」「あなたは制限速度で走っていますか」等々-。 「他者」は自分にこういう振舞いかた(サーヴィス)をするのが当然である、という暗黙の前提が実に多くあるから、それだけ、「他者」から期待された態度を示されないことから来る欲求不満が多くなる。もし社会が異質的な他者と他者からなるという前提から出発するならば、考え方はすべて逆になる。他者への期待はミニマムになり、むしろ自分の行為が他者の権利や自由の侵害をした結果、責任をとらざるをえなくなることへの注意と配慮がマキシマムになる。
 「面会強要」=会ってくれてもいいじゃないかという他人への甘ったれ。
 「あんなことをされたんだから、怒って思わずなぐったり、(殺したり)するのもむりはない。」(姑にいじめられた嫁の復讐から、金嬉老事件にいたるまで。)
 →原因・哲学論と、人格的責任の問題との混同。」(対話 pp.147-148)
「福沢の精神的孤独性(ニヒリズムとすれすれの「独立自尊」!)は、彼が「派閥」と無縁だったことにもっともよく象徴されている。「派閥」はたんに意気投合集団ではないし、たんに利害集団でもない。いわんやイデオロギー集団からはもっとも遠い。「左」の集団に派閥が容易に形成されること、あらゆる「制度的」なものを嫌悪した日本の新左翼、あるいは全共闘的なノンセクト・ラヂカルが社会的な場では極端に「コネ」の人事に陥ることは日本のカルチュアの悲喜劇である。げに、一人の日本人は利口である。二人の日本人はひとの噂をする。三人の日本人は派閥をつくる。(血縁集団や宗族集団と無縁な派閥形式という点で、それは中国や朝鮮の、一見類似した派閥週間とも著しく異っている。)「派閥」の分析なしには、日本の社会の分析はありえないだろう。
 福沢のいう日本の共時的特性としての「権力の偏重」は「派閥形成」の第二次的な結果ではないか。「権力の偏重」からは、日本の集団形成におけるホリゾンタルな契機は直接には導き出せない。「はじめに派閥ありき」で、その維持のためにボスとサブボスが自然発生的に生まれ、したがってその間の「権力の偏重」もまた必然的に発生する。日本における「平等」の要素と「権力の偏重」(むろん社会的に多元的な)の要素とを統一的にとらえる分析がはじめて日本社会の「構造」の核心に迫ることができる。(昭六二・三)」(対話 pp.153-154)
「近世末期の一連の制度改革論の変革性を制約した共通の特色は、それらがいずれも上から樹立さるべき制度であり、庶民はそこでなんら能動的な地位を認められていないという事である。…徂徠学の制度建立の要請は夫々(それぞれ)これらの思想家に受継がれて、著しくその内容を豊にし、そこに近代的なものも混入した。その限りでそれは作為の立場の具体的発展ではあった。だが同時に此等を通じて、作為の立場そのものの理論的展開は殆ど全く見られなかった。徂徠学的「作為」の理論的制約-作為する主体が聖人或は徳川将軍という如き特定の人格に限定されていること-はまた彼等のものでもあった。いな、この制約は徂徠学以後我々が辿(たど)って来た「作為」の立場のすべてに執拗に付纏っていた。云い換えれば、そこには「人作説」(=社会契約説)への進展の契機が全く欠如していたのである。さればこそ、それらの中で最も進歩的な方向をとった(本多)利明や(佐藤)信淵に於ても、彼等の制度的改革の推進力はまず従来の支配層に求められ、その困難性が意識されるや、結局「絶世の英主」(信淵)或は「天下の英雄」(利明)をひたすら待望するという空想性に堕せざるをえなかった。そうしてかくの如き「作為」の論理の質的な停滞はまた当然にその量的な普及をも一定の限界内に押しとどめる事となったのである。けだし、作為する資格が特定の地位と結びついている限り、大多数の人間には、秩序に対する主体的能動性が与えられぬ結果、彼等にとっては現実の政治的社会的秩序は、実際に於て運命的な所与でしかありえず、従ってそれだけ自然的秩序観のなお妥当する現実的地盤が残されるからである。」(集① 「近世日本政治思想における「自然」と「作為」(第六節)1942.8.pp.107-108)
「維新の身分的拘束の排除によって新たに秩序に対する主体的自由を確保するかに見えた人間は、やがて再び巨大なる国家(レヴァイアサン)の中に呑み尽され様とする。「作為」の論理が長い忍苦の旅を終って、いま己れの青春を謳歌しようとしたとき、早くもその行手には荊棘の道が待ち構えていた。それが我が国に於て凡そ「近代的なるもの」が等しく辿(たど)らねばならぬ運命であった。徳川時代の思想が決して全封建的ではなかったとすれば、それと逆に、明治時代は全市民的=近代的な瞬間を一時も持たなかったのである。」(集② 同上p.124)
「秩序を単に外的所与として受取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は個人の主体的自由を契機としてのみ成就される。「独立自尊」がなにより個人的自主性を意味するのは当然である。福沢が我が国の伝統的な国民意識に於てなにより欠けていると見たのは自主的人格の精神であった。彼が痛烈に指摘した我国の社会的病弊-例えば道徳法律が常に外部的権威として強行され、一方厳格なる教法と、他方免れて恥なき意識とが並行的に存在すること。批判的精神の積極的意味が認められぬところから、一方権力は益々閉鎖的となり、他方批判は益々陰性乃至傍観的となること。いわゆる官尊民卑、また役人内部での権力の下に向っての「膨張」、上に向っての「収縮」、事物に対する軽信。従来の東洋盲信より西洋盲信への飛躍、等々。こうした現象はいずれも自主的人格の精神の欠乏を証示するものにほかならなかった。」(集② 「福沢に於ける秩序と人間」1943.11.pp.220-221)
「もとより国家的な自主性が彼(福沢)の最終目標であった事は疑うべくもない。しかし、「一身独立して一国独立す」で、個人的自主性なき国家的自立は彼には考えることすら出来なかった。国家が個人に対してもはや単なる外部的強制として現われないとすれば、それはあくまで、人格の内面的独立性を媒介としてのみ実現されねばならぬ。福沢は国民にどこまでも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである。その意味で「独立自尊」は決してなまなかに安易なものではなく、却(かえ)ってそこには容易ならぬ峻厳さが含まれている。安易といえば、全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なのである。福沢は我国民は「独立自尊」の伝統には乏しいとはいえ、その倫理的なきびしさに堪える力を充分持っていると考えた。つまり彼は日本国民の近代国家形成能力に対してはかなり楽観的だったのである。彼逝いて約半世紀、この楽観がどこまで正当であったかは、今日国民が各自冷静に自己を内省して測定すべき事柄に属する。福沢の近代的意義の問題はその後にはじめて決せられるであろう。」(集② 同上p.221)
「(徳川統治の)二百六十年の長きに亙ってこうした支配様式(丸山:「国民の自発的な政治的志向を抑圧すると共に、他方に於て封建的割拠から生ずる猜疑感を巧に利用して相互に監視牽制せしめ…かくの如き国民的規模に於ける監察組織はみごとな成果をあげ幕府権力は鎖国体制の崩壊までの間、苟も政治的反対派にまで成長する懼ありと見た社会的思想的動向を悉く双葉のうちに苅除しえたのである」)に服したことによって、国民精神はどの様に蝕まれたことか。…そこに蔓延したのは国民相互の疑心暗鬼であり、君子危うきに近寄らざるの保身であり、吾不関焉(われかんせずえん)の我利我利根性よりほかのものではなかったのである。」(集② 「国民主義の「前期的」形成」(第2節)1944.3・4 pp.236-237)
「われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかしあてがはれた自由、強制された自由とは実は本質的な矛盾-contradictio in adjecto-である。自由とは日本国民が自らの事柄を自らの精神を以て決するの謂(いい)に外ならぬからである。われわれはかゝる真の自由を獲得すべく、換言するならば、所与としての自由を内面的な自由にまで高めるべく、血みどろの努力を続けなければならないのである。
 一八〇七年より八年にかけて、かのフィヒテが有名なる講(こう)筵(えん)に於いて「ドイツ国民に告」げたのはまさに今日のわれわれと同じ様な環境の裡(うち)に於いてであった。…
 彼はドイツ国民の独立を救ひうるものはたゞ教育あるのみとの確信から、ドイツ国民に自ら国家の事を担ふ精神を鼓吹せんとした。自ら国家の事を担ふ精神とはいふところの国家主義であるか。否、むしろその逆である。国家主義は人民に対し、国家的な権力に対する服従をなによりも要求する。いはゆる国家主義は国民に対して、上から課せられる所の一つの要請であり、従ってそれは屡々国民の下からの自主的な政治意識に対する禁圧的態度となって現はれる。しかし、人民が自ら国家の事を担ふ精神とは、国家を自らの国家として感じ、国家の運命を自らの運命として受け取り、国家の動向に責任をもって関与する精神であり、それはたゞ国民大衆の自由な自発性、自主的な精神を前提としてのみ期待しうるのである。…彼は昨日まで自国の権力者に阿諛(あゆ)迎合してゐゐた人々が、忽(たちま)ちその同じ卑屈さを外国人の前で発揮し、昨日まで阿諛してゐた権力者が、権力を失墜するや、忽ちあらゆる悪罵を浴びせかけるのを見た。…かくして、フィヒテは断ずる、「吾人と同じ様な被征服者の運命を味はった他の欧州民族もあるが、征服国の権力が吾人を支配し始めるや否や、あたかも待ち兼ねてゐたかの如く、時に遅れずに好意を示さんと焦り、嘗(かつ)ては陥ってゐた自国の当局者にあらん限りの讒謗(ざんぼう)を向け、自国の事物を悪しざまに罵(ののし)る醜態を演ずるのは、たゞ吾人ドイツ人のみである」。果たしてそれはドイツ人のみであろうか。それはまさに、われわれの周囲に日々展開されてゐる光景ではないだらうか。
 …今日、古き権力者を罵倒し新しい権力者に阿諛する人間は、その権力者が去って旧き権力者が復活すれば三転して、その卑劣なる迎合を旧権力者に向けるであらう。徒(いたず)らなる外国崇拝は実は徒らなる自国讃美乃至外国排斥と心理的基底を共通にする。そこにあるものは確固たる自主的批判的精神の欠如である。さうしてこれこそ、東西を問はず、封建的支配者が国民大衆に対してなによりも禁圧する所のものである。…
 かうした言葉は今日只今の如き環境に置かれてゐるわれわれにどんなに痛烈な皮肉として響くことだらうか。」(手帖35 「戦後初めての講義の講義案」1945.11.1.pp.4-6)
「漱石の所謂(いわゆる)「内発的」な文化を持たぬ我が知識人たちは、時間的に後から登場し来ったものはそれ以前に現われたものよりすべて進歩的であるかの如き俗流歴史主義の幻想にとり憑かれて、ファシズムの「世界史的」意義の前に頭を垂れた。そうして今やとっくに超克された筈(はず)の民主主義理念の「世界史的」勝利を前に戸惑いしている。やがて哲学者たちは又もやその「歴史的必然性」について喧(かまびす)しく囀(さえず)り始めるだろう。しかしこうしたたぐいの「歴史哲学」によって嘗(かつ)て歴史が前進したためしはないのである。
 我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事実はかくて漸く何人の眼にも明かになった。…しかし他方に於て、過去の日本に近代思想の自生的成長が全く見られなかったという様な見解も決して正当とは云えない。…私は日本思想の近代化の解明のためには、明治時代もさる事ながら、徳川時代の思想史がもっと注目されて然るべきものと思う。しかもその際、…儒教乃至(ないし)国学思想の展開過程に於て隠微の裡に湧出しつつある近代性の泉源を探り当てることが大切なのである。思想的近代化が封建権力に対する華々しい反抗の形をとらずに、むしろ支配的社会意識の自己分解として進行し来ったところにこの国の著しい特殊性がある。」(集③ 「近代的思惟」1946.1.pp.3-4)
