「普遍」

2016.4.26.

「客観的価値の権力者による独占ということから権威信仰は生れる。…良心的反対者を社会がみとめていないということである。シナの儒教思想にはまだしも価値が権力から分離して存在している。即ち君主は有徳者でなければならないという所謂(いわゆる)徳治主義の考え方で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日本の場合には、君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であった。そこには客観的価値の独立性がなかった。」(集③ 「日本人の政治意識」1948.5.p.324)
 「権威信仰から発生するところの日本社会の病理現象を若干あげてみよう。…
 二、抑圧委譲の原則。…客観的価値の独立している社会では上官が不当な圧迫を加えた場合、下位者はその客観的価値の名に於て、世論にアピールしたり、上位者に抗議したりする。ところが、権威信仰の社会では、それができないので、上役から圧迫をうけるとそれに黙って従ってその鬱憤を下役に向ってはらす。これが抑圧委譲である。…国際関係に於ける政治心理にも抑圧委譲の原則があらわれる。政治的自由のない社会ほど対外的発展に国民が多く共鳴する。抑圧された自我が国家の対外的膨張にはけ口を見出し、自分自身が恰(あたか)も国家と共に発展して行くような錯覚を起す。…」(集③ 同上pp.326-327)
 「個人が権威信仰の雰囲気の中に没入しているところでは、率先して改革に手をつけるものは雰囲気的統一をやぶるものとしてきらわれる。これがあらゆる保守性の地盤となっている。従ってそこでは変化を最初に起すことは困難だ。しかしいったん変化が起りはじめるとそれは急速に波及する。やはり周囲の雰囲気に同化したい心理からそうなる。しかもその変化も下から起ることは困難だが、権威信仰に結びつくと急速に波及する。したがって一つのイズムを固守するという意味の保守主義はあまりない。日本の保守主義とは時々の現実に順応する保守主義で、…この現実の時勢だから順応するという心理が日本の現在のデモクラシーをも規制している。…デモクラシーが内容的な価値に基礎づけられないで、権威的なものによって上から下って来た雰囲気に自分を順応させているだけである。保守性と進歩性がこうした「環境への順応」という心理で統一されている。こういうデモクラシーは危っかしいデモクラシーである。何故なら情勢によるデモクラシーであり上から乃至外から命ぜられたから「仕方がない」デモクラシーだから、情勢がかわり或いは権力者がかわれば、いつひっくり返るかわからない。」(集③ 同上pp.328-329)
「‥同じ問題に悩む人たちが全国いたるところに、いや世界中にいる、いまこそ手をつないでいないが、やがては手をつなぐ見えない味方があるという希望をもちこの力を信じることが必要である。絶望感に襲われたらいつでも眼界を横に世界にひろげ、縦に歴史をひろげよう。世界の歴史を見れば、ジグザグのコースではあるけれども、ますます多くの人民が解放され、ますます多くの自由を獲得してきた歴史であることはだれも否定できない。この大きなつながりは、どんな力が阻止しようとしてもできるものではない。そういう歴史の力に対する信頼をもたないと、目前の現象に圧倒されて、つい勇気が挫(くじ)けてしまう。現在の内外の保守勢力が押しすすめようとしている方向はこの世界の大勢に逆行している限り、決して永続性はない。戦後日本の人民が、とにかく細いながらも学びとり、身につけたところの権力に対する批判の精神と民主主義的変革の精神は‥数百年のきびしい試練に耐えて一歩また一歩と前進して来たものである。われわれがあの悲惨な戦争の犠牲を払ってようやく手にしたこの宝を、もはやどんなことがあっても二度と手放さぬようにしようではないか。」(手帖11 「復古調をどう見るか」1953.2.p.37)
「とくに日本のように、組織や制度がイデオロギーぐるみ輸入されたところ、しかも政治体制の自明性がなく、その自動的な復元力が弱いところでは、政治の問題が思想の問題と関連して登場して来るいわば構造的な必然性があると考えられる。一方ではイデオロギー論が過剰のように見えながら、他方では「思想」の形をとらない思想が強靱に支配し、思想的不感症と政治的無関心とを同時に醱酵させているこの国で、イデオロギー問題を学問的考察から排除することは実際にはその意図する科学的な見方の方向には機能せず、むしろ「いずこも同じ秋の夕暮」という政治的諦観に合流するであろう。したがってわれわれは「価値から自由な」観察と、積極的な価値の選択の態度を、ともに学びとらねばならぬという困難な課題に直面している。」(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.p.31)
「明治の自由民権論に対する冷笑的批判に対して中江兆民がいろいろな個所で試みている反批判を読むと、進歩の立場に対する批判のパターンが六、七十年前の日本と今日とで驚くほど変っていないことがわかる。…彼のいわゆる通人的政治家が民権論を「あんな思想はもう古いよ」といって斥(しりぞ)ける論法はそのまま今日、社会主義いなデモクラシイの基本的理念に対する一見スマートな批評としてそのへんにゴロゴロ通用している。「行はれたるがために陳腐とな」ったのではなしに、「行はわれずして而かも言論として陳腐となれる」政治理念がいかにこの国に累々としていることか。そうして「陳腐」な思想の実行を執拗に要求することはそれ自体が「野暮」のしるしと考えられ、その代りにただ肌ざわりとか口あたりとかいうような感覚的な次元で言論が受けとめられ批判される日本の伝統的傾向は、目まぐるしい「新鮮さ」の追求というマス・メディアの世界的通有性と重なり合って、兆民の指摘した批判様式は今日彼の時代より幾層倍も甚だしくなっている。公式論とか公式的とかいう批判のなかには、その公式の真理性の問題を棚上げして、公式論=陳腐=誤謬という方程式に平気でよりかかっているたぐいのものがあまりにしばしば見受けられる。皮肉なことにこういう批判形式こそ実は今日のもっとも「陳腐」な言論なのである。」(集⑦ 「ある感想」1957.4.pp.69-70)
