自己内対話

2016.4.22.

「国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも、人格内交流を! 自己自身のなかで対話をもたぬ者がどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるのか。」(対話 p.252)
「俺はコーヒーがすきだという主張と俺は紅茶がすきだという主張との間にはコーヒーと紅茶の優劣についてのディスカッションが成立する余地はない。論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ。」(対話 p.252)
「距離をおいて見るというのは、自分自身をも隔離する精神です。そうして自分自身を隔離するということは、現代のようなすべての物事の中に政治がはいってくる時代におきましては、自分の言論や行動というものが、不可避的に政治の一定の方向に対してコミットする意味をもつことを、自分で自覚するということであります。…党派性をもっているということを自覚しながら、党派的認識のかたよりを吟味していく-これが現代における良識というものの唯一のあり方だと思う。」(集⑦ 「思想と政治」1957.8.p.147)
「諸君がこれから世の中に出ていろいろ苦境に陥ることが公私ともにあると思うのです。その際、これは福沢がいっていることなんですが、「大事に面したときには、逆にそれを小事と考えて軽く決断せよ」といっているのは面白い意見です。つまり、その事が死ぬか生きるかというような大変なことのように思われても、もう十年か二十年経って考えると、きわめて事理明白で簡単なことで、どうしてあんなにキリキリ舞いしたのか分らないというような事が多いでしょう。いわばそういう時間的な距離を意識的に設定すれば決断が容易にでき、またあまり誤らないものです。空間的な距離、例えばイギリスならイギリスから今の状況を見たらどうだろうかなという風に考えてもいいわけです。要するに自分を自分の場所から隔離してみるのです。むろんこれも現実には仲々むずかしいが、少なくもそういう心構えを持っていると、気が楽になり、冷静な判断が出来易いことは確かでしょう。
 (「神のない日本では、自己を客観化する場合、何を基準にみたらいいのですか。」という質問に対して)それは人によっていろいろじゃないですか。マルクシストには、歴史の法則が「神」ですし、西郷が「人を相手にせず、天を相手にせよ」といっているのも、天を媒介として自分を隔離しているわけです。」(別集② 「丸山先生に聞く」1958年 pp.165-166)
「特に自分が行動する場合に、舞台の上で行動していながら、同時に自分の分身が観客席にいて、自分の行動を冷徹に見つめているという様な必要があるのです。…正しく状況把握するためには、もう一人の自分が、距離をおいた所にいて、あたかも五年十年先にその小さな事件を見ているかの様に、その事件を見なければならないのです。これが距離をおいた目、というものです。」(集⑯ 「私達は無力だろうか」1960.4.22.p.22)
「自分の精神の内部で、反対の議論と対話しながら、自分の議論をきたえていくことがあまりにもなさすぎる。したがって、自分の議論というのはコトバだけ信じているということが多いから、世の中の空気が変わりますと非常にもろくくずれる。あるいは別の集団にいくと、今までとまったく違った見方に接して、なるほどそういう面もあるのかということで、一度にころりとまいってしまう。これは個人の思想だけではなくて日本民族の思想史にも、そういう傾向がある。日本人は非常に同質的な民族ですね。人種的にも言語的にも、宗教意識もこれぐらい同質的な国民は文明国民の中にはありません。島国で、しかも民族的同質性が高いもんですから、いわば日本全体が一つの巨大部落だったといってもいいわけです。‥ですからひとたび異質的な文明に触れますと非常にもろくいかれるところがある。…異質的なものとの対決を通じて自分のものをみがきあげ、きたえていく機会が非常に少なかったからです。これからの日本は、それではすまなくなると思うんです。」(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.81-82)
「大体日本では会合のディスカッションの過程で、それこそ弁証法的に議論が進んでゆくということがまれでしょう。はじめから立場がきまっていてワアワア言っているのが多い。そうしたなかで、いろいろな議論を自分の精神の内面で咀嚼しながら歩一歩と自分の考えを変え、また固めていくというのは-またそのことをハッキリ明言するケースは残念ながら、それほど多くない。  そう思ってあらためて中野(好夫)さんが「怒りの花束」その他、戦争直後に書かれたものを読みますと、一貫した中野さんの姿勢が見えてきます。つまり、いつも自分も含めて過去の言動の反芻と反省の上に立って新しい行動を踏み出している。けっして世の中がどうだとか時流がどうだとかいうことでは動かない。  ‥中野さんの天皇制に対する態度というのもそうですね。考えに考えて態度をだんだん変えていった。…けっしてとびつかないんですね。考えに考え、反対論の立場も十分自分の内心に聞いて、自己内対話をしながらある態度決定に到達する-軽信か日和見か、どっちかに傾いてしまう日本人の中にあっては残念ながら稀な精神じゃないでしょうか。」(集⑫ 「中野好夫氏を語る」1985.4.8.pp.166-167)