「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争に駆りたてたところのイデオロギー的要因は…今日まで我が国民の上に十重二十重の見えざる網を打ちかけていたし、現在なお国民はその呪縛から完全に解き放たれてはいないのである。国民の政治意識の今日見らるる如き低さを規定したものは決して単なる外部的な権力組織だけではない。そうした機構に浸透して、国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的構成を持たず、思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是が為には…諸々の断片的な表現やその現実の発現形態を通じて底にひそむ共通の論理を探りあてる事が必要である。…けだし「新しき時代の開幕はつねに既存の現実自体が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」(ラッサール)のであり、この努力を怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。そうして凡そ精神の革命を齎(もた)らす革命にして始めてその名に値するのである。」(集③ 「超国家主義の論理と心理」1946.5. pp.17-18)
 国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。…従って私的なものは、即ち悪であるか、もしくはそれに近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。…そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。…「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。」(集③ 同上pp.20-23)
「自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、ヨリ上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。福沢諭吉は「開闢の初より此国に行はるゝ人間交際の定則」たる権力の偏重という言葉で巧みにこの現象を説いている。…
 …近代日本は封建社会の権力の偏重をば、権威と権力の一体化によって整然と組織立てた。そうしていまや日本が世界の舞台に登場すると共に、この「圧迫の移譲」原理は更に国際的に延長せられたのである。…われわれは、今次の戦争に於ける、中国や比(フィ)律(リ)賓(ピン)での日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から眼を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。」(集③ 同上pp.32-34)
「福沢(諭吉)にとっては、我国の近代化の課題はなによりも文明の「精神」の把握の問題として捉えられた。…物理学を学問の原型に置いたことは、「倫理」と「精神」の軽視ではなくして、逆に、新たなる倫理と精神の確立の前提なのである。彼の関心を惹いたのは、自然科学それ自体乃至その齎(もたら)した諸結果よりもむしろ、根本的には近代的自然科学を産み出す様な人間精神の在り方であった。その同じ人間精神がまさに近代的な倫理なり政治なり経済なり芸術なりの基底に流れているのである。「倫理」の実学と「物理」の実学との対立はかくして、根底的には、東洋的な道学を産む所の「精神」と近代の数学的物理学を産む所の「精神」との対立に帰着するわけである。」(集③ 「福沢に於ける「実学」の転回」1947.3.p.116)
 「つまり「物理」精神の誕生が、身分的階層秩序への反逆なくしては可能でない事が福沢に於て明白に自覚されていた…」(集③ 同上p.121)
 「ヨーロッパに於て精神と自然が一は内的なる主観として一は外的なる客観として対立したのはまぎれもなくルネッサンス以後の最も重大な意識の革命であった。…近世の自然観は、このアリストテレス的価値序列(丸山:質料-形相の階層的論理)を打破して、自然からあらゆる内在的価値を奪い、之を純粋な機械的自然として-従って量的な、「記号」に還元しうる関係として-把握することによって完成した。しかも価値的なものが客体的な自然から排除される過程は同時に之を主体的精神が独占的に吸収する過程でもあった。自然を精神から完全に疎外し之に外部的客観性を承認することが同時に、精神が社会的位階への内在から脱出して主体的な独立性を自覚する契機となったのである。ニュートン力学に結晶した近代自然科学のめざましい勃興は、デカルト以後の強烈な主体的理性の覚醒によって裏うちされていたのである。」(集③ 同上p.122)
「アンシャン・レジーム(徳川期)における規範意識の崩壊がひたすら「人欲」の解放という過程を辿ったということは、同時にそこでの近代意識の超ゆべからざる限界をも示している。外部的拘束としての規範に対して単に感覚的自由の立場にたてこもることはなんら人間精神を新しき規範の樹立へと立向かわせるものではない。新しき規範意識に支えられてこそひとは私生活の平穏な享受から立ち出(い)でて、新秩序形成のための苛烈なたたかいのなかに身を投ずることが出来るのである。」(集③ 「日本における自由意識の形成と特質」1947.8.21.p.157)
 「徳川封建体制下において、拘束の欠如としての感性的自由が自己決定としての理性的自由に転化する機会はついに到来しなかった…。」(集③ 同上p.158)
「人間精神の在り方は福沢において決して単に個人的な素質や、国民性の問題ではなくして、時代時代における社会的雰囲気…に帰せらるべき問題であった。換言すれば、固定した閉鎖的な社会関係に置かれた意識は自ずから「惑溺」(丸山:人間精神の懶惰)に陥り、動態的な、また開放的な社会関係にはぐくまれた精神は自から捉われざる闊達さを帯びる。また逆に精神が社会的価値基準や自己のパースペクティヴを相対化する余裕と能力を持てば持つ程、社会関係はますますダイナミックになり、精神の惑溺の程度が甚しい程、社会関係は停滞的となる。…とくに固定した社会関係の下で惑溺が集中的に表現せられるのは、政治的権威である。ここでは本来「人民の便利」と国体の保持(丸山:日本人が日本国の政治を最終的に決定するということ)のために存在すべき政府が容易に自己目的となって強大な権力を用い、種々の非合理的な「虚威」によって人民を圧服させる。…こうした意識の倒錯によって政治的権力は単に物理的な力だけでなく、あらゆる社会的価値を自己の手に集中することによって、価値基準の唯一の発出点となってしまう。かくして社会関係の固定しているところほど権力が集中し、権力が集中するほど人々の思考判断の様式が凝固する。と同時にその逆の関係も成立つ。判断の絶対主義は政治的絶対主義と相伴う。」(集③ 「福沢諭吉の哲学」1947.9.pp.179-181)
「ナチの指導者と日本の戦争指導者を比較すると、ナチの指導者は非常にリアリスティックですね。といふのは、自分の目的をはつきりいふんです。根本的にシニカルなんです。へんに道徳のヴェールをかけないんです。ところが日本の政治家はどうもあけすけの表現をしないんです。ミスティックなんですね。…自分で或るプロパガンダのためのスローガンを出しながら、逆に自分たちがスローガンに捲きこまれて宣伝と現実と区別できなくなるんです。だから戦犯の裁判なんかでもナチの指導者はむしろシニカルなくらゐに自分のやつたことに対してははつきり責任を認めるんです。‥ところが日本の被告にはどうもさういふことがないんです。‥
 これはやつぱり色々と歴史的社会的な原因があると思ふんですね。家族制度といふものと関係があることは大体間違ひないと思ひます。それと、一つは、宗教意識の違ひですね。それは日本人の宗教が根本的に多神教で、日本人は神様を沢山もつてゐるといふこと、一つの状況ごとに一つの神様がある。だから一つの状況において一つの神様に対して感じた義務は、他の状況の下における他の神様に対して感じないといふことですね。だからそこに統一的な時間的に一貫した人格性といふ観念はどうしても乏しくなる。場に即した義務しかない。したがつて過去の行為に対しては案外責任感がない。また団体の責任観念はあるが個人の責任観念は割合乏しいと思ふんです。ドイツなんかは日本と同じやうに民主主義的伝統はあまりないところですが、何といつても宗教改革の本場ですから、あの精神が個体的人格の観念を植付けたと思ふんですね。
 (「マックス・ウェーバーは何かさういふことを言つてゐますか」という問いかけに)直接にはないんですけれども、全体の考へがさういふことにふれてゐると思ひますね。ウェーバーは儒教倫理とピューリタンの倫理と比較して、儒教倫理は「世間」と「自分」との距離を絶えず埋めて行かうといふ倫理であり、従つてそこでは秩序に順応するといふことが最高の道徳になる、ところがピューリタニズムは、さういふ順応は被造物を神化するといふ建前から絶対に拒否するのです。そこで「世間」との間にたえず緊張が保たれ、そこから儒教と逆に秩序を合理化して行かうといふ内面的な欲求が生れて来る、といふのです。」(手帖52 「歴史と政治」1949.6.pp.13-14)
「現代社会はどんな分野でも機構が厖大になり、組織が高度化して行くので、職業は階級の個性がだんだんなくなって、「オーガニゼーション・マン」という一種のタイプに画一化されている。つまり、官庁とか銀行とか学校とかを問わず、また資本家と労働者の区別よりも、組織への適合性ということの方が人間の鋳型を作る上にヨリ強力になって来ている。…調和ということも一つの徳で、それ自体はいいことですが、他の徳とのバランスを破ってまで強調されることが問題なのです。職場の調和については、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という論語の言葉に尽きているでしょう。コンフォーミティーということと、ハーモニーということがとかく混同されるように思います。
 (しかし、日本の調和とアメリカのそれとでは違うんではないのですか。アメリカでは、独創を尊ぶ資本主義の精神があるのに対して、日本ではむしろ儒教からきた和の精神の方が強いように思うのですが。)それは日本の方が複雑ですね。日本の方には、アメリカ的な企業の中の一つ一つの歯車としての調和と要請と、儒教というよりも家族主義的、あるいは部落共同体的な調和、企業一家という考え方との両面を持っていますね。…
 職務に対する責任と義務感は近代的人間のミニマムの資格です。しかしそれは本来、限定的責任です。ところが組織が人間をまるのみにするから、とかく無限責任になりやすい。だから建前が厳しい無限責任で、実際はその中でいくらでも抜け道ができるということになってしまう。市民としての面が職務の中に見失われてしまう傾向は、公務員に対するモラルや要求などの場合にいちじるしいでしょう。朝から晩まで公務員でなければならないような意識がある。だから市民としての当然の義務であり権利である政治活動の範囲までが、公務員ということで縛られてしまう。こういうように、日本で職業上の組織が全人格をまるのみこみにしがちだということの裏には、官庁、会社といった職業組織の他に、例えば教会とかサロンとかサークルというような、職業と違った次元で人間を横に結合するだけの力を持ったソサエティが十分発達していないという由来も作用しています。」(手帖15 「丸山先生に聞く」1958.3.pp.24-25)
「調和ということも一つの徳で、それ自体はいいことですが、他の徳とのバランスを破ってまで強調されることが問題なのです。職場の調和については、「君主は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という『論語』の言葉に尽きているでしょう。コンフォーミティということと、ハーモニーということがとかく混同されるように思います。
 (「しかし、日本の調和とアメリカのそれとでは違うんではないですか」という質問に対して)それは日本の方が複雑ですね。日本の方には、アメリカ的な、企業の中の一つ一つの歯車としての調和の要請と、儒教というよりも家族主義的、あるいは部落共同体的な調和、企業一家と云う考え方の両面を持っていますね。
(「会社は人間の全存在をまるごとのみこもうと云う訳ですね」という質問に対して)そうですね。むろん仕事や職務をさぼるのはよくない。職務に対する責任と義務感は近代的人間のミニマムの資格です。しかしそれは本来、限定責任です。ところが組織が人間をまるのみにするから、とかく無限責任になりやすい。だから建前が厳しい無限責任で、実際はその中でいくらも抜け道ができるということになってしまう。市民としての面が職務の中に見失われてしまう傾向は、公務員に対するモラルや要求などの場合にいちじるしいでしょう。朝から晩まで公務員でなければならないような意識がある。だから市民としての当然の義務であり権利である政治活動の範囲までが、公務員ということで縛られてしまう。こういうように、日本で職業上の組織が全人格をまるのみにしがちだということの裏には、官庁、会社といった職業組織の他に、例えば教会とかサロンとかサークルというような、職業と違った次元で人間を欲に結合するだけの力を持ったソサエティが、十分発達していないという由来も作用しています。」(別集② 「丸山先生に聞く」1958年 pp.161-163)