「(宣長の儒教批判において)いちじるしく目立つのは、宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即(つ)こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。儒者がその教えの現実的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、そのあげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範との緊張関係の意味自体を否認した。そのために、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。
 周知のように、宣長は日本の儒仏以前の「固有信仰」の思考と感覚を学問的に復元しようとしたのであるが、もともとそこでは、人格神の形にせよ、理とか形相とかいった非人格的な形にせよ、究極の絶対者というものは存在しない。…この「信仰」にはあらゆる普遍宗教に共通する開祖も経典も存しない。…
 「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、‥日本の思想的「伝統」を集約的に表現している‥。絶対者がなく独自な仕方で世界を論理的規範的に整序する「道」が形成されなかったからこそ、それは外来イデオロギーの感染にたいして無装備だった‥。」(集⑦ 「日本の思想」1957.11. pp.206-207)
 「こうした国学の儒教批判は、(1)イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑、(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず直観的解釈を絶対化する結果となる)、(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反撥する思考、等々の様式によって、その後もきわめて強靱な思想批判の「伝統」をなしている。‥当面の問題としてはやはりイデオロギー的批判が原理的なもの自体の拒否によって、感覚的な次元から抽象されないという点が重視されなければならない。現代まで続く社会科学的思考にたいする文学的あるいは「庶民的」批評家の嫌悪や反情の思想的源泉がすでにここにきざしているように思われる。」(集⑦ 同上p.208)
「諸君がこれから世の中に出ていろいろ苦境に陥ることが公私ともにあると思うのです。その際、これは福沢が「大事に面したときには、逆にそれを小事と考えて軽く決断せよ」といっているのは面白い意見です。‥時間的な距離を意識的に設定すれば、決断が容易にでき、またあまり誤らないものです。‥要するに自分を自分の場所から隔離してみるのです。
 (神のない日本では、自己を客観化する場合、何を基準にみたらいいのですか。)それは人によっていろいろじゃないですか。マルクシストには、歴史法則が「神」ですし、西郷が「人を相手にせず、天を相手にせよ」といっているのも、天を媒介として自分を隔離しているわけです。」(手帖15 「丸山先生に聞く」1958.3.p.27)
「攘夷論の変質と国際的環境への適合とは、思想史的に見ればほぼ二つの問題から接近することができる。一つは国際社会の認識の問題であり、他は具体的政策としての開国を正当化する仕方の問題である。…
 (権力政治と法の支配という)二側面の認識は幾多の曲折を経て幕末維新の日本に受容されることとなった。もしそうでなかったならば、当時の日本が「開国」と主権的独立といういずれものっぴきならぬ要請に同時に答えてゆくのは、ほとんど絶望的に困難であったにちがいない。…幕末のわが国においては、どのような既知数がこうした未知数を解する手がかりになったのか。どのような既知の観念が思想的クッションの役割を果たしたのか。
 ‥列強対峙のイメージが比較的スムーズに受容されたのは、日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。…国際法的概念の受容の過程については、‥儒教的な天理・天道の概念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて、諸国家の上に立ってその行動を等しく拘束する国際規範の存在への承認が、比較的スムーズに行なわれたということである。…
  ここでさらに近代日本の問題について仮説をのべるならば、儒教的教養が明治の中期以後、急激にうすれてゆき、しかも天命や天道にかわる普遍主義的観念が根付かなかったことが、伝統的な神国思想のウルトラ化を容易にした一つの思想的要因のように思われる。
国際的環境への適応をめぐる‥開国政策-ヨーロッパ文明の採用-を正当化する仕方については‥象山の「東洋道徳・西洋芸術」‥という使い分け方式が‥結局優位を占めたということである。」(集⑧ 「開国」1959.1.pp.61-65)
「日本でももう少し「悠久」なものの見方から目前の事象を判断することをしてもいいのじゃなんでしょうか。竹内好さんにいわせると毛沢東には永遠という発想があるというんです。僕はそこはよく分らないけれど、もしそうだとしたら革命家としてもマルクス学者としても毛沢東という人はやはり図抜けているような気がします。」(集⑧ 「我が道を行く学問論」1959.5.4.p.103)