「政治の領域における惑溺は、‥権力の偏重‥です。‥虚位を崇拝することで、本来人間の活動のための便宜であり、手段であるべき政治権力は、それ自身が自己目的の価値になっていくという傾向は、ぜんぶ政治的「惑溺」に入ってくる。国際関係で言えば、‥昨日まで、すっかり東洋にいかれていた。その同じ精神構造で西洋にいかれてしまう。そういう惑溺が「外国交際」の領域で起こるわけです。…要するに、あまり一方的になって、自分の精神の内部に余地がなくなり、心の動きが活発でなくなるのを、みんな「惑溺」と言っているのです。…思考方法としての惑溺というものを、彼(福沢)はいちばんに問題にしている。それからの解放がないと、精神の独立がない。思い込んでしまうと、他のものが見えない。しかも、それが長く続かないで、急激に変わる。今日のコトバで言い直せば、急に方向の変わる一辺倒的思考ということになります。…自分の自然の傾向性に対して、不断に抵抗していく。そうでないと、インデペンデンス・オヴ・マインド、独立の精神というのは確立されないということです。…
 したがって、自分の精神の内部に沈澱しているところの考え方と異質的なものに、いつも接触していようという心構えが、ここから生まれてくる。精神的な「開国」です。彼の考え方によれば、どんなに良質な立場でも、同じ精神傾向とばかり話を繰り返していれば、自家中毒になる。だから、わざわざ自分の自然的な傾向性と反対のものに、不断に触れようとする。触れるというのは物理的接触ということだけを言っているのではない。精神内部の対話の問題として言っているわけです。ですから、この独立の精神というのは、精神的なナルシズムとの不断の戦いということになるわけです。精神的な自己愛撫との不断の戦いということになります。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.291-294)
「思想と思想の間に対話が行われないことに、日本の思想が伝統化しないという「伝統」をみることができる。ある思想が異なった思想と、、共通の知性の上に対決し、その対決の中から自己の思想を新たに発展させてゆく-それがここにいう思想間の対話ということであって、対話は明確な自己の断絶と、客観的なロゴスとか超越的歴史とかへの共通の志向を同時に前提としている。
 ヨーロッパにおける超越神は親子・夫婦・兄弟といった血縁的人間観恵をさえも断ち切って、すべての人間を相対化させたが、他面それは人間関係を超越した神を媒介とする断絶であるかぎりにおいて、人々はまた神の共通の子でもあった(そこでは異端はあくまで正統に対して異端であった)。それが対話の二つの契機を含むものである点に、キリスト教のヨーロッパ精神史における一つの意味がある。つまりすべての思想を相対化し、それぞれの思想に否応なく相互連関性を与えるような中核をもつ思想的伝統を、ヨーロッパはもちえたのである。
 日本において思想と思想の間に対話が行われないという事情は、思想と思想の対決が思想の次元で争われるのではなく、もっぱら人間関係によって結着がつけられるか、思想的差違も要するに日本人あるいは人間としては変わらないものだという人間性一般に解消されてしまう、今日の私たちの状況に通じている。たとえば論争は、それを通じて論敵相互が相手を否定的媒介としてみずからの思想を強固にしてゆくという対話の精神によってではなく、いずれが勝ったか負けたかという"勝ち負け思考"によってほとんど常に支配される。そこでは論敵は殲滅すべき敵以外の何ものでもない。
 ヨーロッパと日本と-彼我の思想的伝統のこの相違を慨嘆しようというのではない。第一、ヨーロッパにおけるキリスト教のような意味の思想的伝統を、私たちが今、急にもちうるものでもない。問題は、こうした私たちの思想的現実を知ることであり、そうしてそこから日本の思想を伝統化する途を見出すことにある。
 日本の思想史上、ヨーロッパにおける超越神のような意味をもったものは、たとえば河上肇における"自然"にみることができる。それは河上を秀れた思想家ならしめたし、私たちの思想史にも秀れた思想家が存在することの証拠でもある。けれども急速な都市化が進んでいる今日、自然はしばしばそれと融合する対象となり、私たちを相互に相対化する超越的媒介たることはもはや困難である。
 とすれば、私たちの置かれているこうした思想的状況から脱却するには、差し当たっては"仮想敵"を創ることないし"もの"への情熱をもち続けることであろう。今日、敵をもつことが私たちに必要なことである。しかし対話は、自己を他者に開くと同時に、他者に対して自己を画するという両面性をもっている。つまり対話は相互作用として自己内対話をもたらす。だから私たちに必要な敵は、自己の否定的媒介としての"仮想敵"であって、殲滅すべき敵であってはならない。また"もの"への情熱が、すべてを包み込んでしまう人間関係を断ち切る。
 "もの"への情熱-それが私たちに対話を成り立たせるための、唯一ではないにしても一つの途である。」(別集③ 「"もの"への情熱」年月日不詳 pp.373-375)