「だいたいどこの国でも、ものの考え方や暮し方の規準や尺度を自分の内部から打ち出して行った中核的な社会層があるんです。たとえばイギリスでは貴族とミドルクラスが一緒になって「ジェントルマン」というタイプと規準をつくり上げて行った。それがフランスではプティ・ブルジョワですし、アメリカではコモンマンです。じゃ日本ではどうかというと、封建時代に侍とか公家とか町人とか農民とかがそれぞれちがった規準と生活態度をもっていたのが、維新でゴチャマゼになっちゃった。…身分の差が撤廃されて、立身出世の社会的流動性が生じたけれど、バック・ボーンとなる社会層がなくてゴチャマゼのまま、ワッショイワッショイと近代国家を作り上げてきた。ですから整然とした日本帝国の制度と、統一的な臣民教育の完成のかげには、実は厳しい精神的なアナーキーが渦まいていた‥。外からはめるワクはあっても、内部からの規準の感覚というものは、実際はむしろ徳川時代よりもなくなって行ったのじゃないんですか。いわゆるもののけじめの感覚というのは、国家教育などというものではなくて、社会自体が与える持続的なしつけによって養われるんですが、なにしろそういう自律的な社会というものが国家にのみ込まれてしまったのが、近代日本だった‥。…
 戦後そういう節度やけじめの感覚の喪失が急激に表面化したのは事実ですが、…ずっと前からあった精神的アナーキーが外部からの-つまり旧国家権力による-たががはずれたので一度に露わになった…。」(集⑧ 「我が道を行く学問論」1959.5.4. pp.98-101)
 「日本はどうも人と人との精神的空間がくっつきすぎているんですね。すきまがないんです。‥そこでどうしてもキョロキョロと周囲に気をとられすぎる。…精神的空間がないものだから、何かみんながひとの生き方にケチをつけなけりゃ、自分の存在証明ができないみたいなことになってるんじゃないでしょうか。…どうして、もっと人には人の行き方があるし、またあっていい、自分は自分のペースで自分の道を行くんだという風に-つまり自己確信と他人への寛容とを結びつけて考えられないんでしょう。…お互いにちがうんだというところを基本としてハーモニーをつくってこそ団結は厚みがでて来るわけで、そうでなくて差別をゴチャゴチャにするのは‥ファシズムの格好な温床をつくることになるだけです。」(集⑧ 同上pp.103-104)
「(徳富)蘆花における形式に反逆する主体としての自我あるいは生という側面と、(田岡)嶺雲における歴史的な社会発展の法則という契機とは、やがてヨリ洗練された形で大杉栄の「反逆の哲学」において合流した。それはまさに大正のアナーキズム運動の基礎づけであった。しかしちょうどアナーキズムの思想が社会主義や労働運動の主流的地位を、急速にマルクス主義に譲り渡したことと併行して、大杉の課題を継承する試み、すなわち反逆を自我から出発させて原理化する方向は、「客観的」な歴史的発展法則のうちに吸収されて「革命」の陣営では姿を消してゆく。つまり結論的にいえば、謀叛の発想の衰滅ということと、忠誠と反逆の問題を自我の次元で意識化しようという内的な衝動の減退ということとは、ほとんど同時的に進行したように思われる。それはどういう思想的意味をもつか。
 「革命」は本質的に社会性をもち、したがってある一定の歴史的な方向性をもっているが、「反逆」や「抵抗」はなんらかの既成の集団もしくは原理からの自我の意識的な離脱、及び距離感の持続的な設定であって、それがどのような歴史的・社会的な役割を営むかは一義的でなく、状況と条件によってさまざまの方向性をもつ。しかし他面において、自我の内部における「反逆」を十分濾過しない集団的な「革命運動」は、それ自体官僚化する危険をはらんでいるだけでなく、運動の潮が退きはじめると集団的に「転向」する脆弱さを免れない。歴史的な方向性をもたぬ「反逆」はしばしば盲目であるが、反逆のエートスによって不断に内部から更新されない「革命」は急速に形骸化する。革命「運動」は体制の次元からいえば反逆であるが、「運動」の内部においてはむしろ同調と随順を意味することが少なくない。日本の革命運動における「天皇制」といわれる諸傾向の跳梁は、個人の内面における忠誠の相剋を通過しないうちに、革命集団内部において「正統性」が確立したことと無関係ではなかろう。「忠良なる臣民」をいわば両陣営に分割した形で社会的に対立する体制と反体制運動とは、自我の次元にまで降って見ると、しばしば驚くほどの共通性を帯びるのである。」(集⑧ 「忠誠と反逆」1960.2.pp.271-272)
 「はたして、封建的忠誠の解体にしたがって、忠誠意識一般が、被縛性と自発性とのディアレクティッシュな緊張を失って行かなかったかどうか。「謀叛」がまさに否定象徴として強力であったからこそ、またあった間だけ、忠誠の転移は痛切な自我内部の葛藤として意識化され、その摩擦がまた反逆の内面的なエネルギーを蓄積させたのではないか。自我の次元での「謀叛」意識が、「世界文化的の大勢たる人類解放の新気運」への「強調」(新人会)や「歴史的必然」としての体制的革命思想のなかに吸収されたとき、かえって組織への忠誠と原理への忠誠とは癒着する傾向を強めなかったかどうか。そうして、地方、組織の官僚化にたいする反逆は、天皇制の場合にも異端の「天皇制」化の場合にも、あらゆる被縛感を欠いた自我の「物理的」な爆発、肉体的な乱舞として現われたのではないか。そもそも近代日本の組織のエートスは、旧体制下の忠誠構造の何を引き継ぎ、何を引き継がなかったのか-こうした問題は‥現代の地点において日々決済しなければならぬ債務関係としてわれわれの前に置かれている。」(集⑧ 同上p.276)
「そもそも現代というのはどういう時代なのかという根本的な問題に行き当らざるを得ないと思います。‥私たちは私たちの毎日毎日の言動を通じまして、職場においてあるいは地域において、四方八方から不断に行われている思想調査のネットワークのなかにいるというのが今日の状況であります。…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。…しかもおよそ政治的争点になっているような問題に対して、選択と決断を回避するという態度は、まさに日本の精神的風土では、伝統的な行動様式であり、それに対する同調度の高い行動であります。(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.303-306)
「内と外の観念におきましては、何よりも自分が直接属しているところの集団というものを基準にして、その集団の内と外とに線が引かれるわけです。…その場合の内というのは、必ずしも文字どおりの内だけではありません。自分が同一化したところの集団が内であります。…近代的な集団の中でも、伝統的な内・外の垣根の区別にもとづく何かモラルというものが、そこに予想されているわけです。よそ様にみっともないというようなことがいわれます。
 こういうよそに対するふるまい方およびうちに対するふるまい方の区別にもとづいて個人が行動するときには、それは一人ひとりの個人のモラルにもとづいて行動しているのではなくて、その場合に通用しているモラルというものは、家とか村とか国とか、つまり自分というものが同一化したところの集団に通用している道徳であります。…
 …うちのメンバーが‥よその世界に出ていくと、‥今までのそういうモラルの拘束力というのはなくなるわけです。よく「旅の恥はかき捨て」などと申しますが、それはこういう自分の直接属している集団だけがモラルである場合には、その集団から離れた場合にはモラルがなくなるということを意味しているわけであります。…
 こういうモラルというものは、したがって場所柄というものと不可分であります。つまり空間的な場所というものと、モラルというものとが切り離しえないわけです。それだけモラルが個人に良心として内面化されていないわけです。場所柄にかかわらず、どこにいても通用するモラルというものは、こういう内・外のモラルというものとは、つまり範疇的に区別されます。つまりそういう場合には、‥人間としての自分というものが問題になるわけであります。」(別集② 「内と外」1960年 pp.349-353)
 「閉鎖的な集団におきましては、このよそ者に対するふるまいと、うちの仲間のモラルとが使いわけられます。したがってそこでは、極端に申しますれば、よその世界に一歩出れば、「門を出れば七人の敵あり」ということになり、それに対して内の世界では、本来的に人々は一致している。…内の世界では対立とか抗争とかいうものが、それ自身何か悪いことである、‥みんなそこでは一致してなきゃいけない、こういう建前がとられるわけであります。
 ですから、こういう閉鎖的集団に住む人々がよそ者に対するときには、一種の身がまえる姿勢が出てまいります。その身がまえというのは、よその者に対する畏怖、警戒としてあらわれることもありますし、また逆によそ者に対する度はずれたもてなし方としてあらわれることがあります。」(別集② 同上p.353)
 したがってそこでは違った意見なり、非常に違った考え方というものの中から統一を生み出していくという、つまり多様性のなかからの統一という、そういうプロセスにおいて考えられるのではなくて、全人間的な一致というものがはじめから前提される。…逆にいうと、今度は対立の方は‥ただちに全人間的な対立になる。裏切りとか売国奴とか、‥集団からトータルに排斥するという行動になってあらわれるわけであります。」(別集② 同上pp.353-354)
 「こういう世界におきましては、‥その集団に一般的に支配しているものの考え方およびモラルというものに従って行動すればいいわけです。…個人がすみからすみまでそういった集団に支配しているモラルに規定されているということは、非常に強い拘束のように感じられますけれども、反面からみると、そういう閉じた社会のモラルというものは、具体的な状況というものについて個別的に考えて、そうして自分で方向を決定し、自分で選択することをしなくて済むわけです。仲間のしきたりに従えばいいわけでありまして、‥その意味では楽であります。世間様に笑われないようにすればいい。…
 ですから、こういうモラルと考え方だけでやっていけるというのには、実は条件があるわけです。それはつまり人間がうちの集団の中だけで住むということ、およびその集団が非常に外に対して閉鎖的であるということ、人間の住む環境というものが固定しているということが条件になるわけであります。」(別集② 同上pp.354-355)
 「新しい出来事によって、既存の、今までにわれわれの中にすみついた固定的なイメージをいつも修正する用意をもつというのが、われわれの知性の働きであります。もしこういう能力が著しく欠乏するとどういうことになるかというと、つまり外の出来事、新しい出来事、それがどんなに大きな出来事であり、また画期的な出来事であっても、それを全部固定した今までのイメージで受け取る。…偏見というのはそういう作用をする。したがってわれわれは、そういう心理になりますと好ましい現象だけを見る。好ましくない現象が起こっても、それを直視しようとしないで、その意味を探ろうとしないで、それを見まいとする。あるいはそれを全部既存のイメージに合わせて解釈しようとするということになるわけであります。…非常に変わった出来事に対して、あるいは自分の好ましくない出来事を見ると、その受信を拒絶したり、あるいはそうでなければけいれん的な反応を起こすわけです。」(別集② 同上pp.360-361)
「いわゆる外来思想を変容する日本的なものをどうやったら取り出せるのかというのが日本思想史の課題です、」(手帖3 「日本の思想と文化の諸問題(下)」1961.10.17.p.16)
 「時勢に対して断固として普遍的な理を守るという態度は非常に弱い。これが、雪崩を打って転向するということと関係があるわけです。…状況変化に対する適応性というものにも現れる。つまり状況追随主義になっても現れるし、状況変化になっても現れる。」(手帖3 同上p.25)