「この稿では忠誠も反逆もなにより自我を中心として、-自我を超えた客観的原理、または自我の属する上級者・集団・制度など、にたいする自我のふるまいかた、ついて捉えられる。…このように視覚を限定すれば、本稿のテーマはおのずから三つの軸によってつらぬかれることになる。第一の軸は忠誠と反逆が、思考のカテゴリーもしくは枠組としてそもそも日本の思想史においてどのような意味と機能をはたして来たかということであり、第二の軸は忠誠または反逆の対象-何に対する忠誠、何からの反逆か-の転移と相剋の様相であり、第三の軸は、自覚した形で表明された忠誠と反逆の「哲学」ないしは「理論」の検討である。…
 とくに個人の側から見て忠誠が人格の内面的緊張を鋭く惹起するのは、彼が多元的な忠誠の選択の前に立たされ、一方の原理・人格・集団への忠誠が、他方への反逆を意味するような場合である。」(集⑧ 「忠誠と反逆」1960.2.pp.164-165)
 「日本の思想史において、人間または集団への忠誠と関連しながら、しかもそれと区別された原理への忠誠を教えたのは、やはり中国の伝統的範疇である道もしくは天道の観念であった。…日本においても、伝統的権威や上長に対する「反逆」は事実問題としてはむろん古代からしばしばあったけれども、原理への忠誠をテコとして「反逆」を社会的、政治的に正当化する論理は伝統思想のなかには、この天道の観念以外にはなかったといってよい。…佐藤直方や三宅尚齋のように、天道という原理への忠誠を、天皇を含めた具体的人格への忠誠に、意識的に、かつ首尾一貫して優先させた儒者はむしろ例外的であったにはちがいない。けれども「天下を公と為す」とか「天下は天下の天下なり」というような観念が政治形態の歴史的変遷をこえ、具体的な支配関係をこえた規範的制約として冥々の裡(うち)に作用していたこともまた争えない事実である。」(集⑧ 同上pp.181-182)
 「幕藩体制が儒教的な原理によって正当化されていたことは諸刃(もろは)の剣の役割を果たし、やがて幕府や藩の「失政」によって、原理への忠誠は組織への忠誠から剥離されるようになる。尊王論とともに幕末維新の二大潮流の一つとなった「公議輿論」の思想は「天下を公と為す」という伝統観念が、新たな状況と知識の下で次々と意味転換を遂げて行った過程にほかならない。」(集⑧ 同上p.188)
 「伝統的生活関係の動揺と激変によって、自我がこれまで同一化(アイデンティファイ)していた集団ないしは価値への帰属感が失われるとき、そこには当然痛切な疎外意識が発生する。この疎外意識がきっかけとなって、反逆が、または既成の忠誠対象の転移が、行なわれる。といっても帰属感の減退と疎外意識とが自動的にそうした行動様式を生むわけではない。疎外感がネガティヴな形をとるときはむしろ隠遁として現われるだろう。それが積極的な目標意識と結びついてはじめて、あるいは「原理」に依拠する反逆となり、あるいは目標を象徴化した権威的人格にたいする熱狂的な帰依と忠誠に転化する。」(集⑧ 同上pp.188-189)
 「福沢における「瘠我慢」の精神と「文明」の精神との、「士魂」と「功利主義」との、矛盾あるいは二元性ということがしばしば指摘される。…しかし思想史の逆説と興味は、まさにそうした抽象的に相容れない「イズム」が、具体的状況のなげかけた「問題性」に対する応答としては結合するというところにある。あたかも幕末動乱に面して武士における家産官僚的要素と戦闘者的要素とが分裂したことに照応して、忠誠対象の混乱は、「封建的忠誠」という複合体の矛盾を一挙に爆発させた。家産官僚的精神によって秩序への恭順のなかに吸収された君臣の「大義」は一たまりもなくその醜い正体をあらわした。しかもいまやその同じ「秩序への恭順」が皮肉にも「上から」もしくは「外から」の文明開化を支える精神として生きつづけているではないか。‥「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し」という状況判断に立った福沢は、右のような形の「封建制」と「近代性」の結合を逆転させることで-すなわち、家産官僚的大義名分論から疎外され現実の主従関係から遊離した廉恥節義や三河(戦国!)武士の魂を、私的次元における行動のエネルギーとして客観的には文明の精神(対内的自由と対外的独立)を推進させようとしたのである。…謀叛もできないような「無気無力」なる人民に本当のネーションへの忠誠を期待できるだろうかというのが、幕末以来十余年のあわただしい人心の推移を見た福沢の心底に渦まく「問題」だったのである。(集⑧ 同上pp.205-206)
 「維新が神武創業の古にかえる天皇親政という観念にになわれ、とくに幼い天皇を「擁」した寡頭政府は、急テンポな政治的集中と「文明開化」の政策とをすべて「普天率土」のイデオロギーで合理化するかたわら、早くも讒謗律や新聞紙条例によって「官員様」への侮辱や反抗を「天子様」へのそれと同一化して行ったので、民権論者はほとんど最初から「国体」への忠誠論と向き合わねばならなかった。…