 「テクノロジーの発達により過去の地理的条件というのは急速になくなった、なくなりつつあるということが言い得る。そうすると、どういうことになるか。永らく日本の特色をなしていた底辺の等質性というものが他の文明諸国のように崩れてゆくのは、時間の問題だということなんです。」(手帖3 同上p.26)
 「今までわれわれには模範国があった。これはさっきいった地理的条件。模範国から非常に高度の文明を輸入してきた。模範生というのは学習能力はあります。解答を出す能力はあります。模範答案をつくる能力はあります。残念ながら自分で問題をつくる能力は弱い。人が出してくれた問題を解くのは実に得意です。これはゴールの問題で言いますと、目標を人から与えられたら、さっきの勢ですね、エネルギーですごく張り切る。戦争というと一億火の玉になります。…これを目標達成能力と言うんですね。しかし目標は自分でつくるんじゃないんです。目標は外から与えられるわけです。戦争とかオリンピックとか。そうするとみんな張り切っちゃうんです。日本の会社のすごい生産力というのはそこなんです。‥「きよきこころ」「あかきこころ」で会社に奉仕する。自分で目標を設定するんじゃない。況や新しい目標をつくり出して来るんじゃない。…つまり新しいゴールというものをわれわれは設定し、あるいはプルーラルな、多元的な目標の中からわれわれの目標を選び出す能力というもの-つまり問題をつくる能力、模範解答を出す能力じゃなくて、そういうものを養っていかなきゃいけない。…
 良いものは放っておいても伸びるんです。悪いものは自覚しないとなかなか除去できない。そこでわれわれはそういう意味での自己批判の精神というものを養わなきゃいけない。」(手帖3 同上pp.29-30)
「世界の思想史をほんのちょっとでも勉強すれば、特殊から普遍への「突破」には、個人の場合にも民族の場合にも、質的な飛躍-宗教的にいえば、「回心」が行なわれており、ズルズルの連続的発展ではない‥。…
 土着対外来という発想にしても、またそれとしばしば結びつく、内発的対外発的という発想にしても、そこに共通して、土着的=内発的なものがすなわち主体的なものだという価値判断が伴っていますね。…ここには二つ問題があると思うんです。一つはいかなる内発的な文化も、まったく異質的な他者の文化に刺激され、その火花を散らす接触の過程を通じて新しい創造と飛躍が行なわれるという当然の事理が忘れられ、発生論と本質論とが混同される傾向があるということです。もう一つは、主体性という場合にも、個人の主体性と、日本民族の他民族に対する自主性という二つの事柄がゴッチャになるということです。「日本人の主体性」などという表現は、日本語では単数と複数の区別がはっきりしないだけに、「くに」という表現と同様に呪術性が強いんです。歴史的にみても日本のナショナリズムは「くに」への帰属意識を中核としているから、個人の次元ではかえって「くに」もしくは日本人集団へのもたれかかり、つまり非主体的になってしまうという皮肉が見られます。
 ‥たとえば、日本の神道が日本の民族宗教だという場合と、ユダヤ教がユダヤ民族の民族宗教だという場合との、質的な相違ですね。産土神(うぶすなかみ)からアマテラスにいたるまで、日本の神々はまさに日本の国土ときりはなせない特殊神ですが、エホバは初めから世界神で、ただユダヤ民族と契約で結ばれている。エホバから見放されたカインは、自分と途で会う者は誰でも自分を殺すだろうといいますが、こういう絶対的な孤独感-ちょうどホッブスの自然状態における個人のおかれた状況のようなものは、日本人の想像を絶していますね。日本の宗教を共同体宗教とよくいいますけれど、日本の場合、共同体が単一でなくて、複数的に重畳している。だから一つの共同体から追放されても、他の共同体へ帰属することで救われる。「捨てる神あればひろう神あり」という命題は、シチュエーションごとに神をもっていなければ成り立たないわけです。そうしてこういう複数共同体をそのままかかえこんだ形で「くに」共同体がある。「持ちつ持たれつ」の人間関係はこうした基盤の上に成り立っている。カインのような壮絶な孤独におちこまないのは有難い国ですけれども、その反面、精神の内面で一切の環境への依存を断ち切ることがむつかしいから、それだけにひとりひとりが自分の肩に民族の運命を背負い、民族の方向を決定する主体だという自覚も成長しにくいんじゃないですか。
 しかし、日本ほど早くから「未開民族」の段階を脱して、その時代時代の最高度の世界文化に浴しながら、しかも人種・言語・国土、底辺の生産様式と宗教意識などの点で、相対的に同質性を保持して来た文明国は世界にもめずらしいんですね。‥日本の国籍をもつ人民の圧倒的多数は先祖代々この国土に住み、日本語を話して来たこと、しかも逆に日本語が通用する地域は、一歩この国土の外へ出るとほとんどないこと-というわれわれにとっては当り前のことが、世界的にみるとちっとも当り前ではない。ですからこうした当り前を当り前にしないで、これを「問題」として問うて行くことが必要です。そうして、なぜ土着対外来、内発対外発、日本対「外国」(複数)という対置法が好んで用いられ、しかもそれがしばしば主体性や自主性の主張と結びついて、くりかえし日本の思想史に現われてくるか、という問いも、実は、右のようなヨリ大きな問いの一環として考えられると思います。」(集⑨ 「日本の近代化と土着」1968.5.pp.369-373)
「自分の精神の内部で、反対の議論と対話しながら、自分の議論をきたえていくことがあまりにもなさすぎる。したがって、自分の議論というのはコトバだけ信じているということが多いから、世の中の空気が変わりますと非常にもろくくずれる。あるいは別の集団にいくと、今までとまったく違った見方に接して、なるほどそういう面もあるのかということで、一度にころりとまいってしまう。これは個人の思想だけではなくて日本民族の思想史にも、そういう傾向がある。日本人は非常に同質的な民族ですね。人種的にも言語的にも、宗教意識もこれぐらい同質的な国民は文明国民の中にはありません。島国で、しかも民族的同質性が高いもんですから、いわば日本全体が一つの巨大部落だったといってもいいわけです。‥ですからひとたび異質的な文明に触れますと非常にもろくいかれるところがある。…異質的なものとの対決を通じて自分のものをみがきあげ、きたえていく機会が非常に少なかったからです。これからの日本は、それではすまなくなると思うんです。」(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.81-82)
「日本の場合には自分の好みとか、自分の思ってること、自分の気に入ってることを主張するということなら、とうとうと何時間もまくし立てるけれども、じゃあ反対の立場を述べてごらんなさいといったら、愚劣であるとか、ナンセンスだということしか述べられない。つまり内在的に相手の論理の中に立ち入ってそれを完全にそしゃくして、その上で自分の論理を展開していくということがあまり行なわれない。これは精神の強さではなくて弱さの表現です。否定を媒介にした肯定でなくて、いわしの頭の信心に近い。こういう精神的雰囲気があるところに、具体的な処方箋を与えるということはかえってよくないというのが、まさにわたくしの現代日本への処方箋なんです。」(集⑯ 同上pp.121-122)
「南原(繁)先生の場合には、こうした「貧乏」への感覚は同時に文字通り「隣人」の経済生活への不断の思いやりとなって現われていた。それだけでない。私がその後さまざまの局面で思い知らされたのは、さきの先生の言葉にもある「人それぞれの行き方があるが……」という留保が、先生においてはたんなる修辞ではなくて、むしろ先生の本質的な信条にかかわっていた、ということである。従って先生の「やせがまん」は、たとえば先生よりはるかに恵まれた研究条件にある、(もしくは条件を選んだ)人々にたいするルサンチマンの感情とはおよそ無縁であった。こうした生活問題に限らず、己れを律する厳しさと、他人の他者としての「行き方」にたいする寛容と、この二者が先生の場合のように一個の人格のなかに融合している例に、私は今日まであまり遭遇したことはない。」(集⑩ 「断想」1975.5. p.165)
「特に人間の行動の場合に、あるいはその人間が集まって構成する状況をみる場合に、今日と明日とはすでに違っている、何か変化が起こっているという視点と、それから根本的に人間なんて起源の始めから、あるいは紀元前から、つまり何千年も昔から文明を築いているわけでしょう。だから、人間の根本の行動様式というものにはそんなに変化はないのだ、と。‥
根本的に変わっていないのですよ、その根本的に変わっていないという視点と、今日と明日はすでに違っていると、何か状況が違っていると、いつもその両方の尺度をあわせもっていなければならない。…
日本の場合にはやはりどういうわけだか、変化する方に目を奪われてしまうのですね。…日本人の場合には、特殊な、これくらい同質的な国民はありませんから、‥余計に瞬間、瞬間の話題にすべての関心が集中する。‥そうして今度は、たちまち忘れられていく。また今度は新しいものに、全ての関心が向いていく。‥つまり、ゴーイング・マイ・ウェイというのが、非常に難しい国なのです。つまり、風が吹き出しますと、一斉にその方向に加速するわけです。そのなかで吹き飛ばされないように立っているのは大変なことになってしまうのです。皆一緒に風に乗ってスッと行けば、これは一番楽ですよ。それで、また急に風向きが変わるわけですね。したがって、文化の形にもそれが現れている。情報過密であると同時に情報の集中性が甚だしいということです。情報の多様性ではなくて、集中性が。ということは話題の集中性が甚だしい。しかも刻々変わっていくということですね。
大きく飛躍して言えば、個人の自立的な生き方、考え方というものが困難。嵐に抗するということが困難でしょう。流れに抗するというのが困難な社会。だから、「ラッシュ・アワー社会」と言ってもいいと思うのです。人間と人間との空間がほとんどない。皆、隣り合わせに密集しているでしょう。電車に乗るにも、人を押し退けなければ乗れない。「押し合いへし合い社会」。お互いにお互いの生活領域を侵しあっている。お互いの生活領域を侵しあっている。侵しあわなければ生きていけないくらい、密集している社会なのです。ということは、ラッシュ・アワーのなかで「火事だ」と言えば、パニックが起こる。人と人との空間がもっと離れていたならば、先導者がいて「火事だ」と言っても、まわりを見回して「あぁ、嘘だな」と判断できるでしょう。個人の精神的な独立性ということを保持するのが、とても困難な社会ですね。
これは日本の、日本人というものの同質性と、現代の文明世界に共通しているテクノロジーの発展のもたらした、いわゆる人間のマス化ですね、それが日本の場合ダブって現れている、加速されるわけです。それから、元来他者がいない社会ですね。人種がいろいろ目茶苦茶であったりする社会と、全然別ですね、日本は。先祖代々、我々の少なくともたどり得る先祖は大体日本人です。これは非常に珍しい社会です。‥日本はたいへん同質性が強いわけです。そういう性質と、先ほど言った「方向同一性」、その方向に向かって、あるいはその時々に変わる関心に向かって、全部の人の目が集中してしまうということとは、無関係ではないと思いますね。‥
急に「米英撃滅」から「デモクラシー万々歳」になってしまった、一夜にして、民主主義になってしまったということに対する、ほとんど絶望感に近いようなシニシズムがありましたね。そのこと自身が民主主義的でないわけですよ、一夜にして民主主義になってしまうということは、また一夜にして、明日どうなるかわからないということですから。‥
つまり、戦争中は近代的思惟というものを、非常に盤石な幕藩体制のようなものであっても、蟻の穴から崩れるように内側からズルズルと崩れていって、迎え入れる準備ができていると。決して舶来のものではないのだと。近代的思惟の内発性を戦争中は言おうとしたわけですね[「『日本政治思想史研究』あとがき」]。ところが、今度は一夜にして民主主義になってしまうから、アメリカ民主主義万々歳でしょう。要するに、日本のものは全部ダメだということになってしまうわけです。戦争中と力点が逆になって、近代的思惟イコール西洋思想、ヨーロッパ思想と。それを排撃して日本精神と言っていたのが戦争中です。西洋思想イコールダメだと、鬼畜米英だと。それが今度は価値判断をひっくり返しただけで、基本的な考え方は同じ。近代的思惟というのはアメリカデモクラシーなのだと。そういうことになると、日本のなかから自主的にデモクラシーを生みだしていくということは、ほとんど絶望的になってしまう。
したがって、日本のなかにある内発的なデモクラティックな要素というものは微弱ながらあったのだから、やはりそういうものを育てていくということで、われわれ自身が自信をつけなくてはならないのだというのが、戦争直後の状況でしょう。」(手帖26 「第四回大佛次郎賞 受賞インタビュー」1977.9.25.pp.16-20)
「『文明論之概略』で福沢は何を言っているかというと、「日本人に公共精神がない。井戸ざらいの相談もできない。道路の普請もできない」と。つまり隣の人と組むという発想がない。というのは伝統的共同体というのはウチ・ソト発想ですから、ウチというのはいろいろな同心円です。‥つまり、パブリックの観念が発達しないということを、福沢はまさにそこで言っているんです。というのは、共同体が逆にパブリックの観念の発達を阻害している。私は軍隊で実にそれを体験しましたね。そっとゴミやなんかを隣の班に掃くんです。そのエゴイズムはひどいもんです。今でもそうじゃないですか。だからパブリックの観念が発達しない。道路が発達しない。公園が発達しない。つまり維新の時にみんなびっくりしたのは、公園や病院の存在です。こういうものはみんなパブリックな施設ですから、当時の日本には全部ないわけですよ。というのは、パブリックの観念がないから。日本でパブリックというと、お上なんですよ。お上が全部やってくれる。公というのはお上、"上"なんです。[日本では]パブリックは横の観念じゃないんです。横の観念というのは、かえって個人主義、個人主義といわれているヨーロッパに発達している。‥さわらぬ神にたたりなしというのが、逆に言うと一種の共同体根性なんです。
ですから思想史的にいえば、個人主義というのは、手を組む、手を組んでデモをする、つまり隣の人と組む思想なんです。およそ実体的な真っ裸な個人を想定していうわけではありません。‥伝統的な共同体からはそういう公共精神というのが純自発的、純内在的に出てくるか、と言うと私は出てこないと思う。無限の同心円ですから。その無限の同心円のいちばんソトに国という同心円がある。‥飛行機が落ちると、"日本人が誰もいなかった"って報道されるでしょ。とんでもない。どうして日本人がいなかったら嬉しくて、外国人が死んだことには無関心なんですか。それが伝統的共同体意識。これを徹底的に打ち壊さなければいけない。打ち壊さなければ一人の人間という意識が出てきません。日本であろうと外国人であろうと、隣に住んでいる人と手を組むという意識は出てきません。パブリックの意識は出てきません。」(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6.2.pp.33-34)
「ただ私は住民運動とか地域運動には非常に期待をかけてますね。地域エゴの問題はありますよ。ありますけれど、地域エゴは他の地域エゴともっとぶつからすと、セルフ・ガヴァメントという考え方が出てきます。地域エゴがいけないというと、また地域エゴに対するお上の発想になってしまいます。地域エゴと地域エゴをうんとぶつからしたら、毛沢東の言う人民内部の矛盾が出てくる。人民内部の矛盾の解決能力が、人民が統治能力があるということの証ですからね。」(手帖10 同上pp.34-35)
「ウチ・ヨソ意識の打破というものがないと、やはり人権感覚も出てこないし、集団の内部の少数者の意識の尊重ということも絶対に出てきませんよ。共同体主義からは、満場一致社会ですから。‥いちばん日本に欠けているのはそれですよ、マイノリティの尊重。‥あらゆる集団の中における"ノー"という権利の尊重、これこそ決定的に欠けているものですよ。雰囲気の圧力というものが非常に強いから。"ノー"と言いにくい空気ということですね。ある方向にはずみがついちゃうともうどうにもならない。戦争中の私の実に深刻な経験です。もうどうにもならない。恐るべき孤立感です。だから、国家権力よりももっと周囲のはずみの方が怖い。‥マスコミのあり方もそれと関係している。」(手帖10 同上p.36)
「昭和三九年‥東大で行なった講義のノート、東洋政治思想史講義案第三分冊は<王法と仏法>というものなんです。第四章が「王法と仏法」で、第五章が「鎌倉仏教における宗教行動の変革」。具体的な思想家で言えば、親鸞、道元、日蓮なんです。鎌倉仏教は、日本思想史上の最高峰だと思うんですけれどね。‥
仏教は、日本に鎮護国家思想として入ってくるんですね。鎮護国家の「国家」は、王室という意味です。今日の「国家」という意味はない。最初、仏教は王室を守護するものとして入ってくるんです。そして、やがてそれが貴族仏教に転化してくる。つまり藤原氏が氏寺をつくったりなんかする。簡単に言っちゃうと、それが平安仏教。
 日本における宗教改革は、鎌倉時代になって起こってくる。これは律令体制の解体期にあたりますから、偶然じゃない。世界に誇るに足る三人の思想家が、そこで出たわけです。それがいずれも奈良平安仏教と切って、‥新しい仏教を樹立する。これが日本におけるリフォーメーション(宗教改革)ですね。‥
 江戸時代になると、仏教はまったくだめになる。名僧智識(めいそうちしき)は一人もいないんじゃないですか。お寺が区役所になっちゃう。キリシタンを弾圧するために寺請制度をつくって、だから。日本中が総仏教徒、ぜんぶ檀家になっちゃうんです。ふつう、世界の宗教で、こういうことはあり得ない。つまり、個人の宗教でなくってね、家の宗教になっちゃってる。仏教のそういう変質は非常に早いんだけども、極まったのが江戸時代なんです。それが今日まで続いている。…」(自由 1984.10.6.pp.38-39)
 「仏教は厭離穢土(おんりえど)と言うんですね。このけがれた土地から離れて救済される、解脱宗教でしょ。あらゆる宗教にそういう超越的な要素があるけれども、仏教の言葉では、それを「往相」と「還相(げんそう)」と言うわけです。つまり、彼岸に往ってね、また地上に還ってくる。キリスト教は、そういう要素がいちばん強い。あるいは回教にも非常に強い。で、その要素がもっとも薄いのが仏教なんです。仏教は、菩薩が出てきて、初めて救済仏教になるんですから。仏教は、もともと、ある意味で無神論ですから、いちばん重要視するのは究極的な真理の認識です。他者の救済とかね、そんなの問題じゃないんです。ところが、仏教も発達してくると、いろんな要素が入る。ずーっと後になって菩薩信仰も入り、これが救済宗教になる。
 キリスト教や回教は初めから救済宗教なんです。究極的な真理の認識というのは第二義的なんです。したがって、この世における倫理的な面、つまり福音書の教えをはじめから持っている。だから今日だって、この世的な活動がいちばん少ないのは、やっぱり仏教でしょう。ウェーバーは、やや公式的に、これを世間逃避と言っています。世間からの逃走、つまり遁世ですね。彼岸に往って、またこの世に戻ってくるという要素が、比較的乏しいことは事実なんですね。
 したがって、政治思想史を書く場合に、仏教は非常に扱いにくいんです。そこで、ぼくは戦争中から、どうやって仏教を政治思想史の上に登場させたらいいかを一生懸命に考えたんです。
 日蓮の『立正安国論』とかね、栄西の鎮護国家論とかはありますよ。国家とか、そういうことを言ったのは。だけど、つまんないんだな。思想的価値から言うと、ぜんぜんおもしろくないんです。
 そこで、「王法と仏法」「鎌倉仏教における宗教行動の変革」と、講義で仏教を扱うことにしたのは、政治思想史における仏教の役割は、個人のこの世における行動のパターンに影響しているのじゃないか、ということなんです。世間と自分との関係、そういうものに対する根本的なパターンを仏教が決定している、その意味で大きな影響を及ぼしている、というのがぼくの考えです。」(自由 同上pp.40-42)
「簡単に申しますと、聖なるものと俗なるものとの関係ですね。聖なるものとは、仏教で言えば仏法です。俗なるものは王法です。つまり、考えたいのは、仏法と王法の関係なんです。日本の支配的なイデオロギーは「仏法王法相依(そうえ)」、つまり、相互依存。これが一貫した伝統なんだけども、それが強いために早く体制化しちゃって、だけど、鎌倉仏教になって、そこを断ち切ったやつが出てくる。
 そこで、平安末期からの四つの類型を、聖と俗との関係について立てたんです。聖と俗、仏法と王法との関係づけですね。聖と俗について、それぞれ積極タイプと消極タイプとに分けます。つまり、聖なるものに対する態度については、聖を享受するのと、聖を実践するというのと、この二つのタイプに分けたわけです。聖を享受するというのは、スタティックだということです。
 すると、いろんな組合わせができる。
 たとえば、聖の享受に立って、王法に対して消極的な立場をとる。同じく聖の享受に立ちながらも、王法に対しては積極的な立場をとる。あるいは、聖なる仏教の実践の立場に立って、この世に対して消極的立場をとる。また、この世に対しても積極的立場をとる……。こういう類型ができるわけでしょ。その相互移行関係というものを考えたわけです。‥互いに移動しうるところが大事なんですけれども。
 まず脱王法です。これは聖を享受しながら、この世に対して消極的な位置をとる、つまり王法から逃げる。だからfromということで、(F)で表しています。これは、遁世の思想で、西行とかね、平安末期から出てきます。山林や海辺に庵を結んで、この世から逃避する。こういうのが脱王法なんです。
 一方、聖に対しては実践の態度をとりながら、王法に対しては消極的。これは、王法を断つ、つまりoffだから(O)で表わしてます。‥聖を実践するためには、王法を断つべきだと考える。だから、断王法。典型的には親鸞です。法然から親鸞への流れはoffなんです。つまり、法然も親鸞も弾圧されるんですけど、たとえば親鸞の場合ですと、守護や地頭の命令に背いてはいけないと。ルーテル(ルター)とちょっと似てるんですね。世俗の法には従わなきゃいけない。だけども彼らが信仰の領域を侵したら、断固として抵抗すると。犯さないかぎりは従っているけど、侵したら抵抗する。つまり、信仰の自由のための抵抗、という態度が出てくる。非政治的な仏教の立場に立って、王法に抵抗する。だから、単に逃げて海辺に庵を結ぶというスタティックな態度とは違っている。ですから、隠遁思想の持ち主だった人は、聖の享受から聖の実践へ移るにしたがって、脱王法(F)から断王法(O)に近づくわけです。また、同じくこの世に対して消極的姿勢を持ちながら、聖の実践から聖の享受に変わっていくときには、反対に、断王法(O)から脱王法(F)のほうへと移るわけです。  また、向王法。これは王法に向かうということで、towardの(T)で表わしたんです。王法と仏法、両方積極的なケースですね。典型的には日蓮です。  それから、王法に内在するという意味で、在王法。insideだから(I)で表わした。要するに体制宗教です。つまり、この世から逃げないで世間にいるという在家的な意味では(T)と同じなんですが、(I)は、むしろ世俗的な権勢と平和共存しちゃう。栄西の臨済宗なんか、はじめからこれです。
 だけど、ここでもやはり互いに移動する可能性がある。つまり、聖に対する実践の態度が薄らいで、享受の態度が増してくるにしたがって、向王法(T)だった者も、在王法(I)に近くなる。逆に、聖を享受していた在王法(I)の人が、聖をこの世に実践するほうに向かうにしたがって、向王法(T)に近づく。こっちも相互性があるわけです。
 断王法(O)というのは、世界、つまり王法に対して、消極的な姿勢でしょ。法然から親鸞、つまりルーテルなんかと同じで、受動的抵抗より出ない。ところがそれに対して、日蓮なんかが、積極的に法華経を護持しないと国家は滅びるぞとか言いだすと、これは断王法(O)から向王法(T)に移る。また、逆の移行もありうるわけです。それから今度は、(T)の立場で王法に立ち向かっていても、聖の実践から、だんだん聖の享受のほうが主になると、在王法(I)の寺院仏教になっちゃう。ただ、脱王法(F)から向王法(T)には移らない。なぜならば、聖なるものを享受するか実践するかという分岐とですね、この世に対して消極的態度をとるか積極的態度をとるかという選択とが、両方一度に変わるということは、非常に珍しい。だから、いっぺんに斜めに移行するんじゃなくて、いったん上下なり左右なりに動いて、そこからさらにまた動く。それがだいたいの移行の形態なんです。  (F)は、出世間、遁世、それから時宗なんかの踊り念仏などもそうなんですね。だから、神秘主義に近い。世間に対しては消極的なんですけども、絶対者と自分とが合一する。