 権力の側のこういう「論理」の強制に直面して、民権論者としては否応なく、そもそも忠誠とは何か、という根源的な問いにつき当らざるをえない。彼等はまさに忠誠と反逆の再定義をかかげて闘争するのである。まず第一に彼等は、ネーションへの忠誠を、君主や上司への忠誠と範疇的に区別することから出発する。…第二の定義は反逆の方向性を顚倒させ、あるいは少なくも人民から政府への一方交通ではなくて双方交通に拡大する途である。…このような忠誠と反逆の再定義は、民権論者に於いてけっして卒然としてヨーロッパの歴史と思想から継受したものではない。むしろ、ルソー、ミル、スペンサーなどへの理解そのものが、伝統的カテゴリーの媒介を通じて行なわれた、という一般的な事態がここにもあてはまるのである。具体的な人格あるいは官府への忠誠からネーションへの忠誠を剥離し、「抽象化」する作業において、テコの役割を果たしたのは、「夫レ天下ハ天下ノ天下ニシテ官府ノ私有ニ非ザルハ、今更蝶々ノ弁ヲ俟タズ。‥」という「天下為公」の観念であり、…政治権力の人民に対する謀叛という発想もまた「政府ハ人民ノ天ニ非ザル也。‥」…というような、天または天道の観念に依拠していた。国会開設の要求が、維新の指導理念の一つであった公議輿論思想から系譜をひいており、「万機公論」自体が天道観との密接な関連において誕生した以上、それは当然のことであり、むしろ民権論者は維新の「約束」の実現のいう形でその要求をつきつけたわけである。」(集⑧ 同上pp.212-216)
 「日本の封建的忠誠のエートスにはむろん徹底した原理的超越性も人格的内面性もなかったけれども、そこにはなお、心情倫理と行動=業績価値との特殊な結合様式があった。ところが、その解体ののちに滲透した「近代」精神は、内面的心情の側面では、その妥当範囲の私的空間への限定という意味での「個人主義」として現われ、他方行動=業績価値の強調の側面は、-「成功」や「富国強兵」のシンボルに絡みつく場合でも-ますます他人志向型の行動様式によって荷われた集団主義として発展したのである。」(集⑧ 同上p.234)
 「十年代の自由民権思想は抵抗権発動の構成要件、主体、手続き等についての考察がほとんど欠けているにせよ、ともかく抵抗権という一般的発想はそこにかなり普遍的に見出された。ヨーロッパで抵抗権思想が元来キリスト教から発生し、それと不可分の関係で発展して来たことを考えれば、日本の近代キリスト教において、自由民権運動程度の漠然たる抵抗権思想さえも姿を消していることは、やはり大きな問題といわねばならない。…そこにはむろん宗教的伝統の相違など種々の条件が作用していたにちがいない。しかし同時に、日本帝国の頂点から下降する近代化が異常なテンポと規模で伝統的な階層や地方的集団の自立性を解体して底辺の共同体に直接リンクしたこと、その結果、中間層にとって公的および私的な(たとえば企業体の)官僚的編成のなかに系列化される牽引力の方が、「社会」を代表して権力に対する距離を保持し続ける力より、はるかに上廻ったこと-こうした巨大な社会的背景を度外視しては右の問題は考えられないように思われる。)(集⑧ 同上pp.240-241)
 「一般に個人が各種の複数的な集団に同時に属し、したがって個人の忠誠が多様に分割されているような社会では、それだけ政治権力が国民の忠誠を独占したり、あるいは戦争というような非常事態に当って、急速に国民の忠誠を集中したりすることが困難である。けれども他面また、そうした社会では-とくにその中の多様な集団が拠って立つ価値原理や組織原則においてもプルーラルな場合には-ある集団ないしその価値原理から疎外されたり、またはそれへの帰属感が減退しても、そうした疎外なり減退なりは、彼が同時に属している他の集団または価値原理に一層忠誠を投入することで補充され易いから、全体としての社会の精神的安定度は比較的に高いわけである。…日本帝国は、徳川時代にはまだしも分散していた権力・栄誉・富・尊敬などもろもろの社会的価値を、急速に天皇制ピラミッドの胎内に吸収し、忠誠競合の可能性をもつライヴァルからその牙をつぎつぎと抜きとりながら、ネーションへの忠誠を組織(官僚制)への忠誠に、さらに組織への忠誠を神格化された天皇への忠誠に合一化して行った…。」(集⑧ 同上pp.242-243)
 「原理や人格へのいきいきとした強いアタッチメントが前提となってはじめて、そこへ主体的に逆流して行く「諫争」や、それから自己をひきはがす「謀叛」が自我の次元で痛切な問題となる。…組織・真理・信条など、いずれにせよ、それらが「型」へと停滞したとき、そうした型への順応を排する、生命の脱皮の過程として、まさに謀叛は肯定されている。けれどもその過程は同時に所与の自我にもたれかかろうという内的傾向性との不断たたかいでもあり、「苦痛を忍んで」の解脱であって、けっしてたんに外的束縛からの自我ののっぺりした解放感の享受ではなかった。」(集⑧ 同上p.267)
「近代化の定義とも関連して、ブルジョア的民主主義について、日本で論じるには大きな注意がいるわけですね。第一には、我々の国が非常に特殊の国であったという自覚が必要です。…哲学的な普遍的な価値で律し、裁くべき特殊な国家としての日本があるという考えが、公然と認められ、認められざるをえなくなったのが戦後です。それまでは、日本の国家が普遍的価値によって裁かれなくてはならないという観念はなかった。あれだけ西洋の学問を輸入しながら、そういう考えは我々の底になかった。つまり、普遍という観念は少なくとも伝統的には日本の外にあるものをさし、我々にとって普遍的なもの、具体的には世界や国際は日本の外にあるものをさしている。「世界」といった時のイメージは、我々の中のものを意味しているのでなく、国際つまり我々の外を意味するのですね。さらに具体化していえば欧米をさしている。
 「世界」という普遍概念は場所ではないのです。日本は世界の中にあるのだし、逆にいえば、世界は日本の中にあるのだという観念は日本では実に定着しにくい。これは世界文明に洗われない所はみんなそうです。ローマ文明に洗われる前のゲルマンもそうでした。これが僕が近年「開国」ということをうるさくいう意味で、「開国」ということの思想史的意味は、世界対日本でなく、日本の中に世界があり世界の中に日本があるということなのです。普遍は目にみえないもので具体的な地理的世界ではありません。これは、日本の島国的条件だとか歴史的由来によって、今日でも実に定着しにくい観念ですね。