 (鶴見「一遍上人ですか。」)一遍もそうです。ただ一遍になるとね、脱王法の契機と、断王法の萌芽、両方があるんです。だけどやっぱり、時宗には、この世は関係ないんだという態度のほうが強いですね。この世に対して何か態度をとるよりは、関係なしに法悦境にひたる、絶対者と自分とが合一するというほうが強い気がする。だけど、一遍は断王法に近くなってはいます。その踊り念仏の流れの中では。
 (O)がいちばん積極的に現われたのは、親鸞の悪人正機説です。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と。‥ここで、この世の倫理と完全に切れるわけでしょ。…ぼくは、すごい、世界的な思想だと思うんだけどね。親鸞の『歎異抄』に出てくる悪人正機説は、平安朝後期からの末法思想の最もラジカルになった形なんです。…
 親鸞も日蓮も法然もそれぞれ違うけれどもみな末法思想です。ただ、それは隠棲の脱王法(F)に始まりながらも、やがて、この世を正法に返そうという日蓮なんかの立場と、ほんとの救済というのは西方浄土にあることを大衆に教えようとする親鸞の態度とに分かれますけども。いずれにしても、末法思想がラジカルになると、親鸞なんかの断王法(O)、そして日蓮の向王法(T)が現われてくる。
 日蓮の『立正安国論』は、鎮護国家論の否定の否定だとぼくは言うんです。一〇年間、日蓮は比叡山で修行して、それから山を降りて説きだすわけですけども、結局、あのように弾圧される。法華教を護持しないと国家は滅びると言うんですからね、これが以前の鎮護国家論と同じかというと、そうじゃない。体制宗教じゃないんです。むしろ、親鸞なんかよりもっと強く王法に立ち向かっていくという態度になるわけですね。だから、鎮護国家の否定の否定、そこでの肯定と考えたんですけれども。
 で、在王法(I)は王法仏法相依です。栄西の『興禅護国論』なんかが典型ですけども、結局のところ、残念ながらね、つまり(F)も(O)も(T)も、みんな(I)になっちゃうんですよ。これが江戸時代なんです。全部、体制宗教になっちゃう。」(『自由』 同上pp.42-48)
 「結局、仏教を日本政治史上にどう扱うかという根本的な考え方からすると、‥個人個人が世間に対して、あるいは政治に対して、どういう態度をとるかという基本類型を仏教は示したと、そこのところを見たいと考えたんです。そこでぼくは脱王法(F)をデポリティカル、断王法(O)をアンタイポリティカル、それから向王法(T)をポリティカル、それから在王法(I)をノンポリティカルと、そういう政治に対する四つの基本的態度に投影させてみたわけです。
 それを決定したものは、やっぱり神道ではない。また、儒教は治国平天下だから、個人の魂の問題はあんまり言わないわけでしょ。そうすると仏教なんですね。‥その相互移行関係というものから、個人の転向の問題なんかもある程度説明できるだろうと。そういうふうにしてぼくは仏教を位置づけたいというのが、昭和三九年ごろの-その後あまりやっていませんからね-考え方なんです。‥ぼくは、仏教というのは、ほかのさまざまなイデオロギーより、世間的なものに対する個人のかかわり方というものを今日にいたるまで最も深く規定しているのじゃないかと思う。およそ仏教のブの字も意識していないでもね、そういう意味では歴史が長いですから。」(自由 同上pp.55-56)
「(鶴見「《不服従という思想が出てくる場所を持つ、そういう日本の思想史がそこ(宣長)にありえませんか》というのが、私からの‥質問です。」)宣長に即して言うならば、歌道論の極致へいくとね、つまり美ですからね、美的なものが日本では宗教的なものの代用をしちゃうんですよ。それがぼくは日本文化の大事な契機だと思う。日本思想史の中で、文学史というのが非常に大事なのは、そこだと思うんですね。結局、審美性というのを離れては、日本思想史というのは語れない。しかし、危険性も同時にそこにあるんで、三島由紀夫みたいなのは政治の審美化、したがって天皇制と結びついちゃう。で、歌の道というのは、代々、お歌会からしてそうだけれども、非常に深く天皇制と結びついてるでしょ。…
 (鶴見「もう一度言うとね、宣長には、政治的なものにどっぷりつかまっちゃわないで、別のものを、もちこたえて持っていたという感じはありますね。‥それは明治以降どうなっちゃうんでしょうかね。」)自然主義文学者だとか、そういうものの中にややそういうのが受け継がれていて、徳田秋声とかね、まあ、ずっとありますよ。永井荷風も含めてね。
 (鶴見「里見弴なんか、そうかもしれないなあ。白樺派で戦争中も軍国主義に便乗しなかったというのは柳(宗悦)、里見の二人しかいなかった。‥」)ええ、有島(武郎)になるとキリスト教が入ってくるから話がややっこしくなるけど、有島を白樺派に入れるなら、やっぱりそっちの系統だと思うんです。審美主義の系統というかなあ、そういう立場から政治に抗議するという可能性は充分あります。」(自由 同上pp.65-66)
 (「とくに日本がそういう集団主義みたいなものを育んだ、その発生的な原因というのは、どういうところにあるんでしょうか。」)それはよく分からないけども、上山(春平)君じゃないけど、ぼくは水田稲作というのが関係あるんじゃないかと思う。他の地域でも水田耕作はありますけどね、日本は海辺まで山が迫ってるわけですよ。つまり、農耕に適してるところが、非常に少ないわけ。そこに集まって住んでる。しかも、稲作っていうのは、集約的な労働が必要ですから、協業なしにできないんです。田植えとか、刈り入れどきには、村総出じゃないと。…づると、どうしても和が尊ばれざるをえない。
 中国にも水田耕作はあるけれども、あんなふうにめちゃくちゃに規模がでかければ、また話がべつになる。日本みたいに小さな集落での水田稲作だと、大規模な灌漑も必要としないでしょう。エジプトのナイル川とか、ああいう大規模な灌漑を必要とするところでは、大官僚制が発達する。マックス・ウェーバーからマルクス、そしてウィットフォーゲルにいたるまで、彼らが「アジア的専制」って言うのは、つまるところ、自発的協業じゃ、どうにもならないわけです。」(自由 同上p.199)
「戦後すでに四十年でしょ。‥あの日本の破局的な三〇年、四〇年代の戦争および軍国主義の時代というものを、大きくは歴史の教訓として、日本史の教訓として、さらに直接には、一個の日本人としての自分自身の経験として、何を学んだか、それともあの巨大な経験から何も学ばないのかということが、ぼくには非常に気になるんです。
 …大事なのは、日本人が戦争経験からどういうふうに、またどこまで学んだか、ということではないかと思います。‥歴史から学ばなければ同じ歴史を繰り返すということです。ぼくはどうも最近の事態を見ると、一体日本はどこまであの最近の歴史から学んだのか、あれだけひどい目に会い、かつ近隣諸国をひどい目に会わせながら、そこから一体何を学んだのか、経済大国になっていい気になって、経済的繁栄に酔い痴れているのが現状ではないか、ほんとうに何と忘れっぽい国民だろうと思わざるをえないわけです。そういう感想でもって、ふりかえってみますと、獄中十八年とか、はじめから非転向の、軍国主義に反対して投獄された人、そして苛烈な拷問を受けながら自分の信念を貫いた少数の人はもちろんそれだけで尊敬に値します。そういう人がこっちの端にいますね。もう一方の端には、戦争中は鬼畜米英といい、枢軸による世界新秩序を謳歌しながら戦後掌を返すように米英の自由主義陣営万々歳、とくにアメリカ一辺倒になっちゃったという人がいます。まあ今の政・財・官界の長老の大半はそれです。それから第三の類型として、戦争直後はちょっと首をすくめてて、あるいは一応しおらしいことを言っていて、だんだん日本全体の精神的空気があの戦争の経験をまるで忘れたようになってくると-といっても必ずしも復古だけではなくて、新しく経済的繁栄の上に乗っかって日本の風向きが変わってくると、またぞろ本音が出てくるというタイプがあります。…そういういくつかの類型がぼくはあると思うんです…。そういうなかにあって、一番少ないのが、戦争前および戦争中から確かに考え方が変わって、しかも変わったということの意味を反芻しつづける人ね。これが一番少ないと思うんです。その少数の一人が中野さんなんです。…戦後史のなかで、自分の戦前・戦中の経験をバネにして、二度とその過ちを繰り返すまい、という態度を持続的に貫き、その半生を通じて自分の「思想」を変えていったかどうか-その検証のほうが、静態的な「転向・非転向」のの区別よりもはるかに生産的であり、またその人の生き方が「ほんもの」かどうか、をはかる指針になると思うんです。」(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.172-174)
「『万葉集』を見てると、恋の歌にね、「この世には人言(ひとごと)繁し-」とかいう歌が非常に多いんです。人の噂がうるさい、と。‥ほかの国の恋歌には、きっとこういうのはないですね。中国にも、倫理・戒律を犯すからいけないとか、そういうのならあるけれども。
 官僚制でも、日本の場合は、ウェーバーが言ってるような非人格的な機能の分業だけで人間が結びつく合理的官僚制というのは、あんまりない。そういう面ももちろんありますけども、むしろ親分子分の人間関係が不可分に入り交じったような官僚制であって、この両方が癒着するんですね。今でも、実際には係長くらいがすごく権限を持ってたりする。で、下の権限を、上に奉納するって形になるわけです。トップはお神輿なんです。リーダー自身が強い権限を持つというのは、非常に少ない。むしろ、下から上に奉納したものを容れるという、これが日本的リーダーで。
 例えば、江戸幕府を見ますとね、将軍というのはほとんど実権がないんですよ。権威の象徴であるにすぎない。それでいて、奇妙なことに、京都に対しては幕府が実権の所在なんです。それが、ここで言ってきたレジティマシーの問題なんです。
 レジティマシーの源泉は「征夷大将軍」の位ですから、京都の朝廷からもらってるわけ。だけど、パワーホールダーは幕府でしょ。一方、幕府の内部構造を見ると、トップの将軍は権威にすぎない。実際のパワーホールダーは、老中なんです。つまり、将軍に奉仕する者がパワーホールダーなんです。  鎌倉時代の北条氏まで遡ると、もっとはっきりする。「執権」-この"権を執る"という言葉からして、そうじゃないですか。執権というのは、源氏の将軍の部下です。ところが将軍のほうはノミナル(名目的)でしょ。ただし、まったくそれが無意味かというと、そうじゃなくて、レジティマシーの根源はやっぱり将軍にある。けっして北条氏じゃない。ただ、パワーホールダーは執権。そして、江戸時代で言えば、老中なんです。
 で、しかも、江戸時代の老中は、月番制です。そして合議制です。一人の老中が勝手なことはできない。大老は臨時職ですから、ふだんは老中がいちばん上です。‥
たとえば、目付というのがあるんです。目付はね、老中の支配じゃなくて、老中の下に若年寄っていうのがいて、それの支配に属するんです。そして、老中を弾劾する権利を持っている。江戸時代の場合は、そのへんのところが非常におもしろいな。どれが上で、どれが下だか、よく分かんない。
よく役職とかで、「えらい人」とか「おえらいさん」とか言いますけども、あれは外国語に訳せないですね。‥ああいうのは、価値が一元化した明治以後の産物だと、ぼくは思うんだ。だって、江戸時代だと、いま言った通り、誰が「えらい」か分かりゃしないんだ。…
つまり、日本の社会生活の中には、自発的協力の要素が色濃くある。欠けてるのは、少数者の権利の保護とか、それから、みんなが一斉にある方向を向いてるときに、それに対して「ノー」と言う権利とか。おそろしいほど、それがない。ひとごとじゃなくて、これは、大学にいてもそう思います。
「誰か」が決めたんじゃなくて、「なんとなく」っていうことになるんですよ。教授会でもね、「前回の教授会でこういうことが決まりました」っていうふうに報告されて、なんとなく通っちゃうの。…
「戦争が起こりました」って言うでしょ。「戦争を起こしました」とはけっして言わない。"Who"を言わない。誰が権力を行使するか、シュミットじゃないけど権力の所在が分かんないんですよ。みんながなんとなく相談して決める。ふつうの会社でもそうでしょ。‥根回しだな。それをやらなきゃ、えらいことになっちゃう。フリー・ディスカッションはしない。それをやると、事を荒立てることになるからと。表向きには、誰もはっきりした意見を言わない。そういう風土。暗々裡の、アサンプションとしての満場一致があるだけで。