 そこに、我々が伝統とか近代とかを考える時さえも、とらわれやすい基礎がある。たとえば日本の伝統といわゆるヨーロッパ的な制度との関係を内と外の関係で考える。その場合の「内」とは植物主義的で、はえたものという考えで伝統を考えようとするわけです。…伝統・土着というと、日本にはえたものということになる。…
 だから、内発的対外発的、伝統対外来という問題提起には危険性がありますね。これでは我々の国の特殊性が見失われます。そういう二分法の中にひそむ物の考え方を摘発してゆかねばならない。…問題は、ヨーロッパと接触する以前の日本の思想に普遍的な価値がどれだけあり、ヨーロッパの中にどれだけあるかということで、どこで生まれたかは問題ではないのです。…
 人権の考えはギリシャにはなく、クリスト教から出て、ブルジョア憲法の中に制定化された考えですが、‥普遍的な人間性、人間というイメージがないと出てきませんね。普遍が特殊の下にあり、特殊の基礎であるという考えがないと出てこない。コスモポリタニズムの思想を通過しないと生まれないわけですね。コスモポリタニズムほど我々にわかりにくい考えはありません。つまり我々には世界が外にあるわけですからね。‥世界の市民であると同時に日本人であるという二重性において、コスモポリタン=人類の一員でありうる。人類は遠い所にあるのではなく、隣りにすわっている人が同時的に人類なのだ。そういうふうに同時的に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍になるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。」(集⑯ 「普遍の意識欠く日本の思想」1964.7.15.pp.56-59)
「宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見えない権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。見えない権威、それは無神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに従うことは、事実上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、‥普遍的なものへのコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」(集⑯ 同上pp.62-64)
「戦前の愛国心がたった一度の敗戦でマッカーサー万歳となるほどにもろかったのはなぜか、その価値判断は別として、なぜあれほど立派に見えたナショナリズムがもろかったのかを問題にしなければならない。つまり日本のナショナリズムがどういう構造をもっていたかを考えてみるべきで、その上でのみ新しいナショナリズムが問題になると思います。それは‥世界市民主義つまり普遍者へのコミットがないナショナリズムは成り立たないわけです。異質的なものとの接触をへていない愛国心は実にもろいのです。‥主体性というのは外とぶつかりあうときの態度をいうわけで、たんなる内発性ではありません。だから、普遍的な真理を追求しないでは出てくるものではないのです。」(集⑯ 同上pp.66-67)
「世界の思想史をほんのちょっとでも勉強すれば、特殊から普遍への「突破」には、個人の場合にも民族の場合にも、質的な飛躍-宗教的にいえば、「回心」が行なわれており、ズルズルの連続的発展ではない‥。…
 土着対外来という発想にしても、またそれとしばしば結びつく、内発的対外発的という発想にしても、そこに共通して、土着的=内発的なものがすなわち主体的なものだという価値判断が伴っていますね。…ここには二つ問題があると思うんです。一つはいかなる内発的な文化も、まったく異質的な他者の文化に刺激され、その火花を散らす接触の過程を通じて新しい創造と飛躍が行なわれるという当然の事理が忘れられ、発生論と本質論とが混同される傾向があるということです。もう一つは、主体性という場合にも、個人の主体性と、日本民族の他民族に対する自主性という二つの事柄がゴッチャになるということです。「日本人の主体性」などという表現は、日本語では単数と複数の区別がはっきりしないだけに、「くに」という表現と同様に呪術性が強いんです。歴史的にみても日本のナショナリズムは「くに」への帰属意識を中核としているから、個人の次元ではかえって「くに」もしくは日本人集団へのもたれかかり、つまり非主体的になってしまうという皮肉が見られます。
 ‥たとえば、日本の神道が日本の民族宗教だという場合と、ユダヤ教がユダヤ民族の民族宗教だという場合との、質的な相違ですね。産土神(うぶすなかみ)からアマテラスにいたるまで、日本の神々はまさに日本の国土ときりはなせない特殊神ですが、エホバは初めから世界神で、ただユダヤ民族と契約で結ばれている。エホバから見放されたカインは、自分と途で会う者は誰でも自分を殺すだろうといいますが、こういう絶対的な孤独感-ちょうどホッブスの自然状態における個人のおかれた状況のようなものは、日本人の想像を絶していますね。日本の宗教を共同体宗教とよくいいますけれど、日本の場合、共同体が単一でなくて、複数的に重畳している。だから一つの共同体から追放されても、他の共同体へ帰属することで救われる。「捨てる神あればひろう神あり」という命題は、シチュエーションごとに神をもっていなければ成り立たないわけです。そうしてこういう複数共同体をそのままかかえこんだ形で「くに」共同体がある。「持ちつ持たれつ」の人間関係はこうした基盤の上に成り立っている。カインのような壮絶な孤独におちこまないのは有難い国ですけれども、その反面、精神の内面で一切の環境への依存を断ち切ることがむつかしいから、それだけにひとりひとりが自分の肩に民族の運命を背負い、民族の方向を決定する主体だという自覚も成長しにくいんじゃないですか。
 しかし、日本ほど早くから「未開民族」の段階を脱して、その時代時代の最高度の世界文化に浴しながら、しかも人種・言語・国土、底辺の生産様式と宗教意識などの点で、相対的に同質性を保持して来た文明国は世界にもめずらしいんですね。‥日本の国籍をもつ人民の圧倒的多数は先祖代々この国土に住み、日本語を話して来たこと、しかも逆に日本語が通用する地域は、一歩この国土の外へ出るとほとんどないこと-というわれわれにとっては当り前のことが、世界的にみるとちっとも当り前ではない。ですからこうした当り前を当り前にしないで、これを「問題」として問うて行くことが必要です。そうして、なぜ土着対外来、内発対外発、日本対「外国」(複数)という対置法が好んで用いられ、しかもそれがしばしば主体性や自主性の主張と結びついて、くりかえし日本の思想史に現われてくるか、という問いも、実は、右のようなヨリ大きな問いの一環として考えられると思います。」(集⑨ 「日本の近代化と土着」1968.5.pp.369-373)
「儒仏が日本に入って来るまでは日本は「道」-つまり普遍的なイデーという観念を知らなかった。こうして儒仏などの教義から近代のイデオロギーにいたるまで、普遍的なものがいつも外から入ってきたために、内と外とが特殊と普遍に結びついて、内=特殊、外=普遍という固定観念になる。…しかも日本はそういう外来文明をただウノミにしたのではなくて、「内」なるなにものかがそれを変容させて、いわゆる仏教の日本化、儒教の日本化が行なわれる。このなにものかというのがクセモノで、それは宗教や思想の領域だけでなく、文化一般における日本的修正主義の原動力になっている。このなにものかを固有の「思想」として純粋培養しようとした試みが昔からいろいろ試みられたけれど、神道史に一番顕著にあらわれているように、これは抽象的ドクトリンにはどうしてもなりえないものです。ただ、このなにものかが‥民族的な等質性の持続ということと密接な関連があることはあきらかです。私は数年前から学校の講義では、これを日本思想の「原型」=ウル・ティプスとかりに呼んで、その内面構造をさぐろうとしていますが、なかなかうまく行きません。しかし、ともかく、この「外来」の普遍的イデーと「原型」との間の相互作用が、維新以来は、欧米文明の日本的修正による摂取という形でひきつづき行なわれるわけです。…ですから「土着主義」の問題性は、ウラをかえせば、普遍的なるものを、日本がそこから摂取した特定の外国、もしくは特定の外国群の文明と癒着させて理解する「疑似普遍主義」の問題性でもあるわけです。…この疑似普遍主義と、それへの反動‥としての「土着」的発想と、この何度もくりかえされる悪循環をどうして断ち切るか、それが今後の私たちにつきつけられているもっとも切実で、しかも安易な処方箋のない課題じゃないでしょうか。」(集⑨ 同上pp.373-375)
「もし日本の知性における「普遍主義」に疑問を投げかけるとすれば、それは「普遍主義」が、中国とか西欧列強とかいう、日本の「外」にある特定の国家や、文化の特定の歴史的段階-十九世紀の西欧文明といった-に癒着し、それ自体が一個の特殊主義(パティキュラリズム)に堕した、あるいは堕する傾向がある、という点にあると思います。…日本の思想史を見るとユートピア思想がきわめて乏しい。もともとユートピア思想というのは夢想や幻想ではなくて、現実に対する切迫した、またトータルな批判意識の所産なのですが、日本においては、‥ユートピア思想に代位したのが「模範国家」でした。模範国家は古代では隋・唐であり、その後も長い間、聖人の統治した太古の中国でしたが、幕末維新以後、それは「欧米」にきりかえられました。マルクス主義の場合でさえ、その普遍主義はソ連とか、コミンテルンとかいう、現実の国家もしくは特定集団と同一化する傾向を免れませんでした。…そうして、普遍主義が自分の、あるいは自分の国の「外」にある何ものかであることからして、その反動は、必ず「うち」の強調として出現します。「うち」とは精神の内部ということではなく、うちの国、うちの村、うちの家です。イデオロギー的にはそれはさまざまの変奏であらわれる「土着主義」(ヨリ正確には土発主義)の基盤です。こうして「よそ」を理想化する形の疑似普遍主義と「身内(みうち)」への凝集とが悪循環をくりかえして来ました。…本当の普遍主義は、「うち」の所産だろうが、「外」の所産だろうが、真理は真理、正義は正義だ、というところにはじめて成り立ちます。ヒューマニズムも同様です。「人類というのは、隣りの八さん熊さんのことだ」と内村鑑三が言っていますが、隣りの八さんを同時に人類の一員としてみる目-これがヒューマニズムであって、「人類」というのは遠方に、または天空の彼方に存在する何ものかではない筈(はず)です。」(集⑩ 「近代日本の知識人」1977.10. pp.264-265)
「いわゆる「普遍」というものを内蔵した思想が全部外来思想なんです。そこで「外来」ということから、これへの反発が間欠的に起こる。「普遍」がいつも外にある。それに対して「特殊」という。「外の普遍」対「内の特殊」、あるいは「外発」対「内発」。こういう悪循環がくりかえされているんです。そうすると今までの形での普遍主義そのものも、われわれはここで反省しなければいけない。‥欧米にイカれたり、ソヴィエトにイカれたり、そういう「外の」世界にイカれるのが普遍の追求だった。それに対して"内なる特殊に帰る"という反動がおこる。このウチ・ソトという悪循環を徹底的に破壊しないと本当の普遍は出て来ない。つまり内村鑑三が「人類ってのは隣の八っつあん、熊さんだ」といっている、その意識が本当の普遍です。人類というのは何かこう遠くはるかなところにあるのではなくて、隣にいる人を同時に人類の一員としてみる眼ですね。これが普遍の眼です。…だからわれわれ自身の中から「普遍」をつくっていくという問題になってくるわけです。それは特殊を通じて普遍へではないんです。特殊というのはすでに「ウチの地域」のことで、そこからはウチ・ソト思想の打破は出て来ない。…