ぼくは、そういうところで「自発的協力」が求められるのは、非常に危険だと言うんです。まず、人はそれぞれ別であると。互いに違った人間として、いかにして協力していくか、それならいいと思うんですけどね。
セクトやなんかだって、二つしか言葉を知らない。「異議なし」と「ナンセンス」ですよ。悲しいかな、これはやっぱり満場一致制です。「異議なし」のはずないんですよ。ほんとうなら、人間が集まれば異議があるほうが当たり前でしょ。自発的協力による満場一致をよしとする同方向的上昇性が、それほど強く作用してる風土なんです。
だから、ぼくは、日本の無責任体制ってのを自分が論じたもの(「超国家主義の論理と心理」、四六年)について、あらためて近ごろ、自己批判してるの。あそこでは、これを戦争中の病理現象と見たけれども、実際にはそうじゃなくて、もっと根が深い。」(自由 1985.6.2. pp.200-204)
「(鶴見「統計から言えば非常にマイノリティである在日朝鮮人・韓国人に、どういうふうにここで権利を与えられるか。それで一歩一歩、変わっていくということですね。」)そうそう。それがいちばん問われます。在日韓国人・朝鮮人の問題と、それから部落問題ですね。それはやっぱり試金石になるでしょうね。これから問題になっていく。
 部落問題は、racial discrimination(民族差別)でもないし、religious discrimination(宗教差別)でもない。しょうがなくて、ぼくなんかは外国で説明するとき、historical discrimination(歴史的差別)とか言うしかない。差別それ自体に、どうにも理由がないんだ。
 それはともかくね、在日朝鮮人の問題は大きいです。この社会が、内に抱えてる異質的なものだから。」(自由 同上pp.209-210)
「一般的に申しますと、日本では偽悪というのは、逆説的に、しばしば偽善の効果を持つことがあります。日本の風土では批判的な思考が弱いですから、自分の姿勢をいちばん低くしておいて、どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、寝そべった姿勢は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。そういう安定した位置から、理念とか理想とかを求めようとする、背のびした生き方を嘲笑するというのはよく見られる風景であります。江戸の「町人根性」以来の、これが一つの処世術です。…こういうところから、最初に自分のマイナスをさらけだすと、かえって、あいつはなかなかアケスケだとか、人間味がある、なんて褒められる。これが日本の「真心」文化の盾の反面であります。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1985.7.pp.283-284)
 「居直り偽悪は陽性であります。けれども、居直り偽悪が陰性になったのが、福沢があらゆる悪の中で最も悪い悪と規定した、怨望というものです。…つまり、独立自尊の反対概念で、独立自尊の欠如体が怨望になる。…まったく陰性一方で、生産性がゼロな悪徳が怨望なのです。…自分が上がるのではなくて、他人を不幸に陥れ、下に引きずり下ろして彼我の平均を得ようという心理を、彼は怨望と言ったのです。他人に対して常に羨み、嫉妬し、対峙するという感情ですから、独立自尊と反対になります。」(集⑮ 同上pp.285-287)
 「ここに至って‥「惑溺」という問題が出てくる。独立の精神、独立の思考、インデペンデンス・オヴ・マインドというのは、惑溺からの解放ということです。…「惑溺」というのは、人間の活動のあらゆる領域で生じます。政治・学問・教育・商売、なんでも惑溺に発展する。…なんでもかんでも、それ自身が自己目的化する。そこに全部の精神が凝集してほかが見えなくなってしまうということ、簡単に言うとそれが惑溺です。…
 政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っているのです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗していく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立されないということです。…
 したがって、自分の精神の内部に沈澱しているところの考え方と異質的なものに、いつも接触していようという心構えが、ここから生まれてくる。精神的な「開国」です。彼の考え方によれば、どんなに良質な立場でも、同じ精神傾向とばかり話を繰り返していれば、自家中毒になる。だから、わざわざ自分の自然的な傾向性と反対のものに、不断に触れようとする。触れるというのは物理的接触ということだけを言っているのではない。精神内部の対話の問題として言っているわけです。ですから、この独立の精神というのは、精神的なナルシズムとの不断の戦いということになるわけです。精神的な自己愛撫との不断の戦いということになります。」(集⑮ 同上pp.290-294)
 「思想家の場合‥二つのタイプがある。つまり、その人の人物から、その人の言動が、いわば「流出」するタイプ。‥つまり、自分の内心の好悪、自分の内にある心の正直な吐露、それがその人の思想なのだ、という考えです。だいたい日本の自然主義というのは、そういう考え方です。それが真心イズムにもなります。自分の醜いものまで、みんな正直にさらけ出す。それが日本の自然主義です。…けれども、そうではないタイプの人もいるわけです。また、そういう考え方では理解できないような思想もある。自然科学の場合ですと、これは明白です。‥しかし、社会科学の場合でも、学問的な著作になると、それに近くなる。…
 ここで大事なことは、思想家のなかにも二つのタイプがある‥ということです。つまり、自分の生活とか、気質とか、嗜好とか、好悪とかを、自分の思想に直接表出するタイプと、もう一つは、むしろ、そういう自分の生活とか、気質とか、嗜好とか、好悪というものを抑制して、ある場合には自分の好悪に逆らっても、ある事柄に即して、一定のことを主張し、あるいは、一定の態度決定をするタイプ、とこの二つがあります。…
 この場合の主体性というのは、一つの状況判断を、自分の責任において下して、そのなかにおいて自分を位置づけていく、そういう主体性です。…第一のタイプの思想家における主体性というのは、純粋に内なるものを外部的に放出するという意味での、内発的主体性です。それと第二の意味での主体性というものを混同してはならない。これはどっちがいいとか悪いということではありません。…
 日本で比較的に多い考え方というのは、主体性という場合にも、内発性の意味であります。状況認識とは関係ない、むしろ、ある場合には状況認識を軽蔑して、純粋に内なるものを外に発露させる。これを主体性という場合が多い。純粋に内なるもの、あるいは、内的なエネルギーの外的な爆発です。‥そしてそれがまた、純粋な思想で、人と思想が一体になっている、言行が一致しているといって、比較的高い評価を得る。
 福沢は意識的にこういう伝統的な評価に逆らいます。むしろ逆らうということに自分の思想的な生産の意味を見出していたのではないかと思います。自分の思想的な生産の意味は、そういう思考法ではない思考法を主張することです。…なぜ状況認識の問題にそこまで執着するのかということの一つの根拠がここにあります。精神的惑溺からの解放と関連しているのです。」(集⑮ 同上pp.296-299)
「「人民はそれぞれ彼等にふさわしい政府をもつ」というのはもと「西洋の諺」です。「だから仕方がないんだ」とあきらめるのか、それとも、だからこそ「愚民の自(みず)から招く災」をはねのけるのは、「愚民」の自発の決断であり、「人民独立の気象」の確立がカナメなのだ、というのか、-いずれかによって「愚民観」はまったく正反対の含意を持つことになります。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.25)
 「(文明の)「精神」をいいかえれば「人民の気風」です。これがこの書物の中核的な概念の一つになります。…たとえば、アジアとヨーロッパとのちがいは一人のちがいではなく全体のちがいである。一人一人見ていったらアジアにも秀れた人はいるのだが、全体の気風に制せられる。…要するに一国の気風を変えて、人民独立の精神を根づかせるということになります。」(集⑬ 同上pp.118-119)
 「たとえば今の日本を見ると、官に在る人にもなかなか秀れた人物が少なくないし、平民にしても無気力な愚民だけではない。ところが、一人一人は智者でも、集まると愚かなことをやる。…日本はなぜそうなってしまうのか、といえば、結局一国の気風というものに制せられるからだ。だから、今の我国の文明を前に進めるためには何よりも「先ずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず」ということになるわけです。そして、有名な一身独立して一国独立するという命題に結びつけていくのです。」(集⑬ 同上p.120)
「個人が幼児のときから、習慣やしつけによって社会規範をだんだん身につけていくのと同様に、社会の文明への発展にも一種の「社会化」過程-あるいは秩序獲得の段階-がある、という見方です。‥権力の偏重も、第一歩の段階では、人心の維持のためのいわば必要悪であって必ずしも人の悪意によってそうなるのではない。…つまり、本一的に、あるいは先天的に悪い制度や機能というものはないのであって、現実に必要であった以上に、「第二段」まで生きのびると病理が顕在化してくる。権力の偏重もその例で、生きのびるほど、「遺伝毒」が甚しくなり、それを除去することがますます困難になる-そういう見方です。…
 太平がつづけばつづくほど、思考と行動がだんだんステレオタイプになっていく。偏重の政治があまりに巧みにおこなわれると、初歩から次歩へという順序が忘れられるだけでなく、ついに「人間の交際を枯死」させるにいたる。…
 つまり人民は無数の小さな固い箱-「閉じた小宇宙」のなかに閉じこめられたようなものだ、というのです。…
 「敢為の精神」とはアドヴェンチュアの精神であり、‥A・N・ホワイトヘッドのいわゆる「観念の冒険」を含みます。これがなくなると人間行動はすべてがルーティン化し、何事も安全第一となります。さきに、日本の武人に独一個の気象なし、とありましたが、ちょうど安全第一が依頼心と連動しているように、「独一個の気象」が、まさにここでいう「敢為の精神」ともなるわけです。…
 いわゆる堪忍の精神-予期しない難儀に我慢して堪え忍ぶという精神は、とくに農民などには非常にあります。けれどもそれは困難を自(みずか)ら引受けてこちらから出ていくという精神ではない。福沢によると、そういう敢為の精神はなにか特別な人間の素質ではなくて、「尋常の人類に備はる可き一種の運動力」なのです。それがないと、「停滞不流の極」に沈みます。…
 これは昔々の話でしょうか。今日でも、何かのポストを終えて、退任したり退官したりするときに、よく「大過なく勤めることができまして」云々といった決り文句の挨拶をします。大過なく任を終えたということであって、これこれのことをやりました、というのではない。ビュロクラシーの精神は元来そういうものですが、過失をおかすことを何よりも恐れ、何よりもとがめる雰囲気からは「敢為の精神」は出てきません。そうした消極的態度が狭義の官僚制だけでなく、社会の隅々に及んでいるのです。…
 権力偏重の日本と、そうでない西洋文明との対比で…どこがちがうのか。たとえば刻薄残忍なのは「唯富強なるが故」だ-というのはどういう事かといえば、いわゆる虎の威を借る狐ではない、という意味です。自分の力を発揮して刻薄残忍になるのであって、他人の、あるいは自分の所属する集団の、権力に依存して威張っているのではない。逆の場合も、オベッカを使ってまで富強者に従順であっても、それは貧乏のためで、したがって貧乏の時期だけのことだ、という自己意識をもっている。けっして習い性となって卑屈になっているのではない。だから醜悪さは醜悪さなりに「独一個人の気象を存して、精神の流暢を妨げず」ということになります。…富強と貧弱とがけっして宿命的な天然現象でない、という意識は、それが可変的なものだ、という意識です。可変的なものなら、これを宿命としてあきらめずに自分の努力で自分の進路を開拓してゆこうという態度となって現われます。たとえ「事実に致すこと能はざるも」-つまり、もし事実上その努力が失敗しても、根本の考え方が変らないかぎり、何くそまたやってやれ、という不屈の態度が持続します。つまり「独立進取の路」を歩むことになる。富強とか貧弱とかいう事実状態‥によって自分の精神の内部までも冒されないわけです。問題は富強者が威張っていたり、貧弱者が卑屈になったりすることそれ自体にあるのでなく、その事実をどう受けとめるか、という主体の精神の在り方にある。「権力の偏重」が人民の精神をも「自家の隔壁の内に固着」させてしまう点にこそ日本文明の病理があると言って、くどいまでに問題の所在をダメ押ししながらこの段を結びます。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.pp.213-220)
(「「権力の偏重」はただ政治権力だけではないということについては気がついていませんでした」との発言に対して)一般の福沢理解はそうだと思うんです。僕に言わせると、そこはもっとも福沢のすごいところなんです。多元的権力論。〔一般には〕プルーラルな、多元的権力論というのは非常に少ない。権力というと政治権力-それ自身が政治主義なんです。〔ところが実際には〕社会の中にたくさん権力がある。大学も権力だし、たくさんある。…
 (「政治権力の偏重は権力の偏重の一形態にすぎないのですか」)ええ。
 (「その権力の偏重の源泉はどこにあるのか-先生の解明によると、社会の人間関係」)の中に。
 (「根源があるんですね。そうすると福沢は西洋の方はこういう権力の偏重はないと」)相対的になくなったということですね。ない、というよりは。
 (「確かにそこまで理解しないと、根源的なものを見失う。変革、変革と言っても……」)上の方の変革になる。「人間交際における権力の偏重」というと、初めて下からの変革になる。
 (「中国の革命もそうですし、日本の近代化を見ても非常に……」)上だけでしょ、変革しているようだけど意外に人間交際が変革していない、その意味では。これが戦後の日本の現在なんですよね。マッカーサー的、与えられた自由の悲しさで、「人間交際」〔の変革〕がないんですよ。」(手帖3 「「権力の偏重」をめぐって(上)」1988.8.10.pp.52-53)
 「ヨーロッパと日本-あるいはアジアを含めてもいいけども-とどこが違うかというと、社会の権力が変わる、そうするとそれが政治に及んで来る、そういうことを言いたいのです。つまり「昔日は封建の貴族をのみ恐れたりしが」-封建時代には、封建の貴族というのは政治権力であり、同時にそれがいろいろな権力を握っていたわけでしょ。ところが「世間の商工、次第に繁盛して中等の人民に権力を有する者あるに至」る、と。この権力は政治権力じゃないんです。つまりミドルクラスが社会的に権力を持つようになると政治権力も変わって来る。それが、その後「故に欧羅(ヨーロッパ)巴の各国にては、其の国勢の変ずるに従て政府も亦其の趣を変」ずる、と。政府は政治権力でしょ。国勢というのは全体なんです。社会における権力の移動-つまり社会においては封建勢力の権力が衰える。相変わらず政治の権力は持っているんだけど、社会の権力が貴族からブルジョワジーに移るわけです。で、それが政治に及んで来ると政治の形態が変わって来る-これがヨーロッパだ、と。ところが「独り日本は然らず、宗旨も学問も」みんな政府が持っているものだから、だから、「其の変動を憂ふるに足らず」。…政治権力が他の社会権力を全部押さえている状態。他の社会権力がゼロということはないんですよ。他の社会権力はあるのだけれども、それを政治権力が「籠絡(ろうらく)している」。-というのは、全部コントロールしている。だから多少、商売とか学問とか、そういうものが変わっても、それが政治の領域に及ばないのです。社会の権力関係が動いても、それが政治の領域に及ばない。ヨーロッパだと、例えば封建貴族というのは政治権力だけを持っているんじゃない。土地の所有者でしょ。従って経済権力を持っているわけでしょ。商工業が勃興すると、ブルジョワジーが社会の経済権力を持つようになる。それが今度は政治権力に及ぶようになるわけ。ところが、もともと政治権力が初めから社会の権力や学問の権力を押さえていれば、学問の権力が-例えば林家から荻生徂徠の方に移った、とか何とかということがあっても、政治権力の方は別に驚かないわけですよ。それが政治権力に及ぶことがないんだから。日本と西洋とそこが違うんです。つまり非政治権力が-厳密に言えば-政治権力を変動させる力にならない。
 (「日本の場合、社会にいろいろ権力はあるがその変動が政治に及ばない、-つまり政治権力が偏重されているという……」)うーん、それが原因とは見ない。それが福沢の特色なんです。関数なんです。社会の権力の関数にすぎない。だから政治権力の偏重を原因と見ないんです。原因と見たら間違い、-むしろ逆に言うと、そうじゃなくて、人間交際の中にある-原因は。人間交際が偏重している-そもそも。それを変えていかなくちゃいけない。大変なことになっちゃうんですけどね、それは。
 人間交際というのは個人交際という意味はないんです。社会と同じ意味にとっているわけですから。社会と言ってもいいんです、人間交際と彼が言っているのは。社会という言葉は熟していないから。だけど根本は人間交際の中にある権力の偏重。だから、人間交際が偏重しているために政治権力の偏重がある。むしろ政治権力の偏重が原因ではない、と言っていうわけですね。それが非常に彼独自の見方で、あくまで社会を中心に見ている。政治は社会の関数である。
 政治権力に価値をおくということと一応別なんですね。人間交際に偏重があるということは、天秤の例で言うとこうなっているわけでしょ。[両手を使う]こっちの方が偉いという価値判断がある。それがないんです。だってどこの社会にも上下関係というのはあるんですよ。社長が上で従業員が下というのはどこの社会にもある。ただ、社長の方が偉いというか価値判断がないわけ。
 (「ただ分業とか……」)そうそう、分業にすぎない、これが同時に上の方が偉いという価値判断、そこが独特のところなんです。」(手帖3 同上pp.53-56)
「どこまで事実かどうかは知らないが、最近のヤングについてこういうことを耳にしたことがある。それは彼等の日常交際するサークルの範囲がますます小さくなり、しかもその仲間同士でも、お互いの考え方なり立場なりを批評し合うような会話の場がほとんどなくなった、という話である。これを美化するならば、いやしくも相手の心を傷つけるおそれのある論争や言葉をひかえるという「優しさ」のひろがりとも表現できる。しかし裏返すならば、そうした「優しさ」によって担保されているのは、ひとの批判によってたやすく傷つけられるようなひよわな魂の住む世界ではないのか。」(集⑮ 「内田義彦君を偲んで」1989.11.p.87)
「とくに日本みたいに理想主義の伝統が弱いと、克己という、自分を克服するというのが出てこない。これは全面解放だから、なにも女性関係だけじゃなくって。それは、ちょっとひどいものだ。自分が自分を抑えるというか、自分の中の分裂を認めないんだから。自我の解放ですから。自我の解放というのは、日本的心情主義と相通じるところがある。ファウストじゃないけれど、「わが中に二つの魂がある」というのはないんだ。魂は一つしかないから、レーベンが、生命力が外へ向かって噴出しようとするのと、それを抑えようとする権力の制限との闘いという、その二元論しかないわけ。自分の中の二元性というのを認めない。だから、当為とか、そうすべきだということが出てこない。‥
個自身の中の分裂という自覚がないのが、日本で世界宗教が、あまりない所以(ゆえん)なんじゃないかな。そういう個自身の分裂というのは、原始儒教に戻るけれど、日本の歴史では、朱子学とか、そういうものによって培われた。
性の中に「本然の性」と「気質の性」と二つあって、聖人というのは「気質の性」が空(そら)みたいに清浄なんだ。空の聖人というのは、理想人で現実にはいない。普通の人間は、気質の性と同じ。気質の性というのは雲みたいなもので。その考え方は、キリスト教なんかから見れば、オプティミズムなんだけれど、〔儒教の〕根本は性善説ですから。本然の性というのは、本当は、みんないいんだと。これは、政治にも共通している。太陽みたいなもので、それを雲が覆っちゃっているという。雲が晴れた状態というのはないんだ。それは聖人だけなの。空は透明だから、太陽がサーッと。あとは、雲に隠れちゃう。これが普通の人。だから、雲をだんだん純化していって、中の太陽がまっすぐ照るようにするのが修養。簡単に言うと、朱子学の哲学です。そういう儒教の考え方を通じて日本では、修養とは克己とか、それが一つの流れ。
もう一つはやっぱり侍だな。なぜかと言うと、侍には戦場での死という問題がある。死ぬのが恐い自分をどうやって克服するかが、自分の中の問題。戦闘者という自覚があるんです。本当にあるべき自分と、実際に自然の形に引きずられる自分というのが。これは、やっぱり死の問題。宗教は死の問題なのだけれども、侍というのは別の意味でそれがある。…
死の問題は、他の人に代わってもらうわけにはいかないから。個の意識というのが宗教とともに生まれるというのは、そういうことなんです。‥死の問題を考えていくと、世界宗教が世界中どこでも個の意識を生む。そうじゃないと、われわれは家の中に生まれ、社会に出るから、個の意識なんていうものは生まれない。家ではみんな社会的存在なんだ。‥個なんてものは抽象であって出てこない。個というものを本当に抽象的じゃなくて認識するのは、やっぱり、死の問題。世界宗教が仏教、イスラム教、キリスト教、みんな個の意識があります。
儒教は世間道徳だから、非常に生まれにくいんだな、個の意識は。みんな世間のため、君のため、親のため、みんな、「ため」があるから。」(手帖41 「丸山眞男先生を囲む会(場)」1993.7.31.pp.23-25)
「人間というのは何をするかわからないという感覚。少なくとも僕個人にはあります。一つは、軍隊経験ですね。つまり、人間というのはある状況に置かれると、何をするかわからないということ。ナチの領袖ですら、子どもを可愛がり、小鳥が大好きな人が、どうしてアウシュビッツをやるのか。常識では理解できないですよ。しかし、我々はみんな、やりかねないという感覚を持っていないといけない。ところが、けしからんという考え方が支配的になればなるほど、つかまっただけで何かけしからんということになっちゃう。すると制裁、つかまっただけでもう制裁となる。「けしからん主義」です。
 違う例だけれど、宮崎〔勤〕という幼女誘拐犯がいましたね。考えられない事件だけれど、彼の親もみんな村八分になったらしいですね。もちろん親の責任はありますよ。あるけれど、僕なんか、自分の子どもが絶対に宮崎にならないとは言い切れないですね。ビデオばかり観ていて人とあまりつき合わないというのは、今の文明そのものじゃないですか。僕は第二の宮崎はいつでも出ると思いますよ。その根源が今の社会にある。それを何か親がほっとくからいけないという。これはやはり、「けしからん思想」です。
 (「今の社会だけじゃなくて、人類永遠にそういうものはある」という発言に対して)同調社会である日本ほどある。つまりノーとなかなか言えない社会。ということは、他者を他者として理解する能力が比較的乏しい社会。自分の価値判断で考えられない。だから新聞が叩くと、よってたかって袋叩きにする。僕がマスコミの嫌いなところは、そこだな。袋叩き、しかも少数意見がほとんどない。これは一億火の玉にいつでもなる社会です。ファッショは国家権力がだんだん肥大していくものだなんていうのは、大間違いです。同調性がある社会は、いつでも一億火の玉になります。」(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.20.p.43)
「政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っているのです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗していく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立されないということです。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.291-293)