 日本の中に生えたものだけが「伝統」だという土着主義。その考え方で行けば、クリスト教はヨーロッパの伝統になるはずがない。…だから、何を伝統とすべきかというのはわれわれの主体的な決断の問題であって、もともとその思想がどこに「生えたか」というのは問題にならない。民主主義がヨーロッパに生えたとか、そういう植物主義的発想を徹底的に打破しなければならない。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10. pp.217-219)
「儒教が体系化されてくる段階というと、宋学なんです。宋学における「誠」というのは、宇宙の本質が誠なんです。誠は宇宙の究極の実在なんです。究極の実在は「太極」[黒板に書く]というんです。究極の実在ですから、したがって、これは「理」とも呼ぶんです。あるいは「天理」とも呼ぶんです。理と誠は同じなんです。マコトと読んじゃいけないんです。セイと読まなきゃいけない。
 日本に来ると、これが非常に希薄になるんです。これはやっぱり中国と日本との違いです。中国はむしろギリシャに非常に似ている。ロゴス-究極的な実在をロゴスという。日本の場合には、さっき言った心が、そもそも動くものでしょ。これ[理=誠]は法則性の概念なんです。日本の場合には究極の実在という観念があまりないんです。…これ[誠]をマコトといって倫理的に解すること自身が日本的なんです。行動の原理なんです。[ところが]これ[理]はそうじゃない。これは存在の原理なんです。人間に限らない。宇宙の究極の説明原理として、究極の実在として理をもってきている。
 …究極、これは東西あらゆるところにあるんです、究極の実在は何かという問いですね。」(手帖11 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回(下)」1983.11.26.p.11)
「「たとえば(中野好夫氏の)「自由主義者の哄笑」という題のついた一文がありますね。一九五一年で早い時期のものですけど、「平和の問題と私」という副題がついている。…「何れ本当に、それこそ命がけで深刻にならなければならぬときは必ず来るのだから、せいぜい今のうちはできるだけ呑気にして」いたいというんです。これは非常に中野さんものの考え方をよく示しています。と同時に、まさにそこに問題を感じるんです。‥そこに中野さんの「まじめさ」の落とし穴があったと思います。
 というのは、「命がけで深刻にならなければならぬ」とあるでしょ。ところが深刻な問題というのはつねに「命がけ」を要するとは限らないんです。こう書いたときの中野さんの発想の中には、極端にいえばそういう意味では二者択一しかないんじゃないか。つまり、命がけで深刻になるか、それでなければ呵々大笑するかの二者択一ということなんです。中野さんというのはほんとうは人間として非常にまじめで、また深刻な問題を深刻に考える人なんです。ただ残念ながら日本という精神的風土のなかに置いて考えると、こういう中野さんの態度はよく理解できるんです。
 なぜかといいますと、日本という精神的風土では、深刻なことがすべて深刻ぶるというポーズの次元に引き下げられ、まじめな問題がまじめくさる態度に引き下げられる傾向がある。…本来は深刻なことであるにもかかわらず、それが深刻ぶる次元に引き下げられるとどういうことになるか。当然その反応は深刻ぶることに対する反撥になり、結果として事柄の深刻さ自体がどこかに吹きとんでしまう。まじめなことがまじめくさった人間によって言われると‥そのぶることに対する反撥が「哄笑」になり、嘲笑になってあらわれる。そういう日本的風土の中で、はじめてあの中野さんの偽悪的な態度が本心のまじめさを蔽いかくすような形で現われることが理解される。…日本の風土のなかで深刻な問題を深刻ぶるというポーズのなかに解消させないために、という戦略もあるのじゃないか。
 いわゆるマスコミ評論誌などには、深刻ぶることへの嘲笑、まじめくさることへの嘲笑を商売にしているのが少なくない。実はそのことによって、自分の周囲にみちみちているほんとうに深刻な問題とまじめな問題とを日常意識から抹殺する役割を営んでいます。そういう非常にやっかいな精神状況が日本にはあるわけです。その中で中野さんはあえて「自由主義者の哄笑」といったわけですね。だから二正面作戦なんです。深刻ぶる奴に対する哄笑と、しかしこれはほんとうに深刻なんだぞということを訴えたい気持ちと……。‥
 これは余談になりますが、最近道化とか演戯とかで文化や政治を語るのが滔々とした流れでしょ。こういう「流行」は現代日本の精神風土の中では非常に危険というか、むしろある意味では滑稽さを感じるんです。つまり、道化とか演戯とかいうのは、まじめな人生、あるいは深刻な問題との緊張感があってはじめて意味をもつんです。世の中全部が道化になったら、そもそも道化の意味がなくなるわけです。世の中のこと、政治もふくめてそれが全部演戯になったら、演戯ということの意味自体がなくなるんです。そういう考えは、どうにも動かしようもない存在-それは天皇制でもカトリックでもなんでもいいんですけれども-それが厳然としてあるところではじめて意味をもつ。情けないかな現在日本には、それだけの厳然とした存在感と重みをもつものが、どこにもないじゃないですか。そういうところでやたらに道化とか演戯とかいったって、何ものとも摩擦を起さないし、火花も散らない。たかだか高度成長のうえにぬくぬくと生活している「中流」日本人の生活感情の深層に適応しているにすぎない。ちっともほんとうの「時代批判」にはなっていないんです。
 ここにひそむ問題は、さきほど言った中野さんの二者択一の考え方につらなってきます。つまり「命がけ」で深刻な問題に対すること、それから「日常的には」ゲラゲラ哄笑していること、いわばその中間項がここには欠けているんです。これが一番よくあらわれているのが戦争に対する態度についてこう書いていることです。「自分は聖戦とも思っていなかったし書きもしなかった。勝つとも思えなかった。しかし私はけっして傍観して日本が負けるのをニヤニヤと待ちのぞんでいたのではない。十二月八日以後は一国民としての義務の限りは戦争に協力した。欺されたのではないのです。喜んで進んでしたのです」。これは中野さんの誠実な正直さを示すと同時に、あえていえば落とし穴をも示しています。はたしてあの戦争を「傍観」していた人はみな「ニヤニヤしていた」のか。…つまりある状況の下では、せっぱつまった、いわば必死の思いの「傍観」もあるということです。そうしてそれは「積極的に」間違った国策に協力するよりはまだましな態度なんです。ぼく自身にもそれはつらい思い出です。軍隊生活の経験を話したとき、一人の若い政治学者から、「先生は二重人格だったんですか」と言われました。そう言われても仕方がない。かといって国策に協力し、「新秩序」を正当化することで、人格を「一元化」する方が正しいのか。ここにはどうしても、国家をこえた価値にコミットするか、どうかという問題が出てくるんです。中野さんが、戦争非協力を「ニヤニヤ傍観」する、といって、ニヤニヤという形容詞をつけたところに、意識せずして中野さんのまじめさと同時に、戦前世代の受けた教育のおどろくべき害毒が、中野さんにさえ及んでいることを感じないわけにはいかないのです。…
 中野さんが用いたそういう形容詞の中に、ぼくらの時代よりはまだましないわゆる大正デモクラシーに育った知識人、しかも明治以後の教育を小学校から叩き込まれながら少なくも少・青年時代に国家権力からひどい目に会わされた経験をもたなかった世代の、ある盲点があったということを感ぜざるをえないのです。これは中野さんの「自由主義者の哄笑」とか、「どうせおれは臆病者の日和見主義者だ」とか、いわば開き直りともとれる態度の背後にあるあまりにもまじめな態度のもっている落とし穴なのであり、しかもそれはさきほど述べたような日本の精神的風土の中に中野さんの全人格を置いてみる時、実によく理解できる態度だったという結論になるんです。」(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.179-184)
「良心的兵役拒否というのを制度的に認めているのは、なぜですか。クエーカー教徒が、戦争が嫌だからというのではないの。そして、それを国家が認めているわけ。それはどうしてですか、ということです。これが、理念が国家を越えているということ。〔日本では〕何でも国家が単位で、国家の理念で。そうすると国際基軸というのは国家が何かをするということで、国家以外の団体とか個人が国家を飛び越えて直接何かをするということではないわけ、日本の観念では。これはどうにもならない島国の考え。しかしこれ〔を変えるの〕は容易なことではないですよ。」(手帖49 「「楽しき会」の記録」1991.12.22.p.57)
「現実、現実じゃないか、ということで、もう学生の時から、お前たちの言っているのは観念論なんだ、そして、現実を見よ、現実を見よ、もっと足元を見よと、しょっちゅう言われたんですね。そうすると、「現実」というのは何なんだろう。「現実」に対して「理想」とか「観念」というのは何なんだということは、そこから発せられた問い〔だったわけです〕。‥規範性を内面にしっかり持っていない者は、必ず流される。
 それで、私がそれを非常に感じたのは、マルクス主義者の転向の仕方なんですね。転向する人は、マルクス主義の中にあるMaterie〔物質〕、現実、歴史的現実、それから歴史的発展、歴史的必然性、そちらの方を重視した人は、必ずと言っていいほど転向しました。というのは、世界を見回してみても「現実」は全くそれと反対の方向に行っているわけです。翻然として全体主義に行っているわけですね。これが「現実」じゃないか。だから、「自由主義から全体主義へ」というのは歴史的必然ではないか、という……。‥
 そうじゃなくて、マルクス主義を、或る意味で「規範」として、つまり「現実」と離れて、にもかかわらず真理は真理なんだという、規範として受け取った人は、非転向です。‥マルクス主義と自然法とは違うんだけれど、自然法になっちゃったんです。だから非転向になったと思うんです。
 現実と日々接触していると、毎日の現実を問われますからね。そうすると、すべて周りの状況が非なる時に、いや、これが正しいんだと、これが真理なんだ、これが正義なんだと思ったって、よほどじゃないと言い切れません。‥つまり、世間が全部おかしいと、我々だけがおかしくないと思うのはちょっと傲慢すぎると。やっぱり、我々の方がおかしくて、世間で言っている方が大体普通なんじゃないか、我々の方がアブノーマルじゃないか‥。
 周りが全部変わっている時に、自分ひとりで同一性を維持するということは、絶望的に困難ですね。日本のは特に‥「いきほい」と関係するんですけれど、朝鮮なんかの儒学は実に頑張りますね。大勢非なる時に。だから、アジア的とか西洋的とか、言えないんですね。何故日本はそうだとなると、面白いんですけれども、それが良く言えば臨機応変になるわけです。真・善・美への忠誠が薄い、その分だけ、現実に対する適応性が高いということになるわけです。」(手帖36 「『忠誠と反逆』合評会 コメント」1993.4.24.pp.21-22)